FC2ブログ

6/23・精華町ツーリング

コーチしてる大学ヨット部のレース日です。
インカレ個人戦予選です。
2つのクラスの上位6艇のみがインカレ個人戦に挑戦できます。
大学ヨット部の最終目標はインカレ団体戦ですが、全国の速い学生レーサーの実力を肌で感じることが出来ます。
卒業後の思い出にもなるので、レギュラー3艇×2クラス=6艇が予選通過できたら最高です。
最低各2艇、当面の目標各2艇です。

9時に出艇のようなので、早朝ツーリング出来そうです。
天気予報は日中雨だけど、~AM10+PM4~=曇りという最低限のバイクツーリング可なので、四輪で行く選択を消し、「里山VTR250」で出発しました。

4:33、近所のローソンで、「キリン小岩井ミルクトコーヒー162円」を購入。
R171~中央縦貫~近畿道側道r2~r14~r19で淀川を渡る。
R1で北上を開始し、R307で東進しr71で南下。

20180623SeikaS0001s.jpg 5:42木津川沿いにある「祝園(ほうその)神社」着。
20180623SeikaS0013s.jpg 『御祭神/天児屋根命・武御雷命・経津主命
延喜式内社で、48代修徳天皇の勅命により悪病平癒・家内安全・農商工業の発展を祈願するため神護景雲4年1月21日に創祀されたお宮。
1月いごもり祭/無形民族文化財・11/3例祭・12月御神祭』

r71に戻り、木津川を東に渡り、R24からJR奈良線の東にある「大塚山古墳」横を通り、6:02「松尾神社」。
20180623SeikaS0031s.jpg 横に「TK Race Way」という小さなサーキットがあった。
カートの練習場かな?個人が持っていそう。

20180623SeikaS0049s.jpg 『京都府登録文化財/松尾神社拝殿・表門・境内社御霊神社本殿(桃山江戸時代)天武天皇が吉野山より東国へ向かう時、この地で大山祇神の化身であるという樺井翁と軍議を談じ、翁が姿を消したあとに残された宝珠をこの地の後の鎮めとし、のち大宝元年(701)に秦都理が霊夢によってこの宝珠を得て、これを神体として宮殿を創建したのがはじまり。
近世以前は、御霊神社が「下の宮」と呼ばれたのに対し、「上の宮」と呼ばれ、ともに椿井から上狛にかけての人々の信仰を集めていた。拝殿棟木に墨書銘があり、現在の拝殿が慶長15年(1610)に再建されたこととともに、有力農民の代表である。「十二番頭」や、南村(上狛)と北村(椿井)の宮座一老・松尾社・御霊社の神主などの名が記されている。また宮座に残されていた遷宮神事を行う時の絵図にも、狛野荘の荘官である下司・公文・トネの席や、有力名主によって構成されていた中老座・ばく老座の席、能や狂言を演ずる舞台や楽座、はしがかりなどが描かれていて、これらから中世の村政を司った組織と松尾神社との関わりが伺える。なを表門も拝殿とほぼ同時期の桃山時代の造立である。本殿は文化5年(1808)に奈良春日社若宮本殿を移築したものであり、東隣の御霊神社本殿は、春日社三ノ宮を文政6年(1823)に「下の宮」に移築し、さらに明治13年に神社併合により、ここに移築されたものである。中世村落における神社の面影を留める建物群である』

6:16「玉台寺」。
『狛弁財天社 弁財天は元来インドにおいて川を神格化したもので、日本でも竹生島など水に関係する地によく祭られている。
狛弁財天は、室町時代初め頃に上狛から椿井にかけて広がっていた興福寺領狛野荘の利水や水害に関連して創建されたものと考えられています。15世紀中頃から後年には、興福寺大乗院や一乗院から門跡が参詣し、拝殿造営のための奉加帳が興福寺内で回覧されている記録が確認されている。
狛弁財天社は、狛氏の守護神であるとされ、狛山城守秀はその当時狛野荘の荘官(下司)を勤めていたことから、互いの密接なつながりが伺えます。その後、16世紀後半頃に大規模な再建がなされたと考えられ、天正6年(1578)に木造弁財天坐像及びその眷属(けんぞく)である十五童子像が南都寺院の宿院仏師・源三郎らによって製作され、天正8年には拝殿が再建されています。こうした一連の事業は西福寺に肖像画を残す狛左馬進秀綱が中心で実施したと考えられている。
なお現在の本殿や拝殿は近世後期に再建されたもので、隣接する玉台寺は弁財天社の宮寺として建立されたものと考えられている』

この地は、興福寺領庄官だった「狛氏」が支配した地で、狛氏が領したからか、「狛」という地名ゆえ「狛氏」と名乗ったからかどちらが先かわからない。
たぶん他の多くと同じように後者だと思う。
「狛」という氏名は珍しい。
狛犬の「狛」であり、現在多くの神社の正面を守護する狛犬の起源は、エジプトのスフィンクスやインドのライオンで、中国や朝鮮半島を経て琉球や日本本土に伝わった。
琉球ではよりライオンに近い「シーサー」となり各戸の玄関を守護し、日本本土では日本の想像上の動物「狛犬」として神社正面にいる。

