3/13・大坂平野郷・坂上田村麻呂

「カフェ集まりグループ」に参加申し込みしました。
中之島に11:30集合です。
集合時間がゆっくりなので、先月河内歴史ツーリングの時、大阪平野・杭全神社で見つけたパンフレットに載ってた史跡を巡ろうと計画しました。
時間があれば、平野から中之島に戻る時、堺筋界隈に点在する歴史的建造物に寄り道しよう。

中之島での二輪駐車場の不安から、自転車で行くことにしました。
ロードバイクも考えたのですが、平野まで30kmで、往復&探索を含めると、80kmぐらいになりそうなので、距離がありすぎる。
輪行を加えると簡単なのですが、僕の輪行バッグは前輪を外すだけなので嵩張る。
乗降客の多い大阪市内の電車を考えると躊躇します。
しばらく使っていなかったブリジストン超ミニ折りたたみサイクルの登場させよう。

5時出発を予定していましたが、3時台に目覚めました。
4時に活動開始。
超ミニサイクルを出して見ると、空気が抜けてる。
これに合う空気入れを自宅から別の場所に動かしていたので、面倒になりNG。

仕方なく、「通勤リード110」で行くことにしました。
持っていくものはカメラとお財布・プリントアウトした地図ぐらいなものですが、自転車とバイクでは服装からして換えなければなりません。
リュック・ウエストバッグから、ヒップバッグに変更です。
夏用メッシュプロテクタージャケット&DAIWAフィッシングジャケットに服装も変更です。
ツーリングの時だけセットするリアボックスをセットし、飲み物と緊急食・カロリーメイトブロック・地図を入れます。
GPSナビをセットし、準備完了。

6:30出発になりました。
r13を南下、R43を東進し、天王寺・阿倍野からR25です。
平野での訪問地は、「日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂(平安時代)」一族関連、「大坂夏の陣」関連をメインに巡ります。

まず杭全神社の西門にバイクを停め、「春子姫の墓」を探します。
神社内にあるのかな?と思い境内に入ると、幸い掃き掃除中の宮司さんがおり尋ねます。
「大楠の東にあり屋根のある祠内」だそうです。
バイクを大楠の方に回し、墓地内を探します。

7:13、屋根のある・・・なんてないぞと思ったら、「坂上一族の墓所」と書かれた一角に、坂上一族の無縁墓石が集められていました。
201603013HiranoS001s.jpg
「坂上・・」「阪上・・」「藤原・・」と彫られた墓石がズラリ・・・これにはちょっと感動しました。

僕の通った小学校は、伊丹市大鹿というところにあります。
この「大鹿」という地名は古く、平安時代の日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂がここで大きな鹿を矢で射止めたことが由来です。
社会科の時間に坂上田村麻呂のお話が出ました。
担任先生が「坂上君、家はどこ?」「大鹿の・・・」
「そうか、坂上はきっと坂上田村麻呂の子孫だぞ、胸を張って先祖に恥じないように生きろよ」と言われました。

それはもう、クラス中が大はしゃぎで、坂上くんは一躍ヒーローです。
大鹿には「坂上」さんが多く、向こう三軒両隣「坂上」姓の表札が掛かっています。
平安時代の名族・坂上田村麻呂一族が住んだ地で、伊丹市に古くから住む名家です。
人には「ピグマリオン効果」というのがあり、人に褒められるとより頑張り、指導する方が「こいつは凄いやつや」と思って教えるだけで成績が上がります。
僕もコーチングで頻繁に使いますが、この先生はナイス先生でした。

白雪酒造を興した「小西さん」も一目置かれている名家です。
小西さん・坂上さんは、市会議員選挙に出ても当選しやすい。
僕の爺さんも群馬県の田舎の名家なので、村長や町長を歴任しました。
代々村の世話役です。
地の人なので親戚も多く住んでおり、「まあこの苗字の人にやらせておけば無難だろう」的なノリなのだと思います。
本人も、「僕の苗字は・・だ」と思うだけで、それに見合う人物になり、そういう仕事ができるようになります。
本家の現当主である僕の従兄弟は、群馬県の弁護士会会長をやっています。
KO大学法学部に3浪して入学したごく普通の従兄弟なんだけど、ピグマリオン効果で爺さんのように世話する役職を引き受けました。

201603013HiranoS002s.jpg
その横に、小さな格子扉付きの祠に守られた春子姫の墓石がありました。
『桓武天皇后・坂上田村麿息女・春子姫。葛井親王・春日内親王母。承和元年12月26日遷化』
田村麻呂の娘に、桓武天皇の后になった人がいたんだ。
葛井親王は天皇位に付けなかったので、下位の后だったのでしょう。

201603013HiranoS008s.jpg
杭全神社内から、「平野環濠跡」を見ました。
堺同様、環濠を拓いて外敵から集落を守った裕福な都市でした。
201603013HiranoS013s.jpg
坂上公園という所に行き、「坂上広野麿の墓」発見。
『平安朝初期(800年頃)、蝦夷攻略に武功のあった坂上田村麿第2子・広野麿が、朝廷より杭全庄を賜り、この地を領有した。嵯峨・淳和天皇に仕え、右兵衛佐に任ぜられ、この地に永住し、828年死没した。坂上家は子々孫々この地を領有し、平野殿と呼ばれた。「平野」の地名の由来は、広野麿が領有したことにより「広野庄」となり、後にそれがなまって「平野庄」となった』

平安時代の墓石い興味があったのですが、単なる岩でした。
当時は、埋葬地の目印に石を置いただけが、武人トップの朝廷職にある者でも普通だったようです。
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