7/30・映画「君の膵臓を食べたい」

お盆が2週間後に迫り、家内は隣の実家の掃除をする日だという。
法事でお寺さんややってくるので、弟一家がやってくるのが恒例です。
長男一家はアメリカ在住なので帰省しませんが、その分次男一家が長い帰省期間を取ってくれています。
僕は、恒例の法事後みんなで行く場所の選定など遊び担当ですが、主婦はお三どんや家のクリーニングで大変です。

でもまあ、次の日曜日もあるので、午前中は映画に行く予定にしました。
土曜の朝、家内が新聞を見ながら「君の膵臓を食べたい」と言う映画が面白いんだって・・・と映画紹介記事を伝えてくれた。
「じゃあ、明日行く?」「うん」。

この映画は、本屋大賞上位だった小説の映画化です。
本屋大賞をチェックしてて、変な名前の小説だなあと頭に残っていました。
インターネットの上映映画紹介は常にチェックしているので、予告編を見て気になっていました。
でも題名があれなので、家内に引かれるかなあと思い誘っていませんでした。
渡りに船です。

4時に目覚め、ゴソゴソ。
7時過ぎに帰宅し、風呂に入り朝食を食べながらTVを見ていると、「用意できた!」と家内がやってきました。
「え、もう行くの?」
映画上映開始は8:40なのに、まだ7:30です。
8:15出発で良いと思っていました。
駅前に出て用事をしたいということなので、8時出発に変更。
慌てて着替えました。

朝は雨が降っていましたが、うまい具合に上がりました。
通勤リード110にタンデムし、駅前に走り、そしてショッピングモール内の映画館へ。
8時開店のスーパーを覗いていたから、8:35になっていました。

この映画、母校の高校に教師として勤務する主人公・小栗旬が、図書館の建て替えのための図書移動担当に指名されます。
元図書係だったからです。
久しぶりの図書館は、懐かしい姿のままで、同じ図書係だった同級生少女Aがいるように感じます。

自分が十数年前に整理した蔵書ノートがそのまま使われています。
図書係達が蔵書の場所を探しているのに、的確に場所を伝える主人公。
それに驚き、この蔵書ノートの作成者だと見破るBくん。

そのBくんとの会話から、高校生時代のAさんとのことを思い出し、場面は高校生時代にタイムスリップする。
病院の待合室で待っていた時、廊下に1冊の本が落ちているのを見つけた。
拾って開くと「共病文庫」と言う題名。
ブックカバーでわからなかったが、日記だった。
1ページ目には、「私は腎臓の病気でもうすぐ死ぬ」と書かれていた。

そこに「見たでしょ」と持ち主の少女Aが明るい声でやってきた。
彼女は同じクラスの人気者で気になっている存在。
対して主人公は、できるだけ他人との接触を持ちたくない根暗な存在。
ここからAさんからのアプローチが始まる。
日記を見た罰として、あちこち引き回される。
図書係に立候補してやってくるし・・・。
ミステリーツアーで、新幹線で福岡への一泊旅行にも同行させられた。
Aさんといつも一緒の美少女Cさんから、ライバルとして敵視されるし・・・。

体調悪化で入院したAさんから退院の連絡が入り、Aさんが見たがっていた桜を、主人公は北海道に観に行こうと誘う。
思い出のカフェで待つが、ついに彼女は現れなかった。
彼女とはそれきりになった。
そんな思い出が展開される。

図書館の図書移動がそろそろ終わる頃、Bくんから「落書きされている」と見せられた図書カードには、懐かしいAさんの書いた絵が遺されていた。
そのカードの図書を探す主人公。
そこで見つけた彼女からのメッセージ。

1通は自分に、そしてもう1通はライバル視していたCさんへのもの。
その日は、Cさん(北川景子)の結婚式の日で、彼女から招待状が届いていた。
行くつもりなく無視していたけど、一目散に結婚式会場へ。

Aさんは、みんなの中で生きていきたいと言っていた。
そして、Cさんと仲良くして欲しいと言っていた。
Cさんの結婚する相手は、同じ同級生で根暗な自分に唯一声を掛けてくれていたDくん。

