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8/25・長男一家の夏の休日/プール・ゴルフ

長男のお嫁さんから、LINEが入りました。
ビデオ2本と写真15枚を楽しみました。

ビデオ1は、お昼寝から目を覚ましたルーカスくん・2ヶ月が、ママの声に反応し首を動かしママを見つけ顔がほころびニコニコしてゴニョゴニョ手足を動かします。
彼の世界の50%以上がママなのでしょう。

ビデオ2は、りょうくん5才とこうちゃん2才とパパがプールに入っています。
両腕に浮袋を巻いているりょうくんが泳ぎ始めました。
長辺20mほどのプール(小学校のプールより少し小さめ?)を端まで泳ぎ、プールサイトで映すママが「凄いね~」と声を掛けたので、「また行くね」と往復し始めました。
長男もプール内で見守りながら「凄いね~」と褒めています。

お嫁さんは高校時代水泳部で、りょうくんを日本にいる時2才からスイミングに通わせていました。
でも顔を水に浸けるのが苦手で、少々不満だったんじゃないのかな?
この夏休み期間のサマーキャンプで、昨年に続きスイミングを選択したので、やっと顔を浸けられるようになったと喜んでいました。
顔を水面から上げ、バタ足だけですが20m泳げたので大満足のようです。

こうちゃんは半分プールに浸かりながら、「ママ一緒に入ろう」と誘っています。
プールサイドにルーカスくんがいるのでしょう。
パパと交代してプールに入っているのだと思います。

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このプールは広い広い公園内に独立してある200戸ほどの独立した住宅地専用プールなので、プールサイトにいるのは長男一家の他にビキニのお姉さん2人だけで、ほぼプライベートプールです。
住宅地が管理し、全戸の周りの芝生・樹木・道路・ゴミの管理とともにしてくれています。
グーグル俯瞰地図を見ると、プール付きの家もたくさんある地区ですが、維持管理費を考えると、むしろ住宅地で管理してくれる方が良いような・・・
テニスコート2面・噴水公園・池・児童遊具公園数ヶ所・森と、抜群の住環境です。
鹿・リスが日常出没し、夏はホタルが集団で窓に止まります。

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長男とりょうくん・こうちゃんの3人でトスバッティングをしている写真がありました。
長男は少年野球をやっており、お嫁さんがスイミングさせようとしているのと同じようにベースボールさせたいのでしょう。
まあ、日本人男の子の親子の定番だけどね。

こうちゃんと日本人と思われる同年代の女の子とが、公園でお弁当を広げている写真もありました。
僕ら夫婦が昨年秋訪問した時会った、この住宅地に住む唯一の日本人夫婦のお子さんかもしれません。

ゴルフをしている写真もありました。
家から住宅地内道路を5分歩くと、道路の向こうはパブリック・ゴルフ場です。
長男はここの会員になっており、1ラウンド15ドルの超安価でいつでもプレイできます。
混むことはなく、日曜日の午前中会社の同僚などとのんびりゴルフを月1~2しているそうです。

道路から芝生が広がり、センターハウスまでは更に徒歩5分ですが、塀など遮るものがない芝生と森の広い広がりです。
「朝夕はグリーンに鹿が来るよ」と長男に聞き、昨秋僕ら夫婦で夜明け頃散歩したら、数頭の鹿がいました。

そこに打ちっぱなしとパター練習施設があります。
打ちっぱなしと言っても日本のそれと違いフェンスなどありません。
広い芝生の向こうに広がる森に向かって打ちます。
森は遠く、あそこまで飛ばす人はいないでしょう。
打ちっぱなし用コンクリートスクエアがあり、その上に人工芝が敷いてあるだけです。

長男は少年野球で4番・ファースト・サブピッチャーでした。
バッティングセンターによく2人で行きましたが、スイングフォームが綺麗で、むしろ教えてもらっていました。
捕球が上手いのでファーストで、打率はそこそこですが当たるとでかいので4番でした。

