1/7・石峰寺

昼食後、前日に続き安産祈願しようと家内を中山寺に誘うが、「お化粧してない」とか何やかやでお出かけモードになっていないようです。

「どっかに行ってきたら?」と言われ、「招き猫CB400SB」でお出かけすることにする。
三田方面寺社巡りしようとツーリングマップルを広げると、石峰寺と赤で書き込まれている。
いつ書いたのか、何を見たくて書いたのは不明ですが、ナビをセットし13:30に自宅を出発しました。
目的地は、神戸市北区淡河の石峰寺です。

R176or中国道~山陽道をナビは誘導しますが、面白くないのでおおまかに往路「有馬経由」復路「三田経由」と決めました。
R176宝塚付近は混んでいました。
バイクの特典で信号ストップすればスイスイと前に出れるはずですが、パトカーがいたので自重しました。
原付など数台が平気で前に出ていましたが、ミニパトさんはスルーしていました。

宝塚駅を過ぎると解消し、R176を走り、r51に入り蓬莱峡を抜け有馬温泉コースです。
「+10の会」なので、見通しの良い直線でも50km/hを守り、カーブはビビリッターが働いてグーンとスピードダウンするので、四輪を数台従える大名行列を作っちゃいました。

有馬温泉駅からr506へ。
有馬温泉駅付近で、優先道路のこちらを見ているのに平気で四輪が出てきて驚きました。
ゆっくり走っており、「怪しいな」と野生の勘が働いていたので、少し強めのブレーキで事なきを得ましたが、女性ドライバーは要注意です。
最近何かとマスコミからバッシングされている高齢ドライバー以上に僕には怪しい存在です。

確かに男性ドライバー年齢別事故数は、1999年調べで65才以上は70件/億Kmで、18~24才90件/億Kmに次いで2番目に多いですが、女性と比べれば最も少ない40~49才60件に負けるだけで、2番目の30~39才80件・50~59才80件より少ない。
まあ、女性は愛すべき守るべき存在なので、男が気をつけなくちゃ。

r38に乗り西進します。
20180107SyakuS0009s.jpg ナビに導かれるまま枝道に入り、14:31山門着。
20180107SyakuS0004s.jpg 仁王様が守る山門で、かなり立派です。
石峰寺本体への期待が高まる。
山門からの直線上に石峰寺が見える。

バイクで少し移動し、境内前に14:38駐輪。
細い田舎道なのに、アウディやBMWなど外車ばかり下っていく。
同好の士の集まりでもあるのかな?

20180107SyakuS0012s.jpg 石段左右に鐘楼を構える珍しい配置です。
『白雉はくち2年(651)法道仙人開基。
孝徳天皇の勅願寺として栄え、中世には1里四方の寺領を持ち、多数の僧兵・学侶を養っていた。大日如来が祀られている本堂東の三重塔は室町時代作で、嵯峨天皇の勅願による。この時代に作られた三重塔では最大級。中堂の薬師堂は、聖武天皇勅願で、僧行基が開眼した薬師仏・十二神将・日光月光菩薩を祭祀し追儺行事が行われた。この2つの建造物は、国の重要文化財』
法道仙人はインドの僧で、播磨・摂津に開創した寺院が多いので、謂れ板で名前を良く見ます。

20180107SyakuS0016s.jpg 謂れ板下に竹細工の花生けが置かれ、南天の赤が美しく生けられている。
ご住職ご夫婦の人柄を感じる。
手水が蓮の花を連想させる造形で、珍しい。
お大師様を祀る祠があったので、真言宗のようです。
左右に小ぶりだけど綺麗に整った花々が生けられ、センスの良い奥様がおられるようです。

「八十八ヶ所巡拝道」の石柱が立っていたので入ってみる。
山中88の仏様を巡ってみた。
このような簡易巡礼道は何度も目にしたが、1番から88番まで全て巡ったのは初めてです。
20180107SyakuS0064s.jpg 石祠におられたり、大岩を削った祠に祀られていたり、距離にして1kmもないので、楽しく巡れた。

小さな起伏に富み、大岩が良い雰囲気を醸し出し、順路案内板が整備され迷わずとても良い。
阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来・将軍地蔵菩薩・千手観世音菩薩・虚空蔵菩薩・十一面観世音菩薩・弥勒菩薩・七仏薬師如来・地蔵菩薩・文殊菩薩・波切不動明王・不動明王・大通智勝仏・・・それぞれの仏様が特徴を持っておられるので、見て回るだけで楽しい。

20180107SyakuS0142s.jpg 三重塔の裏に古池がありました。
室町時代再建の日本最古の三重塔は趣があります。

『当伽藍は四神(青龍 白虎 朱雀 玄武)に満たされた地にあり、一段下がった丘陵地には十輪院・極楽寺・竹林寺の塔中がございます。往時には回園地に七十余りの坊余を配していた修行道場であって、今も自行に訪れる方々が多数あります。当寺は観光寺院ではなく拝観料も頂いておりません。清掃は僧・行者・檀家・参拝者の方々多くのご奉仕をもって維持されております。ごみ等が出ましたらお持ち帰りください。修行道場ゆえにお足もと等に十分な整備が為されておりませんのでお気を付け下さい。裏山も修行場で危険な所もございます。滑落や落石・落木にご注意ください。今日の佳きご縁に皆様方の心と体と財とが広く満たされますようお祈りいたします。 合掌 岩嶺山・石峯寺』

室町時代からここに建つ本堂内は、暗く良い雰囲気で、立派な彫刻が目につきました。
いつの時代奉納されたものやら、武者絵馬が掲げられています。

20180107SyakuS0170s.jpg 『本堂・延命地蔵菩薩 当山の御本尊様です。白雉2年(651)インドの僧・法道によって開かれた。旅の途中、この地に立ち寄り、彼の地より法道の徳力を追って来た龍が授けた地蔵菩薩像を受け、この地に聖舎を建てた。この3年前に孝徳天皇の病気平癒の祈願をし、ご回復されたことによる勅願で建てられたとも言われている。3月の最終日曜日に柴燈火護摩があり、各地より多くのお参りがあります。 石本寺執事』

