8/10・「多賀大社」~「天寧寺」

20170810BiwaS142s.jpg R307を少し走り、7:51「多賀神社」
参道の駐車場に入れた、500円。

『当神社は「古事記」名が記され、「延喜式」には「多何(多賀)ノ神ノ社二座」とあり古くから鎮座していたことがわかる。社殿の造営は、古代から造替・修理が繰り返され現在に至る。江戸時代には、寛永の大造営(寛永10年から5年間)行われた。本殿・拝殿・庁屋・摂末社・本地堂・僧坊・書院・鐘楼・三重塔・日向社、故宮神社・大瀧神社・千代神社におよぶ大規模なものでした。しかし、安永2年(1773)の大火災によって、本社をはじめ諸堂社全て焼失した。その後、らだちに復興にとりかかり、翌年には書院が完成し、最小限ながら必要な建物が再建されました。文化5年(1808)には三間社流造の本格的な本殿が造られた。この本殿は、昭和の造営に際し豊郷町の白山神社に移築されて現存しています。
明治期に入り、神仏分離令により仏教的な建築物は取り除かれた。その景観は明治28年(1895)の「大日本帝国淡海多賀大社全図」に見ることができる。明治以降、建物の再建・撤去が無計画になされ、社殿配置に統一性が欠けた。そこで、大正8年(1919)明治神宮造営局技師・大江新太郎が境内を「神聖」「神厳」「清厳」「清雅」「自由区域」に分け設計した。本殿・祝詞舎・幣殿・神饌所の4棟を国費で行い、内務省技師・角南隆が総監督にあたりました。国費以外の神社直営工事は、前記の大江新太郎が設計監督となり、昭和8年「昭和の大造営事業」がついに完成しました。これが現在の社殿です。
表門から本殿まで、参道に沿って一直線上に配置された建物は巧妙に計算され、なかでも拝殿から本殿にかけて段々状に重なった桧皮葺屋根は、華麗で変化に富んでまとめられ、気品ある神々しさを醸しだしております。近代につくられた神社建築の中でも、最も優れた社殿として高く評価されています』

まだ朝早いので開いているお店は疎らですが、門前町も統一された雰囲気になっています。
20170810BiwaS149s.jpg 太鼓橋を渡って境内へ。
地図にはたくさんの社殿や摂社が書かれており広そう。

『多賀大社の「そり橋」 太閤秀吉が当社に寄せた信仰から「太閤橋」とも呼んでいるが、実際は「太鼓橋」である。築造は江戸初期寛永15年、徳川幕府の助成もあり、大僧正慈性により本殿以下諸堂の造営が行われた。その際に築造された。
例祭にはお神輿が渡る』

『夫婦桜 昭和7年「昭和の大造営」に際し、延命長寿・夫婦和合の御神徳に因み植えられた。県内屈指の早咲きのしだれ桜で、3月末に絢爛と咲き誇る』

20170810BiwaS161s.jpg 『祭神:伊邪那岐大神・伊邪那美大神 男女2柱の大神は、初めて夫婦の道を起こされ、我が国土と万物の神々、主宰神としての天照大神をお生みになった。我が国の祖神と仰がれ、古事記には既に淡海の多賀にご鎮座と記されている。
延命長寿・縁結び・厄除け霊神と仰がれ、天正天皇・俊乗坊重源・太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(信玄)の厄除け祈願など多数の社伝が伝わる。4月の多賀祭り(古例大祭)の騎馬40頭に及ぶ御神幸は天下に名高く、節分祭・お田植え祭り・万灯祭・9月古例祭・七五三なども賑わいを見せる。
室町時代以来の由緒を持つ全国各地の多賀講は有名で、近年は崇敬会に加入し神縁を結ばれる人が増加している。本社の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われる。春のしだれ桜・秋の紅葉・国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じて170万人の参拝者を数えている』

20170810BiwaS169s.jpg 整った拝殿本殿が美しく、さすが大社です。
本殿には、神職さんの多くが昇殿され、蝉しぐれのBGMをバックに祝詞を上げておられました。
朝のお勤めのようです。

