8/20・宝塚聖天・名塩斜行エレベーター・緒方八重・宝塚花の道

『訂正 台湾高雄 お母さん! 海軍中尉 富田修命 昭和19年9月3日 台湾高雄にて殉職 23才 長野県出身 海軍13期飛行予備学生 日本大学出身
お母さん! 9月25日 1時半、我が一生ここに定まる。
お父さんへ、言うことなし。
お母さんへ、ご教訓身にしみます。
お母さんご安心ください。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。それだけで僕は幸福なのです。
日本万歳万歳、こう叫びつつ死んでいった幾多の先輩たちのことを考えます。
お母さん、お母さん、お母さん、お母さん!こう叫びたい気持ちで一杯です。何か言ってください!一言で充分です。いかに冷静になって考えても、いつもいつも浮かんでくるのはご両親様の顔です。父ちゃん!母ちゃん!僕はこう何度も呼びます。
僕と同じ気持ち、同じ境遇の戦友も相当いることでしょう。現に僕の机の左に一心にペンを動かしている栗山くんも同じであります。一人息子であります。北海道の人です。飛行機乗りは必ず死するものであります。
この道を選んできた僕を、一度は反対した父も、二度目は許してくれました。その時の気持ちと今の決定を見た時の気持ちは、全く同じであります。万感胸に迫って泣いていた友もおります。
「お母さん、決して泣かないでください」
修が日本の飛行軍人であったことについて大きな誇りを持ってください。勇ましい爆音を立てて先輩が飛んでいきます。ではまた』

『勇躍 死地に赴く 陸軍特別操縦見習士官第1期生 陸軍中尉 宮本洋一郎命 東京都西多摩郡出身 昭和19年10月26日 比島にて戦死 21才
更めて過去22年間種々なる不孝を詫ぶ。皇國に殉ぜるを以て洋一郎のなし得たる唯一の孝行と為す。
父母、祖父上の長寿と弟妹の立派なる成人を祈る。
願 石碑は依子と同一の石に刻まれ度
最后に、大元帥陛下の萬歳を奉唱す
昭和19年10月22日午前2時北斗温泉にて 飛行第22戦隊 台湾第18968部隊 陸軍少尉 宮本洋一郎』

墓地の方を見ると、先の尖った神式の墓石がズラリ一列に並んでいた。
碑文・辞世の文をしっかり読むと、命をかけた先達の方々の礎の上に今の日本があるのだと再確認した。
眼下に見える大阪平野北部を埋め尽くす家々に、我が家を含めて人が住んでいる。
多くの世帯が、我が家同様多少の不満はあろうが、大きな満足感の中で幸せに、やりたいことをやって暮らしている。
僕は次世代の日本人のために何をしてきたのか・・・これから何ができるのか・・・自問する気持ちで、それらの家々を見た。

バイクに戻ろうとふと提灯を見たら、ヨット部後輩の名前が書かれていた。
彼はここらに住んでいるのかな?
年数回会うので、覚えていたら聞いてみよう。
僕も地元の盆踊りなどの提灯に名前を晒している。

住宅地内を適当に走っていたら、「不動院」の案内板を見つけた。
13:23、住宅地の山の端にあった不動院。
20170820TakaraS076s.jpg 「これより修行の場」と書かれており、修験道の方が修行する滝場があった。
きっと先程の聖天さんと対になっているのでしょう。

住宅地内の枝道を経て、阪急宝塚南口に出ました。
武庫川左岸道路で上流に向かい、R176に出て、14:06「JR西宮名塩」。
いつも気になっていた斜行エレベーターに初めて来ました。

20170820TakaraS083s.jpg 阪急オアシスの駐輪場にバイクを停め、歩いて斜行エレベーターへ。
予想通り無料の乗り物で、快適に標高を稼ぎ、名塩住宅地と駅を結んでいました。
20170820TakaraS100s.jpg 住宅地内を散策します。
20170820TakaraS092s.jpg 眼下に、大阪の中心部ビル群が見えます。

14:22エレベーターを降りてきました。
オアシスで駐車場代としてかき氷でも食べようと思ったけど売っていませんでした。
仕方なくR176で更に三田方面に向かいます。

「蘭学通り」に入ります。
『名塩蘭学塾 大坂の緒方洪庵の適塾で塾頭を務めた伊藤慎蔵が、文久2年(1862)当地で開設した。洪庵夫人・八重の生家である億川家の一室からであったが、塾の名声を聞いて近在から多くの若者が集まり、盛況ぶりを見せた。塾があった場所には、現在JA六甲兵庫名塩支店が建ち、玄関左に八重夫人の胸像が置かれている』

塾跡に向かい蘭学通りを走っていると、「名塩厄神」の石碑が見えてきた。
20170820TakaraS116s.jpg 14:35「名塩厄神」。
鎮守の森が豊かで、巨木が林立している。
『祭神は、正殿:八幡皇大神(応神天皇)、小宮:大山祇命・水波女命、地主神:大地主命、伊勢皇大神宮遥拝所』

20170820TakaraS124s.jpg 本殿に参り、遥拝所を見てきました。
榊がたくさん植わっていました。

14:44「名塩塾」跡。
20170820TakaraS131s.jpg 緒方八重さんの胸像がありました。
『蘭学の泉、ここに湧き出す 西宮市長・八木米次』
我が家もそうだが、奥さんがどっしりきめ細かな心遣いをしていることが、旦那をまともに見せている。
僕の経験では、立派な業績を残したり、素晴らしい子が育った家は例外なく奥様が周囲の人に慕われている。
世間に打たれても、帰る家で温かく迎えてくれ、清潔な家庭環境とバランスの良い食事で送り出す主婦がいるから、また笑顔を取り戻し世間にチャレンジできる。
緒方八重さんも、そんな女性だったのでしょう。

『緒方八重 明治の偉人たちの母・緒方洪庵夫人 文政6年、蘭医「億川百記」の長女としてこの地に生まれ、17才の時洪庵の元へ嫁いだ。貧苦の中よく病弱の洪庵を助け大きく世に出さしめたのも、内助の功によるものだと言われる。
洪庵の蘭学適塾に学ぶ青年たちを我が子のごとく可愛がり、よく指導した。その中には「福沢諭吉」「大村益次郎」「伊藤慎蔵」「佐野常民」など錚々たる人物があり、いずれも夫人を慈母のごとく慕っていた。ここには分校として名塩蘭学塾が設置されていた。
八重夫人は、明治19年2月7日(65才)大阪の鶴橋で没したが、その会葬者は3000人に及び、佐野常民(日本赤十字創立者)自ら葬儀委員長になった。夫人の没後、福沢諭吉は直ちに大阪に来たり、ただ一人涙を流し碑を洗い花を供えたことも有名である』

