5/20・お嫁さんたちからのLINE

LINEに、お嫁さんたちから情報がアップされました。
S__14139396s.jpg長男のお嫁さんからは、毎週月曜日図書館の読み聞かせにこうちゃん2才と通っているようです。
図書館員さんが絵本を読んでくださるのですが、時にはシンガーが来援し歌を披露してくれるそうです。
その写真やビデオを載せてくれました。
こうちゃんの日本語は、単語からセンテンスになってきた程度ですが、英語も少し理解できているようでわかることが出てきたようです。
保育園に入れば、朝から夕方まで英語のみの生活なので、一気に英語のボキャブラリーが増えるのでしょうが、英語耳を作るべくいろんなイベントに積極的に母子で参加しています。

僕がLINEにアップした新幹線動画(次男の新居を見に東京に行った時映した)を、りょうくん5才・こうちゃんが大興奮で見てくれたようで良かった。
アメリカは日本にない列車が走っているだろうけど、日本の新幹線は実質世界一早い列車だから、忘れないで欲しいです。

こうちゃんがドライブで馬を見てから、「馬に乗りたい」と言ってるそうです。
長男が中学の頃から競馬好きで、アメリカでも何度か競馬場に家族で出かけています。
りょうくんに続き、こうちゃんも馬を好きになったようです。

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りょうくんは、アメリカン・ヒーローものにもハマっていて、気がつくと何かを武器に見立てて見えない敵と戦っているそうです。
男の子は必ず一時ハマりますね。
これを経て、正義を覚えますよね。
将来家族を養い守るために男の子は頑張らないとね。

こうちゃんは体力がついて、晴れれば公園、雨でも近くのモールの遊び場で元気よく走り回っているようです。
幼児は外遊びしないと、その日は機嫌が悪くなるよね、機嫌がイマイチになっても外を一周りするだけで、かなり改善されます。
6月に3人目が生まれるので、益々お嫁さんは大変です。

先々週次男の家に行った時、すみれちゃん1才が車のチャイルドシートから降りたくて何度もグズりました。
その時、りょうくんとこうちゃんが遊んでる動画を見せると収まり、自分で何度も何度も再生していました。

同じく、こうちゃんはすみれちゃん動画が好きなようで、次男が撮った「大きな栗の木の下で」すみれちゃん踊り・歌を再生しているようです。
お嫁さんが単身赴任していた長男を追って渡米した時、こうちゃん半年・すいれちゃん1ヶ月のときに会っただけなので、2人のお母さんは同学年の2人の初顔合わせを楽しみにしています。
いつになることやら・・・

りょうくんは、プリスクール外国語も学んでいるようで、スペイン語の1~10を言えるようです。
さすがアメリカ、最初に学ぶ外国語がスペイン語なんだと驚きました。
すみれちゃんの通い始めた保育園では英語の授業があるようで、先生曰く凄く集中して学んでいるようです。
りょうくん・こうちゃんに会った時、英語が出たら面白いなと親ばかを披露していました。

S__45391882s.jpg すみれちゃんは、4月から通い始めた保育園にも慣れてきて、園で作った「母の日」プレゼントをもらったそうです。
僕も小学生の頃、貯金で買った手袋を母にプレゼントしたら、涙をポロポロ流して喜んでくれました。
あの時は、「なぜ泣くの?」と思ったけど、親になりその心境がわかりました。
S__45391885s.jpg 次男お嫁さんも、初めての娘からのプレゼントに感動したんじゃないかな?

親は、親ばかが良いですね。
けなしてダウンサイジングせず、褒めまくって感動しまくっていくつも下駄を履かせ、根拠のない自信を植え付けさせてあげたいものです。
我が家の子育て経験からすれば、この方がずっと親子とも楽しく、ずっと会話の弾むハッピーな家庭になり、世間に対し積極的に行動する子になります。

