6/19・京都寺町~高瀬川散策6 瑞泉寺~三条~武市半平太~吉村寅太郎

『寺伝によれば、秀次の男児4名・女児1名、正室・側室・侍女など女性34名が処刑されました。一同の遺体は、縁者に下げ渡すことは許さず、刑場の脇に掘った大穴に全て投げ入れ、その上には塚を築き、頂上に秀次公の首を納めた「石ひつ」を据えた。「関白塚・摂政塚・殺生塚」などの名称で呼ばれる塚は、江戸時代初期に描かれた京洛の名所洛外図では、まれに三条大橋西詰めの位置に認めることが出来る。「秀次事件」は、朝鮮への侵略戦争「文禄・慶長の役」とともに、「太閤秀吉」の晩年の失政の1つといわれる。淀君に生まれた「秀頼」を秀吉の実子として、豊臣政権の後継者にするため、一度は関白位を譲った秀次とその一族を「謀反者」の罪名の下に抹殺しようとしたものです。16年後の1611年、角倉了以は塚の側に「秀次一族の墓石」を建立(現在の墓所)し、塚の跡は寺領として長く保存することにしました。因みに、了以の実弟は、医師として秀次に長く仕えた家臣であり、瑞泉寺創建は、その弟の一周忌の年に当たります。この4年後に、「秀頼と母・淀君」は、大坂城の落城とともに亡くなる』

秀吉と違い、秀次には4人も男子がいたのですね。
秀次と秀頼には大きな歳の差があるのだから、甥・秀次に一旦政権移譲する懐の深さがあれば、歴史は違っていたでしょう。
秀次の息子たちの度量はどんなものだったのだろう?

20160619TakaseS185s.jpg 『この堂に安置されている「引導地蔵尊」は、一族処刑の際、四条・大雲院の僧・貞安上人が木像を運び込み、次々に討たれる子女達に引導を授け続けたと伝わる像です。極楽浄土へ死者を導く「引導地蔵尊」として、京洛の人々に今日尚崇敬されています』

堂内は、引導地蔵尊を中心に、ひな飾り段のように、小雛小像が並んでいます。
一族郎党を粛清していった秀吉晩年の狂気を感じます。
この中には、秀吉が藤吉郎と呼ばれていた時、木曽川・川並衆であった前野将右衛門もいる。
同じ川並衆の蜂須賀小六とともに、秀吉に夢を感じ、最初の家来・与力になった人物です。

夢成ったが、秀吉政権の重臣として、秀次の教育係・陪臣となった老将を、なぜ秀吉は秀次に殉じさせねばならなかったのか?
郎党中の郎党に、死を賜る秀吉は、既に常軌を逸していたのでしょう。
徳川に政権が移るのは、天の差配と言う他ない。

20160619TakaseS195s.jpg 横には、一族の墓所がある。
墓石が並び、中央に秀次の首を入れたという「石ひつ」が置かれている。
ロウソクが灯されており、「ご自由にお使いください」と線香とロウソクが置かれていた。
20160619TakaseS200s.jpg ロウソクに火を灯し、無念に献灯した。
浄財入れもあったので、ロウソク代を入れる。

境内に東屋休憩所があり、壁に秀次関係の新聞の切り抜きや、写真などが貼ってあります。
また雨が落ちてきたので、腰掛けながらくまなく読みます。
至福の時間です。
江戸時代に描かれた絵の中に、三条大橋の橋の下の墳墓が載っています。
「橋の下とは、あまりに失礼な・・・」

朝から降ったり止んだりで、降っても傘が必要か微妙なほどの小雨です。
20160619TakaseS206s.jpg 東屋の隅の傘立てに、「貸し傘 京都観光の方は返却不要」と書いてあります。
数本のお安い傘が入っており、引き取り手のなかった忘れ物傘でしょう。
ご住職が、雨模様の日に出されておられるのだろう。
気遣いが優しいな。

三条通に出て、ミーティングのあるレストランの場所をチェックする。
すぐにわかった。
三条通を挟んで「がんこ寿司」があった。
元庄屋さんなどを借りて、和風の古民家風店を出店しており、好感が持てる会社です。
三田店を、法事で利用したこともあります。

更に木屋町通を北に歩く。
20160619TakaseS227s.jpg 高瀬川沿いにテラス席のあるお店がお洒落。
PIZZAと書いてあるので、イタリアンのお店でしょう。

20160619TakaseS229s.jpg 「ちりめん洋服発祥の地」&「武市瑞山先生寓居之跡」
土佐藩の尊皇攘夷論の急先鋒で中心人物、「土佐勤王党」武市半平太の京都での住まいがここか。
攘夷では坂本龍馬と意見が違ったが、盟友とも言える仲。
京都での住まいは、三条通を挟んで、直線距離100mといったところでしょうか。
一時は藩を動かす力を持ったが、藩論の変更により最後は獄中死した。
人を惹きつけ、リードできる怪物でした。

20160619TakaseS232s.jpg その横に、「吉村寅太郎寓居之跡」の石碑も立っていた。
武市半平太「土佐勤王党」の隊員で、尊王公家・中山忠光を担ぎだして「天誅組」を組織し、孝明天皇の大和行幸に先駆け、大和代官所を襲い旗揚げした。
軌を一にして長州が京で旗揚げするはずだったが、政局が急変し孤立無援になってしまった。

日本三大山城・高取城を本拠地にすべく攻撃をしたが、あえなく敗退。
吉野・大塔などで奮戦したが、十津川郷士の離反などで、幕府軍に鎮圧された。
明治維新に繋がる先駆けの勇士です。
「利自らにあらず」でしたが、結果は「神のみぞ知る」神の配剤ですから、現世を生きる人にはどうすることも出来ないこと。
僕は、この行動力に拍手を贈りたい。
こちらも魅力を感じる怪人物です。
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秀次事件は酷いですよね

アレがなかったら豊臣政権は家康公が死去するまで

安泰やったかも?しれませんね

そうなると江戸時代も生まれず数百年後の

日本の首都は大坂か京都に?

なんて妄想してるとなかなか面白かったりしますね

No title

しかずきんさん
その妄想、現実になってたかもしれませんね。
今回、秀次公の子供多さ・男子の多さをはっきり知り、家康公が側室に生まれた子も含め、多くの子を大名に輿入れさせたり、養子に入れたりして、徳川家の外壁として強化を図ったのと同じことが出来たのではないかと思いました。
徳川家も嫡流が絶え、庶流の子孫が徳川幕府将軍となり、徳川時代を謳歌します。秀吉に、家族ではなく、一族と考える度量がなかったことが残念です。
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