8/10・「龍澤寺」~大学ヨット部

~R8~r518を経て、8:39「龍澤寺」。
20170810BiwaS189s.jpg 石田三成の居城「佐和山城」の麓にあり、登城口もあった。
隣に「井伊神社」があった。

20170810BiwaS198s.jpg 『主祭神:直政彦命・直孝彦命 配祀神:井伊家歴代の神霊 神徳:学業成就・武芸上達・開運 権現造り複合社殿、内部は全て漆塗(本朱塗込黒漆塗上)で、彫刻・組物、蟇股には極彩色が施され、格天井の天井板には様々な草花が華麗に描かれている。
天保13年(1842)井伊直亮(なおあき)が、井伊家の始祖・共保(ともやす)公の750回忌に当たり、遠州井伊谷(いいのや)八幡宮から井伊大明神を分霊し神像を造り、龍潭寺参道脇に奉斎したのを創祀する。弘化2年(1845)社殿を今の地に移し、現社殿を建立した。昭和13年(1938)近隣の佐和山神社(祭神:藩祖井伊直政・直孝両公)並びに祖霊社(祭神:井伊直中・直亮・直弼・その他井伊家歴代藩主)の神霊を合祀した』

修理のため覆われていたが、彩色の落ちた見事な彫刻が施された社殿があった。
中に入れなかったので、謂れ板に書かれていたものは生憎確認できなかったが、写真が貼られていた。
彩色の落ちた社殿外部と違い、内部はそうとう鮮やかなようだ。

20170810BiwaS202s.jpg 鎮守の森には、立派な大木が林立している。
『井伊直憲公顕彰碑 大老直弼の嫡子。万延元年(1860)桜田門外の変で父・直弼が非業の死を遂げた後、13才で彦根藩最後の藩主となった。就任当初は幕府譜代大名筆頭の家格を持って35万石を領し、京都守護の任に当たり、和宮降嫁の際、将軍の名代として京都朝廷への上使を勤めた。幕府の大政奉還により、藩是「勤王の大義」に徹するという直憲の決意により官軍に属することとした。これにより彦根藩の動向を窺っていた各藩も官軍につくことに決し、明治政府成立への大きな原動力となった。その政治力・決断力は、大老直弼の「開国の決断」にも比する。
しかし彦根藩は幕府の厳しい処遇を受け、危機的な状況にあった。その後天誅組鎮圧のため大和へ出兵、禁門の変で長州藩と戦い、第2次長州戦には芸州広島へ、戊辰の役には奥州会津まで出兵し、多大な戦功を挙げた。版籍奉還後は彦根藩知事、彦根県知事として、さらに欧米に留学し、近代国家の文化を学び、彦根の文化・教育・産業振興の基礎を確立した』

20170810BiwaS205s.jpg 「だるま寺・庭の寺 龍潭寺」入口を入っていく。
拝観時間は9~17時。
ここは、佐和山ハイキングコース入口でもあった。
「山頂まで20~30分 拝観時間外は通行不可」
20170810BiwaS210s.jpg 緑に包まれた参道を行くと山門があり、それをくぐり進むと「大洞観音堂」がある。
更に進むと、無縁墓石が集められた場所があり、その奥に墓地が点在していた。

20170810BiwaS216s.jpg 「佐和山城跡に最近、野猿の群れが出没いたします。十分ご注意ください」の立て札が立っていた。
20170810BiwaS227s.jpg 「石田三成群霊供養」石柱が立っている。

駐車場に戻る。
『佐和山城跡 鎌倉時代初期、近江源氏佐々木定綱の6男時綱が、佐和山の麓に館を構えたのが始まり。その後湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境の城として攻防が繰り返され、湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、湖南の六角氏との間で争奪戦が展開された。
信長・秀吉の時代にも、近江の要衝の城として重視された。信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、安土城築城まで機能を維持した。秀吉の代も、堀秀政・堀尾吉晴・石田三成を配し、佐和山城に重きを置く姿勢は変わらなかった。この間整備が進み、山上に本丸・二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、山下には東山道に面し大手門が開き、二重に巡らされた堀の内外に侍屋敷・町家・足軽屋敷の城下町が形成された。関が原の戦い後に落城し廃城と化した』

『佐和山城ゆかりの戦国武将 浅井長政(1545~1573) 戦国時代になり、京極氏に代わり近江北部の戦国大名として台頭した浅井氏は、近江南部の六角氏と争った。織田信長からの同盟提案を受け入れ、信長の上洛を援護することで六角氏を退けることに成功した。同盟を機に信長の妹・市を妻として迎え、茶々・初・江三姉妹はじめ子宝に恵まれたが、元亀元年(1570)信長が浅井氏の盟友・朝倉氏を攻めたことをきっかけに、長政は同盟を破棄。朝倉軍とともに姉川の戦いで織田徳川軍と戦いました。佐和山に配された磯野員昌らは善戦しますが破れ、翌年信長に開城しました。天正元年(1573)、本拠地の小谷城を織田軍に囲まれ、長政は自害し29才の生涯を閉じました。残された市と三姉妹は信長の元に置かれ、その後の豊臣・徳川時代まで波乱に満ちた運命を辿っている』

『石田三成 近江国石田村(現在の長浜市)で生まれた三成は、羽柴秀吉が信長に仕えて長浜城主となった頃から、秀吉の側近として仕え、能吏としての手腕を発揮した。秀吉の天下となってからも、検地などで手腕を発揮し、五奉行筆頭になり佐和山城主に任ぜられた。三成の時代に佐和山城は整備され、五層の天守を備え、「三成に過ぎたるもの」とまで言われた。秀吉没後、天下を狙う徳川家康との対立を深め、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵を計画します。家康が諸大名を従え上杉家征伐についたのを機に、三成は挙兵を決意し、慶長5年(1600)9/15関ヶ原で家康ら東軍との戦いが始まりました。戦いは東軍の勝利に終わり、佐和山城も東軍の攻撃を受けて落城し、三成の父・正継を始め石田一族の多くが討ち死にした。三成は湖北に逃れますが、程なく捕縛され斬首された。三成の死後、佐和山の領民はその遺徳を偲んで地蔵などを築いてその霊を慰めた』

r518~r517~r2を経て枝道に入り、9:15湖畔の小さな砂浜で、コーチしてるヨット部のヨットを発見しました。
部員が泊まっている「上妙寺」を見つけた。
20170810BiwaS246s.jpg 部員に連絡し、境内に入ると本堂前に多くの荷物が出ており、琵琶湖周航中の部員たちがいた。

20170810BiwaS248s.jpg 女子マネージャーから、「朝ごはん食べますか?」と声を掛けられ、本堂横の建物内でご飯を食べた。
電気釜など陸上部隊のバックアップの厚さを感じました。
部員たちは、住職さんを呼びに行き、「ありがとうございました」。
住職さんからも「また来てくれてありがとう」の言葉。
僕からもお礼をいうと、住職さんがいろいろ話してくれました。
先々代の住職(現住職のお爺さん)が、周航中の悪天候でたまたま緊急避難した浜で困っていた部員に声を掛け、一夜の宿に本堂を提供したのが始まりだそうです。
その時小学生だった現住職さんも、そのことを覚えているそうです。

そのお爺さんが亡くなり既に50年。つまり、50年以上前から毎年ヨット部員がお世話になっているそうです。
今では夏にやってこないと寂しく思うぐらい、お寺にとっても年中行事の1つになっているようです。
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