4/10 京都東大路界隈巡り6 霊山護国神社2

20160410KyotoS168s.jpg 『駆逐艦・長波の航跡 1942年6/30大阪藤長田造船所で竣工。8月北方キスカ島へ船団護衛。9月南方トラック島へ向かう第2水雷戦隊としてショートランド基地へ。ガタルカナル島陸軍部隊を支援十数回の輸送を遂行。10月南太平洋海戦。11月ルンガ沖夜戦に二水戦旗艦として参加。1943年再度北方艦隊に編入アッツ島支援及びキスカ島撤収作戦に従事する。この作戦で船体を損傷し、修理のため母港舞鶴に帰港修理。9月に南下、ラバウルを基地として、ブーゲンビル島沖海戦その他各海戦に参加。11/11ラバウル港における対空戦闘で被弾し航行不能となる。
巡洋艦夕張及び長良両船に、延々5000海里曳航され呉軍港に入港修理。1944年7月連合艦隊とともにシンガポール港に入港。10月ブルネイ港を経由レイテ島海戦に参加。11月マニラとレイテ島間の物資輸送護衛行動中、オルモック湾において米空母艦載機350余機と交戦激烈な対空戦闘の末、ついにオルモック湾に戦没する。 戦没者247柱 時刻12時45分 東経125度31分・北緯10度50分』

『昭和の杜 国のため、いのち捧げし、ますらおの、いさを忘るな、時うつれども』

『土佐藩招魂社』
『高知県招魂社 明治2年創立 創建:旧土佐藩 祭神:坂本龍馬・中岡慎太郎外100余烈士 昭和43年高知県人会篤志家の寄進により再建小像由来 この小像を拡大制作したものが円山公園の銅像である。坂本竜馬像は、寺田屋お登勢が伏見在住の画家・田中松穂に描かせた先生遭難直前の肖像をモデルにしたもので、当歴史館に保存されている』

20160410KyotoS177s.jpg 『吉村寅太郎の墓 天誅組 1863年8月13日、大和行幸の詔が出るや「攘夷親征の奉迎」と土佐・吉村寅太郎をはじめ、三河刈谷の松本謙三郎・備前の藤本鉄石などは、侍従・中山忠光を盟主に立て、京都東郊の方広寺に集まり、統幕のため挙兵に出た。奈良県五條代官所を襲撃し成功したが、8/18の政変により事態は急変、行幸は中止となり、直ちに幕府は諸藩に彼らの追討を命じ、応戦するも十津川郷士の離反などから敗走を重ね、秀でた志士を失うこととなる。吉村寅太郎は、成績極めて優秀で、容姿端麗、同志間で目立つ存在であった。おくにという娘との清純な恋愛を通じ、青年としての喜びを感じた9/27、傷を負って敗走中、大和鷲家口で藤堂兵に囲まれ、「吉野山風に乱るるもみじ葉は、我が打つ太刀の血煙と見よ」と辞世を残し、銃弾を受け斃れる。享年27才。
天誅組総裁・藤本鉄石は、同志中最年長の48才にして文人墨客で、昼は一心に絵を描き、夜は志士たちと会議を重ね回天の策を巡らすという二重生活を送る。天誅組総裁・松本謙三郎は、18才の時槍術の稽古中に左目を失明、吉野山中での激戦にて敵弾を受け、右目をも失い自刃した。
過激な尊攘派で知られる中山忠光は、血路を開き大阪から海路長州へと逃れたが、1864年11月潜伏先の豊浦郡田耕村にて暗殺され、20才の人生を終える。
天誅組は倒幕の急先鋒であり、憂国の士の集団であったが、彼らの純粋な想いだけを残し短期に壊滅した』

20160410KyotoS180s.jpg ここから、手前の八坂の塔のバックに京都市街地が見下ろせ気持ちが良い。
坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓を拝見。
20160410KyotoS183s.jpg 2人の小像がある。
『坂本龍馬・中岡慎太郎の最期 徳川慶喜大政奉還劇の大作家・坂本龍馬は、洛中において河原町三条下がる材木商・酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難10日前に醤油商・近江屋新助方に転居した。龍馬は、当時幕府方から最も狙われていた志士で、新選組・見廻組らの追及が急となり、藩邸の堀内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。1867年11月15日午後6時頃中岡慎太郎が訪問、この2・3時間後、会議中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右肩から左背骨にかけ、三の太刀で前頭部を裂かれ倒れた。盟友・中岡慎太郎は、全身に傷を負い、2日後息を引き取った。18日、近江屋にて葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。昭憲皇太后の夢枕に一人の侍の影が立ち、「微臣坂本にございます。この度の海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえご安心願い上げます」と言い残すと消えたという。坂本龍馬、志士中の一級志士と言っても過言ではない』

20160410KyotoS188s.jpg 『池田屋事変 浪士狩りと称し洛中の取り締まりを行っていた新選組は、1864年6月5日早朝、武田観柳斎らにより、桝屋喜右衛門と名乗る古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所へ連行。土方歳三による激しい拷問により、志士密会と大謀議を自白。
同日夜半、池田屋にて会議中の尊王攘夷派志士たちを新選組・近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助らが襲撃。これにより宮部鼎蔵・吉田稔麿・松田重助ら優れた人材が闘死・捕縛され失われた。また事変が機となり長州藩が挙兵、上洛。
禁門の変が起こる。吉田稔麿・辞世の句「むすびても又むすびても、黒髪のみだれそめにし、世をいかにせむ」長州藩邸から池田屋に向かう途中に詠まれた』
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