1/21・狸谷不動院~赤山禅院

更に階段を上がっていくと、清水寺の舞台のような高床を支える柱が見えてきました。
20180121KyotoS0038s.jpg 上まで上がると、「ウスマサ明王」というお宮がありました。
20180121KyotoS0040s.jpg 彫刻が見事というよりかなり濃い感じで「衣食住愛の神」とのことです。

「ああ~これは修験道だ」を実感しました。
下で見た絵地図で、横の広場が「柴灯護摩道場」と知っていましたが、修験道の雰囲気満載です。
地図で「武蔵の滝」と書かれていた滝は見えず、その滝の下の流れから落ちる場所に滝行場がありました。
そことその横にブルーシートで目隠しされています。
何人もの観光客が、それに向かって手を合わせている。

20180121KyotoS0048s.jpg 「水子地蔵尊」から本堂へ。
20180121KyotoS0055s.jpg 高床の縁側が出ており、木々の間から京都の町が見下ろせます。
20180121KyotoS0051s.jpg 裏に鳥居があり、そこから先に道は上がっています。
『これより先はハイキングコースです。お寺はありません。 注意:スズメバチを見かけたら、直ちに引き返して下さい』
『奥之院参道』の石柱が立っているのに、「お寺がない」の記述が不思議。

20180121KyotoS0054s.jpg 本堂の柱に、『ガン封じ・病気平癒 願かけ』と書かれ、多くの御札が下がっている。
階段を下ります。
バイクに戻り、「赤山禅院」に向かいます。
「一乗寺下り松」を通過し、白川通に出て北上、枝道に入り「修学院離宮」へ。
ここは予約しないと見学できないので外観だけと思って来ましたが、ガードマンが数人おりそのまま塀沿いに細道を進み、11:13「赤山禅院」。

赤山禅院は、平安時代前期の天台宗の僧・相応和尚(そうおうかしょう・天長8年(831)~延喜18年(918)・建立大師(こんりゅうだいし))が始めた比叡山天台宗系修験道の荒行最高峰「千日回峰行」(相応和尚開創の比叡山・無動寺を中心に)で立ち寄る修行場です。

『7年間で1000日比叡山山中を歩きます。1~3年目は年に100日、4~5年目は年に200日行う。無動寺で勤行のあと、深夜2時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と260箇所で礼拝しながら、約30 km を平均6時間で巡拝する。途中で行を続けられなくなったときは自害する。そのための「死出紐」と、短剣、埋葬料10万円を常時携行する。未開の蓮華の葉をかたどった笠をかぶり、白装束、草鞋履きで行う。
堂入り:5年700日を満行すると、最も過酷とされる「堂入り」が行われる。入堂前には行者は生き葬式を行い、無動寺明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥の4無行に入る。堂入り中は明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。
水を汲みに出る以外は、堂中で10万回真言を唱え続ける。
堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入る。
6年目にはこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60 km の行程を100日続ける。7年目には200日行い、はじめの100日は全行程84 km におよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30 km の行程に戻る』

車道が山門をくぐっていますが、未舗装なので手前に駐輪し徒歩で山門をくぐります。
『天台宗・修験道・総本山管領所』の木札が下がっていました。
やはり千日回峰行は修験道総本山に参るようです。
密接な関係ですね。
「都七福神」の1つのようです。

『平安時代・仁和4年(888)、天台座主・安慧(あんね)が師の慈覚大師円仁(えんにん)の遺命により創建した天台宗の寺院である。
本尊の赤山明神は、慈覚大師が中国の赤山にある泰山府君(たいざんふくん・陰陽道祖神)を勧請したもので、御神体は毘沙門天に似た武将をかたどる神像で、延命富貴の神とされている。後水尾上皇の修学院離宮御幸の際には、上皇より社殿の修築及び赤山大明神の勅額を賜った。
この地は、京都の東北表鬼門に当たることから、方除けの神として人々の崇敬を集めている。また、赤山明神の祭日に当たる5日に当院に参詣しで懸取りに回ると、よく集金がでさるといわれ、商人たちの信仰厚く、「五日払い」といわれる商慣習ができたと伝えられている。
閑静なこの地には、松や楓が多く、秋には紅葉の名所として多くの人々で賑わう』

境内の参拝道順が矢印表示されていたので、それに従って僧坊を巡ってみた。
20180121KyotoS0077s.jpg 拝殿内の逗子の扉は閉じられていたが、趣があり目を引いた。
境内に『心友 石坂まさを 自らの心の子と書いて、息子というなら、俺がやり残したことを受け継
いでくれ、この一筋の道焦らず急がず、男らしく何かを成し遂げてくれ。風に狂って生きても風の優しさ忘れず、風の旅人のように夢を追ってくれ』の言葉が刻まれた石碑があった。

20180121KyotoS0080s.jpg 正念珠をくぐると本殿があったが、それほど大きくはない。
20180121KyotoS0082s.jpg 阿吽の狛犬がカラーリングも造形も独特で、修験道らしいなと思いました。
20180121KyotoS0090s.jpg 横に回ると「三十三観音十六羅漢」が並んでいた。
苔むした石像が並び良い雰囲気です。

「出世弁財天」堂がありました。
女性は皆弁財天、命の源・命のゆりかごです。
ここは念入りに感謝しておこう。
御朱印授かり所があり、お堂の前に置かれた七福神像を熱心に写真に収めている綺麗な女性がおられた。

「相生社・歓喜天・金神社」の方に誘導された。
20180121KyotoS0104s.jpg 「夫婦和合之神・歓喜天」、小さめの祠だったけど、これまた子宝の源で最重要です。
20180121KyotoS0106s.jpg 次いで「縁結之神・相生社」、歓喜天の前に縁結びですね。
男女とも、人生の大きな転換期・大きな喜びの時期・新しい家が建つ時です。
20180121KyotoS0108s.jpg 横には相生社用の絵馬掛けがあり、名字の違う2人の名前が書かれていたり、片方が「良いご縁の方」となっていたりしました。
多くの方に、良いご縁を・・・
僕は素晴らしい縁を頂いて、人並みに一家を立て、家長を経験させてもらっている。
息子たち・素敵なお嫁さん・孫たちにも恵まれたのは、家内との縁の賜物です。

「日本気学発祥地」の碑が立っていた。
「御滝籠堂」があった。
20180121KyotoS0113s.jpg 年代物の手押し消防ポンプがあります。
20180121KyotoS0116s.jpg 「雲母不動尊」のお堂があった。
「雲母坂」(きららさか)は、修学院離宮から比叡山山頂に至る古道。
順路の最後に「還念珠」をくぐりバイクに戻った。


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1/21・狸谷不動尊

家内は仕事関係の新年会で神戸のホテルに行きます。
ツーリングクラブの予定を見るが、予定がない。
またソロツーリングすることにしました。
地図(ツーリングマップル・TM)を見て「京都八瀬」にある初めての3つの寺社~久しぶりの京都大原の寺社を巡りましょう。

「まねき猫CB400SB」を倉庫から出し、リアボックスをセットします。
去年ボックスを道路に落としたことがあったので、セットをチェックします。
ボックスや中身が壊れるのは、自分の不手際ゆえ仕方ありませんが、後続車の事故を誘発したら大変です。

8:52出発、前回ガソリンを満タンにしたようで、燃料表示はフルです。
R171~中央縦貫~名神と走り、「桂PA」でトイレ休憩します。
冬は路面凍結が怖く、春~秋のように夜明け前から走り出すことはしないこともあり、コミネ冬用プロテクターバイクジャケット・パンツだけで全く寒くありません。
名神高速では、10台以上のバイクが追い抜いて行きました。
このPAのバイク置き場でも先客が2台います。

走りながら、「狸谷不動院」のことを思い出しました。
ツーリングクラブの目的地になったことがあります。
名前が面白く、狸との縁を知りたくて参加したかったけど人数が多くて参加しませんでした。
京都を題材にした作品が多く、好きな作家の森見登美彦さんが、京都と狸の作品を書いています。
それを読んでから、「京都=狸」の構図が僕の頭の中に出来ています。

TMでおおよその場所を調べ、ナビで検索します。
TMにはその近くの「赤山禅院」もマークされています。
僕はTVや他の情報源から得た気になった歴史史跡・寺社をマーキングしています。
「赤山禅院」は、天台宗の荒行「千日回峰行」で巡る修行場としてマーキングした記憶があります。

千日回峰行は、天台宗の荒行ですが、比叡山の谷筋ごとに別れている宗派の1つがやっている行です。
浄土宗の法然も浄土真宗の親鸞も、比叡山の天台宗に属する谷筋の1つの宗派から起こり信徒を集め独立して行きました。

現在は葬式仏教と揶揄されるほど、先人修行者が中国に渡り仏教の本場から学んできた中国仏教古来の山岳修行を伴う姿から離れ、日本独特の姿に変貌しています。
日本に輸入された頃の古来の姿は、神道と結びついた修験道に残っているように思います。
修験道は、天台宗と真言宗から派生していますが、千日回峰行は天台宗系修験道で有名です。
因みに真言宗系修験道者による吉野山を根城にする千日回峰行もあり、標高の高さ・熊などの濃さなどから真言系の方が難度が高いとされ、満行者も少ない。

昨年、千日回峰行を満願した大阿闍梨さんが住む滋賀県側の寺院を訪問したが、葬式仏教とは大きく違う空気を感じた。
滝行施設があり、修験道の懐を感じた。
「赤山禅院」にはどんな空気が流れているのだろう?

名神高速「京都南IC」で下車し、R1を北上、九条通を東進します。
東寺に市が立っており、大勢の人が集まっている。
骨董品などたくさん集まるので楽しそうで、寄り道しようかと思ったけど、東寺駅方向から遠足の団体さんかと思うほど多くの方が来ているのを見てスルー。

道なりに「東大路通」になり北上、叡山電鉄を渡り、北大路通り(r181)を東進、再び叡山鉄道を渡り、「白川通」を北上します。
枝道に入り、宮本武蔵と吉岡道場の決闘の場である「一乗寺下り松」~「詩仙堂」~決闘を前に武蔵が必勝を願った「八大神社」前を通過し、勾配が急になり10:16「狸谷不動尊」Pに駐輪。

20180121KyotoS0006s.jpg 「予想していたより新しいな」。
ここは交通安全祈祷がメインのようです。
20180121KyotoS0008s.jpg 寺務所で「交通安全ステッカー」を授かりました。
20180121KyotoS0009s.jpg 見るべき所があまりないとと思ったら、「信仰の霊山 真言宗修験道 大本山・狸谷山案内図」と書かれた絵地図があり「狸谷山不動院・本堂」は更に坂を登った先でした。

そちらにもPがあるようですが、勾配のあるPではバイクを停める場所が限られるし、2組歩いて上がっていく方がいたので、ここから歩くことにします。
奥之院は裏山標高301mの場所にあるようです。
千日回峰行を行う真言宗修験道本拠地は、比叡山の東・滋賀県側の谷にありますが、比叡山西北谷エリアも修行の場のようです。

20180121KyotoS0011s.jpg 四輪離合が辛い道を登り、250段の階段が見えてきました。
20180121KyotoS0012s.jpg 「阪神タイガース」の記念碑や、「優勝記念 阪神タイガース監督・吉田義男」「お百度参拝記念 阪神タイガース・小林繁」と刻まれた石柱が立っています。
阪神との関係は何だ?
この階段で自主練で足腰を鍛えたのかな?
スポーツ選手には、座禅修行より、修験道や護摩行の方が似合うね。
信楽焼の代名詞である狸の置物がたくさん並んでいます。

『大本山・狸谷山不動院 木食行を体得するために高野山に登った木食正禅朋厚(しょうぜんともあつ)〈後に木食養阿(ようあ)上人・貞亨4年(1687)~宝暦13年(1763)〉は、亨保3年(1718)自らの修行地として樹木鬱蒼とした一乗寺狸谷の地に高さ深さ共に2丈からなる洞窟に入山し、そこに身の丈5尺の石像「狸谷不動明王」を安置する。それ以来狸谷不動明王信仰が始まり、途中廃仏毀釈などで嘆かわしい事態が続いたが、その祈りの法灯を護持継承するため、昭和19年(1944)第一世貫主・亮栄和尚が入山し、自然の地形を最大限に生かした現在の森林伽藍を築き上げ、真言宗修験道大本山狸谷山不動院として再興したのである。現在の懸崖(けんがい)造りの本堂内陣がその洞窟にあたる。
また朋厚法師は他の宗教活動として六墓五三昧(ろくぼござんまい)の念仏行、真如堂阿弥陀如来像建立、五条坂安祥院再興などがあり、東海道の最後の難所である。「日ノ岡峠」改修工事などの社会事業にも携わり、京都に多大なる功績を残している』

20180121KyotoS0015s.jpg 階段横にコンクリートお堂があり入ってみます。
「白龍弁財天」」がありました。
20180121KyotoS0022s.jpg 階段に戻ると、「50/250」のプレートが置かれていました。
あと200段、頑張ろう。

20180121KyotoS0020s.jpg 毘沙門天・福禄寿・大黒天・弁財天・・・七福神像が置かれています。
階段中央に「迎え大師」像が立っています。
「126/250」。

「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」がありました。
『お砂踏みとは四国八十八ヶ所霊場各札所のお砂を踏むことにより、四国遍路と同じ功徳をいただけるものです』

『供養のこころ 人間は亡くなった後、たとえ肉体はなくっても生前になした行いは消えることがないとお釈迦さまは説かれています。これが「業」です。この業により行った悪業がもとで地獄・餓鬼・畜生・修羅という悪い世界に落ちてしまいます。ところが「追善供養」によってこの悪業が消滅し、再び人間界に生まれ変わるか、あるいは天人界という良い世界に行くことさえもできると説かれています。
さまざまな人間の悪業が消滅した理想の世界が「彼岸」です。もちろん誰しもが彼岸に到達することを願うのは当然でしょう。亡くなられたご先祖様が、どうか良き世界に生まれ変わり、私達をお守り下さいと願うのもまた、私達の偽らざる真情だと思います。
ではどのようにしたら彼岸の岸に到達することが出来るのでしょうか。それはお釈迦様の説かれたみ教えを忠実に守り、これを日常生活の中で実践することにほかなりません。これが「先祖供養の心」です』

20180121KyotoS0033s.jpg 「修行門 四国八十八ヶ所 お砂踏み霊場」と書かれた背の低い門があり、それをくぐると1~88番まで書かれたプレートを踏んで歩きます。
「木食上人参篭の地」と書かれた碑が立っていました。
石仏も並んでいた。


1/14・河内/野崎観音

20180114NozakiS0102s.jpg 観音に上がると、境内に「南條神社」がありました。
『祭神:牛頭天王・素盞嗚命 当社は、宝塔神社に対して北の宮さん牛頭さんの呼称で親しまれ、野崎地区の氏神として信仰されている。明治5年野崎宝塔神社に一時合祀されたが、野崎村村社として復活した。
牛頭天王は、仏教における神将として怨霊や病魔を打ち払う。素盞嗚命は、姉の天照大神の岩戸隠れ神話を生ませる程の荒ぶる神であり、病魔を退散させる神威あり。このため平安期以降の神仏習合により、牛頭天王と同一視されるようになった。
京都八坂神社に代表される牛頭天王を祀る神社は古く、当社も南條(野崎)村野鎮守として牛頭天王社と呼ばれていた。石鳥居に「元録」の銘が刻され、17世紀末に社域が整備されたと推定される。本殿前にある一対の木製狛犬(左側の頭に角があり、一角獣と呼ばれる角がある狛犬ほど時代が古いと言われる)は、極彩色が施され現在は剥離しているが、桃山時代の雰囲気を漂わせている。台座の裏側に「延享元年(1744)子年子9月19日天王宮野崎村」とある』

20180114NozakiS0108s.jpg 境内からの眺めがよく、東大阪・門真から大阪の摩天楼まで見渡せた。
観音堂があった。
『西国33所観音堂 1番の那智山から33番の美濃谷汲山まで札所全部の観音様をお祀りしています。真ん中の観音様は、当山本尊十一面観世音菩薩のお姿を刻んだ観音様です。どうぞ中に入ってお参りください』

20180114NozakiS0121s.jpg 「飯盛山ハイキングコース」があった。
「野崎観音見晴台」の文字もあります。
案内板まで登ったが、山頂まで1時間コースのようなので敗退。
織田信長が機内に入るまで、機内を掌握していた三好家を興隆させた三好長慶が本拠地を置いた「飯盛山城」が飯盛山山頂一帯にあります。
いつか登ろうと思っている中世の山城です。

20180114NozakiS0124s.jpg 本堂に参ると、天井に犬の人形が多数下がっていた。
犬と野崎観音とどういう謂れで繋がっているのだろう?
20180114NozakiS0134s.jpg ここの絵馬は、ご婦人が野崎観音様に祈っている姿でした。
なんかいいな。

20180114NozakiS0136s.jpg 裏に回ると、「行者神変大菩薩」像があった。
ここらも修験道の行者が巡っていたのでしょう。
「薬師堂」があった。
その奥が墓地。
「寄進瓦納所」もあった。

20180114NozakiS0144s.jpg 『ご参詣の皆様へ 羅漢堂再建のため勧進寄進のお願い 
野崎観音の十六羅漢は江戸時代から「のざきかんのん十六羅漢うちの親父は働かん」と子供の遊び唄にまで唄い親しまれ、観音様と共に信仰をあつめてきました。
作者は不詳ですが、羅漢像一体一体の個性的かつ表情豊かな表現力は、ただならぬ力量が伺われます。
先住十九世、尾瀧一峰和尚の代に山崩れに遭い(昭和26年)、羅満堂を流失、土砂に埋もれた尊像を和尚自ら掘り起こし、仮堂に安置、終生かけて羅漢像修復、羅満堂再建を祈願致しておりましたが、平成4年、志半ばにして病のため遷化いたしました。
近年、羅漢像の損傷著しく、これ以上放置すれば修復が不可能になるため、先師の遺志を継ぎ多くの方々のご寄進により、菊池仏教美術研究所で修復作業を進め、お陰様で3年の歳月を経てようやく修復が完成し、平成18年秋、先住忌に開眼法要を行い、仮堂に一時安置いたしました。
羅漢再建にあたり、参詣の皆様にもおすがりし、常々、一峰和尚が申しておりましたように一人でも多くの方のお心とお力をいただき、御懇志を以って羅満堂を蘇らせ和尚の悲願を達成したいと考えております。
今後は、羅満堂の再建に全力を尽くす所存でございますので、なにとぞ皆様のお力をお貸しくださいますよう伏してお願い申し上げます。
  平成18年10月吉日 野崎観音慈眼寺二十世住職 田村保信』
寄進瓦は、ここに使われるようです。

20180114NozakiS0151s.jpg 浄瑠璃・歌舞伎で有名な「お染久松・新版歌祭文」の物語が和紙に書かれていた。
上方の商家の奉公人・久松と、その家の娘・お染の悲恋物語で、最後は心中してしまいます。
カラーの絵入りで楽しく読めました。

最後に『哀しい幕引きを迎えました。お染・久松は本堂裏の木陰にひっそりと眠っています』とあったので、見に行きます。
20180114NozakiS0162s.jpg 綺麗な花が手向けられ、2人の塚が整っていました。

20180114NozakiS0146s.jpg 14:35帰路に着きます。
バイクまで下り、R170~r161~近畿道門真IC~吹田ICから中央縦貫~R171で、15:33帰宅。
片付け、ヨーグルトを遅い昼ごはんにして、風呂に入り体を温め、バイク倉庫でゴソゴソし始める。

家内の帰宅は21時頃とのことで晩御飯も食べておくように言われているが面倒なので、家内からお迎えの電話が入るまでゴソゴソしよう。
「19時帰宅・風呂・冷蔵庫から残り物を出して食べる~20時から「大河ドラマ」~21時お迎え」の予定で19時に帰宅すると、家に電気が点いていた。
家内は新年会に参加せず帰って来たところでした。

「家にいなかったからお迎え電話受けれずに御免」と謝り、作ってくれた温かい夕食を食べ、風呂に入り大河ドラマを見ました。
回目にして主人公・西郷隆盛が大人になっていました。
今回の子役はいい感じだったので、もっと見たかったな。
ドラマが終わり、寝てしまいました。


1/14・河内/石神社

バイクに戻り、r12に出て東に走り、R170を北上します。
大和川を渡り、R25に乗り、道なりに走っていると大和川に沿うようになりました。
R170に乗り少し北上し、枝道に入り、「業平道」を走って12:47「石神社」。

20180114NozakiS0067s.jpg 境内に見上げるほどの楠の大木がありました。
20180114NozakiS0068s.jpg 本殿に参りに行こうとすると、『大阪府指定文化財 知識寺東塔刹柱礎石 石神社 知識寺は奈良・平安時代河内を代表する大寺院で、東大寺大仏造顕の機縁となった大仏を本尊とし、聖武・孝謙帝、藤原頼通などの参詣、法華寺への銅の運上といった動きが知られています。
20180114NozakiS0070s.jpg 伽藍は東・西2塔をもつ薬師寺式の配置で、この刹桂礎石は、東塔跡と推定される太平寺2-18-7山本義一氏宅地東南角の土蔵付近から出土したものです。花崗岩製で、この塔心礎の柱穴の直径は122cmあり、この上に建てられていた塔は高さ48.8mの五重塔であったと推定されます。
知識寺の大仏は、高さ18mと伝えられ、この礎石から推定される塔も、そうした巨大仏像を本尊とする大寺院にふさわしい大きさです』

ここの境内にも男どもがたくさん集まって、「どんと」の準備をしています。
藁と木が組まれ、側に神札などが置かれ、住民が次々に持って来ます。
20180114NozakiS0072s.jpg 神殿に上がる長い階段下には、神棚が置かれお神酒・りんご・胡瓜などが並んでいます。
お祓いをする時に使う御幣も置かれている。
神事があるようです。

階段を上がり参拝します。
本殿を見ようと塀を巡って奥に行くと、飛行機の音が聞こえてきました。
20180114NozakiS0082s.jpg 伊丹空港に着陸するため高度を落としていく旅客機が真上を飛んでいます。
我が家から見える飛行機より少し小さい程度で、離陸に比べ着陸機の高度の低さを感じます。

ここでこれなら、豊中市の空港に隣接し着陸航路真下の森友学園の騒音は・・・。
あんな土地、値引きしないと売れないよね。
一気に高度を稼ぐ我が家の伊丹市側でも、航路真下の住宅土地は歯抜けのように空き地が広がっている。
国交省の空港関連会社の名がついた「この土地の相談は・・・に連絡ください」との札が虚しく長年下がっている。
国有地なので雑草は綺麗に刈られ、その経費だけでも毎年かなりの支出が必要。
森友学園に安値でも売っちゃう方が得なのは長期的に見れば当然わかる。
役人が、お荷物を早く売却したくてしょうがなかったのだろうな。
売却できなかったから、より多くの税金が使われることになるのだろう。
ああ勿体無い。

20180114NozakiS0087s.jpg 楠まで降りると、謂れ板が立っていた。
『智識寺跡 この付近一帯には、「智識寺」と呼ばれる有名な古代寺院跡があり、地名から太平寺廃寺とも呼ばれています。
奈良時代、聖武天皇や孝謙天皇は、平城宮と難波宮の往来の途中に柏原の地を訪れ、智識寺・山下寺・大里寺・三宅寺・家原寺・鳥坂(とさか)寺の6寺に礼拝、礼仏されました。中でも智識寺には大きな盧遮那仏があり、それを見た聖武天皇は、その立派さに感動し、奈良東大寺の大仏を造るきっかけとなりました。
智識とは、仏教を信仰し、寺や仏像を造ることに協力した人のことであり、智識寺は、これら智識によって建てられた大規模な寺院でした。
智識寺は東西に2塔を配する薬師寺式の伽藍配置であったと推定され、東塔跡の一部が過去に調査されています。出土した瓦から、1300年以上前の飛鳥時代末頃に創建され、室町時代頃に廃絶したようです。
石神社の境内には、東塔に使用されていた塔心礎を始めとする礎石が移されています。  平成7年3月 柏原市教育委員会』

飛鳥と難波の通り道だったのですね。
脳内地図を頭に浮かべると、奈良盆地から世界に通じる海に出るには大和川の流れに沿って生駒山系を西に抜け、この地から流れを北に変え大河となる大和川の流れに乗れば難波に着きます。

神社南の展望台に上がってみます。
20180114NozakiS0090s.jpg 登っていくと、境内で祝詞が始まりました。
神職が挨拶し、大勢集まった住民が神妙にしている中、お宮に向かって祝詞を上げ、頭を垂れた住民をお祓いしています。

神社北の山に「柏原ワイン」の大きな看板が見えます。
展望台は小さく、水道と椅子があるのみでした。
今や少なくなった無料の水飲みと一体になった水道で、懐かしく思います。
かつてはどこの公園にも設置されていたのに、自販機に代わっています。
イタズラする輩がいるからこうなるのですね。

教育勅語の復活を願います。
敗戦から70年、もうそろそろ「天皇・神社・教育勅語・道徳・終身・軍隊=侵略戦争・軍国主義」の思想から脱却しても良いのに・・・。

20180114NozakiS0094s.jpg 智識寺の姿を実際の写真に重ねたパネルがありました。
すぐ真下にあったようです。
走ってきた「業平の道」に隣接していたようです。
こういうのを見ると楽しくなります。

バイクに戻ります。
タンクバッグの地図とナビを見ながら次の目的地を探します。
落語「野崎参り」で有名な「野崎観音」にします。
細い「業平の道」を走ります。
古い町並みで楽しい。
「右:観音寺、左:業平道」の交差点で観音寺を選択したが、ミスロードしたようで行き止まりになり、Uターン。

R170に出て北上開始です。
並行して広いR170も走っていますが、寺社・史跡があるかも?と思い旧道の方を走ります。
でもそれはなく、アーケード市場に突入するようで、結局現道の方に出て北上しました。

20180114NozakiS0096s.jpg 13:57「野崎観音慈眼禅院」。
有名な寺院だけあって、門前料理旅館が数件ありました。
長い石段を上がります。
忠魂碑があったので手を合わせる。
父は大東亜戦争時従軍し、ボルネオ島キナバル山麓ジャングル内を戦地にします。
船に乗り台湾経由でボルネオに渡る間、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、4/5隻が沈みます。

「打ち上げ花火なんて足元にも及ばないほど綺麗なと米艦船からの艦砲射撃」を受け、食料がなくやせ細りながらジャングル内を進軍し、最後はインドネシア独立軍に参加するつもりだったが上官の命令で米軍に投降し、運良く内地に帰ってきました。