20170810BiwaS175s.jpg それが終わり、皆さんが持ち場に戻ります。
20170810BiwaS166s.jpg 社務所を覗くと、「恋みくじ」がある。
絵馬掛けに掛かっていた杓文字の絵馬「合格祈願合格御礼杓子絵馬」があったので、それを授かりました。

綺麗な御朱印袋が目についたので、朝一番でどうかなと思いながら「御朱印い授かれますか?」と聞くと、OKでした。
この日一番早く御朱印を授かったかもしれません。
お盆に帰省する次男の娘すみれちゃん1才と、弟の娘・高1へのプレゼントにしましょう。
御朱印帳と袋を2セット授かりました。
初穂料は全部で3000円行かなかったので、お安いなと思いました。

近江鉄道「多賀大社前」駅~r224~r330・名神高速側道~R306を経て、8:29「天寧寺」。
20170810BiwaS185s.jpg 五百羅漢で有名なお寺だそうですが、拝観時間前でした。
『木造釈迦・十大弟子像・十六羅漢・五百羅漢像 彦根藩主11代井伊直中によって建立された曹洞宗寺院で、本堂は文化8年(1811)、仏殿(羅漢堂)は文政11年(1828)に建てられた。羅漢堂には、本尊「釈迦如来坐像」・十大弟子像・十六羅漢像・五百羅漢像527躯が安置されている。これら仏像も直中の発願により造像され、京都七条西仏所の仏師・駒井朝雲(こまいちょううん)等により制作された。全て寄木造・内刳りで玉眼がはめられ、彩色されている。羅漢像は、鎌倉時代に禅宗が伝えられて以降、仏道修行の安泰を願って造像された。五百羅漢に詣でると、必ず思慕する故人の面影を見出す事ができると言われている。当寺の五百羅漢は近世の造像ですが、527躯全てが欠けることなく今日まで残っているのは全国的にも珍しく、年記や仏師名の墨書が記されており、近世彫刻史を考える上で貴重な資料です』

20170810BiwaS187s.jpg 境内に、幕末に桜田門外の変で襲われ命を落とした幕府大老・井伊直弼公の供養五輪塔が立っている。


8/10・湖東「故宮神社」

r13を走っていると、鎮守の森が見えてきて、気にしながら走っていると、「藤堂高虎出生地跡」と書かれた看板が目に入った。
浅井氏に仕えたのが世に出る最初だったから、近江出身とは知っていましたが、甲良町出身だったのですね。

藤堂高虎は農民だったが、先祖はこの地方の小豪族だったそうだ。
浅井家に仕え、織田家~豊臣秀長に仕え大出世し、外様ながら徳川家康からの信頼篤い大名になりました。
飛鳥時代に勧請された甲良神社から来る古い地名の地で、江戸時代は藤堂家からの寄進も入り、先程の水路などが整備されたのだろう。
いずれにしても、石高の高い近江の地ゆえの豊かさから来るのでしょう。

R307に出て北上し、7:27「故宮神社」。
未舗装ですが意外に広い駐車場で、観光バスも駐車可です。
20170810BiwaS109s.jpg 地図を見て名前が珍しいので寄り道場所に選んだだけでしたが、駐車場内の案内板地図でも境内が広く期待が膨らみました。

20170810BiwaS111s.jpg 石鳥居をくぐると緑の葉が参道を覆いいい感じです。
『旧敏満寺跡 古井戸と焼石塚 天台仏教の法城として、1200年前から700年間、堂舎48余りあった敏満寺は、元亀3年(1572)織田信長に焼かれ法灯が消えた。焼け跡を天正元年(1573)故宮神社境内として整備した時、散乱していた焼石や五輪塔をこの古井戸に投げ込んだ。平成の世となり、埋没していた古井戸を掘り起こした時出た石と五輪塔
で、この塚を盛り上げた。焼けた跡の見える石や五輪塔は、敏満寺の遺物として貴重で、栄えていた当時が偲ばれる』

