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4/5・to London

アメリカ赴任中の長男から、次の赴任先がロンドンとの辞令があったとのLINE連絡がありました。

学制は、アメリカもイギリスも「6月終業(卒業)~2ヶ月夏休み~9月始業(入学)」なので、お嫁さんと3人の孫たちは、りょうくんのキンダースクール(年長)、こうちゃんのプリスクール(年少)終業後日本に帰国し1ヶ月ほど日本で過ごすそうです。

長男は7月からロンドンで働きながら、住居や車など家族の住む環境を整えるそうです。
3年前の4月のアメリカ赴任の時と同じ流れです。
あの時は次男・こうちゃんが4月に生まれたばかりで、4ヶ月新潟の実家で暮らし、長男だけが4月からアメリカ暮らしを始めました。
広い家に一人暮らしで、隣の家のパーティーに呼ばれたり、南米マチュピチュに一人旅したりしていました。
8月に仕事で帰国したタイミングで、家族を同行しアメリカに戻りました。
アメリカの家は田舎町だったので、大きくて芝生に囲まれとても環境が良かったが、今度はロンドンなのでそこまで望めないでしょう。

昨年末に、長男から「次、ロンドン赴任になりそうだ」との予定を聞いていたので、イギリスのブレグジットのニュースが気になっていました。
とっくにまとまっているはずのブレグジットが延期の連続でまだの先行きが見えず、長男在英中にイギリスの将来が決まりそうです。

お嫁さんからも、写真・ビデオ付きLINEが入りました。
日本滞在期間中、次男の新しい家を訪問し、我が家にも数日寄るそうです。
昨年6月に生まれた三男・ルーカスくんはまだ初宮参りしていないので、りょうくん・こうちゃんと同じ我が家の氏神様に参れるかもしれない。
お墓参りにも行きたいそうです。

プリスクール(幼稚園)に通い始めたこうちゃん3才は、2週目にはすっかり慣れて楽しんでいるようです。
S__19939330s.jpg朝ご飯を食べ終わると率先してジャケットを着て、リュックを背負ってスタンバイしているそうです。
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そりゃ、お兄ちゃんがキンダースクールに出かけた後、お母さんと0才の弟との時間が始まり、散歩や図書館でのイベントや買い物より、日本人ではないけれど同世代の子が集まっているプリスクールの方が楽しいに決まっています。

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性格的にすぐ慣れると思ってたけど、スクール生活に慣れてくれて良かったです。
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人は集団の中で育つから、これは人生の大きな一歩です。

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こうちゃんが、三輪キックボードデビューしていました。
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りょうくん6才が、二輪キックボードに昇格したので、三輪がお下がりしました。
ビデオで片足上げて上手に乗りこなしています。
とても安定しています。
足も同年代の子の中ですごく速く、ボール投げも上手で運動神経抜群のようです。
でも性格は相変わらずおっとり型で、いつも全然泣かないそうです。

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ビデオでも走っている間に靴が脱げて転んでいましたが、ルーカスくんを抱っこしている長男に「大丈夫?」と聞かれても「膝が痛い」と控えめに言うだけでした。
我慢強い子のようです。

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りょうくん6才とキンダースクールの女の子達との写真がありました。
クラスの中で女の子に一番人気のようで、これも大きな武器です。
イケメンだし、長男同様よく喋るリーダータイプなので人気があるのだと思います。
それに加え、僕のように何となく女の子のいる所にポジション取りするからでしょう。

息子2人も僕に似て、可愛い美人さんが好きです。
息子たちのGFさんはいつも可愛く、お嫁さんたちも美人さんで、親の僕が彼女たちと話すのが嬉しくて仕方ありません。
孫たちも、美人さんを連れてくるといいな。

3/31・安産祈願ドライブ 生身天満宮~カフェ「MIYABI」

r19に乗り帰路へ。
道の駅「京都新光悦村」横を走り、京都縦貫道くぐる。
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枝道に入り、R9を渡って、14:39「生身天満宮」。
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梅と枝垂れ桜が一緒に咲いていました。
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絵馬殿に絵馬が沢山下がっています。

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弁天さんがありました。
『厳島神社(弁天さん) 御祭神:狭依姫命(一杵島姫命) 建立:承和12年(845)
生身天満宮より古くから、当地の地主神として祭祀されていました。宮寺福量寺僧侶瑞全による「弁財天縁起写」が現存。天女のご真言通り、竹生島より尊像をお迎えし、お祀りしたとあります。
ご神徳は、水神・勝運・開運招福・芸能・女性守護と多大。女の子がお詣りすると美人になる(美人祈願)と伝わります。
例祭(弁天祭り)は、8月1日夕刻斎行。万灯会を開催、地元小桜会様にょり露店も出され賑わいます。60年毎に式年祭を斎行します。前回平成元年執行の際には、社殿が修復整備されました』
孫・すみれちゃんのますますの器量良しを願って、しっかりお参りしました。

『伊勢神宮遥拝所(正面)大神宮 御祭神:天照大御神・豊受大御神
天照大御神は、皇室の御祖神であり、私達の総氏神でもあります。豊受大御神は、お米をはじめ衣食住の恵みをお与え下さる神様です。共に我が国に平和と繁栄をもたらして下さいます。
大神宮は、神社には滅多にない西向きに座しています。これは、神宮を遥拝するため。ここに参拝すると、遥か伊勢の神宮に向かってお詣りしていることとなります。平成25年第62回式年遷宮の折、当大神宮においても覆屋根改修事業を行いました。皆様に深謝御礼申し上げます』

『京都府登録文化財(右階段上) 秋葉愛宕神社 御祭神:秋葉神社(静岡)火之迦具土大神・愛宕神社(京都)愛宕大権現 建立:宝永6年(1709)
かつて、この境内が火災に遭った時、その火がこの社の前で止まって消えたと伝わるご神威あらたかな神様です。
例祭は、生身天満宮秋季例祭前日に斎行。秋祭り限定で、火の幸を恵み悪火を鎮める「火災除御神札」を授与します。
建物は、福量寺仏堂の旧聖天堂です。福量寺は、生身天満宮宮寺の真言宗寺院・延命院のお寺です。獏の彫刻があり、虹梁には若葉や梅が描かれています』

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拝殿でお参りしました。
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白と黄色のスイセンが簡易な花瓶に生けてありました。
パンフレットが多数置いてあります。
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お約束の牛の像がありました。

『使いの牛 御祭神・菅原道真公の使者である使いの牛。古くより、傷や病気の箇所を擦ると回復するとの言い伝えがあります。また頭を撫でると知恵を授かり賢くなるとも。自分の頭や体と交互に優しく触ります。
台座には、安政7年(1860)奉納の文字と本町若中15軒の屋号名前が彫られています。長い間、願い人に安らぎを与えてきたのです。大神様のご加護を届きますよう静かに、見守って下さいます』

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お若い綺麗な巫女さんがいる社務所は、絵馬や御守が綺麗に並べられ、見やすいように壁にも説明付きで飾られていました。
境内で、男女2人が焚き火を囲んで話していました。
神職の女性の同級生男子がやって来た感じの会話で、とても打ち解けていました。
久しぶりに会ったようで、お互いの近況を報告していました。
男性は業界の厳しさを話し、神職さんは365日24Hオープンの神社ゆえに日曜日が休めず、スポーツをする子供達の試合に付き添えない残念さを話していました。

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それぞれの人生を歩み、互いに伴侶を持ち幸せに暮らしているのがわかりました。
「ありがとうね」「久しぶりに会えて良かったよ」で話が終わり、僕が御守を選んでいる横に来て、目的の御守を授かり階段を下って行かれました。

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新しい命を授かった次男のお嫁さんのために「安産御守」「天晴れる」「絵馬」3点2400円で授かりました。
巫女さんは、境内図・月間社報・当社パンフレットを渡してくれました。
僕が拝殿で熱心にパンフを見ていたのか、お渡しするように言われているのか丁寧な対応で、とても気持ち良く詣れました。