5/13・次男宅

前回、婚約成った結婚前の親の初顔合わせで訪問させていただいた時は、お寿司や尾頭付きなどで大歓待されましたが、今回はお嫁さんが手作りするそうで、鋭意料理中だそうです。
次男が乗り換えたAudiに初めて乗せてもらいました。
ドイツ車らしくドアの密着度が高い。
標準が扁平タイヤで車高が低く、この点はイマイチかな。
ワゴンスタイルなので、バックドアに重宝しているようです。
ナンバーがすみれちゃんの誕生日で、次男も僕に負けない親ばかだね。
お嫁さんの希望で赤ですが、かなり鮮やかです。

僕も長男が生まれた記念に5ドアバンに乗り換え便利でした。
次男が生まれた記念で両親・弟と一緒には乗れないので、8人乗りワンボックスに乗り換えました。
以来、この便利さから抜けられません。

すみれちゃんのチャイルドシートは、長男からもらったものでした。
アメリカに行く時、車CX7もいる?と言われていましたが、チャイルドシートだけもらっていました。
すぐに家に着きました。
バックギアに入れたら、ナビ画面がバックモニターに変わり安全確認できて便利だそうです。
標準でついてる車が多くなっているのでしょうね。

20180513KawaS0205s.jpg 家は、壁の色まで変わっていました。
でも、次男の表札がまだガムテープでした。
「エクステリア解装がまだなんだ。門も変わるよ」とのことです。
20180513KawaS0207s.jpg 玄関でご両親とお嫁さんが出迎えてくれました。
20180513KawaS0206s.jpg ガレージに赤いバラが咲いており、バラで覆う算段のようです。
次男の自信作のようですが、棘があるから妹さん一家も含めあと10~15年は小さな子供がいるのだから玄関横にバラは危険な感じがしました。

玄関もご両親の領分の1F居間も台所も変わっていました。
設計者の次男の説明では、梁の下に天井を張る従来工法だったのを、梁を出して天井をその横の高さまで上げて天井を高くし、より広く感じるようにしたそうです。
キッチンと居間を一体化させ、部屋の広がりも大きくしたそうです。

20180513KawaS0210s.jpg 20180513KawaS0211s.jpg お風呂はお父さんの希望を最大限生かし、窓を大きく明るくし、壁が木目風になっています。
お父さんの自信作だそうです。
仕事柄次男は色んな素材を知ってるので、タイル壁から脱したようです。
天井も木目で、サウナ風呂のようです。

20180513KawaS0213s.jpg 客間に僕がプレゼントした淡路島七福神掛け軸を下げてくれていました。
気持ちが嬉しいです。
我が家も出来るだけのことをしているつもりですが、お嫁さんたちのご両親は気持ちの優しい方で、付き合っていて気持ちが良いです。

続いて、次男夫婦の新居・2Fに上がります。
20180513KawaS0215s.jpg こちらもリビングとキッチンが一体化されており、1F同様のコンセプトで梁を露出させ天井をその横まで上げて、より広く感じる空間を作っています。

洗面・トイレ。
20180513KawaS0220s.jpg ベッドルームは元お嫁さん姉妹の独立した2部屋を1つにしていました。
2人目が生まれ大きくなったら、また2つにするそうです。
20180513KawaS0223s.jpg 次男の書斎は次男らしくシュッとしています。
長男と違い、男の子なのに整理整頓出来る子で、良いもの使うものだけ置いてゴチャゴチャさせない性格です。
20180513KawaS0224s.jpg 照明はスタジオのように移動・方向変えが簡単なスポット照明になっています。

20180513KawaS0230s.jpg お嫁さんが用意してくれた昼食を、2Fリビングテーブルを皆で囲んで食べました。
うな丼・しじみのお吸い物・香の物などいろいろ。
とても美味しい。

家の話、お父さんの肩の話、妹さんの出産の話(6月中旬予定日でしたが、下がってきているようで5月中かも?)、長男一家のアメリカ生活の話・・・。
もちろん主役のすみれちゃんの話も盛り上がり、あっという間の2時間でした。

14:30になり、すみれちゃんの保育園を見に行きます。
15:13、次男夫婦の勤める会社への通勤途中駅ビル内にあります。
20180513KawaS0240s.jpg 新設企業保育園で、外からガラス張りで中が見えます。

