1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 牧野富太郎植物研究所跡~会下山善光寺~長田神社~柳原蛭子神社

「牧野富太郎植物図鑑」は、母から初めてプレゼントされた図鑑でした。
母は、終戦時高等女学校生で、終戦直後焼け野が原の東京の理系大学に入学し、牧野富太郎のこの図鑑を使って勉強していました。
幼時からの毎日の本の読み聞かせで本好きになっていた僕に、大学生や研究者が使うようなこの本を買い与えました。
まだ小学生の僕は、詳細に書かれた植物の絵を見ながら、「これは何という草かな?」などと調べていました。
小学生植物図鑑などとは情報量が雲泥の差で、友達に「すげ~」と言われ自慢の本でした。

後世の大きな興味には繋がらなかったけど、南方熊楠などへの興味につながっていった。
現在の植物図鑑は多数の写真が載っているが、それが全てフリーハンドのペン書きで、その絵の素晴らしさの方に興味が行き、植物の絵・戦闘機の絵・軍艦の絵など精細画が僕の得意となった。

小学生時代は絵が得意で、学校代表として阪神大会にも出展した。
あの原点は、牧野富太郎植物図鑑に他ならない。
お世話になりました。

水仙がたくさん咲いていました。
南向き斜面だからでしょう。
我が家の水仙は、まだ数本しか咲いていません。

20180106MinatoS0083s.jpg 13:15「会下山善光寺」。
「聖徳太子堂」がある。
墓地に並んだ墓石はそれほど古いものはなさそう。
20180106MinatoS0091s.jpg 五輪塔を中心に「至誠報国 陸軍大将・荒木貞夫」と彫られた石柱が立っていた。
荒木貞夫は、2.26事件などを起こした陸軍青年将校の思想的支柱の方です。
大東亜戦争終戦後、A級戦犯終身刑に処されました。
神戸にゆかりの方かと調べましたが、接点はなさそうです。

A級戦犯で死刑になった元首相・陸軍大将であった東条英機さんのお子さんが、東京裁判の無効・名誉回復を願って声を上げ、最近東京裁判自体を否定する意見が強くなっている。
僕もこの裁判自体は、戦勝国による日本再生を阻むための国際法に反するリンチだと思うが、戦犯として裁かれた方々の名誉回復を求めなくても良いように思う。

日本の軍人は、遠い昔の武士の時代から、勝敗は時の運として、愛する家族・集落・国のために戦い散っていった。
将たるもの勝てば利を得るが、負ければ潔く腹を切り敗戦を認め、敗残兵の命を保つことを願った。
そして子孫に生き様を見せ、潔い思想を伝えていった。

法律的には無念だったろう戦犯に問われ罪を負った方々とて同じで、自らの命は敗戦したこと、多くの将兵を死なせてしまった自責の念から、罪を背負って刑に臨んだように思う。
それで良いのではないかと思う。
そんな潔さが日本人の心に響くように思う。

戦勝国から大罪人とされたA級戦犯の方でも、日本各地にその人柄を偲び、その人格・行動力を称える碑が立っている。
それを見た僕のような後世の者が、何かを感じれば良いと思う。

戦後、密かに靖国神社に合祀された。
それを支持する考えを否定するわけではないし、そういう考え方があって良いように思うが、僕は違和感を感じる。
当時の世界情勢(有色人種で独立を保っていた国は日本含め数ヶ国のみ)を考えれば、あの時点で富を独り占めし、世の春を謳歌していた白人国家に対し一矢報いた勇気は素晴らしいと思うし、あの日本の行動があったから敗れはしたが、有色人種に勇気を与え、現在のように民族が独立する世界になったと思う。
でも日本国内のみに焦点を当てると、多くの国民を死なせてしまった。
終戦の時も、軍の指導者として・国の指導者として、時を無駄に使ったのではないか・・・
ならば、責任を取るのが当たり前で、自分の指示で命を亡くした多くの国民が眠る神社に、同じように祀られるのに違和感を感じる。