戦後生活が安定してから、「キナバル会」という戦友の会に参加し、毎年遺骨収集団としてボルネオ島に渡っていました。
そんな父も虚しくなりましたが、父は強運により生き残り、僕が生まれ子供が生まれ孫がいます。

太平洋を挟んだ新興国家・日米のつばぜり合いで、石油を止められた日本があの時立たなかったら、当時有色人種でエチオピア・タイ・日本しかなかった独立は保てなかっただろう。
今でも西欧列強の植民地として二等国に落ちたままだったかもしれない。
プライドを持って日本人として生きている僕や子孫の繁栄は、命を賭けた先人の行動の礎があったればこそです。


1/14・河内/柴籬神社

20180114NozakiS0059s.jpg 拝殿脇に、パンフレットが置いてあった。
『お伊勢様と氏神様の御札をお祀りしましょう うれしい知らせがあった時、気分が落ち込んだ時、何かを決意した時。ふと神様に手を合わせたくなることがあります。そんな時、心静かに手を合わせられる場所が身近にあれば、日々の暮らしはもっと穏やかなものになるでしょう。
御神札をまつることで、神さまをより近くにお迎えすることができます。お部屋の中に、自分だけの「祈りの場」がある暮らし、始めてみませんか。
「天の恵み」ーお伊勢さまの御神札ー
伊勢神宮は、三重県伊勢市に鎮座する皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心とする125のお社から成ります。皇大神宮は、「日本人の心のふるさと」と親しまれ、皇室の御祖先の神さまであり、また私たち国民の総氏神さまでもある天照大御神さまをおまつりし、その広大無辺のご神徳は太陽にたとえられ、「火の恵み」と仰がれます.
「地の恵み」ー氏神さ圭の御神札ー
氏神さまは、日本全国津々浦々に地域住民の心のよりどころとしておまつりされ、農村にあっては農業を守護し、漁港にあっては大漁をもたらし、その土地に暮す全ての人々とその生活をお守りくださる最も身近な神さまです。親が我が子を慈しむような、大地が草花を育むようなそのご神徳は、「地の恵み」と称えられます。
「天地の恵み」
この世に生きる全てのものは、天地の恵みによって生かされ、神々の守護によって生活を営んでいます。すなわち、お伊勢さまの「天の恵み」と、氏神さまの「光の恵み」とがあたかも車の両輪のごとくにひとつとなって、より尊い御神威があらわれ、より一層のご加護をいただけるのです。
「新たな年に瑞々しい生命を」
お正月を迎えるにあたり神棚をお掃除し、お伊勢さま・氏神さまの御神札を新しいものに換えて新年の訪れを待つ。これは、より新しいお力、より新しい生命をいただくという意味の行事であり、日本の伝統、先祖伝来の美風です。現在神棚がないご家庭(または事業所)は、この機会に神棚をおまつりになってはいかがでしょうか。
◆御神札のまつり方
御神札は、南か東に向くようにおまつりしましょう。
神棚のないご家庭では、タンスや本棚の上をきれいにして、そこに雲形(お社)を置くのもよいでしょう。また、壁掛けにもできる小型の雲形もあります。神前にはお米・お塩・お水の他に季節の初物・お土産等も感謝の気持ちをこめてお供えし、拝礼しましょう。 大阪府神社庁』と書かれたポスターが貼ってあった。

20180114NozakiS0060s.jpg 「ご自由にお取りください」と、「教育勅語」「授与品図鑑」「神様と動物」「君に命をくれたのは」4種類のパンフレットが置いてあった。
僕は教育勅語が好きです。
小学生の道徳の時間に、校長先生から教えてもらった。

20180114NozakiS0062s.jpg 『たいせつなやくそく ~『教育勅語』のこころ~
むかしむかし・・・ 明治天皇はみんなにお話しになりました。
「みなさん、わたしたちのこ先祖さまは、約束をまもり、人にやさしくする心を、ずっと大切にしてきました。
そして、みんなが、みんなのために、手をつなぎ、心をつないで、なかよく暮らしてきました。
それは、わたしたちの、ご先祖さまの、大切にしてきたことが、わたしたちの心の深いところにしみこんでいるからです。
だから、みなさんも、ご先祖さまが大切にしてきたことを学び、守っていってください。
「お父さんとお母さんに、素直な気持ちで、『ありがとう』をいいましょう」
「兄弟はみんななかよく、家族ははげましあいましょう。
お友だちとは、助けあいましょう」
「いつも、思いやりの心をもって、みんなにやさしくしましょう。
もしも、間違ったことをしたり、言ったりしたら、すぐに反省して、なかなおりしましょう」
「みなさんは、すすんで勉強して、いろいろなことを、学んでください」
「そして、おとなになったら、世のため人のために、働けるひとになりましょう」
「みんなで決めた約束は、必ず守りましょう。
もしも、みんなが、だれかから、ひどいめに、あいそうになったら、勇気をだして、『それはいけないよ』と、いえるひとになりましょう」
「みなさん、この大切な約束を、まもることができたら、もうりつぱな日本人です。
この約束は、昔も今もかわりはありません。
海のむこうの遠い国でも通用する、りっばな教えなのです」
だから、みなさんも、この大切な約束を、みなさんの将来の子供たちにも、伝えていってください。
おうちの方へ~
【教育勅語とは】
明治維新以降、急速な欧米化によって日本古来の道徳心が失われつつある状況をご心配された明治天皇が、国民道徳の大本をお示しになられ、徳育によって国民を守り、より良い社会(道義国家)となるよう示されたものが教育勅語です。行き過ぎた個人主義が蔓延する今日、日本の伝統的な道徳教育が見直されれています。これらの教えは人が生きていく上で普遍的なものであり、世界に通用する立
派なものです。
【道徳の授業が特別教科へ】
平成27年2月の文部科学省告示により「道徳」か特別な教科として格上げされ、小学校では平成30年度、中学校では平成31年度から、教科書に基づく授業が始まります。グローバル社会の中で我が国の伝統文化を知り、家族・集団の一員としての自覚を持ち、多様な人々と共生していく上で必要な相互尊重のルールやマナーを守り、いじめの防止や生命の尊重、困難に屈しない心や自律心が育まれることが期待されています。
【神社は日本の道徳の発信地】
日本人は太古の昔より、神様がくださる自然の恵みと祖先から繋がる命に感謝と畏敬の念を覚え「生かされている」という謙虚な気持ちで日々を過ごしてきました。
また神祭りを中心に神社に人々か集い、様々なことを相談する中で、お互いを尊重し合い、安心して暮らすことのできる地域社会を築いてきたのです。日本の伝統的な道徳心や和の精神はこうして育まれていました。
この冊子は、教育勅語の核となる部分を「子供たちが道徳を心の栄養にしてスクスクと育ってほしい」「若いお父さんやお母さんに日本古来の道徳について知ってもらいたい」という思いから、近畿一府四県の神社に奉仕する青年神職が原文を再編集し作成したものです。どうか皆さま、いつでも、何度でも、子供たちに読み聞かせてあげてください。 鎮守の森・・・神道青年近畿地区連絡協議会』

20180114NozakiS0064s.jpg 教育勅語が、子供向けに平易な言葉で書かれています。
僕は、戦前の道徳の教科書(国民の終身)を持っています。
1~3年生用と4~6年生用2冊の教科書に別れ、神代からつい先年の人である方まで、素晴らしい功績を残された方のお話が掲載されている楽しい読み物です。

「こういう悪いことをしたら罰せられます」ではなく、「人知れずこんな素晴らしいことをした人がおり、多くの方がそれに助けられ尊敬されました」という基調で書かれています。
TVニュースの殆どは、「・・が悪いことをした」「・・さんがひどい目にあった、犯人はこいつだ」が基調で、「悪いことをしたらあかんよ」のオンパレードですが、「こんな素晴らしいことをした方がいたよ」が8割を占めるニュースを流す方が世の中良くなるような気がします。

拝殿内は華やかで、鮮やかなお着物が掛けられ、百人一首の御札・過去の神社の写真が飾られ、太鼓や椅子が整然と並べられています。神職が被る烏帽子も用意されています。
子供に「教育勅語」を広めようとしてる姿勢が好きだし、4種もパンフを頂いたこともあり、絵馬800円と交通安全守護(黄色)500円を授かりました。
早速「里山VTR250」のハンドルにセット。


1/14・河内/顕証寺・許麻神社・柴籬神社

家内はお仕事の新年会で、姫路の日航ホテルへ行きます。
家内を駅まで送り、帰ってきて「里山VTR250」を出し、バイク用プロテクター・ウインタージャケット・パンツに着替えて、今シーズン初の完全冬装束になり、10:27出発。

10:30「伊丹産業セルフ北村SS」で給油。
216km/7.39L=29.2km/L。
R171~中央環状線~吹田ICから近畿道に乗ります。
道路脇の気温計は2℃でしたが、バイク用冬装束なら全く寒くなく快適です。

いつものように80km/h巡航で南下し、八尾ICで下車。r2~r5を東進し、11:11「顕証寺」。
20180114NozakiS0001s.jpg 山門の彫刻が素晴らしい。
20180114NozakiS0002s.jpg 20180114NozakiS0007s.jpg 20180114NozakiS0009s.jpg 20180114NozakiS0021s.jpg 『顕証寺と寺内町 古くはこの地を橘島久宝寺といい、親鸞聖人の高弟・信願房法心の建てた慈眼寺があった。文明2年(1470)蓮如上人がこの地で布教し顕証寺(久宝寺御坊)を建てた。周囲に二重の堀と土塀を巡らし、街路は碁盤の目のようになっていた。
このように本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかる寺内町を作った。この町では御坊が一切の支配権を持ち、久宝寺城主・安井氏がこの権を委された。
中世末期・浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した集落。
真宗西本願寺別院で、連技の格式を持ち、河内十二坊の総支配を勤めた』
鐘楼の彫刻も見事です。浄土真宗の財力を感じます。

20180114NozakiS0022s.jpg 11:23「許麻(こま)神社」。
20180114NozakiS0026s.jpg 境内に「どんと焼き」受付机が出ており、大きな俵型に組まれた藁に縁起物の鏑矢がたくさん刺さっていました。
このまま燃やすのでしょう。

『式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一である。この地は古くから巨麻荘といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神を祀った。境内の手洗い屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残。
この寺は聖徳太子の建立で、戦国時代兵火により焼失。その後観音院のみ復興したが、明治初年廃寺となった。本尊十一面観音は今念仏寺にある。神社の西方に、弥生式土器を埋蔵したベントウ山があった』

社名から、古来神事や衣類・漁具・医薬品原料と多用された大麻の栽培地であった名残りを想像しましたが、河内に移り住んだ「大狛連(おおこまむらじ)」という諸蕃(朝鮮半島・中国大陸出身氏族の総称)一族が住んだ地からの名残りのようです。

隣の藤井寺も、出雲を経て渡来した土師氏の本拠地ですし、湖西同様河内も渡来人が多く住んだ地です。
土木技術で朝廷に貢献し地盤を築いた土師氏本拠地に古墳群が多いのは、大陸・朝鮮半島からの技術移転と思っていましたら、今読んでいる『日本人のルーツの謎を解く 縄文人は日本人と朝鮮人の祖先だった 長浜浩明著』によると、半島南部(特に百済)に日本特有の墳墓・前方後円墳が多く発掘されていると言うことだった。
全て5~6世紀のもので、日本の古墳時代3~4世紀より新しく、「むしろ日本の技術が半島に伝播していったと考える方が自然だ」となっていた。

氷河期から暖かくなる過程で、海に囲まれた日本列島の方が大陸より早く暖かくなるから、日本列島の方が朝鮮半島より先に人が住み着いたのは、発掘遺跡の古さからも定説になりつつあります。
縄文遺跡からは、世界三大文明より古い出土品が多く出ており、血液型や遺伝子レベルでも現朝鮮人と日本人との民族的違いがはっきりしている。
母乳を通じて母子感染し白血病を引き起こす「ALSウイルス」キャリアーは、朝鮮人にはゼロで日本人には2~30%存在する。
しかも縄文人にもほぼ同じ割合で存在する。

「縄文人世界だった日本列島に、稲作文化を持って大量にやってきた弥生人が席巻していった」との過去の定説が覆り、最終狩猟生活だった縄文人が、焼畑農業から水稲栽培に転換し集落を形成していき弥生人になっていったとの説が有力視されているらしい。
身長・顎の発達・顔の輪郭は、生活習慣の変化で容易に変化するもので、縄文と弥生を別民族とする根拠にならないそうだ。

自然に考えれば、日本列島から半島に渡った部族もあり、ユーラシア大陸中央部を経てやってきた民族と中国大陸・朝鮮半島で出会ったと考えられる。
列島と半島は、現代のように双方向に移動・交流があり影響しあっていたのだろうと、僕もこの本を読んでとうとう宗旨変えしました。

20180114NozakiS0033s.jpg 摂社の厳島神社が、噴水の有るしっかりした池に囲まれ、信仰の篤さを感じる。
たくさんお絵馬が掛かり、真新しい御神籤も多く結ばれているので、多くの尊崇を受けているようです。
境内に大きな社庫があり、立派な山車が蔵されていそう。

r179を南下し、近鉄南大阪線をくぐり、近畿道側道r2を南下し、r12を西進、枝道を南下し11:59「柴籬(しばがき)神社」。
20180114NozakiS0040s.jpg 『反正天皇柴籬の宮跡』の石柱が立っている。

20180114NozakiS0046s.jpg 『仁賢(にんけん)天皇の勅命で創建され、第18代反正(はんぜい)天皇(瑞歯別命みずはわけのみこと)・菅原道真・依羅宿禰(よさみのすくね)を祭神として祀る。この付近は反正天皇の皇居・丹比柴籬宮跡で、記紀によるとその時代は天下泰平・五穀豊穣の平和な時代であったと記されている。
平安時代、清和天皇より幣帛(へいはく)を賜り、南北朝時代の足利直義、戦国時代の河内守護畠山氏も厚く保護した。明治5年(1872)神仏分離により、境内の神宮寺・広場山観念寺は廃寺となり、本尊は上田の観音堂に、釣鐘は願正寺へ。
明治40年(1907)に大塚山古墳にあった天満宮(大塚社)を合祀し、手水鉢も当社に移された』

ここも男どもが作業中です。
消防ホースを動かしているので、「どんと焼き」準備のため消防団員に総出がかかっているのかもしれません。
作業が終わったのか、拝殿前の階段で記念写真に収まっていました。

神宮遙拝所があった。
20180114NozakiS0049s.jpg 参道脇に摂社があり、歯を強調したお面像がある。
『日本で唯一・歯磨き面 本殿に反正天皇を祭神とし、ここ末社に歯神を祀る歯に関する社として、古より多くの方々に崇敬され今日に至っております。本年歯神社御祭礼日5周年を記念してここに歯磨面を建立し、指先で触れて大神様のご加護を頂き、健康の源である歯がいつまでも丈夫でありますようご祈念下さい』

祠脇に、「住吉社(祓いの神・往来(交通)安全の神)」「歯神社(歯の神・「ちちかみばし」伝説の社)」の提灯が下がっていました。
確かに歯の神社は初めてです。

20180114NozakiS0057s.jpg 拝殿前左右に盛砂(立砂)がある。
『この砂山は、古来より当社では伝統的な習わしとして受け継がれ、京都地方でも数社寺があるのみで、全国的に珍しい盛砂です。お清めの砂として、家屋敷の鬼門・裏鬼門に撒く風習が残されている』

拝殿で手を合わせました。
いつものように今までの幸せな生活への感謝に加え、今年新たに生まれる孫のお嫁さんの安産と健康を願いました。


1/13・海の安全講習会

前日から極寒です。
今朝、西を見ると六甲山がクリアに見えており、山頂から和歌山まで一望できるでしょう。
寒い日でしたが、午後からホームポートに行ってきました。
ヨットクラブで「安全講習会」です。
今年から法律が変わり、ボートに乗るときにライフジャケット着用が義務化されました。

その詳細の説明会を聞いてきました。
高校ヨット部時代から、「海に出る時はライジャケ必着」を旨としているので、僕には関係ありませんが、「ライフジャケット=桜マーク・ライフジャケット」という文言が引っかかっていました。

「桜マーク・ライジャケ」は国土交通省が認可したライジャケです。
「浮く」機能はバッチリですが、「色はオレンジ・かさばる・ダサい・なのに金額はする」で、ヨット乗りには人気がありません。
釣りなど船に乗る番組でも、ほとんど見ないです。

大学ヨット部でも、「浮く」以外の機能がイマイチ(特にかさばるので、軽快に運動するのに邪魔)なので、これを使ってるヨット部なんて皆無です。
「どうすんの?」と思いながら説明を聞いていたら、日本セーリング連盟などに加盟しているクラブや船は、「レース中・練習中」はその対象外で、従来から使っていた世界標準の50N(ニュートン)ライジャケでOKだそうです。

国交省と「お目こぼし」交渉したセーリング連盟のこの日の説明者は、レース当日のみ?レースに向かう前日回航時はいいの?など「いつが練習中に該当するのか?」など細かい所はあえて聞かなかったそうです。
アバウトなままにしていた方が「練習中です」とかで言い逃れ出来るから・・・みたいなニュアンスで苦しい説明をしておられました。
乗船中でも、「船内にいれば対象外」「船外でも75cmの高さの囲いなどに囲まれていれば対象外」など、フェリーや遊漁船での運用は今まで通りになるそうです。

事故の大半は落水によるもので、過去10年間で500名だそうです。
ライフジャケット未着用者は50%死亡しており、着用者は10%死亡だそうです。
僕は高校生の時から、数度落水遭難者の捜索に加わったことがあります。
高校国体県予選当日レース中、高校ヨット部の1年先輩の方が社会人になってすぐのレース中、大学ヨット部の20年ほど先輩が外洋レースに向かう途中三重県沖、で落水死亡されています。

高校3年の国体予選レース日前日、社会人ヨット部の方が、「僕らのレース練習に混ぜて欲しい」と言ってこられました。
OKして練習した翌日、言ってこられたそのヨット部のキャプテン本人が亡くなりました。

2人乗り小型ディンギーレースは着ないとレース失格なので、ライジャケは着ていましたが、結ぶ紐が「ちょうちょ結び」だったので解けて脱げてしまいました。
クルーがヨットが初めての新人女性で、スキッパーが落水してしまい操船できなかったそうです。
スキッパーの方も体育会ヨット部出身者でなかったようで、ヨット・海に対する甘さがあったのでしょう。
練習参加を受けたのが僕だったので、ショックでした。

最近の国際標準50Nライジャケは、ファスナー&バックル式が殆どで紐で止めるものはありませんが、春4月の大学ヨット部新人勧誘の時は、口が酸っぱくなるほど話し、「着ていれば4日間沈まない」安全規格である旨も話し安心させます。

僕が参加する時は必ず沖に出て、新人がライフジャケットをキチンと着ているか確認してからヨットに乗せます。
部員もこの重要性は知っているので、皆新人をチェックしています。

近しい方3人の落水死亡を経験しており、子供たちがチビの時は海水浴はもちろん、フェリーに乗る時でも家族全員で着ました。
親が着なかったら子供は着ないものね。
因みに僕はヨットハーバーに行けば陸上でも着ているので、ジュニアヨットと関わっている時は「ライジャケ・パーソン」で有名でした。
ライジャケ着用義務化で、少しでも水の事故が減ればいいなと思います。

出席者は、クルーザー関係9割・ディンギー関係1割というところ。
後期試験が始まりそうな時期にも関わらず、学生が2人出席していました。
ユニフォームのロゴマークから関大男子と母校KG女子とわかりました。

最前列に2人並んで座っており、「熱心だなあ~」と思うとともに、「付き合ってるのかな?」なんて羨ましくも思いました。
若いってことは正義です。

13:30~16:30までの長丁場なので、途中で10分休憩が入りました。
その時女の子だけが席を立ち、男の子はそのままだったので、「付き合ってないようだな残念」なんて思いました。
スタイルが良く、とてもかわいい子だったので、それだけで講習に来た甲斐があったというものです。

僕と家内は大学の同学年ですが、学部も違うので、家内は僕のことを全く知りませんでした。
僕は美人好きなので、1回生の時から「可愛い子だな」「背筋が伸び歩き姿の美しい人だな」と目をつけ、家内と同じヨット部同期から所属学部の事を知っていました。
僕も家内の学部も女の子が少なく、50人の英語クラス中たった3人しかいないので、目立っていました。
2回生からマネージャーとして入部してきた同期女の子が家内と英語クラスが同じで、「うちの学部で一番かわいい子を紹介してあげようか」なんて言われたこともあります。
その時は、紹介されそうになった子が家内のこととは知らず、断ってしまい勿体なかったです。

そんな家内と、学校以外の1週間の資格試験講習会で同じになりました。
「あの子は・・・」と思い、家内が1人でご飯を食べに行ってるのを確認し、「お昼ごはん、一緒に食べませんか?」と声を掛けました。
同じ大学であの学部であることを確認し、やっぱり~。
クラスの3人の女の子の1人がヨット部であることを知っており、もう1人が僕の中高の同級生だったことに驚きました。
その子とは花嫁修業のため同じ料理学校に通っており、家内が講習会の帰りその子の家に遊びに行くというので、僕も一緒について行き・・・現在に至ります。
運命の赤い糸は、遠ざかってもくっつくようになっているようです。

安全講習を聞きながら、最前列の2人を見ながら想像していました。
講習会が終わり、ヨット用の2ミリのシートを調達しに、16:37、1F「ノースショップ」で2ミリ990円を買いました。
関大ヨット部OBの木下店長と、あれやこれや話していると、KG女子がやってきました。

「最前列で、熱心に講習を受けていたね」「遅かったので、最前列の席に行かされたんですよ~」。
店長から「KGの先輩だよ」と聞き「それは失礼しました、主務をしています」なんて。
3人であ~だこ~だ。
「K大のコーチしてるんだ。春休みに琵琶湖から遠征に行くから、また練習やレースに加えてね」と話したら、「去年と一緒ですね、O大から話が来ると思います」と春のことをお願いし僕は退散しました。
コーチしてる大学よりKGの方がレベルが上だから、教えてもらわなきゃ。

通勤リード110に乗り帰路に着きました。
阪神高速・湾岸線の下をくぐる交差点で信号待ちしていると、その子がスクーターですり抜けしていったので、僕も追いかけまた声を掛けました。
「12月に卒業生クルージングしようと艇庫に電話したら、冬季休暇に入ったようで繋がらなかったから、ウェブサイトのアドレス宛にメールしたんだけど返信がなかったんだ。あのアドレスでいいんだよね」
「はい、マネージャーが管理しているのですが・・・確認しておきます、失礼いたしました」。
これでサヨナラをしました。

1/7・石峰寺

昼食後、前日に続き安産祈願しようと家内を中山寺に誘うが、「お化粧してない」とか何やかやでお出かけモードになっていないようです。

「どっかに行ってきたら?」と言われ、「招き猫CB400SB」でお出かけすることにする。
三田方面寺社巡りしようとツーリングマップルを広げると、石峰寺と赤で書き込まれている。
いつ書いたのか、何を見たくて書いたのは不明ですが、ナビをセットし13:30に自宅を出発しました。
目的地は、神戸市北区淡河の石峰寺です。

R176or中国道~山陽道をナビは誘導しますが、面白くないのでおおまかに往路「有馬経由」復路「三田経由」と決めました。
R176宝塚付近は混んでいました。
バイクの特典で信号ストップすればスイスイと前に出れるはずですが、パトカーがいたので自重しました。
原付など数台が平気で前に出ていましたが、ミニパトさんはスルーしていました。

宝塚駅を過ぎると解消し、R176を走り、r51に入り蓬莱峡を抜け有馬温泉コースです。
「+10の会」なので、見通しの良い直線でも50km/hを守り、カーブはビビリッターが働いてグーンとスピードダウンするので、四輪を数台従える大名行列を作っちゃいました。

有馬温泉駅からr506へ。
有馬温泉駅付近で、優先道路のこちらを見ているのに平気で四輪が出てきて驚きました。
ゆっくり走っており、「怪しいな」と野生の勘が働いていたので、少し強めのブレーキで事なきを得ましたが、女性ドライバーは要注意です。
最近何かとマスコミからバッシングされている高齢ドライバー以上に僕には怪しい存在です。

確かに男性ドライバー年齢別事故数は、1999年調べで65才以上は70件/億Kmで、18~24才90件/億Kmに次いで2番目に多いですが、女性と比べれば最も少ない40~49才60件に負けるだけで、2番目の30~39才80件・50~59才80件より少ない。
まあ、女性は愛すべき守るべき存在なので、男が気をつけなくちゃ。

r38に乗り西進します。
20180107SyakuS0009s.jpg ナビに導かれるまま枝道に入り、14:31山門着。
20180107SyakuS0004s.jpg 仁王様が守る山門で、かなり立派です。
石峰寺本体への期待が高まる。
山門からの直線上に石峰寺が見える。

バイクで少し移動し、境内前に14:38駐輪。
細い田舎道なのに、アウディやBMWなど外車ばかり下っていく。
同好の士の集まりでもあるのかな?

20180107SyakuS0012s.jpg 石段左右に鐘楼を構える珍しい配置です。
『白雉はくち2年(651)法道仙人開基。
孝徳天皇の勅願寺として栄え、中世には1里四方の寺領を持ち、多数の僧兵・学侶を養っていた。大日如来が祀られている本堂東の三重塔は室町時代作で、嵯峨天皇の勅願による。この時代に作られた三重塔では最大級。中堂の薬師堂は、聖武天皇勅願で、僧行基が開眼した薬師仏・十二神将・日光月光菩薩を祭祀し追儺行事が行われた。この2つの建造物は、国の重要文化財』
法道仙人はインドの僧で、播磨・摂津に開創した寺院が多いので、謂れ板で名前を良く見ます。

20180107SyakuS0016s.jpg 謂れ板下に竹細工の花生けが置かれ、南天の赤が美しく生けられている。
ご住職ご夫婦の人柄を感じる。
手水が蓮の花を連想させる造形で、珍しい。
お大師様を祀る祠があったので、真言宗のようです。
左右に小ぶりだけど綺麗に整った花々が生けられ、センスの良い奥様がおられるようです。

「八十八ヶ所巡拝道」の石柱が立っていたので入ってみる。
山中88の仏様を巡ってみた。
このような簡易巡礼道は何度も目にしたが、1番から88番まで全て巡ったのは初めてです。
20180107SyakuS0064s.jpg 石祠におられたり、大岩を削った祠に祀られていたり、距離にして1kmもないので、楽しく巡れた。

小さな起伏に富み、大岩が良い雰囲気を醸し出し、順路案内板が整備され迷わずとても良い。
阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来・将軍地蔵菩薩・千手観世音菩薩・虚空蔵菩薩・十一面観世音菩薩・弥勒菩薩・七仏薬師如来・地蔵菩薩・文殊菩薩・波切不動明王・不動明王・大通智勝仏・・・それぞれの仏様が特徴を持っておられるので、見て回るだけで楽しい。

20180107SyakuS0142s.jpg 三重塔の裏に古池がありました。
室町時代再建の日本最古の三重塔は趣があります。

『当伽藍は四神(青龍 白虎 朱雀 玄武)に満たされた地にあり、一段下がった丘陵地には十輪院・極楽寺・竹林寺の塔中がございます。往時には回園地に七十余りの坊余を配していた修行道場であって、今も自行に訪れる方々が多数あります。当寺は観光寺院ではなく拝観料も頂いておりません。清掃は僧・行者・檀家・参拝者の方々多くのご奉仕をもって維持されております。ごみ等が出ましたらお持ち帰りください。修行道場ゆえにお足もと等に十分な整備が為されておりませんのでお気を付け下さい。裏山も修行場で危険な所もございます。滑落や落石・落木にご注意ください。今日の佳きご縁に皆様方の心と体と財とが広く満たされますようお祈りいたします。 合掌 岩嶺山・石峯寺』

室町時代からここに建つ本堂内は、暗く良い雰囲気で、立派な彫刻が目につきました。
いつの時代奉納されたものやら、武者絵馬が掲げられています。

20180107SyakuS0170s.jpg 『本堂・延命地蔵菩薩 当山の御本尊様です。白雉2年(651)インドの僧・法道によって開かれた。旅の途中、この地に立ち寄り、彼の地より法道の徳力を追って来た龍が授けた地蔵菩薩像を受け、この地に聖舎を建てた。この3年前に孝徳天皇の病気平癒の祈願をし、ご回復されたことによる勅願で建てられたとも言われている。3月の最終日曜日に柴燈火護摩があり、各地より多くのお参りがあります。 石本寺執事』

子安地蔵祠に参り、薬師如来堂へ。
『奈良時代、悪疫が流行した折に聖武天皇は7体の薬師如来像の制作を命じ、光明皇后は17巻の薬師経を浄写され悪疫消除を祈願して各地域に聖舎を立てて祭司されました。
石峯寺の薬師如来様は、行基菩薩によって聖舎と本尊の開眼が為された。十二神将は、その後に祀られた。 石峯寺』
薬師堂内も、建てられた時期は定かでありませんが、本堂と同じような作りで暗く落ち着いていた。

20180107SyakuS0180s.jpg 参拝中、時折聞こえる車の音に目を向けると、ほんと外車特にドイツ車が多い。
昨年9月にアメリカ東海岸に行ったが、アメリカよりドイツ車比率は格段に高いように思う。
落ち着いたデザインと、日本車に次いで故障しないドイツ車に質実剛健を感じ好む日本人が多いように思う。

近隣の他の寺社訪問も予定していたが、殊の外「石峰寺」が素敵で時間を食ってしまい、15:22帰路につきます。
r38まで下りてきたら、出発時に通り過ぎていった車が感知式信号で止まっています。
二輪押しボタンボックスを見るとまだ感知していないので、横を通り抜けボタンを押す。
すぐに信号が変わりました。

r38を東進し、R176を少し北上し、r327に乗ります。
「JR道場駅」横を通り、武庫川沿いを走ります。
新名神のこの区間は、事故により開通が1年半先延ばしになりましたが、下から見上げた外見は完成しています。
「川下川ダム」横を走り、r33~r325~長尾山トンネルで大阪平野に戻りました。

16:31「セルフ宝塚176」で給油。
322km/14.5L=22.2km/L。
16:40帰宅。
家内はずっと家にいたようです。
NHK「ダーウィンが来た」、この日から始まった「大河ドラマ・西郷どん」を見て寝ました。




1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 湊川神社~荒田八幡神社

20180106MinatoS0247s.jpg 『湊川神社 所在地:神戸市中央区多聞通3丁目1番1号 祭神:楠木正成公(大楠公) 配祀:楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族16柱並びに菊池武吉卿 摂社:甘南備神社(祭神:大楠公夫人) 境内神社:楠本稲荷神社(祭神:倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命) 菊水天満神社(祭神:菅原道具公)
由緒 大楠公は、元弘元年(1331)9月に後醍醐天皇の命に従い挙兵、やがて鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績をあげられた。しかし、謀反により一時九州へ敗走した足利高氏の大軍を、大楠公はここ湊川で迎撃、激戦の末、延元元年(1336)5月25日、弟・正季卿と「七生報国」を誓って刺交し、殉節を遂げられた。
その後墓所は、豊臣秀吉検地の際、免祖地とされ、江戸時代初期には摂津尼崎藩主・青山幸俊公によって松と梅が植えられ、五輪の供養塔も建てられた。更に元録5年(1692)水戸光圀公(義公)によって、墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立、大楠公が天下に顕彰された。
これにより、大楠公景仰の気運が愈々高まり、やがて維新回天への力強い精神的指導力となった。そうした幕末から維新にかけて、尊崇いてやまない大楠公、その御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868)4月、明治天皇は神社創祀の御沙汰書を下された。
よって明治5年(1872)5月24日、社名と「湊川神社」とし、初めて別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭・翌日楠公祭が斎行され湊川神社が創建された。
御盛徳 大楠公は、智・仁・勇三徳を備える人格者で、聖人とも仰がれた武将であった。大楠公の忠誠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫に至るまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はいないと言われるほど、国民に大きな感化を与えた』

20180106MinatoS0250s.jpg 境内内参道に「大楠公一代記」と銘打たれた13枚の絵パネルが立っていた。
太平記に沿った楠木正成の生涯が描かれていた。

大学1回生の時、付き合っていた同じ学部の同級生美人さんと来たことを思い出しました。
夏前に友達のクラスにいた同級同回生一番の美人さんに知り合いました。
友は同じクラスのもう1人が良いと言い、僕は美人の方。
彼に紹介してもらい、僕がWデート学食昼食を誘いました。

僕と彼女は順調に進み、何度も彼女の家に車で送り、初詣に湊川神社に参拝しました。
僕のお付き合いした中で最高のプロポーションの持ち主でした。
水着姿は悩殺モデルそのものでした。
男子学生の視線浴びまくりで、大学の友達から、かなり羨ましがられました。
目を引く美人さんは敬遠されるのか、僕の素朴さが良いのか、打率10割で、最初から振られた経験がありません。

チヤホヤされるも意外に決まった人がおらず、誠実に丁寧にアプローチすると上手くいきます。
家内だって、違う学部のマドンナさんで、今でも「可愛かったよな、今どうしてる?」と僕との関係を知ってる家内の学部の同学年の友達から言われます。

綺麗な着物姿で目がくらむほどでした。
すれ違う男どもが彼女を吟味する目で見ているので、自慢げに歩きました。
美人さんは、ずっとこんな視線に合っているのかと少し気の毒に思いました。
でも西洋的なプロポーションの女性は、着物より洋服の方が似合います。
白人モデルさんが着物を着ても、細身で首の長い日本人女性に見劣りするのと同じです。

彼女はピアノ・オルガン・エレクトーンが上手で、教会での結婚式のパイプオルガン伴奏のアルバイトをしていました。
観に来てと言われていたのに、日曜日はクラブなのでその機会がありませんでした。
山の家の掃除に連れていき、一緒に掃除したとき、「お嫁さんになったみたい」と言われました。
1回生後期試験が大学紛争でレポート提出になった時、彼女の家に行きレポート作成に励みました。
作文が得意な僕は、クラブが始まるので早期提出したこともあり、軒並み優の抜群の成績で、これで弾みが付き卒論も学部内表彰され、全員に配られる卒業優秀論文集に収載され、成績優秀で学部卒業できました。
うちの母も気に入り、美術館や博物館を3人で巡ったのも複数回ありました。

彼女との交際は1年半続きましたが、2回生のクリスマスに振られちゃいました。
性格も良く気に入っていましたが、僕のヨット部最優先が不満だったようです。
ヨットは同学年唯一の高校ヨット部経験者で1回生の時から期待され、秋からクラブの主力だったこともあり思いっきりやり、お陰様で国体やインカレなど当たり前のように出て、大いに楽しみそれなりの成果を出しました。

「私とヨットとどちらが大事?」というドラマで定番の言葉が出た時には、ちょっとガッカリでした。
「私と仕事と・・・」に共通する言葉で、家族を食わせるため働く時は休みなど関係なく頑張ることが男には必要だと思ってるので、合わなかったと思います。
僕より精神年齢が大人で、結婚をずっと意識していたように思います。
僕が具体的に結婚を意識し始めたのは、3回生以降でした。

今は僕も定期的に休んでいますが、次男が中学生になるまでは、完全にワーカーホリックでした。
労働基準法・週休・・などどこ吹く風で、仕事で成果が上がるのが面白く、タイムカードなどすると叩き過ぎの証拠が残るので無視していました。
最近の西洋式社会風潮は、「労働=苦痛」「労働=食うためのお金稼ぎ」ですが、僕は自己実現だったように思います。

だから最近の「過労死で会社を訴える風潮」に違和感を感じます。
社会としてはそれが正義でしょうし、大きな組織では当たり前の事ですが、人の倍働き成果を出せば、自分の好きな時に休みが取れますし、会社に切られることに怯える必要がなく、自分で会社が動くようになります。
よって小企業好きです。

家内は自分もフルタイムワーカーなこともあり、こんな僕に理解を示してくれました。
いつも自分の仕事をこなした上で、食事・掃除・洗濯・子育てのスーパーウーマンでした。
家内の母親もいつも笑顔で仕事を差配していた方で、よく似ています。

僕は月2の休日も少しでも会社に顔を出すワーカーホリックだったけど、夜が弱いこともあり結婚してからは夜7時には帰宅して毎日子供と遊んでいました。
風呂と寝かしつけは僕の仕事で、出張出ない限りしっかりこなしました。
その代わり、就業後の付き合いはほぼナシでした。
盆正月は家族と一緒の時間を大切にしました。

20180106MinatoS0262s.jpg 中山手通~R428で15:14「荒田八幡神社」。
『当八幡神社は古くは高田神社といい、後に宝地院境内にあったハ幡社を、神仏混淆を避けて、明治31年(1898)にここへ合祀して、荒田八幡神社とされました。
この近辺の土地は周囲より一段と高く、この高台付近が都の重要な地であったと考えられます。八幡神社の土地は平清盛の弟・池大納言平頼盛の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都の際には安徳天皇の行在所となり、境内には安徳天皇行在所跡の碑のほか、昭和55年(1980)6月3日に建てられた福原遷都800年記念の碑があります』

20180106MinatoS0271s.jpg 『祭神:応神天皇・素盞嗚命・安徳天皇 当八幡社は古くは高田神社といい、荒田村字1町田に鎮座し、熊野権現を祀っていたからその森を権現の森といったが、のちにすぐ西にある宝地院境内にあった八幡社を神仏混淆をさけて、明治31年2月24日兵庫県知事の許可を得て、ここに合祀して荒田八幡神社となった。
この土地は池の大納言・平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3目の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。いわゆる今日でいう皇居であり、今の境内に行在所跡の標石が建っている。
この頼盛の別荘については、高倉天皇の「厳島御幸記」に「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(あらた荒田)という頼盛の家にへ笠懸(かさかけ)、やぶさめなど仕うまつらせ、御覧せらる。日暮れ帰らせ給う。」と記しているので広い邸内であったことがわかる。
邸内は一段高く、昭和13年7月の神戸大水害の時にも附近一帯泥海のなかに島のように見えた。こうした日本歴史の一端をにない、又神戸の史跡として重要な役割を果たし、「平家ゆかりの地」として日本国民から崇敬を集めている。ところが昭和20年3月のあの神戸大空襲のため社殿を焼失してしまい仮社殿を再建し40年を経過したが、昭和60年6月、氏子・崇敬者のなみなみならぬ努力により、現
在の新社殿の建立をみている。
昭和55年6月8日、神戸にとって歴史的意義のある福原遷都800年を迎え、神戸市及び郷土史家の手によって「福原遷都800年記念碑」が建設された。
又、当神社は厄除の神として知られ古くから兵庫県下一円より厄除大祭(1月18・19・20日)には参詣者で賑わっている』

確かに周囲より少し高く、2F建て建物がなければ、景色は良さそうです。
こじんまりした境内・社殿ですが、綺麗に清掃され、寄進の酒樽が並べられており好感が持てました。
20180106MinatoS0280s.jpg 本殿を覗くと、小ぶりなお神輿が鎮座していました。
境内周囲に真新しい紅白の幕が下り、2週間後の厄除大祭の準備が整っているのかもしれません。

帰路につきました。
中山手通~山手幹線~山麓線~山手幹線~R171を経て、16:38自宅着。


1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 禅宗福海寺~厳島神社~湊川神社

道を挟んだ所にある「禅宗福海寺」を訪問。
「大黒尊天」と門柱に書かれていた。

20180106MinatoS0169s.jpg 『平清盛公遺愛の時雨の松・石碑 平清盛公遺愛の時雨の松は、神戸市兵庫区三川口町にありました。青葉から玉露を垂らし、霊験あらたかであったといいます。
同所に在った兵庫最初の庚申堂と共に平清盛公の信仰を受けておりましたが、大東亜戦争の火災で枯れてしまい、残っていた切り株も阪神大震災で無くなってしまいました。現在は石碑のみが福海寺にあります。この石碑は明治35年に福海寺第24世大海元梁禅師が建立され、自ら題字も書かれています』

ここも電気業者が入り、沢山の電球を下げていた。
20180106MinatoS0172s.jpg 「義高稲荷大明神」が摂社としてあった。
義高・・・といえば木曽義仲の息子・義高が思い浮かびます。
木曽義仲は、宣旨を受け各地に蜂起した源氏の信州木曽発の将軍で、源頼朝とは従兄弟同士。
義仲が北陸経由で京に攻め上り、平家を西国に落とした。
しかし後白河法皇と上手く行かず、頼朝の弟・義経軍に敗戦し、大津に散った。

木曽義仲の嫡男・義高は京に攻め上る前、頼朝軍と対戦した時、人質として鎌倉に幽閉されていた。
だから父とともに京に攻め上っていないと、平家物には書いてある。
でも頼朝と政子の子・大姫と恋仲になり、頼朝の父・義朝が弟である義貞の父・義兼を討ったことから始まった同族間不仲も解消するかと思われたが、再びの死闘で追討され命を落とした。
このことで大姫はふさぎ込み、亡くなってしまった。

「なぜ、神戸に義高が・・・」と歴史的興味が膨らみ、帰宅後調べたが、義高との直接の痕跡は見つけられなかったが、足利尊氏との関係を見つけた。
『建武3年(1336)、京都合戦に敗れた足利尊氏は、丹波路から播州三草より兵庫に逃亡中、新田義貞軍に追われ、福海寺の前身である「針が崎観音堂」の檀下に身を潜め一命を取り留めた。兵庫を出港し九州に落ち、西国水軍を率いて、観世音菩薩名号の帆を張った軍船で兵庫の地に再上陸、湊川合戦に勝利した。
室町幕府を開いた足利尊氏は、康永3年(1344)一命を取り留めた報恩と、彼我戦没者供養、祝国安民祈願のため、京都正伝寺より在庵圓有禅師を拝請し福海寺を開いた。「福海興国」の文字は、命拾いし兵庫から出港したことが国を興す元になったとの感謝の意。その後福海寺は、嘉吉の乱の兵火で新田義貞陣所跡の二本松(現在の兵庫駅)より現在地に移転した』

バイクに乗ると、境内でやっていたテキ屋の縄張りを、塀に沿ってやっていた。
10人ほどがゾロゾロ・・・。
テキ屋の1区画は決まっているようで、3mほどの棒を塀に当てチョークでマークし、ナンバーを振っていた。
抽選で出店場所を選ぶのだろうか?
最若手がガバンに載せた画用紙に記録していた。

20180106MinatoS0178s.jpg 14:27「厳島神社」。
『厳島神社(兵庫弁天) 治承4年(1180)、福原遷都の際、平清盛が平家一門の氏神として深く信仰している安芸国・厳島神社をこの地に勧請しました。福原京の周り7つの地に厳島神社を勧請したので、七弁天と呼ばれ、花隈・佐比江(さびえ)・西宮内・夢野・真野・渦輪(うずわ)とこの社となっています。他の弁天社が神社や寺と併祀しているのに対し、ここのみが独立していたため、渦輪にあった弁天社を合祀して存続しています』

大きくはないが風格の有る落ち着いた本殿で、境内に摂社「白萩稲荷大明神・若永稲荷大明神」があった。
「淡嶋神社」があり、謂れ板に「淡島様は医薬の祖神で、ご婦人の守り神」とあったので、お嫁さんの無事の出産を願った。

20180106MinatoS0180s.jpg 厳島神社は、宗像三神を祀るが、ここは市杵島姫命だけが祭神として謂れ板に記載されていた。
『当社は今から約800年前の治承4年(1180)、平清盛公によって建立されました。清盛公はかつて安芸守に任ぜられた時より、厳島明神を深く信仰していましたので、都を京都から福原に移した際に、厳島明神を安芸国より勧請したのです。
当社の縁起によると、清盛公が兵庫の港に築島を築こうとされた時、ある夜の夢に天女が現われ「私は安芸国厳島明神である。この海を暴風雨から守り、汝の志しを能く成就せしめんが為に来たのである。篤く信仰して必ず疑うことなかれ」とお告げになりました。清盛公は深く喜び、兵庫の港の守り神として明神を祀ることにしました。
伝・龍燈の松 かつて本殿の裏に、樹齢千年にも及ぶ老松があり、清盛公が厳島明神をおまつりする所を探していた時、この松の梢に燈火がかかるという奇瑞があったので、当地を社地に定めたと伝えられています。のち文政7年(1824)5月5日、沖から燈火が飛来し、この松にかかり煌々と輝いたので「龍燈の松」と称するようになりました。太さ1.5m・高さ3m程の枯幹が残っていましたが、戦災
により焼失しました』

R28で東進し、14:39「湊川神社」。
20180106MinatoS0199s.jpg 地下駐車場前の歩道に駐輪すると、裸像などの像が歩道に並んで設置されていました。
境内に入ると、楠木正成の菊水紋が飾られた「楠公会館」がありました。
神前結婚式などの披露宴会場などに使われるのでしょう。

ここは神戸三大神社の中のトップなので、まだ拝殿前に長い行列が出来ていました。
流石です。
神戸第一の安産祈願所なので、守護を授からなくちゃ。
ここの訪問が本日のメイン・ディッシュです。

20180106MinatoS0207s.jpg  「干支お守り」の他に「やなせたかしの十二支お守り」があった。
20180106MinatoS0208s.jpg  「福寄せ熊手大3000円~小1000円」「破魔矢1500円~鏑矢2500円~俵付鏑矢3000円」、僕は「干支戌絵馬500円」と薄ピンクの「安産守護桐箱入り1500円」を授かった。

我が家の神棚に上げようと思ったが、家内が綺麗な守護だから隣の実家の仏壇の方が汚れないから良いと言うので、仏壇に置くことになった。
実家は週一ぐらいで仏壇の掃除とお水換えするぐらいで埃が立たないから良いのだそうだ。
神棚なら毎朝晩手を合わせるので良いと思うのに・・・。
まあ、隣に家内の両親の遺影が飾ってある小さな仏壇があり、チーンの台に僕の幼児からの守り神・蛍光マリア様も置いてあるから喧嘩するかな?

20180106MinatoS0215s.jpg 絵馬掛けで、願い事を見てあれこれ思う。
「学問の神様・菊水天満神社」があった。
僕の先祖・道真公なのでもちろんお参りする。
代名詞の牛の像が参道にあったが、角や尻尾にまで御神籤が結ばれていた。
脇にもちろん東向きに遥拝所があった。

20180106MinatoS0220s.jpg 奉献の酒樽がずらりと並び、ヒガシマルとマルテンの醤油も並んでいた。
また絵馬掛けがあったので拝見。
大きな神社なので、絵馬掛けも数ヶ所にあります。

『楠木正成公募所(国史跡・嗚呼忠臣楠子の墓)・徳川光圀公銅像』を観に行きます。
数度も来ているのに、楠木正成の墓は初めてです。
『徳川光圀公は、元録4年(1691)水戸藩主を辞して西山荘に引退し、大日本史の編纂に着手され、翌年楠木正成公を景仰して「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立し、ご盛徳を天下に顕彰された。湊川神社においてそのご功績を追慕し像の建立を発願し、委員長に小倉正恒氏を戴いて昭和30年7月11日に完成したものです』

20180106MinatoS0231s.jpg 時代劇でおなじみの姿ではなく、仙人風のお姿でした。
20180106MinatoS0237s.jpg 『史跡・楠木正成公墓碑 延元元年(1336)5月25日御殉節せられた後、150年余経た元録5年(1692)12月21日徳川光圀公によって建立せられた。碑面8文字「嗚呼忠臣楠子之墓」は光圀公筆にして、碑陰に明の遺臣朱舜水の撰文を彫す』

20180106MinatoS0244s.jpg 脇門から入ったので、正門の神門の外に出てみました。
陸上部の練習なのか早く着いた高校生が10人ほど、謂れ板の前に座っていました。
僕が写真に撮ろうとすると「すいません」なんて言っていますが、問題なく写せるので「問題ないよ」と応えた。


1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 牧野富太郎植物研究所跡~会下山善光寺~長田神社~柳原蛭子神社

「牧野富太郎植物図鑑」は、母から初めてプレゼントされた図鑑でした。
母は、終戦時高等女学校生で、終戦直後焼け野が原の東京の理系大学に入学し、牧野富太郎のこの図鑑を使って勉強していました。
幼時からの毎日の本の読み聞かせで本好きになっていた僕に、大学生や研究者が使うようなこの本を買い与えました。
まだ小学生の僕は、詳細に書かれた植物の絵を見ながら、「これは何という草かな?」などと調べていました。
小学生植物図鑑などとは情報量が雲泥の差で、友達に「すげ~」と言われ自慢の本でした。

後世の大きな興味には繋がらなかったけど、南方熊楠などへの興味につながっていった。
現在の植物図鑑は多数の写真が載っているが、それが全てフリーハンドのペン書きで、その絵の素晴らしさの方に興味が行き、植物の絵・戦闘機の絵・軍艦の絵など精細画が僕の得意となった。

小学生時代は絵が得意で、学校代表として阪神大会にも出展した。
あの原点は、牧野富太郎植物図鑑に他ならない。
お世話になりました。

水仙がたくさん咲いていました。
南向き斜面だからでしょう。
我が家の水仙は、まだ数本しか咲いていません。

20180106MinatoS0083s.jpg 13:15「会下山善光寺」。
「聖徳太子堂」がある。
墓地に並んだ墓石はそれほど古いものはなさそう。
20180106MinatoS0091s.jpg 五輪塔を中心に「至誠報国 陸軍大将・荒木貞夫」と彫られた石柱が立っていた。
荒木貞夫は、2.26事件などを起こした陸軍青年将校の思想的支柱の方です。
大東亜戦争終戦後、A級戦犯終身刑に処されました。
神戸にゆかりの方かと調べましたが、接点はなさそうです。

A級戦犯で死刑になった元首相・陸軍大将であった東条英機さんのお子さんが、東京裁判の無効・名誉回復を願って声を上げ、最近東京裁判自体を否定する意見が強くなっている。
僕もこの裁判自体は、戦勝国による日本再生を阻むための国際法に反するリンチだと思うが、戦犯として裁かれた方々の名誉回復を求めなくても良いように思う。

日本の軍人は、遠い昔の武士の時代から、勝敗は時の運として、愛する家族・集落・国のために戦い散っていった。
将たるもの勝てば利を得るが、負ければ潔く腹を切り敗戦を認め、敗残兵の命を保つことを願った。
そして子孫に生き様を見せ、潔い思想を伝えていった。

法律的には無念だったろう戦犯に問われ罪を負った方々とて同じで、自らの命は敗戦したこと、多くの将兵を死なせてしまった自責の念から、罪を背負って刑に臨んだように思う。
それで良いのではないかと思う。
そんな潔さが日本人の心に響くように思う。

戦勝国から大罪人とされたA級戦犯の方でも、日本各地にその人柄を偲び、その人格・行動力を称える碑が立っている。
それを見た僕のような後世の者が、何かを感じれば良いと思う。

戦後、密かに靖国神社に合祀された。
それを支持する考えを否定するわけではないし、そういう考え方があって良いように思うが、僕は違和感を感じる。
当時の世界情勢(有色人種で独立を保っていた国は日本含め数ヶ国のみ)を考えれば、あの時点で富を独り占めし、世の春を謳歌していた白人国家に対し一矢報いた勇気は素晴らしいと思うし、あの日本の行動があったから敗れはしたが、有色人種に勇気を与え、現在のように民族が独立する世界になったと思う。
でも日本国内のみに焦点を当てると、多くの国民を死なせてしまった。
終戦の時も、軍の指導者として・国の指導者として、時を無駄に使ったのではないか・・・
ならば、責任を取るのが当たり前で、自分の指示で命を亡くした多くの国民が眠る神社に、同じように祀られるのに違和感を感じる。

大切な息子を失い、生きる張りを失った親しいおばあさんがいた。
A級戦犯が合祀されてから、「もうあそこには参らない。息子を戦場に送った人に手を合わしたくない。骨も帰ってきてないけど、ちゃんとした墓地があるからいい」と憤慨していた。
親になり、そのおばあさんの気持ちが僕にもわかるようになった。
天皇陛下もあれ以降参らなくなった。
僕は天皇陛下の考えに共感します。

朱色に塗られた鐘楼が目立っている。
20180106MinatoS0098s.jpg 鐘の彫刻には天女が舞う姿。
20180106MinatoS0095s.jpg 横には「十方講」と刻まれた玉垣に囲まれた大きめの不動明王像が立っており、その前には護摩行が行われた跡・・・修験道寺院なのかな?

20180106MinatoS0101s.jpg 目指す「平業盛の塚」がありました。
『一ノ谷の戦いで、業盛は兄と共に山ノ手の陣を守っていましたが、義経方の多田行綱勢により、味方は大混乱に陥り大敗します。兄や郎党らにはぐれた業盛は、緋縅(ひおどし)の鎧を着て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬に乗り、海上の船に向かって逃れる途中、ただ一騎で渚に佇んでいたところに常陸国(茨城県)の住人泥屋(ひじや)四郎吉安・五郎の兄弟が、業盛めがけて突進してきました。
兄の泥屋(土屋)四郎に組みかかられ、馬から落ちて上になり下になりして激しくもみ合ううちに、古井戸に落ちてしまい、上になった業盛が四郎の首を?こうとした時、弟の五郎が現れ兄を討たせまいと業盛の兜のしころにとりついて引き離そうとします。
17才とはいえ、大力の業盛が頭を力一杯ふると、甲の緒が切れ五郎は甲を持ったまま二ひろ(3・6m)も投げ飛ばされてしまいました。しかし五郎はこれにひるまず、すぐに起き上がり業盛の首を取り、兄を井戸から引き上げました。
業盛の怪力に人々は感心し、その死を惜しまぬ者はいませんでした』

20180106MinatoS0108s.jpg 南下して中山手通を西進し、13:38「長田神社」。
神戸三大神社の1つです。
あとの2つは「生田神社」「湊川神社」。
久々に長田神社に来ました。

境内に入り目に飛び込んできたのは、高校生ぐらいの若い女の子3人が私服でコマ回しと皿まわしをやっていたことです。
コマを高く放り投げ紐でそれをキャッチする、細く長い竹先で皿をクルクル回すなどお正月のTV番組でよく見る芸です。
芸人の卵なのかな?
いずれにしても新年らしくお目出度い。

絵馬殿を覗き、本殿に向かい神門を潜ります。
左右の神門柱に札が下がっています。
20180106MinatoS0117s.jpg 「八日 成人の日 祈願祭」「七日 昭和天皇遥拝式」。
先の天皇を遥拝する式典があることに驚きました。
日本が初めて敗戦し大きな犠牲を払った先の大戦の時の天皇なので、遥拝する方も多いだろう。
昭和天皇のご聖断により、大東亜戦争は終結した。
分裂していた内閣で、このご聖断がなければ、さらに戦争が長引き、本土決戦によりさらに多くの日米両軍の犠牲者が出ただろう。
湾岸戦争後、内戦状態が今でも続いているイラクのようにならずに、日本人としての誇りを何とか保ち、その後の高度成長を経て短期間に一流国に戻したのは、昭和天皇の功績も大きいと思う。

きっと100年後も1000年後も、歴史に大きな名を残し日本史試験の必須記憶天皇になるだろう。
御神徳は多く、百貨店のように書かれている。
今年の僕のお願いは何と言っても4人目の孫の健康とお嫁さんの安産です。
「安産腹帯」というのも書かれていました。

拝殿で手を合わせ、摂社を巡ります。
七福神周りには笹が地面から立ってる。
「熊野神社」と同じ「えべっさんバージョン」です。

20180106MinatoS0127s.jpg 「楠宮稲荷」は朱がいっぱい。
ここの鳥居にも笹が縄でいわえてある。
絵馬掛けで書かれた願い事を読むのが面白い。

『楠宮稲荷社の神木と赤エイの由来 御神木「楠」は瀬戸内に生息する赤エイが苅藻川を遡り化身したと伝えられ、以来常食であった美味な赤エイを断って願を掛けると願いが適うと信仰されている。古来、病気平癒、心願成就のあらたかな霊験の中でも特に痔病に格別のお蔭があり、広く崇敬されている。御新顛には赤エイの絵馬に性別・千支・年齢を書いてお供えし、お礼詣リにも絵馬を奉納下さい』

まさか「痔疾に効く」が出て来るとは思いませんでした。
20180106MinatoS0133s.jpg 本殿を巡る感じで回廊があり、絵馬掛けがありました。
20180106MinatoS0134s.jpg 絵馬は赤エイで、年齢と名前が書かれた絵馬がずらりと掛けられていました。
「この方は痔でお悩みだったのか・・・」なんて思っちゃいました。
商売繁盛・収穫の神様であるお稲荷さんも、病気治療にまで進出して来たんだ。

長田神社本殿裏の絵馬掛けには、一般的な五角形絵馬と奴凧型の合格絵馬が下がっていました。
「天照皇大御神神社」があり、おみくじ掛けには沢山のおみくじが・・・。
「月読社」「松尾社」。

20180106MinatoS0152s.jpg 14:06「柳原蛭子神社」。
『福の神として、古くから崇敬されている蛭子神社(神戸柳原のえべっさん)は、人口150万人の神戸市の中で、歴史と伝統のある兵庫の地に、えびすの杜として鎮座しています。その御鎮座の年代は詳らかではありませんが、社記によりますと、往古、蛭子命天磐櫞船に乗りて淡海島より津国に遷座し、一社が創建されました。
その昔、毎年8月22日には、西宮神社の兵庫までの神幸の渡御が行われました。
往路は、海上20kmを兵庫津和田岬まで渡御され、還幸は陸路西宮内町を通って西宮へ還られました。当時の社地は西宮内町にあり、神輿の行在所となっていました。後に現在の柳原の地に遷座し一社として創建され、光格天皇の御代には奉幣御勅使の代参もあり、その御神徳は日増しに高く、福徳守護の神として、御神威年と共に津々浦々に拡がっています。
御祭神:蛭子大神・大物主大神
柳原の歴史 兵庫津が史上に現れたのは、平清盛の大輪田修築の頃と思われます。
その兵庫津は、元録地図によると東は湊町から須佐・入江に達し、都賀の堤(兵庫の外郭)で一郭をなしていました。その兵庫の西の端にある柳原の名は、往古この地に柳の大樹があり、その名が由来とされています。また、現在の御本殿裏附近に柳原総門があり、それは、兵庫の棒鼻として兵庫津の西国往還の出入り口、宿場として繁栄しました。そして、天明7年頃(1788)、柳原には72軒の戸数があり、その繁栄は明治維新まで続きました。
現今の神戸の中心地は、三宮界隈に集中していますが、神戸発生の地である兵庫は、明治以後急速に発展し、大正を経て昭和20年頃までは、商工の中心地として大いに繁栄しました』

1/9~10の年3日で1年間稼ぐと言われる蛭子神社は、本番に備えて電気の配線工事を業者が入ってしていました。20180106MinatoS0163s.jpg 
社務所には「福笹3000円」と書かれていました。
20180106MinatoS0162s.jpg 「お神酒拝裁所 神饌初穂料(お志1000円より)」の屋台も準備されており、その前に空の大樽が置いてありました。


1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 平野神社~願成寺~牧野富太郎植物研究所跡

神戸界隈の平清盛ゆかりの地巡りの積み残しを巡りました。
今まで3回バイクで巡りましたが、浮気心が出て予定外の訪問を入れた結果時間切れ積み残しが続いていました。
今回こそコンプリートしましょう。

11:13自宅出発。
R171~山手幹線を西進し、12:00「新神戸駅」近くの「布引交差点」。
20180106MinatoS0002s.jpg 「神戸布引ロープウェイ」が再度山の方に登っています。
20180106MinatoS0003s.jpg 特徴的な外観で遠くからでも新神戸駅のランドマークになる「ANAクラウンプラザ神戸ホテル」が見えます。
素敵なスッキリした天をつくデザインです。

生田川を隔てて対岸に超高層マンションが建っています。
20180106MinatoS0004s.jpg 「ジークレフ新神戸タワー」だそうです。
高所が怖い僕にはとても住めないが、景色は最高でしょう。
20180106MinatoS0006s.jpg 十字架を持った高い塔があるキリスト教会もある。
生田川公園でトイレを拝借しました。

道なりに「神戸駅」方面に南下し、加納町交差点を右折して中山手通を西進。
右折して山の手を上がっていくと、「相楽園」の西塀に沿う道でした。
久しぶりなので相楽園に寄り道しようかとの誘惑が頭を過りましたが、誘惑に勝って北に上り、どん詰まりを左折して「山麓線」を西進します。

R428を「平野交差点」で横切り、ちょっと迷ったけど「夢野町2交差点」を右折し、12:28「熊野神社」。
『平清盛が福原(神戸市)遷都に際し、後白河法皇の崇敬深い紀州熊野権現を皇城鎮護神として東向きに奉鎮した。以来当夢野町住民は産土神として崇敬した。権現とは、仏教渡来以来、崇高かつ御神徳の高い神々の称号。 祭神:伊弉諾尊・伊弉冉命 神徳:事業創設・殖産興業・縁結び・福徳延命 燈籠:仏教伝来とともに、仏前の燃燈供養の具として渡来。神前にみあかしを上げるという自分の真心を献げる具体的表現法。近世は一対で献上されるが、古くは単独で一基奉献されていた 狛(高麗)犬:中国朝鮮より渡来。中国では瑞獣として珍重され、犬というより獅子。魔除けの意味で神社・仏閣の守護に任ずるようになった』

20180106MinatoS0014s.jpg 石畳参道脇におみくじが結ばれた笹が立ち賑やかです。
社務所には十二支の干支守護が並べられていた。
手水は丸い球から流れ出ており珍しい。
慰霊殿の神明鳥居の両足にも竹が結ばれている。
玉垣の内側に「力石」が置かれている。
力自慢の神事でもあるのかな?

摂社の「大神宮社」(祭神:天照座皇大御神)、荒木稲荷大神、金比羅神社(祭神:大物主神)、古殿神社(祭神:額田大中彦命)、牛神社(祭神:豊受姫大神)を巡り、最後に熊野神社に参りました。

南下し、12:48「願成寺」。
『天平年間(729年~749年)、行基が烏原村に観世音を安置し、観音寺と号した。平安後期、衰退していたのを、法然上人の弟子住蓮坊が中興して無量寿仏を安置し、願成寺と称した。住蓮は東大寺の実遍の子で、のち鳥羽上皇の官女、松虫・鈴虫を尼にした、世に有名な承元の法難で法然は土佐へ、親鸞は越後へ配流。住連は安楽と共に近江で斬罪に処せられ、弟子たちが住蓮の首をこの寺内に葬ったといわれている。またその首を鳥がくわえて運んできたので、もと上野といったところを鳥原というようになったとも伝えている』

浄土宗寺院で、「信州善光寺分身如来霊場」の石柱が門前に立っていた。
20180106MinatoS0041s.jpg 本殿蟇股には立派な龍の彫刻が施されている。
木鼻の象の彫刻も立派です。
玉眼が入っている。

墓地の奥に「平通盛・小宰相局塔・比翼塚」があった。
平家物語で、涙を誘うシーンの主人公です。
一の谷合戦で、源義経の奇襲により、多勢であった平家軍は混乱に陥り、平清盛の弟教盛の嫡男・通盛は討ち死にしました。

通盛の妻の1人・小宰相は、夫の死を知り屋島へ退却する平家軍の軍船から身を投げてしまった。
その乳母であった呉葉は、2人の菩提をこの寺で弔った。
呉葉の小さな五輪塔も立っていた。

20180106MinatoS0059s.jpg 呉葉の兄・住蓮の墓石・五輪塔が、通盛と並んでいた。
というより、歴代住職の無縫塔の列に、通盛・小宰相の墓石が並んでいるとの表現の方が適切です。

源氏政権が成立し鎌倉時代に入って、後鳥羽上皇が熊野詣中、侍女・松虫と鈴虫が、法然の弟子安楽と住蓮の念仏会に参加し、出家してしまった。
上皇は激怒し、安楽・住蓮は死罪になり、法然は四国に、親鸞は越後に流罪とされた。
松虫・鈴虫の墓石も呉葉とともに歴代住職墓石の並びに残っており、浄土宗の法禍に連座した者達の集合地になっていた。

通盛は、清盛亡き後、清盛の嫡男・重盛も先に亡くなっているので、清盛の弟・経盛とともに平家中枢を担った教盛の嫡男として、源平合戦の主力の将として働いたが、武運は微笑まなかった。
一の谷合戦で通盛はじめ多くの息子を失い教盛は辛かったろう。
平家物語では、男の子の地を湧き躍らせる合戦シーン後、落ちてゆく平家が描写される時、涙を誘うシーンです。

通盛の墓を観に行きたが、これだけ多くの関係者の墓が並んでいるとは思わなかった。
大きな収穫だった。

20180106MinatoS0061s.jpg 『墓石調査にご協力下さい 墓地埋葬に関する法律のに基づき、どなたが祀られているか把握しています。お墓にカードを掛けさせておりますので、カード裏面に庫裏玄関横備え付けのマジックで、お墓を主に祀っている方の住所・氏名・連絡先を記入の上、ポストにお入れ下さい』の札が立っている。
歴史の古い由緒ある寺院なので、江戸時代以前と思われる形式の立派な墓石の多くに、カードが下がったままです。
それなりの申告期間を経て、整理されるような気がする。

20180106MinatoS0064s.jpg 12:59、「善光寺」に向かう途中の「会下山公園」で「牧野富太郎植物研究所跡」と書かれた石柱を見つけ緊急停止。
『会下山館の石柱 植物分類学者・牧野富太郎(1862~1957)がこの場所にあった植物研究所での研究活動のために、神戸滞在中宿にしていた「会下会館」の門柱。会下会館は、牧野を支援していた神戸の富豪・池永孟(いけながはじめ1891~1955)が宿舎として建設したものです。
1995年阪神淡路大震災で被害を受けるまで、会下山町2丁目にありました。地元ゆかりの2人の関係を伝えるため、左側の1本をここ、右側は松本通3丁目の川池公園に設置しました』

『この公園は、牧野富太郎植物研究所跡地を公園として整備したものです。この公園には、牧野氏が命名した植物を中心に植栽しています』

20180106MinatoS0069s.jpg 『世界的植物学者・牧野富太郎博士の研究所が、大正7年から昭和16年までこの地にあった。研究所は、南蛮美術収集家として著名な池永孟が提供したものです。
日本植物分類学の先駆者である牧野富太郎は、「ヤマトグサ」をはじめ数々の新種を発見し、独学で研究の結果66才で理学博士、90才で文化功労者となり、昭和32年96才で没した』

『正元館 明治44(1911)年、校舎改築に伴って売却されることになった「兵庫尋常高等小学校」の木造瓦茸西洋風2階建講堂が、池長孟氏の父・通氏の尽力によって当所に移築され、大正元年11月10日に落成開館され「正元館」と名付けられ、通氏はその功績によって名誉館長に任命されたが大正3年に亡くなったため、建物その他一切が孟氏にゆずられた。昭和16年に牧野氏に標本や蔵書を返した後、建物は海軍の軍刀を作る「菊水鍛刀会」にゆずられて利用されたが、戦後建物は取り除かれた。
池永孟氏の牧野富太郎植物学者への援助と「池永植物研究所」設立 世界的な植物分類学者・牧野富太郎(1862~1955)は、研究生活の早い段階から経済的困窮に陥っていた。大正5(1916)年には借金がかさみ折角集めた植物の標本を売却せざるを得なくなった。同年12月18日の大阪朝日新聞に「不遇の学者牧野氏植物標本十万点を売らん」と書かれた。池長氏は牧野氏の境遇に同情し「他人に先鞭をつけられてはならない」とすぐに援助する行動に出た。池長氏が父(池長通)から受けついでいた「正元館」(現牧野公園に在った建物)に植物の標本を引きとり、関西は勿論全国的にも存在しなかった「植物標本陳列所」の設立を企画したが、池長氏の徴兵によって志は残念ながら頓挫した』


1/3・お墓参り

4時前に目を覚ましゴソゴソ。
朝食を取り、風呂に入り、7時過ぎに家を出て我が家のお墓参りに行きます。
車のフロントガラスに雨が落ちてきます。
傘も要らないような雨ですが、AM曇り・PM晴れだったのに。
r12を北上し、北田原マス釣場は賑わっていました。

墓地では雨が上がっていました。
寒いけど日が差して気持ち良い。
墓石を掃除して線香を上げて手を合わせ退散です。
我が家の墓地は広めの9聖地です。
少し広いお墓が並ぶ段にあり、墓石が窮屈に並んでおらず気に入っています。
まだ両親の名前だけですが、墓誌にもスペースが有り、荷物を置く御影石も置いてあります。
孫がこの石を腰掛けのように使います。

r12を南下し大阪平野に戻り、宅急便の集荷・配送センターに、次男のジャケットを持ち込み配送してもらいました。
帰宅して、箱根駅伝の復路を見ると、往路優勝は東洋大で、6区で青山学院が逆転し、現在7区の青山の選手が区間歴代新記録含みの快走をしています。
2位との差を3分に広げ、解説者によると首位がためしたそうです。

自室に上がりごそごそし、11:30になり家内の要望で食べに出ます。
JR中山寺周辺に行き、イタリアンレストランに入りました。
僕はパスタセットで、家内はハンバーグセットです。
パスタセットには「パンorライス」が付きます。
パスタにライスも変だし、パンも変だけどこっちの方がマシだと思いパンにしました。
ラーメンをおかずにライスを食べるようなもので、不思議な感じですが、先にバターを塗ったパンを食べ、後でパスタを頂きました。

スポーツデポでスキー板などを物色し、帰宅しTVを付けると、トップ青山学院が最終10区にタスキを渡したところでした。
青山学院箱根駅伝4連覇達成おめでとう。
箱根駅伝は、泣かせるね。

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今日はセント・バレンタインデーです。
3:30頃目を覚ましたので、1週間前の日曜日に買っておいた「HOLLISTERのニットワンピース」を食卓の家内が腰かける椅子に置いておきました。
されにその1週間前、家内とエキスポシティーの三井のモールに行った時、HOLLISTERのお店を見つけ入りました。
長男のお嫁さんがNYお土産として何度か僕や家内にプレゼントしてくれたアメリカンカジュアルブランドです。

「これどう思う?」とニットワンピースを自分に合わせ、鏡を見ているので「似合うわ~、買ったら」と言ったのですが、結局買いませんでした。
去年9月にアメリカに行った時、お嫁さんが室内着としてニットワンピースを着ており、「いいな」と思ってたそうです。

7時ごろ階下に降り、キッチンで昨夜食べたヨーグルトとジャムを片付けていると、家内から「これ何?」と聞かれました。
しまった、メッセージを置いておこうと思ってたのに忘れてた・・・
「バレンタインデーのプレゼント」「ありがとう」
そのままお風呂に消えていきました。

TV見ながらご飯を食べていると、お風呂から上がった家内がニットワンピースを着て、「どう?」ってクルリと一周回ってくれました。
「あ~いいわ、メチャ似合ってる~」と抱き付きました。
ニットなので感触が柔らかく、体の線にフィットしてるので、ウエストラインがゾクゾクさせます。
女性は素敵な体のラインを持っています。
「あ~ダメ~顔くっつけないで、油が付くから~」って叱られました。

もう少し暖かくなれば、これを着た姿を見せてくれるかな~

1/2・高齢者マンション

12時になったので34Fに上がります。
レストラン前の生け花は毎週変わるようです。
20180102KobeS0097s.jpg 和・洋・麺の3種類のメニューがあり、いずれかを注文するそうです。
姉が「和」で、それ以外「洋」を注文しました。

僕の注文した本日の「洋」は、牛肉の細切り炒め・葱とワカメのスープ・中華風サラダ・パンorライス・フルーツです。
お値段は書いておらずいくらなんだろう。
ウィークデイはハードワークをこなし裕福な姉夫婦は、いつも僕らにお金を出させません。
姉の実家に学業・開業資金を出してもらった恩を忘れない兄です。
このマンションも、男女平均寿命から自分が先に逝った後姉が困らず快適な老後を過ごせるよう買ったようなものです。

20180102KobeS0098s.jpg 素晴らしい景色を愛でながら、みんなでワイワイ。
甥の長男は昨年3月生まれで10ヶ月です。
20180102KobeS0106s.jpg 一昨年7月生まれで1才のすみれちゃんと同じ学年で、甥のお嫁さんは会えるのを楽しみにしていたそうで、少しお喋り出来、歩き意思疎通出来るすみれちゃんに、半年後の我が子の姿を投影しているようです。
20180102KobeS0109s.jpg ここのマンション敷地は、元神戸製鋼工場があった土地で、震災後売却したそうです。
甥のお嫁さんのお父さんは神戸製鋼の役員さんなので、「この土地売却の決済をしたんじゃないの?」とお兄さんに聞かれていました。
20180102KobeS0114s.jpg お嫁さんは、当たり前ですが「さあ~」でした。

12:53、食事を終え最上階にあるカフェに上がりました。
レストランもゆったりでしたが、カフェは天井が高く更にゆったりです。
グランドピアノがあり、棚にはウイスキーのボトルがゆったり並んでいます。
夕方から9時までバーになるそうです。
高齢者マンションなので、夜は早く締まります。
アルコールを口にしない姉夫婦なので、関係ないけど。

13時からカフェタイムです。
更に奥に進むと、大きなガラステーブルのあるシートがあり、西側の大きなガラス窓に向かって4人掛けソファ、南側と北側に1人ソファ、景色を見ながらくつろげる席です。
1人ソファを2席追加してもらい大人8人+ベイビー2人座ります。

コーヒー・紅茶おかわり自由のセットを注文します。
ミニケーキやクロワッサンなど数種類のお菓子と飲み物のセットで800~1000円で、3種類あります。
ここもメニューはこれだけです。
スタッフは、お客さんが裕福なリタイヤ高齢者ということで、心遣い豊かに教育されておりナイスです。

姉がこのマンションで知り合ったご夫婦を見つけ声を掛けます。
お嬢さんがアメリカ・ニュージャージー州で、アメリカ人と整形外科医と結婚して住んでいるようです。
うちの長男がNJ州に住んでいるので声を掛けてくれたようで、いろいろお話をさせて頂きました。

20180102KobeS0120s.jpg 床が毛足の長い絨毯なので、すみれちゃんはケーキを食べた後、歩き回っています。
1時間ほどゆっくり談笑した後、14:25から6Fの共用スペースを案内してもらいます。
20180102KobeS0122s.jpg カラオケルーム・アトリエ・ビリヤード。
20180102KobeS0124s.jpg ビリヤードは3台あり、1台は練習用で、残り2台がレンタル代で、部屋の前の予約表に名前を書けば予約完了です。

20180102KobeS0129s.jpg 食べ物以外は全て管理費充当の無料です。
4~5時の1時間兄が予約しました。
囲碁・毎日上映作品が変わる映画を観れるAVルーム・麻雀・多用途クラブルームなど。

14:39部屋に戻りました。
20180102KobeS0132s.jpg 次男が、すみれちゃんと甥の子・けんとくん両方を左右の膝の上に乗せごきげんです。
甥と次男は1才違いなので、こういうことを遠い昔、僕がした事もありました。

20180102KobeS0143s.jpg 20180102KobeS0147s.jpg 14:52、僕ら夫婦は兄夫婦に5Fフィットネスルーム・プール・大浴場などを案内してもらいました。
部屋に戻ると、「すいません」と次男夫婦が謝っています。
何かこぼしたのかと思ったら、「ボタンを押すのが好きなすみれちゃんが、緊急通報ボタンを押しちゃった」そうです。
慌ててキャンセルボタンを押したそうですが、10秒ほどでスタッフが「どうかしましたか」と訪ねてきてくれたそうです。
お兄さんは、「誰かがやると思った~。ちゃんと駆けつけてくれると分かったから返って良かったよ」と笑っています。

ここで甥一家が帰ることになりました。
お嫁さんの実家に、みんなが集まるようで、今度はそちらに行きます。
みんなで1Fに降り、玄関前Pでバイバイ・・・お嫁さんのお父さんが飲む人のようで、大勢集まるからと、前日に頂いたおみかん1箱と、すみれちゃんが当てた清酒一升瓶2本をプレゼントしました。
「ほんとにいいんですか?」と恐縮しながら持って帰ってくれました。
甥のお嫁さんは、もう長男の嫁が板につき、姉と自然な感じです。
いいお嫁さんです。
我が家にあってもみかんは腐らせるだけだし、清酒はそのままになるだけです・・・ありがたや~

20180102KobeS0155s.jpg 1Fにお茶を飲みに行くことになりました。
テーブルと椅子が置いてある広い部屋で、自販機のコーヒー・紅茶などは無料です。
クリームやシュガーも置いてあり、コップを置いて好きな飲料のボタンを押すと、30秒ほどでコーヒーなどが出てきます。

20180102KobeS0156s.jpg この部屋で、16時まであ~だこ~だ。
僕は1Fパブリックスペースを探検しました。
ダンスホールになりそうなピアノの置いてある広い部屋がありました。

戻ってくると、すみれちゃんが飽きてしまい、うろうろしています。
部屋から外に出て行くので、少し距離を置いてついていきます。
部屋を出て20歩ほど歩いたところで振り返り、僕がいることを確かめたら、また前を向いて歩きはじめました。
ドアの開いている部屋を覗き、曲がり角を曲がってみて、地図が頭に入ったのか、裏玄関まで来て外に出ようとしました。

流石に外に出ると危ないので、抱っこしてUターンさせます。
するとまたスタスタ歩きだし、ちゃんと元の部屋に戻り、ママを見つけるとにっこり笑って早足で突進し、足にまとわりついきました。
20分ほどの大冒険です。

抱っこも言わず、長い距離を1人で歩けました。
安全を確かめたら、自分のしたいことをする意思の強い子のようです。

16時になり、ビリヤード部屋へ。
兄にルールを教えてもらいながら、僕とおで一勝負。
学生時代は好きな奴がいて、誘われるままに何度かやってたけど、それ以来です。

ビギナーズラックで勝利しましたが、2・3回戦は負けました。
僕がミスって兄の得点になる球を数個ポケットに入れてしまいました。
横の台はキャンセルになったようなので、次男とお嫁さん・家内が遊んでいます。
家内とお嫁さんは初ビリヤードのようですが、お嫁さんは筋が良く、いくつもポケットに入れていました。

遊んでいると、兄のビリヤードの師匠が来られ、あ~だこ~だ教えてもらいながら楽しみました。
この方ともこのマンションで知り合い、姉夫婦はこの高齢者マンションの環境を気に入っているようです。
今年から政府の決定で「高齢者マンション入居資格が70才以上」とされたようで、姉夫婦はしばらくこのマンション最年少が続きます。
有馬温泉のマンションには娯楽設備がなかったので、より深く知り合う環境があるようです。
良い選択だったように思います。

僕が、次男が保育士の免許を取ったことを紹介すると、兄姉は驚いていました。
僕もお嫁さんから聞いた時、驚きました。
通信教育と教育実習を受け合格したそうです。
ピアノの実技も試験にあると思い聞いたら、ギターで音楽実技を受けたそうです。

そういえば、僕も20代・30代の頃ユーキャン講座であれやこれやの資格を取りました。
学部を卒業したけどなんだかもの足らず、働きながら専門学校に数年通い国家資格を取り、それでももの足らずユーキャン通信講座であれこれ物色し資格を取りました。
宅建の資格もユーキャンで取りました。

勉強自体嫌いではなく、TV番組でも知識を得られる番組が好きです。
これは母から毎日本の読み聞かせをしてもらった結果だったように思います。
以来本読みが好きで、子供たちにも毎日本を読み聞かせました。

一級建築士の仕事で本社の保育園の設計も担当しているので、保育士になっちゃおうと思ったのでしょう。
我が子が生まれ、子育ての楽しさも、この資格への興味を抱かせたのだと思います。
この2つの資格を持った人って珍しいように思います。
保育園や幼稚園の設計の仕事が増えるといいな。

20180102KobeS0165s.jpg 17時になり部屋に戻り、お暇します。
18:29新神戸発の新幹線に乗って東京に帰ります。
玄関まで送ってもらい、車に乗りバイバイしR2に出たところで家内の電話が鳴りました。
「何か忘れ物?」と思ったらビンゴ!すみれちゃんお気に入りの靴が玄関にあるとのこと。

慌てて戻り、靴を受け取り、2度目の「さようなら」。
またR2に出たところで電話がなりました。
「また忘れ物か?」と思ったら、「九州で新幹線に遅れが出ている」との姉からの情報でした。
R2経由で「新神戸駅」でバイバイ。
楽しかった次男一家の帰省もこれで終了です。

マンションから阪神高速神戸線の渋滞が見えていたので、山手バイパスを西宮まで走り、R171経由で帰宅しました。
家内は実家の片付けを開始し、僕はチャイルドシートを外し片付け、カメラや車の片付けをしました。

僕が終わったので実家に行くと、家内から「見て~、忘れてる~」。
12/29中高の同窓会に出席するために着ていったジャケットが部屋に掛かっています。
家に持って帰り、次男に連絡し、翌日宅急便で送ることになりました。
風呂に入り、20時頃「おやすみ~」。

1/2・氏神様へ初詣

次男一家帰省の最終日です。
前日は弟一家と過ごしましたが、この日は家内の姉夫婦の家で姉家族と時間をともにします。
当初、一番上の姪は長男の中学受験でお休みですが、2番目の姪と甥一家が来る予定でした。
でも姪一家が風邪でダウンしてしまい、不参加です。

姉夫婦は加古川の自宅と有馬温泉の温泉付きマンションを売却し、明石のタワーマンションと神戸の高齢者タワーマンションを購入しました。
お盆は明石の新しい家に招待され、今回は神戸の家に招待です。

姉夫婦は京都の大学の同級生でクラブで知り合いました。
卒業後続いて兄が2つ目の大学に進学し、学生結婚しました。
国立なので学費は年間3万円でしたが、長女が生まれ生活費を稼ぐために姉が働き大車輪の活躍でした。
家内の実家がいろいろ援助し、同じく学生だった僕らはドライブデートで姉夫婦の住む浜松まで家内の母に頼まれ生活物資を車で運びました。

姉夫婦は今でも友達同士の仲の良さで、休日のトレッキングの他に兄の学会にも夫婦で出かけ、ついでに小旅行を楽しんでいます。
そんな家で育った甥と姪は、もちろん夫婦仲が良く、皆楽しそうに子供たちに振り回されながら生活しています。

姉は妹である家内に連絡してくれ、電話での姉妹会話を聞いているととても楽しそうです。
子供がちびだった頃は、2家族で海水浴・スキー・梨狩りなどいろいろ遊んだので、僕らも姉夫婦も相手の子を我が子のように親しんできました。
だから盆正月など集まりやすい時期になると、声を掛け合い親交を深めるようにしています。

いざって時に助け合えるのは、血の濃さであり日頃の親交度合いです。
人生の幅が広がるし、楽しい生活が出来るし、いい事ずくめです。
兄は東京に出ていったお兄さんが法事にも顔を出さない疎遠になっており、妹である家内を僕らが知り合う前からかわいがってくれています。
そんなこんなで、まるで家族の集まりになっています。

11時に神戸の予定なので、その前に氏神様に新年のあいさつをしに行きます。
いつものように4時前に目覚めゴソゴソ。
7時に階下に降り、TV見ながら朝食。
祝日で雨も降らなさそうなので、日の丸を表に掲揚しました。
8時になり箱根駅伝のスタートを観ました。
8:30に次男一家の朝食を家内に言われるまま運びます。

9:17時出発。すみれちゃんは両親と手をつなぎごきげんです。
飛行機が飛ぶと、「お~お~」と指を指しますが、すぐに親の手を求めています。
9:27、すみれちゃんの歩むスピードに付き合ったので10分もかかり氏神様「臂岡天満宮」の到着。
ここは菅原道真公が大宰府に流された時、上陸して肘をついて休憩した地です。

20180102KobeS0073s.jpg 『延喜年間(901~923)創建。通称「いもじの天神」。「いもじ」の地名は、中世に各地を移動し武士や民衆に金物を供給したり、寺の鐘を鋳造したりした職人集団である「鋳物師」に由来する。
祭神は道真公ほか。道真公は、醍醐天皇に左遷され、筑紫に行く道中で北村の「いもじ」に立ち寄り、あられ茶を飲みながら肘を枕に休まれたので、この丘が肘岡と呼ばれるようになった。
後に建立された社を臂岡天満宮と名付けた。道真公の出立に当たって、村の男衆が大きなおむすびをたくさん作って差し出し、道中の無事を祈ったから、現在でも祭りの折にはおむすびを供え、参拝の人々に配って無病息災を祈っている。 伊丹市教育委員会』

知恵の輪くぐりをして、「すみれちゃんが賢い女性に成長しますように」。
拝殿で手を合わせながら、すみれちゃんに「覚えてる~、初宮参りした所だよ~」とお嫁さんが声を掛けていました。
このお嫁さん、とても気持ちが良く、夫婦仲の良い家庭で育った育ちの良さを感じます。
結婚前に親御さんに挨拶に行った時、ご両親の仲の良さを感じました。
妹さんも、出勤を遅らせて話が出来ました。
夫婦仲が良いと、家族仲が良く、気持ちの良い家庭で育った子は、同じような環境で育った子が好きになり、家庭を持っても同じような家庭になります。
我が家はお嫁さんたちに恵まれています。

僕が子供の頃、拝殿を新築した時寄付した父の石玉垣を挟んで次男一家に並んでもらい記念写真をパチリ。
両親にひ孫の成長を見せます。
僕の石玉垣も離れた所にあるのですが、そちらはパスです。
次男達は「破魔矢」を授かっていました。

帰宅後、僕は車でGSへ行き、10:01ガソリン補給します。
家内に言われ、庭のゆずをはしごに乗って収穫します。
埼玉のお嫁さんの実家に帰るので、柚子風呂にでも使ってもらおう。
姉夫婦と甥一家にも。
各家庭5個ずつです。

作業していると、次男達が荷物の用意が出来たようで実家から出てきて車に乗り込んでいます。
10時に出発。
ネットで渋滞予想を見ていたので、いつものR171~阪神高速神戸線をパスし、r13で南下し、阪神高速湾岸線「尼崎東海岸IC」から高速道路へ。
5号湾岸線を西進し、住吉浜ICで下車し、11:06マンション到着。
12月に平清盛縁の地巡りした時立ち寄って2回目です。

マンション到着直前、助手席の家内に姉に電話してもらい、駐車場所の指示を受ける。
このマンションは住民の車は2~5Fの駐車場に置き、来客者は1F玄関前と裏玄関前に駐車するようになっているそうです。
玄関前エントリーに車を入れると、姉と兄がいます。
Pを見ると甥一家が車から出てきた所です。
新年の挨拶をして、前日妹の姉夫婦からもらったみかんを要らんか?と聞く。
少し持って上がることになり、少し減って良かった。
1箱なんて僕ら夫婦では食べきれません。

ロビーに入り、外来者は代表者名と人数を記入します。
火災など何かあった時に全員お安否を確かめるためだそうです。
人数分番号カードをもらい、衣服に付けておくそうです。

20180102KobeS0083s.jpg 1F図書室前を通りエレベーターへ。
7Fに部屋がありました。
南と西が見える日当たりが良く暖かな部屋でした。
姉夫婦は土曜の夜来て、トレッキングなどを楽しみ、日曜夜に明石に帰る生活をしているので、家具は最小限にしているそうです。

20180102KobeS0088s.jpg 「僕らの終の住処として買ったんだ」と兄が説明してくれました。
有馬温泉をそのつもりにしたんだけど、兄は疲労がたまると腰に来るので、最後は車椅子生活を予想しています。
医療面や子供たちが来やすいことを考え、寒い北六甲から買い物など生活しやすく、医療面が整っている高齢者マンションに変更したようです。

各部屋には倒れても手の届く高さに「緊急」と書かれたボタンがあります。
その上に「取消」ボタンが有り、掃除中などで誤って押した時でもキャンセルできるようになっています。
お風呂にも付いていました。
1Fに医療機関があり、交差点を隔てた所にヘリポートを備えた赤十字総合病院があります。

20180102KobeS0095s.jpg おみかんを食べながら、皆であ~だこ~だお喋り.。
甥の子とお嫁さんが2回目のインフルエンザ予防接種するということで、問診票に記入しています。
次男は会社で予防接種を受けていますがお嫁さんはまだということで、甥のお嫁さんが「じゃあ私の2回目の分をどうぞ」と譲ってくれました。
お嫁さんも問診票に記入し、予防注射してもらいました。
「おいくらですか?」「そんなんええよ」、タダで予防注射してもらいました・・・ラッキー

1/1・泉州/久米田寺~日根神社

10:30「久米田寺」。
現在も塔頭が3院健在のかつての大寺院です。
奈良時代、僧行基が造った大阪府内最大の溜池「久米田池」に隣接しています。

20180101MikoS0025s.jpg 梵鐘があったので、すみれちゃんは人生初の「鐘撞き」に挑戦です。
次男が抱っこして、すみれちゃんに紐をもたせゴーン!何かわからずでいたが、鐘の音が気に入ったのか、すみれちゃんは満面の笑みです。
「もう一度」したそうだったので、再びゴーン!

次の方が並んだので梵鐘台から降ります。
地面に降ろすとクルリと向きを変え、梵鐘の方へ歩いていきます。
仕方なく、またゴーン!
もっと笑顔に成り笑い声も出します。
4度目のゴーン!
後ろに並ぶ方はいませんでしたが、エンドレスになりそうで、次男とともに降ります。

20180101MikoS0026s.jpg まだ撞きたそうでごね始めたのを見て、弟がくじ引きチケットを出して、「ガラガラしに行こう」と誘ってくれました。
次は「初めての福引き」に挑戦です。
5回ガラガラを回し、ハズレのゴミ袋3つと一升瓶清酒2本が当たりました。

弟夫婦が驚いています。
ビギナーズラックとは言え、前日の初おみくじが大吉だったし、「持ってます」。
くじ引きの説明を読むと、「寄付1000円で1回」と書いてあり、新年に当たって5000円寄付したようです。

20180101MikoS0046s.jpg 「久米田池」を見に行きます。
伊丹の地元にも行基が掘ったかつて周囲4kmあった「昆陽池」と言う大きな溜池があり、困った方を助ける布施院が現在の昆陽寺の前身です。
それに匹敵する広さでした。

多宝塔・弘法大師御影堂などがある真言宗の寺院で、お正月らしく参拝客が多く来られていました。
テキ屋さんも境内にでており、賑やかです。
前日の下鴨神社参道もそうですが、テキ屋が出ていると祭りの雰囲気があり、とても好きです。
暴力団との関係などで、テキ屋を締め出す風潮が一部にありますが、総じて寺社の賑わいを落としています。

『行基49院の1つで、聖武天皇の勅願により橘諸兄を大檀越として行基菩薩によって、天平10年(738)久米田池の維持管理のため建立した「隆池院」に始まる。
平安時代後期から鎌倉時代にかけ五摂家の九条家の保護下に入ったものの荒廃し、鎌倉幕府の有力者・安藤蓮聖が東大寺僧から別当職を買い取り復興に乗り出した。
西大寺叡尊を導師に招き落成法要が営まれ、真言宗・律宗・華厳宗の寺院として多くの学僧が学び、高僧を輩出した。南北朝時代、足利尊氏・直義兄弟が利生塔を全国で初めて久米田寺に建立し、仏舎利を奉納するなど手厚く保護し、南朝からも保護され繁栄しました。江戸時代以降は真言宗寺院となり現在に至る。星曼荼羅図・仁王経曼荼羅図・安藤蓮聖像・楠家文書・大塔宮令旨・久米田寺文書・
北畠覚空書状は国の重要文化財、境内は大阪府の史跡に指定されている』

妹の実家に挨拶に伺う。
お姉さんとお兄さんがおられました。
すみれちゃんが当てたお酒を渡そうとしましたが飲まないと言うので残念。
反対にみかんを1箱頂きました。
あらら~増えたじゃん。

R26で泉佐野に向かいます。
R170~r30~r247~r248で「日根神社」。
ナビで「到着しました」となりましたが、「慈眼院」という寺院が見えるだけです。
駐車場がないので家族を降ろし、Pを探しに車を先に進めます。
すぐに道の横に鳥居が見え、たくさんの参拝客が歩いています。

横の駐車場は満杯で、氏子さんに「先にある農地に止めて」と言われ進みますがわからず、鳥居が見える住宅地のアプローチ道に停めて皆の帰りを待つことにしました。
次男にその旨電話すると、参拝に長い列が出来ているようで家内が並び、安産御守を3人で授かりに行ってるそうです。

20180101MikoT0833s.jpg 長男のお嫁さんが3人目を妊娠し、次男お嫁さんの妹さんが初妊娠し、ともに6月出産です。
そんなこんなで、前日は京都永観堂に先祖挨拶に伺い、下鴨神社・河合神社、そしてここ日根神社と安産にご利益のある神社を巡りました。

20180101MikoT0837s.jpg 『日根神社本殿 日根神社の創建は不明ですが、元正天皇・霊亀2年(716)に制定された和泉五社に数えられ、延喜式内社日根郡十座に列している。現在の本殿は、天正年間兵火に焼失したものを豊臣秀頼が再建したもの。向拝・縁側廻りに修理部が認められるが、細部の手法良く桃山時代の特徴を表し、斗きょうなど見るべきものがある。社殿としては比較的大きく堂々とし、雄大な風格を示している』

弟夫婦は、先に昼食するお店に向かいました。
12:30安産御守を授かり御参りを済ませ戻ってきたみんなを乗せ、僕らも店に向かいます。
予約時間は13:30で、ナビを見ると30分以上早く着くようです。

r248~r247~r30~R170~R26~12:56「がんこ泉大津店」到着。
「お屋敷岸和田五風荘」に行きたかったのですが、残念ながら予約できませんでした。弟一家の地元なので、適当なお店を探してもらいましたが、結局「がんこ泉大津店」になりました。

20180101MikoS0052s.jpg 早く着きすぎたので少々待ちましたが、15分ほど前に用意でき個室に通されました。
3000円ほどの「新春特別御膳」を弟夫婦が注文してくれていました。
いつも僕がプロデュースしてるのですが、今回は弟の地元なので任せました。

20180101MikoS0053s.jpg 主役のすみれちゃんを中心にワイワイ話しながら食事を楽しみます。
姪は巫女さんバイト中で、京都で下宿している大学2年の甥は、京都で車の免許教習中でこの冬休みは帰ってきません。
食事が終わり、注文したデザートを待つタイミングで家内が精算しに行くと、既に精算済とのことで驚いて帰ってきました。
「精算してくれたの?悪いわ~」
「いいえ、結婚してから20年ずっとお兄さんたちの甘えてばかりでしたから、ここは私達の地元ですし・・・」ということで、「ごちそうさま」させて頂きました。

15:30に店を出て解散。
弟夫婦に見送られ帰路に着きます。
僕らは前日京都で買ったお土産を渡しましたが、おみかん1箱とその他あれこれ頂きました。
すみれちゃんはお年玉と鈴腕輪の他にアンパンマン・ダンシングボールをいただきました。
僕らと次男夫婦からお年玉を甥と姪用に言付けたけど、弟夫婦からアメリカにいる長男の子2人にもお年玉を頂きました。
ちびさん達は資産家になっていきます。

R26~堺泉北有料道路・綾園IC~阪神高速湾岸線に乗り、尼崎末広ICで下車し、r192~r142で帰宅。
すみれちゃんが車に乗るとすぐ寝ちゃったので、そのままお昼寝タイムにして、18:30近所のうどん屋「のらや」に行きます。
座敷で元気いっぱいに復活したすみれちゃんが歩き回り、楽しい夕食時間になりました。
ここでも「今回は私達が・・・」とお嫁さんが精算し、また「ごちそうさま」になっちゃいました。
帰省中はみな家内か僕が精算しますが、いつも最後の食事だけ奢ってくれます。
帰宅し、風呂に入り20時頃「おやすみ~」。


1/1・泉州/夜疑神社~久米田寺

弟の娘・高1が地元・岸和田の神社で巫女さんをするので、みんなで晴れ姿を見に行きます。
その後弟一家と昼食をします。
半年前のお盆から成長したすみれちゃんを見てもらうのも目的です。

僕は長男なので、いつも我が家の正月の予定を弟達に知らせています。
2家族ともお墓参りを正月するのが恒例なので、できれば予定日を合わせ、昼ごはんを食べたり、実家で楽しい時間を過ごしたりしようという魂胆です。
従兄弟同士の交流は、親が作ってあげないとね。

僕は両親とも北関東で、従兄弟や親戚との交流が盆正月の帰省時だけで、法事などで会えなかったから、本家従兄弟以外の北関東に散らばってる従兄弟達となんとなく距離を感じていました。
盆正月に会った時、北関東の従兄弟たちの仲の良さが羨ましかった。
我が子には、もっと親しくなって欲しくて、弟一家と家内の姉一家との交流を持つようにしていました。

4時前に目を覚ましゴソゴソして、7時に階下に降り、朝食を取りました。
家内と「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」。
朝のお勤めをしてTVを付けると、NHKで「2時間で巡る伊勢神宮」と言う正月らしい番組をしていました。

8:36に出発し、コンビニで次男達が朝食を買います。
すみれちゃんの用意などで遅れ、朝食が食べられませんでした。
次男に義理妹に「出発したよ」と電話してもらいました。

「神社の道路を隔てた前にある「マツゲン」と言うスーパーの駐車場に入れるよう」言われました。
R171~阪神高速空港線~環状線~湾岸線「岸和田北IC」下車し、r40で9:27「夜疑(やぎ)神社」。
ナビで案内する最後の道が細くてスルーし、新たに誘導する道から行こうと右折ウインカーを出しながら信号で止まっていると、助手席の家内から「あ、・・さん(弟)だ」と。
反対車線に止まっていた先頭車両から弟が降りて「Uターン」と叫んでいます。

Uターンして、走る弟についていくと「スーパー松源」がありました。
そこに車を入れ、弟夫婦に新年の挨拶をします。
姪が作ったという鈴の付いた腕輪とアンパンマンの柔らかボールをもらいました。
アンパンマンボールは電池を入れると、音楽に合わせ踊るそうです。
腕輪は手に持って振ると鈴が鳴るもので、すみれちゃんはとても気に入っていました。
アンパンマンはちょうどマイブームで、TVでこれが始まると釘付けだそうです。
あと「NHKおかあさんといっしょ」にも釘付けになり、これが始まると炊事がはかどるのだそうです。
家内と次男から、姪と甥にお年玉を。

歩いて9:46「夜疑神社」へ。
我が家の氏神様と同じような規模の神社でした。
20180101MikoS0003s.jpg 神札・御守授与所に並んでいる巫女さんに姪の姿を探すがいません。
弟が「神楽舞をしているのかも?」と、社殿内入口に行くと、外から神楽舞が見れます。

そこに姪がいました。
巫女さんは6名で、2名が舞っています。
舞が終わり僕らの番です。
妹がチケットを渡し、僕らを含めた20名ほどが部屋の席に着きます。
ちょうど姪が舞う番で立ち上がります。

神楽舞が始まり、それを終えると私たちに頭を垂れるように言い、御幣で穢れを払ってくれました。
姪はいつもニコニコしていますが、ここではすましています。
社殿内の神事なので写真もビデオも撮れなかったのが残念です。
社殿を出てからそのことを話していると、家内が社殿前に戻り手招きしています。

すると姪が出てきてくれました。
すみれちゃんを抱っこし記念写真。
弟夫婦と姪の家族写真も撮ります。
巫女さんに抱かれ、すみれちゃんの記念になりました。

御守授け所に入り、一番美人さんの巫女さんから「交通安全ステッカー御守」を授かりました。
初穂料は500円です。
巫女さんは年齢制限がある未婚女子なので、期間限定でしかなれません。
姪は良い記念になりました。

「高校生になったので、ないかバイトをしたい」と言ってたそうで、友達の紹介で巫女さんになりました。
舞の練習に神社に通ったそうです。
弟によると、自宅前を通る「町内所有だんじり」は、久米寺から夜疑神社がコースらしく、祭りの時や盆正月には寄付しているようです。
それで神楽舞チケットをもらってたそうです。

姪のお父さんは、町内だんじり保存・運営の責任者をしていました。
弟はお嫁さん実家が購入した隣の家を解体新築し住んでいます。
実家には姪のお姉さん一家が住んでいます。
初めご両親が住んでいましたが、お父さんが亡くなり、近所に住んでいたお姉さん一家が帰ってきて、お母さんは弟一家と住むようになりました。

摂社のお稲荷さんなど境内を見て回ります。
拝殿横には「教育勅語」が自由にお取り下さいとなっていたので頂きました。

僕が「久米寺に行きたい」とリクエストし、車に戻り2台で走ります。
弟はお嫁さんの運転する軽四です。
弟が乗ってる車のトランスミッションが壊れ、修理に40万掛かるということで、車を買い換えるべく物色中だそうです。

r40~R26を走り、10:25弟の家の前。
妹の実家は商売をしているので、車5台ほど停められる駐車場を持っています。
そこに入れさせてもらいました。
弟の家を見上げながら、次男は「僕と一緒だ」と言っています。
次男は今月、お嫁さんの実家に引っ越し親御さん夫婦と一緒に暮らします。

お嫁さんは姉妹の姉で兄弟に男の子がいません。
妹さんが去年嫁いだので、お嫁さんのお父さんから「一緒に住まないか」と誘われていました。
お嫁さんは次男に嫁いだのだから出戻るようで乗り気ではありませんでしたが、お父さんは次男を気に入ってくれています。
お父さん自身、お母さんの実家が持つ土地に家を建てて住んでおり、すぐ近所に住むご両親と毎日のように行き来しながら生活してきたので、次男を仲間だと思ったのかもしれません。

増築ではなく、内部改装で2世帯住宅に改装したそうです。
次男は建築士なので、内装改装は全て次男が設計したそうです。
12月に改装成り、引っ越しを始めたのですが頑張りすぎてお父さんは肩の筋を切ってしまい、春に手術するそうです。
芝生や垣根の手入れは次男の仕事になり、僕が使ってる電動草刈機・電動刈払機の便利さを伝授しました。

歩いて「久米田寺」に向かいます。
20180101MikoS0003s.jpg 「光明塚古墳」というのがあり、「これ古墳だよね」と聞くと、「これ光明皇后のお墓なんだ」と弟から。
光明皇后は奈良時代の「聖武天皇」の后です。
東大寺大仏建立など、夫婦で奈良時代の朝廷政治基盤を整えたランドマーク的な天皇皇后です。

「光明皇后はこの地で生まれたそうなんだ」と弟から。
光明皇后は、聖武天皇稜の隣に葬られており、奈良のその陵を見に行ったこともありますが、皇后の陵が生まれた地に造られる例も多く、こちらが本物かもしれません。
この周辺には古墳が多く、すぐ隣には橘諸兄が埋葬された「貝吹山古墳」があります。

光明皇后は橘諸兄の妹で、聖武天皇時代の国政は橘諸兄が仕切っていました。
まさにこの兄弟が力を持っていました。
この地は、織田信長が畿内に進出してくる前、四国阿波勢力・三好氏や畠山・六角などの勢力が室町幕府の実権を握るため勢力争いした地でもあり、有名な「久米田の戦い」の古戦場でもあります。


12/31・京都/下賀茂神社

白川通を北上~丸太町通を西進~東大路通を北上~今出川通を西進~河原町通を北上し賀茂川を渡り、下鴨本通を北上し、11:37下鴨神社P。

20171231EikanS0109s.jpg 牛車は大炊殿横のいつもの所に置かれていました。
きっとこの神社のお祭「葵祭」の時に使われるのでしょう。

下鴨神社は、「玉依姫命」を祀っており、女性の参拝客が多いパワースポットです。
御守のデザインが豊富で、お授け所では女性が並んでいます。
葵祭の主役「斎王代」は京都生まれの独身女性で、費用数千万円を負担できる家から選ばれる超セレブです。

玉依姫は、天孫降臨した天照大神の孫ニニギ尊の妻「木花咲耶姫」が産んだ子「山幸彦」が、海底の龍宮城で見初めた豊玉姫の妹です。
豊玉姫が身ごもり、陸地に産屋を建て出産するが、「決して見てはならない」の約束を破って見てしまった山幸彦に腹を立て、我が子を置いて海底に帰ってしまった。
豊玉姫の正体はサメだったのです。

困ってしまった山幸彦を助け、姉の代わりに子育てしたのが玉依姫で、やがて成長した神武天皇の妻になった。
そんなこんなで、厄除け・良縁・安産・子育て・交通安全のご利益があります。
すみれちゃんにも良縁・安産・子育てのご利益がありますように。
男にも女性にも、個人としていろんな幸せがあり、千差万別だから世の中多様性があり、面白いのだと思います。
でも、男には子を産み育てる女性を守る喜び、子を敵から守るがあり、女性は特権として持っている子を生み育てる喜びという生物としての本質的な喜びがある。
弟・長男・次男・長男の長男・長男の次男、僕と血がつながる者として初めて生まれたすみれちゃんは、いろんなことで活躍するだろうが、是非とも子を産み育てる幸せに恵まれて欲しいと思っています。

干支別の摂社が建ち、すみれちゃんにもパチパチさせました。
20171231EikanS0117s.jpg お嫁さん(辰)とすみれちゃん(申)は同じ摂社でした。

御朱印をいただき、「水みくじ」を引きに行きます。
すみれちゃん人生初の御神籤です。
20171231EikanS0124s.jpg 棚から自分で選び、御手洗川に浸けると文字が浮かび上がって来ました。
よく分かっていない本人は、水遊びモードに入っています。
20171231EikanS0127s.jpg さて結果は・・・「大吉!」・・・お~。
良縁など素敵な人生になりそうです。

20171231EikanS0128s.jpg 十二単の顔出しボードなどで写真を楽しみ、境内を出て摂社へ。
縁結びの神様として下鴨神社以上に大人気の「相生社」。
たくさんお女性が参っています。
ここは奮発して100円をすみれちゃんに渡し、上手にガランガランして手を合わすことが出来ました。

20171231EikanS0139s.jpg 朱鳥居手前には、今夜の「初詣」に合わせて炊かれるのだろう薪がたくさん準備されています。
20171231EikanS0143s.jpg 糺の森参道左右には「テキ屋」が並んでいます。
殆どのお店がまだ準備中で、今夜から始まる「初詣」客にターゲットを定めているようです。

「さざれ石」の横を通り過ぎ、「河合社」。
『女性守護 日本一美麗の神 河合神社 鴨長明ゆかりの社「方丈の庵」公開中』
『祭神:玉依姫命 神武天皇の母として日本建国に貢献された。内助の功の功績は、日本婦人の鑑として仰がれている。また全ての女性が一層美しくなりたいと言う願望と安産・育児・縁結びなどを叶えてくださる神として広く知られている。
ご鎮座は古く、神武天皇の頃と伝えられている。本宮の式年遷宮に合わせて造営されてきた。現在の社殿は、延宝7年(1699)式年遷宮の古殿舎を修造したものです。
美人の神様:玉依姫様の美麗により、ご自身のお顔を絵馬に託して奉納し祈願していただきます。末社「任部社」には、サッカーの神様「八咫烏様」が祀られている。昭和6年八咫烏神が日本サッカー協会のシンボルマークになりました。
河合神社と鴨長明:「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という丈で始まる「方丈記」の作者・鴨長明は、当社の禰宜(神職)の家系でした。
年少より和歌に優れ、後鳥羽院に見出され御和歌所の寄人となり宮廷家人として活躍した。「石川や瀬見の小川の清ければ、月も流れをたずねてぞすむ 長明」』

20171231EikanS0148s.jpg 境内に入り、手鏡型の絵馬を求めます。
表は鮮やかに彩色され、裏は眉・目・鼻・口だけ印刷されているだけです。
色鉛筆やマジックが用意されているので、椅子に座り塗り絵します。
20171231EikanS0161s.jpg お嫁さんとすみれちゃんが色を塗ります。
すみれちゃんは線を描けるだけですが、楽しくなって色鉛筆を離さず一心に楽しんでいます。
20171231EikanS0167s.jpg 出来上がったので、絵馬掛けに掛けに行きます。
たくさんの絵馬が並んでいました。

20171231EikanS0173s.jpg 糺の森を戻ります。
神宮寺跡と池跡がありました。
20171231EikanS0178s.jpg 『献木・旧制第三高等学校同窓生』と書かれた木がある。そこに真新しい小さな社殿があります。扁額には「雑太社」(さわたしゃ)と書かれ、ラグビーボール型の絵馬が多数下がっています。『祭神:神魂命(かみたまのみこと) 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 元は鴨社神館御所内の雑太という字地に御所の鎮守社として祀られていた。応仁・文明の乱の兵火で焼かれ文明2年(1470)この地に動座された。明治43年(1910)社前の馬場にて、ご祭神の神「魂」命は「球」に通じるとして、糺の森で日本初のラグビーの練習が第三高等学校と慶應義塾大学生の間で名勝負が展開された。昭和44年、その歴史を後世に伝えるため「第一蹴の地」の聖地として記念碑が建立された』

20171231EikanS0183s.jpg 茶屋があった。「申餅」というお餅が名物のようです。
車に戻ります。
「11:37~13:05下鴨神社西駐車場1:28 600円」。

今宮神社(玉の輿神社)に向かう途中、「くら寿司」があったので昼食にします。
すみれちゃんは寝ちゃったので、次男がおんぶして昼食。
ぐっすり眠っており全く起きません。
安心しきってるね。
お腹いっぱい食べましたが、4人で3700円・・・コストパフォーマンスが良いな。

主役が寝てしまったので、今宮神社は次回にパスし、帰路に着きます。
R1~名神高速~中国道・豊中IC~中央縦貫~R171で帰宅。
次男達はすみれちゃんとともにお昼寝タイム。

18:30になったので、赤白のサンタ衣装に着替えます。
家内に次男たちの様子を見てきてもらうと、すみれちゃんも起きてるとのこと。
GO!玄関で黒い長靴を履きます。
ピンポーン実家のインターホンを鳴らします。
「どなたさまですか?」のお嫁さんの声。
ガチャリと玄関の鍵の開く音と「どうぞ」「誰かな~」の声。
ゆっくり玄関を開けると、すみれちゃんがキョトンとした目で見ています。
でもりょうくんのように怖がりません。

ゆっくり背中に背負った白い袋からプレゼントを出し、すみれちゃんに手渡しします。
「あれれ、すみれちゃんにプレゼントみたいよ」のお嫁さんの声に促され、恐る恐る手を出します。
横で次男がビデオを撮っています。
任務をコンプリート出来たので、バイバイするとすみれちゃんもバイバイしてくれました。

一目散に隣の家に帰宅し、衣装を脱ぎました。
実家の勝手口から入っていくと、すみれちゃんが「きかんしゃやえもん」の絵本をめくっています。
ページを捲りとても気に入っているようです。
お嫁さんの「すみれちゃん、誰にもらったの~」に答え、「お~お~」言いながら玄関の方を指差します。
「そう、良かったね~」と言うと、僕にわからない言葉で説明してくれます。
その間も絵本を離さず、「ちびくろさんぼ三部作」ももらったと教えてくれます。

「可愛いな~」、家内が「年越しそば」作って持ってくる。
美味しくいただきました。
あ~だこ~だ話し、20:30頃退散しました。
風呂に入り、紅白歌合戦見て、21時過ぎにおやすみしました。
ああ、楽しかった。




12/31・京都/永観堂~南禅寺

京都に、家内の実家の先祖のお参りです。
我が家のお墓は1つですが、家内の実家はお墓の他にお寺さんの本山「浄土宗禅林寺永観堂」さんに分骨しています。

僕らも将来分骨しようかと思っているので、次男夫婦にどういうものか、どういう所か知っといてもらわないと・・・と思って。
我が家のお寺さんの本山は、「浄土宗・百万遍知恩寺」です。
そちらでもいいですが、お寺さんに聞くと、知恩院でも他の浄土宗のお寺でも構わないということなので、家内の先祖と一緒に埋葬されると家内が喜ぶかなと思い、永観堂でもいいなと宗旨替えしました。
息子や孫、さらに子孫たちが、僕らのいなくなった時代地球上のどこに住むかわかりませんが、観光地京都に来た時、ついでに立ち寄れる利便性があり、その時同じお寺の方が便利だし、そうやった僕ら夫婦の意思や仲の良さを感じてくれるかもしれません。
まあ、息子たち、特に長男の良いようにしてくれたらいいですが、希望は伝えています。

4時前に目を覚ましゴソゴソし、8時過ぎに出発しました。
R171~中央縦貫~豊中ICより中国道~名神高速「京都南IC」で下車します。
R1を北上し、十条通を東進~河原町通を北上~五条通で鴨川を渡り~川端筋を北上~三条通を東進し、南禅寺に着きました。
ところが駐車場がなく、コイン駐車場が400円/15分と破格のバカ高料金なのでパスしました。

白川通を北に少し上がり「永観堂」の駐車場に入れ、永観堂と南禅寺を参拝することにしました。
9:20永観堂P。
ここは無料ですが、山門をくぐって入るPなので知らない方にはハードルが高く、混んでいたことは一度もありません。
20171231EikanS0010s.jpg 家内はすみれちゃんと手を繋いで歩き、僕は先に入口へ。

拝観料大人600円ですが、我が家は先祖のお参りなので、「お墓参りです」と言えばフリーになります。
いつもノートに寺院名と名前住所を書きます。
一足先に名前を書きに受付に行くと、「お参りですか、どうぞ」とのこと。
「名前など書かなくてもいいのですか?」「前回書いておられるなら、いいです」とフリーパスでした。

すみれちゃんは、前日同様うろうろ気ままに歩き回り、とても可愛い。
20171231EikanS0017s.jpg 9:30講堂に上がります。
お嫁さんはまた御朱印帳を忘れたようで、家内が新たな御朱印帳を買ってプレゼントしていました。
「すいません、御朱印集めが御朱印帳集めになっています」と笑っています。

20171231EikanS0020s.jpg 室内は貴重な襖絵などがあり撮影禁止ですが、庭や勅使門などを写真に収めます。
お正月をお迎えするバージョンになっていますが、観光客は普段の日曜日より少なく、大晦日の京都は穴場かもしれません。
一夜明けたら・・・というよりこの日の夜から激混みになるでしょう。
20171231EikanS0032s.jpg 廊下から見る多宝塔もなかなか良いです。

廊下続きの釈迦堂・御影堂などを巡ります。
家内の両親を分骨する時の素晴らしい法要を思い出します。
車椅子に乗って法主さんが来られ、20人ほどのお坊さんが声を合わせ読経してくれました。
声明の響きに似て、とても良い気持ちになりました。

講堂を出て境内を奥に進みます。
外人さんにすみれちゃんが人気です。
よちよち歩き、手を振られると振り返すので、皆さんニコニコです。
幼児の可愛らしさは、世界共通ですね。

勅使門前を過ぎ、多宝塔を見上げ、永観堂幼稚園を経て石段を上り、本尊「見返り阿弥陀像」の安置されている本堂「阿弥陀堂」前、更に奥に進み墓地の下の納骨堂へ。
20171231EikanS0049s.jpg チンして手を合わせます。
お嫁さんとすみれちゃんのお披露目です。
境内は、「モミジの永観堂」として有名で、紅葉シーズンは大盛況です。
でもこの納骨堂がイマイチ貧弱で、家内はいつも「建て替えてくれたらいいのに~」と言います。
「いずれ建て替えるんじゃないの?」と僕はいつもの答えを・・・

20171231EikanS0053s.jpg 池を渡る橋の上で、すみれちゃんは鯉と鴨を見つけ欄干から動かなくなりました。
興味深いのか親が「行こう」と声を掛けても動きません。
20171231EikanS0057s.jpg やっと動き出しても、砂利を拾って僕の手のひらに載せるのを何度も繰り返します。
これもまた面白いようで、動きません。

駐車場に戻り、僕が南禅寺前で車に乗って待つことにして南禅寺へ。
南禅寺前ですみれちゃんがバナナを食べ終わるのを待ちます。
手で持って1本食べちゃいました。
乗用車5台ほどのスペースが有る「南禅寺第1駐車場」に運良く停められました。
10:45「三門」、大泥棒・石川五右衛門が「絶景かな」という名セリフを残した場所です。

20171231EikanS0063s.jpg 『伊勢伊賀領主「藤堂高虎」が大阪夏の陣で戦没した藩士の霊を弔うため。寛永5年(1628)建立寄進した。楼上には宝冠釈迦如来坐像を本尊に、脇に月蓋長者・善財童子、左右に十六羅漢を配置、本光国師・徳川家康公・藤堂高虎公の木造を中心として一門の重臣の位牌、戦没藩士の位牌が安置されており、毎年法要が行われています』
山門の拝観は、年末なのでお休みのようです。

三門をくぐると法堂があります。
20171231EikanS0074s.jpg 龍の天井絵が睨んでいます。
20171231EikanS0079s.jpg 続いて水路閣。
こちらの方が観光客が多く人気です。
僕も次男が就職し、家内に「子育てご苦労様」の区切りとしてメッセージを刻んだ「クリスタルりんご」を、ここでサプライズ・プレゼントしました。
「ちょっとここに立って」とリュックからクリスタルリンゴを取り出し、「長い間ご苦労様。これからも宜しく」と手渡すと、すごく驚いて、そして感激の涙を流してくれました。

20171231EikanS0085s.jpg 僕はプレゼントされるより、する方が好きです。
される方はその時だけだけど、する方はその日に向けてプレゼントを考え、渡すタイミングやシチュエーションなどいろんなことを考え実行し、長く楽しめるから。

御朱印を貰おうと思いましたが、三門同様12/28~12/31までお休みでした。
『臨済宗南禅寺派大本山で、西応4年(1291)亀山法皇の離宮の地を賜り、無関普門(大明国師)規庵祖円(南院国師)によって創建された。以来歴朝の勅願所として、中世五山最高位に列せられ天下の尊崇を得た。勅使門・三門は重要文化財で、大方丈(清涼殿)小方丈は国宝指定され、内部襖絵の多くは、重文指定されている。方丈前庭は小堀遠州作「虎の子渡し」といい、代表的な枯山水庭園として有名である』

駐車場は無料でした。
お休み期間だからかもしれません。


12/30・須磨水族館

次男一家と須磨水族園に行きました。
朝4時に起きゴソゴソ、9:40出発しました。

昨日お盆以来久しぶりのすみれちゃんは、初め人見知りで僕に警戒していました。
お盆の時は30分ぐらいで慣れてくれたので期待しながら運転します。
R171~西宮から阪神高速で西進。
神戸まで混んでいました。
神戸「京橋IC」を過ぎ「若宮IC」までは快調に走れました。

須磨水族園の前を通過し、R2をUターンして須磨ヨットハーバーPに車を入れます。
須磨水族園Pがあるのですが、「初めの1時間400円・以降1時間200円」です。
昼食も含めのんびりすると思うので、上限600円のYHのPの方が得だと思いました。

11:02「須磨水族園」に入場します。
大人1300円で、2・3・4人券が自販機で購入でき、一気に複数人数買えるので便利でした。
入館後すぐに次男がベビーカーを借りに行きます。
最近は貸してくれる施設が多いので楽ですね。
有料200円のイルカ・アザラシタッチとペンギン餌やり体験があったので、アザラシタッチ券を買いました。

20171230SumaT0501s.jpg すみれちゃんの反応が未知数でしたが、大水槽の大きなお魚(サメ・エイ・・・)に興奮気味で、指差してオーオー言っています。
20171230SumaT0529s.jpg 腰をかがめすみれちゃん視線で声を掛けていると、すぐ僕に慣れてくれました。
ここから歩き回りだし、ベビーカーは必要ありません。
乗せても降ろせと指示し、他の水槽を回っている時も、ベビーカーを押す方が面白いようで、少しの坂を押しながら進みます。
20171230SumaT0533s.jpg 僕がベビーカーの進行方向コントロールをしましたが、押すのはすみれちゃんの力だけで、小さいながらパワーがあります。
20171230SumaT0542s.jpg 水槽に寄り指差したり、それほど混んでいないので自由に歩き回れ助かりました。

20171230SumaT0548s.jpg 本館3Fでは亀にさわれるコーナーが有り、僕が甲羅に触ると真似して指を伸ばし、怖がらず触っていました。
動物園デビューした時も怖がらず餌をやれたそうで、度胸が良いようです。
長男とこの嫡孫君は1・2才時は手を引っ込め、慎重派だったのに。

屋上ではヒトデなどにさわれます。
大きなウミガメに餌をやれるコーナーが有り、僕が100円で餌を買ってやると、次男に教えられ餌やりをしていました。
自分が水面に落とした餌をパクリと食べるのが面白いようで、なくなったらまた買えと、買った所に歩いていきます。
また買ってあげると、それを持ってスタスタ亀コーナーに・・・見ているだけで面白いです。

自分ができたらハイタッチするのがマイブームのようで、パクリと食べたら振り返り、手を開いてタッチを求めて来ます。
次男たちにもタッチを求めごきげんです。

下に降り、暖かなアマゾン館が気持ち良かった。
ペンギン館を見て、12:30からの「アザラシタッチ」に並びます。
20171230SumaT0585s.jpg 次男が付き添ってすみれちゃんがタッチし、お嫁さんが写真に収めていました。

遊園地プレイランド横の売店で、焼きそば・カレー・ポテトなどを買い、テント下のテーブルでお昼ごはんにしました。
すみれちゃんは持参のパンと焼きそばをパクパク食べていました。

歩きたそうなので、僕が特急でカレーを食べ付き添いました。
椅子から下ろすと、ご機嫌で歩き回ります。

アンパンマンが好きなようで、アンパンマンのポップコーン自販機が気になります。
年齢が少し上のお友達がポップコーンを取り出すのに興味津々です。
その子がポップコーンを食べながら一部を鳩に上げています。
鳩が集まってきたので、オーオー指差しながら追いかけています。
プリクラ自販機のカーテンが面白く、僕がバーとしてやると笑っています。

「イルカショー」の案内放送があったので観に行きます。
水のかかった跡を見て、前から5列目を選択しました。
4列目までは水しぶきの洗礼を受けましたが、僕らはセーフでした。
ショーが始まるまで暇で、すみれちゃんは階段を登り降りしたり動き回ります。
次男が付いて歩きます。

僕はお嫁さんとお喋りします。
9月に行ったアメリカの長男の家の様子やその旅行に興味があるようで、長男から「僕らがアメリカにいる間においでよ。航空券はマイルでプレゼントするよ」と言われているので行きたそうです。
6月に3人目が生まれるので、秋ぐらいに会いに行けるといいけど・・・。
仕事があるからな~

次男とこも人生の出産期なので、先の予定はどうなることやら・・・。
メキシコ・カリブ海に面したリゾート地・カンクンへの新婚旅行をジカ熱騒ぎでキャンセルしちゃったので、新婚旅行として行ければいいなと思っています。

20171230SumaT0599s.jpg ショーは楽しく、すみれちゃんも驚いていました。
ショーが終わりベビーカーに乗せました。
おとなしいなと覗き込むと、速攻でお昼寝モードになっていました。
20171230SumaT0626s.jpg 大道芸のパフォーマンスを見て、ペンギンの園内ウォークを見て帰路に着きました。

10:48~15:00「須磨ヨットハーバーP」600円。
4時間12分もいたので、付属Pなら1200円でした。
阪神高速~R171で帰宅し、17:30にネット予約注文していたお寿司を取りに「スシロー」に行きました。

実家で皆で夕食です。
全てサビ抜きのキッズセット(4人前32貫)というのを注文し、唐揚げやかっぱ巻きも追加注文しました。
チンジャオロースーやニューメンなども用意していましたが、1人8貫では少なかったようで、一気に完食しちゃいました。

お嫁さんは、すみれちゃんがチビちゃんなのを気にしており、もっと食べてほしそうです。
1900gで生まれ、以降ずっと月齢体重平均の加減少し上のままです。
お嫁さんは161cmでスマート、次男も平均身長・平均体重なので、いずれすみれちゃんも平均付近に落ち着くのでしょうが、1人目なので気になるようです。
次男は3/28生まれで、小4までずっと学年一のチビでした。
家内は小学生の時、クラス一のノッポだったそうですが、同世代平均+2cmです。
小さな頃の身長なんて、全然関係ありません。

「たまご」と「にゅーめん」をよく食べていました。
それと驚いたのが、お風呂に浮かべて貰おうと庭の柚子を5個取ってきたのですが、「食べるんじゃないの?レモンも食べちゃうし」というので、柚子を食べさせてみました。
僕でも酸っぱいのに、すみれちゃんは平気な顔して食べちゃいました。
結局1個全部食べちゃいました。
家内によると、男女で味覚が違うのだそうです。

家内は主婦なので、あれこれ動き回り、「落ち着いて食べられなかった」と我が家に帰宅後、食卓でゆっくり食べていました。
僕は風呂に入り、家内が寝室に来るまでTV見て、家内がおやすみモードで入ってきたので、電気を消し自室に戻りました。
20時過ぎにお休みしちゃいました。

12/29・Y君との思い出

18:30から、高校ヨット部同期4名を中心にした同級生の会の忘年会でした。
キャプテンの家が駅から近く大きな家で居心地や良かったので、たまり場になっていました。
1人は高校から入学しましたが、残り3人は中高大と10年間も同じ学校にお世話になりました。
僕だけが大学でもヨット部を続けましたが、卒業後も忘年会やお盆の時期に集まったり、腐れ縁的なつながりになっています。

この集まりのメンバーで、高校から同級生になり野球部キャプテンをしたY君が、先月亡くなりました。
インカレ中に奥さんから家内を通じて連絡が入り、ショックを受けました。
六甲山縦走・六甲山ランニング登山・フルマラソンと、最も元気だったやつだったので、「まさか」と思いました。

インカレレース中で福井県にいたので対応できず、キャプテンに連絡し、みんなに情報を流しました。
何故僕に連絡が来たかというと、大学時代ヨット部オフ期間にY君とスキーツアーの会社を立ち上げ稼いでいたからです。

ヨット部では部の運営費稼ぎのために、クリスマスとお正月にスキーツアーをやっていました。
当時バス1台満席にすると20万円利益が出たので、クリスマスとお正月で数台のバスを出し、この利益でレース艇の新艇を買っていました。

冬期間中やったらもっと稼げると思い、旅行社に掛け合い、旅行社内にデスク・電話・事務員を確保し営業しました。
僕とY君は、スキー同好会に声を掛け、「タダでスキーに連れて行ったるから、スキーレッスンコーチしてくれ」。
芸術系大学のイラスト専攻の女の子に「タダでスキーツアーに連れて行ったるから、パンフレットのイラスト書いて」。
などの言葉で誘い学生スタッフを集めました。

信州のスキー場を巡り、宿を確保し、観光バス会社手配は旅行社にお願いしました。
授業を終えると大阪の旅行社に出勤する日々を送りました。
我が家が、貸しスキー板・靴の倉庫になり、他のツアーにもレンタルして稼ぎました。

兵庫・大阪・京都の大学正門でパンフレットを配りました。
女子大の場所は今でも覚えています。
校則の厳しい女子大では門衛さんがうるさく、追い返されたりしたこともあります。
そんな大学は、ライバルスキーツアーが来ないので逆にチャンスだから、在校生に声を掛けバックマージンを交渉し、パンフレットを渡して大学内で配ってもらいました。
たいてい報酬なしで手伝ってくれました。

スキーツアーでは責任者として、スキーコーチ・雪上運動会・ダンスパーティーの企画・交渉・司会として奮戦し、楽しい時間を持ちました。
スキー場でスキーの上手いやつが5割増しでいい男に見えるようで、当時バレンタインデーでチョコが20~40個ゲットしていました。
友チョコ・自分チョコはもちろん義理チョコの習慣もない当時、女の子から電話が掛かってきてチョコを渡される瞬間は夢の時間でした。
全て本命チョコでした。

女子高の女の子がツアーに参加することもあり、ダンスしてたら「キスしたことないからキスして」なんて言われたこともあります。
仕方なく、ぎゅっとハグしキスしたことも・・・
でも、雪山から戻るとプライベートなので、誰ともデートはしませんでした。

僕は「自分からアプローチしないと・・・」の人間だし、GFさんがいたので「お断り」になりましたが、良い時代でした。
Y君は顔が良く、優しいのでよくモテていました。

家内にも、このスキーツアーに来てもらいました。
スタッフだと家内との時間が持てないので、僕もお金を払いお客さんとして参加しました。
いつも運転手さん隣の最前列で、毎度点呼してツアーを動かしていたのに、スタッフの頑張ってる姿を見るのが新鮮でした。
でも、運動会やダンパなどで、スタッフが僕のところに相談に来るので、ツアートップだということがお客さんにばれてしまい、後半は半分スタッフしていました。

最終日に、家内が参加していた初心者クラスにコーチとして加わり、志賀高原一ノ瀬から奥志賀高原までバス移動し、当時志賀高原でもっともオシャレだった奥志賀高原スキー場で滑りました。
プリンスホテルでお茶して帰るツアーをしたのが、女の子には大好評で、家内から「みんなにうらやましがられた」と聞きました。

これに味をしめ、また厳格なお父さんに「もう一度お嬢さんとスキーに行かせてください」とツアーパンフレット持って言いに行き、2人だけで電車で白馬乗鞍の白馬プリンスホテルに行きました。
レストランからはナイターゲレンデが見え、ナイタースキーも滑り、ちょうどホテルのチャペルで結婚式をしていたのでそれに参列しました。
帰り、南小谷駅で電車を待っている時、ものすごく幸せを感じました。

Y君はモテるので、2人でスキーに行くとき、女子2人組を現地調達して来ました。
でも4回生の冬は、家内と結婚する約束をしていたので、うわべだけおしゃべりするだけだったので、Y君からよく文句を言われました。
家内とのことは祝福してくれ、結婚後家に来てくれ、大きなペアのクッションをプレゼントしてくれました。
今でも僕はそのクッションを枕に寝ています。


そんな僕の青春の1ページをぺーずをY君が亡くなった。
インカレレース終了して帰宅後、葬儀に供花しようと皆に声を掛けお花を出させてもらいました。
何度か奥さんから電話をもらい、寂しい気持ちの喋り相手になりました。

葬儀の時、奥様・ご子息・ご兄弟と話し、弟さんとの話の中でこの同級生の会のことを話しました。
「機会があれば、出席させていただき、皆さんに挨拶したい」ということだったので、僕が窓口になり、今回弟さんと妹さんを招待しました。

12/29・次男一家帰省

次男一家帰省の日です。
東京を朝イチで出発し、9時過ぎに新大阪駅着ということで、JR伊丹駅に10時に迎えに行きました。

数日前から僕は隣の実家の外、家内は中の掃除をしました。
いつものことですが、家内は当日が近づくとテンバって来て「あ~まだあそこの掃除が~」「お料理が~」なんて言い出します。
僕から見れば、週1で掃除してるので、いつも綺麗なのに・・・。
そしていつものように、食材が実家の冷蔵庫いっぱいになりました。
どうせ残るから、僕は楽しみです。

駅前に車を停め、9:45携帯電話の電源を入れると、次男から数分前に着信がありました。
コールバックすると、「トイレなどでまだ新大阪だから、10:30ぐらいになりそう」とのことでした。
NHKラジオ「子供電話相談室」を聞きながら待っていると、10:15次男たちがやってきました。
10:30になったら車の外に出て迎えに行こうと思っていたのに、早すぎるじゃん。

孫娘すみれちゃんは、キョトンとしています。
直前まで絶好調だったそうですが、知らないおじさん(僕)が親しく話しかけるので、人見知りを始めたようです。
春の伊勢神宮一泊旅行では人見知り最盛期でしたが、お盆帰省の時は30分で平気になったので、またすぐ慣れるでしょう。

ずっと一緒にいたいのですが仕事なので、自宅まで送り仕事場に向かいます。
次男たちは家内の用意したご飯を食べ、車で何処かに行くようです。
夕方から、次男は中高6年間一緒だったクラスメイトと担任先生を交えての同窓会なので、家内が帰る夜までお嫁さんとすみれちゃんだけになります。