続いて次男が設計した野菜工場併設の野菜販売店舗&ロッカールーム管理業務棟です。
20180513KawaS0255s.jpg 2Fに会社の支店でもありましたが、2週間前に次男設計の東京支店に移動したそうです。
次男も知ってる女子社員さんが1人で店番していました。
ロッカールームの契約者が来られるようです。

最も新しい設計の東京支店も見に行きたかったが、日曜日なので社員がおらずクローズしてるそうです。
職場復帰したお嫁さんの話では、使い勝手が良く、社員の評判が良いそうです。
並行して本社ビル設計もしているので、オープンしたら見に来なきゃ。
保育園併設するので、すみれちゃんは園児第1期生になる予定です。
お父さんの設計した保育園に通うなんていいね。
このために保育士資格まで取っちゃったから、ヘルプでお父さんがやってきたら面白いな。

20180513KawaS0261s.jpg 15:55、以前住んでいた近くのショッピングセンター内の本屋さん(蔦屋)に入ります。
あいにくの雨なので、すみれちゃんは外で遊べません。
いつもここの外にある公園で遊んでいたようです。
ファストフードを注文すれば、棚の本を持って席に座り読んでもOKだそうです。

続いて会長の持ってる農園。
次男は会社の園芸サークルに所属しています。
社員が集まり苗を植えたりしており、何度かその様子を映した写真を見ています。

20180513KawaS0263s.jpg 続いてお勧めのカレー屋さん。
ネパール人のカレー屋さんで、いろんな種類のカレー・辛さも選べます。
僕は辛さ普通のライスセットにしました。
飲み物は飲むヨーグルトみたいなラッシー。

20180513KawaS0264s.jpg 駅まで送ってもらい、19:30東京に戻りました。
20:20新幹線出発まで時間があるので、2000円タダ券がある「東京駅一番街」でお土産を買おうとしたけど、食べ物屋さんが多くお土産屋さんが見つからずパスしました。

新幹線「のぞみ」に乗り、22:07アイスコーヒーをタダ券で飲み新大阪に戻り、23:10発新三田行普通に乗り、23:41北伊丹に戻りました。
たくさん雨が降ったようで、通勤リード110がかなり濡れていました。
タオルで拭いて帰宅しました。
風呂に入って速攻で床に入りました。
いつもより大幅に就寝時間が遅れました。
明日起きられるかな?

次男は、配偶者を持ち子供も出来、借金は出来たけど家を持ち、根無し草から地に根を張った生活になりました。
僕は大学時代から付き合っていた同級生の家内と24才で結婚しました。
売りに出たので親が買った隣の家に住み、結婚即親からローンを引き継ぎ借金15年生活が始まりました。
親父が癌になり働けなくなり、弟のために買った家のローンも僕ら夫婦で返済しました。
ローンは負担ですが、夫婦で力を合わせる事になり、落ち着いた生活にもなります。
お父さんも、お母さんの実家が持ってた土地に借金して家を建て、家族を養って来られました。
気持ちが判ってくれるので、良かったんじゃないでしょうか?

次男夫婦といろいろ話し、会社の現状も知りました。
利益が伸び、東京支店が拡張され、自前土地に新本社がもうすぐ建ちます。
地元トップ企業になり、会社の食堂がすべて無料になったそうです。
結婚式で会った社員達は若く明るく、その輪の中に積極的に入っていく社長、社長を囲んでワイワイやってる様子を見て、良い会社だな~と思いました。
女子社員の容姿はかなり高く、社内結婚が多いそうです。
出産を経て職場復帰する女子社員が多いのも、働きやすさの現れです。
女子社員に残業を強いたりせず、宿泊出張をさせないという方針も、女性を大切にする企業風土を感じます。

こういう所に古来からの日本的な考えを感じます。
「美しい日本を取り戻す」のキャッチフレーズで登場した第一次安倍政権は倒れましたが、現安倍政権にもそれを感じ、経済運営がうまく行きマクロ的に国民の収入が増えています。
靖国神社を訪問し、天皇陛下を中心に長い歴史を持つ日本を、先人は命を掛けて守ろうとしました。
グローバル化の名の下、こんな素晴らしい日本を壊そうとする勢力があります。
乗っ取ろうとする勢力があります。
僕は微力ながら、それを跳ね返し子孫に美しい日本を残すよう行動したいと思っています。