新婦の控室で、Aさんへのメッセージを読んだAさんは泣き崩れる・・・。
Dくんは相変わらずいつもの表現方法で主人公と接する・・・「ガム、いる?」。

自分への最後のメッセージに、いろんな疑問に答える彼女の主人公に対する心境が綴られていた。
それから根暗な自分が少し変わった。
若い図書係のBくんは自分に似て根暗。
でも彼に時々ちょっかいを出してくる少女がいる。

またちょっかいを出してきた。
「彼女は君に気があるんじゃないのかな?」
それを聞き振り返り「また明日」と彼女に言う彼。

素晴らしい映画で、またいっぱい泣いちゃった。
いつものように、ゆっくり気づかれないように隣の席の家内を時々盗み見ると、いつものようにスクリーンを一心に見つめていました。

僕も中学時代、ドクターストップでサッカー部を辞めてから図書係だったので、そんなことからもこの映画に共感しました。
僕は好きな人と夫婦になり、一緒に暮らすことが出来てなんて幸せ者なのだろう。

7/27・障害者

朝ごはんを食べながら、NHK「おはよう日本」を見ていた。
相模原の障害者施設の入居者を元職員が襲い、多くの死傷者を出した事件1周年で、特集を組んでいた。
犯人は、「障がい者は不幸しか作らない」と自分の大量殺人行為を正当化しているらしい。

それに対し、障害者支援を続けている方が、「障害者のことを知らないとわからない」と言っていた。
この方は、養護学校教諭を定年退職されてから、自立支援組織を立ち上げ、パン工房をされている。
そこで働く障害者1人1人の特徴が紹介されていた。

暗算がとても早く、駅前での特設販売所で、即座に合計額を口に出していた方。
その横のベンチでこの時間中眠っているのに、売上を郵便局に入金しに行く時は喜々と行動される方。
工房前の花壇を、誰に言われることなくいつも熱心に手入れしている方。
それぞれの得意で魅力的に映っていた。

『知らないとわからない』の言葉に、「そうだよな」と思った。
今、障害者学校はどちらかと言うと目立たない場所にひっそりと建っている。
我が伊丹市にも、立派な大きな学校が建っているが、目立たない場所にある。
通学時間には、送迎大型バスがひっきりなしに正門を往来している。

その施設から割合近い息子たちの小学校の運動会には、毎年障害者児童がやってきて一緒に運動会を楽しんでいた。
きっと学芸会などいろんな行事での交流があるのだろう。
でも、息子たちから彼らの話を聞いたことが無い。

僕が小学生の頃は、校舎内に障害者学級があった。
僕にとってはそれが当たり前の小学校風景で、休み時間になると、障害児と一緒に遊んでいた。
「蟻地獄」の存在を教えてもらったのは、その障害児からだ。

学校で自然に交流があるから、放課後でも交流が有る。
公園で一緒に走り回ったし、ある障害児さん・林くんの家が電気屋さんだったので、その家に行きおっちゃんに要らなくなったラジオを貰ったり、ハンダゴテの使い方を教えてもらったこともある。
おばちゃんにジュースを貰ったりした。
僕らを「学校の友達」として、ご自身のお子さんと一緒に扱ってくれた。

小学校を卒業しても交流が続き、大人になっても障害児のその子とおばちゃんが歩いているのを見つけると、いつも挨拶していた。

給食は小学校校庭内の建物で作っており、昼前になると窓から覗き込んで、「今日は何?」なんて声を掛けていた。
用務員夫婦が校庭内の一軒家に暮らしており、校庭内の花壇の世話、壊れた机の修理、掃除など「何でも屋さん」をやっていた。
学校の主なので、放課後遊んでいると、サッカーに加わったりしてもう一人のお父さんという感じだった。