『故宮神社 祭神:伊邪那岐大神・伊邪那美大神・事勝国勝長挟命(ことかつくにかつながさ)
悠遠な上古より青竜山に鎮座し、寿福・延命・授子授産の神徳あり。仏教の渡来で敏満寺が創建されると、山麓に社殿が営まれ、その守護神となった。
平安の昔、女流歌人・赤染衛門は童子守護の願文を奉った。東大寺再建に当たって重源上人が参籠し延命を祈った。御光厳天皇は美濃よりの途次、御車を止めて宿泊した。元亀・天正の兵火で社殿の大半を焼失したが、徳川3代将軍家光公の篤志により寛永15年復旧を見る事ができた。江戸時代には、都よりお乳人が参詣し皇子皇女の安泰祈願が行われた』

20170810BiwaS119s.jpg 絵馬殿を見に行くと、すぐ下に名神高速道路が走っていた。
20170810BiwaS122s.jpg 「多賀SA」が近くにあった。
20170810BiwaS124s.jpg 西に琵琶湖が見え、寺社立地になりそうな場所だなと思いました。
名神高速から西は平坦な沖積地で、太古東岸の平地が狭かった頃、湖岸だったのかも
知れないなと想像した。

20170810BiwaS129s.jpg 石段を上り、本殿に参った。
20170810BiwaS134s.jpg 祭神にある「事勝国勝長挟命」を調べると、『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。
一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。

20170810BiwaS131s.jpg 海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。
ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。

『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある』

記紀に登場する神でした。
檜皮葺の綺麗な屋根が立派な本殿でした。
裏には、「大日堂」「観音堂」「故宮磐座」への道案内が出ており、地図によると旧寺院の敷地一山全てが社域となり、寺院の面影を辿れそうでした。

20170810BiwaS135s.jpg 『磐座 青龍山の頂上に大きな岩がある。大昔から磐座と呼び、龍宮を祭り、長寿・豊作・雨乞い祈願をした。この原始宗教を麓から遥拝するため社殿を造ったのが故宮である。故宮の奥宮で、多賀大社奥の院と呼んだ時代もある。頂上付近の神聖な場所を境界(いわき)と呼び一般人は立入禁止だった。「お池」で身を清め、供物を洗い、祭典の広場で春秋の祭典を行った旧跡もある。故宮磐座は、社殿信仰以前の原始宗教の姿を見せてくれる神体山である。滋賀県内でも少ない山岳信仰の聖域である』

魅力的な言葉が並んでいるが、時間がないのでパス。
沖縄本島ツーリングの時、現役の磐座信仰場があり、同じように一般人進入禁止とされていたのを思い出しました。

8/10・「苗村神社」~「甲良神社」

20170810BiwaS059s.jpg 子安像・神馬像が立っている。
20170810BiwaS061s.jpg 『重要文化財・神輿庫 桁行4間・梁間2間・切妻造りの軽快な建物で、正面及び北側面に各1ヶ所の出入口がある他は柱間のすべてを板壁とした簡素な外観である。建立は天文5年(1536)正一位の神位を受けた時、勅使の装束召替仮殿として建て、後に神輿庫に用いた。装束召替仮殿の用途は限られた期間であり、平面が出入口の他開口部がないことは、当初から神輿庫あるいは御供所などの倉庫的な再利用を企図して建てられたものと考えられる。全国的に類例の少ない遺構として貴重である』

外見的に何の変哲もない建物なのに、重文指定されており、よくわからないが学問的に貴重なようだ。
境内中央に絵馬殿があると見に行くと、これが拝殿のようだ。玉垣のうちに檜皮葺の本殿があり、手前に幣殿が建っている。
その周りの摂社も大きく整っており、寄り道にしては豪華な社殿を拝見できた。

『(重文)境内社十禅師社本殿 山王21社のうち上7社の1社十禅師の分霊社で、天台宗護法社の1つであるから、大蜜勢力のもとに苗村神社社域に勧請された社である。1間流造・檜皮葺。蟇股などの装飾を施さない古式社殿で、母屋内部は1室で、正面に弊軸板扉を設け、他の3面を板塀とする。室町時代1430年に建てられた』

20170810BiwaS063s.jpg 『国宝・西本殿 社蔵される棟札から徳治3年(1308)再建されたと考えられる。
3間社流造で、前面は一段低い床張りとし、菱格子を入れて前室を作り、更に1間の向拝を出し、檜皮葺とした形式は相対的に鎌倉時代後期の特質を表している。
殊に左右相称の透彫を施した正面2個の蟇股は美しい。殿内の厨子は小規模で簡素であるが手法が優れ、本殿と同時期の作とみられ、共に国宝となっている。社蔵される棟札は、近在に見られない古物品で、当時の修造の様子、活動人士、神事の有力担当者などが明記され、社歴を知る貴重な資料である』

『重文・境内八幡社本殿 建立年代は明らかでないが、東本殿・楼門と同時期に、境内整備に伴い建てられたと考えられ、その様式からみて室町時代1430年頃の建立と考えられる。1間流造・檜皮葺。特徴は、側面に弊軸板扉出入口を設けていることで、我が国でも数が少ない。母屋3面・向拝に美しい蟇股を飾りつけている』

社紋は、「州浜(すはま)紋」という関西には珍しい紋で、巴紋のように幾何学模様紋です。
いろんな所に見えます。
県道を渡り、苗村神社東本殿に向かいます。

20170810BiwaS076s.jpg 鳥居に「長寸神社」と浮彫りされた扁額が下がっています。
両側に石灯籠が整然と並んだ参道を行くと、小ぶりな東本殿がありました。

20170810BiwaS079s.jpg 『建立年代は、明らかでないが、向拝の蟇股の様式は、室町時代のものであり、前庭にある永享4年(1432)在銘の石灯寵は本殿の建立と関係があると考えられる。また、正徳4年(1714)には、大半の部材を取替える大修理があり、当初の形式が変えられたが、昭和33年の解体修理で、資料にもとづいて復原整備された。
正面は、格子戸であるが、少し入ったところに幣軸を廻して板縁を建て、東側面にも同様の扉口を設け、母屋の実肘木(さねひじき)を通し材とし、妻飾の扠首(さす)組頂に花肘木を組みいれるなど、西本殿傍の八幡社本殿と共通する点が多い。なお、内外陣境の腰嵌板(こしはめいた)の彫刻格狭間(こうざま)は県下に類側が多いが当時の装飾手法として見るべきものがある』

20170810BiwaS084s.jpg 参道の脇に古墳のような墳丘があるなと思っていたが、やはりそうでした。
『東苗村古墳群 重要文化財苗村神社東本殿がある鎮守の森の中にる。現在は8基の円墳が確認されているが、境内地外側にもかつて多くの古墳があったと考えられます。現存する古墳の大きさは、墳径12~18m、高さ2mほどです。古墳群の造られた時期は、6世紀後半代と考えられている』

20170810BiwaS086s.jpg r541~r14でR8に戻り、r227に入り、7:06「甲良神社」。
『主祭神:武内宿禰命 相殿:田心姫命・市杵島姫命・瑞津姫命 神紋:平四つ目』

『甲良神社権殿 甲良庄の総社。権殿はもと当社の本殿で、明治16年新本殿建築に伴って本殿脇に移動された。建物は寛永11年(1634)に建てられ、1間流造・檜皮葺。小規模ながら蟇股・頭貫木鼻(かしらぬききばな)・虹梁(こうりょう)・大瓶束(たいへいづか)など彫刻を多用し、装飾性に富んだ本殿である。近隣の甲良神社本殿(甲良町法養寺)や大滝神社本殿(多賀町富之尾)とともに、江戸前期の1間流造の好例』