5/13・遊就館4・金鵄勲章 川口コーヒー専門店

20180513KawaS0170s.jpg 館内に「金鵄勲章」が飾られていた。
僕の母方祖父は日露戦争に従軍し、近衛騎馬兵団隊長としてこの勲章を頂きました。
母の実家の宝物として、子供の頃何度か見せてもらい触らせてもらいました。
戦後生まれの僕にはピンと来ませんでしたが、戦前を知る両親は天皇陛下から頂いたのだと恭しく扱い、僕などには及びもしない気持ちでそれを触り、親族の誇りとしていました。

駆け足ですべてを巡り、外に出たら10:08だった。
家内との待ち合わせは10:10。
急いでタクシーを拾うべく道路に向かいます。
ちょうどお客様を下ろしたタクシーがおり、それに乗せてもらった。
20180513KawaS0175s.jpg 右翼街宣車が数台停まっており、それに対応するため警官も出張っていた。
右翼も左翼も、過激思想・行動を伴っており、どうも与したくない。

愛国の多くの一般市民、国に殉じた方々の御霊に手を合わせようとする市民を、左翼は右翼思想として攻撃するが、先程見た戦死なさった方の写真一覧を繰っている方はそのような方ではない。
先祖を肉親を親族を探している風だった。

敗戦後のGHQの日本解体統治下で、当たり前のようにある自らの属する国家に親しみ、それを守ろうとする自然な思考を悪視する教育が施された。
日本は行き過ぎた左傾化に陥り、中央に戻そうと愛国者が若者を中心に増えてきている。

母はゼロ戦の翼を造っていたし、米艦載機の攻撃も受けた。
父はボルネオ島で餓死と戦い、背中と脚に銃槍があり、背中から入った弾の一部がまだ身体の中に残っていると、子供の頃教えてくれた。
そんな両親から、一言も当時の日本を責める言葉を聞かなかった。

地方自治体の首長を長年勤めた祖父は、戦地に赴き生き延びた次男の伯父さんと三男の父を、いつも祖父・長男と同じ主席で飯を食わせた。
僕もその子として他の従兄弟とは別の主席で食事が用意された。
敗戦であったが「立派に戦って日本の面目を保ってくれた」と、僕の前で父を褒めていた。

そんな環境で育ったので、亡き父に習って祝日には日の丸を門扉に掲げている。
今や近隣では我が家のみになったが、死ぬまで続けていこうと思っている。
戦犯の合祀以降天皇陛下が靖国神社に参らなくなったので、それに習って今まで参って来なかったが、先の人生が見えてきたので初訪問した。

僕の次男は、初めての子を授かり、靖国神社で安産祈願してもらったのをきっかけに参ろうと決め、やっと機会を得た。
今回家内は、時間に余裕がないので駆け足で巡る僕の足手まといになると思い駅で待つと言ってくれた。
次は家内と余裕を持って巡ろう。

タクシーを拾い、JR飯田橋駅に戻りました。730円。
20180513KawaS0179s.jpg 予定していた10:15総武線津田沼行には乗れなかったけど、1本遅れだけでした。
JR秋葉原で京浜東北線に乗り換え、11:01川口着。
次男一家と11時に駅で待ち合わせでしたが遅れちゃいました。
秋葉原でLINEしていたから了解済です。

2Fに改札があり、待ち合わせの東口に出たのにいないから1Fに降りたらいない。
電話したらやはり2Fでした。
次男とすみれちゃんが出迎えてくれましたが、こちらのこちらのお爺ちゃん・お婆ちゃんではないのでキョトンとしています。

20180513KawaS0184s.jpg 歩いて、長男が東京勤務時代お世話になた上司の方の開いたコーヒーショップを訪問します。
20180513KawaS0187s.jpg 小さなお店ですが、店内席でケーキセットを頂きました。
次男と家内はコーヒーだけ。
脱サラして好きだったコーヒー専門店を開店されました。
長男がお世話になったお礼を申し上げると、アメリカ勤務のこともみな知っておられ、懇意にして頂いたのがわかります。
次男は、長男からその情報を聞き、以前訪問したそうです。
なんだかんだ、兄弟してるね。

いろんな産地の豆を仕入れておられ、店内でローストされて販売されています。
次々お客様が来られています。
まだ開店1~2年のはずですが、流行っていて何よりです。

次男は建築士と若者らしい発想で、スポットライトの使い方とレジがアイパットで今風の省エネ・低コスト経営だなと感想を述べていました。
新店舗開店の時は、ぜひ次男を使って下さい。
良い仕事しますよ。

20180513KawaS0190s.jpg 12:12「AMBER DROPCOFFEE ROASTERS 川口市幸町 カフェオレ590円+コーヒー540円+ケーキセット900円」でレジを済ませ、車に向かいます。

5/13・遊就館3 インドと占冠島の戦い

頂いたパンフレットに、インドと占冠島の戦いのことが書いてあった。

『インド国民軍退役軍人から 「日本はインドにとっては良い国だと思います。日本はチャンドラ・ホースと共にインドの独立のため戦ってくれました。これは、はっきりいえます。
インドは日本軍の犠牲により独立することが出来たのです。もしあんなに犠牲者を出さず、又INA(インド国民軍)に協力しないでインドに進出した場合、インドの軍(イギリス軍インド部隊)は自分たちの方針を変えなかったでしょう。25万のインドの軍が方針を変え、チャンドラ・ボースの軍になったことによりイギリスから独立することが出来たのです。」
「私たちは常に日本に対し感謝の気持ちを持っています。」
「最後にもう一度、有難うございました。」 ーデロン中佐の言葉-』

『太陽の光がこの地上を照すかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。 P・N・Lekhi(インド最高裁弁護士)』

『われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表わします。インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまでけっして忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め、御冥福をお祈り申し上げます。 1998年1月20日 於:ニューデリー インド国民軍大尉S.S.ヤダバ(インド国民軍全国在郷軍人会代表)』

『〈占守島の戦いとは〉 日本が終戦を迎えた昭和20年8月15日から3日経った8月18日に、天皇の詔勅に従い武装解除を進めていた、千島列島最北端の島『占守島』の日本軍に対し、ソ連軍が突然上陸、攻撃をかけてきた戦いのことです。
日本軍は一度解除準備を進めていた武装を改めて行い、峻烈な激戦の末にソ連軍を水際に追いっめ、まさに殲滅しようとした時に「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行すべし」との方面軍命令があり、日本軍は命令に従い、軍使の派遣・停戦交渉・武器引渡し交渉の末、再度の武装解除を行い、戦いは21日に終結し、ソ連軍の南下は24日以降になりました。
ソ連は日本のポツダム宣言受諾、降伏を知りながら、なぜ終戦後3日も経ってから戦争を仕掛けてきたのでしょうか?それは当時のソ連の首相であったスターリンの領土拡張方針に基づく北海道北部の占領計画上にあったと思われます。「占守島は一日で占領する」と豪語していたソ連軍を占守島の日本軍は一週間も足止めし、ソ連軍の南下を遅らせ北海道北部の占領計画を阻止した結果にもつながったのです。
わたしたちは、家族と国を思う純粋な心と信念をもって、終戦三日後に戦って逝った占守島の若者たちのご冥福を祈るとともに、彼らのことを決して忘れることは出来ません。