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『千年の時を越える宮司武部源蔵に託された思い 日本最古の天満宮
日本三大歌舞伎「菅原伝授手習鑑」に登場する武部源蔵は、生身天満宮最初の宮司です。もう、千年以上も昔のこと。現在の宮司は、38代目。今も武部の姓を継ぎ、生身天満宮をお守りしています。「天神さん」と親しまれる天満宮は、全国に約12000社あり、菅原道真公をお祀りしています。その天満宮の中で、菅原道真公が生きておられる時からお祀りしたのは、唯一生身天満宮だけです。これが、日本最古の「生身(いきみ)天満宮」と称される由来です。
延喜元年(901)、菅原道真公は太宰府に左遷を命ぜられました。当時、京都・園部の役人であった源蔵は、菅公から8男の慶能君をかくまい育てるように頼まれました。引き受けた源蔵は、園部の地で慶能君と共に菅公の無事の帰りを待つこととなります。
源蔵は、ひそかに祠を建て、自ら彫った菅公の御木像を安置し、生祠(いきほこら)としてお祀りします。菅公と仰ぎ、日夜ご安泰を祈り崇敬の誠を尽くしました。しかしその甲斐なく2年の後、菅公は太宰府でお亡くなりになるのです。それから源蔵は、この生祠を霊廟として途絶えることなく礼拝しました。後、神社と改め「生身(いきみ)天満宮」と称し、千年の時を越えて現在に至ります。
グーグル検索1位「しごとのお守り」 TV・新聞で紹介「天晴れる」
しごとのお守り「天晴れる」は、「天まで晴れわたる」爽快な人生を送れますように願いを込めたお守りです。「天晴れる」を受けるため、全国各地からの参拝が跡を絶ちません。また、手作りのとんぼ玉にちりめん製の紐を付けた、色柄形が全て違う、世界にひとつだけの「とんぼ玉合格お守り」。こちらも多くの受験生から高い人気を集めています。
試験日の朝戴くご神徳 合格梅
「合格梅」は、境内産の梅で神職が手作りしたもの。「心願成就」の祈りを込めご祈祷を行い、お祓いをしています。収穫量に左右され数量は限定ですが、合格祈願のご祈祷やお守りを受けられた方に無料で差し上げています。「上の子が「合格梅」を戴いたお陰で試験に受かったんです。ぜひ下の子の分も戴きたくて。」など、遠方からわざわざお参りされる方も多いです。「合格梅」をお渡しする際には、「試験日当日の朝に戴いて下さい」とご案内しています』

このパンフを読んで、先程の同級生さんがこの「天晴れる」を授かりに来られたのだなとピンときました。
僕も買ったし・・・

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道なりにR477に乗り、R372渡って、15:25「薮田神社」。
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『藪田神社は、和銅4年(711)に建立されたが、数度火災に遭って現在に至っている。今2社が祀られていて、正面の社は月読命又左奥には猿田彦命が祀られ、丹波4社の1つに数えられる有名な神社である。古文書によると現在の2社の他に37社も小宮があって広く亀岡・園部・篠山方面の39ヶ村が持ち帰って祀っている。昔この地を藪田の庄と云い、字を志田樋(したひ)と云っていたので志田樋神社と呼んでいたが藪田の庄の総本社であったため、後に薮田神社と呼ぶようになり現在に至っている』

旧山陰道~R477で南下します。
r106~r604~R173~R176~r13で、16:54伊丹市昆陽池北側に出来たカフェ「MIYABI」で休憩しました。
家内は「ドリップコーヒーHOT(S)250円+ふわふわ桜ロール280円」+僕は「オレンジジュース(S)350円+濃厚チョコレートケーキ430円=1310円」を美味しく頂きました。






3/31・安産祈願ドライブ 導観稲荷神社~志波加神社~成就院

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13:19出発し、r444~須知小学校前を通過し、13:25「導観稲荷神社」。
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お稲荷さんなので狛犬は「狛狐」でしたが、何故か金網で覆われていました。