かつてよく使ったR176裏道を懐かしく走り、西宮山口から金仙寺湖に向けて南下し、r82に出て金仙寺湖を渡る。
15:13、r51との交差点にある「セブンイレブン西宮船坂店」で、「赤城ガリガリ君ソーダ・75円」を購入しクールダウン。

好きなr51を下ります。
蓬莱峡を横目に見ながらR176に合流。
往路同様、武庫川右岸道路を宝塚市街地に向かって下ります。
この道、離合出来ない部分もあるので最近四輪では走らないが、バイクなので気楽です。

「阪急宝塚南口」まで下り、宝塚大橋を渡り、宝塚大劇場前「花のみち」を久しぶりに通ります。
大劇場前を通過し、15:33Uターンしてバイクを押しながら「花のみち」の商店をウインドーショッピング。

和服屋さんと和菓子屋さんを覗く。
20170820TakaraS133s.jpg 涼やかな浴衣がいいね。
20170820TakaraS136s.jpg 15:39「宝塚つるや本舗」で「ズカオトメ6個入・580円」と「生和菓子・2個・360円」を購入。
緒方八重さんの銅像を見て、「家内を大切にしなくちゃ」の思いが湧いてきた。
一緒に食べよう。

僕は、洋菓子ケーキより和菓子の方が好きです。
20170820TakaraS137s.jpg 手塚治虫記念館横を通り、武庫川左岸道路を下り、ダイヤモンドシティー前を通って帰宅しました。
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8/20・宝塚聖天・ゼロ戦

筆塚がある。
20170820TakaraS031s.jpg 20170820TakaraS028s.jpg 睡蓮の咲く弁天池があり、小橋を歩くと鯉がやってきた。
20170820TakaraS037s.jpg 本堂にはみくじ箱などが並び無人でした。
小型の交通安全お守りを授かり、お賽銭箱にチャリンしました。

聖天さんといえば、人が多いイメージですが、僕以外誰もいませんでした。
お庭は綺麗に掃除されており、感じの良いお寺です。
コンクリート造の会館が建ち、駐車場も広く、他の聖天さん同様経済力を感じます。

20170820TakaraS048s.jpg 道を隔てて墓地があり、一段高い建物の屋上にゼロ戦が目立っていました。
レプリカゼロ戦ですが、屋外の人の手の届かない屋上にありながら、とても綺麗な状態で美しいなと思いました。
小学生の頃、戦車・戦闘機・駆逐艦・戦艦・空母に至るまで様々なプラモデルと作った僕には、そのカラーリングも好ましく思いました。

旧日本海軍と三菱はじめオールジャパンで作り上げた当時世界一の性能を持っていた傑作戦闘機の等身大の姿が、隣町にあったとは驚きました。
もう亡くなった母が、学徒動員された栃木県の中島飛行機工場で作っていたのも、まさにこのゼロ戦でした。
工場からの帰り道、米艦載機グラマンがまっすぐな道を急降下銃撃してきて、横っ飛びに田んぼに逃げて助かった話も聞いています。
まっすぐ道を走って逃げた友達は、機銃を受け亡くなったそうです。
それらを迎え撃ったヒーロー機です。

ゼロ戦の載る建物「光明殿」前に、幾つかの碑が立っている。
『故陸軍中尉中村純一は、学鷲として阪神防衛に参戦。絶望の戦局に動ぜず意を決して天翔る。愛機飛燕を駆し壮絶死闘、夏蒼号に光烈散華す。雲染めて肇なし。 
時:昭和20年7月9日 於:大阪星田村特操1期 鹿児島二中東京農大卒 23才 
愛惜』

『戦没者追悼 平和記念之碑』

20170820TakaraS053s.jpg 『神風特別攻撃隊之魁 甲飛10期之碑 昭和初期、海軍航空戦力の急激な拡充を目指して、甲飛予科練制度が創設され、我々は昭和17年(1942)4月1日、土浦海軍航空隊に第10期甲種飛行予科練習生として入隊、秋霜烈日の猛訓練に耐え飛行練習生教程を終えて太平洋戦争決戦の大空へ巣立った。
昭和19年10月フィリピン・レイテ湾に米航空母艦30数隻を含む大機動部隊が殺到、迎え撃つ我が栗田を主力とする連合艦隊とのフィリピン沖海戦は、太平洋戦争中最も熾烈な一大海空戦であった。
時に第1航空艦隊司令長官大西滝治郎中将は、この国家存亡の瀬戸際こそ250キロ爆弾を零戦に装着、一機一機肉弾体当り攻撃の他なしと決意し、10月19日、第201航空隊副長玉井中佐に特攻隊の編成を命じた。
命を受けた彼は、かつての教え子甲飛10期の零戦搭乗員より24名を選抜し、第1神風特別攻撃隊を編成した。
ああ、これが特別攻撃隊の魁になろうとは
「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花(本居宣長)」
この歌より隊名を敷島、大和、朝日、山桜の4隊とし、直後菊水隊が加えられた。
索敵数日、10月25日に至り各隊見敵に成功、祖国の安泰を祈り一矢報いる信念に燃え、全機突入多大の戦果を挙げた。
若干二十歳にも満たない若者がひたすら祖国最後の勝利を信じ、父母を思い故山を偲び、黙々とその任務を完遂して散華し、卒業時1004名の80%が還らぬ人となった。
その崇高で至純な行為と精神を後世に伝え、霊を慰め徳を顕彰する為にこの碑を建立する』

『レイテ沖の真砂 この海に甲飛10期生が数多く特攻で散華し光明の珠となり、輝いている。 甲飛10期会』

20170820TakaraS060s.jpg 『遺筆 陸軍特別操縦見習士官第1期生 特別攻撃隊第60振武隊 都城東飛行場より6時30分出撃 機種四式戦疾風 陸軍大尉・倉元利雄命 昭和20年5月11日 沖縄島周辺にて戦死 鹿児島高等商業学校卒 鹿児島県出身 30才
喜美子 出発の時は許してくれ、御許を愛すればこそ一時も悲しみをさせたくない心にて一杯だった。決して嘘を言うのではなかった。どうか元気を出してあらゆる苦しみ、悲しみと闘って行っておくれ、強い心で行きていってくれることを切に切に望む。
では只今より出発する。ありがとう。ありがとう。俺は幸福だった。喜んで征く、御許の幸福と健康を祈る。 5月4日5時12分
愛児よ もし御許が男子であったなら、お父上様に負けない立派な日本人になれ。
もし御許が女子であったなら、気立ての優しい女性になってくれ。そしてお母様を大切に充分孝養をつくしておくれ。 愛児へ 父より』