〈占守島の戦いの経過〉 「幌菰海峡周辺地区及び占守島の要域確保」を命じられていた第5方面軍第91師団は、数倍の米軍を想定し、かの敵に強靭・執拗な戦闘を挑むべく、陸海軍あわせて25000名の配備を行っていました。
占守島の電波状態は極めて悪く、8月15日の天皇陛下の終戦の詔勅を多くの部隊では聞くことは出来ませんでしたが、翌16日に師団参謀立会いの下に終戦が伝えられ、17日から日本軍は武装解除の準備に取りかかっていました。
戦車部隊でも車載銃砲や無線機の取り外し、爆砕と車両の海没の準備まで進めていました。
しかし8月18日の未明に、対岸のロパトカ岬のソ連軍から長射程重砲の砲撃が始まり、国端崎の監視所からも「海上にエンジン音聞ゆ」と至急の連絡も入ってきました。降伏に関する軍使ならば夜中に来ることはありません。「これは危ない」と判断した日本軍は、島一面が濃霧に包まれた中、急ぎ戦闘配備を整えました。
その間にも「敵輸送船団らしきものを発見」「敵上陸用舟艇を発見」「敵上陸、兵力数千人」と相次いで急報が入ってきました。
米軍ではなくソ連軍が竹田浜に強襲上陸をして来ました。
敵の上陸を察知した日本軍は国端崎の砲兵、竹田岬と小泊崎の速射砲・大隊砲か協力して反撃し、叉陸海軍航空機の決死の反撃および重砲の活躍などによりソ連軍の指揮系統は大混乱に陥りました。しかしソ連軍の一部は艦砲射撃の支援を受けながら18日の6時ごろには四嶺山に進出して、激しい戦闘が展開されました。
日本軍は戦車連隊の参加もあり、次第に敵ソ連軍を圧迫し海岸付近に釘付けして、一歩も内陸に前進させず、一挙にソ連軍を殲滅する体制を整えました。しかしこの戦闘のなかで戦車連隊長、同連隊指揮班長をけじめとして各中隊長以下多くの戦死者も出ました。その頃に「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行」との第5方面軍からの命令が届き、占守島の第91師団は、ソ連軍の攻撃はまだ続いていましたが軍使派遣、停戦交渉と進め、8月21日に漸く戦いは終わりました。その後、武装解除が23日と24日に行われました。
この激闘で一説には日本軍の死傷者は700~800名におよび、ソ連軍は3000名以上の死傷者を出したと伝えられ、ロシア研究者のボリスースラヅインスキーの著書によれば日本側死傷者は1018名、ソ連側死傷者は1567名となっています。ソ連政府機関紙のイズペスチアは「占守島の戦いは満州、朝鮮における戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民にとって悲しみの日である」と述べているのです。

〈占守島第91師団の心遣い〉 終戦の時に、占守島には日魯漁業の従業員の方が2500人ほどいました。この大たちは国民の食糧確保の為に悪い戦局を承知で、缶詰工場で働いていましたが、その中には約400人の若い女子工員も混じっていました。終戦を迎え、内地からの迎えの船が来れば真っ先に彼女たちを送り返す手筈を整えているところへのソ連軍の攻撃でした。
参謀長と世話役の大尉は「このままでは必ずソ連軍に陵辱される被害者がでる。
なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返そう」と相談し、当時島にあった独航船20数隻に約400人を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向けて出港させました。ソ連機の爆撃が続く中、日本軍も高射砲の一斉射撃で必死の援護を行い無事に出港させることが出来たのです。
「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、それから5日後でした。
停戦後に上陸してきたソ連軍は女性を捜し回ったそうですが、あとの祭りでした。
もし、彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったことを想像すると、占守島の第91師団の心遣いが人ごとでなく心にしみます。
東京都大田区東椛谷四-三-四  士魂会事務局編
【参考文献】 青木磐著マンガ版「占守島の戦い!!」 中公文庫・中山隆志著「1945年夏・最後の日ソ戦」 ポリス・スラヴィンスキー著・加藤幸廣訳「千島占領・1945年夏」(共同通信社・1993年)』

5/13・遊就館3

20180513KawaS0133s.jpg 『96式25ミリ連装機銃 フランス・ホチキス社が設計し、昭和11年日本が国産化した。陸海軍艦船や陸上基地などで対空防御用として使用された。展示物は昭和43年ブーゲンビル島ファウロ島遺骨収集団全国派遣団がラバウル海軍防空台で収集したもの』

『4年式15センチ榴弾砲の砲弾及び薬筒 この砲弾はサイパン島にて玉砕した野戦重砲兵第9連隊黒木大隊の陣地跡より発見され、祖国に持ち帰られたものである。薬筒は火砲に装填されたまま発見され、現地人の協力のもと火砲を海中に沈め爆薬により火薬を摘出したので、一部変形している』