『導観稲荷神社 倉稲魂命
鎮座地:京都府船井郡丹波町字須知小字岩清水20番地
祭神:本社・奥社ともに、祭神は「倉稲魂命」。俗に導観稲荷大神と称し奉り相殿に、観政稲荷大神・観月稲荷大神を祭祀している。
例祭:本社5月3日 奥社9月10日
由緒:創立の由来及び年代は、定かでないが、古来茶ノ木山中腹の岩窟に跨りたる所に社殿を建立奉斎していた。弘化年間本殿拝殿兼用の社殿に改築。大正9年其の筋の許可を経て現在の地に、境内地を整備し、本殿拝殿を新築し大正10年5月5日遷座祭を行った。昭和56年に御遷座60年祭を執行し、社務所の改築境内の整備大小鳥居の建替えを行った。其の後中小鳥居の建替えは、平成3年及び平成15年に行われ現在に至っている。末社には、八坂神社・天満宮・大神宮・秋葉宮・金比羅宮等。
御神徳:本社は穀物養蚕に御神威顕箸なりと農民の崇敬篤く、山腹に鎮座の頃は龍り舎を建て遠隔地の崇敬者が徹宵祈願したと言う。又、古伝記に寛政(1780年)頃、力士須知山導観が他の力士7人と共に江戸の土俵で大勝し、篠山藩主・青山下野守より恩賞を与えられた。この力士達は皆稲荷を信仰し、その神社の名をつけていたので藩主は自ら諸社を巡拝し、御神徳を仰いで幟一流を献納した。爾来導観稲荷を信仰すれば何事にも必勝すると伝える。
祈願:安全息災・五穀豊穣・商売繁盛・必勝祈願・招福厄除・学業成就の神として信仰が深い。
大杉:境内に樹齢400年といわれる杉の巨木があり、ひとつの幹より3本立ち並び「京都200選」に選定されている。この杉の本よりこんこんと湧き出る水は「導観さんの岩清水」として、船井6選の筆頭格に挙げられ、多くの人々に重宝がられ、今もかなり遠方からこの水を汲みに来る人か多い。
奥の宮:奥社は、参道口から山上へ1000m(約20分)樹齢150年の杉のある茶の木山の中腹に祭られてある』

車に戻り出発。
京都縦貫道をくぐる時、その下に謂れ板が立っていた。
元町長の居宅跡だそうです。
r444を東進し、R9を渡ってr80で東進を続けます。

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枝道に入り、13:54「志波加神社」。
『式内社 志波加神社
由緒:飛鳥末期・慶雲2年(705)創杞と伝わります。平安中期・延長5年(927)に完成した延喜式「行政細則書」全50巻の内2巻を神名帳と称され、当時全国の2861社が延喜式内社として登載されました。現在、旧船井郡内では10社が式内社として祀られています。
御祭神:月読命(つきよみのみこと) 天照大御神の弟神で五穀豊穣を司る農耕の神様です。
建築様式:本殿は一間社流造、拝殿は入母屋造です。境内社は、本殿右に春日神社・天照大神宮・八幡神社。左に多賀神社・住吉神社・稲荷神社・天満宮。東側に金毘羅神社・諏訪神社。西北斜面に天川権現を祀っています。
石段下燈罷・鳥居:灯籠一対は、江戸初期・寛文12年(1672)石垣整備に伴い奉納されたものです。鳥居は江戸中期・享保4年(1719)2月氏子中建立の明神鳥居です。
御神木大杉:樹高約35m、幹部が石垣裏にあり2本の幹が伸び上がっています。
「縁結びの相生杉」と崇められ、樹齢は凡そ700年以上と推定しています。
京都府暫定登録有形文化財:平成29年12月27日付告示で本殿・拝殿・境内社天満宮が登録され、平成30年度京都府・南丹市補助金及び氏子・崇敬者各位の御浄財により境内7社修繕が完成しました。今後とも保存・防災等に努め貴重な文化財を護持します』