小6になり中学受験塾を優先するようになり、集大成である6年生の少年野球は不完全燃焼でした。
たまに行ってもコーチは試合に出してくれるので、チームメイトから妬みを受け、小さくなったベースボールシューズを買い換えようと提案するも、本人が「要らない」と言いました。
僕は塾も適当にサボって野球の日を作る方が良いように思いましたが、塾をサボると友達に勉強で負けるのが嫌で、塾を優先しました。
その点、次男は1人乗りヨットという個人競技だったので、マイペースで続けられました。

それで中学では個人競技の陸上競技部に入り、高校は将棋部との兼部になり、大学ではライフル射撃部に入りました。
僕は息子たちに何も強制しないので、彼らの人生の全ては自らの選択によりますが、この野球だけは可愛そうだなと思いました。
僕に出来ることは、バッティングセンターに連れていくことぐらいでした。

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相変わらず綺麗なスイングでアイアンを振っています。
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横には子供用の短いアイアンとパターが置いてあり、りょうくんとこうちゃんがパパのスイングを見ています。
交代でアイアン打ったり、パターしたりしているのでしょう。
住環境が充実しているので、たまに遠出するぐらいで、近所で充実した1日を過ごせます。
羨ましい限りです。

8/18・丹後縦貫林道・細川ガラシャ夫人幽閉地・スイス村・碇高原


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バイクに戻り、メインディッシュの「丹後縦貫林道」走破のため県道に向かいます。
R178に下り、右折してr53に乗りました。
林道入口があるはずなので、注意しながら走ります。

右にそれらしき道を見つけGO!
いきなり「通行止」看板が路肩に置かれており、残念な気持ちになりながら、行ける所まで行こうと前進します。
土砂崩れを片付けた土色跡を数ヶ所通過し、標高が上がって下界の素敵な景色が見えてきた所で、道が突然全面土砂に埋まっていました。
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道路自体は崩れている感じではないので、土砂を除けば通れそうですが、法面補修しないで一般車両を通す事ができないのでそのままになっているのでしょう。

 Uターンしてr53に戻り、西に進みます。
低い峠を越えてから、気持ちの良い里山の中をゆっくり走ります。
道なりにr75になり、標高を上げていきます。
沢道になり、細い山道になり、「金剛童子山」登山口。

 『役小角(えんのおずぬ)と金剛童子山 役小角は7~8世紀に大和国葛城山にいた実在の人物であるが、後世修験道の祖として信仰を集め、役行者とも呼ばれている。全国各地には役小角が登ったと伝えられている山がたくさんあり、高下駄を履き鬼神を従え、独特の風貌をした像も多数残されている。
 「丹か府志(たんかふし)」によると、役小角が金剛童子山を「業場」として、開いたとされている。また金剛童子山への道筋に「休堂」「かねかけの業場」「御手洗の池」「行者堂」「西の業場」等があるとしている。現在それらの全てを確認することはできないが金剛童子山周辺が、修行の場であったことは確かであろう。地元では金剛童子山を熊野山、行者山ともぎ呼んでおり、往時は七堂伽藍が存在していたと伝えられている。上山寺(京丹後市丹後町上山)は、明法上人開基を伝えるが、「丹か府志」には役小角が金剛童子山を開いた際に、庵を結んだところといわれている』

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 登山口から少し入ると、ヌタ場があり「猪檻」が設置されていた。
ヌタ場なので確実に猪は来るだろうが、気持ち良く泥浴出来ないね。

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更に少し舗装路を登ると、11:09「細川ガラシャ夫人幽閉地」に着きました。
ずっと前から来たかった場所です。
手入れはされていますが、歴史的遺産なのに四輪で来るのは離合困難な道なので、2020年大河ドラマ「麒麟が来る」で父・明智光秀が脚光を浴びるまで待たねばならないようです。
正式には「味土野女城跡」と言うそうです。
谷を隔てて「男城」があったようで、ガラシャ夫人の警護侍が駐屯していたようです。

 『細川ガラシヤ略伝 細川忠興の妻・玉子(玉)。永禄6年(1563)明智光秀の3女として生まれる。天正6年、16才の時織田信長の命により後に丹後田辺城(現舞鶴市)の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。天正10年6月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こした。光秀は忠興を味方に誘ったが、忠興はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦った。玉子の実父光秀の死後、家臣は自害をすすめたが「私は忠興の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむくことです」とこれを聞き入れず、愁思のうちに2年の月日をこの地で過ごすこととなった。秀吉はこれを憐み忠興は再び妻として玉子を迎えた。
 その後キリスト教に入信し、「ガラシヤ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆・忠秋他三子を授かった。しかし、平穏な日々も束の間、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫・忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られたが「私が人質として入城すれば堅武士の夫・忠興の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげた。享年38才夏のことである。辞世の句は有名である。
「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」
 数奇な運命に彩られ、夫・忠興のため殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えられている。
「身をかくす里は吉野の奥ながら 花なき峰に呼子鳥啼く 玉子」』

 
目的地をクリアしたので下ります。
r655~r75で下り、r57で登っていくと「丹後縦貫林道」に突き当たりました。
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右折し、11:45「スイス村スキー場」。
更に少し登って「風の学校・京都」と言う施設にお昼ご飯食べようと寄りましたが、車ゼロでお客さんがいなさそうでレストランが3Fで上がるのが面倒でパスしました。
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でも丹後半島の最高標高部に近いのでしょう東から北に掛けての海が一望でした。
気持ち良かった。

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 林道を北に向かって走り、12:10「碇高原」。
レストランがあったので入ったらステーキハウスでしたのでスルー。
おまけに半島北側に下る林道が全面通行止めになっており、「丹後縦貫林道」は大雨の影響でズタズタのようです。

「世屋高原」まで行けるのかどうかわかりませんが、林道で南下してみましょう。
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半島の東側の海への展望が時折開け、ナイスな景色が見下ろせました。

 民家が見えだし、世屋高原に着いたことが分かりました。
r75に突き当たり宮津湾に下ります。
R178に突き当たり、右折して宮津湾を左手に見ながら海岸道路を気持ち良く走ります。

次男が小中学生の時、ジュニアヨットのレースで毎年遠征に来ていました。
親も子も水の綺麗さに感動し、子供たちは風待ちやハーバーバック後ライジャケを着て飛び込んでいました。
懐かしいな。


 13:28「天橋立ワイナリー」。
少し走り、「お菓子の館はしだて」に寄り道しました。
少し走り、右折してr53。

道なりに登って行き、「丹後縦貫林道」の南地区入口発見。
無常にも、「通行止」看板が中央にドカンと立っていたが全面封鎖ではないので、行ける所まで走ろうとGO! 
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標高を上げ、「阿蘇海」が見えてきます。
数ヶ所、レッドコーンで囲まれている崩れた場所がありました。
山菜採りの方が数組いましたが、バイクなら平気でした。

 r651と交差し、右折してr651を走ることにしました。
京都縦貫道の下をくぐり、田園が広がる里山の小川にかかる小さな橋の上で小休憩。
アオサギが気持ち良さそうに飛んでいました。
r655に突き当たり、左折し南下すると、R312に突き当り左折。

 R176を渡り、次の林道ターゲットのr16「中ノ峠」に向かおうととしたら、GSを見つけて給油。
14:32「与謝野町石川エネオス」239km/9.5L=25.2km/L。
r16に入り峠を登っていきます。
残念ながらこの峠も通行止でUターン。


R176に下り、「与謝天橋立IC」から「京都縦貫道」に乗ります。
「由良川PA」でトイレ休憩。
「京丹波みずほIC」で下車し、R173に乗ります。

 15:57、R9との交差点にある「ローソン京丹波・和田山店」で、「UCもち食感ロール・295円」購入し、遅い昼食をイートイン。
R173をぐんぐん南下し、「道の駅・瑞穂の里さらびき」横を通過し、篠山市に入り、r702~r543~r12で、R173通行止区間を回避します。
r319~r33~r325~長尾山トンネルを抜け、17:30帰宅しました。


8/18・丹後半島ツーリング/籠神社~成相寺

 丹後半島中心部にある「細川ガラシャ夫人幽閉地」を目的地として、丹後半島の屋根を縦走する「丹後縦貫林道」を走りに行きます。
「里山VTR250」のジャンルなのですが、チェーンオイル切れの感じがするので「招き猫CB400SB」を倉庫から出します。



 5:18出発、長尾山トンネル温度計が18℃でした。
数日前では考えられない気温で、下着+夏用メッシュバイクジャケット・パンツの装束では少々寒いです。
r325~r33に道なりに走り、「検見橋」のところでバイクを停め、カッパの上をジャケットの上から着ました。
これから高速道路にも乗るので、寒いのはいけません。

r319~r12に乗り換え、西峠を越えて篠山盆地へ。

r543~r702でR173に出て北上します。
R173の「天王トンネル」北の土砂崩れは、そろそろ1年になります。
難儀な遠回りです。
7:00「ローソン京丹後和田店」で「セレクトチョコクリームパン5コ100円」を購入し朝食としてイートインしました。

 「京丹波みずほIC」から京都縦貫道に乗り、「綾部JCT」を経て「与謝天橋立IC」で下車し、R176~r2~r615でR178。
8:19「籠神社」。

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『籠(この)神社 古称・吉佐宮(よさのみや) 御祭神:彦火明る命 相殿:豊受大神・天照大神・海神・天水分神 神代の昔より、奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りしてきましたが、そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつリになり、之を吉佐宮と申し、豊受大神と共に4年間お祀り致しました。
 その後、天照大神は垂仁天皇の御代に、また豊受大神は雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って当杜は元伊勢と云われております。両大神がおうつりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社、又丹後国一之宮として朝野の崇敬を集めてきました』

 天照大神の神力の強さを畏れ、大和から丹波丹後はじめ畿内各地を転々と移動しながら最適な地を求めた。
伊勢の次に最適な地は、元伊勢の多い丹波丹後だったのでしょう。
和歌山の元伊勢を参拝したこともあります。
神門内の境内は撮影禁止でした。
来年中学受験する姪用に「合格鉛筆600円」と、「絵馬500円」「淡いピンクの守護800円」、屋敷内祠用に「鈴800円」を授かりました。

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 R178を少し戻ります。
枝道を入り、8:48「丹後国分寺跡」。
隣に「丹後郷土資料館」がありました。
国分寺跡が礎石が遺るだけですが、周辺が綺麗に手入れされ、その緩やかな斜面の向こうに天橋立が見えナイスでした。

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 『史跡・丹後国分寺跡 天平13年(741)、聖武天皇は国分寺建立の詔(みことのり)を発し、仏教を取り入れて国家の安泰を願いました。これを受け建立された丹後国分寺は、天橋立を一望できる台地上に位置し、まさに詔という国華にふさわしい好処が選ばれました。
 奈良時代の丹後国分寺については、付近に残る地名や採取された瓦片によってその存在をうかがい知る程度で、詳しいことはわかっていません。現在、塔跡・金堂跡・中門跡の3ヶ所に、礎石が整然と並んでいます。これらは建武年間(14世紀前半)再建された伽藍に伴うものとみられます。雪舟筆「天橋立図」には、建武再建の後、約170年を経た丹後国分寺の姿が克明に描き出されています』