20170810BiwaS089s.jpg 大きな扉が4つ並んだ倉庫がある。山車でも入っているのかな?
『甲良神社 創立は天武天皇の代に武市皇子の生母尼子姫が当地に住み、筑後の国高良大社より希世の長寿の神「武内宿禰命」を勧請された。地名もこの姫に由来する。1000年の昔より長寿の神・水利の神として信仰されてきた。元禄14年、「正一位松宮大明神」の宗源宣旨があり、明治まで「松宮大明神」または「高良大明神」と親しまれていた。明治5年「甲良神社」と改称され、明治16年本殿が造影された。社殿の彫刻などに室町期の作風を伝える旧本殿は甲良神社権殿として正和25年移築解体修理を行い、国の重要文化財指定された』

尼子姫は、筑紫宗像出身で天武天皇寝所付きの女官。
天武天皇との間に生まれた武市皇子は、天武天皇の長男で、父が先帝・天智天皇の皇子・大友皇子(弘文天皇)と政権争い「壬申の乱」した時、軍事司令官として大活躍したが、母の低い血筋ゆえ皇太子にはなれませんでした。
兄たちが亡くなったが皇太子には選ばれず、父の跡を継いだ母「持統天皇」時代、太政大臣として権勢を振るう。

尼子姫は、出身地の「高良大社」をここに勧請し、ここで余生を暮らしたようです。
出身地の宗像三女神を祀っているのにも、なるほどと思った。
天武天皇の御子を産んだので、実家から多くの家人が世話をしに、共に住んだのでしょう。

20170810BiwaS093s.jpg 荘厳で重厚感のある本殿から、明治期の建築が伝わり、今でも古さを感じない。
20170810BiwaS096s.jpg 横に檜皮葺の一回り小ぶりの権殿が建っている。
20170810BiwaS101s.jpg 時間帯も早いですが、朝の落ち着いた空気に似合うお宮です。
20170810BiwaS102s.jpg 千木が水平切り・鰹木が偶数本になっており、女神を祀っているのを表している。
境内前に高いポールが立ち、祝祭日には日の丸が揚がるのでしょう。


8/10・「苗村神社」・大神門

車に戻り、次の目的地「甲良神社」にGPSをセットする。

r32を走っていると「祇王屋敷跡」という案内板が目に入りました。
祇王は、近江出身の絶世の美女白拍子で、平清盛に寵愛され西八条邸に囲われます。
その絶頂期、そこに若い白拍子・仏御前がやってきて、祇王の取り無しで清盛に舞を見せる機会に恵まれた。

清盛は若い仏御前に心を奪われ、祇王は母と妹・妓女とともに尼になり、京・嵯峨野「祇王寺」に庵を結ぶ。
やがて、清盛の寵愛を失った仏御前が訪ねてきて、4人で慎ましく暮らした。
平家物語のトピックの1つです。
「祇王寺」は、それなりに観光客が来て、観光スポットになっていたが、屋敷跡は慰霊碑が立っているのみでした。

~r2~r48~R477。
JR東海道線を渡り、「上野神社」前を通過し、R8に乗り換えます。
「国宝・苗村神社」の案内板が見えてきました。
寄り道しましょう。
右折しr541。

周囲は大穀倉地で見通しが良く、鎮守の森を探すのも容易です。
ここかな?と目星をつけたお宮目指して枝道に入って行くと、5:58「八幡神社」だった。
国旗を掲げるポールが立っている。
石鳥居の方を見ると、鳥居前にくたびれたしめ縄が下がり、数本のくたびれた縄が下がり先に茶色く変色した葉っぱがある。

20170810BiwaS039s.jpg しめ縄中央部に茶色い葉っぱが円を書いている。
そしてその円を指すように2本の尖った木がバッテンを書いている。
しめ縄から下がりが下がるのは見たことがあるが、サークルバッテンは初めてです。
何かの呪いかと思うが、謂れ板がなく分からない。

r541に戻り先に進む。
次に見えてきた神社は「左右神社」という名だった。
寄らなかったが立派で、大穀倉地の経済力を感じる。

6:04「苗村神社」。
県道を挟んで左右にお宮がある。
駐車場に車を入れると目に飛び込むのが、茅葺きの大神門でとても目立ちます。
神門前で小さな石太鼓橋があり広い未舗装道路を渡って神門。
この道路はかつては水濠だったのかもしれません。

