1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 平野神社~願成寺~牧野富太郎植物研究所跡

神戸界隈の平清盛ゆかりの地巡りの積み残しを巡りました。
今まで3回バイクで巡りましたが、浮気心が出て予定外の訪問を入れた結果時間切れ積み残しが続いていました。
今回こそコンプリートしましょう。

11:13自宅出発。
R171~山手幹線を西進し、12:00「新神戸駅」近くの「布引交差点」。
20180106MinatoS0002s.jpg 「神戸布引ロープウェイ」が再度山の方に登っています。
20180106MinatoS0003s.jpg 特徴的な外観で遠くからでも新神戸駅のランドマークになる「ANAクラウンプラザ神戸ホテル」が見えます。
素敵なスッキリした天をつくデザインです。

生田川を隔てて対岸に超高層マンションが建っています。
20180106MinatoS0004s.jpg 「ジークレフ新神戸タワー」だそうです。
高所が怖い僕にはとても住めないが、景色は最高でしょう。
20180106MinatoS0006s.jpg 十字架を持った高い塔があるキリスト教会もある。
生田川公園でトイレを拝借しました。

道なりに「神戸駅」方面に南下し、加納町交差点を右折して中山手通を西進。
右折して山の手を上がっていくと、「相楽園」の西塀に沿う道でした。
久しぶりなので相楽園に寄り道しようかとの誘惑が頭を過りましたが、誘惑に勝って北に上り、どん詰まりを左折して「山麓線」を西進します。

R428を「平野交差点」で横切り、ちょっと迷ったけど「夢野町2交差点」を右折し、12:28「熊野神社」。
『平清盛が福原(神戸市)遷都に際し、後白河法皇の崇敬深い紀州熊野権現を皇城鎮護神として東向きに奉鎮した。以来当夢野町住民は産土神として崇敬した。権現とは、仏教渡来以来、崇高かつ御神徳の高い神々の称号。 祭神:伊弉諾尊・伊弉冉命 神徳:事業創設・殖産興業・縁結び・福徳延命 燈籠:仏教伝来とともに、仏前の燃燈供養の具として渡来。神前にみあかしを上げるという自分の真心を献げる具体的表現法。近世は一対で献上されるが、古くは単独で一基奉献されていた 狛(高麗)犬:中国朝鮮より渡来。中国では瑞獣として珍重され、犬というより獅子。魔除けの意味で神社・仏閣の守護に任ずるようになった』

20180106MinatoS0014s.jpg 石畳参道脇におみくじが結ばれた笹が立ち賑やかです。
社務所には十二支の干支守護が並べられていた。
手水は丸い球から流れ出ており珍しい。
慰霊殿の神明鳥居の両足にも竹が結ばれている。
玉垣の内側に「力石」が置かれている。
力自慢の神事でもあるのかな?

摂社の「大神宮社」(祭神:天照座皇大御神)、荒木稲荷大神、金比羅神社(祭神:大物主神)、古殿神社(祭神:額田大中彦命)、牛神社(祭神:豊受姫大神)を巡り、最後に熊野神社に参りました。

南下し、12:48「願成寺」。
『天平年間(729年~749年)、行基が烏原村に観世音を安置し、観音寺と号した。平安後期、衰退していたのを、法然上人の弟子住蓮坊が中興して無量寿仏を安置し、願成寺と称した。住蓮は東大寺の実遍の子で、のち鳥羽上皇の官女、松虫・鈴虫を尼にした、世に有名な承元の法難で法然は土佐へ、親鸞は越後へ配流。住連は安楽と共に近江で斬罪に処せられ、弟子たちが住蓮の首をこの寺内に葬ったといわれている。またその首を鳥がくわえて運んできたので、もと上野といったところを鳥原というようになったとも伝えている』

浄土宗寺院で、「信州善光寺分身如来霊場」の石柱が門前に立っていた。
20180106MinatoS0041s.jpg 本殿蟇股には立派な龍の彫刻が施されている。
木鼻の象の彫刻も立派です。
玉眼が入っている。

墓地の奥に「平通盛・小宰相局塔・比翼塚」があった。
平家物語で、涙を誘うシーンの主人公です。
一の谷合戦で、源義経の奇襲により、多勢であった平家軍は混乱に陥り、平清盛の弟教盛の嫡男・通盛は討ち死にしました。

通盛の妻の1人・小宰相は、夫の死を知り屋島へ退却する平家軍の軍船から身を投げてしまった。
その乳母であった呉葉は、2人の菩提をこの寺で弔った。
呉葉の小さな五輪塔も立っていた。