 その枝道を更に登っていきます。
成相山成相寺Pで、1人500円拝観料を払う。
地図では、この道が丹波縦貫林道に続いているのでそのことを聞くと、崖くずれで通行止になっているという。
1本西の県道が起点なので、そちらから入れるとのことでした。

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 『日本遺産 成相寺(なりあいじ) 慶雲元年(704年)に文武天皇の勅願寺として真応上人が創建したと伝えられ、本尊は身代わり観音、美人観音として名高い聖観世音菩薩である。
 西国33所巡礼の観音霊場28番札所で、平安時代後期の「梁塵秘抄」・「今昔物語」にも登場する。江戸時代の宮津藩は、丹後ちりめんの生産地であるとともに、流通の拠点として商業・港湾都市として多くの人々が訪れたといわれており、この成相寺も民謡「宮津節」にも唄われるほど賑わった』

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 『一願一言の地蔵さん この地蔵さんは、唯一願を一言でお願いすれば、どんな事でも必ず叶えて下さると伝えられている大変あらたかな地蔵さんです。安楽ぽっくりの往生も叶えられると伝承されています。約620年前に創られた大変古いお地蔵さんです』

 
『鉄湯船 重要文化財(工芸品) 鎌倉時代正応3年(1290) 鋳物師:山河貞清 当山の湯屋にて湯船として使用していたもので、直接入るのではなく湯釜で沸かした湯を入れ、かかり湯をするために用いられたと思われる。後に薬湯を沸かして怪我や病気の人を治療したとも伝えられています』

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 本堂周りを見学し、下っていくと鐘楼がありました。
『撞かずの鐘由来 慶長14年(1609)、山主賢長は、古い梵鐘にかえ新しい鐘を鋳造する為、近郷近在に浄財を求め喜捨を募った。1回・2回と鋳造に失敗し、3回目の寄進を募った時、裕福そうな女房が、「子供は沢山おるがお寺へ寄附するお金はない」と険しい目の色で断った。
 やがて鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の女房も乳呑み児を抱いて見物していた。
そして銅湯となったルツボの中に誤って乳呑み児を落としてしまった。此の様な悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色を響かせていた。しかし耳をすますと子供の泣き声、母親を呼ぶ声、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、一切この鐘を撞く事をやめ、撞かずの鐘となった』

8/25・新人戦

桟橋で、「助六寿司」を朝食用に半分食べていると、女子マネさん達が来て、開会式が面白いと教えてくれました。
部員が仮装してオープニング・セレモニーに臨むそうです。

艇庫横で着替えていた1回生プレイヤーが出て来ました。
真っ赤なチャイナドレス・ミニスカートメイド・馬の被り物は暑そう・パンツを頭から被ってるやつ・ハート柄の赤パン&赤ブラ・猫耳ついてるパンイチ、脱いだら良いってもんじゃないだろうけど、笑いを誘います。
女子プレイヤー3人は、たまごの被り物を着てて、こちらはとっても可愛い。
本人たちも気に入ってる感じ、写真を撮らせてもらった。
代々受け継がれているコスチュームではなく、その代で用意するらしい。
ドン・キホーテなどで調達するのだとか・・・
体育会の1回生は、何かと余興を強要されるから、もう慣れてしまったのか、裸でパンツを頭から被るというかなり酷い格好を強いられている男の子でさえ堂々としており、カメラを向けるとポーズを取りむしろ楽しんでいるのがわかる。
そう言えば、部員カップルの結婚式に呼ばれた時、余興で「海パン+ピカピカ夜店ライト」で登場した元部員もいたな。

8時「オープニングセレモニー」。
レース委員長は当方の3回生G君がしています。
選手宣誓は当方の1回生M君。
ショッカーの着ぐるみ着てて、語尾にキーって奇声を入れながらの選手宣誓。
面白いな。
恒例なのか、コスチューム全員集合写真に収まっていた。
数年前までは、他校も仮想して臨んでいたのに、現在は当方だけになったそうです。