20170810BiwaS043s.jpg 見上げる神門は巨大で、茅葺屋根も優しく形が整えられ、これが国宝かと思ったが重文だった。
『楼門 建立年代は明らかではないが、蟇股の輪郭部や斗拱(ときょう)形式などの技法から、応永(1394~1427)頃の造営と考えられる。3間社1戸楼門入母屋造・茅葺で、この地方最大規模の和様を基調とした遺構。上層の扉や連子窓も古式を示し、軒尾垂木の先端を斜めに造り、強い反りをつけているなど禅宗様の手法も混用されている。下層は縱横に貫で組まれる他、斗?間の小壁に至るまで開放されており、中央に扉もない形式は珍しい様相といえる』

20170810BiwaS048s.jpg 屋根を支えるため、垂木が芸術的に組まれ、見上げても飽きない。
重厚感があり素晴らしい。

20170810BiwaS053s.jpg 境内に入ると、左手に池があり小島に祠がある。
「竜神池」となっていた。
弁天池かと思ったが、竜神祠のようです。

20170810BiwaS054s.jpg 『祭神:那牟羅彦神・那牟羅姫神・国狭槌尊 御祭神の那牟羅彦神・那牟羅姫神は、当地方に始めて工芸技術・産業を伝え広められた産土の神様で夫婦和合、諸願成就の神様として、古来より篤く尊崇申し上げる祖神であります。國狹槌尊は、国土を開発し、五穀の豊穣と財宝の恵みを垂れ賜い、とりわけ子守大明神と申し上げ、幼児子供をお守り下さる御神徳は広大無辺、誠に格式高き神様として、当地方三十余郷の氏子達ひとしく崇敬申し上げる御祭神であります。 相殿神:大國主神・事代主神・素盞鳴尊 福徳を授け、良縁を結び、悪疫を滅し、五穀の豊穣を守護される神様であります。
当社の御鎮座は上古に属し、平安時代の延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)に列座された長寸(なむら)神社にして、格式の高い式内社であります。社伝によれば垂仁天皇の御代に当地方を開拓された御祖をお祀りしたのが創祀とされます。
即ち当社神域に現存する古墳或いは域内外より出土する陶物は、何れも古墳時代の遺跡或いは遺品であり当時既に祖先の遺業に励んだ部民の聚住を物語っています。これ等の先人達は、先祖に対する報恩の念により祖霊を神として、当神域の東の方にお祀りしたのに創り、この祭神こそ当地方最高の祖神と心得、地名である那牟羅(なむら)と同音になる長寸(なむら)(長は最高位 寸は村の古字)の字に替えて長寸神社と申し上げました。この御社を后の世になって東本殿と申すようになりました。
その后、時代の経過と共に稲作農耕が愈々盛んとなってきました平安時代の安和2年(969)3月28日、大和國芳野金峯山に鎮まり給うた國狹槌尊(くにのさつちみこと)の御神霊が、この神域の西の方に御遷座されるようになり、社殿を御造営申し上げ、此処に御鎮座になりました。この御社を東本殿に対して西本殿と御呼びします。
現在の西本殿は、社蔵されている当地方最古と言われる徳治3年(1308)の棟札によりますと、建保5年(1217)に修造され、更に徳治3年に再建されたこと、及び当時の修造には遠隔の地まで沙汰せられ、有力な豪族が神事を司ったことが明記されています。しかもその当時の建築様式(鎌倉時代)は、その后度々の修造もありましたが、当時の様式は今によく伝えられ、棟札と共に国宝に指定されています。
現時の社名、苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁紀3年3月新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の條に曰う吾那邑(あなのむら)でありましたが、その后、那牟羅(なむら)に改まり、更に長寸(なむら)に替えられました。次いで寛仁元年(1017)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、後一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村(なむら)の称号を賜り、以后苗村神社と呼ぶ、と記されています。
斯くて、創祀以来社運年毎に栄えて来ましたが、何時の時代も苗村郷三十三ヶ村の総社と、人々の信仰の中心となってきた大宮であります。
取り分け天文5年(1536)朝廷の当社に寄せられた格別の恩命は、未来永劫に亘って誇りとする処で、社有の記録には、同年3月22日、後奈良天皇は、当社に「正一位」の神位奉授し給い、同4月19日に勅使として中御門宗藤・山科言継を御差遣になり神位記を奉納され、ついで、神主盛継に修理大夫任官の口宣を御くだしになる。この時、征夷大将軍足利義晴より勅使参向に当って三箇條の禁制札を下地される。
続いて同5月9日、更に天皇は「正一位苗村大明神」の勅額の御下賜があり、又同月12日関白太政大臣近衛植家公を始め30人の公卿は、京都において法楽歌会を催され、同月16日中御門宗藤卿は、使者を以て当日の和歌を送られ、同19日神主盛継はこれを神前に奉納された記録が今に残っています。
天正年間には、織田信長が、天下太平を祈願し当社に馬鞍一具と太刀7振りを寄進している。誠に当社の栄誉これに勝るものなく、社名自ずと四海に遍くところであり、今日30余郷の氏人達は、累代に亘って神仕えされてきた春日皇子の後裔である現神主を中心として、この栄誉高き御宮に余念をまじえず、只管崇敬奉仕申し上げる処であります。
神域には国宝西本殿を始め、他5棟の建物、及び木造不動明王立像など国の重要文化財が保存され悠遠なる名社として歴史を物語っている』