20180106MinatoS0059s.jpg 呉葉の兄・住蓮の墓石・五輪塔が、通盛と並んでいた。
というより、歴代住職の無縫塔の列に、通盛・小宰相の墓石が並んでいるとの表現の方が適切です。

源氏政権が成立し鎌倉時代に入って、後鳥羽上皇が熊野詣中、侍女・松虫と鈴虫が、法然の弟子安楽と住蓮の念仏会に参加し、出家してしまった。
上皇は激怒し、安楽・住蓮は死罪になり、法然は四国に、親鸞は越後に流罪とされた。
松虫・鈴虫の墓石も呉葉とともに歴代住職墓石の並びに残っており、浄土宗の法禍に連座した者達の集合地になっていた。

通盛は、清盛亡き後、清盛の嫡男・重盛も先に亡くなっているので、清盛の弟・経盛とともに平家中枢を担った教盛の嫡男として、源平合戦の主力の将として働いたが、武運は微笑まなかった。
一の谷合戦で通盛はじめ多くの息子を失い教盛は辛かったろう。
平家物語では、男の子の地を湧き躍らせる合戦シーン後、落ちてゆく平家が描写される時、涙を誘うシーンです。

通盛の墓を観に行きたが、これだけ多くの関係者の墓が並んでいるとは思わなかった。
大きな収穫だった。

20180106MinatoS0061s.jpg 『墓石調査にご協力下さい 墓地埋葬に関する法律のに基づき、どなたが祀られているか把握しています。お墓にカードを掛けさせておりますので、カード裏面に庫裏玄関横備え付けのマジックで、お墓を主に祀っている方の住所・氏名・連絡先を記入の上、ポストにお入れ下さい』の札が立っている。
歴史の古い由緒ある寺院なので、江戸時代以前と思われる形式の立派な墓石の多くに、カードが下がったままです。
それなりの申告期間を経て、整理されるような気がする。

20180106MinatoS0064s.jpg 12:59、「善光寺」に向かう途中の「会下山公園」で「牧野富太郎植物研究所跡」と書かれた石柱を見つけ緊急停止。
『会下山館の石柱 植物分類学者・牧野富太郎(1862~1957)がこの場所にあった植物研究所での研究活動のために、神戸滞在中宿にしていた「会下会館」の門柱。会下会館は、牧野を支援していた神戸の富豪・池永孟(いけながはじめ1891~1955)が宿舎として建設したものです。
1995年阪神淡路大震災で被害を受けるまで、会下山町2丁目にありました。地元ゆかりの2人の関係を伝えるため、左側の1本をここ、右側は松本通3丁目の川池公園に設置しました』

『この公園は、牧野富太郎植物研究所跡地を公園として整備したものです。この公園には、牧野氏が命名した植物を中心に植栽しています』

20180106MinatoS0069s.jpg 『世界的植物学者・牧野富太郎博士の研究所が、大正7年から昭和16年までこの地にあった。研究所は、南蛮美術収集家として著名な池永孟が提供したものです。
日本植物分類学の先駆者である牧野富太郎は、「ヤマトグサ」をはじめ数々の新種を発見し、独学で研究の結果66才で理学博士、90才で文化功労者となり、昭和32年96才で没した』

『正元館 明治44(1911)年、校舎改築に伴って売却されることになった「兵庫尋常高等小学校」の木造瓦茸西洋風2階建講堂が、池長孟氏の父・通氏の尽力によって当所に移築され、大正元年11月10日に落成開館され「正元館」と名付けられ、通氏はその功績によって名誉館長に任命されたが大正3年に亡くなったため、建物その他一切が孟氏にゆずられた。昭和16年に牧野氏に標本や蔵書を返した後、建物は海軍の軍刀を作る「菊水鍛刀会」にゆずられて利用されたが、戦後建物は取り除かれた。
池永孟氏の牧野富太郎植物学者への援助と「池永植物研究所」設立 世界的な植物分類学者・牧野富太郎(1862~1955)は、研究生活の早い段階から経済的困窮に陥っていた。大正5(1916)年には借金がかさみ折角集めた植物の標本を売却せざるを得なくなった。同年12月18日の大阪朝日新聞に「不遇の学者牧野氏植物標本十万点を売らん」と書かれた。池長氏は牧野氏の境遇に同情し「他人に先鞭をつけられてはならない」とすぐに援助する行動に出た。池長氏が父(池長通)から受けついでいた「正元館」(現牧野公園に在った建物)に植物の標本を引きとり、関西は勿論全国的にも存在しなかった「植物標本陳列所」の設立を企画したが、池長氏の徴兵によって志は残念ながら頓挫した』


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