11/1・高取山城址 その2

「松の門」という高取城内の門を移築した門があった。
『高取町の南東部には、標高583.9mの高取山がそびえ、山頂には高取城址(国指定史跡)があります。南北朝時代の1332年、この地方を治めた豪族・越智氏により築かれた山城で、その後本多氏などを経て、幕末・1868年まで植村氏の居城となりました。城内1万平方メートル・周囲3km。郭内6万平方メートル・周囲30kmという広大なものでした』

20151101TakatoriS024s.jpg
漆喰の白が綺麗な長屋門がありました。
『植村家長屋門 1826年に建てられ、入母屋瓦葺造り、門内の東西に各4室の部屋がある。江戸時代は、高取藩に仕える中間達がそれぞれの部屋に住んでいた。近世武家屋敷表門の遺構を残している貴重な建物である。当時は城代家老の役宅であったが、現在は旧藩主・植村氏の住居となっている』

空撮した城址の石垣にCG再現した天守他の建物を加えた案内板があった(奈良産業大学・高取城CG再現プロジェクト)。
CGのように建物を再現できたら、見事なものだろう。

舗装路を上がっていくと、「壺阪寺」があった。
下界を見下ろす良い景色です。
20151101TakatoriS026s.jpg
ここを過ぎると道が狭くなり、8:45・登山道分岐到着。
ここに数台停められる駐車スペースが有ります。
8:52「八幡神社」&「城址まで550m」登山道分岐。
ここにバイクを置いて登ろうかと提案するが、「もっと上まで行く」とあっさり却下された。

『高取城址は、急峻な山上地形を巧みに利用して築かれている。何段にも重ねた石垣や「食い違い虎口」(出入口)、急斜面により守られ、山麓の城下町との比高差は400m以上ある。
14世紀前半に土豪・越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まり。織田信長の一国破城により、1580年に一旦廃城となるが、1584年筒井順慶による復興を経て、豊臣秀長の家臣・本多氏により近世城郭として完成した。江戸時代に入り、1640年譜代の植村氏が入部して2万5千石の居城とした。以降明治維新まで、植村氏が14代に渡って城主となった。山上に、本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、城と城下町の2様相を山城としてまとめた特徴ある形である。そのため山城としては広大にならざるを得なかった。しかし平穏な時代には山上の生活が不便なため、藩主はじめ多くの家臣が山を降り、その結果、城郭と城下町が離れた得意な形態となっている』

9:08、登城車道のエンド。
簡易トイレが設置されている。先着車なし。
そこにバイクを置き、ジャケットを脱ぎ帽子を被って、城攻め開始。
ロープを張った杭が打たれている土留め簡易階段道にとり着くとすぐに、井戸と思われる地形があった。

20151101TakatoriS038s.jpg
振り返れば、素晴らしい下界の眺めです。
20151101TakatoriS044s.jpg
9:10・見上げれば石垣。
また井戸。
水の確保は城の守備の生命線だから、いくらあってもいい。さすが江戸時代の城、いくら山城といえど、見事な石垣が積んであります。

9:14、山頂曲輪到着。
平城同様に石垣がお見事。
適当に草が生え、適当に苔むし、大木もしっかり残り、いい感じの遺構です。
沖縄の山城はどこも裸山のように木木が切られ手入れされ、これでは風雨に晒され、遺構の保存は難しいだろうと文化の違いを感じた。
中世の山城は、こうでなくっちゃ。

20151101TakatoriS050s.jpg
日本三大山城の説明板があった。
標高日本一の「美濃岩村城」、天守が現存する城郭における日本一の標高「備中高松城」、そして比高日本一の「大和高取城」。
ここの登城で、僕の3城制覇達成です。
先客の男性が1人いるだけで、ウロウロ歩きまわり天守閣があったであろう最上部曲輪まで登りました。

和田山・竹田城の山上に浮かんだような景色には負けますが、石垣の保存状態や規模の大きさはこちらの勝ちです。
木々に埋もれた感が、忘れられた巨大山城の哀愁を誘います。

『本丸は、大小2棟の天守閣と鉛櫓・硝煙櫓を多門櫓(塁上に設けた細長い単層の櫓)と塀によって接続する。これを連立式形態と呼ぶ。東西40間(73m)南北35間(64m)の凸字型平面を成す。地形の変化に対応し築かれた山城は、自然に不規則な縄張りとなる。しかしこの本丸は、平城のように整然さを有するので、築城技術の完成した頃の構築とみられる。昭和47・48年の県教育委員会の高取城修理に伴い、本丸東北隅の部分を対象に、石垣の実測・根石の状態調査をしたが、石垣の歪は後補のものであり、隅石には転用材を使用している事が明らかになった。転用石の中には、漆喰の付着した石が2個検出され、切石古墳の石を使ったものと想定されている。漆喰は、分析により桜井付近の古墳漆喰と似ていると報告されている。また、本丸鉛櫓下の背面に補助的に設けられた布台石垣の下に配列された胴木の存在は、山城での依存例として唯一の発見例で注目すべきものである』

9:44、「最上部曲輪」到着。
家内が登城達成とばかりに、大きく伸びをしています。
下りだしたとこで、男性1女性2のグループが上がってこられました。
リュックスタイルなので、壺阪寺から上がってきたのかも?

高取城址・益田岩船
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

main_line
main_line
プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
/norimakiturbo/
から引っ越してきました。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR