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5/13・はじめての靖国神社

次男が、今春からお嫁さんの実家(埼玉県)に、ご両親と一緒に住むようになりました。
実家を改装し、2世帯住宅に作り変えました。
実家の隣の家を買って2棟・3世代で住んだ我が家のように、庭に新築して住む選択もあったそうですが、庭が狭くなるので、2世帯住宅を選択したそうです。
次男は建築士なので、図面を自分で引き、仕事繋がりのある施工業者にお願いしました。
新築と同じぐらいの費用を掛け、返済生活に入りました。

結婚前からお父さんに気に入られ、しょっちゅう伺っており、お嫁さんは女兄弟の長女なので、「一緒に住まないか?」は自然な流れでした。
第一子が生まれ正式に言われ、私に相談して来ました。
私は大賛成しました。
お嫁さんは、家内同様働きたい人で、子育てするのに親が一緒にいる、あるいは近くにいる環境は何
かと楽で安心です。

建物ができ、門などエクステリアは未完成ですが、引っ越し荷物を片付いたので「見においで」とのリクエストがあったので応えました。
引っ越し中、完全リタイヤしたお父さんが庭仕事で肩を痛め右手が使えなくなりました。
早速庭仕事など男手が必要なことは、みな次男がやっているようです。

いつもなら、新幹線自由席で行き当たりばったり行くのですが、兄から「東京ブックマーク」で「新幹線+宿が、新幹線代ぐらいで手に入る」のでいつも利用していると聞いていたので、ウェブサイトにアクセスしてみました。
日帰りなので対象外だろうと思っていたら、「0泊」というのがありました。
クリックすると、近畿日本ツーリストの商品サイトに飛び、往復2万円(正規運賃なら3万円)でし
た。

1ヶ月前から売り出すとのことで、次男とお嫁さんに都合をメールで聞きました。
2日ほど音沙汰が無いので、サイド問い合わせると「ゴメン、忘れてた。5/13でOK」との返事を受け、予約しに再びサイトを開きました。
そしたら、既に往路一般指定席は売り切れており、仕方なくグリーン車利用にしました。
往路グリーン車でも2人で往復43200円とお得でした。
新幹線車内販売コーヒータダ券2枚+東京駅一番街お買い物券1000円×2+東京メトロ24hチケット×2がおまけで付いているので、それも現金換算したら更にお得になります。

朝3時に目覚めてしまいました。
前日1日中船に乗っていたので起きられるか心配で、家内に「4時に起こして」と言っていましたが、僕の方が早く起きちゃいました。
二度寝すると起きられないと思い、倉庫に行きゴソゴソし始めました。

「通勤リード110」に家内のヘルメットとカッパを入れたリアボックスを付け、用意万端整えました。
天気予報は、「伊丹:12~21雨」「埼玉:夕方から雨」で、うまくいくと自宅~駅は雨に降られないかも知れません。

北伊丹5:25~5:49新大阪。
6:16新幹線のぞみに乗れました。
グリーン車は2+2座席で椅子幅が広いだけで、特に値段差以上の良いなは感じませんでした。
おしぼり出てくるし、足置きあるし、車内販売も多く回ってくるけど、そんなのどっちでも良いです。

6:43「JR東海パッセンジャーズホットコーヒー320円」をタダ券で家内が注文し、ぶどうパンを食べていました。
僕は家内が用意してくれたファミリーマート・ドーナツ4個パックを朝食にしましたが、甘すぎてミスタードーナツのドーナツとは大違いでした。
20180513KawaS0008s.jpg 毎回期待している富士山は、生憎の曇り空でしたが、一瞬頂きを見せてくれました。
かなり雪が溶けており、最も美しい感じからは少なすぎました。

8:43東京駅。
8:48JR中央線に乗り遅れ、御茶ノ水~総武線~9:05JR飯田橋。
ここのホームで家内は待ち、僕は人生初めての靖国神社参りです。
徒歩10分だそうですが、迷いそうなのでタクシーに乗りました。
靖国神社・田安門まで490円。
20180513KawaS0017s.jpg 大鳥居をくぐります。
次男夫婦は、初めての子の安産を願って、ここで安産祈願しました。
すみれちゃんはもうすぐ2才・・・その御礼もしなくちゃ。

『靖国神社は、明治2年6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年に「靖國神社」と改称されて今に至っています。靖国神社は、国家のために尊い命を捧げられた人々の「御霊」を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
靖国神社には、寛永6年(1853)以降、幕末・明治維新・西南の役など近代国家に尊い命を捧げられた神霊、日清・日露・第一次世界大戦、満州・支那事変、大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して国を守るため亡くなられた神霊246万6千余柱が祀られています。身分や男女の区別なく、祖国に殉じた尊い神霊として等しく祀られています。
正式参拝:靖國神社では本殿の奥深くに昇殿し、参拝する事ができます。戦歿者の慰霊と共に、厄祓い、初宮などの祈願参拝も受け付けております。ご希望の方は、参集殿受付にお申し出下さい。受付を済ませた後、神職が本殿までご案内いたします。
遊就館:館内には、靖國神社に鎖まる英霊の遺書や遺品をはじめ、英霊のまごころやそのご事績を今に伝える貴重な史・資料が展示されています。10万点に及ぶ収蔵品の中には、絵画や美術品・武具甲冑・武器類なども数多く含まれています』

20180513KawaS0023s.jpg 長い参道を歩き大村益次郎像。
『文政7年(1824)、周防国鋳銭司村(現・山口県山口市)の医者の家に生まれ、村田蔵六と言った。広瀬淡窓について儒学、緒方洪庵に蘭学を学び、寛永のはじめ宇和島藩に仕え西洋式軍艦を設計建造。江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所教授などを勤め、蘭学者・蘭方医・兵学者として名を高めた。桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年第2次長州征伐の折、石州口の戦を指揮し幕府軍を破り武術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。兵部大輔に任じられ、建議して軍政を洋式に改めることを主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治2年(1869)9月、不平士族に襲われ重傷を被り、同年11月5日大阪にて没した。46才。
明治2年6月、戊辰戦争の戦没者を祀る東京招魂社(現・靖国神社)の創建に際し、社地選定のため同月12日この地を視察し、創建者として功績は大きく、明治15年伯爵山田顕義らにより銅像建立が発議され、宮内庁から御下賜金の沙汰もあり、彫刻師・大熊氏廣に鋳型製作が委譲された。
大熊氏廣は明治9年、工部美術学校開設と同時に彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザの薫陶を受け、同15年主席で卒業する。工部省に入り、皇居造営の彫刻制作に従事、明治18年大村益次郎の銅像製作を委譲されると、彫刻研究のため欧州うに留学する。パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、さらに巨匠モンテヴェルデに入門した。帰朝後明治26年にいたり、この地に我が国最初の西洋式銅像が建立された。大熊は、キヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたった。陣羽織を付けた左手に双眼鏡を持ち、東北の方を望む姿は、上野東叡山に立てこもる彰義隊討伐の時の様子と言われる。後に、有栖川宮熾仁親王・小松宮彰仁親王などの彫像を製作し、文部省美術展覧会審査委員を勤めた』

20180513KawaS0025s.jpg 横を見ると、「二松学舎大学・九段3号館」がありました。
20180513KawaS0028s.jpg 20180513KawaS0033s.jpg 参道を歩き、道路を渡り鳥居をくぐって、大神門をくぐり、本殿に参拝しました。
20180513KawaS0044s.jpg 社務所で、マグネット交通安全メダルを購入。


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5/12・大学ヨット部練習

コーチしてる大学ヨット部のコーチング日です。
9時出艇なので、8:30に琵琶湖のヨットハーバーい行けばよく、4時に家を出発すれば、5~8時3時間ほど京都・滋賀県界隈を探索できます。
宇治周辺の林道・寺社探索することに決め寝たのに、目覚めたら5:30を回っていました。
「はあ~」、こんなに遅く目覚めることはないのに・・・残念。

早朝探索は諦めました。
自宅で朝食を取り、「里山VTR250」を出して出発。
大半高速道路を走るルートなので、「招き猫CB400SB」を出すのですが、今回は部員へのお土産があるので、VTRにしました。
新潟から「亀田製菓・訳ありおかき」を1.2kg購入しました。
18L缶サイズのダンボールに個包装されたハッピーターンがビニール袋に入りドーンと入っているだけの商品です。
激安で、商品代と送料が同じぐらいです。
VTR250のバイク便リアボックスに、このダンボールがポンと入るのでこいつを選びました。

6:36「セルフ北村SS」で給油。
200km/6.35L=31.5km/L。
R171~中央縦貫道~吹田ICから名神高速~桂川PAでトイレ休憩しました。
バイクのグループツーリングが、2チーム集まっていました。
京都東ICで下車し、湖西道をに乗り「皇子山ランプ」で下車し、7:59「セブンイレブン大津松山町店」で、「ブレンディ挽きたてカフェオレ500ml・169円」を購入。

ハーバーに着き、4校定期戦のために遠征に来ている母校ヨット部を陣中見舞します。
監督と話し、大会本部で公式掲示板を見ます。
目新しい情報はありませんでした。
このレースに影響しない海面で練習しなきゃ。
関西エリアトップの母校と近畿北陸エリアトップD社の直接対決です。
今年のレースシーンを占えます。

当方のクラブエリアに行き、みんなに挨拶します。
この日から、1回生新入部員が合宿参加です。
2回生の1回生担当が、ヨットやレスキューボートのところで、説明やシートの結び方などの実技をして教えています。
20名ほどの中に、マネージャー含め8人も女子がいるので華やかです。
キャプテンと話し、この日のレスキュー担当女子マネさんと話します。
新人マネ2名を乗せるようです。

お土産のことをマネさんに話し、バイク便ボックスから下ろしてきたダンボールを託します。
1回生担当の2回生が合宿所に持って帰ってくれることになりました。

先週息子が乗ったレース艇のマストステップ位置を変えたので、部員とともにフォア・サイドステイのテンションやレーキを計測し、セールをセットしていきます。
風が弱いので、出艇延期しチューニングの時間になりました。
1回生部員は合宿所に帰り、そちらから1人乗りヨットで初日の練習に入ります。

レースの方も出艇延期フラッグが上がっています。
10時になり、天気予報とは逆ですが北からそよそよと風が入りだしたので出艇します。
北風の軽風で練習開始しました。
今年卒業したばかりの470級エースT君が乗っていたので、470級艇団を追いかけながら的確なアドバイスが適宜飛び、濃い練習ができました。

11時前になると、風が安定しなくなり、南西三井寺からの風と北風の残りとが練習海面で入り乱れ風光が安定しなくなりました。
すかさず、5分間休憩を指示しました。
11時になり、天気予報通りのSW(三井寺)からの風4~6m/sが入り、フルセイル・フルハイキングの気持ちの良い練習ができました。

12時ハーバーバック。
合宿所に戻り、お昼ご飯。
もりもり元気になり、1:15出艇します。
午前同様、出艇前ブリーフィングで注意点を話しました。
相変わらず、SWの風が続いています。
風向・風速の変化はありますが、常にブローが入ります。

スナイプ艇隊帆走練習後、上マークを打って、スタート練習・レース練習をします。
470も混じり、怒涛の連続スタート練習でレースシーズンに備えます。
1回生マネさんにも、あれこれ仕事を伝え、目まぐるしく動いていました。
美肌の大敵・紫外線対策をしっかりするよう伝えました。
一緒に乗っていたのが2回生マネNo1の美肌死守Tさんだったので、去年夏の彼女の「アラビアのロレンス」スタイルのことを話しました。
Tさんは、水分補給の大切さを話していました。

17時ハーバーバック。
遠目にレースの様子を見ていましたら、予想通りKGとD社が争っているようです。
後日、KGは470、D社がSクラスを制し、総合ではD社が勝ったそうです。
早めに合宿所に戻りました。
キッチンに顔を出すと、マネさんがダンボールを開け、「はあ~」と大量の内容物に驚いていました。

18:10ミーティング開始。
いつものように、トラブルやケースを発表し部員全員で共有します。
470級でスタート前に接触があり、大事を取り先にハーバーバックした艇がありました。
予想より軽症でしたが、しっかり原因や対処法を話し合いました。
連絡事項の報告は、主に1回生に向けた合宿所生活に関するものでした。

僕は、練習中に湖面で適時アドバイスしていたので、1回生向けの話をしました。
OBのT君から、細かいセイリングアドバイスがあり、参考になったでしょう。
待ちに待った夕食タイムです。
食事当番のマネージャーさんから献立紹介があり、おやつに冷蔵庫内にーゼリーがあることと、僕からのハッピーターンを食後に・・・との話がありました。
「頂きます」の声と同時に、いつものように部員が一斉にお代わりの列を作ります。
春巻きがあったので、これ狙いでしょう。

19:20から、毎日恒例の全員で合宿所の掃除タイムです。
これに合わせるように帰路に着きます。
プロテクター上下を着込み、湖西道路~名神~R171で帰宅しました。
さっさと倉庫にバイクを片付け、自宅に戻り風呂に入り、床につきます。
明日は次男の家の改築祝に、朝一番から家内とともに埼玉に向かいます。

5/6・ヨットレース・コーチング

琵琶湖で行われるレース(5/5・6、2日間)に、コーチしてる大学が出場するのでそのコーチングです。
次男も東京からやってきて参戦します。
2年ぶりのレースでしょうか?
次男が来るとなると俄然張り切りだすのが家内で、「応援に行くから連れてって」と言われていました。
ところが、前日朝熱を出し夜まで下がりませんでした。
翌週東京の次男の家を訪問する予定があるので、「大事を取って行かない」と言い出しました。
お嫁さんや孫すみれちゃん1才にも会えるし、お嫁さん実家を増築して同居するので、もちろんご両親がおられます。

ということで、四輪で向かう予定を、1人になったのでバイクで行くことに変更しました。
地元伊丹は17時から、琵琶湖は21時から雨という予定でしたが、最終レーススタート15時なので、上手く行けば雨の前に帰れるかも知れません。

4時頃目を覚まし、少々ゴソゴソし、5時を回ってから準備をします。
ほとんど高速道路走行なので、倉庫から「招き猫CB400SB」を出します。
5:52ローソンで、「ミルククリームパン5個100円+助六寿司399円=499円」を購入。
R171~中央縦貫~吹田ICから名神高速を走ります。
GW最終日で、渋滞対策もありバイクにしましたが、拍子抜けするほどいつもの日曜日と同じでした。

京都東ICで下車し、湖西道路を皇子山ランプまで走り、7時前にヨットハーバー着。
まだ早いので、R大ヨット部員が艤装しているだけでした。
当方のヨット部員は誰も来ておらず、桟橋のコーチボート上でプロテクタージャケット・パンツを脱ぎ、助六寿司で朝食にしました。

みんながやってきて、キャプテンがコーチボートにやってきました。
「おはようございます。宜しくお願いいたします」
みんなとあ~だこ~だ。
お正月以来の息子とあ~だこ~だ。
息子とコンビを組んで出場する監督とも、あ~だこ~だ。
大学2回生の時のコンビ復活です。

出艇予定時間の8時を過ぎても風は弱く、大会本部にAP旗(レース延期)が揚がり、しばらく陸上待機です。
息子が乗るのは以前からスピードが出ない艇で、そのスピードアップのために話しました。
前日乗った感想から、「マストステップ位置を変えるとか根本的な変更が必要だろう」と話すと、「ステップを2つ後ろにしたい」との意見で、早速変更し始めました。
それに伴う他の変更があり、1つステップを後ろに変えていました。

北風が入り、10:26出艇。
天気予報は南風なので、出艇してもまた止みそう。
僕はコーチボートに乗り出艇しました。
交代選手2名と女子マネージャー4人乗っています。
レース海面に着く頃までに予想通り風が落ち、ゆっくり東に弱い風ながら風軸が移動して行きます。
本格的な南風が入って来ても、さらに優勢な北風が入りまた風速が落ちるというレース運営泣かせのコンディションです。

やっと南の風が勝ち、12時半からスタートマニューバリングに入ります。
2度早すぎるスタート艇が多くスタートやり直しがあり、13時にこの日の第1レーススタート。
20180506MayS0008s.jpg 6~8m/sの良い風です。
選手交代した第2レースは14時にスタートマニューバリングに入りましたが、またスタートやり直しがあり、14:10頃スタートして行きました。
15時以降のスタートはしないので、これでレース終了となりました。

両クラス上位2艇は安定して上位を走っています。
問題の3艇目は、470級2回生スキッパー艇が2艇上位に絡み始めて来ました。
さらにもう1艇最終レースで絡んだし、まだ安定感はありませんが、夏には来るでしょう。
良い傾向です。
総合成績で、7・8・9・15・19でした。
女子コンビは軽風では速いのですが、この風になると非力は否めません・・・42位/全54艇。
交代でコーチボートに上がってきたクルーによると、風が上がってくると、怖くてスタートでの位置取りで追い出されてしまうようです。
いろいろアドバイスしました。

社会人や学部OB選手を除く現役大学生コンビ3艇総合では、昨年全日本を制したD大に続き2番手の実力を維持しているようです。
D社2番手(総合5位)にジュニアヨットクラブの息子の後輩の女子が入りました。
僕がジュニア親の時、親が話し合い頑張って作ったクラブなので嬉しいな。

S級は4回生2艇(6・8位)を脅かす下級生艇はなく、少し物足りなかった。
19位に3回生が来ましたが、20位/全53艇が新人の1回生です。
この新人は琵琶湖ジュニア出身なので、息子が入部した時同様即戦力ですが、2・3回生がもっと絡んで欲しかったな。

ハーバーバックする為、当方から出場したS級9艇を確認していると、1艇トラブルを起こしていました。
そのままでも走れますが、セイルが痛むので曳航して帰ります。

ハーバーに上り、470の4回生とD社との差をどう詰めるかいろいろ話します。
女子マネージャーとレース中のビデオ撮りの位置などを話します。
この日は僕がドライバーに「こういう位置取りで」「こう走って」と指示し、「ここからのアングルで撮って」「上手いあの艇を撮って」とビデオ担当マネージャーに指示し、解説する僕の声が入るよう大きな声で話しました。
ビデオを見て、ミーティングで選手間バズが膨らむと良いです。

息子と話し、マストステップ移動での感触を聞きました。
やはり1つバックさせた方が良いそうで、もう1つバックさせたいと言っていました。
レース運営で来ていた今春卒業したOBが2人が暇そうにしていたので、息子が着替えに行ってる間に彼らを使ってステップ位置をもう1つ後ろに移動させました。

レース艇の解装があらかた終わったタイミングで、僕のミーティングをさせてもらいました。
レース中気づいたこと、頭角を表してきた下級生を褒め上げ、下級生のステップアップの事などを話しました。

雨が振りそうなので、ここで帰路に着きます。
バイクに戻ると、雨がパラパラ落ちてきました。
あ~、暑いけどカッパも着なきゃ。
湖西道路~名神~中国道を一気に走り、豊中IC下車R171で17時過ぎに帰宅しました。
雨は湖西では降ってたけど京都に入ると上っており、予想通り豊中丘陵に当たる斜面ではまた降り、平野に降りると止んでいました。
もろ地形で降るとこ・降らないとこの地域差が出ます。
やはり雲が山や丘に当たる場所が降ります。

雨に当たったバイクは、平野部走りで乾き、倉庫にバイクを片付け帰宅すると、家内から「おかえり~、早かったね」の声が掛かりました。
ご飯を食べ、風呂に入り、一緒に「モヤモヤさま~ず」見ているうちに眠くなり、「西郷どん」は半
分寝ていました。
2F自室に上りオヤスミ~。

5/5・林道ツーリング2 篠山多紀アルプス~林道~美山

20180505KeiS0086s.jpg 大タワを北側に降ります。
r300に突き当たり、右折。
20180505KeiS0090s.jpg 景色の良い所があり休憩。

藤坂峠を越え、左折し本日2本目の林道に入ります。
緩やかな「弓谷峠」を越え、北側に緩やかに下って行きます。
r711に突き当たりました。
ここに、「土師川」が流れていました。

20180505KeiS0111s.jpg 左折し西に向かい、7:30GPSに載っていた「春日神社」。
『鎌谷中春日神社(一ノ宮) 梅田春日神社・長谷川博文宮司より提供 鎮座地:瑞穂町字鎌谷中 祭神:武甕槌神・経津主神・天児屋根神・毘売神 例祭:10月15日
由緒:創建等:永享3年(1432)9月5日春日大社旧社家富田3位御分霊を奉祀する。
文政3年(1821)火災に羅り社記一切が鳥有に帰した。文政10年再建。古来より鎌谷4部落の一ノ宮と称して崇家されて今日に至った。大正5年神饌幣帛料供進・会計法適用神社の指定を受ける。
旧社格:指定村社 境内坪数:1479坪 社殿:流造7坪8合・上屋18坪 境内神社:無し 氏子戸数:90戸 その他:例祭の式典後鎌谷二ノ宮と共に三ノ宮まで神幸式を行い、庁舎において三ノ宮古例の儀式に参例する慣習現在も行われている。
初期建設は、永享3年9月5日(1432) 文政3年3月1日(1821)火災で消失 文政10年(1831)再建されました。2017年で585年前となり、火災後再建からしても186年前の神社となります』

20180505KeiS0113s.jpg ここも彫刻が立派でした。
蟇股の龍・木鼻の象と獅子・脇障子の鹿、立体的で見入っちゃいます。

Uターンし、r711を東進。
3本目の林道がある兜山近くに来たので、右折しアプローチ道を探します。
兜山の西側を走ったがそれらしき道が見つからず、今度は南面を走る道へ。

7:47「日吉神社」。
いい感じの神社が見えてきたので寄り道。
20180505KeiS0138s.jpg 20180505KeiS0145s.jpg ここも彫刻が立派でした。
兜山の方を見ながら、林道入口を探しますがピンとくる道が見つかりません。
R9に突き当り、信号待ちしている時、「これかな?」という道を見つけました。

R9をちょっと走り、さっきの道の下をトンネルでくぐり、山に入っていきます。
細いけど舗装されてる道が低山のウネウネ道になりました。
森を抜け、r711から曲がった道が正面に見えて来ました。
ウネウネ道の途中で分岐があったので、Uターンしてその道を走りに行きます。

林道を楽しみ、r711に出ました。
R9に突き当り、右折して少し走り、左折してr477に入り、また野生の勘で林道を探します。
京都縦貫道をくぐる手前で枝道に入りましたが林道ではなく空振りし、R173に出ました。

右折して南下しましたが、「京丹波みずほIC」が見えてきてしまい目的のエリアは反対だったので、Uターンして少し走り、右折してまたr477。
ピンと来た道を見つけ右折して枝道へ。
本日4本目の林道を楽しみ、R9を渡り、京都縦貫道をくぐったとこでR173。
南下します。

8:46「道の駅瑞穂の里さらびき」。
トイレを拝借し、ベンチに座ってドーナツを1つ頬張ります。
20180505KeiS0156s.jpg 鯉のぼりが勢い良く泳いでいます。
我が家も、例年同様鯉のぼりを揚げています。
長男が生まれた時新調した鯉のぼりから、初孫が生まれた5年前にまた新調しました。
2年前、長男の2人目が生まれ鯉のぼりを追加しました。

同じ年の7月に次男の初めての子が生まれたけど女の子だったので更に追加はありませんでしたが、来月長男の3人目も男の子のようで、また追加出来ます。
嬉しい限りです。

おじさん3人グループがおられました。
20180505KeiS0158s.jpg 250ホーネット・125グロム、そしてグロムの系譜の始まりダックスホンダでした。
高校生の時、ヨットハーバーの砂浜で大学生ヨット部員に貸してもらい初体験したバイクがモンキーでした。
それで慣れ、少し大きなダックスも貸してもらい、夏休みの夜中遊んでいたのを思い出します。
無免許だったので、公道には出ませんでしたが、大いに楽しみました。
ダックスを見ることは殆ど無いので、写真を撮らせて頂きました。

R173を南下し、旧道に入り5つ目の林道を探しに枝道に入ります。
意外に中央白線の2車線の綺麗な道が続いており、峠を越えてしまった。
峠を下り、次の峠に登る所で怪しい枝道があり、「峠を越える旧道」との野生の勘に従って入っていきましたが、あえなく未舗装路になり、Uターン。

新しい「穂垂トンネル」を抜け、下っていくと道路横断中の蛇発見。
バイクを停め、轢かれないよう蛇追いをしました。
横断中の毛虫も発見しました。
5月は、毛虫の横断がとても多いですね、何故なんだろう?

r702に出て右折。左折してr453に乗ります。
中山峠を越え、京丹波町から南丹市に入ります。
r54にチェンジし園部川と並走し、道なりにR477、R9との交差点にあった出光GSで給油し、R9を渡りr19。
10:07グループツーリングの集合地「道の駅京都新光悦村」到着。
まだ1時間あるわ。

20180505KeiS0165s.jpg 11時前に、リーダーTさんとJさん登場。
参加予定でなかったJbさんと偶然会いました。
女性参加者が遅れているということで、11時を回っても待ちます。
4人共何度も会っている仲なので、あ~だこ~だ話が弾みます。

女性の方は次の休憩所で合流するとのことで、11:37出発。
r19を美山に向けて走り出します。
「日吉ダム」横を通過し、初めて走るr364に入ります。
林道になり「持越峠」を越え、中央白線道の広い道になり、r365にチェンジします。
このエリアの道は、交通量が少ないので気持ち良く走れます。

右折してr443に入り、突き当りを左折しR162に乗り、北上します。
12:38「道の駅・美山ふれあい広場」。
バイクも車もいっぱいです。
手前に「Joy's Bikers」というオープンなカフェが出来ていました。
20180505KeiS0170s.jpg 道の駅と国道を挟ん打場所に、カフェ「Heart Country Stove」・Cafe&Restaurant「美渓」が出来ていました。

女性お二人が、先着していました。
僕も参加している「原付二種ツーリングクラブ」とともにここまで来られて、ここで乗り換えだそうです。
これで参加者全員揃いました。
男性2人は、ジェラートなどを食べて休憩していましたが、僕は観光案内施設でパンフレットを漁っていました。
良さげなツーリング先の寺社・史跡が載っているかな?

r38を走ります。
「美山かやぶきの里」前を通過し、「ヴィレッジライン」との分岐を過ぎ、「芦生京大演習林」との分岐を過ぎ、「佐々里峠」も通過。
ここで、京丹波市から京都市左京区に入ります。
「広河原スキー場」前を通過し、R477にチェンジします。

花背峠を過ぎ、百井別れを過ぎ、r38単独道に。
鞍馬寺前を通過し、貴船神社への分岐を過ぎ、叡山鉄道鞍馬線を渡り、14:49「ローソン」で休憩しました。
ここまで休憩がなく長かった。
ソロなら、かやぶきの里・佐々里峠・百井別れで、激写タイム休憩を入れていたでしょう。

r38を西に進み、r61にチェンジしてまた林道を目指します。
r107にチェンジし、持越峠を越えR162に下ります。
右折してR162を北上します。

15:52「ウッディー京北」で休憩。
併設喫茶コーナーで、ティータイムです。
ちょうど、僕もメンバーになっている「原付二種ツーリングクラブ」の面々と一緒になりました。
僕らと入れ替わりに、喫茶室を出て行かれました。
16:25ケーキセット(マロンケーキ+アイスコーヒー)640円を精算。

16:32、ここで解散になりました。
皆さん帰路は、同じR477を西に走るコースですが、僕は遅いので先行する皆さんに時々待っていただいていたから、解散になると遅れる申し訳無さから開放され気楽に走れラッキーです。

R477を西進し、「廻り田池」を通過し、桂川土手を走り、r73で桂川を渡りました。
JR山陰線を渡り、R372に突き当たり、R477に右折して南下しました。










5/5・林道ツーリング1 北摂~篠山多紀アルプス

3週連続で三重県の林道を走りに行こうと思っていましたが、所属してるツーリンググループにツーリングの案内が出たので、そちらに参加することにしました。
園部~r78持越峠~R162「美山ふれあい広場」~r38佐々里峠~鞍馬~r107持越峠~R162「ウッディー京北」という京北周遊林道ツーリングです。
r78持越峠のみ走ってみたいと思いながら未体験で、興味津々な道です。

集合時間が11時なので、それまで地図にチェック済の京丹波町の未走林道を走りましょう。
倉庫から「里山VTR250」を出し、4:46「ファミリーマート」で「ボスとろけるカフェオレ163円+オールドファッションダブルチョコ118円×2=236円+オールドファッション108円=507円」を購入します。

長尾山トンネルを抜け、いつもの北摂里山エリアに入りました。
r325~r33~r319~r12で、西峠を登ります。
気温6℃掲示・・・5月なのに気温の低い朝でした。
夏用プロテクタージャケット&パンツ+DAIWAフィッシングスーツのいつもの春秋ウエアを着てきましたので、全く寒くありません。
冬場の定番「テーブルクロス・ナックルガード」をそろそろ外そうかと思っていたけど、メッシュグローブだったので外さなくて良かったです。
なければ直接風が当たり流石に寒かったでしょう。

西峠を越え「篠山市」に入り、城東トンネルを抜け篠山川に向け下ります。
R372に突き当たり左折し、すぐに右折してr304。
篠山川を渡る所で休憩します。
朝の気持ちの良い景色の中で、ドーナツを1つパクリして、朝食にします。



篠山川を渡り、r305を北上します。
20180505KeiS0004s.jpg カヤの巨木が道にはみ出して残っている場所で激写タイム。
20180505KeiS0010s.jpg カヤを眺めていると、里山をバックに鳥居があるのを見つけました。
良い感じで時間に余裕があるので、寄り道しましょう。

20180505KeiS0017s.jpg 6:04「熊按神社」。
20180505KeiS0021s.jpg 『熊按神社(延喜式内社) 千百年以上も前に創建され、全国唯一の名を持つ神社。春日江村は、正慶年間(1332~34)に奈良の春日大社のご分霊を勧請したことにより村名を改めた。すでにその頃、熊野神社がここにあって、春日神社が合祀され、熊野の野の草書体が書き間違われたのかも知れません。
所在地が不明確でしたが、享保の頃に村役が届出ていること、明治3年の調査や昭和12年の県神社誌によって、ここが鎮座所とされた』

20180505KeiS0029s.jpg 鎮守の森も大木で、脇障子や蟇股・木鼻の彫刻も素晴らしくナイスな神社だった。
20180505KeiS0035s.jpg 20180505KeiS0036s.jpg 20180505KeiS0041s.jpg 20180505KeiS0044s.jpg 篠山は歴史が古く、こんな無名の神社がゴロゴロあるな。
20180505KeiS0053s.jpg 先に進むと、水を張った水田や田植えが済んだばかりの水田が朝日を浴びて、農村人工美の美しさを見せてくれる。

r301にチェンジし、北上し多紀連山に突っ込んでいく。
少し走ると登山口(火打岩乗合タクシー待合所)。
『多紀連山は、平安時代末期から中世にかけて修験道行場として栄えました。「大峰山」よりも栄えていましたが対立し、1482年焼き払われました。
近年になって、山麓の谷筋にクリンソウの大群落が見られるようになりました。
クリンソウは湿地に自生するサクラソウの一種で、5月初旬から6月初旬にかけて仏塔の先端にある九輪に似た花を咲かせます』

『篠山盆地の北方に連なる標高600~800mの雄大な連峰で,古くから丹波修験道の地として知られています。主峰の三嶽(御嶽)を中心として、酉ヶ嶽・小金ヶ嶽・八ヶ尾山・三尾山の山々が連なる多紀連山は別名・多紀アルプスとも呼ばれ、多くの登山者やハイカーに親しまれています。秋の紅葉と晩秋の雲海は特に美しく、訪れた人々の心を魅了します。
大売神社:主祭神は大宮売命という女神で、歴代の篠山藩主はこの神社を崇敬し、神田の寄進や社殿の再建をおこなったとあります。本殿の西側にある笠鷺稲荷神社は、おでき解除のご利益があると有名です。毎年10月11日の例祭は荘厳華麗で、多くの参拝者が集まります。
丹波与作誕生の地:その昔、この地で生まれた与作は百姓仕事のかたわら馬追いをして文武両道の修行に励み、ついには江戸で立派な武士になったといわれています。その後、京都の役者嵐三右衛門が物語で演じて好評となり、近松門在右衛門が浄瑠璃に取り上げて大評判になりました』

6:46「多紀連山の峠・大タワ」標高510m。
連山尾根走破口でPとトイレが完備されている。
「小金ヶ嶽1.5km」とお気軽ハイクできます。

20180505KeiS0065s.jpg その登山口の横に、「フォレストアドベンチャー丹波篠山」があった。
20180505KeiS0072s.jpg 更衣室や休憩所も完備された進化形フィールドアスレチック施設です。
森の中に林業で使うワイヤーを張り、それを滑空するムササビ・アイテムで人気です。

『多紀連山は多紀アルプスとも呼ばれ、南方に緩やか、北方に急峻となっており、京都府から篠山市、更に丹波市にかけて、高い岸壁状に500m~700mの山々が連なっています。また、水系については日本海に注ぐ由良川水系と、瀬戸内海に注ぐ加古川水系とに分かれる中央分水嶺です。多紀連山では、鼓峠が一番標高の低い分水嶺となっています。
これらの山々は、平安時代末期から中世にかけ修験道行場として栄えましたが、文明14年(1482)大峰山の僧兵が来襲し、寺院はすべて焼失しました。今も、大岳寺跡、福泉寺跡、水飲場などをみることができます。
現在は、県立自然公園に指定されており、高山植物・山野草・鳥獣も多く登山道も整備されています。春には新緑の中シャクナゲ、ヒカゲツツジ、秋には全山が紅葉に染まり、よく晴れた日には、山頂から雲海を見ることができ、四季を通じて登山家の目を楽しませてくれます。
この大乢の西側には主峰の御嶽(793m)・西ヶ嶽(727m)が、東側には小金ヶ嶽(725m)がそびえ、山頂からは、神戸の六甲山・淡路島までが展望できます。また、乢とは、撓む(たわむ)の当て字で、山の稜線のくぼんだ所を言います』

『御嶽(三嶽みたけ793m) 主峰で古くは藍婆ヶ峰と呼ばれ、頂上は東西2つの峰があり、西側が最高峰で三角点があり、東側に石室がある。南側直下に修験道場の本山新金峰山大伽藍大岳寺の跡がある。四方の遠望は素晴らしい。
小金ヶ嶽(725m) 岩肌には荒い珪石質の奇岩露出、視界広く、展望良く、古くは蔵王堂があったことから、蔵王ヶ岳と呼ばれ修験道場の山である。
西ヶ嶽(727m) 山形は雄大で南に多くの尾根を有し、北面は山頂から絶壁で大小無数の岩場があって、岩に咲くシャクナゲの花とのコントラストが美しい。
筱見四十八滝(ささみ) 多紀連山の東端に位置し、始終水が枯れることがない滝が8つあることからこの名がある。下流から手洗い滝・弁天滝・肩ヶ滝・長滝・シャレ滝・大滝・二の滝・一の滝で、その昔修験道行者達は、この滝で水行して出発した。春は桜・夏は渓流・秋は紅葉、キャンプも出来る憩いの場。
鍔市ダム(つばいち) 農業灌漑用水として昭和46年に総工費56千万円かけて完成。周囲3km・面積9.1ha・高さ34.5mのダムで、周囲道路には桜・カエデが植樹され、湖には魚が生息し釣り人を楽しませている。
栗柄 この地には、御嶽修験道場の最終の行「水行」をした滝壷があり、ここに「倶利迦羅不動明王」が祀られている。また、この近くには昔から伝えられている手織木綿の「丹波木綿」を織っている創作館がある。東へ2km行けば、田の水が、日本海と瀬戸内海とに分かれる中央分水嶺になっている鼓峠がある』

『四十八滝~栗柄(全山縦走・健脚向きコース) 筱見四十八滝の滝めぐりを経て、尾根にでる。稜線を左にとって進み、起伏を越えて、川阪峠(小倉乢)484mの鞍部に下る。再び稜線を上り、小金ヶ嶽頂上に着く。展望はよく、視界が広がる。
西に主峰御嶽を見ながら下ると岩場に出る。岩場の北側を過ぎ、雑木林を一気に下り、杉林を抜けると、最大の鞍部である大乢に着く。
大乢より急な登山道を登るとすぐ御嶽の頂上に着く。かつては行者堂があったが、今は岩室がある。頂上は2つの峰からなり、南へ下る道は、大岳寺跡を経て火打岩・瀬利・丸山に出られる正面道である。西の峰を通り西に向かい下ると、西ヶ嶽と栗柄への分岐点に着く。西ヶ嶽頂上の展望もよい。下る道は「愛染窟」の洞を経て、茶畑を通って栗柄の里に出る。
火打岩~御嶽(御嶽正面コース) 火打岩停留所より道路を少し北上すると左手に登山道の入口が見える。民家の問を抜け、あぜ道を通り、植林へ入ると階段が続き、やがて雑木林になる。しばらく急坂を登ると瀬利、丸山から来る道と合流、さらに尾根道を進むと、鳥居堂跡に着く。正面に御嶽、右に小金ヶ嶽を眺めながら少し登ると、昔の行者が渇いた喉を潤した水飲場がある。
すぐ上に大伽藍大岳寺跡の礎石が今も点在する。この辺より急坂となり、岩場の石仏に昔を偲びながらすぐ頂上に着く。
火打岩~小金ヶ嶽(小金ヶ嶽正面コース) 小金口停留所より右に入り、渓流沿いに登ると、やがて福泉寺跡に着く。当時の面影がはっきりと礎石に点在する。
松林を通り尾根に出ると、木立の間より露岩の多い小金ヶ嶽が眼前にせまり、修験道場にふさわしい岩場の急な山道で、一歩ごとに高くなり頂上に近づく。
鍔市ダム~川坂峠(小倉乢コース) 鍔市ダムの周回道路を奥に行き、杉林を抜けて谷川沿いに進み、橋を過ぎると分岐点に出る。左に登ると小金ヶ嶽直下の鞍部に通じる。右に進むと川阪峠で、やかで小倉乢に出る。ここから向側に下ると川阪、右は筱見四十八滝、左は小金ヶ嶽に通じる。
その他のコース 栗柄~西ヶ嶽コース 丸山~御嶽コース』


4/29・ちはやふる

家内に、「大台ケ原ハイキング」を提案しましたが、1週間後次男のレースを応援しに行くのと、その次の週末次男の家を見に東京に行くので、美容院に行くとのことです。
10時開店に間に合うよう、車で阪急中山寺まで送りました。

帰宅後、あれやこれや。
鯉のぼりを揚げたり、庭の草刈りをしたりで過ごしました。
お昼を過ぎ家内が帰ってきました。
18:10から映画を観に行こうと誘い、昼寝したりなんだかんだの続きをば。

17時前、「通勤リード110」にタンデムし映画館に向かいます。
腹ごしらえに、17:16「イオンモール伊丹・ミスタードーナツ」で、オールドファッションシナモン129円+チョコファッション129円+ココナツチョコレート129円+ストロベリーリング129円=516円購入。
映画館に上り、18:10「ちはやふる・結び」チケットを購入し、ロビーに座ってドーナツを食べます。
僕はドーナツが好きです。
一時、勤務中おやつタイムに同僚女子に近所のミスタードーナツでドーナツを買ってきてもらい、毎日1個食べていた時期がありました。
パワハラではありません。
スポンサーは僕なので、喜んで買いに行ってくれました。

「映画ちはやふる」は、高校生の競技かるたの世界を描いた漫画の映画化です。
主演の広瀬すずさん目的に昨年上映された「上の句」「下の句」を観ました。
すずさんは相変わらず可愛かったし、それ以上に体育会的な部分も気に入り、それに競技かるたの聖地が僕が通っている琵琶湖のヨットハーバー近くの近江神宮だったことも加わり、とても楽しめました。
そして今回の「結び」の章です。

同じ先生の門下生だった幼馴染の競技かるた仲間3人の内2人が同じ高校に入学し、かるた部を作り、全国大会に出場するストーリーが昨年でした。
その1年後が今回の「結び」です。
4月の新人勧誘を頑張り、新たな仲間を得て更にたくましくなり、昨年逃した全国優勝を目指し邁進します。
離れ離れになっていたサラブレッドなもうひとりの幼馴染が、2人に刺激され高校かるた部を作り、地方予選を勝ち抜き全日本でも勝ち進み、決勝戦で対決します。

スポ根物では、意地悪さんがいたりしますが、「ちはやふる」では大したことなく、みんな良いやつです。
こういうところが最近の若者の世界に受けるのだろう。

僕も体育会でバリバリやってきて、ライバルは沢山いたが、みんな良いやつでレース以外の時はむしろ遊び仲間だったりしたので、ここまでヨットをやってきました。
僕の琴線にも触れ、応援したくなり、涙を誘われ、秀作でした。

4/28・大和「安倍文殊院」

結局見つけられず、R369に戻り西進。
榛原からR165になり西進し、桜井に戻りr15に入り、15:08「安倍文殊堂」。
陰陽道・安倍晴明の生誕地です。

20180428YamatoS0484s.jpg 本堂(抹茶菓子付き)700円+浮御堂700円=共通拝観券1200円。
まず抹茶とお菓子の接待を受け、本堂に入り説明(20分毎)を受けました。

20180428YamatoS0490s.jpg 本尊の獅子に乗った文殊菩薩像は金色に輝き、脇侍4体も綺麗で立派です。
全て鎌倉時代の仏師・快慶作で国宝。寺務所で、スポーツ上達御守500円を授かりました。
サッカースクールに通い始めた孫5才へのプレゼントです。
本堂の説明されていた「ご利益巡り巡礼衣/長谷寺・室生寺・岡寺・安倍文殊院」も授かりました。
衣自体は無料ですが、御朱印に300円必要です。
これを着て、残り3寺を巡りましょう。

20180428YamatoS0504s.jpg 境内に古墳の口が開いていた。
『「特別史跡」文殊院西古墳 「願掛け不動」安置 現在、国の指定史跡は1694ありますが、その中で日本文化の象徴と評価される特に重要なものを「特別史跡」とされている。国宝・重要文化財に匹敵します。
特別史跡は全国で61しかなく、古墳で指定されているのは7です。
この古墳は、1360余年前の645年頃築造され、古墳内部の石材は築造当時のまま保存されている。見事な切石の様は、あまりに美しく、誰もが現代に作ったレプリカと疑うほどです。加工技術の美しさから「日本一美しい古墳」の定評がある。
全国7特別史跡古墳の中で奈良県にあるのは他に、石舞台古墳・高松塚古墳・キトラ古墳・巣山古墳です』

20180428YamatoS0509s.jpg 浮御堂へ。
説明を受け、外周を7回周り都度1枚ずつ半券を箱に入れます。
その後御堂内に入ります。
周囲の厨子の御開帳は、明日4/29からだった。
お財布に入れておく浮御堂守護を授かった。

20180428YamatoS0525s.jpg  20180428YamatoS0530s.jpg 『この石仏群は、江戸時代に当山の安倍山境内地にひらかれた四国八十八ヶ所・西国三十三ヶ所の各霊場御本尊仏としてまつられていた石仏さまを、この地に一同に安置したものです。
江戸時代の庶民は、四国・西国の霊場を巡拝したくても現実には遠方すぎて困難なため、だれもが気軽にお参り出来るようにと、当山に石仏の霊場がひらかれたものである。従ってこの石仏さまにお参りする者は、四国八十八ヶ所・西国三十三ヶ所霊場を巡拝したのと同じ功徳を得る訳で、今でも先祖供養・家内安全・諸願成就の願かけをする熱心な信者があとを絶ちません』
ズラリと石仏が並んでいた。

20180428YamatoS0534s.jpg 『閼伽井古墳(東古墳)飛島時代 この古墳は「関伽井の窟」とも呼ばれ、羨道の中程に昔から枯れる事無くこんこんと湧き出る泉があります。この泉に湧く水は「閼伽水」(別名智恵の水)と呼ばれています。閼伽水とは「仏様に御供えする為の清浄かつ神聖な水」の意味です。古来より「関伽井の窟」を参拝すると智恵が湧くことで知られ参拝者が後を絶ちません』

『文殊院東古墳(県指定史跡) この古墳は、「実隆公記」によれば、室町時代にはすでに開口していた。墳丘は、方墳の可能性が強いが、墳丘の形状は不明である。内部構造は南南西に開口する横穴式石室で、石室規模は全長13m・玄室長さ4.69m・幅は奥壁部2.29m・玄門部2.67m・高さ2.6m。羨道長さ8.31m・幅は玄門部1.75m・羨門部2.04m。石室石材は、玄室はほとんど加工されていない自然石で、羨道は切石の花崗岩である。羨道・玄室とも遠近感を強調するため入口部より奥を狭くしている』

20180428YamatoS0538s.jpg 絵馬掛けがある。ここの絵馬は大きめです。
「恋愛成就・良縁成就・縁結び大神・白山堂(室町時代・国重要文化財)」があった。

『白山堂は加賀国(石川県)の霊峰「白山」を御神体とする白山神社の末社です。
ご祭神は全ての祖神といわれる白山比め大神と申し、別名・菊理媛神(くくりひめのかみ)とも申されます。この菊理姫は日本神話において国造りをされた伊邪那岐尊と伊邪那美尊の縁を取り持たれた神様です。「菊理姫」(くくりひめ)の「くく」とは糸をくくり整えるように男女の縁を取り持つ縁結びの神様として古来より厚く信仰されています。
その為現代でも全国から恋愛成就・良縁成就を始め「人間関係における良い縁」を頂くために参拝される方が後を絶ちません。一方、この白山堂が室町時代に当山に建立された由来は、霊峰「白山」がわが国修験陰陽道の大霊地として厚く信仰されてきたことにあります。当山は平安時代の大陰陽師・安倍晴明公が出生された寺院で陰陽道発祥源流の寺です。その為、晴明公と霊峰白山は古来より深く結びつき信仰されてきました。こうした訳で、霊峰白山の末社が当地に勧請され、以来縁結びはもとより安倍晴明公に因み、方位災難除けなどを祈願する人も多く訪れます』

『国宝騎獅文殊菩薩像 文殊菩薩は、獅子に乗るお姿で、総高は7メートルと現存する我が国の文殊さま最大を誇ります。
そのお姿は獅子に乗る文殊菩薩を中心として、左側で優填王(うてんおう)が獅子の手綱を執り、右側に仏陀波利三蔵(須菩提)と最勝老人(維摩居士)が前後に侍し、この一群を、善財童子が先導する。いわゆる渡海文殊の群像です』

安倍晴明堂がある。
『占いの開祖・平安時代の陰陽師・安倍晴明公・晴明堂 この晴明堂は、日本に於け占いの開祖として名高い平安時代の陰陽師・安倍晴明公をまつるお堂です。
晴明公は当山出身の「天の原ふりさけ見れは春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌で有名な安倍仲麻呂公と同じく、当山出身の安倍一族の1人てす。
この展望台の場所は、晴明公が天文観測を行い、吉凶を占った地として古来より伝承されています。晴明公はその秘術があまりにも超能力者であったために、昔から魔除け、災難除けの主神として全国でまつられています。現代でも大安・仏滅や鬼門・恵方などの方位、十二支の千支、人相・家相や易等々、私達の日常生活の中で極めて深く密着している吉凶の判断は、すべて陰陽道から生まれたものです。
当山には古来より晴明公のご遺徳を偲ぶ晴明堂がありましたが、幾星霜を経て廃絶してしまいました。
この度、西暦2004年に晴明公一千回忌を迎えるにあたり、200年ぶりに晴明堂の再建が成されました。晴明堂の正面には「如意宝珠」の玉石が据えられています。
この「如意宝珠」とは、仏教の経典において説かれた玉で、あらゆる願いを自在に叶えて下さるありがたい玉の事です。この玉石を、当山に秘伝として伝来してきた方位除災のまつり方を模刻した石版の上に安置し、御参拝の皆様に触れていただき、諸願の成就を祈念していただきたいと念じております』

20180428YamatoS0553s.jpg 『如意宝珠 この玉をご自身の手で撫でて下さい。魔除け方位除けの大きなご加護が受けられます』

20180428YamatoS0554s.jpg 安倍晴明天体観測地に上がると、ウォーナー博士供養塔が立っていた。
どなた様かな?
『ウォーナー博士は、1881年アメリカのニューイングランドに生まれ、ハーバード大学出身の東洋芸術史家で日本美術の偉大なる権威者です。第2次世界大戦において、日米の風雲急なるやその親友ハル国務長官を訪ねて戦争防止を進言されました。不幸開戦となるや、アメリカの政府と軍の上層部に辛抱強く奈良と京都を初めとする古都の文化的価値の説得に成功されたおかげで、アメリカ軍の日本本土空襲の時にも空爆リストから外されました。この地に立つウォーナー報恩塔はこのウォーナー博士の功績に大変感動した桜井市の一市民であった中川伊太郎さんが、日本人が博士へ寄せる感謝の気持ちを永久に残したいという気持ちから自費で建立されました。因みに中川さんは当事、失業対策事業で働く日雇い労務者と言う大変苦しい生活を送っていたにもかかわらず、こつこつと貯えた10万円の全財産を出して昭和34年5月に建立されたものです。この建立の相談を受けた当時の市長及び桜井市仏教協会と当山住職はこの美徳を称えたいとの思いから場所の提供をはじめとして毎年6月9日のウォーナー博士の命日に報恩感謝の供養を厳修することとし、以来桜井仏教会主催によって6月9日の博士の命日に法要が行われています』

20180428YamatoS0560s.jpg 16:18、さあ一気に帰りましょう。
R165を西進し、道なりに「大和高田バイパス」に乗り、南阪奈道・「太子IC料金所」でバナナ休憩し、近畿道~中国道、豊中IC下車し、中央縦貫~R171で帰宅しました。
17:40「伊丹産業北園SS」で給油。
251km/7.43L=33.8km/L。




4/28・大和「松山城跡」~大澤古墳群~平井大師山石仏群~投石の滝~仏隆寺

お別れしてから、名刺を渡すのを忘れたと急いで渡しに走り声を掛けました。
縁があればまた・・・
主郭に登ります。
20180428YamatoS0258s.jpg 一気に360度展望が広がり、素晴らしいロケーションでした。

『本丸 本丸は東西50m、南北45mの広さを有する城内最大の郭である。西辺の中央に15mX10mの張り出しをもつ。本丸上には対面・接客などの儀礼空間としての本丸御殿(表向御殿)が建つ。本丸御殿は「広間」を中心に「遠侍」、「家臣溜」、「書院」、「台所」の5棟の殿舎からなり、全体の規模は1間=6尺5寸(197cm)で東西20間半、南北12間半を測る。
城割時に投棄された瓦の出土状況から、本丸御殿は桧皮ないしは柿葺きと推定される。また、本丸周囲の石垣沿いには瓦葺きの多門櫓が連なる。北西隅の部分を除いて全周し、途中西虎口・南東虎口の2つの門とも繋がり、強固な防御ラインを形成する。天守郭への虎口は2ヶ所確認されている。そのうち北側の虎口は石垣積の付櫓を構築する格式あるものとなっている』

20180428YamatoS0259s.jpg 『大峰山脈が一望できる宇陀松山城跡 南北朝時代に宇陀郡を領分する有力国人の秋山氏の居城(秋山城)として築かれたのに始まり、大坂夏の陣の元和元年(1615)に廃城となった。この城跡からは周りの山々を見通すことが出来る』

『天守郭 東西40m、南北12~20mの規模があり、南・北辺の中央東寄りに幅7~12mの張り出し部をもつ。
天守郭上には、いわゆる「天守」に相当する多重の建造物が存在したと思われる。
その場所は、南北の張り出し部から東側の方形区画と考えられる。この方形区画部分は、復元規模が南北12m(間口6間)・東西10~11m(奥行5間~5間半)を測り、小規模な天守(三重天守等)には相応した広さを有する。
また、南北の張り出し部上には「天守」との連絡が可能な付櫓が建ち、その西側には城主の日常の居所空間である「奥向御殿」の建物群が構えられていたと思われる』

城を下ります。
11:02バイクに戻りました。
山城探索に2時間も使っちゃったので、三重県の舗装林道探索は諦めました。
近場の歴史探索に切り替えましょう。

11:04「神楽岡神社」。
お参りし、バイクに戻りR166に出ます。

20180428YamatoS0313s.jpg r218に入り、11:19「宇陀水分神社」。
おトイレを拝借し、r218に戻り、11:44「見田・大澤古墳群」。
『最古級の古墳群 見田・大渾古墳群 当町の見田・大澤両地方にまたがる標高370mの尾根の古墳です。昭和56年、県立橿原考古学研究所によって発掘が行われ、古墳時代初期(4世紀前後)につくられたことがわかりました。
4基の方墳群前方後円墳で四獣鏡一面が出土しています。これは、わが国の四獣鏡の発見が5世紀以降に限られていた通説を破る結果となり、最古級の古墳群として、又、古墳発祥の謎を解明する資料として、昭和58年、国の史跡に指定されました』

墳丘に上り探索します。
国の史跡だけあって、下草が刈られ歩きやすい。

バイクに戻り、r218の先に進み、12:03「平井大師山石仏群」。
最後二輪でも離合が難しい急坂細道を、一気に駆け上がったが、横を見るとPがあった。
素直に「Pこっち」に誘導されていれば良かった。
20180428YamatoS0352s.jpg 「八十八箇所石仏巡り」になっていた。
1番から少し石仏を巡り戻りました。
シャクナゲが綺麗に咲いていた。

バイクに戻り、r218~r31~R166~r31で、12:26「惣社水分神社」。
そのまま先に進み、峠を越え「東吉野町」に入りました。
r251との分岐を過ぎ、暫く走ると何故か数台の車が停まっている。
「カフェ月うさぎ」とあった。
流行りの田舎古民家カフェのようです。
こんな立地にカフェが成り立っているのに驚きました。

r28に突き当たり、左折してすぐに12:46「白馬寺」「投石の滝」がありました。
20180428YamatoS0394s.jpg 地図に載っていた「白馬寺」目当てだったのですが、お寺はイマイチだったけど、「投石の滝」は落差もあり見事でした。
「弘法大師の衣掛け杉・樹齢千年」がありました。
弘法大師の衣を掛けた岩や杉など、吉野地方にはたくさんあります。

r28を南下します。
13:08「水分上社」。
20180428YamatoS0411s.jpg ここはイマイチでしたが、シャクナゲが綺麗に咲いていた。
シャクナゲは花が集まり大きく見え、この時期目立ちます。

帰路に着きます。
r28を北上し、「投石の滝」横を過ぎ、R369に突き当たりチェンジして西進。
「滝谷不動尊」の道標に反応に寄り道します。
好きな沢道だけど、いくら走っても次の道標がない。
林業の木材搬出の土砂崩れで進めないところまで来て諦めてUターンしました。
失意で戻っていると、左下の沢に建物が見え、13:39「滝谷不動尊」到着。

静かな場所にある素敵な滝でした。
滝打ち修行出来るような施設はないけど、修験道修行場の雰囲気がプンプンしていました。
清水に浸かるのかな?

R369に復帰し、西進します。
14:00「仏隆寺・千年桜」。
20180428YamatoS0436s.jpg Pに無人売店があり、古代米や鹿の角が売っていました。
20180428YamatoS0437s.jpg 『真言宗・室生寺派末寺で、室生寺の南門として摩尼山光明が岳の麓に位置する。嘉祥3年(850)空海の高弟・堅恵が創建した。一説には、これより先に興福寺別当・修円僧都が開いたとも言われている。
境内には、石造十三重の塔・堅恵の石窟・仏隆寺の桜・本尊十一面観音像・不動明王像・堅恵像・弘法大師像・茶臼など重宝が多い。
地蔵菩薩像石段は鎌倉時代、鐘楼堂は江戸時代、本堂・求聞持堂は昭和になってから改築されたものである。寺観整い、榛原から当寺を経て室生寺への経路は、風物にも優れ美しいところである』

20180428YamatoS0441s.jpg 『天然記念物 仏隆寺のサクラの巨樹 仏隆寺のヤマザクラとして指定(昭和53年3月28日)されていたこのサクラは、開花期に鑑定を受けたところ、ヤマザクラとエドヒガシの雑種であるモチヅキザクラの一型であることは判明した。しかし、このモチヅキザクラは花柱に毛がなく、筒の膨らみが円筒形楕円型をして長いなど、ヤマザクラの形質をも供えている点、学術上貴重な巨樹である。
このサワラは、根囲7.7mに及び、根株から2mのところで大小11本に分岐し、分岐枝の最大のものは幹周囲1.2mで四方に枝を拡げ、樹勢は衰えておらず、県下で最大最古の株とされ、貴重な存在でもある』

20180428YamatoS0453s.jpg とてもサクラに見えない巨木で、樹齢千年というサクラにしては長寿過ぎる年齢を納得させる雰囲気満点でした。
R369に戻りましょう。
途中で「赤埴の千体仏」の道標を見つけ寄り道しました。

『子授けに霊験あらたかな地蔵菩薩の千体仏です。16世紀前半、赤埴家の養子となった越中守安正が、生地の美濃国から背負って来た仏像が始まりで、元は観音寺にあった。
内陣中央の厨子に、総高46cmの地蔵様が、頭光をいただき、左掌に宝珠を載せ、右手は垂下して与願印を示して立っている。錫杖を持つ姿よりの古い様式です。
美しく彩色され、上部は白い綿にくるまれた優しいお姿です。厨子の下・三段の木箱に、24cmほどの同じ様式の地蔵が2体ずつ計6体が安置され、その左右の6段の棚には、260体の木製無彩色の小地蔵が並んでいる。
地蔵菩薩は、釈迦没後弥勒出世までの無仏と言われる中間に濁った世の人々を救済してくださる仏です。そのお姿から子授け子育ての仏とて信仰され、このお堂にも近在はもとより遠国からも参詣されています。この欲しい人は、願を掛け1体を戴いて帰り、出産後新たに1体を刻んで2体として納めるという民俗学的にも貴重な文化財でもあります』

20180428YamatoS0474s.jpg 堂内を覗くと、たくさんのお地蔵様が整然と並んでおられました。
子授けに預かりたいと思ったら、何処に連絡すれば良いのだろう?

20180428YamatoS0476s.jpg R369に下りましたが、地図に書いてある「千本杉」を見つけられませんでした。
再度山道を登ります。
「旧道・伊勢本街道」があったので、そちらに突っ込んでみました。






4/28・大和「松山城跡」

バイクに戻り、r31~r217から枝道に入ると、旧街道の町並みが左右の家々に。
8:30、「春日神社」。
『春日門跡 松山城下町の出入口にあたる西口関門から続く大手筋正面に位置している。門跡には虎口(出入口)を構築する東西2つの石垣積の櫓台が残っている。東櫓は東西4m以上・南北10m以上・高さ6mの規模を持つ櫓台。
その南西隅に一段低く、東西4m・南北7m・高さ2mの櫓台が取り付きます。西櫓台は東西6m・南北11m以上・高さ4m。
春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭にあり、松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られた事が明らかとなりました。現存する櫓台は、17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築である。
築造当初の春日門は、現在と異なり南北10.5m・東西4m以上の東櫓台南端の西へ付櫓がつく構造です。西櫓台については、現在と同様規模・構造。門は、東櫓(付櫓)と西櫓の間と、櫓間を通り抜け、左折れした所の2ヶ所に位置すると考えられる。
この段階の春日門東櫓は、大手筋を貫いた視線が集中する位置にあり、櫓台の規模の大きさからして、松山城下町の象徴的な建造物であったでしょう』

20180428YamatoS0178s.jpg 石畳の参道を上がってみると、鎮守の森の巨杉群が天に真っ直ぐ向かっていた。
途中に「松山城跡」への登城口がありました。
『春日神社水鉢(江戸時代・元禄6年1693)宇陀市指定文化財 表に「奉寄進」、裏に「元禄6年葵酉12月荻野五郎左衛門」とある。寄進した荻野五郎左衛門は、織田家宇陀松山藩4代藩主信武時代の用心である。元禄年間は奉納的石造物が集中的に造られた時期であり、本品もその歴史の流れの中にある。
翌元禄7年(1694)秋には、藩主織田信武が重臣である田中五郎兵衛・生駒三左右衛門を処し、自害するという事件が起こる。これが原因で、翌元禄8年に織田家は丹波国柏原に所替えとなる(宇陀崩れ)。織田家宇陀松山藩時代最後の時期の遺品として貴重である』

20180428YamatoS0186s.jpg 「春日大明神」と書かれた扁額の下がった大きな木製鳥居をくぐった郭から更に石段を上がった郭に社殿がある。
そこに登ろうと左右を見ると、左右の狛犬がどちらも阿行の狛犬でした・・・珍しい。

20180428YamatoS0195s.jpg 『春日神社由来 祭神:天之児屋根命・武甕槌命(たけみかずち)・経津主命(ふつすし)・比売神 宇陀郡内には興福寺大乗院門跡管領の春日大社領が多く存在し、当地も中世の春日庄(応永13年(1406)作「宇陀郡田地帳案」(春日大社文書))に位置することから、奈良春日大社を勧進したものと考えられる。
宇陀松山城と城下町の縄張りを示した「阿紀山城図」(文禄3年1594)絵図に「春日社」として社地が表されている。絵図に示された松山城へ向かう大手道は、西口関門から春日門を経て春日神社に入る。神社から城へ向かう構造を取る。つまり春日神社は城郭の郭としての機能を併せ持っていた』

『霊宝石由来 宇陀旧事記に「春日神社には天児屋根命を祀り、阿貴山の峰に神楽石麓に天のヌボコに称する長さ拾余石の霊宝石あり」と挙げられている。恐らく古代祭祀用に供せられた神聖なる霊石と考証される』

20180428YamatoS0202s.jpg 玉垣から本殿を覗くと、蟇股の彫刻が春日神社らしく鹿でした。
横には八幡神社がありその本殿も造りは春日神社本殿に似ていた。
20180428YamatoS0211s.jpg 巨杉に囲まれ、壮観な神社でした。

20180428YamatoS0218s.jpg 横道に入ると森に遮られ陽が届かない所に山に向かい摂社があった。
『伊太祁曽(いだきそ)神社由来 祭神:五十猛命(いたけるのみこと・須佐男命の御子)・大屋津比売命(妹神)・都麻津比売命(妹神) この神は紀州に座して、木の種を筑紫より始めて、我が国全土に播種植林せられたもうた。歳月を経るに従い、国内は緑の山を成し、遂に山青く水清き森林美となる。その根源を培養せられたことにより、神代の昔から「木の神」と称せられる。農林・殖産・特に木材関係者の尊崇するところである』

祭壇のみで社殿はなく、祭壇の後ろの二股巨杉が祭神と思われる。
そこから山城への道に合流し、森の中をえっちらおっちら登っていく。
廃屋がある。
20180428YamatoS0222s.jpg 勾配が急になり、木組みで土流れを防いでいる階段を上がる。
20180428YamatoS0226s.jpg 春日神社から10分ほどで、森が開け、コンクリート舗装道路が来ていた。
数台停められるPもあり、「なんだ~」と脱力した。そこに説明板が立っていた。

20180428YamatoS0229s.jpg 『史跡宇陀松山城跡 宇陀松山城は、天正13年(1585)以後に入部した豊臣家配下の大名により改修を受け、元和元年(1615)に取り壊されました。現在見られる城郭プランの大半はこの織豊期から江戸初期にかけてのもです。その構造は、主郭部(天守郭・本丸・帯郭・虎口郭・大御殿郭)とニノ丸で構成される中心郭群と、中心郭群の外側下を取り囲むように配される外縁部の郭群(御定番郭・御加番郭など)に大きく分かれます。
中心郭群は総石垣で築かれ、大規模かつ巧緻な枡形虎口の構築、多聞櫓や本丸御殿などの礎石建物群、桐・菊紋瓦等の大量の瓦の使用など、織豊系城郭の特徴を良好に残しています。外縁部の郭群の外側に設けた横堀と堀切によって画された城域は、東西約400m、南北約250mの規模をもち、西側の城下町からの比高は120~130mを測ります。
また、宇陀松山城跡は、元和元年の城割の具体的状況が観察でき、幕府の城郭統制や中世から近世にかけての宇陀地域の城郭と下のあり方を考えていく上で重要な城郭跡と言えます。最後になりましたが、調杏開始からご理解とご協力を賜りました土地所有者の松尾家、並びに関係各位に厚くお礼申しあげます』

ここから郭群が見えます。
深い堀切など城郭土木の様が見え、石垣遺構も遺っています。
ここは中世山城の晩年期のもののようで、高取山のような石垣で囲まれていたのかもしれません。

『南西虎口部(雀門跡)は、中心郭群と城外との結節部を構成する要の位置を占めている。本丸前面に設けた虎口郭を軸に本丸・本丸西側下の御加番郭・帯郭・城外縁部の4方向へ通路が続く。文禄3年(1594)写の『阿紀山城図』には雀門と記される。その構造は、城外郭の石垣線の折れと門とを組み合わせることで大規模な外枡形の虎口空間をつくり、さらにその内側上部に設けた虎口郭を第二の枡形空間とする複合的なあり方を示している。石垣裾から出土した大量の投棄瓦から類推して櫓台上には多門櫓や隅櫓が構築されていたと考えられる。
雀門は、間口5.4m(18尺)・奥行1.8m(6尺)規模を測る。門柱の礎石は、北西側と南東側に2石が残る。間口と奥行の規模等から考えて、高麗門の可能性が高い』

20180428YamatoS0250s.jpg 「ここは当たりだな~」と激写を繰り返しながら眺めていると、人の気配が・・・なんと山城観光の方がいました。
山城で人に会うなんてめったにないことで、むしろ驚いた。
そして「この方も好きだな~」と同好の士に嬉しくなり声を掛けた。
思いの外反応が良く、30分ぐらい話した。

家内の出身地・加古川の方で、大阪で大学生活を送っている息子さんたちを迎えに来たそうです。
その前の寄り道だそうです。
息子さんも娘さんも加古川一の進学校・東高で、これまた家内と一緒です。
「竹田城」が大ブームで気軽に登れなくなったどうのこうの、「高取城」に登りました?なんてことでも話が合いました。
登りたいと思いながら「地盤崩落の危険で登れなくなった佐用町の「利神城」にそれ以前に登ったことがあるとか。
あまりの辛さに断念した山崎の「長水城」にも登られていました。健脚です。

車で来られているのに、上の駐車場に車がなかったことを聞くと、道の駅からここへの道があったけど土砂崩れ通行止めで徒歩でも通れないらしい。
道の駅に車を停め、僕同様春日神社から登ってきたそうです。
バイクで来たので神社前に停めていることを話すと、以前バイクに乗っていたことを教えてくれた。
駐車場を気にせずどこでも停められるバイクの話で盛り上がったが、盗まれて乗らなくなったそうです。
残念なことです。
話している間に、2人も山城ファンが登ってこられました。
人気があるようです。


4/28・奈良「忍坂街道」~天王山古墳~粟原寺跡~八咫烏神社

20180428YamatoS0088s.jpg この道は、「忍坂街道」と呼ばれている古道のようです。
雰囲気の良い道で、時間があれば歩いて行きたい。

『鏡王女・万葉歌碑 鏡王女(かがみのおほきみ)の和(こた)へ奉(まつ)れる御歌一首「秋山の樹の下隠り 逝く水の 吾こそ益さめ 御念(みおも)ひよりは」
秋山の樹の下に隠れて、流れていく水のように果てしなく、「吾こそ益さめ御念よりは」私こそあなたさまが思ってくださる思いよりも、もっと深く思っております。<犬養孝『私の萬葉百首・上巻・1993年12月』

この歌は、皇太子であった中大兄皇子(のちの天智天皇)が鏡王女に送った歌「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」(巻2-91)に答えた一首であるといわれています。
鏡王女は、天智天皇と藤原鎌足それぞれと相聞歌を取り交わしており、額田王との唱和の歌も作っています。
万葉集には5首を残していて、その一つがこの歌碑に詠われているものです。
わずか31文字の中に、内に秘めた女心を見事に詠いあげています。

桜井市の企画によって今から40年前の昭和47年(1972)に市内の由緒ある場所に万葉歌碑を建てることになり、元・桜井市議・忍阪区長の杉本五良兵衛翁は、この歌碑は是非この場所に・・・ということで、毎年生徒さんを引率されて女王墓を参られていた当時・大阪大学名誉教授の犬養孝先生と面識があったことからこの歌の碑文は、ぜひとも犬養先生にと、なったと述べられています。(昭和62年10月1日「かたらい」より)
歌碑の石材探し、そして置かれているこの場所の選定は、杉本翁の熱き想いと鏡王女がこの歌に託した想いとが重なって数多くある万葉歌碑の中でも、これほど歌詞と歌碑の佇まいが見事に合っている歌碑はない・・・と言われています。小川のせせらぎの音を浴びながら、つつましく佇んでいます。この歌碑あたりから谷に向っては視界か開け、小鳥の嘲りだけの万葉の世界にいざなわれます。その
目の先には鏡王女墓がひっそりと佇んでいます。鏡王女は黄泉の世界から、どんな思いでこの歌碑を眺めているのてしょうね』

道の奥に見えていたのが「鏡皇女忍坂墓」で、さらにその奥に「大伴皇女・押坂内墓」がありました。

20180428YamatoS0093s.jpg R166を少し走り、7:15「天王山古墳」。
『東南方から北西方にのびる屋根上に営まれた方墳で、この屋根上には他にも多数の小古墳が散在している。墳丘の一辺は45m・高さ9m、うちに家形石棺を蔵する雄大な横穴式石室が南に開口している。石室は巨大な花岡岩を架構したもので、玄室の長さ8.5m・幅3m・高さ4.2m・羨道の長さ8.5m・幅1.8m・高さ2mである。玄室の中央には、棺身の長き2.4m・幅1.2m身・蓋を合わせた高さ1.8mの巨大な刳貫式の家形石棺が置かれている。なおこの棺身の羨道に面した側の上辺中央に方形小孔が彫り込まれている。副葬品については明らかではないが、石室や石棺の型式から6世紀後半に築造されたものと推定される。
この古墳はそり名の示すごとく、江戸時代には崇峻天皇稜に擬せられていたもので、墳丘や石室の規模からも、大化前代の支配者層の墳墓と考えられる。近畿地方における古墳時代後期の代表的な方墳として著名である』

32代崇峻天皇は、崇仏派・蘇我氏と廃仏派・物部氏が対立均衡してた政情の中、31代用明天皇が崩御したタイミングで起こった両派の皇統争いに勝利した蘇我馬子によって天皇位に登ったが、実権が馬子にあることに不満を持ち、馬子に暗殺されてしまう悲劇の天皇です。
この事件により急虚天皇位に着いたのが天皇家初の女帝・推古天皇で、その皇太子が聖徳太子で、初の「遣隋使」で中国と互いを認め合い、「冠位十二階」制定で血統重視から能力重視の政府役人登用とその任命者を天皇にしたことから天皇中心政治への改革、「十七条憲法」で豪族・臣下の心構えや天皇中心・仏教中心主義政治を確立した。
政権内部の内乱を経て、推古天皇・聖徳太子体制で、大和朝廷天皇中心主義が整った。

獣避けゲートから古墳に入ってみる。
周囲に丘が点在し、古墳がアチコチにありそうな景色です。
20180428YamatoS0098s.jpg 墳丘を覆う森に入っていくと、すぐに南に開口した石室があった。
中を覗くが暗くて見えない。
獣道のような道を辿って頂上に上ってみるが、これといった見どころはなかった。

R166に戻り少し進み、7:29「粟原寺跡」。
20180428YamatoS0120s.jpg 寺院跡と思われる古い石垣に囲まれた郭に上がると、「天満宮」があった。
牛の像など天満宮的要素が境内に揃っていた。
社名は「粟原天満神社」らしい。
鎮守の森の高木に囲まれ、長い歴史を感じさせる。
ジャガの花が綺麗に咲いていた。

20180428YamatoS0135s.jpg 天満神社の裏に「粟原寺跡」があった。
『粟原寺跡(国指定史跡) 粟原集落南端の天満神社境内及び、隣接地に、塔跡・金堂跡が残り、標高260m前後に位置する。
この粟原寺建立のいきさつを刻んだ三重塔の伏鉢は、談山神社蔵(国宝)として残っている。その銘文によると、中臣大島が草壁皇子のために発願し、比売朝臣額田が持統天皇8年(694)から造営を始め、和銅8年(715)に完成したことがわかる』

『この地には、万葉の女流・額田王終焉の地という伝承が遺されている。さすれば、国宝・粟原寺三重塔露盤の銘文にある比売朝臣額田が、その人かもしれません。これは史的考証ではなく、詩的確信です。数奇な運命を辿った彼女は、天武帝崩御後の複雑な立場の拠り所をこの地に求めたと思われる。
天武帝の子・弓削皇子も、壬申の乱後の微妙な立場を生きました。持統女帝の吉野行幸に随行した皇子は、離宮の井戸の上を鳴き渡っていったホトトギスの声に託して、密かな懐旧追慕の情を額田に訴え、これを受けた額田は、我が心と体のうちそとを通り過ぎて行った人々の懐旧追慕の悲しみを詠いました。
この贈答歌は、お二人の心情が伝わりますし、その舞台はただ虚しい時間と風だけが吹き過ぎて行くこの山峡が最もふさわしいと感じます。
この地を愛し、この歌に惹かれた篤学の人・金本朝一氏の御遺志によって、この碑は建立されました』

跡地には大小の礎石が残り、往時を忍ばせます。
一番大きな礎石に遺された柱穴を見ると、大きな建物が建っていたんだなと想像できます。
役行者と思われる像があり、かつて修験道行者が寝起きしていたのかも?と想像の翼が頭の中で広が
りました。
小さな墳丘のようなものがあり、これにも想像が広がりました。

バイクへの帰り、跡地横の道を歩くと、想像以上に鎮守の森に大木が多いことに気づいた。
フクロウが営巣に使いそうな穴が空いた大木もあり、しばし見ていました。

20180428YamatoS0155s.jpg R166に戻り、r217~r31で、7:55「八咫烏神社」。
アメリカ在住長男の子・嫡孫君5才がサッカースクールに入ったそうなので、サッカーと言えば日本代表、日本代表チームと言えは八咫烏です。
御守あるかな?と思って寄り道しました。
ジジバカですね。

20180428YamatoS0163s.jpg 『武角身命(建角身命)を祭神とする八咫烏神社は、「続曰本紀」に慶雲2年(705)9月、八咫烏の社を大倭国字太郡に置いて祭らせたことがみえ、これが当社の創祀となっています。江戸時代(文政年間1818~1830)には、これまで石神殿であったものが春曰造りの社殿となりました。その後、紀元2600年を記念して社域を拡張・整備し、現在に至っています。
「古事記」「曰本書紀」によると神武天皇が熊野から大和へと入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏(武角身命の化身)です。八咫烏は、中国の陽鳥としての考え方が影響しているようです。八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていたと思われますが、8世紀以降、山城の賀茂県主が有力となってからは、賀茂氏が祖とする武角身命が八咫烏となったようです』

20180428YamatoS0165s.jpg 社務所に伺ったが誰もおらず、「御用のある方は・・・」と宮司さんの家が案内されていた。
拝殿に向かいこれまでの人生に感謝した。
宮司さんの家に伺い、「スポーツ守護・700円」を授かった。

4/28・奈良「等彌神社」~「舒明天皇陵」

1週間前の三重県13年ぶり開通県道ツーリングで、三重県の山が気に入り、まだ走り足りないので連続で行くことにしました。
4時過ぎに目覚め、着替えて倉庫から「里山VTR250」を出しました。
予定している林道が3~4本あり、何本走れるかわからないけど、林道三昧しようと念の為軽い250ccを選択しました。

4:46「伊丹産業セルフ緑ヶ丘SS」で給油。
192km/7.05L=27.2km/L。
4:51「ローソン」で、「キリン小岩井ミルクコーヒー162円+田辺農園バナナパック3本266円=428円」を購入。

R171~中央縦貫道。
吹田ICから近畿道に乗ります。
一気に南下し、「南阪奈道路」にチェンジし、大阪府と奈良県を隔てる生駒山系を東に抜けます。
道なりに「大和高田バイパス」になり、ほぼ高速道路ですが最高速が60km/hになるのでメーター読みで70km/hを超えないようにスピードダウンします。
日本車はハッピーメーターなので、+10を守ればスピード違反にはなりませんし、道路規格・周辺環境に合った設定になってる最高速制限なので咄嗟のことがあっても安全に走れると思っています。

橿原市で高架道路を降り、R165で東進を続けます。
20180428YamatoS0001s.jpg 右折しr37に入りすぐ、6:14「等弥(とみ)神社」到着。
帰路に時間があれば寄ろうと思ってたけど、おトイレを借りたかったので先に寄りました。

20180428YamatoS0009s.jpg 『当神社背後に位置する標高245mのなだらかな鳥見山は、初代神武天皇が橿原宮に即位され、神武4年2月に「わが皇祖の神霊は天より降りて、私の身体を照らし助けた。諸々の賊を平定し海内(くにのうち)は事件とてないほどよく治まっている。そこで天神を祭って大孝(おやにしたがうこと)の志を告げ申し、お礼を致したい」と、鳥見山中に霊じ(まつりのにわ)を設け国で採れた新穀・産物を供えられ、自ら皇祖天津神々を祭り、大和平定と建国の大孝を申べ給うた大嘗会の起源。我が国建国の聖地である。
その西の麓に鎮座する等弥神社は、10世紀前半に制定された「延喜式」神名帳に記載があり、祈年祭の幣帛に預かった古社。昭和15年・紀元2600年、旧村社から県社に列せられ、以来地元桜井は元より、全国から崇敬に預かる県下有数の名社となる。下社には「八幡」「春日」の大神を祀る』

鳥居の横に「第62回式年遷宮 旧内宮鳥居 中重鳥居」の札が立っていた。
式年遷宮により移設されたもののようです。
全国にこういう社殿や鳥居がたくさんある。
伊勢参りできない方々も、伊勢を日本の成り立ちを味わうことができる。
ありがたいことです。

この宮の裏山で、神武天皇が最初の新嘗祭を行われたのですね。
知らなかった。
社名の珍しさから訪問地に選んだけど、大当たりのようです。
20180428YamatoS0014s.jpg 石段を上がると参道が伸び、地元の方が掃き掃除をされている。
20180428YamatoS0019s.jpg 参拝者が来られる前の朝早い時間にご苦労様です。

20180428YamatoS0021s.jpg 鎮守の森に守られた参道を奥に入っていくと、神殿の提灯に灯が入って雰囲気抜群です。
20180428YamatoS0032s.jpg 20180428YamatoS0035s.jpg まだ明るくなりきらない時間帯故より厳かな感じを受ける。
参拝させていただき、「鳥見山霊じ」への参道を上ってみます。

20180428YamatoS0042s.jpg 『鳥見山観光散策路(往復2km) 鳥見山は標高245m・面積50haのなだらかな山容で、登るにつれ北に三輪山・南に音羽山系・東に外鎌山・初瀬谷などながめながら頂上に至ります。途中、霊じ拝所(これより160m)・庭殿(650m)・白庭(890m)など通り山頂(1000m)に至る。
古より多くの方々が登下山された道で、広葉樹林では春の新緑・秋の紅葉など四季折々の自然を満喫していただける散策路です。また万葉歌碑など古代のロマンを味わっていただけます』

20180428YamatoS0046s.jpg 「霊じ拝所」まで登ってみた。
20180428YamatoS0052s.jpg 『うかねらふ、跡見山雪のいちしろく、恋ひば妹が名、人知らむかも・・・鳥見山に降り積もった白雪のように、はっきりと人目につくような恋の態度を示したら、人々は私の恋人の名を知ってしまうだろうか』

20180428YamatoS0059s.jpg 新緑に覆われた山道と境内でした。
陽がまだ弱い朝ですが、もう少し陽が昇るともっと鮮やかに若緑を見せてくれるだろう。
鳥居手前まで下り、「神武天皇・聖跡顕彰碑」を見に行ってみる。
ふむふむ・・・。
ここの立地は、橿原の神武天皇陵の東に藤原宮跡、その東に隣接する小山・天香久山、その東にあるのがこの地です。

この東は山の連なりになり、三重県境に至ります。
天香久山は、明日香の北の防備のような位置にあり、ここから見れば低山を経て南東に明日香が位置します。
神武天皇がここで、天の恵み・秋の収穫に感謝する新嘗祭を、ご自身の天皇就任に際し始めたのが立地的にも腑に落ち
た。山は収穫の源・水の流れだす地であり、東から上る太陽がここから昇って来るように見えたのだろう。
2678年前・皇紀元年・・・

バイクに戻り、R165に復帰します。
20180428YamatoS0069s.jpg R166に右折し、6:47「茶臼山古墳」。
『史跡・桜井茶臼山古墳 鳥見山北麓の屋根を利用した大型前方後円墳(全長207m・後円部径110m・前方部幅61m・葺石を施す)で、墳形・副葬品などから4世紀前半を下らない時期に造営されたわが国最古の大規模古墳の1つ。
昭和24~25年、橿原考古学研究所が発掘調査し、後円部中央に底部穿孔の壺形土師器を並べた長方形の檀とその内側に竪穴式石室を検出した。石室は偏平な割石を架したもので、内法長さ6.8m・幅1.1m・高さ1.6mである。室内にはトガの巨木で造ったくり抜き式木棺が遺存していた。盗掘を受けていたが、鏡片・勾玉・剣・銅ぞくなどの武器類・車輪石・鍬形石などの腕飾類、玉杖・玉葉などの特異な碧玉製品が出土している』
フェンスで囲んであったが、「十分注意して見学ください」と書いてあったので、入れるところがあったのだろうか?

20180428YamatoS0073s.jpg R166を更に進んで、6:57「舒明天皇陵」。
20180428YamatoS0076s.jpg 『舒明天皇・押坂内陵、敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子妃・糠手姫皇女・押坂墓 宮内庁』。
20180428YamatoS0078s.jpg この時代の陵墓は、よく母親と一緒に眠っていますね。
ここも母親と一緒のようです。

お参りし、一旦下り細道を、少し見える別の墳墓の方に進みます。
謂れ板が立っていました。
『舒明天皇陵(段ノ塚古墳) 舒明天皇陵は、古墳時代の終末期にあたる7世紀中頃に造られ現在「舒明天皇陵」として、宮内庁で管理されています。舒明天皇は、忍阪ゆかりの押坂彦人大兄皇子の息子で、初めて遣唐使を派遣し、また、我が国初の国家寺院である百済大寺を建てた天皇として知られています。
皇后は、斉明天皇で、2人の間の子供たちは、後の天智天皇、天武天皇、孝徳天皇妃となった間人皇女、と飛鳥時代は舒明ファミリーが皇統の主流にのぼりつめた時代といえるでしょう。
日本書紀によると、舒明天皇は641年(舒明13年)に崩御し、その2年後にここ「押坂内陵に改葬されました。尚、母親の田村皇女はその20年後の天智3年に亡くなったことが記されていますが、墓の所在は明らかにされていません。平安時代に作られた「延喜式」には、その所在が舒明天皇陵内とされていることから、舒明天皇と合葬されている可能性が高いとされています。今から約150年前の文
久年間に墳丘の一部が崩壊し石室の一部が露出しました。
その際、2基の石棺がみられ、手前の石棺は縦に、奥の石棺は横に置かれていたという村人の話が伝わっていることから、研究者の間でも被葬者は、舒明天皇と、母親の田村皇女ではないかといわれています。
この古墳の最大の特徴は、なんといっても我が国初の八角墳であることです。それは八角形をした天皇の玉座「高御座」にも流れをみることができます。背景には諸説があり確定はできませんが、万葉集巻1-3間人連老(はしひとのむらじおゆ)の歌に舒明天皇を讃えた歌が詠まれています。「八隅知之 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ・・・」とあり、我が大君にかかる「やすみしし」から、八角形は「国土の隅々迄おさめる」事の思想の表れであり、それはまさに八角墳の出現時期と重なる事から、国家統一的な形にしたのではという学説に興味をそそられます』

34代・舒明天皇は、29代・欽明天皇のひ孫世代で、30代敏達天皇の孫です。
敏達天皇の兄弟に、31代・用明天皇・32代・崇峻天皇・33代・推古天皇(初の女帝)がおり、穴穂部間人皇女と異母兄・用明天皇の子に聖徳太子がいる。
舒明天皇の子に38代天智天皇・40代天武天皇がいる、まさにロイヤル街道真っ只中の天皇です。


4/24・農園

次男お嫁さんから、LINE家族グループに投稿されました。
今月から仕事復帰したので通いだした保育園で、初めて朝のお別れの時泣かなかったそうです。
先生と手をつないで、「ママ、バイバイ」と見送ってくれたそうです。
先生は慣れてくれて嬉しそうで、お嫁さんはホッとしたそうですが、反対に子が離れていく寂しさを感じたそうです。

「最初は、まだこんなに小さいのに保育園かぁ…可哀想だな??」と思ってたそうですが、まだ短期間ですが保育園で成長をしていく我が子を見れ、入れてよかったと思えるようになってきたそうです。
僕らも息子たちを1才から保育園に通わせたので、お嫁さんの気持ちが手に取るようにわかり、「そうだよな~」と共感しました。

GW後、家内と新築・改装された次男の3世代同居ハウスを見に行きます。
お嫁さんの実家の改装なので大きくは変わっていないと思いますが楽しみです。
最初庭に新築し、我が家のように別棟にしようかと考えたそうですが、1F・2F同居ハウスに改装したようです。
次男は建築士なので、設計しながら費用なども考慮し、そちらを選択したようです。

お父さんも、お母さん実家の持ってた実家近所の土地に新築し、毎日お婆さんがやってくる半3世代生活を送ってきたので、マスオさん的立場になる次男の気持ちがわかってくれているでしょう。
長女の旦那が次男で、次女の旦那が長男。
次男は3世代で生まれ育った環境で大きくなったし、何より次男の性格を気に入ったようで、初めてお会いした時から次男とお父さんの関係はとても近い感じがしました。

僕も家内の両親には、最初からとても気に入られました。
波長が合うというか、合わせられる能力があるのは人として大きな武器です。
自宅訪問後、すみれちゃんの保育園と次男が設計した新本社を見に行きます。
建築士という仕事は、仕事が形として残るところが良いです。
今まで、レストラン・駅ホーム店舗・自社物件など、いろいろ次男の設計したものを見せてもらいま
した。
若者らしく、スッキリした設計でお洒落でした。

S__44089347s.jpg 農園で野菜を植える写真がアップされていました。
S__44089348s.jpg 日曜日は会社の農業クラブに家族で参加したようです。
会長の持ってる農園なので、社員のレクリエーションのようなものです。
S__44089349s.jpg 次男が農業クラブに入るなんて思いもよりませんでしたが、お嫁さんと参加している写真を今までも見ており、父が庭でぶどうなどいろいろ作っており、手伝わされていた影響なのかもしれません。

S__44089353s.jpg 夏野菜を植えた後、農園にの会長のツリーハウスでBBQをしたようです。
結婚式で感じたのですが、この会社は会長・社長と社員が近く、ワイワイやってる楽しそうな会社です。
若手社員がよく笑い、女子社員は美人が多いです。
そんな関係が影響しているのか社内結婚が多く、出産後復帰する女子社員も多いようです。

お嫁さんは人事部で働いていましたが、宿泊のある出張には女子社員をあまり出さないようで、いつも男性社員がその手の仕事を引き受けていたそうです。
流行りの男女同権スタイルではなく、女性は男が守るべき存在として扱う社風のようで、それが女子社員の笑顔をつくり、男子社員のやる気を引き出しているように思います。

次男は就職の時、インターンとか数社会社を回りましたが、この会社就職説明会に行った後、「ここにするわ、来週社長と個人面談する時間を作ってもらったから」と言ってきました。
説明会で社長の情熱を感じ、「・・年・・世界一のメーカー」という理念に共感したと言ってました。

社長との個人面談なんてスケジュールはないのに、個人的に社長に申し込み快諾を得たそうです。
じっくりサシで話し入社を決めました。
次男のやる気を感じてくれたのか、入社後次男はいろんな部署を経験させてもらい、関東東北大震災の時は最若手で復興住宅建設現場責任者をさせてもらいました。

責任者でありながら設計も手がけ、ユティリティーのない設計では良い住宅が建たないことを大工さんや施工業者さんから教えてもらい、都度設計変更しながら実際の設計を覚えました。
大学ヨット部キャプテンを経験した高校ヨット部後輩と、もうひとり大学ヨット部出身者を入社させており、将来会社ヨット部を創設するかもしれません。
次男一家の将来を想像すると頬が緩みます。

4/22・大学ヨット部新人勧誘 鍋夕食

16時に試乗会を終え、全艇ハーバーバック。
2m/s~5m/sまでいろんな風が入り、上天気で暖かな試乗会最終日になりました。
ドボンした新入生は陸上に上がって、シャワーを浴びて体を温め着替えました。
順次部員が誘導して合宿所に帰り、ドッジボールやゲームで楽しみます。

17:30になり、合宿所2Fで鍋を囲みます。
例年、僕は後ろで楽しんでいる姿を見て、指名されれば話をしていましたが、今年は第1テーブルに席が作られていました。
新入生ばかりが固まらないよう部員を等分に配置し、友達が固まらないよう席決めして、表に張り出されます。

司会者から「乾杯の前に挨拶を」と指名されました。
「え~、みんな腹を減らしているのに」と声に出すと、同じテーブルにいた4回生K君が「短めにお願いします、10分で」と笑いながら言ってきます。
「そりゃ無理や、私を指名した時点でアウトだね」と切り替えします。

司会者2回生T嬢が、「今日は来てくれてありがとう。では最初にコーチの・・・」と指名され、5分ほどのバージョンで話しました。
家から持ってきたヨット部イベント写真ファイルを見せながら紹介し、学部生時代は学業が最も大事だけど、それ以外に別の居場所を作ることに大切さを伝えたつもりです。
いろんなサークルがあるが、大学の校歌を歌い、大学名を胸に、部旗を前面に打ち立て学校の名誉のために切磋琢磨する体育会を勧めました。
体育会は卒業後の人生にも繋がり、人生を豊かにするはずです。
僕のクラブ先輩と組んで活動するレース写真・家族クルージングなど実例を紹介しました。

全員お茶やジュースで乾杯し、歓談が始まりました。
30分ほどして恒例の自己紹介タイムです。
昨年の司会者3回生G君が指名され、自己紹介の見本を見せます。
名前・出身高校・ヨットに乗った感想など。

第1テーブルから指名された新入生が挨拶を始めます。
男子部員から、服装を野次られ、出身校には「お~名門や~」など訳のわからない基準での野次が飛び交います。
笑いで自己紹介の言葉が聞こえず、司会者が「静かに、聞いて」などなだめますが、すぐに元の木阿弥です。

自己紹介が終わり、鍋には締めの麺類が投入され、再び歓談。
20時前にお開きとなりました。
写真を回収し、メッシュプロテクター上下を着て、帰路に着きます。

湖西道路~名神高速を走り、吹田ICで下車し、中央縦貫~R171で9時過ぎに帰宅しました。
出来るだけ音を立てないように荷物を玄関前に下ろし、バイクを倉庫に入れます。
玄関に戻りドアに鍵を突っ込むと開いていました。
家内がまだ起きているようです。

「ただいま~」と入ると「おかえり~」。
「まだ起きていたんだ」「うん、LINEに返事を書いていたら失敗したりして・・・」。
長男の子りょうくん5才が、日曜日だけ日本語学校に通うようになり、サッカー教室にも通うことになりました。
地元の私立プリスクールに通っているのですが、2年で卒業です。
日本の年長さんクラスは、エレメンタリースクール(小学校)内組み込まれる学制になっており、その付属の幼稚園に代わります。

6月でプリスクールを卒業し、9月に年長組が始まります。
アメリカ人のお子さんばかりの幼稚園なので英語はグングン上達しましたが、日本語の方が親と話すだけなのでいろいろと不安です。
S__13697046s.jpg
週1で日本語学校に通い、現地駐在日本人の子と共に日本の言葉や習慣などを学びます。
S__13697047s.jpgS__13697048s.jpg S__13697049s.jpg 去年のサマースクールは水泳とサッカーをしましたが、サッカーを気に入ったようで通年でサッカースクールに通います。

S__13697052s.jpg
両方の1回目と、プリスクールお友達のバースデーパーティーの写真が、お嫁さんからLINEで送られて来ました。
その返事です。
風呂に入り、ヨーグルト持って寝室に上がり、1日が終了。

日本語学校は、「幼稚部ばら組」となっていました。
20人ほどのクラスで、最前列に座り先生の話を聞いていました。
日本式で、毎回宿題があるようで、毎日少しずつ頑張っているようです。
昨年9月に訪問した時は、しまじろうの「ひらがな在宅学習」にすぐ飽きて、簡単でスクールでも教えてもらってるアルファベットのドリルの方をしようとしてお嫁さんが困っていました。
長男も「心配していたネイティブばかりのプリスクールにあっさり慣れ、友達を遊べない休みの日が残念そうにしているぐらいになり、むしろ日本語の方が心配」と贅沢なことを言っていました。
長男同様社交的な子なので、何処に行ってもすぐ慣れちゃうでしょう。

深めの芝生のグランドで、一人前のサッカーウエアでボールを追いかけているりょうくんがかっこいいです。
2本ラインの入ったソックス・ブルーのサッカーパンツ・長袖のラッシュガードの上にナイキのでかいマークが胸に入ったライトグリーンTシャツです。
先生の動作を見て真似しています。

他の子は長袖長ズボンが多く、ダウンジャケットを羽織っている子もいます。
ニューヨークの南の町だからまだ寒く、寒暖差が大きな地です。
芝生の上に座った先生の周りに生徒が集まり、説明を聞いています。
白人の他にインド系と思われる子、アメリカに多い中国系の子と明らかに日本人と思われるのはりょうくんだけです。
ブロンドの長い髪の女の子もいます。

サッカー教室の後、プリスクールのお友達のバースデーパーティーに行ったようです。
バースデーパーティー用の施設があり、テーブルでケーキを食べた後、遊具室に移動し遊び回るのがアメリカンスタンダードです。
りょうくんはサッカーの衣装のままで、顔にペイントしてもらって参加しています。
ペイントが気に入ってるようで、将来日本ではアウトローと見られてしまう入れ墨君にならないかと、ちょっと心配。

911のポリスカーに乗り、デーブルでピザとケーキを食べながら親指を立ててGood!を表現しています。
テーブルのメイン席に座ってケーキを食べている主役はブロンドでパーマ・アップ髪の可愛い女の子でした。

4/22・大学ヨット部新人勧誘試乗会

コーチしてる大学ヨット部の新人勧誘のお手伝いです。
今年は京都の大学から琵琶湖の艇庫まで新入生を運ぶ車が足りているので、直接10時に艇庫に行けばOKです。
朝、近隣寺社巡りが出来るけど、前日400kmもバイクで走ったので体を休めるために自重しました。

車が必要ないのでバイクで行こうと、倉庫から「招き猫CB400SB」を出します。
ここ数日、4月とは思えない暖かさが続いています。
前日もすぐ暑くなり春秋装束のカッパを脱いだので、最初からDAIWAフィッシングスーツをリアボックスに入れるだけにして、夏用メッシュプロテクター上下で出発しました。

R171~中央縦貫道~吹田ICから名神高速に乗り、8:20「桂川PA」でトイレ休憩し、「いちごチョコ大福540円」を購入しました。
「京都南IC」で下車し、R1を北上~東寺角で右折し「九条通」を東進し、道なりに「東大路通」に乗ります。
七条との交差点を右折し、女坂をゆっくり上がっていきます。
女子マネージャーの供給元「京都女子大」で部員がピックアップしてるかな?と思って。
まだピックアップ時間ではないようで、女坂を下がり、東大路通を北上します。

8:45大学正門横のバイク置き場に入れ、いつもの「クスノキ下」に向かおうとバイクを降りようとしたら、3回生QP君が「おはようございます」とやってきました。
僕がここに来ることなんて言ってなかったし、ヘルメット姿で誰かわからないはずなので、「おはよう、よくわかったね」と言うと、「だってヨット用ライフジャケット着てる人は目立ちますよ。バイクに乗る時、プロテクターとして着てるのですか?」と反対に聞かれちゃいました。
「いいや、載せるの面倒だから」。

3回生I君がここの担当で、新入生の女の子2人・男の子3人が既にいました。
新入生とあれこれ話します。
9時になりQP君ドライブで第1陣が出発しました。
新入生が1人、また1人とやってきて、9:10第2陣出発します。
第2陣ドライバーが4回生K君でした。
僕もこのタイミングで琵琶湖に向かいます。

白河通りを北上し、「山中越」で比叡山を越えます。
滋賀県と京都府の県境は、比叡山山頂を通っていますが、山頂より南を越えるこの道では、峠の手前京都府側にあります。
それを過ぎ暫く走ると、「山中越」と書かれた舗装細道が左に分岐しています。
これが京都への往来の古道の1つです。
いつか歩いてみたいと思っている峠道です。
滋賀県側車道のドンツキは「崇福寺跡」(標高260m)で峠が460mここが310mです。
また横目で確認しただけで通過。

現山中越の峠370mにある「比叡山ドライブウェイ」入口を過ぎ、琵琶湖側に下ります。
上り坂はアクセルオフでなんとかなりますが、下り坂はカーブ手前でしっかりブレーキングしないと飛び出してしまいそうで緊張します。
カーブをクリアしてもアクセルオンしなくてもスピードが上がっていくのでそのままにしてスピードが上がっていくのを待つのが僕のドライブスタイルです。
ここで後続車に追いつかれてしまうので、2台ほどパスしてもらいました。

9:40頃ヨットハーバー着。
他大学も試乗会をしており、バーベキューの用意をしているところや、新入生に着せるウエアをハンガーに吊り下げていたり、いつものハーバーの雰囲気と違っています。

他大学の部員と「おはよう」の挨拶しながら艇庫前へ。
部員達とも挨拶します。
バイク装束を脱ぎ、レスキューボートに荷物を置き艇庫内へ。
第1弾で来た子達が艇庫内のゴザの上に部員たちと座りリラックスしていました。

試乗艇は出艇したようで、「そろそろ行こうか」の声に促され、濡れても良い服装の上にハーネスやライフジャケットを着始めます。
ここは役得で、女子のフィッティングを手伝います。
試乗会用の靴を履き、一緒にレスキューボートへ。
2回生部員のW君・4回生女子マネSさんと僕がレスキューボート担当です。
新人女子には手を貸して船に乗せます。

マネージャードライブで沖に出し、僕はこれからしてもらうことや注意点を話します。
先に出艇していたインフレータブルボートに新入生を乗せ換えます。
インフレータブルボートは、試乗ヨットに走り、各艇に1人ずつ乗せて行きます。
レスキューボートはハーバーに戻り、第2陣を乗せて再び沖に・・・の繰り返しがお昼まで続きました。

新入生にいろんな話をし、時には運転席に座らせ、体験運転をさせ楽しませます。
この日が試乗会最終日なので、2度目・3度目の新入生がおり、「今日、入部宣言します」と嬉しいことを言ってくれる子もいます。

インフレータブルに乗せて、発進しカーブした所でロープに捕まっておくよう言ってたのに甘く見て油断してた新入生が1人ドボンしました。
すぐにインフレータブルが引き上げ、僕らは大笑いです。
ドライブしてたマネージャーが「ごめんなさい」と平謝りしています。
暖かいというより暑いので、ドボンしたぐらいがちょうど良いのでは・・・。

昼休みに大学からの新入生供給が予定通りストップし、艇庫でおにぎりを頂きます。
入部から1年ですっかり馴染んでしまった2回生マネNさんが素敵な笑顔で、「コーチ、おにぎりいくつ食べますか?」なんて聞いてくれます。

13時を過ぎ、午後便が到着しました。
試乗艇が出艇し、インフレータブルが出艇します。
午後第1陣の着替え、ハーネス・ライフジャケット着用を手伝い、彼らを乗せてレスキュー艇も出艇。
これからやることを新入生に話し、午後からは「インフレータブルに気をつけろ」という言葉を付け加えます。
「犠牲者が1人出ているので、彼らは凶暴だ」と。

インフレータブルのドライバーが、3回生女子マネージャーM嬢から2回生部員Tに代わって高速で飛ばして来ました。
前に乗るM嬢はキャーキャー言いながら到着。
「やばい」と思いながら、乗る時に「気をつけろ」と念を押します。
しかし、あっさり2人目の犠牲者が出ました。
急旋回とともにドボン。

これを見て、T君の優しさを感じたのは僕だけでしょうか?
僕が毎回、「このボートが最も凶暴だ」と言って乗せるので、M嬢が笑いながらですが「もうしないから」と恐縮していました。
1人責め苦を負うM嬢を庇い連帯責任を取るために「僕も同罪に」とT君は思っての行動だ・・・と底意を感じました。

京女在籍のマネージャー志望の女の子2人が、なんと高校ヨット部出身者でした。
彼女たちが入部してくれたら新しい展開になります。
高校同期の進学先などいろいろ話しました。
レース中のビデオ撮影や撮影ポイントなど、レース経験者故の位置取りが期待できそうです。

数チーム後、またドボン!
試乗予定者全員の試乗を終え、2回目希望者が乗ってきます。
その中にヨットからの落水を3回もやらかした猛者が出ました。
更に新入生を楽しませるためにやってたアトラクション中に急に風が変わり沈。
当然3人全員水の中です。

加えて、「僕ら飛び込んでいいですか?」なんて言ってくる新入生がいて、レスキューを止めライジャケを確認し、マネージャーがビデオを構え終わるのを待って「いいよ」と言うと、寸劇の後ドボン!ドボン!ドボン!
の3連発でした。
「こっちから上がれ」と促し、サイドデッキに引っ張り上げました。
大阪北野高校出身者でした。
大阪人はおばちゃんだけじゃなく、高校生も一癖ありますね。
因みに僕は、兵庫県です。
大阪人と一緒にしないで下さい。

4/21・三重県道r603~R42~R309~R169

r53に下り、「大杉谷登山センター自然の家」。
ここは「乗船チケット販売所」にもなっており、ダム湖巡りがあるようだ。
大台ケ原までの大杉谷登山コース看板が設置されており、登山期間が「4月中旬~11月下旬」と書かれている。
登山ルートが解禁されたばかりのようです。

『伊勢平野南部を流れる宮川の最上部にある大杉谷渓谷のうち、565haの国有林で、標高1300~1400mの間は、上部が暖温帯性常緑広葉樹林であり、本州南部における代表的な原始林として極めて貴重である。範囲は、大杉谷渓谷のうち、上は粟谷川との合流点から、下は水越谷川との合流点の間の両岸流域の国有林です。
宮川村は、環境条例を制定し、村の貴重な自然を保護しています。動植物の乱獲は自然を破壊し、犯罪になります。ご協力・ご注意お願いします』

20180421IitakaS0287s.jpg 11:58「新大杉橋」。
r53はこの橋を渡り対岸で大杉谷に入り、大台ケ原登山口に向かいます。
登山口から2泊3日で大台ケ原に登るルートが有ります。
地図では県道の延長にたくさん滝の存在が書かれています。
白線がバイクで上がれるなら見て回ろうと思ってたけど断念しました。
「六十尋滝4km」の道標が立っていたので観に行こうと思ったけど、この橋は足下の鉄板がスケスケで湖面が見えます。
歩いて様子を見に行きましたが、足がすくんでとても渡れそうにありません。
ましてバイクでなんか無理なので、これも断念しました。

ここからr603です。
本日のメインディシュ。
13年間災害復旧工事で不通だった県道です。
崩れた場所がわかるかな?
20180421IitakaS0303s.jpg 12:27水呑トンネル。

三重県大台町から紀北町への境です。
標高700m。
トンネル手前の道の広がりに車が数台停まっていました。
山登りの方でしょう。
20180421IitakaS0309s.jpg 青空が広がり暑すぎず、最高の登山日和ですね。

トンネルを抜け、伊勢湾側に下ります。
20180421IitakaS0308s.jpg 青い空に新緑の山がとても綺麗。
グングン下り、車1台・バイク1台・自転車1台の対向車があっただけで平地に降り、13:08、R42に出合いました。

r603を走るという目的を達したので帰路に着きます。
R425で西に走り奈良県に入り、R169を北上して帰りましょう。
去年「備後橋」が不通だったけど、今年は通れるようになっているのかな?出たとこ勝負です。

R42を南下します。
13:29「熊野古道紀北SS・豊漁石油」274km/11.76L=23.3km/L。
ここまで自宅から200km。
400km/日ツーリングになりそう。
13:38「主婦の店・相賀店」で「サンドダブルバナナ103円+助六298円」を購入。

R42を南下し、r760で「魚跳渓」。
20180421IitakaS0317s.jpg 巨岩がゴロゴロ転がってる渓谷美を見ながらお昼ご飯にします。
助六寿司が美味い。

14:09、R425との交点に到着。
20180421IitakaS0329s.jpg ここで残念なお知らせを目にしました。
「八幡トンネル」が通行止めのようで、奈良県に抜けることが出来ません。
「あ~、更に南に下って大回りしなきゃ」。

R425を奈良とは逆に、東に走ります。
R42に出て自宅から離れる方向・南に進みます。
ショートカット道に右折すると、好きな森の中の細道となり、R309に合流できました。
20180421IitakaS0330s.jpg ここから紀伊半島中央部を延々と北上します。

R425との交点を越え、「池原ダム湖」沿いを左右にワインディングしながら快調に走ります。
ただ僕は「+10の会」だし速くも走れないので、多少交通量が増えたから、バックミラーをチェックし後続車が追いついてくると左ウインカーで抜いてもらいます。

16:03「道の駅吉野路上北山店ヤマザキショップ」で、アイス150円で糖分補給。
「道の駅・杉の湯川上」を通過し、吉野まで北上しました。
R169と共に吉野川に沿って西進、右折し、高取町・明日香村を通過し橿原市。

ここで左折し、大和高田バイパス~南阪奈道~近畿道~中央縦貫道~R171。
18:56「伊丹産業セルフ北村SS」で給油。212km/7.02L=30.2km/L。





4/21・定神社~宮川ダム~大杉神社

バイクに戻り、林道を先に進みます。
9:37「龍仏の滝」。
林道沿いの沢にある滝でこれもショボい。
森の中の沢道は静かで最高です。

20180421IitakaS0183s.jpg 「洗い越し」がありました。
水量が少なく、チョロチョロ道を渡っているだけですが、これも林道のイベントです。
20180421IitakaS0186s.jpg 「ちょうしノ滝」「かまどの滝」、落差1~2mの小さな滝群ですが、水が綺麗で飲みたいぐらいです。

9:50「浦谷オートキャンプ場」。
夏の山を楽しむキャンプ場のようです。
沢道を下って行くと久しぶりの民家、そしてr31に突き当たりました。
右折し、少し交通量が増えたけど田舎道を快適に走り、R422に合流し寄り道からプロパールートに戻りました。
期待してた滝ではなかったけど、森の道は楽しかった。
陽光を浴び、広くなったけど相変わらず交通量の少ない道を気持ち良く走ります。

10:29、道が広くなり数台の車が停まっているところがあったので休憩。
「からすき谷公園」でした。
小さな建物があり、更衣室やトイレがあるようです。
「古ヶ丸尾根コース4.8km」「大熊三山登山道コース」の地図看板が立ってる。
ここでR422に沿って流れる宮川に合流する支流沿いに山に上がっていく舗装路があり、「古ヶ丸登山口・レンガ滝コース」と書かれている。
20180421IitakaS0211s.jpg 車止めされているので行けないけど・・・。

20180421IitakaS0215s.jpg 20180421IitakaS0218s.jpg 20180421IitakaS0231s.jpg また気持ちの良い道を宮川沿いに下り、10:47「定神社」。

20180421IitakaS0239s.jpg 11:12「宮川ダム」。
20180421IitakaS0245s.jpg 『沿革:宮川は海抜1695メートルの日ノ出岳を有する大台ヶ原山系にその源を発し、東流すること約91km、その間にいくつかの支流を合せ、流域面積約920平方キロメートルとなり、白砂青松の伊勢湾にそそぐ県下随一の大河川です。上流域は年間最大雨量5900ミリにも及ぶ我が国有数の多雨地域で、ひとたび降雨を見ると、大小無数の渓谷より流れる水はどっと本流宮川を下り、清流は濁流となって下流一帯を洪水の災禍にまき込み、又干ばつともなると流量は急激に減少し、その上河床の低い中流域では利用されずに河水は流失し、河口はそれにともなう排砂作用によってデルタを形成し、河口港の役割も果たしていない状態でした。
このため宮川の洪水調節、不特定かんがい用水の供給、発電等開発を目的として、『宮川総合開発事業』が計画され、昭和27年7月起工、36億9千万円の巨費を投じて昭和32年5月に宮川ダムを完成しました。その後、維持放流水の環境配慮への要望が高まる中、平成18年に下流河川への影響軽減を目的とした選択取水設備を完成しました。
洪水調節:基本高水流量(ダムに流れ込んでくる洪水の量で100年に一度の規模を想定)3100立方メートル/sの内1600立方メートル/sを調節(ダムに貯留)して大台町から伊勢市までの下流域での水害軽減に効果を発揮しています。
不特定かんがい用水の供給(農業用水):伊勢市他4町約4700ヘクタールの耕地に不特定かんがい用水をダムから供給しています。かんがい期間中は750万立方メートルを上限として供給し、最大462立方メートルの水を放流することが可能です。
発電:宮川ダムに貯水された水は水力発電所に供給され、宮川第1発電所、第2発電所で最大54200キロワットの電力を生み出しています。また、宮川ダムでは常時0.5立方メートル/s(河川維持)の放流を行っており、この水は宮川ダム維持放流発電設備(ダム直下)により有効利用され、最大220キロワットの電力を生み出しています。
観光:吉野熊野国立公園地域でも最も勝れた景勝地である大杉谷渓谷は宮川貯水池の出現によって更に景色を加え、交通路の開設によって大台ヶ原山系及び大杉谷渓谷は観光地として発展を期待されています。
選択取水設備:6段の筒状ゲートが伸縮みし、水面(上限EL.2766m)からEL.250mまでの範囲において下流河川環境に配慮した層の水を選択して取水(放流)することができる設備です。通常は、下流河川の水質と同程度である層の水を選択取水(放流)しています。
所在地:三重県多気郡大台町久豆地内
形式:直線重力式コンクリートダム造
貯水容量:総貯水容量7050立方メートル・有効貯水容量5650立方メートル・洪水調整容量2450立方メートル
寸法:堤高88.5m・堤頂長231m・堤体積3885830立方メートル・流域面積125.6km・満水位標高EL.280m・湛水面積2.0平方キロメートル
水力発電機:出力220KVA・使用水量0.5立方メートル/s』

20180421IitakaS0252s.jpg 11:21「大杉谷登山センター自然の家」。
マイクロバスが止まっており、山登りスタイルの中高年男女がトイレタイム&入山届タイムをしています。
交番があり、警察官が登山届を預かっています。

20180421IitakaS0249s.jpg 『ようこそ大杉谷へ 大杉谷林間キャンプ村・大杉神木・大台ケ原登山口』と書かれています。
大杉谷の名の由来になった御神木を観に行こう。
枝道を登って行き、11:27「大杉神社」。

『大杉神社の神木・大杉 昭和30年4月7日三重県天然記念物指定。樹高40m・幹回り9.2m(地上1.5m)・樹齢1200年。大杉谷(旧村)がひらけ始めた頃、すでに生木していたので、この大杉にちなんで大杉谷の名がつけられ、木の元の神である久久能智神(くくのちのかみ・古事記)を祀っている。
樹齢から推定すると、、この神木は天平時代(729~748)第45代聖武天皇の御代に、この地に根ざしたものと思われます。またこの地方では、伊勢神宮の御柚山として、往古神宮の御遷宮に何回か御用材が切り出されました。大きい木ばかりで樹海のようであったと伝えられています。
古くから、この大杉神社を大杉明神とも申します。大杉明神も大杉神社も同じで、縁起によると天狗のような変わった形の神様が、この大杉に降臨され、悪い病気を追い払ったり、水難から救い助け、また不漁のとき、おまつりすると大漁になることから、地元の他、紀州の漁師など海上の安全と大漁を祈願するためにお参りされました。
修験道(やまぶしなど)は、この神木にお祈りすると白蛇が乗り移るとも言われ、神木・霊木として信仰されている。古文書によると、大杉谷の大神木といって、他の県までも有名で、お参りする人々が絶えなかったそうです。この神木の左の方に杉の生き株がありますが、この株は「大杉神社の旧社」といって、今もまつられています』

誰もいないと思ったら、バイクが2台もありました。
ちょうどお一人が帰ってこられ、「何処から来られましたか?」なんて話が弾みました。
名古屋から来られた方で、大杉谷から大台ケ原コースに入られ、昨夜はコース上の山小屋で一泊されたそうです。
アメリカンバイクに、日本一周してそうな荷物を積んでおられました。

r53のエンドから続く道のどこまでバイクで登れるか聞きましたが、徒歩のみとのことで地図に出ている滝を観に行くことを断念しました。
「バイクde登山」の方のようです。
大台画から山頂まで2泊だそうです・・・猛者です。
僕もバイク自体の走りを楽しむ派ではないので、「バイクde寺社史跡巡り」あるいは「バイクde絶景山城巡り」に分類されるでしょう。

「ではお気をつけて」のバイク乗り定番の言葉で別れた後、鳥居をくぐり沢沿いに歩きます。
すぐに橋が渡っており、渡るとすぐ階段が登っており、2つ目の鳥居をくぐると今度は下り階段になり社殿がありました。
20180421IitakaS0264s.jpg 上から社殿に見えた建物は、単なる屋根のみで、屋根の下に門扉があり、正面に御神木がドーンと天に伸びていました。
20180421IitakaS0269s.jpg 手水場があり、乾いたタオルが下げてありました。
こんな山の中なのに毎日手入れされているようです。

4/21・栃谷神社~蓮ダム~水呑不動尊

R166現道に合流し、長い「高見山トンネル」を抜け三重県に入ります。
ループをクリアし坂を下ります。
栃谷川沿いを加杖坂峠に登る林道に入ります。

7:37鳥居を見つけ緊急停止。
20180421IitakaS0097s.jpg 栃谷川を渡ると「栃谷神社」でした。
どうってことない地域の鎮守様でしたが、掲示板に昨年の例祭の寄付者と金額が張り出されており、『過ぎし1年を顧み、何とか無事に栃谷神社例祭を迎えられたことに心より感謝する老人の独り言、ありがとうございました』と書かれていた。
主体的にこの神社のお世話をされている方の存在を感じます。

20180421IitakaS0113s.jpg 八重桜が満開です。
20180421IitakaS0112s.jpg 水車が回っているのでそちらを見に行くと、「炭焼窯」と書かれていました。
扉が開いたままで、笑門と書かれたお正月しめ縄飾りが下がっています。『無人販売 竹酢液・炭など窯元特価 ごゆっくり休憩を 山里の駅・栃谷 駅長福本馨』

『幸を感じる水車 澄んだ水と美しい空気、大切な郷土に水車を思いつきました。
この話を耳にした四日市で鉄工所を経営される栃谷村出身の福堀幸敏氏。生まれ育った郷里に深い愛着を感じられ、故郷の皆さんが益々元気になるよう水車建設に大きな力を注いでくださいました。誠にありがたく感謝を重ねながら設置いたしました。この地で暮らす人たちや、この山里を訪ねられた皆様のご健勝を念じます』

木で組んだ水路で引かれた水が水車をゴトゴト回していました。
八重桜を見に行くと、栃本足跡橋という橋があり、名前に微笑んでしまいました。
少し上流には、栃本川を渡るように床が設けられており、夏は足下の流れを見ながら素麺でもみんなで食べたら美味しそうです。
福本さんが地域の憩いの場をコツコツ造られているのかな?

20180421IitakaS0120s.jpg 『休憩していって下さい』看板に誘われ、無人販売所に入ってみます。
壁には周辺の写真が貼られ、横の部屋の壁には薪が積み上げられ、木材加工作業場に使っていそう。
休憩所中央に薪ストーブが置かれ、上に鍋。
周囲を囲むように木材テーブルが作られている。
「全国大会出場 飯高ジュニア スポーツ少年団・三重県代表バレーボールクラブ」が写真入りで紹介されている。特報記事には、全国大会出場三重高サッカー部悲願の初出場、三重高バレー部2年ぶり2回目出場の新聞切り抜きが貼られていた。

「幸せな人はだれでも、他の人をも幸せにするでしょう」
「何かを達成したという実感なしに、幸せはありえない」
「ほとんど毎日、幸せな瞬間なら、少なくとも一度はある」・・・幸せをテーマに標語が並んで貼られている。
福本さんのお人柄が忍ばれる。

8:01「加杖坂トンネル」。
1980年9月竣工、長さ260m・幅5m・高さ4.5m。
トンネル脇から峠に登っていくコンクリート舗装旧道がありました。
バリケードが1つ置いてありますが、簡単に移動できるので峠好きが突っ込んで行っているでしょう。

小さな祠がありました。
『加杖坂峠地蔵菩薩と道祖神 紀州和歌山街道筋から離れた栃谷と青田の境界、通称・加杖坂峠に古来より安置されたお地蔵様は、両地区の安泰と繁栄、さらに往来する村人達の道祖神として長年守護下さいました。
昭和35年トンネルの開通により旧峠道を往来する人がなくなった今、賑やかなこの地に感謝と真心を込めてお祀り申し上げます』

祠横に『修験道・行者信仰の理念、世界平和・国家安泰、万物万象の立命祈願 修験節律根本道場・大和国大峰蛇之倉七尾山』と書かれていました。
大峰山の七尾山道場は知ってる。
トンネルを抜け下りに入ります。
20180421IitakaS0134s.jpg 8:11舗装林道「林道木屋谷線」が分岐していた。
山が深い地域なので、沢沿いに林道が分岐している。
先にどんな絶景が待っているのだろう?

しばらくして対向車が来た。
そう言えば林道に入ってから対向車に出合っただろうか?
こういう道が大好きです。
右手に「奥香肌湖」が見えてきました。
20180421IitakaS0136s.jpg 対岸に渡る橋があったのでバイクを停めて渡ってみたが、足下が格子状になっており湖面が見えてて脚がゾワゾワして、とても耐えきれず数メートルで撤退。

道なりにr569になります。
20180421IitakaS0141s.jpg 8:28「蓮ダム」。
ビューティフルに晴れ上がった青い空に静かな湖面。
そんな世界に誰もいない僕だけの世界・・・良いなあ。

そのまま下り、またR166に合流しました。
国道だけで来たら早いのですが、せっかくの山をスルーなんてもったいなさ過ぎます。
すぐにr569単独道に右折し、R166に沿って走ります。
20180421IitakaS0154s.jpg そしてR422に合流。

ここからR422を走ります。
国道だけどセンターラインのない四輪離合するのにスピードをしっかり落とさないといけない好みの道です。
もちろん交通量も少ない。

ワインディングを左右に曲りながら走っていると、また道路に小動物。
狸?猪?アライグマ?鼻が長いのでアナグマのようです。
ちょうどそこに林道入口があり、「林道・野止好線」となっていた。

8:52「湯谷トンネル」。
松阪市飯高町から、大台町に入ります。
奈良県側から見れば、大台ケ原の裏側の町です。

8:55「湯谷不動明王」。
川のせせらぎの音が聞こえるので、修験道の滝修行場でもあったのかもしれません。
猿の鳴き声のようなものが聞こえています。
野鳥ではなさそうです。
これからの時期、渡り鳥も多く飛来し、日本で産卵・子育てするので、山に入るといろんな鳴き声が聞こえてきます。
楽しい季節です。

林道チックなR422ワインディングをのんびり下ると、緑色の案内板に書かれた「・・滝」が目に付き、ストップして地図を見ると以前チェックした滝でした。
ピストンではなく、県道に続く林道で、県道でR422の先に戻ってこれるので寄り道することにしました。
20180421IitakaS0163s.jpg 舗装が切れないか気にしながら森の中を走っていくと、また滝の案内板があり、沢に沿う枝道に入り、9:16「水呑不動尊」。

『昔、この地に炭焼きを業とする木こりが住んでいた。ある春の一日、滝の付近で仕事の疲れをいやすうち、いつしか夢路をたどっていた。ところが、この木こりの夢の中に白蛇が現れ、「われは不動明王である。この滝に祀れば、長く里人の家内安全を護るであろう」との託宣があった。喜んだ木こりは村人と計って、滝の傍に小堂を建て、日ごろから信心を怠らなかった。
当不動尊は倶利伽羅明王とも呼ばれ、直立する降魔の剣を絶大な霊力を持つ龍がしっかりと巻いている姿で表されている。
この不動尊の傍らを通る山道は、尾放し峠道と言われ、昔から飯高町宮前と栗谷を結ぶ重要な通路であり、天正の昔、若武者達が北畠具教の首級を三瀬館から飯高町野々口に運んだ道筋でもある。
この不動尊の境内には、樹齢500年ほどの古木が鬱蒼と茂っており、発祥の古いことを物語っている。命日は旧暦1月28日で、霊験あらたかな不動さん、また土地の守護神としてねんごろな祭が行われている』

20180421IitakaS0165s.jpg 道が広くなっているPにバイクを置き、未舗装路をさらに少し歩くと素朴な鳥居があり、それをくぐり沢を橋で渡ると小屋があり、その横に小さな滝がありました。
拍子抜けするほど小さな滝ですが、鳥居や小屋など修験道者が修業の場としているのか、地元の方の信仰が篤いのか大切にされているのがわかりました。


4/21・惣社水分神社~木津八坂神社

20180421IitakaS0044s.jpg 鎮守の森がないかキョロキョロしながらゆっくり走っていると鳥居を見つけたので止まると、6:33「惣社水分神社」だった。
水分神社の例大祭に、この惣社から姫神様が宇太まで渡御するようです。
渡御道を走ってきたようです。

鳥居をくぐります。
『参道や境内は神聖なところです。犬の散歩はご遠慮下さい』
『鎮座地:奈良県宇陀郡菟田野町大字上芳野 祭神:天水分神・国水分神・速秋津比古命・天之児屋根命・誉田別命・他数神 由緒:大和朝廷時代の飛鳥を中心として、四周の東方にあたる宇陀地方の水の守り神として、ここ芳野川(淀川の源流)に創祀され、一郷(現在の榛原町・大宇陀町・菟田野町)の惣社として崇敬されている。宇陀水分三社(芳野・古市場・下井足)の上の宮である。
建造物:本殿:大正2年隣接する八幡社を合祀し、当社の本殿(明治2年建築)とした。懸魚・蟇股などの彫刻は幕末の名工・安本亀八作 宝物:神輿(重要文化財)一基:南北朝時代 瓶子一対:「貞和2年芳野本水分宮」銘あり 鞍及鐙一具:「永禄5年」銘あり』

『惣社水分神社御神輿(鳳輦(ほうれん)みこし・重要文化財) 南北朝の頃に建造されたもので、今から600年前のもの。その形態は清楚で典雅のおもむきを備え、木造漆塗で細部の技風も卓抜している。
屋根は、宝形造りでふっくらした照起りとなっており、屋上に鳳凰をいただき、各隅木の木鼻が伸び、屋根全体をひきしめている。軒は、吊り金物細工で飾られ、その姿は壮厳である。保存がよく建造当初の姿をよく残しており、鳳凰も当初のもので全国にその類をみない鳳輦みこしである。鳳輦みこしとは、屋形の上に鳳凰を付けた御輿で、天皇の乗物の美称である。
秋まつり(10月21日)の「御渡り」には、この「みこし」を中心として時代行列を整え、古市場に鎮座する宇太水分神社へ渡る。古式ゆたかな祭礼の行列が延々と続く情景は、正に優雅な豪華絵巻をみる想いであり、近郷近在屈指のお祭りである。昭和31年(1956)国の重要文化財に指定された』

この渡御は、当社の女神(速開津比売命/速秋津姫命)が、夫である速秋津彦命に1年に1度会うため、速秋津彦命を祀る古市場の中社までお渡りする祭だそうで、七夕伝説に似ている。
この七夕伝説は、アジア各地に同じような伝説が伝えられており、日本国内でもその起こった謂れはいろいろある。

僕が最も好むのは、祓戸の神とされている瀬織津姫の物語です。
天照大神は女神が通り相場ですが、本当は男神だった。
その妻が絶世の美女・瀬織津姫。
天智天皇(中大兄皇子)が藤原(中臣)鎌足と陰謀したクーデター645年「大化の改新」で蘇我入鹿を暗殺した。
それに腹を立てた入鹿の父・蝦夷は自邸に火をかけ自害した。
この時邸内に保管されていた朝廷歴史書まで燃えてしまった。

壬申の乱を経て、兄・天智天皇の子から皇位を奪った天武天皇は、歴史書の編纂を命じた。
天武天皇の皇后は後の持統天皇です。
持統天皇は天智天皇の娘で、壬申の乱を企てたのは持統天皇だった説があるぐらい政治好きで、二人三脚で政治を行った。

天武天皇の妻は、持統天皇だけではなく、天智天皇の4人の娘が嫁いでいる。
それらに子が出来ライバル心バリバリです。
天武天皇即位後に持統天皇が皇后になり、天武天皇は妻や皇子たちを呼び、互いに争うなと抱擁した。
妹の子・大津皇子の方が優秀だったが、なんとか皇太子に我が子・草壁皇子が指名された。
人生の勝ち組です。
大津皇子の母が既に他界していたことで後ろ盾がおらず、持統天皇・草壁皇子側にアドバンテージがあった。

しかしながら、天武天皇は優秀な大津皇子の方を好みかわいがっていたので、まだ安心できない。
天武天皇が亡くなった翌日、大津皇子を次の天皇に押す一派に先制攻撃することになった「大津皇子クーデター計画発覚事件」があり、自殺に追い込んでいる。
最大のライバルが消え安心したのもつかの間、2年という一連の葬儀中、草壁皇子が亡くなってしまった。

持統天皇はめげず、草壁皇子の子・軽皇子(7才文武天皇)を皇位につけるため、自分がピンチヒッターとして皇位に着く。
天皇位は男系男子が本流で、男系ながら女性である自分に正当性を持たせるため、編纂中の古事記・日本書紀の天照大神を男神から女神に変更する大胆な作戦に出た。

女神なら妻は必要なく、割を食ってしまう瀬織津姫を祓い神筆頭にしてその霊をなだめようとした。七夕伝説の織姫のモデルにし、夫・天照と年に1回逢瀬を続ける清い神にした。
この七夕伝説の謂れが歴史好きの僕の心を捉えている。
この芳野川の水分神社に残る渡御祭が、大和朝廷の水に伝わり、瀬織津姫と天照の七夕伝説に繋がり、脳内妄想を膨らませた。

石段を上り境内に上がってみた。
20180421IitakaS0052s.jpg 『御神水分処』の札が立ち、湧水がパイプから流れ出ていた。
きっと湧水の地を争奪戦から守るため神域に定め水分神社が建てられたのだろうと、これまた脳内妄想が働いた。

20180421IitakaS0057s.jpg 社殿はそれほど古い造りではなかった。
20180421IitakaS0058s.jpg 拝殿に手を合わせると、『どなた様もご自由に御札をお持ち帰り下さい』と御札が置いてあった。
それに見合うお賽銭に増額し賽銭箱に入れ、ありがたく頂いた。
『芳野鎮座惣社水分神社神霊』

20180421IitakaS0062s.jpg 横にコンクリート造りの宝物保存庫があった。
20180421IitakaS0066s.jpg 『重要文化財:黒漆金銅装神輿(昭和32年2月19日指定)・重要文化財:黒漆瓶子(平成12年6月27日指定) 惣社水分神社は、天水分神・国水分神・天児屋根命・速秋津比古命・誉田別命などを祭神とし、南北朝時代の製作とされる神輿(黒漆金銅装神輿)、黒漆瓶子などを所蔵しています。
黒漆金銅装神輿は、保存状態が良く当初の姿を残しています。秋祭りでは、惣社水分神社から宇太水分神社(古市場)までの「お渡り」(渡御祭)に使用されていました。
一対の瓶子は、神饌具として神前に供えられた酒器で、胴部の朱漆銘に「御供酒瓶子」とあります。貞和2年(1346)の北朝の年号が記されており、数少ない中世漆器のなかで、南北朝時代の年号がある漆器の1つであることがわかります。
また、胴部に「芳野本水分宮」とあり、当初から当社に伝来したことがわかり、由緒の確かな現存最古の紀年銘瓶子です』

r31芳野川沿いを東に走り、道は直角に南に進路を変えます。
6:49ここに「正覚寺」がありました。
20180421IitakaS0069s.jpg 「菟田野小学校スクールバス乗り場」があり、鯉のぼりがたくさん吊られた綱が芳野川を渡っている。
20180421IitakaS0077s.jpg 集会所のような建物があり、その雨戸に「全品半額」と書かれている。
何かな?と思ったら、表皮を加工された丸太だった。
ちょうど椅子に丁度よい大きさで、お値段は200円・500円・700円とかなり安価だった。
持っていき放題の無人販売風になっており、代金箱を探したがなかった。
正覚寺に参ろうと思って止まったが、外観に目を引くものがなくパス。

道なりに南に曲り、川沿いの道から峠を越える山道になる。
20180421IitakaS0079s.jpg トコトコと山を登り、細道カーブを注意しながら曲がっていると、6:57目の前に鹿。
道路のど真ん中でこちを見ているので緊急停止、睨めっこしました。

峠を越え南側に下って行きます。
r251との分岐があり、より細いr251を選択しました。
ナイスな舗装林道で山を抜け、R166・旧道に合流し、7:16「八坂神社」。
20180421IitakaS0080s.jpg ここも鎮守の森の大杉が林立する雰囲気の良い神社です。

『木津八坂神社 この神社の創建は定かではありませんが、東吉野村史によると、山城国(京都府)八坂神社より勧請されたと伝えられており、現存する棟札によれば、天正10年(1582)、宝暦10年(1760)、明治13年(1880)、昭和59年(1984)、そして平成24年(2012)に社殿の造替えを行っています。
境内地の巨木の杉は目通り周囲3~5m、高さ30~50m程で、樹齢は430年~500年と言われ、御神木として古くから親しまれています。 私たちの故郷・木津の大切な財産を、未来に受け継いでいきましょう』

20180421IitakaS0088s.jpg 造替えからまだ6年なので、社門も神殿も朱塗りが美しい。
緑のバックにとても映えています。

4/21・宇太水分神社

『険道 / 13年ぶりの正式開通・・・三重県道603号大杉谷海山線』というのを知り、走ってみたくなりました。
僕は国道より県道、県道より林道・沢道好きです。

このr603、県道ですがこれだけ長い間不通なら主要幹線ではなく実質林道です。
別に走れなくても代用できる道です。
不通期間が長いということは山道・崖道で、僕の大好きな道です。
こういう道のほとんどが絶景が望めます。

一筆書きルートを引く(R166~r306~R477~R169)と距離が300kmオーバーになり、寄り道を含めると400kmに近い(帰宅後計算すると420km)です。
朝早く出なくちゃ。
4時に目を覚まし急いで着替え(秋冬定番装束コミネ上下夏用メッシュプロテクタージャケット・パンツ+DAIWAフィッシングスーツ)、倉庫から「招き猫CB400SB」を出しました。

4:30に出発し、R171~中央縦貫道~吹田ICから近畿道~南阪奈道~大和高田バイパス経由で橿原市に入りました。
R165で東進し、R166に乗り換えます。
国道を走っても良かったが、r217~r31に浮気し田舎道を楽しみます。
r217とr31の交点の所に「八咫烏神社」という魅力的な社名の神社がナビに見えたが、案内道標が出ていなかったのでパスしました。

20180421IitakaS0001s.jpg R166に復帰する手前に、6:05最初の目的地「宇太水分神社」がありました。
「水分神社」がこの地域に3社あり、社名から農業に最も大切な水を大事に、争いをなくすためのお宮だと想像され気になりました。

20180421IitakaS0002s.jpg 前情報なしに訪問しましたが、鳥居の前に来た時点で、鎮守の森の深さと木々の高さが見え当たりだと思いました。
『国宝の見学や写真撮影はあとにして、まず参詣しましょう』と書かれた立て札が立ち、「国宝があるのか」とますます期待が膨らみます。
『頼朝杉(2代目) 源頼朝が幼少の時、当社に詣で、この杉苗が大きく育つことがあれば、自分も天下を治める大将軍になることが出来るであろうと、占うため植えさせたのが初代。「水分の神の誓いを植え置き、後に栄えの老杉を見む」と詠む』

境内の中央部に板玉垣で囲まれた小さな一角があり、その中の鎮守杉も立派に年輪を刻んだ大木でした。
『祓戸神社 身の清めに詣る。一柱の大神の神社。 稲荷神社 主に商売繁盛などを願う神社』
椿の下に花がたくさん落ちており、小さな花の絨毯になっている。

拝殿の裏に鎮守の森の巨大杉が林立しています。
歴史の古い長年大きな信仰を集めてきた神社であることが一目瞭然です。
『文化財愛護 重要文化財 域内に国宝3棟・重要文化財2棟あり、たばこ・焚火・その他火気は厳禁されています』

開いていないけど窓から社務所を覗きます。
神棚・破魔矢・御守が揃っています。
開いていたら授かりたい。
拝殿裏に回ります。

20180421IitakaS0020s.jpg 『夫婦杉 この二股に分かれた老杉は、夫婦になぞらえて「夫婦杉」と呼ばれております。根元は夫婦の和合を表しているようで、大変めでたい木です。10月の第3日曜日の例大祭には、この御神木の根元で惣社水分神社の女神様が神輿にお乗りになって来られ、当社の男神様とお逢いになられます。このことから国宝の本殿に詣でた後縁結びを願う人、また夫婦円満や家内安全子孫繁栄を祈願する方々の姿がございます』

20180421IitakaS0036s.jpg 夫婦杉の横に国宝三社が並んでいました。
大きな社ではありませんが、檜皮葺屋根のカーブが美しく、お見事です。
朝早く誰もいない時間に僕だけが独占です。
千木が垂直切りで鰹木が千木にくっついて2本あるだけです。
三社は同じ形をしているようです。

20180421IitakaS0024s.jpg 『延喜式の宇陀郡17座の第一の大社 本殿向かって右より、国宝第1殿祭神:天水分神、国宝第2殿祭神:速秋津彦命、国宝第3殿祭神:国水分神 重要文化財:春日神社・宗像神社 境内社:恵比寿神社・金比羅神社 鎮座地:宇陀市菟田野区古市場245 崇神天皇7年2月の勅祭の大社で、水の配分の守護神として、大和の所請四周東西南北に祀られた東に当たる神社で、本殿は鎌倉時代の元応2年建
造であることが棟木墨銘により判っております。なお永禄元年以降に施された彩色が、平成16年に復元になりました。10月第3日曜日の例大祭は、平安時代から伝わる神輿渡御祭で、惣社水分神社から姫神様がお渡りになります』

『国宝 宇太水分神社本殿三棟 鎌倉時代1318年創建』

『昭和35年5月13日 高松宮殿下御手植の銀杏跡 木の成長に伴い視界が妨げられるため、向かって右末社金比羅神社横へ移植す。 平成10年11月』

『重要文化財 境内春日神社社殿 室町時代』
『重要文化財 境内社宗像神社社殿 室町時代』

20180421IitakaS0039s.jpg 国宝と重文が板玉垣内に横一列に並んで建っている姿はなかなかのものです。
全てが焼失せず、修理されながら遺っているのが地元の方々の信仰心を物語ります。
20180421IitakaS0040s.jpg それらを引いて俯瞰すると、社殿の奥に鎮守の大杉群が林立し守護しているように見えます。
素晴らしかった。

R166に合流し、そのまま走っても良かったが、国道より県道嗜好なのでr31にチェンジし、また細めの田舎道に入っていきます。
「芳野川」という小川沿いの田舎道で気持ちが良い。


4/16・福知山/醍醐寺・養泉禅寺・猪崎城跡・威光寺「本尊御開帳」

バイクに戻り、「京丹波みずほ福知山IC」で下車し、R173で北上します。
質志鍾乳洞を通過し、由良川を北に渡り、R27~r77。
r77は由良川を西に渡り、再び北に渡る手前で県道とは別れ、由良川の南側を川に沿って西進する。
北に渡り、r74に乗り換えてまた西進。

20180416IkoS0018s.jpg 11:46「醍醐寺」。
八重桜が見事に咲き誇っています。
20180416IkoS0019s.jpg 『醍醐寺 福知山市文化財:三光国師像図・木造薬師如来坐像・醍醐寺額下書き 醍醐寺は南北朝時代(1340年頃)に後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が創建した寺で、多くの文化財が残されています。
三光国師像図は、寺伝では室町時代中期の画家土佐光信の筆と伝えられています。
木造薬師如来坐像は、桃山時代屈指の仏師である康正が元亀2年(1571)に作ったものです。額下書きは、足利6代将軍・義教が祈願寺と定めた時自書したものです。いずれの文化財も、菩提寺が室町幕府と密接な関係を持ち栄えたことを物語る貴重な資料です』

20180416IkoS0038s.jpg 『丹波半僧坊大権現 半僧坊の縁起については、鎌倉建長寺の場合や、浜松の方広寺の鎮守として人気のある奥山半僧坊が大勢の参拝客を集め有名ですが、いずれも臨済宗の禅師に仕えた「半ば僧にして僧に非ず」と、半僧坊として入門し、禅師と寺を守護すると共に衆生の苦難を救ったといわれています。
醍醐寺の半僧坊は明治17・8年ごろ荻野・天野・天藤諸氏等が、当時の松田正覚和尚(7世)に事の由を話されたところ、和尚は痛く心を打たれ遠州の本山から半僧坊を勧請して、明治23年4月当山の鎮守として鬼城山麓、古木・老杉の繁るこの地に奥山半僧坊より分霊して祀られました。当時は一人一事は成功させる「一願成就」の力があると、積極的な神通力を発揮したそうです。
時の過ぎるままに、庶民の願いも変化して、商売繁盛・五穀豊穣から時代の要請というか反映か、明治の末期から大正時代にかけて「兵役逃れ」「クジ逃れ」の権現様として庶民に親しまれています。
やがて、軍国主義化により、官憲の注目するところとなり、終戦により神仏共によりどころをなくした混沌とした時代を「一願成就」だけは細々と生きてきた中で、高度成長時代を過ぎ、現在の広瀬住職になり昭和59年書院の落慶と共に大祭準備に入り粗飯の代わりにうどん接待となって、昭和60年大祭を再興しました。
さて、今の時代。異常気象のみならず、テロが横行し、世界中が物騒となり、内から外から不安が押し寄せる中、ここ丹波半僧坊の御社が安心・安全を願う「パワースポット」となることを願っています』

20180416IkoS0046s.jpg 「三段池公園」でトイレ休憩し、12:12「養泉禅寺」。
20180416IkoS0051s.jpg 『養泉寺(丹波萩寺) 臨済宗南禅寺派。開創は暦応2年(1339)弧峯覚明(こほうかくみょう、後に三光国師)開場の最初の道場。後醍醐天皇の信仰篤く、隠岐島より船上山に逃れ給いし時、出雲より召されて禅学を講じ、御帰洛後も禁裏に待講、南禅寺に住せんとされしも、名刹を好まず病と偽って養泉寺に帰らる。現在の本堂・山門・講堂は明治37年再建。
20180416IkoS0053s.jpg 観音堂:当村山中に大仙寺(真言宗)という七堂伽藍を有する寺があったが、室町時代に廃寺となり、この堂一宇だけが残った。元禄4年、願主の下知により当寺に移築、嘉永元年に修築された。堂内の格子天井は、福知山城舞殿にあったもので、81枚の板に百花百鳥が色鮮やかに描かれている。
20180416IkoS0060s.jpg 光明寺尊像図:近くにあった久法寺に伝えられたもので、永正年中に廃寺となり、一時檀家に安置されていた。天文20年(1551)養泉寺に寄進された。画風から見て室町時代初期の作品で、地合は蓮の糸で織られたもの。
20180416IkoS0068s.jpg 萩:ハギの名は「生え芽」(古い株から多数の芽を出す)に由来する』

20180416IkoS0074s.jpg 12:26「猪崎城跡」。
天文年間(1532~55)に築かれた塩見氏の城で、天正7年(1579)織田信長の武将・明智光秀が丹波に攻め込み、塩見氏の城は次々に落とされた。

20180416IkoS0079s.jpg 『眼下に由良川・福知山市街地を望む小さな丘の上にある猪崎城跡は、今も「猪崎の城山」と呼ばれる中世の山城です。鳥ヶ岳・鬼ヶ城などの山々から由良川・土師川の合流部近くまで長く伸びた裾野の先端にあります。
20180416IkoS0085s.jpg 城の周囲は東西150m・南北160mのほぼ円形のこの丘全域にある。主郭は東西45m・南北50m、主郭の北西隅に矢倉台らしき盛土も残っている。主郭から1段下がった周囲三方(北・東・南)には、高さ0.5~3.5mの土塁があり、主郭との間は15mほどの空堀となっている。通路を兼ね、武者溜りにも利用できる空堀は、福知山地方最大規模を誇っている。
20180416IkoS0095s.jpg その周囲には、10ヶ所あまりの曲輪を裾に向かって階段状に付属させている。これら空堀様式や曲輪の配置は、畿内では天文~永禄年間(1532~1569)盛んに造られたことから、福知山地方で最も新しいタイプの中世城郭の1つと考えられる。
20180416IkoS0100s.jpg 天正7年(1579)、明智光秀は丹波を平定し、近世城郭・福知山城を築造する。
その直前の姿を今に伝える』

適当に木々が除かれ、保存状態も良いので、山城成分の主郭・帯曲輪・土塁などがよく分かる。
バイクに戻り、r55で由良川を福知山市街地側に渡り、R9で北西に進む。R426にチェンジし、13:04「威光寺」。
本日のメインディッシュ、40年ぶりに御開帳された本尊「薬師瑠璃光如来坐像」(江戸時代初期)を拝みに参りました。

細く急勾配の山道だし、対向車が来そうなので下のPでバイクを停め、徒歩で上ります。
谷を挟んだ山に棚田が見えます。
20180416IkoS0137s.jpg 夏に向かう山村ののどかな風景が美しい。
20180416IkoS0146s.jpg 谷川の水と樋で引き、ザルに入れたわさびを冷やしています。
横にはスイセンがまだ咲いている。

20180416IkoS0142s.jpg 鮮やかな垂れ幕でお化粧された山門が迎えてくれる。
その前にピンク色の満開の八重桜が美しい。
20180416IkoS0115s.jpg 垂れ幕をくぐると仁王門だった。
20180416IkoS0116s.jpg 左右に阿吽仁王像が邪気を入れまいとしている。

20180416IkoS0119s.jpg 『木造金剛力士像・一対 威光寺の所有する「威光寺文書」によると、威光寺は鎌倉時代には既に真言宗の寺院として存在していた。16世紀末、明智光秀は反抗する寺院の多くを破却したが、当寺は住持が光秀と同郷であったため命脈を保った。
金剛力士像は、仁王(二王)像とも呼ばれ仏法を守護する目的で寺門の左右に配置されており、向かって右側の像を阿形像、左側を吽形像と言います。木造金剛力士像は福知山市内に5対ありますが、威光寺の像は像高が222cmあり、怒りを表した顔の表現に特徴があります。作風は運慶(鎌倉時代の有名な仏師)の流れを汲んでおり、作成年代は室町時代前期と推測されている』

20180416IkoS0124s.jpg 境内に上がると、庫裏の玄関前で奥様が、お茶とお菓子の接待をされておられました。
40年ぶりの本尊御開帳なので、多くの仏像好きさんが来られているのでしょう。
接待を受けておられる方が数人おり、境内を写真に収めておられる方が数人、本堂も含めれば10人以上の方がおられると思います。

20180416IkoS0127s.jpg 見頃の八重桜などを写真に収めながら本堂へ。
20180416IkoS0133s.jpg 靴を脱いで上がると、ご本尊のおられる厨子以外の堂内も素晴らしい。
20180416IkoS0134s.jpg 仏像が並び、本尊が見れなくても十分楽しませてくれます。
失礼ながら人口の少ない地域の山寺なので・・・という想像で来ましたが、良い方向に裏切られました。

厨子の正面に座り、僕のこれまでの人生に感謝し手を合わせます。
御本尊は金色に光っています。
金箔が少しも剥落せず、新しくさえ見えます。
40年間厨子に隠れ、開帳されてもたった3日、これまで400年経ちましたが、これからの400年もこのままの姿を保ちそうです。
兵火に遭っていない故の保存状態の良さでしょう。

堂内には常に5~6人入れ代わり立ち代わりおられ人気です。
MHK・TVで紹介されたからかなあ~。
お若い新住職さんが、知り合いさんにお母様から紹介されています。
ご住職に「金箔がそのままで、見事ですね~」と声を掛けました。
あ~だこ~だ。
ご住職自身も初めて目にするのか、まるで観光客のような言葉で感嘆されていました。

拝観料無料に恐縮し、「御守木札・1000円」を授かりました。
この木札は大きめで、他の寺社なら2000円はします。
授かろうと即決したのは、梵字の下に「奉開扉御本尊薬師如来秘法・心願成就・如意円満・守護」と書かれていたからです。

御開帳特別札です。
帰宅後袋を開けると、小ぶりの御札がさらに2札入っていました。
これだけで500円×2するでしょう。

境内を帰っていると、「お茶、飲んでいって下さい」と、お菓子とお茶を用意してくださいました。
ありがたくよばれました。
お隣に座っておられた男性とお喋りしていると、知り合いの方が来られ、奥様が御開帳以来のフィーバーを話していました。
なんと、ニュースで見て翌朝始発の新幹線に飛び乗り、はるばる東京からやってこられたご夫婦がいたそうです。
山村の山寺の本尊御開帳にも、広い地域から人が集まるのは日本が平和故、豊か故でしょう。
こんな日本が、長く長く続いて欲しいものです。

お礼を述べ、帰路に着きます。
R426~R9~福知山ICから舞鶴若狭道に乗り、14:31西紀SAで「デカいちごチョコバー135円」で糖分補給。
エネオスで給油。
297km/11.65L=25.5km/L。
中国道・宝塚ICで下車し、15:38帰宅。
すぐに仕事場に急ぎました。




4/16・塩谷古墳公園

前日・日曜日のニュースで、「南海電鉄・浜寺公園駅」が紹介されていました。
登録有形文化財で、現存する私鉄駅では日本最古の駅舎だそうです。
また「福知山市・威光寺の本尊40年ぶり御開帳」も流されました。
「両方共観に行かなきゃ」の第一弾、急遽休みを取って「威光寺」に向かいます。

40年ぶりの御開帳で姿を表わすのは室町時代作の薬師如来像で、TVでは開かれた厨子の中に金箔がほとんど落ちずに輝いていました。
よっぽど大切に保存されていたのでしょう。
福知山は大きな経済力を持った地で、戦国の争いが激しかったし、信長軍団の尖兵・明智光秀が当地の豪族を次々に倒し、新たな領地経営に乗り出した光秀本拠地です。
戦火に遭わず残ったのも奇跡でしょう。

御開帳期間は「火曜日の14時まで」というたった3日しかありません。
たった3日の秘仏御開帳なんて見たことがなく、ニュースで知ったのも何かの縁だからと観に行くことにしました。
日曜の夜、福知山のまだ巡っていない寺社史跡をいくつかピックアップして準備万端。
仕事場に出て、お休みすることの承諾を得ました。

倉庫から「招き猫CB400SB」を出して、8:27遅い出発。
r13~r12~r12・旧道でR173に出ました。
「一庫ダム」周遊道路r604に乗り換え北上します。
道なりにr106になり、ここから大阪府能勢町です。
道なりにR477に合流し、昔摂津と丹波の国境があった「ひいらぎ峠」を越えると、京都府亀岡市に入ります。

R372まで下り、共用区間を経て再びR477単独道に右折し、新世紀トンネルを経て園部。
「生身天満宮」前を通過します。
この天満宮は、日本各地にある「最初の天満宮」の1つです。
かつてこの地は菅原氏の知行地で、代官・武部源蔵が道真の8男・慶能を養育を頼まれた。
菅原邸内に祠を建て、密かに道真の像を安置したのが始まりです。
現在の宮司も源蔵の子孫です。

この史実をモディファイしたのが日本三大歌舞伎「菅原伝授手習鑑」になっている。
『菅家の屋敷を預かる忠義心のあつい家来、白太夫がいました。この白太夫に三つ子の息子、梅王丸・松王丸・桜丸が生まれます。菅丞相からの「三つ子は天子の守りとなる」との仰せにより、3人それぞれ、梅王丸は菅丞相、松王丸は藤原時平、桜丸は斎世親王の家来に引立てられます。兄弟は菅丞相に並々ならぬ恩を感じていました。
菅丞相の左遷後、その子実子菅秀才をゆだねられた忠臣武部源蔵は、現在の京北町芹生に隠棲します。菅丞相の筆法の秘技を受け継ぐ唯一の弟子であった武部源蔵は、筆法を伝授するため夫婦で寺子屋を開きます。そうしながら菅秀才を我が子と偽り匿い暮らしていました。それを嗅ぎつけた藤原時平が、菅秀才の首を討つよう迫ります。
武部源蔵は、窮余の一策で、新しく寺入りしてきたばかりの小太郎の首を討ち、菅秀才として検視役の松王丸に差し出します。顔を知っているはずの松王丸は、なぜかその首を菅秀才と認め帰っていきます。再び白装束で松王丸が寺子屋に現れ、小太郎は我が子であり、自分は藤原時平の家来でありながらも菅丞相の恩に報いるため、菅秀才の身代わりとなるよう寺入りさせたことを打ち明けるのです。
武部源蔵夫婦にとっては命掛けの偽首、松王丸にとっては犠牲になった自分の子を見届けなけらばならない、緊迫した最も盛り上がる見せ場が「寺子屋の段」です』

R9を渡り、r19に乗り、園部ICから京都縦貫道に乗ります。
9:54「京丹波味夢の里SA」で休憩します。
20180416IkoS0006s.jpg トイレに行こうと思ったら、5~6台の観光バスから中学生団体が降りてトイレに殺到していたのでパスし、建物裏に行くと「塩谷古墳公園」の案内板がありました。
20180416IkoS0005s.jpg 下を見下ろすと小山が伐採整地され、古墳の丘が数基見えます。
草木が全て取り払われ裸状態になっているので、今いる僕らは見やすいが、50年もすれば風雨で土が流され、後の時代の人への保存はどうなんだろう?と疑問の目で見ました。

『京丹波町史跡塩谷古墳群 塩谷古墳群は、5世紀末から6世紀前半のもので、小高い丘の上に築かれた直径8メートルから最大15.5メートルの12基の大小の古墳で形成されています。丘陵最頂部に位置し規模も最大である5号古墳から、全国でも貴重な巫女の形をした人物埴輪2体が出土しました。
古墳群の保存(現在11基)をするために、自然環境と歴史的環境を整備し、身近に歴史にふれあってもらう場として「塩谷古墳公園」として整備してあります。巫女埴輪は、京都府指定文化財に指定され、現在、公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターに保管されています』

20180416IkoS0008s.jpg トイレを拝借し建物に戻ると、神社や茅葺屋根の家の精巧なミニチュアが飾られていました。
作家名も書かれています。
この作家や古墳の資料・近在の史跡パンフがありそうなので、観光協会職員?持ち場の周りの机の上や棚のパンフを物色します。

数枚のパンフを頂こうとしていると、「どちらからですか?」「兵庫県の伊丹からです」。
「今お時間ございませんか?古墳の先生が来られているので、説明を受けませんか?」・・・と観光協会職員?の女性から声を掛けられました。

すぐ近くにおられた男性が振り向き、30分ほど説明を受けることにしました。
何も言わなければ無料だったのでしょうが、パンフに「古墳教室・40分300円・資料お茶付き」と書かれていたのを見ていたので、「300円ここでお払いすれば良いですか」と財布から300円出しました。

先程の古墳に行きます。
20180416IkoS0012s.jpg SAより下に下り、再び登って古墳丘頂上へ。
秦氏と関係のある豪族の古墳群だそうです。
盆地が広がっているような多くの人を養える地形ではなく、埴輪古墳という当時の有力者の真似が出来る経済力は日本海と畿内との交易の要衝の地としての存在感から成されたものと考えられているとのこと。

20180416IkoS0014s.jpg 埴輪は、僕の先祖・菅原氏の先祖・土師氏が出雲から天皇家に伝えたもので、身近に感じる。
大和朝廷最盛期の藤井寺古墳群は、土師氏がプロデュースしたもので、菅原道真の叔母がその地の土師氏縁の尼寺「道明寺」にいたことから、大宰府に流される時、道真公は立ち寄っている。

土師氏一族の古墳設計者がこの地に招聘され、地元民とともに製作した古墳なのでしょう。
これから向かう西北にある福知山は、土師氏縁の地名や川名が遺っている。
土師氏の祖・野見宿禰が、垂仁天皇に力自慢を請われて出雲から畿内に上った道だったはずです。
力自慢の当麻蹴速との相撲勝負に勝利し、当麻の地を得た。
垂仁天皇の正室・日葉酢媛命の葬儀の際、殉死に代用する埴輪を案出・採用され、古墳製作を一手に引き受けることになった。
その製作集団として出雲族の土師氏一族を呼び寄せた。
土師専門職能集団としてその周辺に定住しながら移動したのでしょう。
土師なので、土木職能集団として河川治水など国作りに才能を発揮したはずです。

相手が専門家なので、それらの話を楽しく出来ました。
この古墳は周囲より高い地で、この豪族集団の居住地から川を挟んだ地にあるそうです。
居住地に向いて古墳が造られているそうです。
今はSAの方が高いが、この丘は周囲より高かったそうです。
SAは全て盛土だそうで、トンネル工事で出た土を運び入れたようです。
この土の量は膨大で、谷を埋めその上に高速道路を通し、広いSA敷地も人工的に造ったそうです。

30分はあっという間で、SA建物に戻りました。
ペットボトルお茶とお菓子を頂きました。
これも縁ですね、楽しい時間を過ごせました。
「この方が詳しくて、反対に勉強させてもらいました」なんて、観光協会の女性に僕を持ち上げて下さいましたが、僕の祖先の話だから知っていただけです。

僕が土師氏を出すと、福知山の土師川のことも知っておられ、奈良の桜井の「出雲」は出雲族の住んだ地の名残の地名であることや、その隣接地・長谷寺の「長谷」は土師の音の変化した地名の名残。長谷寺に隣接して日本最古の天満宮と自称している「與喜天満神社」があるのは、土師氏支族の出世頭・菅原道真を身内に感じる土師氏の末が多く住む地であるから・・・など、2人で大いに盛り上がりました。
歴史好きの方は少なく、下手に話すと煙たがられるので、僕にとってありがたい時間となりました。




4/15・葬儀

義理妹のお母さんが昨日亡くなりました。
88才、大往生です。
車で1時間少し掛かる岸和田なので、お通夜は私一人で参列しました。
私から盛籠(缶詰)16200円と、長男次男連名で盛籠(お菓子)16200円を出させてもらいました。

土曜日AM2時頃亡くなり、朝弟から電話が入りました。
私は、母校KGヨット部艇庫に、先日のKG主催ヨットレースにコーチしてる大学ヨット部が参加させてもらったお礼に行っていました。
昼前に帰宅後、葬儀会館に電話し籠をお願いしました。
長男・次男夫婦に連名で籠を出すことをメールで伝えました。

18時から通夜なので、夕方から仕事を抜け、岸和田に向かいました。
「香典辞退」でした。
両親の時もそうしたけど、最近はこれが多いですね。
香典返しが面倒だし、香典より大勢寄ってもらった方が嬉しいし。
30分以上前に着き、弟夫婦、お姉さん夫婦、甥姪と話しました。
通夜が終わり、お寿司が用意されていたので、しっかり食べさせてもらい21時過ぎに帰宅しました。

一夜明けて日曜日、12時から告別式なので、10時前に家内と出発しました。
1時間ほど前に着いたので、甥と姪に長男の子の卒園式前撮り写真を見てもらいました。
まだ5才なのに、大学生同様角帽を被りガウンを羽織るかっこ良い青年風になっています。
アメリカと日本の文化の違いを感じます。

13時に告別式が終わり、マイクロバスに乗って斎場に向かいます。
お棺と最期のお別れをしました。
お姉さんの長女が大泣きで、もらい泣きしそうでした。
大阪市内の商家から嫁いできた商売上手なお母さんで、テキパキ・チャキチャキな方でした。
生まれは和歌山海草郡だそうで、和歌山に中高一貫校に通う姪との縁を感じます。

葬儀会館に戻り、お骨拾いまで昼食タイムです。
チャキチャキなお母さんだったので、湿っぽくならないよう身近な方に話題を投げました。
私と弟のお嫁さんがメインになって場を盛り上げました。

お骨拾いの時間になり、私達夫婦はここで退散しました。
車に乗り、家内がスマホで検索し、ナビに登録して出発。
斎場に向かうバスから、バイク・グループツーリングで寄ったケーキ屋さんが見えたので、別腹で食べに行くことに決めていました。

20180415YokotaS0005s.jpg 「リバージュ東岸和田店」。
20180415YokotaS0006s.jpg 家内は「スイーツセット1200円」(450円以下ケーキ2つ+アイスクリーム+おかわり自由ホットコーヒー)、私は「アイスコーヒー450円+リバージュケーキ1000円-値引き100円」を注文しました。

20180415YokotaS0007s.jpg リバージュケーキ1000円は、ショートケーキの形ですが、量4倍・値段3倍で食べ甲斐があります。
スマホで写真を撮り、LINEで長男・次男夫婦と共有しました。
別腹まで満腹にして、16:46帰路に着きます。

岸和田城横を通り、阪神高速湾岸線に乗りました。
もう少し早かったらお城に寄れたのに・・・。
中島ICで下車し、r13で帰宅しました。

4/10・アメリカの学制

長男のお嫁さんからLINEが入りました。
3人目の出産予定まであと2ヶ月、6月に迫って来ました。
アメリカのクリニックに通ってるので、現地出産です。
2人の幼児がいるので家事などの手伝いが必要です。
産後の大事な時期に無理して体調を崩したら取り返しがつきません。

お嫁さんのご両親(リタイヤされています)が、予定日1週間前から渡米し、1ヶ月間手伝うことにしたそうです。
お父さんと連絡を取ると、国際免許を取りに行くそうです。
趣味がドライブで、リタイヤしてからトヨタ86を買うぐらいの方なので、むしろ右車線運転出来るので喜んでおられるでしょう。
出産予定日前後に生まれて来てくれるのを願うばかりです。

出産する総合病院の見学に行ってきたそうです。
産前を管理するクリニックでは出産せず、何があっても即対応可の総合病院で出産するようになってるようです。
安心です。

次男の最初の子すみれちゃんは、1900gで生まれてきたので、即近くの総合病院のベビーICUに救急搬送されました。
お嫁さんのおっぱいを次男が車で何度もICUに運びました。

長男の長男・りょうくんは、日本語学校(週1日3時間)の他に、土曜日サッカー教室に申し込んだそうです。
プリスクールのサマースクールで履修したサッカーが気に入ったようです。
長男は野球・次男はヨットを小3から始めましたが、運動を定期的に習うのは良いことです。

りょうくんは、6月でプリスクール卒業です。
S__13336583s.jpg その前撮り写真を撮ったそうで、お嫁さんはウルッと来ちゃったそうです。
アメリカ式で歯を見せた笑顔の写真です。
驚いたのが、角帽を被った正装で卒業証書を手に持っています。
大学生のように一人前の写真で、「幼児の時から一人前の人間として扱う」文化が現れており、日本との違いを感じました。

去年アメリカでりょうくんに会って気づいたのが、ネイティブと同じイントネーションで英語を喋ることの他に、カメラを向けると必ず歯を出して笑顔になることと、やたら弟をハグすることでした。
プリスクールでの生活で、自然に身についたようです。

プリスクールで習ってきたPlanetについて色々教えてくれたり、足し算もできるようになり頼もしくなって来たようです。
昨秋渡米した時、りょうくんとトランプで遊んでいた時、自分の持ち札4枚に2枚を足したら6枚になったことを簡単に口に出して数字を使っていたので、数字が好きで得意なんだなとわかりました。
お嫁さんは、「パパ似の理系です????にやり??」と書いていました。
長男をリスペクトしてくれて、素晴らしいお嫁さんです。
一番身近な人に応援してもらうと、男はますます頑張っちゃいますよね。

長男のLINEには、「クラスには白人も黒人も黄色人種もいる。色んな人種が当たり前にいる環境で幼少教育をできたことは良かった。言葉は帰国したら忘れちゃうんだろうけど、グローバルな見方とか価値観とかそういうのが自然に身に付いてればいいな」と書かれていました。

長男は小1から小4まで、「こども英会話教室」に通いました。
小1の時通った学研教室と同じフロアにあり、「あそこに行きたい」と言ってきました。
小5で中学受験塾が土曜午後にも入るようになり、僕は週1回の英会話教室を続けるよう勧めましたが、塾で友達に負けるのが嫌で塾を選択し辞めてしまいました。
白人の先生が数人おり、とても楽しそうでした。
そんな子供の頃の体験があったからか、大学時代やってたライフル射撃のナショナルコーチ(東欧の白人)が大阪に来た時、運転手を買って出て1週間ぐらい同行していました。
学生時代からアチコチ海外旅行に行ってたのも、外国人に対して免疫があったからでしょう。

「6月プリスクール(幼稚園)卒業」に、「あれっ?」っと思いました。
現地の子と同じ3才から通いだしたので、もう1年あると思っていました。
調べてみると、年少さんを1年終えると年中さん(pre-Kクラス)になり、3年目の年長さん(5~6才)はエレメンタリースクール(小学校)の範疇に入る義務教育のようです。
小学校(日本の年長さん・1~4年生9~10才)を終えると、ミドルスクール(中学校・5~8年生13~14才)になり、ハイスクール(高校・9~12年生17~18才)。
その上が日本同様高等教育で4年間、さらに大学院へと続くようです。

日本のように全国一律ではなく、州により違いがあります。
義務教育の始まりが、5~7才と開きがあり、その終わりも16才までが30州・17才まで9州・18歳まで11州と違います。
学年始まりも、8/1始まりの州から1/1始まりの州まで5ヶ月も開きがあります。
孫の就学で、アメリカのいろいろが学べます。

りょうくんは、9月の新学期から小学校併設の年長(キンダーガーデン)にスクールバスで通います。
でも今までの2年間と違い午前中のみなので、午後から別の私立幼稚園に移動します。
今まで通った私立プリスクールが気に入っていたのですが、公立小学校とバスコネクションがないので別の所を探しているそうです。

幸いにプリンストンは安全な街で、学業レベルも全米有数に高い地域なので、何処に通っても心配なことはないそうです・・・ラッキー

4/1に家内と一緒にOJICOのTシャツを買いに行った時、新幹線3色スプーン・フォークセットを、4/6誕生日で2才になったこうちゃんへのプレゼントとして送りました。
6月に生まれる子も男の子なので、赤(秋田)・緑(東北)・黄色(ドクターイエロー)の各新幹線の形の持ち手になっています。

加えて、「岩波こども絵本3冊」と「司馬遼太郎記念館で買った手帳」「池川明著ママを守るために生まれてきたよ」も同送しました。
EMSで送ったのですが、4/7に届いたようです。
生憎不在だったようで不在通知が入ってて、今週受け取ったそうです。
スプーンと絵本は、2人とも喜んでくれたようで、お嫁さんは池川明さんの本を早速読み出したそうです。

この本は、現役産婦人科医さんの著書で、幼児が自然に話す「胎内記憶」のことが書かれています。
毎月定期的に覗くお気に入りの書店で目に留まって買い求めた本です。
空からお母さんを見て、「このお母さんが良い」と選んでお腹に宿った。
お腹にいる時、お父さんやお母さんのお喋りを聞いていた。
狭いトンネルを抜ける時、頭が窮屈で痛くなって泣いた。
など、胎内記憶のある幼児がごく自然に話すことがあるそうで、そんなデータを収集されています。

この本を読んで、これを知っていれば、我が子に対する気持ちは大きく違い、愛おしさが倍増すると思い、お嫁さんたちにプレゼントすることにしました。
長男のお嫁さんは、この本の存在を知っていました。
アメリカでは手に入らないので諦めていたそうで、この本を紹介しプレゼントすると伝えると、とても喜んでいました。

4/9・保育園入園、日本語学校編入

4/8「原谷苑」で家内のスマホで撮った写真を、「3家族LINE」に投稿しました。
僕が写真を撮りながら、「スマホで写真撮って送ったら?」と言うと家内はその気になり、送りました。

20180406NyuenT8964s.jpg その数分後、次男のお嫁さんから、2日前の金曜日にあった孫のすみれちゃん1才の入園式の写真が投稿されました。
20180406NyuenT8967s.jpg
次男も有給取って参加したようで、自宅前の写真や園ではしゃぐすみれちゃんの写真、お嫁さんの幸せそうな写真を見れました。

アメリカ・プリンストンは-13時間なので、寝てる・寝る前の忙しい時間帯でした。
翌月曜日の朝(現地日曜日の夜)、長男のお嫁さんからLINEが入りました。
土曜日に出産する病院の見学会&説明会に一家で参加したそうです。
20180409Y7431s.jpg 通っているクリニックは検診だけで、出産するのは大きな総合病院だそうです。
とても綺麗で設備も整っており、安心して出産できそうだと思ったようです。
20180409Y7432s.jpg 日本と違い、出産時の入院は2泊のみだそうで、お嫁さんのご両親はリタイヤされているので、予定日前にアメリカに行きスタンバイされるのではないでしょうか?

りょうくん5才は、日本語学校年長組に編入しました。
その入園式があったようで、アメリカなのに日本同様4月に入園式があるんだと驚きました。
まあ、熱を出していきなり欠席したんだけど・・・。

週1日3時間だけ日本語や日本の文化を勉強するそうです。
日本の学校同様、運動会や発表会などもあるそうで、楽しみなようです。
アメリカのプリスクールではそういうのがないので、お嫁さんは大喜びしています。

我が子2人も1才から保育園に通いましたが、幼稚園同様運動会や生活発表会があり、ビデオ持って駆けつけました。
この年代の運動会は、ハプニングばかりで大笑いで親はとても楽しめます。

独り言は全て英語など、家族と喋る時以外全て英語の生活で、息子の英語の驚異的な上達に嬉しい悲鳴だった反面、「日本語が心配だ」と長男もこぼしていました。
「こどもちゃれんじ」など通販型日本語学習を家でさせていましたが、英語に比べ難しい日本語に熱が入らず困っていました。
とうとう日本語学校入学の道を選んだようです。
プリスクールと日本語学校、幼児にしてダブルスクールの生活になりました。

それにしてもNJ州とは言え、田舎のプリンストンに日本語学校があるとは驚きました。

4/8・京都/相国寺・同志社大カフェ

バイクに戻り坂を下ります。
タクシーとシャトルバスが2/3ですが、それでも急坂前で渋滞しており、野生の勘で枝道に入り四輪とすれ違えない細道に出ましたが、世界遺産通まで降りてこれました。

12:01「ファミリーマート・立命館大学前店」で小腹を満たします。
僕は「モッチドーナツチョコ118円&オールドファッションドーナツ108円」、家内は「卵焼きサンド248円&ブレンドS100円」=574円。
イートインスペースで食べます。

西に走り、12:28「仁和寺」。
お盆の時期はガラ空きだったのに、さすが桜の季節は観光客がいっぱいでした。
京都は桜の季節と紅葉の季節が最も混みます。
「御殿」の拝観所も列ができていましたが、「御室桜」も大人気で行列ができていました。
「もういいんじゃない」との家内からの提案でパス。

お気に入りの京大カフェに行こうと今出川通を御所北を走っていると「相国寺」の案内板が見えて来ました。
「相国寺に寄ろう」と寄り道します。
足利3代将軍義満が建立した臨済宗相国寺派総本山で、同じく義満が建立した金閣寺と同じく7代義政が建立した銀閣寺は、この相国寺の塔頭です。
金閣寺・銀閣寺は何度も訪問しましたが、相国寺は初めてです。

西宮の地名になった廣田神社の摂社から大発展したえべっさんの総本宮「西宮えびす神社」には何度も何度も参っているのに、廣田神社にはまだ10回ほどしか参っていないのと同じです。

「本能寺の変」の時、相国寺塔頭の僧が駆けつけ遺体を背負って離脱し織田信長の墓があると記憶して見に来たのですが記憶間違いで、帰宅後調べたら信長の墓のある「阿弥陀寺」は相国寺の塔頭ではありませんでした。
織田家の中で育った阿弥陀寺の僧が駆けつけ、明智軍の探索から逃れたようです。

拝観料800円で入ってみます。
お坊さんに促され、まずは本堂。
こちらにもお坊さんがおられ、「今日はお釈迦様の誕生日4/8です。まずは本尊正面でお参り下さい。天井の睨み龍は、どの方向から見ても見ておられます。睨んでいるのではなく、あなたを守っておられるのです。お参り後に鳴き龍の下の指定場所に立ち、手を叩いて下さい。鳴き声を発せられます」との説明を受けました。

確かにどの方向から見上げても天上の龍は睨んでいます。
守られているようには見えず、睨まれてるね。
指定場所に立ち手をたたくと、ビーンと響く音が聞こえます。
どういう原理でそう聞こえるのかわかりませんが、物理法則に従っているのでしょう。
いろんな鳴き龍体験をしましたが、ここははっきり聞こえます。

続いて「方丈」。
本殿同様、襖絵など内部はNGだけど、お庭などはカメラOKだそうです。
20180408HarataniS0132s.jpg 室内観音菩薩絵のコピーが縁側に置かれていました。
筆で書かれた絵ですが、寄って見ると一筆で描かれているのではなく、ミリ単位のお経が無数に書かれ1本の線になっていました。
これを筆先で書くとは・・・。

『こちらが室内掛け軸の拡大画面です 全てお経の文字(漢字)で描かれた「文字絵」の観音様! 法華観音図 加藤信清(遠塵斎えんじんさい)筆 亨保19年(1734)~文化7年(1810) 「方丈」室中の問に掛かっている観音菩薩は、江戸時代文化年間(1804~1818年)に活躍した江戸の人・加藤信清(遠塵斎)によって描かれたもので、全て法華経の普門品第25(観音経)の経文によって描かれている。文字を連ねて像の輪郭を象る「文字絵」の起源は古いものであるが、信清の絵はさらに色面までもが文字で埋め尽くされており、その緻密さと完成度の高さにおいて、彼は孤高の存在であった』

20180408HarataniS0136s.jpg 江戸時代の白象図が襖絵として描かれていました。
現代なら幼児でも象の姿を知っていますが、江戸時代なら龍や獏同様、頭の中の世界にあった動物でしょう。
20180408HarataniS0138s.jpg 方丈の表庭園は石庭ですが、裏は緑豊かで枯山水の谷に紅葉が掛かる感じで、気に入りました。
谷に掛かる紅葉で有名な東福寺の谷が、頭に浮かびました。

20180408HarataniS0145s.jpg 『表方丈庭園(京都市指定名勝) 表方方丈園とは対照的に、手前を谷川に見立てて掘り下げ、対岸には築山を設け、市中にいながら深山幽谷の雰囲気を感じさせる庭であり、悟りの内容の豊かさを表現している』

20180408HarataniS0161s.jpg 信長の墓かな?と思って見に来たのは、「後水尾天皇髪歯塚」でした。
宮内庁の札が立っています。
僕の歯や髪は何の値打ちも無いのに。
巨大な鐘が下がっていました。

20180408HarataniS0164s.jpg 『日中両相国寺友好記念の碑と天響楼(てんきょうろう) 日本の相国寺は、明徳3年(1392)に開山夢窓国師・開基足利義満公により創建され、正式名称を万年山相国承天禅寺(まんねんざんしょうこくじょうてんぜんじ)という。寺号由来の一つに義満公が禅の師匠である春屋妙葩禅師(相国寺第2世)に、新しい寺の名称を相談したところ「現在あなたは左大臣の位にあり中国ではこれを相国といいます。相国寺とつけては如何か」また「中国の開封に大相国寺(唐・延和元年712)という寺があり、まさに恰好の名前ではないか」と進言したことによる。
時は流れ平成4年(1992)11月、開封大相国寺の本尊開眼、真禅住織晋山式に参列するため、当時の梶谷宗忍相国寺派管長を団長に訪中、併せて日中両相国寺友好寺院の締結調印が行われた。このことは日中の佛教寺院交流史上初のことである。
平成6年(1994)に友好を謳った記念の石碑が日中両相国寺境内に建立された。
石碑はインド産黒御影石で当時の梶谷管長及び趙撲初中国仏教協会会長の書で碑文が刻まれた。
平成23年(2011)8月中国大相国寺(釋心廣住職)より、梵鐘が日本相国寺(有馬頼底住職)へ寄進された。鐘楼は天響楼と名付けられ日中両相国寺の未来永劫にわたる友好の証しとして現在に至っている』
日本で一般的な梵鐘と形が少し違うのは、中国からの贈り物だからのようです。

20180408HarataniS0166s.jpg 相国寺西門から出ると、14:04同志社大学のすぐ北でした。
日曜もやってる大学カフェは確かこの辺。
バイクを押して烏丸通を西に渡るとビンゴ!
20180408HarataniS0168s.jpg 「Hamac de Paradis寒梅館」でした。

20180408HarataniS0173s.jpg 家内を誘ってお茶しました。
僕はランチが大学らしく5~600円でリーズナブルです。
ディナーメニューも900円まででした。
家内は「ベイクドチーズケーキ450円」、僕は「ソフトクリームパフェ600円」にしました。
いつものように味見させてあげようとスプーン2つ持ってきましたが、冷たいからNOということでした。
僕は家内が残してくれたケーキを少しもらいました。
京大カフェ同様、学生半分・一般客半分でした。

14:35店を出て、帰路に着きます。
「お店をブラブラする」という家内を河原町四条で下ろし、河原町通を南下し、九条通を西進し、そのままR171に乗り一気に帰宅しました。

バイクを自宅前に出したまま自宅に入ると、玄関脇に生協さんの宅配食材が届いていました。
お風呂のスイッチを入れ、着替えてそれを片付けようとしたら家内が帰ってきました。
「あれ、早いね」「うん、良いのがなかった」。
バイクを倉庫に入れ、楽しいデートの1日は終了。
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