用務員さんがガードマンも兼ねており、門扉は夜以外ずっと開いたままでした。
だから遅刻しても、今のように門扉が閉ざされていることないから、堂々と入っていけた。
通勤で通る最寄り中学は、始業時間が迫ると先生が数人立ち、時計を見ながら「早くしろ」と生徒に駆け足を促している。
そして定刻になると、門扉をガラガラと閉ざしてしまう。

放課後の運動場は、一旦家にカバンを置いた子供の遊び場で、近所に住む方の憩いの場でもあった。
今の学校は、それら雑多なものが削られ、純粋培養のようになっている。
長い時間過ごす学校で、自分と違う者との交流がなくなり、違う人の様子を肌で感じる時間がなくなっている。

僕は今でも昼前になると駅前に出張してくる障害者施設パン屋でパンを買うし、もう閉店したけど障害者施設が運営する小型スーパーで、大学時代はよく買い物をしていた。
車が停めやすかったし、空いてたから。
障害者の店員さんがまとわりついてきたり奇声を発しても、別になんとも思わない。
そういうもんだと体験で知っているし、僕の知らないことをたくさん知っていたり、出来ることもしっているから、馬鹿にする気持ちなど起こらない。

このスーパーで感じていたのは、お客さんの年齢層の高いことだった。
僕が40代ぐらいまでスーパーは存在したが、僕より若いお客さんはほとんどいなかった。
この時思ったのが、小学校で交流がないからここに入るのが怖いんじゃないかな?ってこと。

『知らないとわからない』の言葉が強く印象に残った。
この犯人も年齢から推察すると、子供の頃からの障害者との交流がなかったのではないのかな?
何度言っても理解しない人・何度わからせようとしても勝手にお店に入り物を持ってくる障害者・・・
彼には、単に社会のお荷物としか見えなかったのだと思う。

彼の言う『障害者は不幸しか作らない』の言葉は、彼の感じた真実の言葉だろう。
地域に住む障害者が、クラスは違えど共に学ぶ小学校が復活すれば、違うように思う・・・

7/23・徒歩で「奥宮神社」

20170723OtsuS224s.jpg 小さな池があった。
これが捕らえられた雷が約束した湧水が絶えない水源かと思い、謂れが書かれて石碑を読むと、『芭蕉の池(発祥地) 古池や蛙飛び込む水の音。観音霊験記によると、俳聖松尾芭蕉が山の観音を信仰して参籠し、供養塔を立てた。たちまち霊験を得、この名句が出た』

20170723OtsuS231s.jpg 本堂があったので、拝観料500円を払いに行く。
商売っ気がなく、「ああ、拝観料ですね」とお坊さんがチケットをくれた。
払いに行かなければ催促されることもなさそうです。
天井にいろいろ下がっていた。
泰澄大師が、自ら桂の木から彫ったとされる本尊。

20170723OtsuS233s.jpg それ故桂の大木が霊木とされていた。
「これより90m桂谷大樹:現在も山内には多くの桂の大樹が存在しますが、最も樹勢が旺盛で、千年有余の歴史を現代に伝える大樹。桂の大樹群としては日本随一」
「奥宮神社ここより10分」の案内板があった。

20170723OtsuS245s.jpg 13:56、そちらに歩き出すと、「上醍醐寺」の案内板もあった。
そうか上醍醐寺の東に位置しています。
尾根道で行けるのかも?
「護法善神遥拝殿」があったが、20mほど下るのでパス。

20170723OtsuS243s.jpg 遥拝が望む所に桂の大樹があった。
『東海自然歩道 左:東笠取を経て喜撰山・天ヶ瀬ダム 右:石山寺5.5km・岩間寺0.1km』

上醍醐寺への分岐があった。
『奥宮神社・琵琶湖展望台』の案内板が立っている。
少し先を歩いていったカップルが戻ってきた。
あれれ・・・とその先を見ると、完全な山道になっており、ハイヒールには厳しそう。

僕はそのまま進み山道を抜け、人工物が見えてきたが、別荘地でも分譲したのだろうか、朽ちた擁壁が悲しい。
20170723OtsuS251s.jpg 14:13「奥宮神社」。
案内板の10分では無理で20分と書いておくべきだろう。

20170723OtsuS256s.jpg 日曜の午後なのに社務所は開いていない。
こんな山頂に有る細道急坂経由の神社は、訪問する人は僕のような物好きだけだろう。
20170723OtsuS267s.jpg 岩間山山頂の電波塔とさほど高度が変わらない。
琵琶湖一望展望台からは、瀬田川とその流域の狭い耕作地が見下ろせる。
20170723OtsuS271s.jpg 思いっきり北に目を向けると、琵琶湖瀬田と近江大橋が見えた。

ベンチに座って、水筒から水を呑む。
500ml入りの小さな水筒ですが、ヒップバッグに入れていても邪魔にならないし、氷満タン+水道水で家を出れば、1日冷たいお水に有りつけるので重宝している。
これは姪っ子に教えてもらい、ホームセンターに買いに行ったものです。
まだ紫陽花が咲いていた。

境内に戻ると、『右:立木観音道50丁 左:石山観音道38丁』の石柱が立っていた。
1丁は109mなので、立木観音まで5kmですね。
バイクで立木観音に行ってみよう。

バイクに戻り、脱いでいたプロテクターメッシュを着る。
R422に下り、瀬田川沿いを南下し、15:01「立木観音P」。
20170723OtsuS278s.jpg さあ登ろうかと石段に取り付くと、「石段800余段」の案内板を見てしまいUターン。

バイクに戻り、道なりに瀬田川右岸がr3になり、京滋バイパス「南郷IC」から高速に乗ろうとしたら、「大阪方面には行けません。笠取ICへお回りください」と書かれており、Uターン。

更にr3を走り、笠取ICから高速に乗りました。
京滋バイパス~大山崎JCTから名神高速~吹田から中国道に乗ります。
天気予報の14~15時雨1ミリは外れて良かったなと思いながら走っていると、豊中丘陵を西に下るところで小雨が落ちてきました。

1ミリには程遠いですが、西風・南西風の時は、よく雨の降る場所です。
六甲山から大阪平野北部に下った風がこの丘陵に当たり吹き上がります。
南西の場合は、大阪湾からの風が吹き上がる時に、湿度の多い時は飽和水蒸気量を越えて絶えきれず雨になってしまいます。
同じく生駒山で吹き上げられた風が東大阪に雨を落とすのと同じ原理です。

16:17帰宅。
家内はまだなので、洗濯物を取り込み、最後のバナナを食べる。
そして風呂。
これでスッキリしました。
おやつとしてプレーン・ヨーグルトを450g食べ、冷凍庫で冷やしていたポンジュース氷をクラッシャーに入れて自宅かき氷でクールダウンします。

TV点けてそのまま昼寝になってしまい、門扉が開く音で飛び起き、家内より前に玄関に取り付き「おかえり~」と開けました。
お蕎麦を作ってもらい食べながら、本日のお互いの出来事を報告し合います。
弟と義理妹に会ったんだって。

「モヤモヤさまーず」を見て、家内が寝てしまったので、僕もお休みの時間になります。
プレーンヨーグルト450g持って寝室に上がり、「NHK大河ドラマ女城主直虎」見て寝ちゃいました。


7/23・岩間寺

次何処に行こうか地図を見ていて、「岩間寺」が目についた。
R1~R422~r106を経て、山道に入っていきます。

枝道に「奥宮神社」と書かれていたので、そちらに入ってみた。
舗装が荒れだし、コンクリート舗装になり勾配が急になった。
途中から更に勾配が増したので、危険が危ないと思いUターン。

もとに道に戻り、13:42「岩間山正法寺」。
昼食としてバナナを1本食べる。
「入山拝観料500円」と書かれていたが、本堂で払うようになっている。
20170723OtsuS199s.jpg 『白姫竜神 開山泰澄大師が、加賀の白山で修行中、白馬に乗った妻女に会った。「白山妙理大権現である」と言われ有難く感じた。大師は当岩間山に白姫龍を勧請された。
女人がこの神を崇めると美女に成ると伝承されている』

