7/24・吉野~大峯奥駈道~洞川~みたらい渓谷~東吉野ツーリング7 武木小川林道~丹生川上神社

20160724YoshinoS289s.jpg 12:48、祠のある峠に着いた。
20160724YoshinoS290s.jpg 『足ノ郷峠・川上街道 峯越衆(おごししゅう):川上街道(東熊野街道支線)は、かつて東吉野と川上の交流を支えた重要な街道であった。菟田野や大宇陀の米が鷲家口(小川)を経由して川上村に運ばれた。
川上村へは、東川辻越え・白屋辻越え・足ノ郷越えの3つのルートがあって、東川・白屋・武木・井光への生活物資輸送路として利用された。また、正月や盆前には鷲家口に「市」が立って賑わい、普段でも川上からの買い物客がこの街道を往来した。昭和初期まで、鷲家口に「峯越衆」と呼ばれた生活物資運搬を本業にする人たちがいた。服装は、白脚絆・紺パッチ、夏は素足・冷え込む時期は自家製足袋とわらじ履きであった。荷物は、米60kgが通常で、他に酒・醤油・魚介類・陶器・針金・釘などを運んだ。
天誅組行軍の道:1863年9月24日、天誅組は東熊野街道を北上して、武木の庄屋・大西家などで昼食接待を受け、午後3時頃当地を出発した。彼らは戦闘に耐えうる元気な隊士を先陣に、傷病の隊士を後陣にして足ノ郷峠を越えて東吉野に入ってきた。そぼ降る雨の中、「五本桜」(現キリヤクボヘリポート付近)まで来ると、百姓2人が火を炊いて待っていた。鷲家口の情報を聞いたところ、前夜からここに来ていたので、その後の様子は知らないという。一行は2人を木に縛り付けて鷲家口突破の軍議を開いた。「本隊を2隊に分け、一隊は決死隊となって鷲家口に陣取る彦根勢を突破する。もう一隊は戦闘に乗じて守将・中山忠光卿を大坂の長州屋敷まで守護する」という作戦であった。傷病隊士の多くは、丹生川上神社方面に下り、木津川・伊豆尾方面に向かった。隊士の殆どは、勇途虚しく若い命を散らしたが、5年後に明治維新が成し遂げられた』

まさか、こんな山奥に、天誅組の謂われ板が立っているとは思わなかった。
天誅組の軌跡を調べていて知ったこの旧街道を、体験したくてここまで来たが、大河ドラマで取り上げられたわけでもないのに、手入れされていると思われる綺麗な謂れ板を見つけ、地元の当時の賊軍・天誅組への哀愁が偲ばれた。
諸行無常、戦い済めばノーサイドで敗軍将兵の墓を立て看病をする、日本人の心の美しさを感じる事ができた。ここまで登ってきて良かった。

ここから下りに入った。
すぐに、対向して上がってくるロードバイクがあった。
「あと200m」と声を掛けたかったが、疲れているのか顔さえ上げられなかった。
峠で出会っていれば、いっとき話せたろう。

20160724YoshinoS291s.jpg 12:52『天誅組さきがけの道・白屋辻 前方:小川、後方:川上』の看板がいくつも立っていた。
「天誅組さきがけの道」と銘打ち、現在地を教えてくれる。
天誅組への愛とともに、歴史好きしか通らないだろう旧街道通行者への愛を感じる。

13:02、前述の「ヘリポート」着。
『管理運営について このヘリポートの管理運営・使用料徴収について、地元財団法人・三尾自治会に委託しました。小型機:1荷につき300円、大型機:400円、給油基地:1給油5000円』

林業でヘリを使用するのだろう。
ヘリポートとは名ばかりの単に木を伐って拓いた空き地です。

白屋越え・東の川越の林道を通過し、13:16、r220に出た。
「東吉野キャンプ場」があり、「四郷川」河原では、水遊びされている方やテントが張られている。
温泉もあるようで、風呂隣接のキャンプ場はいい。

20160724YoshinoS307s.jpg r220を下り、13:23「丹生川上神社」
バイク置き場がなかったので、路上駐車。
横の川は浅く流れもゆっくりで、多くの方が川水浴を楽しんでいる。

r221で、13:29「魚見石」
『神武天皇東征の時、壬生川上において天神地祇を祀り、大和平定の成否を問われ、岩を川上神社神域の淵に沈められた。やがて吉兆現れ、大小の魚が木の葉のごとく酔い流れ、尊い神助の端祥を得られた。その魚の流れる様を臣の椎根津彦が見届けた場所を、古くから魚見石と言い伝える』


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