大切な息子を失い、生きる張りを失った親しいおばあさんがいた。
A級戦犯が合祀されてから、「もうあそこには参らない。息子を戦場に送った人に手を合わしたくない。骨も帰ってきてないけど、ちゃんとした墓地があるからいい」と憤慨していた。
親になり、そのおばあさんの気持ちが僕にもわかるようになった。
天皇陛下もあれ以降参らなくなった。
僕は天皇陛下の考えに共感します。

朱色に塗られた鐘楼が目立っている。
20180106MinatoS0098s.jpg 鐘の彫刻には天女が舞う姿。
20180106MinatoS0095s.jpg 横には「十方講」と刻まれた玉垣に囲まれた大きめの不動明王像が立っており、その前には護摩行が行われた跡・・・修験道寺院なのかな?

20180106MinatoS0101s.jpg 目指す「平業盛の塚」がありました。
『一ノ谷の戦いで、業盛は兄と共に山ノ手の陣を守っていましたが、義経方の多田行綱勢により、味方は大混乱に陥り大敗します。兄や郎党らにはぐれた業盛は、緋縅(ひおどし)の鎧を着て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬に乗り、海上の船に向かって逃れる途中、ただ一騎で渚に佇んでいたところに常陸国(茨城県)の住人泥屋(ひじや)四郎吉安・五郎の兄弟が、業盛めがけて突進してきました。
兄の泥屋(土屋)四郎に組みかかられ、馬から落ちて上になり下になりして激しくもみ合ううちに、古井戸に落ちてしまい、上になった業盛が四郎の首を?こうとした時、弟の五郎が現れ兄を討たせまいと業盛の兜のしころにとりついて引き離そうとします。
17才とはいえ、大力の業盛が頭を力一杯ふると、甲の緒が切れ五郎は甲を持ったまま二ひろ(3・6m)も投げ飛ばされてしまいました。しかし五郎はこれにひるまず、すぐに起き上がり業盛の首を取り、兄を井戸から引き上げました。
業盛の怪力に人々は感心し、その死を惜しまぬ者はいませんでした』

20180106MinatoS0108s.jpg 南下して中山手通を西進し、13:38「長田神社」。
神戸三大神社の1つです。
あとの2つは「生田神社」「湊川神社」。
久々に長田神社に来ました。

境内に入り目に飛び込んできたのは、高校生ぐらいの若い女の子3人が私服でコマ回しと皿まわしをやっていたことです。
コマを高く放り投げ紐でそれをキャッチする、細く長い竹先で皿をクルクル回すなどお正月のTV番組でよく見る芸です。
芸人の卵なのかな?
いずれにしても新年らしくお目出度い。

絵馬殿を覗き、本殿に向かい神門を潜ります。
左右の神門柱に札が下がっています。
20180106MinatoS0117s.jpg 「八日 成人の日 祈願祭」「七日 昭和天皇遥拝式」。
先の天皇を遥拝する式典があることに驚きました。
日本が初めて敗戦し大きな犠牲を払った先の大戦の時の天皇なので、遥拝する方も多いだろう。
昭和天皇のご聖断により、大東亜戦争は終結した。
分裂していた内閣で、このご聖断がなければ、さらに戦争が長引き、本土決戦によりさらに多くの日米両軍の犠牲者が出ただろう。
湾岸戦争後、内戦状態が今でも続いているイラクのようにならずに、日本人としての誇りを何とか保ち、その後の高度成長を経て短期間に一流国に戻したのは、昭和天皇の功績も大きいと思う。

きっと100年後も1000年後も、歴史に大きな名を残し日本史試験の必須記憶天皇になるだろう。
御神徳は多く、百貨店のように書かれている。
今年の僕のお願いは何と言っても4人目の孫の健康とお嫁さんの安産です。
「安産腹帯」というのも書かれていました。

