4/9・京都西山「光明寺」

再びr10に出て、7:12「光明寺」
熊谷次郎直実の寺として有名な西山浄土宗の総本山です。

『当寺は西山浄土宗の本山で、建久九年(1198)蓮生奉仕(熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第1世としている。境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在して廊でつながれています。応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保十九年(1734)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以後の建立です。
総門をくぐり、美しい石畳の参道を登ると、正面に壮大な御影堂が、その右奥には阿弥陀堂があります。御影堂は宝暦3年(1753)の再建で、派手な装飾はないが全体的構成の精見性を意匠の主眼としたものです。阿弥陀堂は寛政十年(1799)の建立で、本堂より少し華やかな造りになっています。御影堂の後方にある御廟は明暦2年(1656)の再建で禅宗様を基調とした華麗な造りです。軒下回りの組物には多くの彫刻が施され、廟内の板壁は飛天や雲、蓮の花などが極彩色で描かれています。その前にある拝殿は山内では最も古い承応2年(1653)の建築です。
御影堂の左下には、元文元年(1736)の釈迦堂、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。天保4年(1833)に建立された講堂は、食堂とともに浄土宗寺院でも檀林(仏教の学問所)に関する類例の少ない遺構群であります』

『蓮生法師(熊谷次郎直実)と法然上人 寿永3年(1184)、源平一の谷合戦で、関東一の剛の者と呼ばれた熊谷次郎直実は、義経率いる奇襲部隊に所属し戦に臨んだ。良き敵を求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平敦盛(平清盛の甥・16才)を呼び止め、その首を取る。しかし自分の息子ほどの年齢の若武者を殺めたことで、悔恨の念と世の無常を感じる。建久4年(1193年)、直実は犯した罪を償うために武士を捨て、東山吉水の法然上人を訪ね仏門に入ります(法名:法力房蓮生)。建久9年(1198)、修行を経た蓮生法師は、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、ここ粟生の地に寺を建立します。そして、法然上人を招いて落慶法要を行い、上人を開山第1世、自らを第2世とし、上人から「念仏三昧院」の寺号を頂きました。これか光明寺発祥です。法然上人は建歴2年(1212年)に亡くなりました。晩年は、奈良や比叡山の古い教団から迫害を受けていたといいます。死後の嘉禄3年(1227)、比粗山の僧徒が、東山大谷の上人の墓を暴き、遺骸を鴨川に流そうと企てます。この企てを知った弟子達は、秘かに遺骸を太秦の西光寺に移しました。翌安貞2年(1228)、上人の石棺が光明を放ち、栗生の地を照らすという不思議な事が起こったため、遺骸をこの地に移し、火葬にして裏山に御廟を立てました。この時の奇瑞にちなみ、念仏三昧院は四条天皇より「光明寺」の寺額を賜り、以後「光明寺」と呼ばれるようになりました』

20170409YoshiS121s.jpg 「茗荷紋」が下がる山門をくぐると、広い階段が緩やかに登っています。
20170409YoshiS131s.jpg それを覆うように桜が枝を広げ、低い枝は顔に当たります。
相変わらず小雨が落ちてきますが、観光客は数人で素敵な風景を見せてくれます。
緑のもみじの葉との対比も素敵です。

20170409YoshiS140s.jpg 脇に無縫塔が数基、歴代住職のお墓でしょう。
20170409YoshiS149s.jpg 境内のソメイヨシノが満開で、これまた素敵で激写です。
20170409YoshiS142s.jpg 朝は良いね。


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