予定通り、D旗がアガり470から出艇。
続いてS級。
コーチボートに乗って沖に出ます。
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SSWの風・3~4m/s、最も走りやすい風です。
YH到着時は雲がかかり、雨降るかな?と思ってた比叡山の雲が切れています。

Rits ・D社・当方が上位で回航します。
1レース毎乗り換えながら、3レース目の乗り換えの頃から、予報通り8m/sの風が入ってきました。
全面白波のレース海面になってきました。
ここで、AP/H旗が上がり、レース延期/ハーバーバックになりました。

この日は16時までレース時間があるので、6レースぐらいできそうだなと思っていたのですが、新人が出場しているので、レース委員会は安全策を取ったようです。
ハーバーに戻り、昼食を食べ、2時間ほど風が収まるのを待ち、14時前に再出艇。
レース海面に着くまでに1艇沈。
1・2回生だけで11艇出場しているので、コーチボート兼レスキューボートなので目配りが大事。

レースが始まり、一番体の小さな1回生女子選手Tさん470が気になっていましたが、レース中に沈してしまいました。
信頼できる2回生クルーと乗っているのですが、なかなか船が立たず、体力の限界を予想し選手交代を決断しました。
同じく1回生男子スキッパーにI君に交代させました。

レース中支援を受けたのでDNFになり着順は着きませんが、練習だと思ってレースに参加させました。
2回生スキッパーは安定して走っており、練習ではまだまだだな~と見えていた2回生スキッパー艇が、頼もしく見えます。

サングラス掛けてるので表情がよくわかりませんが、放心している感じでレース海面を見ている交代で上がってきたTさんに声を掛けました。
1回生でこの風で、ひっくり返るのは当たり前で、上回生ヨット部員なら笑って終わりなのですが、自信を無くしたらいけないと思い、「怪我はない?寒くない?おトイレ大丈夫?怖かったよね」と声を掛けました。

「いつもWさん(2回生クルー)と組むと迷惑かけるので申し訳なくって・・・」と涙が頬を伝いました。
あ~また女子を泣かせちゃった・・・僕も罪な男です。
「Wくんも1年前は上回生スキッパーに迷惑掛けていたんだから気にしなくていいよ。そんなこと気にする部員はいないから」
「Oさん(2回生女子プレイヤー)も軽風では走るけど、強風になったらいっぺんに遅くなっていたよ。春は強風になると全然走れなかったのに、半年で安心して見られるようになったよ。経験を積めば必ず乗りこなせるようになるから」と、ガンガン走ってるOさんを指さします。
Tさんは高校時代フェンシング部だった子なので、練習を積めば走る子だと予想しています。
体重が軽いので中風以下ならむしろ有利です。

第4レース前、S級M君艇のジブセイルが少し破れ応急処置してレース海面に戻っていきました。
4レース終了で16時を越え、本日のレース終了です。
良い風が吹いたので、良い練習になりました。
S級の1回生女子スキッパーKさんは、先週の練習でも良いセンスのスタートを連発しており、強風でも一生懸命ハイクアウトしてよく走っています。
安定しているね。
2年連続で女子選手が入部し、この2学年の子たちが走ると女子インカレの常連校になれます。

S級M君のジブセイルは何とかフィニッシュまで保ちました。
ジブセイルを巻いて、メインセイルのみで帰るよう指示しました。
16時頃から風が落ちはじめ、4m/sほどでハーバーバックしました。

バイクで合宿所に戻り、キッチンで食事当番女子マネさんたちと話します。
美味しそうな匂いに惹かれるね。
レース成績を陸上PCで集計する担当の4回生マネSさんがお風呂から上がってきて、他愛もないお喋り。
次々に選手が戻ってきて、話の輪が広がります。