「狛」の語源は、「高麗」から来ており、日本本土へは高麗人が伝えたと容易に推察できる。
この地の地名「狛」も「高麗」が起源のように思われ、朝鮮半島「高麗」からの渡来人が住み着いた地と想像する。
狛氏自体も、渡来人の末かもしれない。
いろんな想像をしながら、狛氏の守護神である狛弁財天やその神宮寺である玉台寺を、そんな謂れがないかと探したが見つからなかった。

ずっと以前から「狛」という日本離れした地名の不思議が気になっており、高麗からの渡来人の痕跡や朝鮮式のお墓の存在が見つかるのでは?と思って来た。
それもあり、「大塚山古墳」を狛最初の訪問地にしたが、あまりに道が細い傾斜地ゆえバイクが停められなかったのが残念。
近くに「高麗寺跡」があるので、高麗渡来人が住んだ地には違いないと思うが・・・

弁財天があるのかも?と玉台寺の境内に入って行ったが、弁財天は境内内の下の方にあった。
弁財天は水の神様なので、地形的に川ではなく湧水水源を守っているのでしょう。
境内を突き当たりまで行くと、狛の地を見下ろせる景色の良い所に出た。
ここに鳥居が立っており、神仏習合の痕跡を感じた。

バイクに戻り、JR奈良線「上狛」駅からR163に出ました。
20180623SeikaS0092s.jpg 木津川に沿う道で、6:40「恭仁宮太極殿跡」。
トイレを拝借しました。

20180623SeikaS0099s.jpg 『史跡・恭仁宮跡(山城国分寺跡) 恭仁宮は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平城宮を離れ、各地を転々とした後、天平12年(740)に現在の加茂町瓶原の地を中心に新都を定めました。しかし、恭仁京は天平16年(744)にわずか4年あまりで廃都されてしまう。
その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北三町(330m)東西二町半(275m)の広大な寺域を持つ寺でした。山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されています。皆さんの立っている場所は、塔跡の正面になります。周囲を塀に囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であったと推定されます』

横には、「山城国分寺跡」の広大な芝地があった。
国有地でしょう。
こういう史跡を民間によって乱開発されないよう国として管理し後世に伝えていく姿勢に敬意を表する。
教科書には出てくるが、ほとんど観光客も訪れない地がこういう形でしっかり遺されているから、僕のような歴史好きが生まれるのだと思う。
歴史好きは郷土好きで、家族好き・親族好き・国家好きに繋がるように思う。

R163に戻る。
「海住山寺」への案内板があった。
拝観時間前なのでパス。
r5に入り、高級宇治茶生産地「和束町」のど真ん中を走る。
20180623SeikaS0101s.jpg 7:02「弥勒磨崖仏」。

20180623SeikaS0106s.jpg r62にチェンジし、7:07「安積親王陵墓」。
「聖武天皇皇子・安積親王和束墓」。
聖武天皇の第2皇子で、長男が死去したので皇太子最有力候補だったが、聖武天皇内親王(母・光明皇后)安倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子された。
その後、17才の若さで死去した。
20180623SeikaS0110s.jpg その死があまりに急であったため藤原仲麻呂による毒殺説があるそうだ。

20180623SeikaS0111s.jpg r62を進むと道がいきなり細くなり山道になりました。7:19「八王子神社」。
八王子は、天照大神と素盞嗚命が誓約を行った時、素盞嗚命が天照大神の首飾りを頬張り吹き出した5王子と、天照大神が素盞嗚命の剣を飲み吹き出した3女神。
祭神の起源を頭に描き、日本の長い長い歴史に思いを馳せる。
天皇家は、現代日本人の祖先を辿ると必ず何処かでつながる祖先の本家。

母方の先祖は室町時代まで遡れる城持ち菅家党の武士。
その数代前、平安時代に美作守として京都より赴任した菅原道真の末。
先祖を探索する旅で、戦に破れ討死した先祖が、神社の祭神として祀られており心に熱いものを感じた。
頭の宮・胴の宮など、3つに別れた遺体を葬った場所にそれぞれの神社が建っていた。
その宮を勧請し、我が家の庭に祠をこしらえ毎日手を合わせている。
菅原道真を祀る天満宮を見つけると参るようにしている。

現代日本人の総本家・天皇家が現在でも続いているのを身近に感じる国民は、世界ひろしと言えど日本人ぐらいじゃないだろうか。
同じ列島を同じ民族が脈々と支配・住み続けてきた日本民族に生まれ、僕は幸せものです。

期待していたほど大きくなく、歴史がありそうになくこんなもんかな。
瀬田川に突き当たり、r3になり瀬田川沿いを大津に向かいます。
道なりにR422になりました。




スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

main_line
main_line
プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
/norimakiturbo/
から引っ越してきました。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR