4/26・京都藤森神社
「伏見桃山城」の道標通過。
桓武天皇陵も同じ所にあるので、久しぶりに訪問したくなりました。
「伏見(大和)街道」に入り、道標に従い、「藤森神社」到着。
ここにも摂社として「大将軍社」がありました。
『桓武天皇が平安遷都した時に四方に配した大将軍社の南方の守り。社殿は室町時代1438年、将軍足利義教の造
営で、造りは一間社流造の柿葺建物です。重要文化財』
柿葺(こけらぶき)は、薄い板を使う屋根葺きで、檜皮葺同様、とても綺麗です。
一応檜皮葺は桧の皮を使い、柿葺はヒノキ以外の木材も材料にして板を使います。
本殿は、とても美しい。
塀に囲まれているので近づけませんが、清潔感漂う手入れの行き届いた秀麗を感じます。

家紋は、上がり藤に「一」の字が入っています。
社務所で聞いたら、「上り藤に一文字」紋が定紋と言うことです。

『平安遷都以前に建立された古社で、素盞鳴尊・神功皇后・大和武尊など12柱に及ぶ神々を祀り、洛南深草の産土神として崇敬されている。「菖蒲の節句」発祥の神社として知られ、菖蒲が勝負に通じること、5/5に行われる藤森祭で曲乗りの妙技で有名な「駈馬神事」が行われることから、勝運と馬の神社として信仰が厚い。また日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王(とねりしんのう)を祭神としていることから、学問の神としても信仰されている。
本殿は、1712年中御門天皇より賜った宮中内侍所(賢所)の建物と言われる。また本殿背後の八幡宮は応神天皇を祀り、大将軍社は磐長姫命(イワナガヒメノミコト)を祀る。どちらも重要文化財指定されている。本殿東の神功皇后が新羅侵
攻の際に軍旗を埋納したと言われる旗塚や、2つとない良い水と名付けられた「不二の水」は有名である。6月の紫陽花が見事で、「紫陽花の宮」とも呼ばれている』
ここで舎人親王に出会えるとは思っていませんでした。
僕は武力随一より、ちょっと賢いブレーン・武内宿禰・菅原道真・舎人親王・吉備真備などに惹かれるのですが、舎人親王が最も謂れ板で目にしない人物です。
645年のクーデター・「大化の改新」の後の人で、クーデターの主役・天智天皇の弟・天武天皇の皇子です。
天皇の皇統が、天智天皇系からその後継をめぐる争い「壬申の乱」を経て天武系に動き、また天智天皇系に戻る100年ほどの天武系全盛の頃の人です。
その後今の天皇・今上天皇に至るまでずっと天智天皇系なので、隠れた有名人です。

神功皇后の三韓征伐の軍旗が埋められた塚・「御旗塚」は、境内の本殿横にポツンとありました。
僕には、ものすごい塚に思えるし、今の御時世東京にあれば、右翼に祭りあげられそう。
こういうものは、過ぎ去った歴史遺産として、ひっそりと佇んでいる方がいいです。

「不二の水」は、止めどなく流れており、時々水汲みの方が来られていました。
京都は、地下水の宝庫と言われているので、どこかの水脈と繋がっているのでしょう。
この湧水を神水として、平安遷都の時大将軍を祀ったのかもしれないし、神功皇后もこの井を神につなげて軍旗を埋めたのかも?

いずれにしても、神功皇后の三韓征伐の方が、平安遷都や大将軍社より前なので、「何故ここに?」の疑問が残ります。
その頃は、井戸しかなく、近隣の住民が重宝していたと思います。
京都宇治上神社・藤森神社 2/3
桓武天皇陵も同じ所にあるので、久しぶりに訪問したくなりました。
「伏見(大和)街道」に入り、道標に従い、「藤森神社」到着。
ここにも摂社として「大将軍社」がありました。
『桓武天皇が平安遷都した時に四方に配した大将軍社の南方の守り。社殿は室町時代1438年、将軍足利義教の造
営で、造りは一間社流造の柿葺建物です。重要文化財』
柿葺(こけらぶき)は、薄い板を使う屋根葺きで、檜皮葺同様、とても綺麗です。
一応檜皮葺は桧の皮を使い、柿葺はヒノキ以外の木材も材料にして板を使います。
本殿は、とても美しい。
塀に囲まれているので近づけませんが、清潔感漂う手入れの行き届いた秀麗を感じます。

家紋は、上がり藤に「一」の字が入っています。
社務所で聞いたら、「上り藤に一文字」紋が定紋と言うことです。

『平安遷都以前に建立された古社で、素盞鳴尊・神功皇后・大和武尊など12柱に及ぶ神々を祀り、洛南深草の産土神として崇敬されている。「菖蒲の節句」発祥の神社として知られ、菖蒲が勝負に通じること、5/5に行われる藤森祭で曲乗りの妙技で有名な「駈馬神事」が行われることから、勝運と馬の神社として信仰が厚い。また日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王(とねりしんのう)を祭神としていることから、学問の神としても信仰されている。
本殿は、1712年中御門天皇より賜った宮中内侍所(賢所)の建物と言われる。また本殿背後の八幡宮は応神天皇を祀り、大将軍社は磐長姫命(イワナガヒメノミコト)を祀る。どちらも重要文化財指定されている。本殿東の神功皇后が新羅侵
攻の際に軍旗を埋納したと言われる旗塚や、2つとない良い水と名付けられた「不二の水」は有名である。6月の紫陽花が見事で、「紫陽花の宮」とも呼ばれている』
ここで舎人親王に出会えるとは思っていませんでした。
僕は武力随一より、ちょっと賢いブレーン・武内宿禰・菅原道真・舎人親王・吉備真備などに惹かれるのですが、舎人親王が最も謂れ板で目にしない人物です。
645年のクーデター・「大化の改新」の後の人で、クーデターの主役・天智天皇の弟・天武天皇の皇子です。
天皇の皇統が、天智天皇系からその後継をめぐる争い「壬申の乱」を経て天武系に動き、また天智天皇系に戻る100年ほどの天武系全盛の頃の人です。
その後今の天皇・今上天皇に至るまでずっと天智天皇系なので、隠れた有名人です。

神功皇后の三韓征伐の軍旗が埋められた塚・「御旗塚」は、境内の本殿横にポツンとありました。
僕には、ものすごい塚に思えるし、今の御時世東京にあれば、右翼に祭りあげられそう。
こういうものは、過ぎ去った歴史遺産として、ひっそりと佇んでいる方がいいです。

「不二の水」は、止めどなく流れており、時々水汲みの方が来られていました。
京都は、地下水の宝庫と言われているので、どこかの水脈と繋がっているのでしょう。
この湧水を神水として、平安遷都の時大将軍を祀ったのかもしれないし、神功皇后もこの井を神につなげて軍旗を埋めたのかも?

いずれにしても、神功皇后の三韓征伐の方が、平安遷都や大将軍社より前なので、「何故ここに?」の疑問が残ります。
その頃は、井戸しかなく、近隣の住民が重宝していたと思います。
京都宇治上神社・藤森神社 2/3
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