『92式重機関銃 日露戦争後に機関銃の重要性を認識した日本が、独自開発を進めた陸軍の代表的重機関銃。弾丸の発射速度が比較的遅く、銃本体と専用の銃架を含むと500kgもの重さになり、運搬には4人がかりとなった。しかし命中精度は高く、難点を補って余りある働きで、支那事変・大東亜戦争に活躍し、前線の歩兵を援護する力強い兵器だった』

『重巡洋艦「摩耶」 昭和7年6月、神戸の川崎造船所で竣工。「高雄型」の4番艦で大東亜戦争開戦当時から活躍した。様々な海戦に参加したが.ラバウルで敵機による襲撃を受け、これを機に改装し3番主砲を撤去して、対空兵装の増強に重点を置いた。昭和19年10月のレイテ沖海戦で、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した』

20180513KawaS0146s.jpg 『防空駆逐艦「秋月」 防空駆逐艦「月型」の1番艦として、軽巡洋艦に匹敵する排水量と航続力を持つ。空母を直衛して、高い防空能力を持つ長砲身65口径10センチ高角砲を前後に2群づつ装備し、マリアナからフィリピンにいたる数多くの激戦を戦った』

『防空駆逐艦「初月」 防空駆逐艦「月型」の4番艦で、防空駆逐艦として昭和17年竣工後、空母直衛部隊に編入され、常に空母部隊の直衛にあたった。マリアナ沖海戦では空母「瑞鶴」を直衛して戦ったが、レイテ沖海戦のエンガノ岬沖海戦で「瑞鶴」が沈没後、周囲の海面で漂流者を救助しつつ、近づいてきた米艦隊に只1隻で反撃に出た。16対1の奮戦後、遂にフィリピンの海底深く、壮烈なる沈没を遂げた』

20180513KawaS0154s.jpg 『重巡洋艦「青葉」 昭和2年9月、三菱重工長崎造船所で竣工。主砲の20センチ砲は、発射速度や防御の上からも有利な連装砲塔であり、対空兵装も12センチ高角砲を装備した。偵察機用のカタパルトを持つなど近代化巡洋艦の花形であった。
大東亜戦争開戦時は南洋群島を攻略するなど数多くの海戦に参加し、昭和20年7月呉軍港で空襲を受けて被弾し、海底に着底した』

『重巡洋艦「高雄」模型(1/100) 昭和7年5月、横須賀海軍工廠で竣工。「高雄型」の1番艦で大東亜戦争開戦時、第2艦隊の旗艦などを務め、様々な海戦に参加したが特に第3次ソロモン海戦ではアメリカの戦艦「サウスダコタ」を撃破する戦果を挙げた。昭和19年10月のレイテ沖海戦で、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け中破しシンガポールにて終戦を迎えた』

20180513KawaS0156s.jpg 『航空母艦「翔鶴」模型(1/50) 昭和16年8月横須賀海軍工廠で竣工した。
「翔鶴」は大東亜戦争開戦劈頭の真珠湾攻撃を始めとして主要海戦、作戦に参加し勇戦奮闘したが、昭和19年6月のマリアナ沖海戦で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、約1200人もの乗員が艦と運命を共にした。
この「翔鶴」模型は、東京ソリッド・モデル・クラブが2年間かけて製作。「翔鶴」に乗り組み、祖国に殉じた御祭神を奉慰し、遺徳を顕彰する為に奉納された』

20180513KawaS0161s.jpg 『特殊潜航艇「海龍」 2人乗りの有翼潜航艇で、機首に600kg炸薬を装着し、艇外の可動式発射筒に収納された2本の魚雷を持ち、局地防禦のため本土決戦用に開発された特攻兵器である。この有翼艇は昭和18年3月頃、海軍中佐浅野卯一郎らが飛行磯にヒットを得て考案し、その後昭和19年9月頃から右記の兵装をはじめ内部に大改造を加え兵器として採用されるに至った。艇は初久里浜の工作学校で、さらに昭和20年4月頃から横須賀海軍工廠を中心に全力を挙げて製造され、終戦までの完成艇数は236隻に達した。一方搭乗員・整備員の教育は、横須賀航海学校及び機関学校の施設を用い、また前線基地を油壷・江の浦・下田・小名浜などに設営し、百隻近くの艇を展開したところで終戦を迎えた』