18:40ミーティング開始。
19時から僕の話。
気づいたことを話します。
1回生向けの話を多めにします。
スキッパーのお尻の位置、ハイクアウトする時足を揃えること。
1日中、4回生ボスマネージャーYさんがコーチボートを運転していましたが、強風の桟橋への着艇でスクリューを上手に使っていたのでそれを褒め、マネージャーでその技術を共有するようアドバイスしました。

19:30夕食の時間。いつもながら美味しい。
掃除時間前に退散しました。
湖西道路~名神。
20:37「桂川PA」で、「ガリガリ君ソーダ75円」で糖分補給しました。

この日学生に聞いた情報では、YH近所にオープンしたドン・キホーテではガリガリ君が45円で売ってるそうです。
期限近しの非売れ筋品を大量仕入れして安価販売しているんだって。
200円弁当とか、いろいろ掘り出し物があるんだって。

21時に帰宅し、バイクを片付け玄関に入ると、既に家内は夢の中でした。
風呂に入り、ヨーグルト持って2F自室に上がり、食べ終わったらすぐ寝ちゃいました。
翌日、レースの様子が刻々とライブでヨット部共有サイトに伝えられ、楽しい時間を持ちました。

強風で沈して選手交代させた1回生Tさんが、2位フィニッシュしました。
2回生はトップフィニッシュを数回していました。
1回生は他にも2位フィニッシュした子がおり、レベルが高いです。
頼もしいし、将来が楽しみです。

8/25・大津周辺神社早朝ツーリング 勢田橋離宮秀郷社

r16で「瀬田の唐橋」を左岸に渡り、6:54橋のすぐ下流の「勢田橋離宮秀郷社」。
ボート部学生が早朝練習をしている。
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瀬田の唐橋には、俵藤太秀郷のムカデ退治の絵が設置されていた。

『瀬田橋を制するものは天下を制する
古代の瀬田橋 672年:壬申の乱・近江朝廷軍(大友皇子)、大海人皇子軍に瀬田橋の戦いに敗れる。 764年:膝原仲麻呂の乱・仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐため、孝謙上皇軍が瀬田橋を焼く。 1988年:唐橋下流80mの川底から壬申の乱にまで遡ると思われる橋脚台(基礎)を発見。 940年頃:俵藤太伝説(雲住寺伝承の「俵藤太略縁起」より)膝原秀郷による百足退治中世の瀬田橋 1184年:源範頼・義経軍、瀬田・宇治にて木曾義仲軍と戦う。木曾義仲・今井兼平戦死。 1221年:承久の乱・後烏羽上皇が鎌倉幕府と戦う。 
1582年:本能寺の変・瀬田城主山岡景隆が瀬田橋を焼き、明智光秀の安土城進撃を一時阻止する。
瀬田の唐橋唐金擬宝珠(からがねぎぼし)水に映るは膳所の城』

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『伝説・俵藤太ムカデ退治の勢田橋龍宮秀郷社 祭神:瀬田川龍神・俵藤太秀郷 神代の古から、此の大川に鎮座す龍神で瀬田川と唐橋の守り神です。俵藤太が龍神の頼みにより、大ムカデを平らげた伝説は広く知られています。江戸時代には殿上人の信仰篤く霊験あらたかな龍神であります。
むかで射し昔語りを旅人の、いいつき渡る勢田の長橋/大江匡房』