拝殿で手を合わせ、摂社を巡ります。
七福神周りには笹が地面から立ってる。
「熊野神社」と同じ「えべっさんバージョン」です。

20180106MinatoS0127s.jpg 「楠宮稲荷」は朱がいっぱい。
ここの鳥居にも笹が縄でいわえてある。
絵馬掛けで書かれた願い事を読むのが面白い。

『楠宮稲荷社の神木と赤エイの由来 御神木「楠」は瀬戸内に生息する赤エイが苅藻川を遡り化身したと伝えられ、以来常食であった美味な赤エイを断って願を掛けると願いが適うと信仰されている。古来、病気平癒、心願成就のあらたかな霊験の中でも特に痔病に格別のお蔭があり、広く崇敬されている。御新顛には赤エイの絵馬に性別・千支・年齢を書いてお供えし、お礼詣リにも絵馬を奉納下さい』

まさか「痔疾に効く」が出て来るとは思いませんでした。
20180106MinatoS0133s.jpg 本殿を巡る感じで回廊があり、絵馬掛けがありました。
20180106MinatoS0134s.jpg 絵馬は赤エイで、年齢と名前が書かれた絵馬がずらりと掛けられていました。
「この方は痔でお悩みだったのか・・・」なんて思っちゃいました。
商売繁盛・収穫の神様であるお稲荷さんも、病気治療にまで進出して来たんだ。

長田神社本殿裏の絵馬掛けには、一般的な五角形絵馬と奴凧型の合格絵馬が下がっていました。
「天照皇大御神神社」があり、おみくじ掛けには沢山のおみくじが・・・。
「月読社」「松尾社」。

20180106MinatoS0152s.jpg 14:06「柳原蛭子神社」。
『福の神として、古くから崇敬されている蛭子神社(神戸柳原のえべっさん)は、人口150万人の神戸市の中で、歴史と伝統のある兵庫の地に、えびすの杜として鎮座しています。その御鎮座の年代は詳らかではありませんが、社記によりますと、往古、蛭子命天磐櫞船に乗りて淡海島より津国に遷座し、一社が創建されました。
その昔、毎年8月22日には、西宮神社の兵庫までの神幸の渡御が行われました。
往路は、海上20kmを兵庫津和田岬まで渡御され、還幸は陸路西宮内町を通って西宮へ還られました。当時の社地は西宮内町にあり、神輿の行在所となっていました。後に現在の柳原の地に遷座し一社として創建され、光格天皇の御代には奉幣御勅使の代参もあり、その御神徳は日増しに高く、福徳守護の神として、御神威年と共に津々浦々に拡がっています。
御祭神:蛭子大神・大物主大神
柳原の歴史 兵庫津が史上に現れたのは、平清盛の大輪田修築の頃と思われます。
その兵庫津は、元録地図によると東は湊町から須佐・入江に達し、都賀の堤(兵庫の外郭)で一郭をなしていました。その兵庫の西の端にある柳原の名は、往古この地に柳の大樹があり、その名が由来とされています。また、現在の御本殿裏附近に柳原総門があり、それは、兵庫の棒鼻として兵庫津の西国往還の出入り口、宿場として繁栄しました。そして、天明7年頃(1788)、柳原には72軒の戸数があり、その繁栄は明治維新まで続きました。
現今の神戸の中心地は、三宮界隈に集中していますが、神戸発生の地である兵庫は、明治以後急速に発展し、大正を経て昭和20年頃までは、商工の中心地として大いに繁栄しました』

1/9~10の年3日で1年間稼ぐと言われる蛭子神社は、本番に備えて電気の配線工事を業者が入ってしていました。20180106MinatoS0163s.jpg 
社務所には「福笹3000円」と書かれていました。
20180106MinatoS0162s.jpg 「お神酒拝裁所 神饌初穂料(お志1000円より)」の屋台も準備されており、その前に空の大樽が置いてありました。


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