僕は銀行・郵便局などに向かいました。
郵便局では、次男から頼まれたふるさと納税封筒と、長男一家への年賀状エアメールを出しました。
ついでに僕からの年賀状エアメールも。
年賀状代62円+18円でアメリカまで届きます。
安いね。

長男一家は、クリスマスを図書館やアメリカ人のクリスマス・パーティーに参加し、昨年同様自宅居間に「生もみの木」を立てて祝ったそうです。
クリスマス休暇を利用し12/28から1/1までフロリダ・オーランドに行っています。

恒例の高校ヨット部同期を中心にした忘年会の日です。
予定は18:30ですが、14時頃「会場のイタリアンレストラン」を予約してもらったO君から電話が入りました。
「大変なことが起こりました。店のオーナーシェフから「インフルエンザに罹ってしまったので、臨時休業します」とのことで、どうしよう」とのことです。

もちろん彼も次のお店の手配に動いており、僕が元締めなので「みんなに第一報を流しといて」とのことでした。
東京からやって来るやつもいるので中止や日程変更なんて出来ないです。
キャプテンにも店の手配を頼んだようで、僕も探し始めます。
伊丹駅ビルのお店を見つけたので連絡しようと思ったら、O君から電話があり「見つかった、予約を取った」とのこと。

みんなにメールと電話をしました。
17:30、1人だけ連絡が取れなかったので、「キャンセルになったお店のある駅「武庫之荘」まで行って捕まえるわ」とキャプテンに電話しました。
家内のバイク「アドレスV125」に乗り出そうとした時、キャプテンから電話があり「連絡着いたよ」とのこと。

安心して新たに予約したお店のある「塚口駅」に向かいました。
店の近所に路駐して駅に向かいます。
18時前です。
亡くなったYくんの弟と妹と1ヶ月前の葬儀で話したのは僕だけなので、不安でしょう。

次々にみんなやってきて僕とともに待ちます。
18:15に電話が鳴り、妹さんが店の前に着いたとのこと。
みんなと話をしていて見過ごしちゃった。
みんなに行ってもらい、僕だけ弟さんを待ちます。

残りの3人がやって来て18:20。
また電話が鳴り、弟さんも店の前にいるとのこと。
また見過ごしたかと思ったら、かなり早く着いて近所をウロウロしてたそうです。
みんなで店に向かいます。
駅から徒歩1分なのですぐです。

2時間20:30まで歓談しました。
お店は居酒屋さんで、セットメニューやピザを注文し、僕はオレンジジュースでしたがみんなはビール・ワインなど好みのアルコールを飲んでいました。
僕が司会進行役となり、亡くなったY君との思い出話とそれに絡めての自己紹介などを僕から順番にじっくり時間をかけて話してもらいました。
僕ら同級生でしか知らない出来事を、弟さんと妹さんが聞いて、家でのY君の姿を僕らに披露してくれました。
すぐに馴染め、和気あいあいの雰囲気になりました。

店予約担当のO君から、「アルコールを飲んだやつは3000円で僕は2000円」とのことだったので精算すると、この金額でゲストの2人分も出るようで、ご招待2人を奢ることができました。

なんだこの破格の安さは・・・誰かが大枚提供したのか・・・どうやら1万円しかなかった元キャプテンがそれを召し上げられたようです。
それでも、お釣りが4000円以上あったから安いね。

みんなで記念集合写真を撮り、バイクで帰路につきます。
21:00帰宅しました。
家内はまだ起きており、あれやこれや話しお風呂・就寝。

12/24・映画スターウォーズ & ランチツーリング

家内もお休みなので、「映画を観に行きませんか?」と誘いました。
「いいよ~何時?」「洋画、吹替版もあるけど字幕版でいい?」
「いいよ」「じゃあ9:20上映開始だから、9時前に家を出る」
「うんわかった。何、観に行きの?」「スターウォーズ最新作」
「その後デパートに行くわ」「大阪?」
「ううん、川西阪急」「だったら一緒に行こうか?」
「いいよ、1人で行けるから、どっかに行ってきたら?」

いつものように朝早く目覚めゴソゴソやってると、7:30頃「ねえ、映画館の下のイオンが8時開店だって。そこにあるパン屋さんのイートインでモーニングしたいから行かない?」との階下からの声で、慌てて行動開始しました。
家内は既に着替え、仕上げのお化粧中でした。
「おはよう、今日も綺麗だわ~」と毎朝恒例のイタリアーノな言葉とともに後ろから抱きついて、家内のいい匂いをたっぷり吸い込みました。

超特急で用意し外に出ると良い天気です。
「バイクでもいい?」「いいよ」
通勤リード110にリアボックスをセットし、8時に家を出ました。
イオンに入ると、店員さんが商品出しをしていました。
目的のパン屋さんも同様で、パンの棚には1/3ほど並んでいるだけでした。
レジには「しばらくお待ちください」の札が置かれています。

「まだじゃん、お腹減った~」
1Fのミスタードーナツ・2Fのコメダも開店前で、イオンに戻り8:26「オカノ半熟たまごBOX429円+ヨーロピアン熟練ブレンド100円=529円」を買って最上階の映画館に上がりました。

チケットを買い、フロアの椅子に腰掛け朝ごはんにします。
売店を覗くと、スター・ウォーズ関係の品がたくさん並んでいました。
12/29に帰省する次男の子は女の子なので、スターウォーズ関係はイマイチ楽しまないかな~。

日曜日の朝一番上映はお客さんが少ないけど、さすがクリスマスイブいつもの倍以上人がいます。
人気のスターウォーズなので、いつもの中央横通路から3列後ろまではおおかた席が埋まっています。
仕方なく通路より3列前の縦通路横の席を取りました。

10分前に劇場に入り、9:20から予告編が始まります。
いつもこれが長く本編は何時に始まるのか時計を見ていると、9:27でした。
予告編を7分間もやってるのですね。

前作から版権がディズニーに移っても、ジョージ・ルーカスのプロデュースは変わらず、「スターウォーズ最新作・最後のジェダイ」も相変わらず面白い。
あっという間にエンディングになっちゃいました。
家内を駅に送りバイクに戻って時計を見ると12:30だったので、2時間半ぐらいあったかもしれません。

1作目で若きヒーローになったルークは、かつてオビワンなど最長老にフォースを教えてもらったように、若きレイに眠った才能フォースを教え覚醒させる。
1作目から登場しているハン・ソロ船長は、前作でルークの妹レイア姫との間に生まれたフォースの遺伝子を受け継ぎ暗黒面に落ちてしまった息子カイロ・レンに殺されてしまった。

レイア姫は、今作ではフォースの力を持つスノーク率いる悪の帝国ファースト・オーダーに抵抗するレジスタンスの将軍として活躍するが、レイア役のキャリー・フィッシャー本人が1年前に亡くなった。
そして映画の最後に、子供3人が登場し、そのリーダー格の男の子が何やらフォースの継承者として次作以降活躍しそうだ。

この手の映画は、やはり男の子が主役でなくちゃ。
この子は、ルークとどう血のつながりを持っているのだろう。

半年後、ハン・ソロの生い立ちのサイドストーリーが封切られそうだし、レイから始まった原作にない新たなストーリーが大きく展開されそうだ。
僕は1~6作までDVDで持っています。
今からハン・ソロのサイドストーリーと、スター・ウォーズ9が楽しみです。

自宅に戻り、風呂に入って温まり、TV見ながらヨーグルトを食べました。
高校駅伝をしていました。
北摂里山も凍結はなさそうなので、朝の凍結を恐れ遠ざかっていたが、久しぶりにホームグランドを走りに行こう。

「里山VTR250」を出して、13:33走り出します。
長尾山トンネル~r325~r33~西谷農協を北上しr323~r37~49で14:29「バイカーズカフェ虎亀」。
駐車場横でオーナーのお爺さんがロクロを回して作品を製作中でした。
入院されていたが元気になったようで何より。
あ~だこ~だお喋りしました。

店内に入り、ピラフセットを食べながら、マスターやカウンターのお客さんとあ~だこ~だ話しました。
お爺さんの体調不良で、仕事と看病で忙しくなったお母さんを手伝うためお店を手伝い始めたお嬢さんがいなかったので聞いたら、こちらで働き口を見つけ働きだされたようです。
愛想が良く、お母さんに似てとてもかわいい子なので、結婚したのかと思ってました。
その辺のことを聞いたら、まだまだだそうです。

17時から雨の天気予報だったので、15:28に店を出て帰路に着きました。
長尾山トンネルを抜け大阪平野に戻り、帰宅する直前に雨が落ちてきました。
16:20帰宅し、バイク倉庫横でPCをピコピコして、18時になったので家内の携帯に電話すると、既に帰宅しているという。
雨のお迎えは要らなかった。

すぐに帰宅すると、冷蔵庫からショート・ケーキが出てきました。
「帰ってくるのが遅いから私食べちゃったよ」と・・・クリスマスケーキを食卓で家内とお喋りしながら食べました。
風呂に入り、ヨーグルト持って自室に上がり就寝。
ああ楽しかった。




12/23・神戸/兵庫大仏~薬仙寺

大仏を拝みに行く。
20171223KobeS191s.jpg 『兵庫大沸尊像 明治初年、大政官布告により神仏分離令が発せられ、廃仏毀釈により仏教界は壊滅状態だった。この時兵庫の豪商南条荘兵衛の一大発願により兵庫の民衆はもとより仏教界全宗派を挙げて巨大な盧舎那大仏が建立された。以来、奈良・鎌倉とともに日本三大仏に数えられる。その後この兵庫一帯は大いに栄えて神戸一の繁華街を誇り、香の絶ゆる間なく内外の参詣者で賑わった。映画
解説者の淀川長治氏は、この境内の活動写真を愛され、漫才の故砂川捨丸師匠・松竹新喜劇の故渋谷天外師匠の初舞台もごの境内の掛小屋だと、自ら語っておられました。今次大戦の敗色濃い昭和19年5月金属回収令により悲しみに沈む多数の市民に見送られ出征された。平成3年5月多くの市民の強い要望により、市内の有力企業多数の協賛を得て、実に47年ぶりに再建された真の「民衆立」の信仰大
仏である。
身丈11m・耳の長さ2.1m・蓮台3m・台座4m、地上よりの総高18m・重さ(蓮台とも)60T』

『天台宗 能福護国密寺 開基:伝教大師最澄上人・延暦24年(805) 本尊:伝教大師御作・薬師如来立像 御前立:弥陀三尊仏(藤原時代後期の優作)・十一面観世音菩薩立像(弘仁年間の秀作)国指定文化財 今から千年以上も昔、延暦23年(804)桓武天皇の勅命を受けて支那に留学せられた伝教大師は、その帰途兵庫和田岬に上陸、庶民大いに大師を歓待し、堂を建立して教化を請うた。大
師は御自作の薬師如来像を御堂に安置して国の安泰、庶民の幸福を祈願して自ら能福護国密寺と称された。即ち伝教大師の我が国最初の教化霊場である。平清盛公福原遷都の時(治承4年1180)平家一門の帰依あり、小川忠快法印(平清盛公の甥)七堂伽藍を完備して、兵庫随一の勢力を誇り、福原京五山の第一に居し依って通称「福原寺」と称した。寺の壮大な外観から「八棟寺」とも称された。平家滅亡後、暦応4年(1341)震災により全焼、慶長4年(1599)明智光秀の臣、長盛法印堂宇を再建した。本朝編年集に曰く「仁安3年(1168)11月平清盛、能福寺に於いて剃髪入道す。養和元年(1181)2/4京西八条に於いて死去・64才。翌日火葬とし、圓実法眼全骨を福原に持ち来たり。能福寺の東北に埋むめ。これは清盛公の遺言によるものである。圓実法眼は当時の住職にして徳大寺家祖・左大臣・実能公を父とする出虚正しき人物である』

三大大仏ということだが、戦時に金属供出してしまったので、他の2像に比べ見劣りする。
でも、謂れでその歴史を知り、今や想像できないほどですが、この大仏が人を呼び繁栄を極めた兵庫の歴史を知ることになった。
今や神戸の中心はJR・阪急・阪神鉄道駅のある三宮ですが、栄華盛衰を感じました。

バイクに戻ろうとしたら、「アンケートお願いします」と声を掛けられた。
神戸市観光協会のアンケートのようで、一問一答形式で用紙にチェックを入れていました。
これに5分ほど費やしましたが、こういうアンケートに応じる方は少ないし、観光客そのものが少ないので感謝され、小中学生女子が好むようなファンシー経ボールペンを3つももらった。

14:14「医王山・薬仙寺」
「萱の御所跡碑」(平清盛が後醍醐天皇を例風幽閉した地)・「福原西国第一番霊場」。
兵庫七福神(寿老人)。
『薬仙寺(時宗) この地は奈良時代行基菩薩が開いたと伝えられる大輪田の湊に接し、平安時代に
はたびたび千僧供養が行われたところである。承元元年(1207)法然上人が讃岐へ下る時、ここへ立ち寄り大衆を教化され、文久元年(1861)には、英国初代公使オールコックの一行が兵庫開港予定地を視察するため宿泊した由緒ある寺院である。 重要文化財 木造薬師如来坐像・絹本着色施餓鬼図』

『花山法皇歌碑 第65代花山天皇(968~1008)は若くして妻を失い、藤原氏の策謀で譲位、19才で出家し三田市花山院に隠棲した。こよなく大輪田の海を愛し、しばしばこの寺に滞留したと伝えられる。その縁によっていつの頃からこの歌碑が建立された。古碑のため判読しにくい。
 「有馬富士ふもとの霧は海に以て 波かと聞けば小野の松風」』

『詠歌踊り念彿連名 右:萬延元年碑(1860) 左:嘉永5年碑(1852) 時宗開祖一遍上人は踊り念仏とお札くばりを(南無阿弥陀仏のお札を配って歩く)布教の中心として全国を遊行した。そして正応2年(1289)この兵庫の地で没した。
この関係で兵庫津では踊り念仏が盛んであった。また江戸時代から福原西国霊場巡拝もさかんとなり、御詠歌と踊り念仏をミックスした娯楽的な兵庫の庶民的芸能が生まれた。この連名には兵庫津の有力町人や夫人たちの名が記され踊りが盛んであった様子がうかがわれる。民間芸能研究の貴重な資料の1つとされる』
踊念仏の一遍上人は神戸で亡くなったんですね。

六地蔵があった。
『大施餓鬼会日本最初之道場』

20171223KobeS210s.jpg 『萱の御所蹟碑 「牢(楼)の御所」ともいい、平清盛が後白河法皇を幽閉した建物で、3間四方の粗末な造りであったという。(平家物語)伊豆国に流された際に源頼朝と出会った文覚上人は、後にこの御所も忍び入り平家追討の院宣(上皇及び法皇の命を奉じて出す文書)を賜ったと伝えられている。ここより北東方向100mの地点にあったが、昭和29年の新川運河拡張工事によって水中に没するため、当寺境内に移設した』
平家物語で読んだ「蚊帳の御所」、見たかった場所です。
ひっそりと碑だけ・・・

『神戸大空襲犠牲者慰霊碑 今時大戦中神戸は、空襲により大被害受けた。中でも昭和20年3/17・6/5の大空襲被害は大きく、市街の大半を焼却し多くの生命を奪った。市民は二度と戦争の惨禍をおこさない決意を新たにし、あわせてその犠牲者1万人の霊の安らかならんことを心から祈念し、遺族市民から寄せられた浄財によってこの碑を建立した。
除幕:昭和50年3/16 碑石:大阪府下能勢の黒御影石・10トン デザイン:環境造形Qグループ 卍:焦熱地獄の熱風と平和の風を象徴』

『福原地区空襲被災者供養塔 福原・新開地は神戸随一の繁華街であった。神戸大空襲ではこの町に働く女性たちも炎の犠牲になった。長らく当寺境内に卒塔婆を建て供養してきたが、ここに新たな碑を建立し、とわに被災者の霊を鎮めるものである。 除幕:平成元年3/10 施主:福原柳筋振興会』

20171223KobeS217s.jpg 『後醍醐天皇御薬水 薬師出現古跡涌水 当寺本尊薬師如来(国重要文化財)示現の霊泉である。元弘の変(1333)の時後醍醐天皇が隠岐の島より還幸の途中、兵庫で病床に伏した。当時の住職がこの霊水を薬水として献上し服用せしところ、たちまちご快癒された(薬仙寺縁起絵巻より)』
これもひっそり・・・もっと売り出せるのになあ・・・

『戦災・震災モニュメント 大輪田橋は、神戸の誇る名橋として全国的に知られている。1945年(昭和20)3/17の大空襲では、橋近くに避難した500名を越す市民が犠牲となり、橋も焼け焦げた。その半世紀後、1995年(平成7)1/17の大震災でも大被害を受け、親柱などの石材が崩落した。修復にあたり旧石材破棄するに忍びず、その一部をモニュメントとして保存した。大空襲・大震災の惨禍を後
世に伝え、犠牲者に鎮魂のまことを捧げるものです。 デザイン設計監修・京都精華大学・小林陸一郎教授(彫刻家)』

14:31「JR和田岬駅」
JR山陽本線・兵庫駅の支線終点駅で、三菱重工業のための駅です。

20171223KobeS236s.jpg バイクで走り出すと、14:36「ノエビアスタジアム神戸」がありました。
Jリーグ「ヴィッセル神戸」のホームスタジアムです。
僕は仕事の関係でサポーターになってるので、ステッカーや優先チケットが送られてきますが、一度もここに来たことがありません。
海からは独特な形のドームを見ているのですが、おおまかな陸上位置が頭に入りました。

14:45「神港マリーナ」
パワーボートばかり並んでおり、PADIの事務所がありました。
20171223KobeS243s.jpg バスボートより速そうな大きめのフラットボートが並んでいます。
運河を挟んだ対岸にもマリーナがあるので、そちらを見に行こう。

20171223KobeS245s.jpg 14:51「神戸ハーバーマリーナ」
大型上下架クレーンがありますが、こちらもパワーボートばかりでした。
こちらはプロダクション・ボートばかりで、神港マリーナのような独特のボートはありませんでした。
20171223KobeS256s.jpg クレーンの海側に係留桟橋があり、ビジターやホーム艇の休憩も出来そうです。

メインディッシュの平清盛関係史跡巡りは少ししかできなかったけど、帰路につきます。
R43~R171で帰宅しました。

12/23・神戸/兵庫大仏

13:30「将軍平清盛公募所・平相国廟」「伝統三大仏・兵庫大佛」「兵庫七福神・能福寺・毘沙門天」「清盛七弁天」。

『明治維新神戸事件・瀧善八郎正信の碑 きのう見し、夢は今さらひきかえて、神戸の浦に、名をやあげなむ 善三郎辞世の句 瀧善三郎・切腹の図・カネテツデリカフーズ株式会社所蔵開港問もない神戸で起きた外国との粉争で、発足後最初の外交問題で苦境に立たされた明治新政府を救い、日本が外国に植民化されるのを未然に防いだのが神戸事件の瀧善三郎正信の死であった。
慶応4年(1868)1/11、西宮警備を命令された備前藩兵が大砲を引いて西国街道を通過中、三宮神社前で行列を横切ろうとしたフランス水兵を槍で以って刺傷させた「神戸事件」が起り神戸の町は一時、外国兵によって、占拠されるありさまであった。
この事件は明治新政府の素早い方針転換声明と、備前藩責任者の処罰によって決着がついた。全責任を負って同年2/9兵庫津・永福寺(現カネテツデリカフーズ株)で外国人代表ら立ち会いの面前で切腹した瀧善三郎正信(32才)の最後は、識者の涙を誘った。その跡地に碑を立て、市民はこの事件に一番の役割を果たした彼に、心から感謝の意を表し、その功績を永く讃えてきた。
昭和8年、今迄あった木碑に代えて立派な石碑が建立された。昭和20年戦災で寺は焼失したが、碑は無事に残り境内跡地に出来た「カネテツデリカフーズ株」構内に祭られ供養が続けられていた。その後昭和44年、地元有志並びにカネテツデリカフーズ株により、この能福寺の聖域に移設された』

境内正面に、大きな野外大仏が鎮座している。
まず、瀧善三郎正信顕彰碑に手を合わせる。
平相国廟にも手を合わせる。
こちらも正面から見た蝶の紋だ。

『平安の末期(養和元年1181)平清盛公の逝去によって能福寺の寺領内にあった大平山八棟寺に公の墓所・平相国廟が造立された。しかし平家滅亡と同時にことごとく破壊され、能福寺を灰燼に帰した。以降廟は再建されることなくその存在すら忘れられていた。百余年後の弘安9年(1286)2月、平家一門の栄華盛衰を哀れんだ時の執権北条貞時公は、その近くに一基の石塔を建て、清盛公の霊を弔った、と能福寺の古文書に見える。
現在に伝わる清盛塚十三重塔(県指定重文)がそれである。今、諸々の古記録文献には「京・愛宕山にて火葬荼毘に付し、「大輪田の法華堂に納め・・・」または「能福寺の東北に埋骨・・・」云々とあるところから、遷都をも決断したほど兵庫の地を愛した清盛公の遺言により全骨を福原に持ち帰ったことが史実ならば、歴史上真の墓は、かつて平安期、能福寺寺領内にあった平相国廟と考えられる。奇しくも本年清盛公の八百回大遠忌を迎えるにあたり、平家物語類書にも有名な平相国廟を建立復興し、併せて圓実法眼宝篋印塔、忠快法印塔を合祀した。
現在わが国最大の国際貿易港として、繁栄せる神戸港湾の基礎を造った根元としての平清盛公に対して今、報恩謝徳の意を込めて、ここに安らかにお眠りになる廟を造り奉る。
願わくば日本の国土と民衆を兵庫県民を神戸市民を守護したまえ 昭和55年2月 能福寺第24世貫主・弘善識』

境内に「当勝稲荷大明神」があった。
『当勝稲荷(とうかついなり) 岡山県由縁の最上位経王大菩薩を本尊とする。五穀豊穣・商売繁盛・開運など多くの福徳を備える。「当勝」は訓読では「まさに勝つべし」となり勝運に通ずる。
おみくじ 平安時代の天台僧・慈恵大師良源が観世音菩薩に祈念して得たお告げを江戸時代になり、南光坊天海が人々の困難を救う処方箋として民衆に開示した。
これが「おみくじ」の起源と言われる』

「汽船・豊瑞丸沈没死者追悼記念碑」があった。
調べてみたら、1856年イギリス製で、薩摩藩が1864年購入命名した。
 慶應4年(1868)2月「孟春丸」「雄飛丸」とともに、日本初の艦隊行動を行い、大阪から横浜まで兵員輸送した。
1868年は明治元年なので、江戸城攻略戦のロジスティクスとして使用されたようです。
1868年、東出町の薩摩屋が薩摩藩から借り受け、神戸~鹿児島航路に使用し、後に台湾航路に使用された。
明治29年(1896)6/13広島県大久野島灯台付近で、汽船河野浦丸と衝突し16人死亡だそうです。

高貴な装飾が成されている本堂は「月輪影殿」で、『歴代天皇陛下参拝 九條公爵家拝殿 元在・京都東山「月輪御殿」 明治16年(1883)建造 昭和28年(1953)御下賜移築・施工株奥谷組 平成9年(1997)12月解体修理・監修考証・施工・株金剛組』

日本一(世界一?)長い歴史を刻んでいる会社・金剛組ですね。
『本殿は、もと京都東山の歴代皇族の墓陵「月輪御陵」にありました九條公爵家(大正天皇の御妃貞明皇后きまのお里方)の拝殿で明治、大正、昭和の歴代天皇陛下が京都に行幸された際には必すご参拝あそばされたといわれる最も由緒高き歴史建造物であります。
特に明治陛下がご参拝あそばされた際には、きらびやかに正装した女官数十人が本殿に侍り、陛下をお迎えした光景はさながら一幅の絵巻物のようであったと伝えられております。
奇しくも昭和28年(1953)宮内省と九條家より能福寺に特別に御下喝され、移築されました。去る平成7年1月、阪神大震災により大破致しましたが、同9年12月、檀信徒の総力を結集して旧姿に復しました。 重要建造物震災修復補助金交付認定建造物』

『京都・青蓮院門跡・旧院家(いんげ) 能福寺は、京都五箇室門跡の一つ、栗田の青蓮院門跡の旧院家である。
青蓮院は門跡寺院の中でも最も格式の高い「宮門跡」として歴史上その名を知られる。門跡は鎌倉時代より天皇及び親王(皇子、現今の皇太子)が門跡に就任されるが、親王はご幼年でなされることが多い。このような幼少の御門主に礼儀作法、学問、文芸等の教養を教授して差し上げる師範役を「院家」と公称し、朝廷公認の役職である。(現在の学習院教授に相当)又、幕府に対して公然と対応できる地位にあった。院家は内裏(宮中)との折衝役を務め、御門主不在(ご病気、空位)の時は門跡公式代理を務めた。
能福寺は、院家職が明治維新に皇室典範の制定により廃止になる迄、江戸時代初期以来二百数十年にわたって高貴な要職を務めた京都以西では唯一ケ寺「旧院家」の格式を今に留める寺である』
何故こんな本堂の移築が許されたか不思議だったが、こんな格式を持った寺院でした。

『本堂・月輪影殿祠堂 本尊:阿弥陀如来坐像 脇侍:観世音菩薩立像・大勢至菩薩立像 全て藤原時代後期・木彫 播州・太山寺請来』

『ジョセフ・ヒコの英文碑 我が国新聞の父として、アメリカ・リンカーン大統領と握手した唯一の日本人として、下田の港で開国を迫ったペルリ提督の通訳として有名なジョセフ・ヒコ(浜田彦造)の手になる英文。神戸港に着いた外人客が神戸のマスコットであった「兵庫大仏」に多数参拝に来たところから、19世住職・加藤慈晃師が依頼して、寺の縁起を英文で紹介したものがこの碑である(明治25年頃)我が国最初の英文碑と言われている』

『兵庫の豪商・北風正造顕彰碑 兵庫廻船問屋 兵庫新川開発発起人 明治元年、鳥羽伏見の戦いの時、有栖川宮が東征総督として征途につかれた際、駿馬と3000両を軍に献上した。姫路藩が官軍の攻撃を受け城下町が戦場になろうとした時、仲裁に入り軍需金15万両と引きかえに紛争を解決させた巨人。現在日本一のお城「白鷺城」が無傷で現存するのは、この人のお陰である。明治元年3月、兵庫裁判所御用掛、商法司判事、権大属などを歴任。同7年新川社を起こし、兵庫新川開発事業に関係し、米商会所、第七三国立銀行などを創立し頭取となった他、神戸製茶改良会社、神戸船橋会社の創立など、実業界に貢献した兵庫きっての豪商であり、神戸発展の功労者である。明治28年12/5没・62才。当能福寺檀徒。この碑の文字は伊藤博文、明治29年兵庫県知事・周布公平建立』

