8/10・「苗村神社」・大神門

車に戻り、次の目的地「甲良神社」にGPSをセットする。

r32を走っていると「祇王屋敷跡」という案内板が目に入りました。
祇王は、近江出身の絶世の美女白拍子で、平清盛に寵愛され西八条邸に囲われます。
その絶頂期、そこに若い白拍子・仏御前がやってきて、祇王の取り無しで清盛に舞を見せる機会に恵まれた。

清盛は若い仏御前に心を奪われ、祇王は母と妹・妓女とともに尼になり、京・嵯峨野「祇王寺」に庵を結ぶ。
やがて、清盛の寵愛を失った仏御前が訪ねてきて、4人で慎ましく暮らした。
平家物語のトピックの1つです。
「祇王寺」は、それなりに観光客が来て、観光スポットになっていたが、屋敷跡は慰霊碑が立っているのみでした。

~r2~r48~R477。
JR東海道線を渡り、「上野神社」前を通過し、R8に乗り換えます。
「国宝・苗村神社」の案内板が見えてきました。
寄り道しましょう。
右折しr541。

周囲は大穀倉地で見通しが良く、鎮守の森を探すのも容易です。
ここかな?と目星をつけたお宮目指して枝道に入って行くと、5:58「八幡神社」だった。
国旗を掲げるポールが立っている。
石鳥居の方を見ると、鳥居前にくたびれたしめ縄が下がり、数本のくたびれた縄が下がり先に茶色く変色した葉っぱがある。

20170810BiwaS039s.jpg しめ縄中央部に茶色い葉っぱが円を書いている。
そしてその円を指すように2本の尖った木がバッテンを書いている。
しめ縄から下がりが下がるのは見たことがあるが、サークルバッテンは初めてです。
何かの呪いかと思うが、謂れ板がなく分からない。

r541に戻り先に進む。
次に見えてきた神社は「左右神社」という名だった。
寄らなかったが立派で、大穀倉地の経済力を感じる。

6:04「苗村神社」。
県道を挟んで左右にお宮がある。
駐車場に車を入れると目に飛び込むのが、茅葺きの大神門でとても目立ちます。
神門前で小さな石太鼓橋があり広い未舗装道路を渡って神門。
この道路はかつては水濠だったのかもしれません。

20170810BiwaS043s.jpg 見上げる神門は巨大で、茅葺屋根も優しく形が整えられ、これが国宝かと思ったが重文だった。
『楼門 建立年代は明らかではないが、蟇股の輪郭部や斗拱(ときょう)形式などの技法から、応永(1394~1427)頃の造営と考えられる。3間社1戸楼門入母屋造・茅葺で、この地方最大規模の和様を基調とした遺構。上層の扉や連子窓も古式を示し、軒尾垂木の先端を斜めに造り、強い反りをつけているなど禅宗様の手法も混用されている。下層は縱横に貫で組まれる他、斗?間の小壁に至るまで開放されており、中央に扉もない形式は珍しい様相といえる』

20170810BiwaS048s.jpg 屋根を支えるため、垂木が芸術的に組まれ、見上げても飽きない。
重厚感があり素晴らしい。

20170810BiwaS053s.jpg 境内に入ると、左手に池があり小島に祠がある。
「竜神池」となっていた。
弁天池かと思ったが、竜神祠のようです。

20170810BiwaS054s.jpg 『祭神:那牟羅彦神・那牟羅姫神・国狭槌尊 御祭神の那牟羅彦神・那牟羅姫神は、当地方に始めて工芸技術・産業を伝え広められた産土の神様で夫婦和合、諸願成就の神様として、古来より篤く尊崇申し上げる祖神であります。國狹槌尊は、国土を開発し、五穀の豊穣と財宝の恵みを垂れ賜い、とりわけ子守大明神と申し上げ、幼児子供をお守り下さる御神徳は広大無辺、誠に格式高き神様として、当地方三十余郷の氏子達ひとしく崇敬申し上げる御祭神であります。 相殿神:大國主神・事代主神・素盞鳴尊 福徳を授け、良縁を結び、悪疫を滅し、五穀の豊穣を守護される神様であります。
当社の御鎮座は上古に属し、平安時代の延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)に列座された長寸(なむら)神社にして、格式の高い式内社であります。社伝によれば垂仁天皇の御代に当地方を開拓された御祖をお祀りしたのが創祀とされます。
即ち当社神域に現存する古墳或いは域内外より出土する陶物は、何れも古墳時代の遺跡或いは遺品であり当時既に祖先の遺業に励んだ部民の聚住を物語っています。これ等の先人達は、先祖に対する報恩の念により祖霊を神として、当神域の東の方にお祀りしたのに創り、この祭神こそ当地方最高の祖神と心得、地名である那牟羅(なむら)と同音になる長寸(なむら)(長は最高位 寸は村の古字)の字に替えて長寸神社と申し上げました。この御社を后の世になって東本殿と申すようになりました。
その后、時代の経過と共に稲作農耕が愈々盛んとなってきました平安時代の安和2年(969)3月28日、大和國芳野金峯山に鎮まり給うた國狹槌尊(くにのさつちみこと)の御神霊が、この神域の西の方に御遷座されるようになり、社殿を御造営申し上げ、此処に御鎮座になりました。この御社を東本殿に対して西本殿と御呼びします。
現在の西本殿は、社蔵されている当地方最古と言われる徳治3年(1308)の棟札によりますと、建保5年(1217)に修造され、更に徳治3年に再建されたこと、及び当時の修造には遠隔の地まで沙汰せられ、有力な豪族が神事を司ったことが明記されています。しかもその当時の建築様式(鎌倉時代)は、その后度々の修造もありましたが、当時の様式は今によく伝えられ、棟札と共に国宝に指定されています。
現時の社名、苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁紀3年3月新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の條に曰う吾那邑(あなのむら)でありましたが、その后、那牟羅(なむら)に改まり、更に長寸(なむら)に替えられました。次いで寛仁元年(1017)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、後一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村(なむら)の称号を賜り、以后苗村神社と呼ぶ、と記されています。
斯くて、創祀以来社運年毎に栄えて来ましたが、何時の時代も苗村郷三十三ヶ村の総社と、人々の信仰の中心となってきた大宮であります。
取り分け天文5年(1536)朝廷の当社に寄せられた格別の恩命は、未来永劫に亘って誇りとする処で、社有の記録には、同年3月22日、後奈良天皇は、当社に「正一位」の神位奉授し給い、同4月19日に勅使として中御門宗藤・山科言継を御差遣になり神位記を奉納され、ついで、神主盛継に修理大夫任官の口宣を御くだしになる。この時、征夷大将軍足利義晴より勅使参向に当って三箇條の禁制札を下地される。
続いて同5月9日、更に天皇は「正一位苗村大明神」の勅額の御下賜があり、又同月12日関白太政大臣近衛植家公を始め30人の公卿は、京都において法楽歌会を催され、同月16日中御門宗藤卿は、使者を以て当日の和歌を送られ、同19日神主盛継はこれを神前に奉納された記録が今に残っています。
天正年間には、織田信長が、天下太平を祈願し当社に馬鞍一具と太刀7振りを寄進している。誠に当社の栄誉これに勝るものなく、社名自ずと四海に遍くところであり、今日30余郷の氏人達は、累代に亘って神仕えされてきた春日皇子の後裔である現神主を中心として、この栄誉高き御宮に余念をまじえず、只管崇敬奉仕申し上げる処であります。
神域には国宝西本殿を始め、他5棟の建物、及び木造不動明王立像など国の重要文化財が保存され悠遠なる名社として歴史を物語っている』


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