5/14・和歌山海南・有田ツーリング2 中言神社~藤白神社

兵の強い国というのは、時代が経ても続くものです。
薩摩隼人で有名な薩摩も強兵の生産地ですし、土佐もそう、紀伊半島もそうです。
織田信長・豊臣秀吉を苦しめた鉄砲傭兵・雑賀衆の本拠地です。
織田信長の本拠地・尾張は弱かったけど、徳川家康の三河兵は強かったそうです。
徳川家康と同盟していなければ、信長は浅井朝倉軍に、姉川の戦いの時討ち死にしていました。
陸奥兵も、「進軍した後はペンペン草も生えない」との表現が残るほど強兵だったそうです。

薩摩隼人なんか、傭兵として朝廷に仕え、隼人石として神社境内に残るほど、飾っておくだけで威力があったそうです。
この地を線で結ぶと、太平洋岸で、海族が住み着いた地とも合致します。
司馬遼太郎によれば、大東亜戦争で日本軍にあって勇猛果敢を発揮した台湾の高砂族も、海族で薩摩隼人など日本太平洋岸の海族と元は同族だそうです。

天照大神と素盞嗚命が誓約した時、スサノオが姉の勾玉の輪を飲み吐き出したのが八王子です。
アマテラスがスサノオの剣を飲んで吐き出したのが女神・宗像三神で、八王子の勝ちで、アマテラスがスサノオの「高天原を奪いに来たのではない」の言葉を信じることになる。
その後、うんこを投げたり無茶苦茶するんだけど・・・。

20170514KainanS045s.jpg 天皇家が祀る神道が、かつての敵・名草氏の先祖も我が先祖同様に祀る・・・こういうおおらかな所が好きです。
『紀の国名水・黒牛の水 黒牛潟の岩を通して湧き出る清浄水(境内の井戸水)』があった。
20170514KainanS049s.jpg 黒い牛の像のしたから竹パイプを通して流れ出ていました。
20170514KainanS051s.jpg 
r135~R42で、7:50「藤白神社」
「有間皇子暗殺現場」とともに、この日のメインディッシュです。
父である孝徳天皇が646年「難波宮」に遷都したのに、前年にクーデター「大化の改新」を起こした実力者で皇太子の中大兄皇子(天智天皇)が反対し、明日香に帰ってしまった。
失意のうちに孝徳天皇は、6才の有間皇子を残して崩御された。

有間皇子は、政権移行の政争に巻き込まれるのを避けるため、仮病を使って「牟礼の湯」(白浜温泉)に湯治した。
中大兄皇子は、蘇我入鹿を討ち、蘇我蝦夷を自害させクーデターを成功させた後、兄を謀反を企てた罪で死罪にし、入鹿討ちの時味方した后の父・蘇我倉山田石川麻呂も自害に追い込んでいます。

有間皇子は明日香に戻り、重祚された次の天皇・斉明天皇に完治を報告し、牟礼の湯の素晴らしさを話し斉明天皇に白浜行幸を勧める。
天皇のいないこのタイミングで、政権打倒を企てた容疑で孝徳天皇の皇子・有間皇子が逮捕され、牟礼の湯に護送中、この地で処刑された。
これで、中大兄皇子のライバルは消えました。

20170514KainanS056s.jpg 楠の巨木が出迎えてくれました。
『天然記念物・藤白神社のクスノキ群 境内3ヶ所にクスノキの大木が5本あります。遠くから見ると、クスノキの森のようです。本殿前のクスノキは、幹周り10mを越え、北側は腐朽して空洞となっています。子守楠神社南の幹周り7m、背後の3本は幹周り5~6mですが、元々ここには全部合わせた以上の大きなクスノキがあった。飢饉が続き困った農民が、氏子で相談しこれを伐って救済資金とした。その切り株から4本が発芽し、現在に至る。昭和の初めまで、腐朽した切り株があった。昭和の初め頃まで、この地方には、子供の名前に楠神様にあやかり、「楠」の字を入れる事が多く、博物学者として世界的に有名な南方熊楠もその1人です』

 和歌山といえば、楠木正成が思い出されますが、さすが「木の国(紀の国)」ですね。
ここは、江戸時代の「お伊勢参り」のように、平安時代に大流行した「熊野参り」のメインストリート「熊野古道」の「藤白王子」跡でもあります。

1つ京寄りが「祓戸(はらえど)王子」
日本人の「綺麗好き」は、神道のお祓い・禊の心から生じたものだと思うし、綺麗好き日本人が生み出し育んで来たから、「お祓い」「禊」が重要視されるようになったとも言えます。
また、雨が多く、災害も多いがふんだんに綺麗な水が流れる日本列島が生んだ自然崇拝だから、必然だったのかもしれません。
素敵な名前です。

『熊野古道を歩く方々へ 当社(藤白王子)で道中の安全を祈願し、気を引き締めて藤白の急坂をお登りください』

20170514KainanS062s.jpg しめ縄が張られた巨大楠は、異様を見せています。
『史跡・藤白王子跡 この藤白王子社(現・藤白神社)は、平安時代から盛んに行われた熊野詣の礼拝所で、熊野99王子のうち、五体王子の1つとして特に格式の高かった神社です。中世の熊野行幸の際には、当社にご宿泊され、法楽のため御歌会・相撲会などが催された。藤原定家の「熊野御幸記」に、建仁元年(1201)に後鳥羽上皇が催された藤白王子和歌会が有名で、その時の「熊野懐紙」は国宝となっています』

20170514KainanS069s.jpg 『楠神社 古来「子守の宮」として広く信仰され、この神様から「楠」「熊」「藤」などの名前を授かる人が多い。南方熊楠もその1人です。千年杉は、海南市の文化財に指定されている』

20170514KainanS072s.jpg 藤白神社前境内に車が入り、太鼓など神事用品を出している。
ここで祭りがあるのか、どこかに持っていくのか・・・。

『熊の聖域への入口 平安から鎌倉の時代、「蟻の熊野詣」と言われるぐらい、熊野三山へ参る信仰が盛んであった。ここは柳屋旅館跡(現濱田邸)このあたり小栗街道両側には数軒の宿・茶屋が並び大いに賑わった』


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