8/6・湖西・来迎寺

コーチしている大学ヨット部のファミリーデイです。
琵琶湖の合宿所に11時集合なので、朝の時間に余裕があります。

3時に目が覚め、親御さん達に渡す資料をコピーします。
60人来られると聞いているので、時間がかかりました。
昨年10月の全日本団体戦予選最終日のコーチボートから見たドラマチックな様子を書きました。
今年のヨット部卒業式(追い出しコンパ)でも、OB/OGさん達に好評だったので、2匹目のドジョウを狙います。

スポーツタイツ・ラッシュガードを下に着て、コミネ夏用メッシュプロテクター上下を着ます。
バイクを降りた時用に、モンベルバミューダパンツとTシャツを持ちます。
ミラーレス一眼ソニーNEXC3と、望遠用にパナソニック・LumixG2の2台持っていきます。

「招き猫CB400SB」に、親御さん達に渡す資料を入れたバッグ・ライフジャケットも積み、4:33出発。
中央縦貫道~吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車し、湖西道路に乗って琵琶湖を北に向かいます。

滋賀里ランプで下車し、側道を北に向かいます。
坂本で右折し、琵琶湖岸R161に出ようと琵琶湖に向かうと、GPSに「来迎寺」が見えてきました。
ここに寄りましょう。

20170806OnoS001s.jpg 5:29「来迎寺」。
天台宗の寺院ですが、織田信長の比叡山焼き討ちの時、森可成の墓があることで難を逃れました。
森可成は、信長の有力武将で、信長とともに本能寺で討ち死にした森蘭丸3兄弟の父親です。
信長が石山本願寺を攻めている時、浅井朝倉軍が湖西を南下し挟み撃ちにしようとした時、湖西の宇佐山城を本拠に、寡兵ながら奮闘し、信長が京都に退却する時間を稼ぎました。
しかしながら嫡男共々この地で討ち死にしました。

『最澄(さいちょう)(768-822)の創建で、平安時代初期に源信(げんしん)(942-1017)が念仏道場として聖衆来迎寺と改称した。中世を通して延暦寺の念仏道場として栄え、戦国時代、織田信長による焼打ちのときも森蘭丸(らんまる)の父である森可成(よしなり)の墓があったために難を逃れ、優れた寺宝を数多く所蔵している』

20170806OnoS003s.jpg 山門は、明智光秀の城門を流用しており、重要文化財指定されていた。
20170806OnoS027s.jpg 境内は鐘楼・本堂などが静かに佇み、良い感じです。
20170806OnoS015s.jpg 鐘には天女が滑空する姿が浮彫りされ、漢文が刻まれていた。

石仏などが境内脇に並べられており、近隣に点在していた石仏が、道路工事などにより移されてきたのでは?と想像した。
雰囲気の良い屋根がついた祠があり、中を覗くと、石仏が押し込まれていた。
比叡山中には、石仏・刻み仏が無数にあり、それらを祀っているのかもしれない。

奈良風屋根を持った本堂と客殿があった。
『重要文化財・聖衆来迎寺客殿 桁行10間、梁間6間、南面入母屋造・北面切妻造、柿葺きの建物。内部は2列3室つまり6室からなり、旧書院や茶室が付いています。西南の上座の間は床・棚(井楼棚)・天袋・書院を備えた最高の室で、欄間彫刻も華麗です。他に竜虎の間、仏間などがあり、狩野探幽などの筆による障壁画によって飾られている。江戸時代初期の代表的な客殿で、寛永16年(1639)頃の建築』

「音声で紹介する戦国の大津歴史舞台」というQRコードが設置されていた。
20170806OnoS032s.jpg 『聖衆来迎寺開山堂 桁行3間・梁間3間・一重入母屋造・桟瓦葺・向拝1間の建物。延暦9年(790)伝教大師最澄が開いた。当初、地蔵教院と称したが、長保3年(1001)恵心僧都源信が、この地で紫雲の中に来迎を感得したことから阿弥陀如来を祀り、寺号を紫雲山来迎寺と改めた。開山堂には、この源信が祀られています。寛永15・16年(1638~39)に建てられ、近世初期の代表的小堂建築の1つ』

源信は、天台宗の中興の祖・良源の弟子で、浄土宗の祖とされている。
浄土宗開祖・法然や浄土真宗開祖・親鸞に影響を与えた高僧です。

20170806OnoS048s.jpg さて本命の「森可成の墓」。
五輪塔が立っています。
戦国時代の墓なのでこじんまりしているものと思っていましたが、意外に立派でした。
この墓のお陰で信長の焼き討ちを逃れることが出来、天台宗の正倉院という別名があるほど寺宝が遺っています。
森可成様々なので、江戸時代に入り作り変えたのかもしれません。

僕の名前は漢字は違いますが、同じ読みです。
父の字を一字貰った通名で、武将みたいで強そうだなと気に入っていました。
織田信長物語を読んだ時、一武将として登場する森可成でしたが、「やっぱり」と嬉しくなりました。

息子2人にも通名し、次男の名は、森可成の5人の息子たちが討ち死にした後最後に残り森家の家督を継いだ武将と同じです。
長男は息子2人にも通名しています。
次男に最初の子の娘が生まれたばかりですが、男の子を授かったら通名するかもしれませ
ん。
父親は、子を産み育てることは出来ませんが、名前を授ける事はできます。
墓石にお賽銭を置き、手を合わせました。

20170806OnoS052s.jpg その傍に、『寿々(鈴姫)之墓 岐阜城主・織田秀信公のご母堂』と謂れ書された墓石があった。
秀信は、織田信長の嫡男・信忠の嫡男の幼名・三法師です。
信長と信忠が本能寺で討ち死にし、織田政権の今後を話し合う清州会議で、柴田勝
家は信長の三男・信孝を推し、羽柴秀吉は三法師2才を推した。

岐阜城主で関ヶ原合戦で西軍に与した秀信は、敗戦で高野山に追放され、さらにそこの追放された。
密かにここに埋葬されたと来迎寺の過去帳に載っており、信忠の側室ながら嫡男・三法師を産んだ母は、ここで父と子の菩提を弔ったとされている。

母・寿々は、摂津源氏流れの塩川氏の娘という説が有力ですが、息子の亡骸を父・森可成の墓の隣に作るなどこの事実を見ると、森可成の娘説の方が有力な気がする。
信長が最も信頼した森可成であれば、嫡男の室に入れても不思議はない。
秀信の墓石は特定されていないが、寿々姫の隣にある五輪塔であるという説もある。
僕の歴史好きに新たな1ページが刻まれた。

そのお墓の後ろに歴代住職の墓と思われる無縫塔が並んでいました。
20170806OnoS055s.jpg 境内に池があり金魚が泳いでいた。
バシャと大きな音が出たので、鯉もいそうです。
20170806OnoS059s.jpg 縁側に素敵な生花鉢が置かれ、寺宝を見たくなりました。
ここは観光寺ではなく、寺宝を見るためには予約が必要です。

20170806OnoS065s.jpg サルスベリが白い花を咲かせており、形の良い松など、お金を掛けて手入れされている。
寺への参道脇の石垣は、近江の穴太衆本拠地近隣地なので、素晴らしい穴太積みになっていた。


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