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『伝説・俵藤太百足退治の瀬田橋龍宮縁起 瀬田川唐橋鎮守・龍宮宮秀郷社 祭神:大神霊龍王・藤原秀郷公
勢多之唐橋・龍宮 古来瀬田川には龍神が御座ると言われて、昔は橋を社とした。
唐橋中央に特殊な橋くいが打ち込んであって、是を龍神の御御代とし舟はこの神坐を通るのを恐れた。唐橋は神橋の転化である。1440年頃、佐々木近江守が鶯谷に在った此の社が設けられた。以来幾度か橋架替え大修理の都度、龍神を権殿に遷座する慣例が行われた。時代の推移はいつしか権殿が本宮になった。
秀郷社 藤原秀郷公を祀る、創祀年代明らかならず。元是より東南数丁字舎人堂に在りたるを、寛永10年蒲生忠知、龍宮の傍に移すとある。
百足退治の伝説 秀郷、京都府宇治田原郷に住し、俵藤太と称す。天資剛勇にして弓術に長す。鎮守将軍・藤原秀郷公、勢多橋を過る時橋上に大蛇横たわる、公恐れず跨ぎ通る。暫し行きたるところ呼び止める者あり、青衣を着せる女人「我は勢田橋水底に棲む龍神である、大蛇の姿になり橋上に横臥せり、未だ御仁ほど豪勇の人を見ず、年来我に仇するムカデあり、願わくば我が為に寇を討て」、秀
郷橋に戻る。
日没し東方より、巨大な両眼を光らせ百足山(三上山)を七巻半する大ムカデ迫りくる。公一矢二矢更に効なし、ムカデは人のツバキをきらうと言う、三射目の矢尻に唾液を附して左眼を射抜き之を討せり。龍神大いに喜び、公に砂金俵・巻絹・鐘・種々宝物を賜う、秀郷衣装身に余り財宝庫に満ちたり。これが広く人口に謳われた伝説である。
伝説の真意 朱雀天皇姜平15年(935)将門の反乱。平将門が関東八州を七州半まで侵し、百官具足ムカデの足ほど多くの軍勢を引き連れ、都(京都)へ攻め上らんとす。秀郷朝命に依り是を討伐、将門の左眼を射抜き誅せり。これ勢多橋龍神の冥祐加護に困ると畏こみ、朝廷より当龍神に貢物を献ぜられたる事は古歌に記されている』

俵藤太秀郷公は、母の遠い先祖が美作の城を新田義貞軍に落とされ、親戚を頼って北関東に落ちた先・佐野家の祖先です。
唐沢山城を本拠とし、後北条家や上杉謙信に対抗しながら、何とか本拠と家名を保ち江戸時代まで生き残った。
子供の頃、唐沢山城に登るたび、母や親戚から話を聞きました。
なんとなく親近感があるので、ここでその名を見つけ嬉しくなりました。

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隣に、「龍光山雲住寺」があった。
お地蔵さんがあった。
『橋守地蔵縁起 御本尊は、昭和51年1月26日に、撤去工事中の唐橋の中央橋脚の基礎の地下から出現された石仏でありまして、同時に真鍮製の花筒と御仏飯の器が揃って出てきました。高さ38cm、彫りの深い立派な石仏で、専門家の鑑定によると、室町末期の作で、腕のよい石工が彫った珍しい石仏だそうであります。何時誰が何のために唐橋の下に安置したものか知る由もないが、400年以上も川底で、唐橋を守り続けて来られた石仏であります。
唐橋下より何か出現されると予言していた霊能者によると、この石仏は実は霊験灼然な薬師如来である、橋守社のところへ唐橋の中央に向け小堂を建て、祀ってあげるとよいというので、県当局にその旨を述べ、一般の人々に解りやすく親しみ易いよう通称を、橋守地蔵としてお祀りすることになりました。
依って有志相謀りこの地に地蔵堂を建立し、唐橋下より出現の26日を縁日としてお祀り申し上げ、永く唐橋の安泰と瀬田川並びに唐橋上の交通安全を祈願する』

7時になったので神社巡りを切り上げ、R422~r102~r18~R161で、7:30ヨットハーバー着。
皆に挨拶し、ずっと福岡遠征に行ってるSチームをサポートしていた4回生女子マネSさんがいたので、家内から「持っていく?」と渡されたクッキーを「女子マネさんへプレゼント」として渡した。
2人乗り初レースになる1回生スキッパーを中心に声を掛けた。
緊張しているだろうけど、レースはゲーム感覚で大いに楽しんで欲しい。


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