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『1300有余年に亘り御霊鎮まる志波加神社の由緒
志波加神社の歴史:古代には現在の西組奥、ヘナミ谷の東「宮ケ谷」にあったとされ、その後、清水寺跡辺りで祀られたとの説があります。今でも森ヶ坪など、2~3ヶ所お旅所跡と言われる地名が残っています。この清水寺跡には鎌倉時代作の宝篋印塔が現存しています。清水寺は江戸中期(延享2年1745)創建であることから、その以前の古代から神仏習合の信仰地であったことが伺えます。
創祀は、飛鳥(あすか)時代末期・慶雲(けいうん)2年(705)創祀の貴重な存在です。現在地への遷宮時期は文献がないため不詳です。今から1100余年前の平安中期・延喜(えんぎ)13年(913)醍醐天皇御代に延喜式(行政規則書)50巻が編纂されました。その内2巻が神名帳(じんみょうちょう)です。全国に8万数社ある中で2861社を式内社とされ、旧船井郡で10社、日古町では多治神杜と2社が延喜式に登載された貴重な神社です。
寛保(かんぽう)3年(1743)9月、杜殿再建の際、棟札(むなふだ)に延喜式内社志波加神社と明記されていました。文政11年(1828)の宝庫焼失し文献が焼失しましたが、明治4年(1871)の太政官布告による全国神社調査により、明治6年(1863)6月、村社と認められ、明治10年(1677)6月、式内社の認証書が府知事から下附(交付)されました。
社名の志波加は、アイヌ語で志はまこと、波加は水の意味で、谷々から湧き出る清水に「まことの水」に感謝する意味です。平安時代に訛(なま)って志和賀の村名とされたようです。古文書「丹波の荘園」154頁、室町時代初期・暦応(れきおう)2年(1339)、志和賀村地頭職は足利尊氏が寄進したとあります。
今日まで1300有余年に亘り、先祖伝来によって悠久の土地が守られてきました。
お社に御霊が鎮まり氏子・崇敬者を温かく加護しています。
鎮座地:京都府南丹市日吉町志和賀宮ノ岡50番地
社格:式内社(村杜)志波加神社
祭神:月読命(つきよみのみこと) 奈良時代初期・和佩5年(712)編纂の我が国最古の歴史書・古典「占事記」に出てくる神さま伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から逃げ帰り、筑紫の口向の橘の阿波岐原の水中で禊祓(みそぎはらえ)で左の御目を洗ったとき生まれた神が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、右の御目を洗った時に生まれた神が月読命です。次に御鼻を洗りた時に生まれた神が、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)です。月読命は、字義のとおり月齢を読む暦神で、五穀豊穣を司る農神です。
京都府暫登録有形文化財の登録:平成30年1月15日、本殿・拝殿・境内社天満宮が、京都府暫定登録文化財として登録されました。
祭典:1月元始祭、3月祈年祭、6月早苗・大祓祭、10月大祭、11月新嘗祭、12月大祓祭、随時祈祷(初宮参りなど)』

r80に戻り、JR山陰本線を渡りr50の乗りました。
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14:12「成就院」。
塔頭が2寺建っていた。
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『真言宗神明山平尾寺は、不動尊を本尊とし東寺の末寺として、万寿元年丹波国上世木村、現在の日吉町字天若小字中島に、村が一望できる高台に建立され966年余りその信仰を集めてきた。日吉ダム建設に伴い、天若地域が水没移転することこなり、昭和63年7月ここ殿田・日ノ谷墓園の一郭に遷座したものである』。
成就院の塔頭ではなく、移転してきた一寺でした。


3/31・安産祈願ドライブ 九手神社~何鹿神社

前置きが長くなったが、8時に階下に降りると、家内はすでに着替えていた。
「おはよう」の後の言葉が「たーくん良かったね」。
「??」、「何か良いことあったの?」。
「LINE見てないの?」「うん」「じゃあ、お楽しみに」。

朝食を食べながら頭を巡らし、「社長になった」より当たりそうな「子供が出来たの?」と聞くと「当たり~」。
「まだ6mmやけど、心臓の音がちゃんと聞こえたんだって」。
「予定日、いつだと思う?」「11月13日」「ブブー11/21だって」。
11/13は僕の誕生日です。
「僕がそれまでに死んだら、11/13に生まれてくるから、彼は僕の生まれ変わりだと思って」と家内に伝えておいた。
朝から嬉しい知らせで、テンション上がりまくりです。
無事出産を願って、安産祈願巡りしなきゃ。

また京都の松尾大社摂社「月読神社」に行かなきゃ。
神功皇后が三韓征伐の時、応神天皇が出産するのを遅らせるために腹にくくった石がある。
その周りに社務所から授かる石に名前と願いを書き奉納すると願いが叶う。
安産の神社です。
すみれちゃんの時祈願したので、同じことをしに行こう。

即効で身だしなみを整え着替え家内を見ると、お化粧の仕上げや髪の手入れをやっており、「あと10分待って」とのこと。
8:59、給油しにGSへ向かい、タイヤに空気も入れてきました。

9:25家内を乗せて出発しました。
風が強いですが、数日前に咲き出したソメイヨシノはまだ大丈夫でしょう。
花見ドライブになればいいな。

長尾山トンネルで10℃でした。
寒の戻りってやつで寒いです。
r325~r33~r319~r12のルートで、10:07霊園着。
お彼岸に家内の実家のお墓参りしたので、今回は我が家の方です。
僕は数日前に参ったけど、家内も報告に参りたいそうです。
そう、次男の第二子懐妊報告です。
子孫が生まれることほどの人生の喜びはないでしょう。

10:17お墓を出発し、r12を北上し、西峠~「城東トンネル」を抜け篠山盆地へ下ります。
西峠は9℃でした。
R372交差点手前の「日置東」で右折し、R372を渡ってr543。
「桜酒造」横を通過し、r702に乗って東進。
家内が「お腹が空いた」と言うので「ハートピアセンター」に立ち寄るが、パンの種類も少なく気に入って無さそう。
「コンビニも近くいなるよ、そっちに行こうか?」「うん」、と言うことで何も買わずに出発。

R173との交差点にある「ミニストップ」で買い物しました。
11:14、「ミニストップ」を出発し、R173を北上します。
「篠山川」沿いの土手の桜並木が続いています。
残念ながら、まだ蕾で素敵な眺めには至っていません。
次の週の篠山は、最高でしょう。

「道の駅・瑞穂の里さらびき」横を通過し、右折してR9へ。
11:34「九手神社」。
横を山に向かって走る道に、「子安権現・不動明王 参道」の石柱が立っていました。
バイクで僕一人なら、奥に進んでいきたい。
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鎮守の大杉が見事です。
『九手神社の由緒 鎮座地:丹波町字豊田小字九手125番地 祭神:大山祇命 例祭:10月17日
山城国・松尾大社より勧請、長元2年9月21日社殿造営。このときの棟札は栗材に墨あと鮮やかに書かれており、今に保存されている。明応7年3月3日再建。天正10年8月17日、松尾大社の神輿を受納した。御室御所から安政4年3月九手大明神の鳥居額を御染筆お納めになり、同5月菊御紋章付燈1対を御寄付になった。
明治6年、村社に列せられたことがある。大正10年4月30日、文部省告示第352号を以って古社寺保存法第4条により、特別保護建造物の資格あるものと認められ、昭和25年8月29日を以って文化財保護法第115条により重要文化財に指定され、昭和61年1月22日文部省告示第4号により、棟札2枚追加指定された。昭和10年4月本殿解体大修理が行われ、遷座祭及び奉祝祭を奉仕した。これが現在の社殿である。
当神社の南約4町に旧山陰街道があり、この街道筋に古昔の九手大明神一の鳥居跡がある。この辺を小字烏居野という。毎年7社の神輿が集合したと伝えられる。
中納言・大江匡房の詠進歌に、「たころにそ色は見えけり朝日影 匂へる梅は紅の里」とある』