『遺書 海軍一等飛行兵曹・椎根茂命 昭和20年4月12日 南西諸島方面にて戦死・20才 神風特別攻撃隊第2護皇白鷺隊 海軍甲種飛行予科練習生第12期生 東京都荒川区出身
気のせくままに乱筆にて断片的に私の現在の心境を書き遺します。
私、この世に生を受け、二十有一年両親様の一方ならぬ慈愛のもと、私は今に至るまで日本一の幸福者と思っております。翻って戦局を見るに敵は有り余る兵力と物質に物を言わせ、ついに沖縄にまで魔の手を伸ばしてきました。三千年の光輝ある歴史を有する大日本帝国未曾有の国難に、私は特攻隊を志願いたしました。
一切の私心を捨て、悠久の大義に生きます。
私この期に及びただひとつの心残りは今まで私はお父さんお母さんに唯一度も安心せしめたことはなく、親孝行の模倣だに出来ずに散るのが残念です。
しかし私は立派に手柄を立て、死んでみせます。我々和気隊白鷺隊の戦果が新聞に出た時は、私が真っ先に突っ込んでいったと思ってください。
私も最後の親孝行、そして椎根家の名誉として驕敵米兵共数千と船一隻を太平洋の藻屑としてみせます。(中略)
兄さん姉さん八重子などにも書き残したいことも少しありますが、急ぎますから・・・ただ兄さんは立派な体になって私の分まで親孝行をしてください。
さようなら 4月3日
私の突っ込む時は、必ずお父さんお母さんと叫んで突っ込みます。 茂るより 
ご両親様』

8/20・宝塚聖天

家内が仕事の用事で出かけ帰宅は19時ということなので、1人寂しくです。
4時に目覚め、あれやこれや一通りやり、家内を駅まで送っていき、ショートツーリングに出ることにしました。

家内のバイク「アドレスV125」を出して走り出します。
六甲山がクリアに見えていたので、なんとなく六甲山方面に向かって走り出し、「宝塚ゼロ戦」を見に行きたくなりました。
隣町なのにゼロ戦があるとは知りませんでした。
特攻隊など飛行士として日本の盾となった方のお墓?慰霊碑があるお寺で、レプリカのゼロ戦が置いてあるそうです。
これは、手を合わせに行かなきゃ。

子供の頃、お盆と正月に父の実家に帰省した時、毎回爺ちゃんとお墓に行きました。
我が家のお墓に参る前に、お線香を持たされ、戦士された方のお墓に置いて手を合わせて来るように言われました。
私も、家内の実家の墓地に参る時、同じことを息子たちにさせました。
子供なので、遊び心で走って行きます。
バケツと柄杓を持って、兵隊さんの墓石に水を掛ける競争を兄弟でしていました。

場所は、阪急逆瀬川駅と宝塚南口駅の間の山の手住宅地の中ということだけわかっています。
お寺なので、適当に走れば案内板が出ているだろうと、住宅地に突っ込みました。
意外に大きな住宅地で、山に上がれば上がるほど坂が急で、高齢になると住みにくそうだなと思いました。

野生の勘で適当に走っていると、「宝塚聖天通」というのに出くわし、それを山に向かって走ると、12:36ビンゴ!
「宝塚聖天」到着。

「聖天歓喜天」は夫婦和合なので好きです。
20170820TakaraS002s.jpg 狛犬の下に聖天さん特有の「がま口」と「大根」が彫られている。
20170820TakaraS012s.jpg 境内に入ると、「慈侠窟」という小堂が目に入った。
20170820TakaraS008s.jpg 内部に、羽織袴の等身大より大きな木像が立っていました。
「故小林左兵衛翁肖像」写真も飾られている。

『小林左兵衛を知っていますか? ー火消しから社会福祉事業までー 「死んでも天神さんだけは火の粉一つやらんぞ」。明治42年7月、「北の大火」において、79才ながら身内まで動員して指図し、天満宮への類焼を防いだ人物こそ多くの人に慕われた大阪の侠客・小林左兵衛です。
世のため・・・ 文政13年(1830)大阪生まれ。幼名・萬吉。武士出身ながら堂島の質商・明石屋の養子となった父から生を受けた。その後父は養父と不仲になり離縁され、京都の宮家の家人になる。萬吉9才の時、父は失跡。丁稚奉公をしていた萬吉は、このままでは母や妹を養えぬと、家族に迷惑がかからないように家出し賭場荒らしを始める。やがて役人に捕らえられ厳しい責め立てを受けるが、母に迷惑がかかると耐え抜き、役人の方が根負けする。母に諭され改心するが丁稚には戻れず、日本一の侠客になって弱きを助け強きをくじこうと決心する。その後貧乏人を助けるため、堂島の問屋衆に頼まれ米相場に関わったり、無実の罪で投獄された公儀の役人を助け出すなど、名を挙げていく。苗字を許され、名を小林左兵衛と改める。
渡辺知事に頼まれ、明治6年(1873)北区の消防頭取になり、私費で200人増員し300人の消防人足を統率する。いち早く火事現場に駆けつけ働くとから、「火消し壷左兵衛」と呼ばれる。当時土木請負師でもあり、娯楽興行にも関係していた。
大阪相撲と関係が深く、明治11年(1878)大阪相撲の内紛を同じ消防頭取・吉備吉兵衛と共に仲裁。20年後には大阪相撲トップの総理の地位に就き、幾度も相撲の興行元となった。
財を投げ打ち福祉事業に取り組む・・・ 火事で焼け出された身寄りのない人を自宅に引き取り世話をするうちに、明治15年(1882)から粉河町にあった生活困窮者収容施設「お救い所」を引き受ける。さらに日本で最初の感化院(児童自立支援施設)を開いた池上雪枝の事業に協力した。明治18年(1885)小松原町に「小林授産所」をつくり、多くの病人・身体障害者・孤児を収容し、職業訓練などを行った。資金は堂島の米相場の差し米や、大阪の橋の清掃を一手に引き受けて得た収入を当てた。しかし授産所は赤字続きで、元梅田東小学校の場所にあった粋を凝らした庭園「小林遊園地」などを弁済に充て、左兵衛は無一文になりました。大正6年(1917)88才没。墓は長柄墓地にある。
明治時代の大阪の発展に大きく貢献した左兵衛の活躍を題材として、司馬遼太郎は「俄ー浪華遊侠伝」を執筆している』

小林左兵衛のことは知らなかったが、大阪で小林といえば小林一三。
阪急電車の創設者で、宝塚歌劇など現在の京阪神にも大きな影響を残している。
阪急逆瀬川の隣駅は「阪急小林」、なんだか小林に縁があります。
司馬遼太郎さんのこの本を注文しちゃいました。
長柄墓地にも行ってみよう。

役行者像を祀った小堂もある。
宝塚六甲山系を少し登った所にあり、宝塚市街地が下に見え、川西の山々が見える。

20170820TakaraS020s.jpg 『当寺院は七宝山了徳密院と称し、開祖は東寺真言宗・総本山・教王護国寺管長を務めた日下義輝大僧正。摂津平野を一望するこの地は、地元郷士・平塚嘉右衛門翁より寄進を受け大阪福島・了徳院の別院として大正8年建立された。
真言密教は、インドから中国を経て日本に伝わりました。それまでに8人の祖師を真言八祖といい、第1祖・龍猛菩薩から第8祖・弘法大師(空海)となっている。
弘法大師は、讃岐で生を受け、若くして仏教を学び、山林修行を行った。延暦23年(804)空海31才の時、新しい仏教を求めて遣唐使留学僧として入唐し、第7祖・長安青龍寺・恵果和尚より胎蔵界と金剛界の潅頂を受け帰朝した。その後鎮護国家のため東寺(教王護国寺)を賜り、真言密教の根本道場とした。朝廷に篤い信頼を得て高野山に金剛峯寺を創建し、その地を終焉の地にした。没後、朝廷より弘法大師を賜った。
真言宗とは、「真言陀羅尼宗一切如来秘奥之教。自覚聖智修証法門」といい、之を真言宗、立宗の真髄としている。大日如来をご本尊に祀り大日経と金剛頂経をもとに金剛界と胎蔵界との曼荼羅をあらわし三千世界を説くものである。
真言宗寺院は全国に12000寺あり、一部の寺院は修験道の一派と深く関わりがある。修験道は、天台宗・真言宗両宗により検校しており、役行者(役小角)の流れをくみ、沙門の山林荒野を家とするものを言う。当山にも修験道の講があり、10月第4日曜に大護摩行事が境内に於いて、古式通り盛大に執り行われる。
聖天さんとは、前記密教の天部の仏様である大聖歓喜天の略称です。梵名をガネーシャという。その祭祀は各寺院とも秘仏として特別に行っている。当寺院も毎月1日・16日の夜明け前より浴油祈願会を厳修致しております。
聖天さんは真剣に信仰する人々の願い事、凡夫の願いをそのまま具現化してくださる仏様で、財宝守護・無病息災・縁結びの仏様として信仰されている。信仰に一切の理屈不要で、理屈が入ってはならない。仏教ほど立派に完成した学問体系としての東洋哲学はありません。学問に依って完璧に立証された信仰、その彼岸を求めて同行の1人でも多からむことを念じる』

8/19・和歌山・グループツーリング

ここから帰路に着きます。
バイクに戻り、次の目的地に向かいます。
9:12、道を下りながら、「沓掛王子」。

『熊野99王子社の1つ。藤原定家は、建仁元年(1201)10月10日、「ツノセ王子」に参拝した後、「シシノセ」(鹿瀬)の山をよじ登り、「沓カケ王子」次いで「内ノハタノ王子」に参拝しています。また、藤原頼資(よりすけ)は承元4年(1210)4月26日、角瀬川王子(つせがわ)から鹿背山に入り、山中・内匠王子に参拝しています。往時は「沓カケ王子」とも「山中王子」ともいわれていた。「沓掛王子」と呼ばれたのは、険阻な鹿瀬峠を越え、傷んだ藁沓を履き替えたり、牛馬も沓を履き替えたからと思われる。この王子は古くは「原谷字新出王子谷」にあったが、衰退した。江戸時代にはここ披喜(ひき)の地に「鍵掛王子」といわれる王子社が、弁財天社と共に建っており、「紀伊続風土記」では沓掛王子に比定している。鍵掛王子社は、明治時代に鍵掛王子神社になり、明治10年「原谷皇太神社」に合祀された』

鳥居をくぐり石段を上がった所に、小さな祠があった。
弁天社につきものの池はなかった。

県道との合流部近くに、祠発見。
『日高町文化財 民俗文化財 爪かき地蔵さん 弘法大師がこの地に巡錫(じゅんしゃく)した時、土地の人の無病息災を祈願し、岩に爪で地蔵尊を刻んだ。現在、地蔵尊のお姿は見られないが、水をかけると浮かび出るので、水掛け地蔵という。信仰心のない人は拝むことが出来ない。
東隣の宅地内に弘法井戸がある』

r176を東進すると、阪和道の「広川南IC」があった。
それを通過し、r21を南下し、9:43r26との交差点。

20170819KokokuS182s.jpg ここにライダーハウス「ラルク」があった。
「不在のときは、090-7962-0868」
「良流来食堂11:00~14:00、17:00~20:00」
「素泊まりOK0738-52-1861」
お世話になるかも知れないので、チェック。

r26を東に走り、9:51「道の駅・San Pin中津」。
「歴史と文化の町 徳川吉宗ゆかりの地」の看板が目立つ。
御食事処「ほろほろ亭」の「山菜ぶっかけうどん・そば」が399円で安い。
限定10食だけど。

さらにr26を東に走り、右折しr196で南下し始めた時、10:03「高津尾発電所」。
20170819KokokuS192s.jpg 関西電力のマークが茶色のレンガ建物に入っている。
素敵な建物です。

r196を南下すると、10:11異様な光景が見えてきました。
20170819KokokuS195s.jpg 県道に沿う川を渡る大きな吊橋があるのですが、明らかに傾いている。
中央部で35度ほど傾いており、渡れそうにありません。
横に「鳴滝キャンプ場」があり、バンガローが並んでいます。
橋の方は、もちろん通行止めです。

右折してr25を走り、枝道に入って地図に書いてあった「四ツ辻トンネル」に、10:35着。
山中なので、怪しいトンネルを期待したのですが、現代風のトンネルでした。
ここに至るまで、枝道があったので、トンネルができるまで現道だった道があるのかもしれません。
探索したい気満々でしたが、11時に御坊市内のお店で集合なので時間がありません。

僕以外の参加者3名は、10:00「紀ノ川SA」で集合し、このお店に向かっています。
距離的に1時間かからないので遅れることはNGです。
ナビを目的地にセットすると、なんと到着予定時刻が11:00ではないか・・・。

r25~r191で5分遅れで到着しました。
最後迷ってしまい、JR踏切を渡る羽目になり、ここで数分通過待ちを食っちゃいました。

お店の駐車場にバイクを停め、バイクジャケットを脱いでいると、リーダーがお店から出てきました。
「すいません、遅れました~」
店内に入り、滋賀のFさんと西宮のHさんに挨拶します。
まだ料理は出ていません。
僕の到着を待っていてくれたのかも・・・。
何を注文しようかな?と席に着きながら壁のメニューを見ていると、注文済とのことです。