子安地蔵祠に参り、薬師如来堂へ。
『奈良時代、悪疫が流行した折に聖武天皇は7体の薬師如来像の制作を命じ、光明皇后は17巻の薬師経を浄写され悪疫消除を祈願して各地域に聖舎を立てて祭司されました。
石峯寺の薬師如来様は、行基菩薩によって聖舎と本尊の開眼が為された。十二神将は、その後に祀られた。 石峯寺』
薬師堂内も、建てられた時期は定かでありませんが、本堂と同じような作りで暗く落ち着いていた。

20180107SyakuS0180s.jpg 参拝中、時折聞こえる車の音に目を向けると、ほんと外車特にドイツ車が多い。
昨年9月にアメリカ東海岸に行ったが、アメリカよりドイツ車比率は格段に高いように思う。
落ち着いたデザインと、日本車に次いで故障しないドイツ車に質実剛健を感じ好む日本人が多いように思う。

近隣の他の寺社訪問も予定していたが、殊の外「石峰寺」が素敵で時間を食ってしまい、15:22帰路につきます。
r38まで下りてきたら、出発時に通り過ぎていった車が感知式信号で止まっています。
二輪押しボタンボックスを見るとまだ感知していないので、横を通り抜けボタンを押す。
すぐに信号が変わりました。

r38を東進し、R176を少し北上し、r327に乗ります。
「JR道場駅」横を通り、武庫川沿いを走ります。
新名神のこの区間は、事故により開通が1年半先延ばしになりましたが、下から見上げた外見は完成しています。
「川下川ダム」横を走り、r33~r325~長尾山トンネルで大阪平野に戻りました。

16:31「セルフ宝塚176」で給油。
322km/14.5L=22.2km/L。
16:40帰宅。
家内はずっと家にいたようです。
NHK「ダーウィンが来た」、この日から始まった「大河ドラマ・西郷どん」を見て寝ました。




1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 湊川神社~荒田八幡神社

20180106MinatoS0247s.jpg 『湊川神社 所在地:神戸市中央区多聞通3丁目1番1号 祭神:楠木正成公(大楠公) 配祀:楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族16柱並びに菊池武吉卿 摂社:甘南備神社(祭神:大楠公夫人) 境内神社:楠本稲荷神社(祭神:倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命) 菊水天満神社(祭神:菅原道具公)
由緒 大楠公は、元弘元年(1331)9月に後醍醐天皇の命に従い挙兵、やがて鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績をあげられた。しかし、謀反により一時九州へ敗走した足利高氏の大軍を、大楠公はここ湊川で迎撃、激戦の末、延元元年(1336)5月25日、弟・正季卿と「七生報国」を誓って刺交し、殉節を遂げられた。
その後墓所は、豊臣秀吉検地の際、免祖地とされ、江戸時代初期には摂津尼崎藩主・青山幸俊公によって松と梅が植えられ、五輪の供養塔も建てられた。更に元録5年(1692)水戸光圀公(義公)によって、墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立、大楠公が天下に顕彰された。
これにより、大楠公景仰の気運が愈々高まり、やがて維新回天への力強い精神的指導力となった。そうした幕末から維新にかけて、尊崇いてやまない大楠公、その御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868)4月、明治天皇は神社創祀の御沙汰書を下された。
よって明治5年(1872)5月24日、社名と「湊川神社」とし、初めて別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭・翌日楠公祭が斎行され湊川神社が創建された。
御盛徳 大楠公は、智・仁・勇三徳を備える人格者で、聖人とも仰がれた武将であった。大楠公の忠誠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫に至るまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はいないと言われるほど、国民に大きな感化を与えた』

20180106MinatoS0250s.jpg 境内内参道に「大楠公一代記」と銘打たれた13枚の絵パネルが立っていた。
太平記に沿った楠木正成の生涯が描かれていた。

大学1回生の時、付き合っていた同じ学部の同級生美人さんと来たことを思い出しました。
夏前に友達のクラスにいた同級同回生一番の美人さんに知り合いました。
友は同じクラスのもう1人が良いと言い、僕は美人の方。
彼に紹介してもらい、僕がWデート学食昼食を誘いました。

僕と彼女は順調に進み、何度も彼女の家に車で送り、初詣に湊川神社に参拝しました。
僕のお付き合いした中で最高のプロポーションの持ち主でした。
水着姿は悩殺モデルそのものでした。
男子学生の視線浴びまくりで、大学の友達から、かなり羨ましがられました。
目を引く美人さんは敬遠されるのか、僕の素朴さが良いのか、打率10割で、最初から振られた経験がありません。

チヤホヤされるも意外に決まった人がおらず、誠実に丁寧にアプローチすると上手くいきます。
家内だって、違う学部のマドンナさんで、今でも「可愛かったよな、今どうしてる?」と僕との関係を知ってる家内の学部の同学年の友達から言われます。

綺麗な着物姿で目がくらむほどでした。
すれ違う男どもが彼女を吟味する目で見ているので、自慢げに歩きました。
美人さんは、ずっとこんな視線に合っているのかと少し気の毒に思いました。
でも西洋的なプロポーションの女性は、着物より洋服の方が似合います。
白人モデルさんが着物を着ても、細身で首の長い日本人女性に見劣りするのと同じです。

彼女はピアノ・オルガン・エレクトーンが上手で、教会での結婚式のパイプオルガン伴奏のアルバイトをしていました。
観に来てと言われていたのに、日曜日はクラブなのでその機会がありませんでした。
山の家の掃除に連れていき、一緒に掃除したとき、「お嫁さんになったみたい」と言われました。
1回生後期試験が大学紛争でレポート提出になった時、彼女の家に行きレポート作成に励みました。
作文が得意な僕は、クラブが始まるので早期提出したこともあり、軒並み優の抜群の成績で、これで弾みが付き卒論も学部内表彰され、全員に配られる卒業優秀論文集に収載され、成績優秀で学部卒業できました。
うちの母も気に入り、美術館や博物館を3人で巡ったのも複数回ありました。

彼女との交際は1年半続きましたが、2回生のクリスマスに振られちゃいました。
性格も良く気に入っていましたが、僕のヨット部最優先が不満だったようです。
ヨットは同学年唯一の高校ヨット部経験者で1回生の時から期待され、秋からクラブの主力だったこともあり思いっきりやり、お陰様で国体やインカレなど当たり前のように出て、大いに楽しみそれなりの成果を出しました。

「私とヨットとどちらが大事?」というドラマで定番の言葉が出た時には、ちょっとガッカリでした。
「私と仕事と・・・」に共通する言葉で、家族を食わせるため働く時は休みなど関係なく頑張ることが男には必要だと思ってるので、合わなかったと思います。
僕より精神年齢が大人で、結婚をずっと意識していたように思います。
僕が具体的に結婚を意識し始めたのは、3回生以降でした。

今は僕も定期的に休んでいますが、次男が中学生になるまでは、完全にワーカーホリックでした。
労働基準法・週休・・などどこ吹く風で、仕事で成果が上がるのが面白く、タイムカードなどすると叩き過ぎの証拠が残るので無視していました。
最近の西洋式社会風潮は、「労働=苦痛」「労働=食うためのお金稼ぎ」ですが、僕は自己実現だったように思います。

だから最近の「過労死で会社を訴える風潮」に違和感を感じます。
社会としてはそれが正義でしょうし、大きな組織では当たり前の事ですが、人の倍働き成果を出せば、自分の好きな時に休みが取れますし、会社に切られることに怯える必要がなく、自分で会社が動くようになります。
よって小企業好きです。

家内は自分もフルタイムワーカーなこともあり、こんな僕に理解を示してくれました。
いつも自分の仕事をこなした上で、食事・掃除・洗濯・子育てのスーパーウーマンでした。
家内の母親もいつも笑顔で仕事を差配していた方で、よく似ています。

僕は月2の休日も少しでも会社に顔を出すワーカーホリックだったけど、夜が弱いこともあり結婚してからは夜7時には帰宅して毎日子供と遊んでいました。
風呂と寝かしつけは僕の仕事で、出張出ない限りしっかりこなしました。
その代わり、就業後の付き合いはほぼナシでした。
盆正月は家族と一緒の時間を大切にしました。

20180106MinatoS0262s.jpg 中山手通~R428で15:14「荒田八幡神社」。
『当八幡神社は古くは高田神社といい、後に宝地院境内にあったハ幡社を、神仏混淆を避けて、明治31年(1898)にここへ合祀して、荒田八幡神社とされました。
この近辺の土地は周囲より一段と高く、この高台付近が都の重要な地であったと考えられます。八幡神社の土地は平清盛の弟・池大納言平頼盛の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都の際には安徳天皇の行在所となり、境内には安徳天皇行在所跡の碑のほか、昭和55年(1980)6月3日に建てられた福原遷都800年記念の碑があります』

20180106MinatoS0271s.jpg 『祭神:応神天皇・素盞嗚命・安徳天皇 当八幡社は古くは高田神社といい、荒田村字1町田に鎮座し、熊野権現を祀っていたからその森を権現の森といったが、のちにすぐ西にある宝地院境内にあった八幡社を神仏混淆をさけて、明治31年2月24日兵庫県知事の許可を得て、ここに合祀して荒田八幡神社となった。
この土地は池の大納言・平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3目の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。いわゆる今日でいう皇居であり、今の境内に行在所跡の標石が建っている。
この頼盛の別荘については、高倉天皇の「厳島御幸記」に「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(あらた荒田)という頼盛の家にへ笠懸(かさかけ)、やぶさめなど仕うまつらせ、御覧せらる。日暮れ帰らせ給う。」と記しているので広い邸内であったことがわかる。
邸内は一段高く、昭和13年7月の神戸大水害の時にも附近一帯泥海のなかに島のように見えた。こうした日本歴史の一端をにない、又神戸の史跡として重要な役割を果たし、「平家ゆかりの地」として日本国民から崇敬を集めている。ところが昭和20年3月のあの神戸大空襲のため社殿を焼失してしまい仮社殿を再建し40年を経過したが、昭和60年6月、氏子・崇敬者のなみなみならぬ努力により、現
在の新社殿の建立をみている。
昭和55年6月8日、神戸にとって歴史的意義のある福原遷都800年を迎え、神戸市及び郷土史家の手によって「福原遷都800年記念碑」が建設された。
又、当神社は厄除の神として知られ古くから兵庫県下一円より厄除大祭(1月18・19・20日)には参詣者で賑わっている』

確かに周囲より少し高く、2F建て建物がなければ、景色は良さそうです。
こじんまりした境内・社殿ですが、綺麗に清掃され、寄進の酒樽が並べられており好感が持てました。
20180106MinatoS0280s.jpg 本殿を覗くと、小ぶりなお神輿が鎮座していました。
境内周囲に真新しい紅白の幕が下り、2週間後の厄除大祭の準備が整っているのかもしれません。

帰路につきました。
中山手通~山手幹線~山麓線~山手幹線~R171を経て、16:38自宅着。


1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 禅宗福海寺~厳島神社~湊川神社

道を挟んだ所にある「禅宗福海寺」を訪問。
「大黒尊天」と門柱に書かれていた。

20180106MinatoS0169s.jpg 『平清盛公遺愛の時雨の松・石碑 平清盛公遺愛の時雨の松は、神戸市兵庫区三川口町にありました。青葉から玉露を垂らし、霊験あらたかであったといいます。
同所に在った兵庫最初の庚申堂と共に平清盛公の信仰を受けておりましたが、大東亜戦争の火災で枯れてしまい、残っていた切り株も阪神大震災で無くなってしまいました。現在は石碑のみが福海寺にあります。この石碑は明治35年に福海寺第24世大海元梁禅師が建立され、自ら題字も書かれています』

ここも電気業者が入り、沢山の電球を下げていた。
20180106MinatoS0172s.jpg 「義高稲荷大明神」が摂社としてあった。
義高・・・といえば木曽義仲の息子・義高が思い浮かびます。
木曽義仲は、宣旨を受け各地に蜂起した源氏の信州木曽発の将軍で、源頼朝とは従兄弟同士。
義仲が北陸経由で京に攻め上り、平家を西国に落とした。
しかし後白河法皇と上手く行かず、頼朝の弟・義経軍に敗戦し、大津に散った。

木曽義仲の嫡男・義高は京に攻め上る前、頼朝軍と対戦した時、人質として鎌倉に幽閉されていた。
だから父とともに京に攻め上っていないと、平家物には書いてある。
でも頼朝と政子の子・大姫と恋仲になり、頼朝の父・義朝が弟である義貞の父・義兼を討ったことから始まった同族間不仲も解消するかと思われたが、再びの死闘で追討され命を落とした。
このことで大姫はふさぎ込み、亡くなってしまった。

「なぜ、神戸に義高が・・・」と歴史的興味が膨らみ、帰宅後調べたが、義高との直接の痕跡は見つけられなかったが、足利尊氏との関係を見つけた。
『建武3年(1336)、京都合戦に敗れた足利尊氏は、丹波路から播州三草より兵庫に逃亡中、新田義貞軍に追われ、福海寺の前身である「針が崎観音堂」の檀下に身を潜め一命を取り留めた。兵庫を出港し九州に落ち、西国水軍を率いて、観世音菩薩名号の帆を張った軍船で兵庫の地に再上陸、湊川合戦に勝利した。
室町幕府を開いた足利尊氏は、康永3年(1344)一命を取り留めた報恩と、彼我戦没者供養、祝国安民祈願のため、京都正伝寺より在庵圓有禅師を拝請し福海寺を開いた。「福海興国」の文字は、命拾いし兵庫から出港したことが国を興す元になったとの感謝の意。その後福海寺は、嘉吉の乱の兵火で新田義貞陣所跡の二本松(現在の兵庫駅)より現在地に移転した』

バイクに乗ると、境内でやっていたテキ屋の縄張りを、塀に沿ってやっていた。
10人ほどがゾロゾロ・・・。
テキ屋の1区画は決まっているようで、3mほどの棒を塀に当てチョークでマークし、ナンバーを振っていた。
抽選で出店場所を選ぶのだろうか?
最若手がガバンに載せた画用紙に記録していた。

20180106MinatoS0178s.jpg 14:27「厳島神社」。
『厳島神社(兵庫弁天) 治承4年(1180)、福原遷都の際、平清盛が平家一門の氏神として深く信仰している安芸国・厳島神社をこの地に勧請しました。福原京の周り7つの地に厳島神社を勧請したので、七弁天と呼ばれ、花隈・佐比江(さびえ)・西宮内・夢野・真野・渦輪(うずわ)とこの社となっています。他の弁天社が神社や寺と併祀しているのに対し、ここのみが独立していたため、渦輪にあった弁天社を合祀して存続しています』

大きくはないが風格の有る落ち着いた本殿で、境内に摂社「白萩稲荷大明神・若永稲荷大明神」があった。
「淡嶋神社」があり、謂れ板に「淡島様は医薬の祖神で、ご婦人の守り神」とあったので、お嫁さんの無事の出産を願った。

20180106MinatoS0180s.jpg 厳島神社は、宗像三神を祀るが、ここは市杵島姫命だけが祭神として謂れ板に記載されていた。
『当社は今から約800年前の治承4年(1180)、平清盛公によって建立されました。清盛公はかつて安芸守に任ぜられた時より、厳島明神を深く信仰していましたので、都を京都から福原に移した際に、厳島明神を安芸国より勧請したのです。
当社の縁起によると、清盛公が兵庫の港に築島を築こうとされた時、ある夜の夢に天女が現われ「私は安芸国厳島明神である。この海を暴風雨から守り、汝の志しを能く成就せしめんが為に来たのである。篤く信仰して必ず疑うことなかれ」とお告げになりました。清盛公は深く喜び、兵庫の港の守り神として明神を祀ることにしました。
伝・龍燈の松 かつて本殿の裏に、樹齢千年にも及ぶ老松があり、清盛公が厳島明神をおまつりする所を探していた時、この松の梢に燈火がかかるという奇瑞があったので、当地を社地に定めたと伝えられています。のち文政7年(1824)5月5日、沖から燈火が飛来し、この松にかかり煌々と輝いたので「龍燈の松」と称するようになりました。太さ1.5m・高さ3m程の枯幹が残っていましたが、戦災
により焼失しました』

R28で東進し、14:39「湊川神社」。
20180106MinatoS0199s.jpg 地下駐車場前の歩道に駐輪すると、裸像などの像が歩道に並んで設置されていました。
境内に入ると、楠木正成の菊水紋が飾られた「楠公会館」がありました。
神前結婚式などの披露宴会場などに使われるのでしょう。

ここは神戸三大神社の中のトップなので、まだ拝殿前に長い行列が出来ていました。
流石です。
神戸第一の安産祈願所なので、守護を授からなくちゃ。
ここの訪問が本日のメイン・ディッシュです。

20180106MinatoS0207s.jpg  「干支お守り」の他に「やなせたかしの十二支お守り」があった。
20180106MinatoS0208s.jpg  「福寄せ熊手大3000円~小1000円」「破魔矢1500円~鏑矢2500円~俵付鏑矢3000円」、僕は「干支戌絵馬500円」と薄ピンクの「安産守護桐箱入り1500円」を授かった。

我が家の神棚に上げようと思ったが、家内が綺麗な守護だから隣の実家の仏壇の方が汚れないから良いと言うので、仏壇に置くことになった。
実家は週一ぐらいで仏壇の掃除とお水換えするぐらいで埃が立たないから良いのだそうだ。
神棚なら毎朝晩手を合わせるので良いと思うのに・・・。
まあ、隣に家内の両親の遺影が飾ってある小さな仏壇があり、チーンの台に僕の幼児からの守り神・蛍光マリア様も置いてあるから喧嘩するかな?

20180106MinatoS0215s.jpg 絵馬掛けで、願い事を見てあれこれ思う。
「学問の神様・菊水天満神社」があった。
僕の先祖・道真公なのでもちろんお参りする。
代名詞の牛の像が参道にあったが、角や尻尾にまで御神籤が結ばれていた。
脇にもちろん東向きに遥拝所があった。

20180106MinatoS0220s.jpg 奉献の酒樽がずらりと並び、ヒガシマルとマルテンの醤油も並んでいた。
また絵馬掛けがあったので拝見。
大きな神社なので、絵馬掛けも数ヶ所にあります。

『楠木正成公募所(国史跡・嗚呼忠臣楠子の墓)・徳川光圀公銅像』を観に行きます。
数度も来ているのに、楠木正成の墓は初めてです。
『徳川光圀公は、元録4年(1691)水戸藩主を辞して西山荘に引退し、大日本史の編纂に着手され、翌年楠木正成公を景仰して「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立し、ご盛徳を天下に顕彰された。湊川神社においてそのご功績を追慕し像の建立を発願し、委員長に小倉正恒氏を戴いて昭和30年7月11日に完成したものです』

20180106MinatoS0231s.jpg 時代劇でおなじみの姿ではなく、仙人風のお姿でした。
20180106MinatoS0237s.jpg 『史跡・楠木正成公墓碑 延元元年(1336)5月25日御殉節せられた後、150年余経た元録5年(1692)12月21日徳川光圀公によって建立せられた。碑面8文字「嗚呼忠臣楠子之墓」は光圀公筆にして、碑陰に明の遺臣朱舜水の撰文を彫す』

20180106MinatoS0244s.jpg 脇門から入ったので、正門の神門の外に出てみました。
陸上部の練習なのか早く着いた高校生が10人ほど、謂れ板の前に座っていました。
僕が写真に撮ろうとすると「すいません」なんて言っていますが、問題なく写せるので「問題ないよ」と応えた。


1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 牧野富太郎植物研究所跡~会下山善光寺~長田神社~柳原蛭子神社

「牧野富太郎植物図鑑」は、母から初めてプレゼントされた図鑑でした。
母は、終戦時高等女学校生で、終戦直後焼け野が原の東京の理系大学に入学し、牧野富太郎のこの図鑑を使って勉強していました。
幼時からの毎日の本の読み聞かせで本好きになっていた僕に、大学生や研究者が使うようなこの本を買い与えました。
まだ小学生の僕は、詳細に書かれた植物の絵を見ながら、「これは何という草かな?」などと調べていました。
小学生植物図鑑などとは情報量が雲泥の差で、友達に「すげ~」と言われ自慢の本でした。

後世の大きな興味には繋がらなかったけど、南方熊楠などへの興味につながっていった。
現在の植物図鑑は多数の写真が載っているが、それが全てフリーハンドのペン書きで、その絵の素晴らしさの方に興味が行き、植物の絵・戦闘機の絵・軍艦の絵など精細画が僕の得意となった。

小学生時代は絵が得意で、学校代表として阪神大会にも出展した。
あの原点は、牧野富太郎植物図鑑に他ならない。
お世話になりました。

水仙がたくさん咲いていました。
南向き斜面だからでしょう。
我が家の水仙は、まだ数本しか咲いていません。

20180106MinatoS0083s.jpg 13:15「会下山善光寺」。
「聖徳太子堂」がある。
墓地に並んだ墓石はそれほど古いものはなさそう。
20180106MinatoS0091s.jpg 五輪塔を中心に「至誠報国 陸軍大将・荒木貞夫」と彫られた石柱が立っていた。
荒木貞夫は、2.26事件などを起こした陸軍青年将校の思想的支柱の方です。
大東亜戦争終戦後、A級戦犯終身刑に処されました。
神戸にゆかりの方かと調べましたが、接点はなさそうです。

A級戦犯で死刑になった元首相・陸軍大将であった東条英機さんのお子さんが、東京裁判の無効・名誉回復を願って声を上げ、最近東京裁判自体を否定する意見が強くなっている。
僕もこの裁判自体は、戦勝国による日本再生を阻むための国際法に反するリンチだと思うが、戦犯として裁かれた方々の名誉回復を求めなくても良いように思う。

日本の軍人は、遠い昔の武士の時代から、勝敗は時の運として、愛する家族・集落・国のために戦い散っていった。
将たるもの勝てば利を得るが、負ければ潔く腹を切り敗戦を認め、敗残兵の命を保つことを願った。
そして子孫に生き様を見せ、潔い思想を伝えていった。

法律的には無念だったろう戦犯に問われ罪を負った方々とて同じで、自らの命は敗戦したこと、多くの将兵を死なせてしまった自責の念から、罪を背負って刑に臨んだように思う。
それで良いのではないかと思う。
そんな潔さが日本人の心に響くように思う。

戦勝国から大罪人とされたA級戦犯の方でも、日本各地にその人柄を偲び、その人格・行動力を称える碑が立っている。
それを見た僕のような後世の者が、何かを感じれば良いと思う。