8/10・名神大社「兵主大社」

左右に松が並ぶ参道横の道路を進み、社門前の主鳥居横の駐車場に車を停める。
「鎮座1300年祭」の事業計画が掲げられていた。
社門へは小さな水濠を渡るようになっている。
小さな石橋から左右を見ると、かつては水堀で囲まれていたことが想像された。
浮島のようになっていた地なのかもしれないと、更に想像が膨らんだ。

20170810BiwaS009s.jpg 堀を渡り、朱鳥居をくぐり社門へ。
とても立派で美しい社門です。
これを支えるこの地の裕福さを感じる。

『兵主大社楼門 1間1戸楼門、入母屋造、檜皮葺、附翼廊2棟 正和45年解体修理時、自垂木から天文9年(1550)の墨書を発見し、建立年代が明らかになった。下層の亀甲紋や巴紋のついた蟇股には明和3年(1766)の墨書があり、この時は殆どの部材を取り替える大修理で、下層隅虹梁上の板蟇股以外の絵様彫刻は江戸後期の様式に変えられている。その後も度々屋根葺き替えが行われ、明治22年に両翼部が再び大修理を受け、屋根が桟瓦葺に改められた。
後世の取替部材が多数を占めているが、当初の部材も各所に残り、全国的に遺構の少ない1間1戸の楼門として室町末期の建築様式をよく伝えている』

楼門をくぐり境内に入ると、右手に摂社があった。
『乙殿神社天満宮 豊臣秀吉が、天正19年(1590)9月、京都の北野天満宮で、兵主大社の大鰐口(鐘)を千利休の釜師・辻与次郎に鋳造させ奉納したとの記録が「北野社社家日記」に記載されている。その折、北野天満宮より勧請した』

『乙殿神社 祭神:稲背入彦神・菅原道真 養老2年(718)兵主大神降臨に伴い、五条小森立の地に鎮座する。兵主の上の主(氏の上)の祖神。それ以来豊積の里農地開田の神にして崇敬され、兵主祭渡し当番に際しては兵主18郷の第一として神事を務め現在に至る』

20170810BiwaS030s.jpg 拝殿もドーンと見事です。
桟瓦葺・檜皮葺屋根で、楼門と共通している。
参道脇に鶏ゲージがあり、朝の時の声を上げている。

『兵主大社御由緒 祭神:八千矛神(大国主神) 本地仏:三十番神・大日如来・不動明王 鎮座:奈良時代養老2年(718) 社格:延喜式内・名神大社 神紋:亀甲花菱紋・亀の甲羅に鹿の角 境内地:32463平方メートル 参道:300m・松200本 鎮守の森:楠の社叢林・紅葉 名勝庭園:21688平方メートル・平安時代作庭 古建築:本殿・江戸寛永20年(1643)、拝殿・江戸天保13年(1842)、楼門・室町天文19年(1550) 文化財:白絹包腹巻・萌黄地白茶格子生絹袷小袖・木造神馬・鰐口・木造宝塔他』

名神大社格を持っていたようです。
名神が付くと神社より1ランク上の大社の名で呼ばれ、特に重要な神様を祀っていたり重要な神社であることを示している。

入れないが本殿脇に社叢に囲まれた池があり、アオサギが朝の合唱を繰り返している。近隣のサギのねぐらになっているようです。

手水は、亀の口から水が出ています。
亀甲紋といい、亀との謂れに興味が向かう。
20170810BiwaS031s.jpg 拝殿前の阿吽の狛犬は足や胴に白い包帯が巻かれている。
包帯には文字が書かれているようだ。

帰宅後ネット検索すると、『奈良時代(717年)に創建されたといわれ祭神は八千矛之神。この神は大津市の日吉大社から亀に乗って琵琶湖を渡り、鹿に乗って神社に来られたといわれています。境内の鳥居と楼門は足利尊氏が寄進したといわれ数々の社宝が残っています。また、社殿南側に広がる庭園は平安時代のもので、回遊式で苔や紅葉などが大変美しく国の名勝に指定されています。毎年、紅葉の時期には庭園ライトアップが行われます。映画や時代劇のロケ地としても有名です』

20170810BiwaS033s.jpg 社伝『「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。
延喜式神名帳では名神大社に列し、治承4年(1180年)には正一位勲八等兵主大神宮の勅額が贈られている。
中世には、「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、武士の厚い信仰を得た。
中でも源頼朝・足利尊氏による神宝の寄進・社殿造営があり、社宝として残されている。また、江戸時代には、徳川将軍家から社領の寄進を受け、厚い保護を受けた』

『狛犬をぐるぐる巻きにしている白い包帯は、病気や怪我の平癒を祈願するためのもの。初穂料を収めると包帯をを頂ける。自分が治癒したい部分に巻きつけると、ご利益があるとのこと』ということでした。

20170810BiwaS032s.jpg 『兵主神社拝殿翼楼 天保13年建立 拝殿翼楼の建物は、中央の拝殿1棟と左右の翼楼2棟とが組み合った大型の建物で、県下ではたいへんめすらしい型のものです。
東面して立つ楼門にもやはり左右の翼楼が付き、兵主大社独特の様式として踏襲されてきたものと考えられます。
現在は埋まっておりますが、平安時代末期には拝殿翼楼の正面には建物に平行する形で水路が流れ、又本殿からの正中線上の川幅には橋がかかり、石敷の参道が楼門まで続いていました。
昭和16年(1941)皇紀2600年を記念して改築されましたが、天保13年建立当時の部材も多く残り、天保時の大工は吉他村の長谷川若狭守繁行、改築時の大工は比留田村の加賀爪忠左工門と棟札に記載されております』

20170810BiwaS035s.jpg 本殿を囲む板垣の間から、サギが大騒ぎしている池を覗いてみる。
アオサギが数羽辺りに佇み、僕に気づいて飛び立つ。
日本庭園風に石が配置されているが、周りの樹木が鎮守の森なので巨大で、京都の寺院などの借景庭園とは雰囲気が違う。
サギの大騒ぎが、ジュラシックパークのようでもあるし。
予想外に素敵な神社でラッキーでした。
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