12/23・神戸/竹尾稲荷神社~来迎寺~金光寺

12:36、それを確かめに「なぎさ公園」。
桟橋はありましたが、部外者使用禁止でした。
当然だね・・・ここに停泊できれば、利用価値大ですが・・・。
寄り道が長くなったけど、本日のメインディッシュ平清盛ゆかりの地巡りをしましょう。

12:55「竹尾稲荷神社」。
『祭神:宇迦御魂大神(うかのみたまおおかみ) 神徳:商売繁盛・家内交通安全・老人性諸病平癒健康守護、特に縁結びにご利益あり 創立:文化10年(1813)・文政元年(1818)刻記のある石灯籠が現存高田屋嘉兵衛翁略伝 生誕:明和6年(1769)元旦、現津名郡五色町都志 寛政3年(1790)22才で兵庫に移り樽廻船の船子、同年船頭、7年に独立1500石積み辰悦丸を建造。北前船に参入し経済的地位を高め蝦夷地に着目し、以降経営の飛躍的発展を遂げ巨富を得て豪商となる。
御用船頭となり、幕府の蝦夷地政策に協力、択捉島を開拓し、優れた航海技術を発揮、漁場を開拓し、享和元年(1801)名字帯刀を御免さる。険しくなったロシアとの紛争に一身を投げ打ち解決し、両国の賞賛を受ける。
文政元年(1818)郷里都志村に隠居、近隣の港湾改修などの協力、文政10年4/5(1827)当地にて59才の生涯を閉じ、同村多聞寺に葬られる。
巨富を得るも常々質素を旨とし少しも奢らず、野人の風格を身上とし、公共の事業とあらば万金をも惜しまず、信仰厚く翁の献上せる西出町鎮守稲荷の灯籠は今もその境内に現存す』
当地で頭角を現し飛翔した高田屋嘉兵衛顕彰碑が立っている。

13:05「来迎寺」(築島寺)。
予想に反し、鉄筋コンクリート寺院でしたが、清盛の蝶紋でした。
平家紋として有名な横向き紋ではなく、正面紋でした。
横向きの方がかっこいいな。

『珪化木のいわれ 日本の地質の古い部分は、今から10億年前のものといわれています。考古学者・色川大吉先生の説によれば、3億年ぐらい前から海底で火山の爆発がしきりに起こり、浮いたり沈んだりしながら、5千万年前頃になってだんだんと日本列島の形が出来上がったといわれております。
この化石は洪積世氷河期も過ぎて紀元前約千万年前に、地殻の変動によって土中に埋もれた樹木が、長い間表面が炭化し内部が珪酸と交代して化石となったものです』
一見するとコンクリート製の木の幹ですが、化石だそうです。
ビックリして感触を確かめました。

『松王小児入海之碑 二条天皇の御代、平清盛公はわが国の貿易の中心地はこの兵庫であるとの確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てるエ事に着手した。しかし、潮流が早く非常な難工事で、完成目前に押し流されることが2度に及んだ。時の陰陽師は「これは竜神の怒りである。30人の人柱と一切経を書写した石を沈めると成就するであろう」と言上した。
そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え通行の旅人を捕えさせたが、肉親の非歎は大きかった。このとき、清盛の侍童で香川の城主・田井民部の嫡男・松王17才が「人柱のことは罪が深い。わたしひとりを身代りに沈めて下さい」と申し出た。
応保元年(1161)7/13、千僧読経のうちに松王は海底に沈み経ヶ島造営は完成した。
現在の神戸港の生い立ちである。天皇は大いに感動されて、松王の菩提を永く弔うため当寺を建立し、念仏の道場とされた。依て経島山来迎寺不断院と号し、通称築島寺の縁起である』

平家物語にかかれている有名なエピソードです。
本日のメインは、この碑を見つけ手を合わせることでした。
任務終了。
お気に入り童子の入水に心打たれた清盛は、以降生贄を改め、経文を書いた小石を投げ入れることにした。

『妓王妓女の塔 妓王と妓女は姉妹でともに京堀川の白拍子であった。清盛の寵愛を得て優雅な日々を追っていたが、清盛の心が仏御前に傾くに及び世の無常を欺き、嵯峨野に庵(いまの妓王寺)を結び仏門に入った。その後、平家が壇の浦で破れたため、平家ゆかりの兵庫の八棟寺(当寺の末寺)に住持して一門の菩提を弔った』

これまた平家物語の涙を誘うエピソードです。
美女ゆえ、清盛の寵愛を一身に受け栄華の頂点に昇ったが、自分が清盛に目合わせした白拍子・仏御前に寵愛の座を奪われ、嵯峨野に隠居する。
そこに寵愛を失った仏御前が訪ねてきて、共に暮らすようになる。

この謂れ板にある「八棟寺に往時して平家一門の菩提を弔った」は平家物語に書かれていないと記憶しているが、兵庫に移り住んだのかもしれない。
小さな五輪塔が2つ並んでいた。

最近、散骨や樹木葬が流行って来ているが、墓石や墓碑・慰霊碑があればこそ歴史が伝わるので、生きた証として形あるものがこの世に残ることは大切なように思います。
両親に墓参りに連れられ、先祖の歴史を両親や祖父母に教えられ、先祖の歴史に興味を持った僕が、遠い遠い先祖の墓地を訪ねている。
僕の人生はもうすぐ終わりだけで、僕同様先祖の奇跡に興味を持った子孫が先祖を知る手がかりに出来るよう墓は残したいと思っている。

築島というぐらいだから埋立地なのかもしれないし、目の前の運河を隔てた海側が平安時代以降に埋め立てられた地かもしれない。
目の前の狭い海を見ながら物思いにふけった。
すぐ横に水門があり、神戸市中央卸売市場の建物が見える。

次の目的地に向かおうとバイクを走らせてすぐ、謂れ板を伴った巨石が見えた。
『古代大輪田泊の石椋 ごの花崗岩巨石は昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4Tの巨石20数個と一定の間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。当時は、平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。
この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、平成15年度に確認調査された。古代の港湾施設と考えられる奈良時代後半~平安時代中頃の大構と建物の一部と考えられる遺構が発見されました。このことにより石材が発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪川泊の石椋の石材であったと推定されました。
最近では、江戸時代に描かれた絵図と照らし合わせると入江の護岸施設で使用された石椋であった可能性も考えられる。石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などであったと考えられます。残念ながら発掘調査によって発見された石材ではないので、築造された時代は不明です。発見時の状況から、その構造は巨石を3~4段積み上げ、松杭で補強し、堤を構築していたものと推定さ
れる。
古代から近世に至るまで、兵庫津周辺は複雑な入り組んだ入江が多く存在していたことが、これまでの調査や江戸時代に描かれた絵図で判明して参りました。この巨石も、そういった入江などの護岸施設や、港湾施設の一部であった可能性があります』

13:21「金光寺(兵庫薬師)」。
『「兵庫の薬師さん」の名で知られる金光寺は、承安3年(1173)隆善法師の開基といわれ、寺名にまつわる次のような伝説があります。経ヶ島築造のとき、清盛の枕元に童子が現れ「兵庫の海中に霊仏があるので探し出すよう」夢告しました。さっそく大輪田の海に網を下ろしたところ、海中から金色の光まばゆい黄金薬師尊が出現したことから、金光寺と名づけられました。この時、海中から出現した本尊は、薬師如来の胎内に納められていると伝えられます』

13:27「神明神社」。
『祭神:天照大神・豊受大神・猿田彦大神 当社の御祭神は伊勢神宮から勧請し古くから兵庫の町の守護神として神明町に鎮座し祀られていた。その起源は丈献上残って無いので不明であるが、兵庫津の7社の1であり、かなり古くから此の地に鎮座していた。
元禄5年(1692)の寺社改帳では、神明の官2社即ち、1東の方社・外宮、2西の方社・内宮と記され、伊勢神宮と同じ形式の2社が祀られていた。
兵庫は、平清盛公によって大輪田の泊か大改修されて以来、瀬戸内の要港として多数の海運業者が集まるようになり、現在合祀されている海上安全の守護神、「猿田彦大神」が合祀されたのもこの項であると推測される。
江戸時代には能福寺とも関係があり、寛永年間(1624~44)には同寺が宮守として奉仕していたとの記録もある』

12/23・神戸文学館・横尾忠則現代美術館・原田の森ギャラリー

玄関ポーチへ。
『開館時間10a.m~5p.m. 休館日/毎週水曜日、12/28~1/4 入館料/無料 館内禁煙』
『神戸市指定 景観形成重要建築物 神戸文学館(旧関西学院チャベル) 設計:M.ウィグノール 竣工:明治37年(1904) 元関西学院付属の教会で、王子公園の南西島に位置し、公園を背景に大きなヒマラヤ杉と共に、文教地区にふさわしいランドマークを形成しています。平面はL字型で、L字の入隅部の塔は近年の改修で復元されました。西と南の切妻に石造の大きな尖頭アーチがあり、その中に三連の尖頭アーチのトレーサリー、その上に元バラ窓であったと思われる円型窓が付いています。屋根は急勾配で、璧の所々に太いバットレスの付<ゴシック風の外観となっています』
『登録有形文化財 第28-0303号 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁』

高い玄関ポーチの天井から灯りが下がっています。
ポーチ上部に窓ガラスがはめられ、天井も自然光で明るい。
重厚感のある洋式の扉を開けて中に入ります。

『関西学院は、アメリカ・南メソジスト監督教会の宣教師ウォルター・ラッセル・ランバスにより、1889(明治22)年9/28、この地「原田の森」に設立されました。その後1929(昭和4)年に西宮市上ケ原へ移転するまで40年間、優れた卒業生をまず多く世に送り出すとともに、神戸の新しい文化活動の中心的役割を担ってきた。
この建物は、1904(明治37)年10/24に礼拝堂として竣工し、アメリカ・ヴァージニア州リッチモンドの銀行家ジョン・ブランチ氏の寄付をもとに建てられたことから、「ブランチ・メモリアル・チャペル」と称された。当時は礼拝堂兼講堂として使用され、関西学院のシンボルと言える建物であった。
関西学院の移転に伴い神戸市の所有するところとなったが、神戸大空襲のためレンガ壁のみを残して焼失した。しかしその後、尖塔部分を除いて復旧され、以来神戸博の展示館、市民美術教室、アメリカ文化センター、王子図書館として使用された。まら1993(平成5)年4月には尖塔部分も完全に復元し、王子市民ギャラリーとして神戸市民に親しまれてきた。
このたび、あの阪神淡路大震災も乗り越えた、市内に現存する最古のレンガ造教会建築物が、神戸にゆかりのある文学者たちの息吹を今に伝える神戸文学館として生まれ変わることとなった。 2006(平成18)年12月』

撮影禁止でした。
常設展示ゾーンには、阿久悠・井上靖・遠藤周作・今東光・椎名麟三・志賀直哉・司馬遼太郎・島崎藤村・白洲正子・高浜虚子・中島らも・松本清張・吉川英治・森鴎外・山崎豊子・山本周五郎・横溝正史・正岡子規・灰谷健次郎・・・など名だたる作家の書籍・略歴・神戸生活時代の写真などが展示されていた。

僕の好きな竹久夢二も神戸に縁があったようで、母校先輩・山田耕筰作曲と組んだ作詞家・北原白秋も神戸に縁があったようだ。
少ないですがお客さんがおり、サロンでは喫茶も出来るようです。
知っている著名作家の神戸時代を読めて、楽しい時間でした。

外に出ると、関学の建学の精神「Mastery for service」と校章新月が刻まれた記念碑があった。
家内は4年ですが、僕は10年もお世話になった学校なので、愛着が違います。

11:24「横尾忠則現代美術館」に入ってみました。
入館料700円。
1Fがフロントと売店で、2~3Fが展示室で、4Fが資料室です。
独特の世界が描かれたポスターや版画が多数展示されています。

『HANGA ポスター? 版画? 横尾の版画制作の軌跡は、常に版画の枠を超える創作の道のりといえるでしょう。デザィナー時代の横尾忠則は、自分自身を最も表現できる形式がポスタ一で、版画のようなファインアートは、はじめから自由すぎてむしろ不自由だと考えていました。ポスターを依頼されたら、その一枚のなかて音楽や映画、絵画、文学的なことを試みることが創作の欲求を満たし、自分を表現することでした。
こうした創作姿勢を直接的に具現化した仕事が、1960年代後半に制作した土方巽や唐十郎、寺山修司らの舞台ポスターでした。消費社会の申し子であるポップアートのけばけばしさと日本の土着性とを混ぜ合わせた、総天然色の印刷による衝撃的な内容で、小部数制作かつ封切直前完成というポスターの常識をはるかに超えた、ほとんどファインアートと呼べる作品でした。
さらに、同時期に横尾は、グラフィック・デザイナーによるグループ展「ペルソナ展」に《TADANORI YOKOO(自主制作)》(no.233)などのクライアントを持たない作品を出品したり、《終りの美学(発狂社)》(no.236)や《切断断された小指に捧げるバラード(八九三書房)》(no.237)など架空の出版社名を刷りこんだポスターを制作しています。
これらはポスターという形式を借りて、自分を表現するために制作したファインアートといえます。
本展で「版画を超える版画」という意味を与えて展覧会名に冠した「HANGA」の原点は、これらポスターの形式で制作された作品=HANGAにあります。これらをHANGAのなかのHANGAとして捉えることは、横尾の印刷(刷り)作品の分野・領域について再考することを問題提起することとなるはずです。さらにコマーシャルアートとファインアートをめぐる表現と歴史、今後の現代版画のあり方に示唆を与えることでしょう』

小さな切手刷りを組み合わせて大きな人物を浮き上がらせた切手のようにした刷り作品、写真と見紛うようなデザイン画、漫画雑誌「少年マガジン」の表紙となった「星飛雄馬」や「あしたのジョー」・・・飽きませんでした。

4Fに上がると、未整理の作品棚があり、奥は撮影中の黒幕が下りていた。
北側の窓から六甲山を奥にして、神戸海星女子の校舎が見え、手前には先程入った神戸文学館のレンガ旧教会が見える。
その西には王子動物園の観覧車が回っている。

11:45、「原田の森ギャラリー」に入ります。
拝観無料で、「12/20~24 第53回・主体美術協会・主体展神戸展」という絵画展が、1・2Fで催されていました。

僕は小学生の時、水彩画でクラス代表~学年代表~学校代表になって、伊丹市小学生絵画展・阪神小学生絵画展に出品されたことがあります。
母は勉強もスポーツも出来た上に、書道も絵画も県表彰を受けました。
リタイヤ後は油絵を習い、伊丹市展に何度も出品していました。
長男は絵画は得意ではなかったけど、作文が得意で学校代表になったことがあります。
次男は写真と間違うほど精密画が得意で、建築士・プロダクトデザインの仕事に着いています。

僕は絵画が好きで、今は混むのであまり展覧会に行かなくなりましたが、中高生の時は土曜授業終わりの午後、よく京都の博物館や美術館まで足を伸ばし、有名画伯の絵画展を観に行っていました。
大きなサイズの絵画が並び、食い入るように観てしまいました。

12:04「王子動物園」。
孫たちを連れて来る場所候補なので下見です。
15才以上は600円で、それ以下は無料です。
中学生も無料なんて太っ腹です。
最新式アトラクションがないからお安く、お客さんは小さな子を連れている家族連れが多い。
こういう遊園地が好きです。
大学生の時、デートで動物園や水族館に行ったことがあります。
落ち着くんだよね~こういう施設は。
小さな子は、動きを見ているだけで面白いし・・・。

12:19、南に下り海岸の「なぎさ公園」近くの高齢者マンション。
兄夫婦が買ったマンションで、お正月に息子・娘たち一家・僕ら・次男一家に披露してくれるそうです。
最上階にレストランが有り、食事しようということになっています。

兄夫婦は僕ら同様大学の同級生カップルなので、姉が1人残された後、医療・介護などが充実したここに住めばいいと終活しました。
有馬温泉マンションと自宅を売って、長女一家が住む近くのマンションに移り、1人になった時の終の棲家をここにしました。
田舎での老人だけの暮らしは大変なので、都会暮らしです。
何階を買ったのか知りませんが、34F建てだったかな?

エントランスを入ると、右手にロビーが有り、左手にフロントがありました。
フロントのお姉さんが「見学ですか?ご予約は?」と聞いてきます。
「いえ、兄が買ったので、どんなところかと思い・・・」。
トレーニングルームやプール、AVルーム・クラブルーム・ビリヤード・ヘアサロンもあり、小さな町です。
近くに大手電気屋さん・総合病院・ショッピングセンターがあり、駅まで5分です。

パンフレットがあったのでもらい、分譲中か聞きます。
南向きは完売に近く、東向きは2/3、西向き1/2、北向き1/5が売れている状況のようです。
パンフレットの写真にマンション最上階から見た「なぎさ公園」方面があり、なぎさ公園に桟
橋が見えます。

なぎさ公園前には何度か船で来たことがありますが、こんな桟橋あったっけ?
先輩は、なぎさ公園岸壁に船を着け、食事して銭湯に入ったと言っていました。
お姉さんに「この桟橋に船が着けられるか、知ってますか?」とダメ元で聞いてみました。
当然知りませんでした。

12/23・本住吉神社

バイクで、神戸福原・兵庫・和田の泊界隈の「平清盛」史跡巡りに行きました。
凍結が怖いので、早朝ツーリングは12月に入ってから封印しています。
ホームフィールドの北摂の里山地帯も標高が高いので敬遠気味です。

9時に「里山VTR250」の空気圧を点検します。
前後輪共1名乗車で2.0BAR、2名乗車で2.25BARが規定値なので、2.5BAR入れました。

9:17御用達GSで給油。
184km/5.96L=30.9km/L。
ずっと2気圧以下で走っていたようで、それで最近燃費が悪いのかもしれない。
乗り出してから9年間のトータル燃費が、32km/Lを切り、31.8km/Lになっちゃいました。
数年前の冬季にアイドリングを上げてもらったのも影響しているように思う。

R171を西に走り、R2で神戸を目指します。
9:49「本住吉神社」。
神功皇后三韓征伐縁の大阪の「住吉大社」は、ここから遷宮しました。
鳥居をくぐると、社庫があり少し扉が開いています。
中を覗くと、立派なお神輿がメンテナンス中でした。
白髪の職人さんが、黙々と作業をしています。
良いものを見せてもらいました。

拝殿でお参りします。
拝殿横にも大きな社庫があり、地区別の扉が7つ並んでいます。
地区の神輿が格納されているのでしょう。
さすが格の高い立派な神社です。

摂社を巡ります。
「大山祗社(山の神)」「猿田彦社(邪気払いの神)」「塞之神(邪気ふさぎの神)」「大海社(海神と御子)」「天満ノ神(勧学の神)」「高良神(長寿の神)」「木花咲也姫(一願授徳の神)」「綿津見神(海の神)」「天水分神(祈雨の神)」「大山祇命(造酒の神)」「大物主命(金毘羅の神)」「大国主命(国土経営の神)」。
独立した摂社として「大日女社(天照皇大神)」と「菟原稲荷大神」。

社務所に寄って「本住吉神社紀」を授かりました。
初穂料は500円。
拝殿に宣伝されていたので見ずに授かりましたが、50ページほどでこの神社の由来紀のみではなく、古代からの日本の歴史を古事記を参照しながら解説されており、年表や摂津全体の守護などの出来事が整理され、古地図も印刷されています。
なかなかの値打ち物で、永久保存版になりそうです。
触りを読もうと、境内の灯籠に座り読み始めたら止まらなくなった。

『御鎮座の捷仲哀天皇崩御の明年春2月、皇后穴門の豊浦官に移ります。即ち天皇の喪を収めて海路より京に向(いでま)す。皇后の船は、直に難波を指す。時に皇后の船、海中に廻りて、進むこと能わず。更に務古水門(むこのみなと)に還りまして、ト(うらな)えたまう。天照大神、我が荒魂をば、御心広田国に居らしむべし、稚日女尊、吾は、活田長峡国(いくたながをのくに)に居らむ、事代主尊、吾を御心長田国に祠れ、亦(また)表筒男(うわつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのを)三神(みはしらのかみ)、吾が和魂(にぎみたま)をば宜しく大津停中倉長峡(おおつのぬなくらのながせ)に居くべし。因りて往来う船を看(み)んとをしえて日わく。是に於て、神教の随に鎮坐さしむ。即ち・平に海を渡ることを得たまう。
是年は太歳辛巳(おおとしかのとみ)。即ち摂政元年(まつりごとふさねおさめたまうはじめのとし)と為す。日本書紀・巻第9(摂政元年-紀の年立てでは201年)』

『鎮座地名と御社名
『住吉神』を御領祭の『大津停中倉長峡』の地名は『広田』『生田』『長田』にようにはそのままのこらず『住吉郷-住吉村-住吉町』となってしまい、『書紀』の言う『大津ぬなくらのながを』は当地か、大阪南かと、先学の人たちが主に字義の解釈と地形の想像とによって論考されたが、『ぬなくら長峡』のとき『長峡』を『長岡』と解し、『活田長峡』は『地のさまによる』(日本書紀通釈)と解する如く決定的ではない。宣長翁も記伝6で『大阪』と考えたのを古事記伝30に至って『本住吉』のある菟原郡住吉(当地)と改められている。
「住吉神社」は各地に多いが、当社を『本住吉神社』と称する所以を解明する資料は当社になく、かって当社領の上級領主であった勝尾寺の文書の中に残存していた。
『本住吉神人等、依領家之仰可存知旨申請了。(下略)』
この宝治元年丁未(1247)の『請文案』(箕面市史勝尾寺文書178、社領の項参照)に津守為弘以下10人の津守姓の人達が連署している。鎌倉時代、当社には津守氏(住吉神の神主家)一族が奉仕しており、『住吉神』遷祀の歴史的最終地大阪南に隨い移った津守氏が『大阪へ遷すもとの住吉』の意をもって、『もと住吉』といい『本』の字を宛て用いたものであろう。そしてこの文書から、書紀の伝える神功皇后の住吉神御領祭地『大津ぬなくらのながを』は当社の地であったと推論して間違いないであろう』

住吉三神(イザナミがイザナミに会いたくて黄泉の国まで行ったが腐乱したイザナミを見て怖くなり逃げ帰り禊した時生まれた神)と三韓征伐をした神功皇后を祀っている。
神功皇后は北九州に戻り、応神天皇を産んだ後機内への帰路、播磨灘で風波に妨げられ難儀した。
遠く北摂の大船山を望んだとも言う。
伊勢神宮の元宮「元伊勢」同様、難波の「住吉大社」の遷宮前の地「元住吉」がこの宮です。
R2沿いの繁華な地にあるので目立たないが、住吉・生田・長田・広田など現代に続く地名が古事記成立の時代から脈々と続いているのが嬉しくなった。

大宝律令や延喜式令制に従い、租・庸・調を神社に納める「神戸」があったことを示す平安後期保安元年(1120)の資料も書かれていた。
「神戸」は律令制が緩み実を失い、荘園・社領という形態に代わって行く。
荘園を守護した武家の勢力拡大に伴う社領強奪を防ぐため、勅願寺である箕面勝尾寺を上級領主を仰ぎ、その保護を受けていたようです。
しかし室町幕府武家政権成立後、殆どの社領は崩壊した。
太閤検地により全社領を没収し、新規所領を安堵した。その後徳川時代、藩主により社領が寄進された。
しかし、平安の荘園時代に比べると極めて少なくなったのだそうだ。
宗教勢力といえど経済抜きに生活運営出来ないので、こういう経済的なことが書かれている資料にとても惹かれる。

R2を西進し、10:51僕と家内の母校・関西学院発祥の地。
当時「原田の森」と呼ばれていた地に到着。
道を挟んで「横尾忠則現代美術館」「原田の森ギャラリー」があります。
横尾忠則は、兵庫県というより日本の真ん中・ヘソにある西脇町出身のイラストレーター・版画家です。
西脇に行く列車「JR加古川線」には、横尾忠則デザインのラッピング列車が走っています。

関西学院創設者ランバス先生が明治時代に建てた「旧・関西学院チャペル」が、現役の「神戸文学館」として使われています。
瀟洒なレンガ造りの建物で、中学部に入学してから、何度も見た姿です。
でも一度の入ったことがなかったので敷地内に入っていくと、掲示板に「常設展示・神戸ゆかりの作家たち」の掲示がされ、「入館無料」となっていました。

『原田の森の記憶 神戸文学館 明治22年に宣教師ランバスにより原田の森に創設された関西学院。その礼拝堂として同37年に建てられました。建設費を寄付した実業家の名を取り「ブランチ・メモリアル・チャベル」として学院生の信仰の拠り所となりました。昭和4年の学院の西宮移転後、戦災にもあいましたが戦後は神戸市が買収し長らく王子図書館として使われていました。平成5年、戦災で失われた鐘塔を復元するなどして市民ギャラリーとして親しまれてきましたが、平成18年に神戸ゆかりの文学作品や文学者の遺品その他の資料を展示する「神戸文学館」として生まれ変わりました。明治の洋風教会建築では、市内最古のものです』

北に王子動物園の特徴ある建物が見える。
帰宅後調べると「カワウソ」がいる建物のようです。
神戸文学館前には、綺麗に手入れされた椿が赤い花を付けていた。
我が家の庭の椿も満開ですが、手入れするとこんなに見栄えが良いのかと思いました。
そう言えば庭師さんが、他の作業をしていた。

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デスクトップPCが壊れました。
電源入れてもウインドウズが立ち上がらなかったり、立ち上がっても突然電源が切れたりの症状は出るようになりました。
富士通に電話すると、マザーボードが壊れているかも?で、修理代が2~5万円かかると言われ、既に5年以上使ってるので修理代を使うより更新することにしました。

富士通製品をずっと使っていますが、物理的故障は初めてです。
メモリーの少なさから来るスピードストレスやOSのサポート切れなどで更新していましたが、5年以上更新しなかったのは初めてで、5~10年が物理的寿命なのかもしれません。

Windows 10 Home (64bit版)、インテル Core i5-6500プロセッサー(3.20GHz)、メモリ8GB、1TB HDD、スーパーマルチ・ドライブ、キーボード、光学式マウス、Office Home&Business 2016、リカバリディスク、1年パーツ保証+1年引取修理、12万円

明日到着なので、セッティングして来週には快適環境になりそうです。
現在、ウインドウズ7ノートPCで作業中です。
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プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
/norimakiturbo/
から引っ越してきました。

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