R9~r444で、11:52「何鹿(いつしか)神社」。
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『鎮座地:京都府船井郡丹波町曽根小字竿代29番地 祭神:大山祇命 山の守護・野の守護・田畑の作り物延命
長寿・産業発展の守り神 御神徳:品陀別命(健康・厄除け・家内安全の守り神)・彦狭知命(建築・技能・芸能の守り神)
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年中行事:歳旦祭1月1日。元始祭。交通安全祈願祭1月3日。祈年祭。新入学児童修学祈願祭3月中旬。春季例祭(誕生祭)4月26日。さなぶり祭。大祓式6月下旬。
秋季例祭10月17日。新嘗祭。七五三詣り11月下旬。大祓式12月下旬。
氏子:曽根・森・安井・塩田谷・院内・幸野・144戸
境内神社:春日神社・大原神社。 境内地2325.71平方メートル
由緒その他:天武12年すでに社があってと伝えられ、大宝2年(702)から出石鹿部神社、正和4年(1315)から何鹿神社と呼称している。
永禄12年(1569)再建、弘化5年(1848)再建。
貞和5年(1349)に書かれたと認められる大般若経が、明治6年(1873) まで社内に存在していた。天正の頃(1573~1591)まで中丹波山内荘7社の神輿が当社に集まり祭礼式を執行した。
本社は山内の荘の一の宮とされ、昔から荘内の人々が尊崇し、神輿の存在中は例祭日に右7社の神輿をかついできて、御旅祭礼があったと伝えられる。
平成11年5月12日、不審火により全焼した本殿は弘化五年二月再建のもので、三間社流造桧皮葺(50平方メートル)軒唐破風の向拝を一間に造る形式、端正な中に柔らかな味を漂わせ江戸末期の特徴をよく現した建物で、その上に覆屋銅板葺(82平方メートル)があった。
現在の社殿は、(中略)平成13年10月完成。(中略)その規模形式は三間社流造銅板葺神饌所を併設し約60平方メートルである』

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r444から枝道に入り、11:57廃校になった「須知小学校」。
r444経由で、12:20京都縦貫道SA「道の駅・京丹波味夢の里」。
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催し物テント下で、BMW認定中古車販売をしていた。
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予告編で見たことのある映画のロケ地だったようです。
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歩いて回れる近隣の観光地案内板がありました。
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この手の看板は、可愛くていいな。
家内に横に立つようお願いするが、この看板と一緒はダメだって・・・
同じように可愛いのに・・・
昼食にしました。




3/31・カズオ・イシグロ

家内もお休みなので、お墓参りがてら僕の趣味の寺社巡りドライブに行くことにしていました。
3時台に目を覚ましたけど、二度寝して次目覚めたのは何と8時です。
僕にしてはとんでもない寝坊ですが、これには理由があります。

昨夜「NHK土曜ドラマ」を最後まで見てしまったからです。
カズオ・イシグロ原作「浮世の画家」。
夕食を食べながら見ていたら始まっただけなんだけど、原作者カズオ・イシグロを見て、「おっ、ノーベル文学賞の方だ」と、お風呂を先延ばしして、少し見てみる気になりました。

大東亜戦争を鼓舞するような勇ましい絵を描いていた画家の生涯を描いた作品です。
戦後すぐ、まだGHQ統制下の日本で、自ら画家の仕事から身を引いている主人公と、嫁いだ長女と孫がやってきて、結婚適齢期を迎えた次女との生活の場面から始まる。

孫は、「お父さんから絵の世界から身を引かざる得なかったお爺ちゃんの絵が見たい」とせがまれるが、「何処かにあるよ」と曖昧な答えをする。
弟子たちは、保守思想を持った教師・政治家・公務員が次々に公職を追われ、反体制派だった者がそれに入れ替わって行く時代に、主人公との関わりを隠し断とうとする。
次女の縁談も、そんなこんなで頓挫してしまう。

次の縁談は、知り合いの画壇評論家の息子との縁。
これを壊したくなく、両家の顔合わせの席で、自らの画風が誤りだったと頭を下げる主人公に対し、評論家一家は縁談相手の弟を除いて、「自らを卑下しすぎだ」と擁護する。

この作品に引き込まれ、最後まで見てしまった。
僕以上に早寝早起きの家内まで、それに付き合ってくれた。
家内の父親は、職業軍人で中国戦線で戦った元将校です。
自分の部隊に自らの名前が付いた播州では有名な部隊を率いていた。
勇猛果敢で戦歴豊富ゆえ、戦後戦犯に問われても不思議ではなかった方です。
シベリア抑留を経て数年後の帰国となったことで、東京裁判は終わっており難を逃れたのかもしれない。

そんな人物の帰国を新聞で知った家内の母方のお爺さんが、「こいつは娘を託せる奴だ」と縁談を進め家内の両親は結婚した。
僕は軍人が国家の威信を背負い、存続を掛けた戦に勇敢に戦うことに何の違和感もない。
体育会で育った僕には、手強い相手に対して持つリスペクトに近い感情を抱く。
スポーツではなく国家の意思に沿った存亡を掛けた戦いゆえ、お互いに死者は出るが、それを残酷とか殺人とか思わない。
何故ならば、遠くは鎌倉時代の元寇に始まる戦いに怯んでいては、今の日本が保てなかったから。

日清戦争前だって、強力な海軍を先に整えた清国は、長崎に北洋艦隊の一部を入れて恫喝、死者まで出す横暴をした。
日本国が抗議すると、反対に多額の賠償金を迫る。
更に北洋艦隊の最新鋭戦艦6隻をもって、アメリカのペリーに習って東京湾に入り威嚇する。

これに対し危機感を持った明治政府は最新鋭艦を配備しようとするがお金がない。
そこで手を上げたのが明治天皇で、自らの資金を拠出した。
これに端を発し、日本国民の多くから寄付が集まり海軍が整えられていった。

あれがなければ、必ず清国は日本を侵略したであろう。
朝鮮半島の問題で日清戦争に発展し、返り討ちにした。
これが日本人です。

大東亜戦争で日本はアメリカ軍に敗戦したが、肌の色の違いでずっと蔑まれていた有色人種の日本人が立ち上がった功績は大きい。
日本は日露戦争で白人に勝利し、大東亜戦争でもイギリス・オランダ・フランス軍に勝利し、唯一アメリカ軍に負けただけだ。
この戦いによって、白人国家の植民地となり搾取されていた多くの有色人種国家が、自らの自信にして次々に独立して行き今の世界がある。

TVドラマの殆どが、「先の大戦は悪」「軍人は悪」「共産主義者の破壊工作を取り締まり治安を保った憲兵は悪」の思想で表現されているが、僕はそうは思わない。
戦争当事者であった父も母も、戦争に対して文句を言っているのを聞いたことがない。
首長だった爺ちゃんは、戦場に行った父を誇りに思っていた。
敗戦したが「一矢報いてくれた」と軍人さんを尊敬し、お墓参りの時はいつも、「先に戦争で命を落とされた方々に線香を上げ手を合わせてこい」と僕ら子供に促した。

当時、日本人は白人から蔑まれ、謂れのない差別を受けていた。
第一次世界大戦直後、日本は戦後の枠組みを作るベルサイユ会議で、国際連盟に「人種平等規約」(人種で差別してはいけない)を提案しました。
こんな提案が出ること自体、その時代の世界の世相がわかるし、ずっと多数決だったのに、賛成11反対5の結果を、議長国のアメリカが「重要な事柄なので、全会一致でなければ」と否決してしまった。
爺ちゃんは、日本人が白人からバカにされていたことを僕に話し、第二次世界大戦でアメリカに徹底的に痛めつけられ、原爆まで落とされた根底には、日本人を人と見ていなかった差別があったからと僕に教えてくれた。
軍人さんは、米軍の倍頑張ったが物量に負けてしまった。
負け戦だったが勇敢だった、日本を守ろうと命を落とした軍人を尊敬すべき人だと言っていた。

このカズオ・イシグロの作品には、そんな思いが流れていた。
主人公は、戦後自らの戦争絵を自らの手で焼いていた。
その時代に渦巻いた様々な人々の思いを描きながら、戦前の政府の意に沿う作品を手がけた主人公への温かな視線が漂っていた。
見ていて、とても気持ちが良かった。

これを見ながら、「何故カズオ・イシグロがノーベル文学賞に選ばれたのか?」の疑問への答えを得た。
村上春樹さんが何故かもてはやされ、日本人ノーベル文学賞最有力候補とされていますが、僕には村上さんの作品に良さを感じない。
何が言いたいのかわからず、代表作を読んだことがありますが、つまらなくて途中でさじを投げました。
思想的に反日を感じ、日本人であろうとするより世界人たろうとする姿勢を感じる。
自らのアイデンティティーをしっかり持っていないと根無し草になってしまうように感じる。

カズオ・イシグロさんは長くイギリス在住ですが、この作品を見て「日本人としてのアイデンティティーを強く持っている」と感じました。
ノーベル賞は、文学賞や平和賞に対し強い思想を感じる。
それぞれの国で、それぞれの国を強く感じさせる作家が選ばれているように思う。
僕は村上さんよりイシグロさんの作品の方が好みです。
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