戦後、密かに靖国神社に合祀された。
それを支持する考えを否定するわけではないし、そういう考え方があって良いように思うが、僕は違和感を感じる。
当時の世界情勢(有色人種で独立を保っていた国は日本含め数ヶ国のみ)を考えれば、あの時点で富を独り占めし、世の春を謳歌していた白人国家に対し一矢報いた勇気は素晴らしいと思うし、あの日本の行動があったから敗れはしたが、有色人種に勇気を与え、現在のように民族が独立する世界になったと思う。
でも日本国内のみに焦点を当てると、多くの国民を死なせてしまった。
終戦の時も、軍の指導者として・国の指導者として、時を無駄に使ったのではないか・・・
ならば、責任を取るのが当たり前で、自分の指示で命を亡くした多くの国民が眠る神社に、同じように祀られるのに違和感を感じる。

大切な息子を失い、生きる張りを失った親しいおばあさんがいた。
A級戦犯が合祀されてから、「もうあそこには参らない。息子を戦場に送った人に手を合わしたくない。骨も帰ってきてないけど、ちゃんとした墓地があるからいい」と憤慨していた。
親になり、そのおばあさんの気持ちが僕にもわかるようになった。
天皇陛下もあれ以降参らなくなった。
僕は天皇陛下の考えに共感します。

朱色に塗られた鐘楼が目立っている。
20180106MinatoS0098s.jpg 鐘の彫刻には天女が舞う姿。
20180106MinatoS0095s.jpg 横には「十方講」と刻まれた玉垣に囲まれた大きめの不動明王像が立っており、その前には護摩行が行われた跡・・・修験道寺院なのかな?

20180106MinatoS0101s.jpg 目指す「平業盛の塚」がありました。
『一ノ谷の戦いで、業盛は兄と共に山ノ手の陣を守っていましたが、義経方の多田行綱勢により、味方は大混乱に陥り大敗します。兄や郎党らにはぐれた業盛は、緋縅(ひおどし)の鎧を着て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬に乗り、海上の船に向かって逃れる途中、ただ一騎で渚に佇んでいたところに常陸国(茨城県)の住人泥屋(ひじや)四郎吉安・五郎の兄弟が、業盛めがけて突進してきました。
兄の泥屋(土屋)四郎に組みかかられ、馬から落ちて上になり下になりして激しくもみ合ううちに、古井戸に落ちてしまい、上になった業盛が四郎の首を?こうとした時、弟の五郎が現れ兄を討たせまいと業盛の兜のしころにとりついて引き離そうとします。
17才とはいえ、大力の業盛が頭を力一杯ふると、甲の緒が切れ五郎は甲を持ったまま二ひろ(3・6m)も投げ飛ばされてしまいました。しかし五郎はこれにひるまず、すぐに起き上がり業盛の首を取り、兄を井戸から引き上げました。
業盛の怪力に人々は感心し、その死を惜しまぬ者はいませんでした』

20180106MinatoS0108s.jpg 南下して中山手通を西進し、13:38「長田神社」。
神戸三大神社の1つです。
あとの2つは「生田神社」「湊川神社」。
久々に長田神社に来ました。

境内に入り目に飛び込んできたのは、高校生ぐらいの若い女の子3人が私服でコマ回しと皿まわしをやっていたことです。
コマを高く放り投げ紐でそれをキャッチする、細く長い竹先で皿をクルクル回すなどお正月のTV番組でよく見る芸です。
芸人の卵なのかな?
いずれにしても新年らしくお目出度い。

絵馬殿を覗き、本殿に向かい神門を潜ります。
左右の神門柱に札が下がっています。
20180106MinatoS0117s.jpg 「八日 成人の日 祈願祭」「七日 昭和天皇遥拝式」。
先の天皇を遥拝する式典があることに驚きました。
日本が初めて敗戦し大きな犠牲を払った先の大戦の時の天皇なので、遥拝する方も多いだろう。
昭和天皇のご聖断により、大東亜戦争は終結した。
分裂していた内閣で、このご聖断がなければ、さらに戦争が長引き、本土決戦によりさらに多くの日米両軍の犠牲者が出ただろう。
湾岸戦争後、内戦状態が今でも続いているイラクのようにならずに、日本人としての誇りを何とか保ち、その後の高度成長を経て短期間に一流国に戻したのは、昭和天皇の功績も大きいと思う。

きっと100年後も1000年後も、歴史に大きな名を残し日本史試験の必須記憶天皇になるだろう。
御神徳は多く、百貨店のように書かれている。
今年の僕のお願いは何と言っても4人目の孫の健康とお嫁さんの安産です。
「安産腹帯」というのも書かれていました。

拝殿で手を合わせ、摂社を巡ります。
七福神周りには笹が地面から立ってる。
「熊野神社」と同じ「えべっさんバージョン」です。

20180106MinatoS0127s.jpg 「楠宮稲荷」は朱がいっぱい。
ここの鳥居にも笹が縄でいわえてある。
絵馬掛けで書かれた願い事を読むのが面白い。

『楠宮稲荷社の神木と赤エイの由来 御神木「楠」は瀬戸内に生息する赤エイが苅藻川を遡り化身したと伝えられ、以来常食であった美味な赤エイを断って願を掛けると願いが適うと信仰されている。古来、病気平癒、心願成就のあらたかな霊験の中でも特に痔病に格別のお蔭があり、広く崇敬されている。御新顛には赤エイの絵馬に性別・千支・年齢を書いてお供えし、お礼詣リにも絵馬を奉納下さい』

まさか「痔疾に効く」が出て来るとは思いませんでした。
20180106MinatoS0133s.jpg 本殿を巡る感じで回廊があり、絵馬掛けがありました。
20180106MinatoS0134s.jpg 絵馬は赤エイで、年齢と名前が書かれた絵馬がずらりと掛けられていました。
「この方は痔でお悩みだったのか・・・」なんて思っちゃいました。
商売繁盛・収穫の神様であるお稲荷さんも、病気治療にまで進出して来たんだ。

長田神社本殿裏の絵馬掛けには、一般的な五角形絵馬と奴凧型の合格絵馬が下がっていました。
「天照皇大御神神社」があり、おみくじ掛けには沢山のおみくじが・・・。
「月読社」「松尾社」。

20180106MinatoS0152s.jpg 14:06「柳原蛭子神社」。
『福の神として、古くから崇敬されている蛭子神社(神戸柳原のえべっさん)は、人口150万人の神戸市の中で、歴史と伝統のある兵庫の地に、えびすの杜として鎮座しています。その御鎮座の年代は詳らかではありませんが、社記によりますと、往古、蛭子命天磐櫞船に乗りて淡海島より津国に遷座し、一社が創建されました。
その昔、毎年8月22日には、西宮神社の兵庫までの神幸の渡御が行われました。
往路は、海上20kmを兵庫津和田岬まで渡御され、還幸は陸路西宮内町を通って西宮へ還られました。当時の社地は西宮内町にあり、神輿の行在所となっていました。後に現在の柳原の地に遷座し一社として創建され、光格天皇の御代には奉幣御勅使の代参もあり、その御神徳は日増しに高く、福徳守護の神として、御神威年と共に津々浦々に拡がっています。
御祭神:蛭子大神・大物主大神
柳原の歴史 兵庫津が史上に現れたのは、平清盛の大輪田修築の頃と思われます。
その兵庫津は、元録地図によると東は湊町から須佐・入江に達し、都賀の堤(兵庫の外郭)で一郭をなしていました。その兵庫の西の端にある柳原の名は、往古この地に柳の大樹があり、その名が由来とされています。また、現在の御本殿裏附近に柳原総門があり、それは、兵庫の棒鼻として兵庫津の西国往還の出入り口、宿場として繁栄しました。そして、天明7年頃(1788)、柳原には72軒の戸数があり、その繁栄は明治維新まで続きました。
現今の神戸の中心地は、三宮界隈に集中していますが、神戸発生の地である兵庫は、明治以後急速に発展し、大正を経て昭和20年頃までは、商工の中心地として大いに繁栄しました』

1/9~10の年3日で1年間稼ぐと言われる蛭子神社は、本番に備えて電気の配線工事を業者が入ってしていました。20180106MinatoS0163s.jpg 
社務所には「福笹3000円」と書かれていました。
20180106MinatoS0162s.jpg 「お神酒拝裁所 神饌初穂料(お志1000円より)」の屋台も準備されており、その前に空の大樽が置いてありました。


1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 平野神社~願成寺~牧野富太郎植物研究所跡

神戸界隈の平清盛ゆかりの地巡りの積み残しを巡りました。
今まで3回バイクで巡りましたが、浮気心が出て予定外の訪問を入れた結果時間切れ積み残しが続いていました。
今回こそコンプリートしましょう。

11:13自宅出発。
R171~山手幹線を西進し、12:00「新神戸駅」近くの「布引交差点」。
20180106MinatoS0002s.jpg 「神戸布引ロープウェイ」が再度山の方に登っています。
20180106MinatoS0003s.jpg 特徴的な外観で遠くからでも新神戸駅のランドマークになる「ANAクラウンプラザ神戸ホテル」が見えます。
素敵なスッキリした天をつくデザインです。

生田川を隔てて対岸に超高層マンションが建っています。
20180106MinatoS0004s.jpg 「ジークレフ新神戸タワー」だそうです。
高所が怖い僕にはとても住めないが、景色は最高でしょう。
20180106MinatoS0006s.jpg 十字架を持った高い塔があるキリスト教会もある。
生田川公園でトイレを拝借しました。

道なりに「神戸駅」方面に南下し、加納町交差点を右折して中山手通を西進。
右折して山の手を上がっていくと、「相楽園」の西塀に沿う道でした。
久しぶりなので相楽園に寄り道しようかとの誘惑が頭を過りましたが、誘惑に勝って北に上り、どん詰まりを左折して「山麓線」を西進します。

R428を「平野交差点」で横切り、ちょっと迷ったけど「夢野町2交差点」を右折し、12:28「熊野神社」。
『平清盛が福原(神戸市)遷都に際し、後白河法皇の崇敬深い紀州熊野権現を皇城鎮護神として東向きに奉鎮した。以来当夢野町住民は産土神として崇敬した。権現とは、仏教渡来以来、崇高かつ御神徳の高い神々の称号。 祭神:伊弉諾尊・伊弉冉命 神徳:事業創設・殖産興業・縁結び・福徳延命 燈籠:仏教伝来とともに、仏前の燃燈供養の具として渡来。神前にみあかしを上げるという自分の真心を献げる具体的表現法。近世は一対で献上されるが、古くは単独で一基奉献されていた 狛(高麗)犬:中国朝鮮より渡来。中国では瑞獣として珍重され、犬というより獅子。魔除けの意味で神社・仏閣の守護に任ずるようになった』

20180106MinatoS0014s.jpg 石畳参道脇におみくじが結ばれた笹が立ち賑やかです。
社務所には十二支の干支守護が並べられていた。
手水は丸い球から流れ出ており珍しい。
慰霊殿の神明鳥居の両足にも竹が結ばれている。
玉垣の内側に「力石」が置かれている。
力自慢の神事でもあるのかな?