白山を開山したのも・・・と帰宅後調べるとビンゴ!修験道の僧でした。
20170723OtsuS202s.jpg そこから眼下に展望が広がっていた。
20170723OtsuS204s.jpg 『岩間山正法寺(通称岩間寺) 真言宗 本尊:秘仏千手観世音菩薩立像 創建は養老6年(722)越前生まれの泰澄大師が、時の女帝・44代元正天皇33才の厄年の病気を法力により治された褒美に勅命により建立。本尊は、当地の桂の木より刻んだ千手観音像で、胎内仏として元正天皇より賜った千手観音をこめた。現在の本尊は、その元正天皇の御念持仏・千手観音立像で、丈4寸8分(15cm)、三国伝来ノエンブダゴン(インド・エンブ川より取れる砂金)の金銅仏で通称「汗かき観音」「雷除観音」「厄除け観音」と呼ばれる。汗かき観音とは、日没とともに厨子を抜け出し、毎夜135地獄を駆け巡り、苦しむ衆生を済度し、明け方お帰りになる。時には汗びっしょりになられることに由来する。
また大師が七堂伽藍建立の際、度々雷が落ち堂宇をことごとく焼失した。困り果てた大師は、自らの法力で雷を捕らえ、仏弟子にしたところ、雷は2つの約束をした。「当山に参る善男善女には雷の難を及ぼさないこと」「岩間山に千年万古つきることのない水を湧かせること」。これが雷除け観音の由来。境内には、雷自ら爪で掘ったという「雷神爪堀の霊泉」があり、現在も絶えることがない。元正天皇の「湧き出ずる 岩間の水は いつまでも つきせぬ法の み仏のかげ」が伝えられる。後白河帝・後宇多帝・正親町帝など歴代の天皇の尊崇篤く、日本三大霊場の1つとして隆盛していた』

大師堂があった。
『泰澄大師 白鳳11年(682)越前生まれ。俗姓は三神氏、父は安角、母は伊野氏。幼少の頃より神童で、常に十一面観音を念じ、僧侶となってからは荒修行をし、その名声は早くから中央に知られていた。大宝2年(702)鎮護国家法師になり、養老6年(722)元正天皇病気平癒のため、奈良の都に来た。
同年、加賀白山を開く途上、元正天皇の勅命で、当山を開く。神護景雲元年(767)86才でこの世を去る。弘法大師 真言宗の開祖。宝亀5年(774)~承和2年(835)』

久しぶりに4文字元号を見た。
4文字元号は奈良時代の聖武・孝謙・淳仁・称徳天皇(重祚)の期間、俗に言う天平時代にのみ使われた年号で、天平が付かない唯一の4文字元号です。
2文字以外は天平時代の4文字5つのみです。

20170723OtsuS213s.jpg 『稲妻龍王社 当山護法善神で、この銀杏の大樹に住む。水を司り、雷難・水難を除き大魔から護り給う』

20170723OtsuS216s.jpg ガマの草がバケツにたくさん採集されていた。
法事に使うのかな?
『不動堂 寛政・文化・昭和年間に再建を繰り返しているが、虫害ひどく現不動堂は平成5年に再建。不動明王・二童子像(平安中期・重文)。不動明王は、大日如来の使者、または大日如来が教化し難い衆生を救うために、恐ろしい姿をとる。二大童子は、不動明王の使者八大童子の1つ。薬師如来坐像(藤原期)阿弥陀如来坐像(藤原期)』


7/23・義仲寺、開いてて良かった

20170723OtsuS133s.jpg 11:30、練習を終え、クルーとスキッパーを交代してハーバーバックするよう指示。
20170723OtsuS134s.jpg 8m/sほどの良いブローが時折入ってきて、楽しそうだ。
コーチボート上では、女子マネージャーが良いアングルにドライブし、もうひとりの女子マネージャーがビデオを回していた。

12時に着艇し、解装中切りの良いところでブリーフィング集合してもらった。
監督は合宿所に戻りミーティングに参加するそうだが、僕は午後また大津を巡ろうと離脱することにした。
スタートが上達したことを話し、安易なリコール(フライング)がまだあることと、マーク回航の基本アプローチを話す。