20180513KawaS0163s.jpg 『震洋 昭和19年4月軍令部から戦局の劣勢を挽回する為提案された1~9までの特殊兵器の1つで、6の回天とともに実用されたのが4の震洋である。1人乗りの1型改1は艇首に爆弾250kgを搭載して全速で敵艦船に衝突自爆しようとするモーターボートである。
全長6m・幅1.65m・喫水0.6m・排水量1.35t・速力23ノット・航続距離250海里・12センチ噴進砲2基を装備した。主機関は自動車のエンジン1基を使用した。同年8月、第一次震洋艇隊50隻が長浦(横須賀)での訓練後、父島に配備された。以降九州川棚警備隊と江田島江の浦で訓練を行い、フィリピン・南西諸島・本土各地・伊豆諸島・小笠原諸島・支那沿岸・東南アジアなどに配備され敵の来攻に備えた。
搭乗員は、海軍兵学校や予備学生出身の青年士官が隊長となり各艇隊は予備練出身者であった。なお5型の全長6.5m・幅1.86m・排水量2.4t・速力25ノット・航続距離275海里で、自動車エンジンを2基搭載、乗員数2であった』

『水上特攻艇「震洋」 合板で造られた小型艇で、船首内に250kg炸薬を搭載し、敵艦に体当たり攻撃を加える目的で開発された特攻艇である。昭和19年4月から金物船外機付き衝撃艇として試作が始まり、同年8月震洋と称して正式兵器に採用。その後改良が加えられ、噴進砲を搭載した1型(改1)や2人乗りで機関銃搭載した5型など、6200隻が量産された。
昭和19年から小笠原諸島父島はじめフィリピン方面・沖縄、更に本土決戦に備えて太平洋側の要所を中心に約4000隻の配備が進められ、米国巡洋艦1隻・駆逐艦2隻・輸送船2隻を撃沈破(日本側記録)する戦果を挙げた。
一方、空襲や事故による爆発、あるいは配備される前に輸送船ごと敵の魚雷攻撃によって沈められた艇も多く、多くの搭乗員や整備員の命が失われた。終戦までに震洋隊の戦没者は2500名に上る。
展示している震洋1型(複製)は、広島県呉市の野村哲郎氏(平成19年逝去)が、同士在住のま長田研司氏はじめ地元有志の協力を得て10年の歳月を費やして複製したもの。野村氏は、生前多くの船舶を自作されてきたが、特にこの震洋については尊い命を祖国に捧げられた多くの若者たちの鎮魂のために精魂込めて造り上げ「この震洋が靖国神社遊就館に展示されたらいいな」と周囲の人達に言い残されていた。平成21年3月20日、こうした御尊父の遺志を継承された野村氏のご子息達から、震洋1型の複製が遊就館に奉納された』

『陸軍海上挺進戦隊(連絡艇レ) 昭和19年2月、戦局は米軍のマリアナ諸島・ニューギニア西部への進出によりフィリピンも敵目前にさらされ、沖縄侵攻も予測されるなど極めて日本は憂慮すべき状況にあった。
戦局の劣勢を挽回すべく船舶特別候補生を主体に、全陸軍より選抜された下士官・将校を以て陸軍海上挺身隊が同年9月以降順次編成され、以降フィリピン・沖縄・台湾の各戦場で活躍した。
その任務は予め敵の予想上陸正面に配置し、艇は奇襲によって上陸船団を側背から攻撃するもので、250kg爆雷を後部に装着した長さ5.6m・喫水0.26m・満載排水量1.5t・最大速力20~24ノット・航続時間3.5時間のベニヤ板製モーターボートで、秘匿名称「連絡艇レ」と称した。
陸軍海上挺身隊は、短期間の訓練後、不慣れな海上において無防備の特攻艇を操るという不利な条件下で、戦果を挙げた』

これは展示物の一部で、その他多くの展示場が写真不可となっていた。多くの戦死者のお写真が飾られ、特攻隊員の遺書も展示され、目頭が熱くなる展示もあった。
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