皆さんと駄弁りながら、焼肉と串焼きを美味しく食べます。
食べ放題1500円メニューで、焼肉は空になると運んでくれます。
串焼きはカウンターに野菜系・魚系・肉系などが並んでおり、取りに行って自分で焼きます。
串焼きを玉子?汁に漬け、衣をまぶしてテーブル上の鍋の油に突っ込みます。
簡単で意外に油飛びもなく、楽しく食べられました。

精算し、13:08出発。
お店のオーナーさんもバイク乗りで、以前一緒にツーリングしたことがあります。
オーナーさん先頭に、一緒にGO! r26~r191~r24で「煙樹海岸」に出て、13:16休憩。
気持ちの良い砂浜が広がっています。
湾を挟んで火力発電所が見えます。

r24を海岸沿いに走り、14:18「白崎海岸公園」着。
カフェでお茶しながら歓談。

15:13、帰路に着きます。
r24を海岸沿いに南下し、R42で北上します。
15:50、「湯浅町・湯浅栖原SS」で給油。
309km/11.72L=26.4km/L。
有田ICで阪和道に乗りました。

16:19「紀ノ川SA」で、「紀ノ川水了軒手作り風ソフトコーン・140円」を買って休憩。
ここで解散です。
阪和道~近畿道~中国道を走り、18:18帰宅しました。




8/19・和歌山「熊野古道・鹿ヶ瀬峠」

バイクに戻り、次の目的地に向かいます。
r23~R42~r176を走る。

8:14「鹿ヶ瀬峠」への分岐到着。
20170819KokokuS100s.jpg 「熊野古道・鹿ヶ瀬峠(ししがせ)」案内板が立っています。
ここから熊野古道を入っていきます。
20170819KokokuS106s.jpg 8:24車道のどん詰まりまで来ました。
立派なトイレがあります。

暑いのでバイク装束を脱いで、トイレを拝借してから、山道を入っていきます。
熊野古道・中辺路の難所「鹿ヶ瀬峠」がこの先にあり、中辺路最長の石畳道が遺っているそうです。
20170819KokokuS109s.jpg ここは「金魚茶屋駐車場」と言うそうです。

8:26「石畳まで0.8km」の看板が立っています、GO!コンクリート舗装されていますが、前日に降った雨の影響か、山から流れ出た枝がアチコチに溜まっています。

8:31『史跡 題目板碑 前の梅畑は法華堂跡(8代将軍徳川吉宗や生母浄円院が帰依した広川町養源院の源流)で、跡地にあった板碑をここに移した。1号碑には永享・・、2号碑嘉吉2年(1442)、3号碑永享8年(1436)、4号碑寛正2年(1461)の年号が入っている。いずれも室町時代のもので、郡内で最も古い板碑の1つ』

養源寺が気になり調べました。
『養源寺の由緒は鎌倉時代にさかのぼる。その昔、一生のうちに6万部の経を詠む修業をしていた比叡山の僧・円善上人が熊野詣での途中、鹿ヶ瀬峠で亡くなった。
その時、残りは3万部。しかし死後も願力が抜けず白骨化しても経を詠み続けている円善上人を壱叡上人が発見した。一年後に同じ場所を訪ねたら白骨の読経は止んでいた。六万部を詠み切っていたのだ。
時代は南北朝時代に移り、今度は妙実上人が鹿ヶ瀬峠でその史実を知り、弟子の朗妙をこの地に留めて法華堂という名の草庵をむすばせた。これが養源寺の起源で、室町時代末期には広村、現在の有田郡広川町に移転、養源寺を名のった。
養源寺の現在地は天洲ヶ浜に近く、中世は広城主・畠山氏の館であり、頼宣公の時代には紀州徳川家の広御殿だった。
今も海側には堀、庭に頼宣公手植えと伝わる枝垂れの松が残り、御殿の面影がしのばれる。
この御殿跡地を養源寺に寄進したのが暴れん坊将軍とも称される8代将軍・徳川吉宗公である。吉宗公は生母・お由利の方(浄圓院)の影響もあり、養源寺に深く帰依していた。 養源寺には、お由利の方の母が旅の途中で持病の癪に倒れ、ここで世話になったという言い伝えがある。加えて頼宣公の母、お万の方以来、徳川家の奥方は日蓮宗信仰に熱心で、お由利の方の信仰、特に養源寺の大黒天への信仰はことのほか厚かった。
その子源六、のちの吉宗公は四男坊ながら父・光貞公と2人の兄の死があいつぎ、思いもかけず、紀州徳川家五代藩主となった。その後、将軍の座をも射止めた。
この一連の幸運はさぞや大黒天の霊験によるもの、と当時は大変な噂となり、年1回のご開帳である「大黒天祭礼」(4月第1日曜)は黒山の人だかりとなった。
大黒天はお由利の方の母の守り本尊であった。
また、子(ねずみ)は大黒天の使いでもあり、子年生まれの吉宗公はそれを知り大黒天に大いに興味を持ち、藩主時代に2度、将軍になってからも1度、この地を訪れている。 吉宗公と養源寺の深いつながりを示す史実がもうひとつある。ここには、紀州徳川家江戸御殿が移築されていたのである。これは吉宗公の正室・眞宮理子姫(さなのみやまさこ・寛徳院)が御殿として使用していたものである。
16才で紀州家に嫁入りした眞宮は20才で流産、それがもとで若くして亡くなった。
その御殿の資材一式が江戸から2隻の船で広村に運ばれ、移築されたのが現在の養源寺書院である。
この他、頼宣公、光貞公、吉宗公らの位牌をはじめ、眞宮所蔵の王朝風の屏風やお由利の方寄進の唐手鏡、曼蛇羅、吉宗公親筆とされる父母状、葵の御紋入り長持ち、家来らの書状など養源寺には紀州家、とりわけ、吉宗公ゆかりの文化財が数多く現存している。
領地財政の建て直しのため新田開発や、湯浅醤油、金山寺味噌など地元産品の振興にも力を尽くした吉宗公。いまだ解き明かされない謎が多いだけに伝説のヒーローとして今もなお人気や注目を集めているのだろう』

あ~また寄ってみたい寺院が増えちゃった。
20170819KokokuS120s.jpg ここまで森の中の道でしたが、寺院跡だからか空が広がり、芝生の道になった。
苔むした井戸跡があったが、これはコンクリート井戸なので近代ももののようです。
古道の擁壁が石積みになっている。
往来が多かった現役時代から、崩れては積みを繰り返してきたのかも?
再び熊野古道が、トレッキングブームで少し脚光を浴びだしているので、もう少し整備が入れば、「鹿ヶ峠石畳」で健脚が来そうです。

山から流れた石が覆っていたり、路上河川状態に水が流れていたり、とても良い道とは言えない道をゆるく登っていくと、8:38「石畳の道」になりました。
角の取れた拳より少し大きな丸石が敷き詰められています。

8:40、「石畳の道」の横に石積みで擁壁された段郭の広場が現れました。
『熊野古道散策公園・滝ザクラ 公園の完成を記念して、福島県田村郡三春町滝野天然記念物「三春滝ザクラ」の苗木を植樹した。紅枝垂れと言われるエドヒガシ系のイトザクラで樹齢100年と言われる日本最大の巨木・樹高9m・根回り10.5m。滝の水が落ちるように壮麗に咲くことから、「滝ザクラ」と名付けられた』

「マムシに注意」の看板が立ってる。
こういう道を歩くときは、いつも足元をに気をつけている。
血清があるので街に出れば大丈夫ですが、人に出会わないような山道を行くことが多いので、電話連絡できなければ僕はアウトです。
サルスベリが、綺麗な花を咲かせている。

8:47、森に入り、つづら折れで標高を稼ぐ道になっています。
『史跡 熊野参詣古道・石畳道 熊野99王子社を辿りながら、熊野三山に参詣するため利用された古道のうち、現存する最長の石畳道である。全長503m。ここは鹿ヶ瀬峠を越える一番の近道で、参詣古道での難所の1つであり、旅人の苦難が偲ばれる』

20170819KokokuS147s.jpg ここからの石畳は、様々な石が利用され、ここまでと違い木材の流れ留枠がない。
いかにも歴史を刻んだ香りがする。ここからが史跡のようです。
木枠の入った丸石に「史跡」としての違和感があったので、これで納得できました。


8/19・和歌山・興国寺

久しぶりにバイクツーリンググループに参加します。
人気すぎて、1ヶ月前には参加募集定員満員になることもあるので、行きたいなと思っても確実に行ける数日前では申込み出来ません。
今回は土曜日ツーリングなので4人という少人数グループなので2日前に申し込みました。
和歌山のお店に食べに行きます。

4時前に目を覚まし、4:25に「招き猫CB400SB」に乗って出発。
R171~中央縦貫道~吹田ICから近畿道に乗ります。
道なりに阪和道に入り、5:25「岸和田料金所」。
一気に走ってきたので、料金所通過後、広いところでバイクを停めて水を飲みます。

都市高速道路の近畿道には気の利いたSAやPAがありません。
高架下に下りていくPAで、下り線「東大阪PA」コンビニがあっていいのですが、家から近すぎて。
上り線の「八尾PA」はトイレしかありません。

5:36「岸和田SA」着。
「ガリガリ君リッチ・青りんご・140円」という高級ガリガリ君を買ったが、かき氷部分が少なくイマイチでした。
6:18、SAを出発し、7:00「湯浅PA」着。

「広川IC」で下車し、R42を南下し、r23に入り、7:24「興国寺」。
『臨済宗・鷲峰山・興国寺 葛山五郎景倫(かつらやまごろうかげとも・願性)が、鎌倉3代将軍・源実朝の菩提を弔うため、安貞元年(1227)真言宗「西方寺」として建立。
正嘉2年(1258)心地覚心(法燈国師)が宗旨を禅宗に改めると、「関南第一禅林」として栄え、多くの高名な僧を輩出した。覚心は永仁元年(1298)示寂、国師号を授かり、興国元年(1340)後村上天皇から興国寺号を賜った。
天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めで堂塔の大半を失ったが、紀州藩浅野家・徳川家代々の藩主の庇護の元復興された。
他に普化尺八の本寺、「径山寺味噌(きんざんじ)」「醤油」の我が国発祥の地として知られる。 重文:木像・法燈国師坐像(鎌倉時代)、絹本着色・法燈国師像(鎌倉)・紙本墨書・誓度院規式(鎌倉)法燈国師1207~1298 建長元年~6年(1249~1254)宋時代の中国で修行、無門慧開禅師より印可を受ける』

金山寺味噌を湯浅で知ってから、ここに来たかった。
尺八のことは知らなかった。

帰宅後調べたら、法燈国師が中国で禅を学んでいたが、尺八も修行の1つだったそうです。
4人の居士を連れて帰り、興国寺の末寺として京都北白川に「明暗寺」が建ち、ここが虚無僧の拠点となった。
故にここが日本の尺八発祥の地と呼ばれるようになったようです。

さらに「北白川・明暗寺」は何処にあるのか調べると、東福寺の塔頭だった。
そう言えば以前東福寺を訪問した時、「尺八道場」と書かれていて不思議だなと思った寺院でした。
ここで結びつきました。
やはり現地訪問して見て回ると、いろんなことに気づきます。

20170819KokokuS003s.jpg 駐車場横に、彫刻の素晴らしい山門があった。
緩やかな石畳の坂を上がっていくと、由良守応の墓があった。
『陸上交通の先駆者 由良守応(ゆらもりまさ) 文政10年(1827)門前村に生まれた由良弥太次(=守応。号は義渓)は、幕末の志士として活躍、明治新政府に仕え、後藤象二郎・陸奥宗光などと親交を持ち、岩倉具視欧米使節団の一員として先進文化を吸収。帰国後東京で2階建て乗合馬車「千里軒」の開業など、我が国文明開化の先駆的な事業を数多く創立した。明治27年(1894)3月、67才で生涯を閉じる』

水音が聞こえてきて沢を渡った。
ここに祠があった。
『龍王社 祭神:八大龍王 いつから祀られているか不明だが、江戸時代の文化4年(1807)「興国寺古文書」に記載されている。龍王とは天龍八部衆といわれ、仏教の護法神で、雨乞いの本尊として農業の神として信奉されてきた。法燈国師が興国寺に祀られた弁財天(四所弁天ししょべんてん)の父と言う説もある』

無縁仏が集められている。
江戸明治時代の墓石、それ以前と思われる宝篋印塔や五輪塔、大東亜戦争で散華された方の神道式墓が並んでいる。
法燈国師が宋から持ち帰った味噌製造技術がこの寺から広まり、地元湯浅名産「金山寺味噌」として今にまで伝わり、その製造過程から出来た醤油が全国に広がり、日本を代表す
る味となっている。
こんなお寺だから、多くの偉人の墓があったはずです。

20170819KokokuS036s.jpg 石段を上ると、綺麗に石垣が積まれた本堂郭だった。
20170819KokokuS061s.jpg 瓦には「笹竜胆紋」が入っている。
源氏に多い家紋なので、建立時から続く寺門なのかもしれません。

20170819KokokuS032s.jpg 山門を入ると、中央にドーンと法堂(本堂)が建っている。
珍しく2階建てと思われる建物で、大瓦屋根ではなく、2層瓦屋根になっている。
「院庫」「臨済大衆禅学道場」と書かれた僧坊がある。
20170819KokokuS035s.jpg 中を覗くとピカピカに磨かれた板の間がぴかりと光り、大ぶりで豪華な生花が正面に飾られている。

20170819KokokuS050s.jpg 法燈国師の母「慧心大姉」塔があった。
横は、歴代住職の無縫塔が並んでいる墓地でした。

20170819KokokuS073s.jpg 天狗堂や子安観音がある。
20170819KokokuS078s.jpg 鐘楼がある。
まだ開いてはいない寺務所の横に売店があった。
20170819KokokuS090s.jpg ガラス戸から中を覗くと、御守や金山寺味噌・醤油が並んでいた。
20170819KokokuS093s.jpg 軒には木魚が下がっている。



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ワークマン定点観測に行ってきました。
「前開きの下着の上に履く暖かズボン下」と「襟のない暖かチョッキ」の物色です。
2日前、家内と行ったユニクロで「襟ありキルティング・チョッキ」があったけど、襟無しがなかったからです。
襟ありは、襟部分もキルティングで厚みがあるので、上着を着ると襟が二重になっちゃってイマイチです。

僕の大好きなワークマンは期待を裏切らず、希望のものが手に入りました。
僕はスタイリングやカラーリングより、機能重視です。
それほど大きくないので、いつものように店内を観測し、職人さんの旬のものを見て回ります。
バイク用カッパを見つけました。

その名もズバリ「レインウエア バイカーズ」!
バイクショップで、レインウエアを売っていますが、風によるバタつき対策として細身に作られています。
年齢なりにウエスト太めの僕には、身長を合わせるとウエストがキツイので履けません。
冬用バイクウエアの上から着ることなんて考えられておらず、夏用メッシュジャケットの上からでもキツイ感じがして、「バイクウエアメーカーは何考えているんだ」と憤慨すら覚えています。

そこで、スクーター通勤用にずっと愛用してる、ホームセンター・レインウエア(耐水圧20000ミリ)をバイクに積んでいます。
防寒着としても重宝に耐久力抜群なので、タマにしか使わないので、5年に1回ぐらいしか買い替えませんが、この「バイカーズbyワークマン」は良さそうです。
ズボンの裾はマジックテープで広がり、靴を脱がなくても履けそうです。

膝にソフトプロテクションパットが入っています。
耐水圧も15000ミリと、ホームセンター・レインウエアの良いのに迫る機能です。
腰にもマジックテープがついており、バタつきが気になる時はウエストを絞ることが出来ます。デザインも、ホームセンター・レインウエアよりは格好良いし、これはいいなと思いました。
上下セットで、5800円でした。

8/18・プリスクールのサマースクール

お盆の写真をグーグルドライブにアップし、長男夫婦・次男夫婦にアドレスを伝えました。
それに対し、長男のお嫁さんから返信がありました。
お盆の写真を楽しみにしていたようです。

僕の弟の娘(JK)がお姉さんになっていてびっくりし、家内の姉の長男の長男・0才の顔が見れて喜んでいます。
次男の長女・すみれちゃん・1才がますます可愛くなってて、ベビーモデルに応募すれば絶対受かると太鼓判を押しています。
でも我が子りょうくん4才が東京在住中スカウトされた時は断ったのに・・・

メールに、グーグルドライブのアドレスがあったのでクリックしました。
写真やビデオを見ます。
アメリカ・ニュージャージーは暑さも和らぎ、朝晩は涼しく感じるくらいになってきたようです。

アメリカで初めて釣りに出かけ、会社が入っている敷地内での夏のイベントに参加したりしたそうです。
20170818Y4994s.jpg 長男が公園内の川で釣りをしており、横でりょうくんがコールマンの椅子に座っています。
20170818Y4972s.jpg 芝生エリアで、日本人ばかり6家族集まった集合写真を撮っています。
テントや椅子でワイワイやったのかもしれません。
20170818Y4841s.jpg 日本から赴任している家族全員かもしれません。
30代なかばの長男が責任者だから、みんな同じような年齢で、子供も同じぐらいです。

こうくん1才4ヶ月は、「ママ」「パパ」「アンパンパン」「ポッポ(機関車のこと)」「ブーブー(車)」は話せるようになったそうです。
りょうくんはトーマスを卒業しつつあり、航ちゃんがトーマス大好き期に入ったようです。
トーマス図鑑を眺め、トーマス・プラレールで遊ぶのが日課だそうです。

20170818Y4789s.jpg
3輪キックスケーターを買ったようで、自宅前でりょうくんがかなりのスピードで乗っています。
こうくんを乗せ、りょうくんがハンドルを持ったこうくんの手の上から持ち、ゆっくり動かしています。

遼くんはスクールでの夏をかなり楽しんでいるようです。
プリスクールのサマースクールは、水泳とサッカーのプログラムに参加しているようで、プールでお姉さんに手を引っ張ってもらっています。
20170818Y5030s.jpg
サッカーはボールを蹴って走り回っています。

20170818Y4767s.jpg 前回の競馬場の写真もあります。
映画「カーズ」を観に行った時の写真もあります。
アミューズメントコーナーで、長男はりょうくんを膝に乗せ、りょうくんが車を運転するのをサポートしています。
砂場で長男がこうくんを膝に乗せ、アナログ・ショベルカーを操作しています。

20170818Y4825s.jpg りょうくんは、マイサングラスでキメています。
プリスクールでタイピングしているようで、「RYOSEI」と自分の名前を打ち込んだモニターを見せています。
20170818Y5026s.jpg
魚の博物館に行ったのか、お揃いの黄色Tシャツを着込んだプリスクール・メンバーと電車に乗っています。
20170818Y5035s.jpg
楽しそうだな。

20170818Y5032s.jpg
あと1ヶ月すれば、僕ら夫婦も長男一家に合流し、孫達の成長を見れます。
たくさん遊ぼう。

8/16・京都・車折神社~仁和寺~京大

r29に乗り、嵐山・渡月橋の西袂にみんなを降ろし、僕は駐車場に向かいます。
「11:50~14:22・タイムズ24嵐山三条第2P・1日600円」。
11:53渡月橋東に戻ってくると、電話が鳴りそこでみんなと合流できました。

20170816KyotoS088s.jpg クロネコヤマトの軽四トラックのラッピングが京都らしい。
20170816KyotoS089s.jpg 人力車が走っている。
20170816KyotoS090s.jpg 着物レンタルショップがあり、ローソンの外装も落ち着いたカラーリングです。

表通りから入った店舗で昼食を取ります4人分3600円。
12:39嵐山「茶和々」というお店で、抹茶大福250円を頬張った。

20170816KyotoS091s.jpg 嵐山電鉄・嵐山駅で、「1日フリーきっぷ乗り放題500円」を買います。
10分毎に発車しているので、使い勝手が良いです。
20170816KyotoS094s.jpg 電車に乗り12:45、3つ目の駅「車折神社」で下車し、神社をお嫁さんに見せます。