摂社の「大神宮社」(祭神:天照座皇大御神)、荒木稲荷大神、金比羅神社(祭神:大物主神)、古殿神社(祭神:額田大中彦命)、牛神社(祭神:豊受姫大神)を巡り、最後に熊野神社に参りました。

南下し、12:48「願成寺」。
『天平年間(729年~749年)、行基が烏原村に観世音を安置し、観音寺と号した。平安後期、衰退していたのを、法然上人の弟子住蓮坊が中興して無量寿仏を安置し、願成寺と称した。住蓮は東大寺の実遍の子で、のち鳥羽上皇の官女、松虫・鈴虫を尼にした、世に有名な承元の法難で法然は土佐へ、親鸞は越後へ配流。住連は安楽と共に近江で斬罪に処せられ、弟子たちが住蓮の首をこの寺内に葬ったといわれている。またその首を鳥がくわえて運んできたので、もと上野といったところを鳥原というようになったとも伝えている』

浄土宗寺院で、「信州善光寺分身如来霊場」の石柱が門前に立っていた。
20180106MinatoS0041s.jpg 本殿蟇股には立派な龍の彫刻が施されている。
木鼻の象の彫刻も立派です。
玉眼が入っている。

墓地の奥に「平通盛・小宰相局塔・比翼塚」があった。
平家物語で、涙を誘うシーンの主人公です。
一の谷合戦で、源義経の奇襲により、多勢であった平家軍は混乱に陥り、平清盛の弟教盛の嫡男・通盛は討ち死にしました。

通盛の妻の1人・小宰相は、夫の死を知り屋島へ退却する平家軍の軍船から身を投げてしまった。
その乳母であった呉葉は、2人の菩提をこの寺で弔った。
呉葉の小さな五輪塔も立っていた。

20180106MinatoS0059s.jpg 呉葉の兄・住蓮の墓石・五輪塔が、通盛と並んでいた。
というより、歴代住職の無縫塔の列に、通盛・小宰相の墓石が並んでいるとの表現の方が適切です。

源氏政権が成立し鎌倉時代に入って、後鳥羽上皇が熊野詣中、侍女・松虫と鈴虫が、法然の弟子安楽と住蓮の念仏会に参加し、出家してしまった。
上皇は激怒し、安楽・住蓮は死罪になり、法然は四国に、親鸞は越後に流罪とされた。
松虫・鈴虫の墓石も呉葉とともに歴代住職墓石の並びに残っており、浄土宗の法禍に連座した者達の集合地になっていた。

通盛は、清盛亡き後、清盛の嫡男・重盛も先に亡くなっているので、清盛の弟・経盛とともに平家中枢を担った教盛の嫡男として、源平合戦の主力の将として働いたが、武運は微笑まなかった。
一の谷合戦で通盛はじめ多くの息子を失い教盛は辛かったろう。
平家物語では、男の子の地を湧き躍らせる合戦シーン後、落ちてゆく平家が描写される時、涙を誘うシーンです。

通盛の墓を観に行きたが、これだけ多くの関係者の墓が並んでいるとは思わなかった。
大きな収穫だった。

20180106MinatoS0061s.jpg 『墓石調査にご協力下さい 墓地埋葬に関する法律のに基づき、どなたが祀られているか把握しています。お墓にカードを掛けさせておりますので、カード裏面に庫裏玄関横備え付けのマジックで、お墓を主に祀っている方の住所・氏名・連絡先を記入の上、ポストにお入れ下さい』の札が立っている。
歴史の古い由緒ある寺院なので、江戸時代以前と思われる形式の立派な墓石の多くに、カードが下がったままです。
それなりの申告期間を経て、整理されるような気がする。

20180106MinatoS0064s.jpg 12:59、「善光寺」に向かう途中の「会下山公園」で「牧野富太郎植物研究所跡」と書かれた石柱を見つけ緊急停止。
『会下山館の石柱 植物分類学者・牧野富太郎(1862~1957)がこの場所にあった植物研究所での研究活動のために、神戸滞在中宿にしていた「会下会館」の門柱。会下会館は、牧野を支援していた神戸の富豪・池永孟(いけながはじめ1891~1955)が宿舎として建設したものです。
1995年阪神淡路大震災で被害を受けるまで、会下山町2丁目にありました。地元ゆかりの2人の関係を伝えるため、左側の1本をここ、右側は松本通3丁目の川池公園に設置しました』

『この公園は、牧野富太郎植物研究所跡地を公園として整備したものです。この公園には、牧野氏が命名した植物を中心に植栽しています』

20180106MinatoS0069s.jpg 『世界的植物学者・牧野富太郎博士の研究所が、大正7年から昭和16年までこの地にあった。研究所は、南蛮美術収集家として著名な池永孟が提供したものです。
日本植物分類学の先駆者である牧野富太郎は、「ヤマトグサ」をはじめ数々の新種を発見し、独学で研究の結果66才で理学博士、90才で文化功労者となり、昭和32年96才で没した』

『正元館 明治44(1911)年、校舎改築に伴って売却されることになった「兵庫尋常高等小学校」の木造瓦茸西洋風2階建講堂が、池長孟氏の父・通氏の尽力によって当所に移築され、大正元年11月10日に落成開館され「正元館」と名付けられ、通氏はその功績によって名誉館長に任命されたが大正3年に亡くなったため、建物その他一切が孟氏にゆずられた。昭和16年に牧野氏に標本や蔵書を返した後、建物は海軍の軍刀を作る「菊水鍛刀会」にゆずられて利用されたが、戦後建物は取り除かれた。
池永孟氏の牧野富太郎植物学者への援助と「池永植物研究所」設立 世界的な植物分類学者・牧野富太郎(1862~1955)は、研究生活の早い段階から経済的困窮に陥っていた。大正5(1916)年には借金がかさみ折角集めた植物の標本を売却せざるを得なくなった。同年12月18日の大阪朝日新聞に「不遇の学者牧野氏植物標本十万点を売らん」と書かれた。池長氏は牧野氏の境遇に同情し「他人に先鞭をつけられてはならない」とすぐに援助する行動に出た。池長氏が父(池長通)から受けついでいた「正元館」(現牧野公園に在った建物)に植物の標本を引きとり、関西は勿論全国的にも存在しなかった「植物標本陳列所」の設立を企画したが、池長氏の徴兵によって志は残念ながら頓挫した』


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プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
/norimakiturbo/
から引っ越してきました。

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