コーチング中着ていた釣りメッシュチョッキを脱ぐ。
釣り用はポケットがたくさんあり、三種の神器を入れている。
ホイッスルがないと、練習を指揮できないからね。
プロテクター上下を着て、艇庫を後にして、R161を南下する。

20170723OtsuS146s.jpg 道なりにr18に乗り、12:52「義仲寺」。
開いてて良かった。
拝観料300円。

境内の説明をいただいた。
20170723OtsuS149s.jpg 『山吹供養塚 義仲の正室。病身のため京にあったが、義仲に会おうと大津まで来たが、義仲敗死の報を受け、自害したとも捕らわれたとも言われる。元大津駅前に塚があり、改築のためこの地に移された』

木曽義仲と言えば、「巴御前」が超有名ですが、それは武者として義仲と戦でも行動を共にしていたから。
正室は、木曽の里に預けられた家の娘でこの人。
巴御前に対抗し、自分も婦人部隊を指揮し、義仲軍に随行したと平家物語には書かれている。

この2人の女性をこれほど惹きつけた魅力的な義仲に、僕は男として惹かれる。
今、TVアイドルとして人気のある男の子でも、単に見栄えが良いだけで女の子を引きつける事はできないから。
僕は、女性に嫉妬してもらえるほどの魅力はなさそう・・・

『義仲寺 昔この地は粟津原と言われ、寿永3年(1184)征夷大将軍・木曽義仲公はここで敗死した。その後、年を経て1人の尼が来て、公の塚に侍してねんごろに供養した。里人は訝しみ、その有縁を尋ねるが、「名もなき者」と答えるのみだった。この尼こそ巴御前の後身で、そこから無名庵とも巴寺とも呼ばれるようになった。佐々木候が木曽公を護持するため当寺を修復した。
元禄の俳聖・松尾芭蕉は、木曽公の心情に同情し、無名庵に滞在した。大坂で死去された時、近江義仲寺の義仲公の墓の傍に埋めよと遺言された。無名庵は、芭蕉翁の死後、高弟により代々我が国俳諧第一の聖地とされてきた』

20170723OtsuS163s.jpg 芭蕉の杖が展示されていた。
20170723OtsuS166s.jpg 伊藤若冲の天井絵もあった。
こんなところで若冲に会えるとは・・・

20170723OtsuS174s.jpg 『巴塚(供養塚) 木曽義仲の愛妻・巴は義仲とともに討死に覚悟で粟津野に来たが、義仲が強いての言葉に、最後の戦を行い敵将・恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕らえられた。和田義盛の妻となり、義盛戦死後尼僧となり、各地を巡り当地にしばらく留まり、亡き義仲の菩提を弔った。その後いずれかに立ち去り、信州木曽で90才の生涯を閉じた』

20170723OtsuS176s.jpg 木曽義仲の小さな塚の上に宝篋印塔が立っており、小奇麗に整えられていた。
20170723OtsuS191s.jpg 翁堂という佇まいの良いお堂があります。
この天井絵が伊藤若冲作だそうです。
代名詞である精細画とは違う天井絵ですが、こんな所に足跡を遺しているとは思いませんでした。

その裏に「保田興重郎墓」がありました。
存じない方だったので帰宅後調べました。
『明治時代の文芸評論家。マルクス主義からドイツロマン派に傾倒し、大東亜戦争を正当化し、戦前は戦線拡大を扇動する論陣を張った。戦後公職追放に遭いましたが1960年代後半から復権した。思想は戦前同様一貫していた。明治以降の神道の国教化(国家神道)には疑問を呈し、上古の神道と異なると評した。キリスト教のように布教する宗教ではなく、自然に根ざしたもので、信仰の強制=皇民化には反対した。大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われるのに、祭政一致の観点から嫌悪感を示した』

僕も、神道は強制されず、経典も教えもないただ自然崇拝を形にしたものとして気に入っている。
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プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
/norimakiturbo/
から引っ越してきました。

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