芸能神社なので、多くの芸能人の絵馬が下がっている。
長嶋一茂さんのがあって、彼も芸能人なのかとビックリ。
20170816KyotoS104s.jpg 板玉垣を見ながら、「優香さんがいた」・松平健・米倉涼子・西田敏行・野々村真・押切もえ・土屋太鳳・KABAちゃん・貫地谷しほり・釈由美子・武井壮・辺見えみり・三浦理恵子・観月ありさ・井上真央・南野陽子・嘉門洋子さんなど有名所や僕の好きな女優さんの他に、「粉ミルク」などの面白い名前も並んでいました。

再び電車に乗り、2つ目の駅「帷子の辻」で「北野線」に乗り換えます。
20170816KyotoS116s.jpg 13:15、ここから5つ目の駅「御室仁和寺」で下車し世界遺産を観光します。
20170816KyotoS119s.jpg 金閣寺・龍安寺などが並ぶ「世界遺産通」にあって、仁和寺は拝観者が少なめです。
境内だけなら拝観料無料だし。

20170816KyotoS123s.jpg 予定では、御殿をみんなで見学し、次の北野天満宮に向かう時、僕だけ嵐山に戻って車を持ってくることにしていたが、1時間ぐらい遅れているので、僕だけ御殿に入らず車を取りに嵐山に戻ることにする。
御殿拝観料は500円。

20170816KyotoS137s.jpg 13:34「仁和寺駅」、電車に乗り嵐山に戻る。
車に乗って、嵐山高架道路~r29世界遺産通を東進。
「広沢池」横を走り、仁和寺前に来たがまだ家族が見えないので、家内に電話すると御殿拝観中で、ゆっくりすればいいよと伝える。

少しバックし、14:40「セブンイレブン京都福王子店」で、「赤城ガリガリ君梨75円」を
買って、仁和寺前に車を停めて食べる。
みんなをピックアップし、世界遺産通を東進し竜安寺前を通過。
枝道に入り「わら天神前」。
この交差点の名前は藁人形を想像させます。
ここで右折し「西大路通」を南下します。
平野神社西側を走り、「今出川通」を東進。
「北野天満宮」前を通過し、京都御所と同志社大学の間を抜け、加茂大橋。加茂大橋のすぐ上流と、下流少しの場所に川を歩いて渡れる飛び石がある。
未だ渡ったことがないので、いつか渡りたいな。
映画の恋人定番スポットです。

15:09、京都大学着。
京大正門カフェでお茶しようと思ってたのに、15:00でクローズのようです・・・残念。
ここのカフェは、時々利用させてもらってます。
すみれちゃんは、大きくなったらこの大学に来るかな?
東京在住だから、たくさん大学があるので、わざわざ京都まで来ないよね。

20170816KyotoS154s.jpg 展示室に入り、次男が学部時代作っていたようなジオラマ模型を見て、京大の歴史展示を見る。
観光の方も多い感じがする。
20170816KyotoS156s.jpg すみれちゃんは、ハイハイと伝い歩きで楽しそう。
車のチャイルドシートから開放されたので、生き生きとしている。
生まれてから1年、病気知らずで熱を出したこともない健康優良児です。

『京都大学を創立しようとする動きが本格化したのは、日清戦争終結後である。
それ以前から、地元の京都をはじめ在野の人々の間で東京の帝国大学に次ぐ2番目の大学を設置するべきとの主張はあったが、中等教育機関への進学者の増加と、日清戦争後の産業の発達、それに伴う高等教育機関の必要性が創立を後押ししたといえる。
京都大学は、1897年6月18日制定の勅令第209号「京都帝国大学二関スル件」によって創立された。当初想定された分科大学(現在の学部)は、法・医・文・理工の4つであり、最初に理工科大学が設置された。初年度は教官13名学生47名という小規模であったが、次第に教官‘学生数も増え、校地も拡大し、総合大学としての体裁が整っていった』

立命館はガチャガチャしてそうですが、同志社は建物も綺麗なので次探索しようかな。
15:38、帰路に着きます。
「東大路通」を南下します。
この日は「京都五山送り火」なので、夕方以降混むかもしれないので、早めに京都を脱出しよう。

意外に四条八坂神社前まで渋滞なしでしたが、流石に清水寺が近づくと交通量が多くなってきた。
でも渋滞で動かないということはなく、九条通~R1~京都南ICから名神に乗り伊丹まで戻ってきた。

「最終日なのでご馳走したい」と次男夫婦に言われ、伊丹旧白雪本社跡地に出来たイタリアンレストラン「グラーツィエ」でゴチになった。
帰省中ずっと親に出してもらって、お嫁さんが恐縮したのでしょう。
3月の伊勢神宮参拝で宿泊費を出してもらったからいいのに・・・。
大きく見れば、同じお財布ですから・・・




8/16・京都・鈴虫寺~月読神社~松尾大社

次男一家との最終日です。
あっという間のお盆休み最終日です。

京都にお礼参りに行きます。
8:35出発します。
中国道~名神で、「京都南IC」下車。
R1を北上し、左折して久世橋通に乗り西へ、道なりにR171に乗り久世橋を渡ります。
右折して「桂川街道」に乗り北上し、新幹線・JR東海道線・阪急電車京都線をくぐります。
R9を渡り、左折し枝道に入ります。
阪急嵐山線を渡ってすぐ左折し、r29。
更に枝道に入り、9:29「鈴虫寺P」。
500円でした。

20170816KyotoS002s.jpg 「かぐや姫竹御殿」というのがありました。
『京都松尾は、古来名竹の産地で、「竹取物語」もこの地で発祥したと伝わっている。竹細工名人・長野清助翁が、日本の竹文化・竹工技術保存のため27年の歳月をかけ創建した竹の芸術遺産である。観光:金閣寺型「竹茶屋」「竹客殿」 祈願:縁結び・健康 相談:希望者のみ相談をお受けする』
興味津々ですが、家族がいるのでパス。
まだ開門前のようです。

「鈴虫寺」の石段に並び待つ。
20170816KyotoS011s.jpg 拝観料500円で堂内に入り、「寿々むし菓子」と冷たいお茶で涼を取りながら、お坊さんの説法を聞きます。
鈴虫かごから鈴虫の音色が聞こえ涼やかです。
鈴虫のためにクーラーが利いており気持ちが良い。

説法は巧妙で笑いを誘う要素満載で、30分があっという間でした。
前回とはお坊さんも違い、お話も違う。

「コンビニ=今美荷」
今:子供のように今を生きる。
過ぎ去り変えることの出来ない過去を引きずったり、将来の不安で悩んだりせず、今できることを精一杯生きることが大切。

美:美しい自然を愛で、部屋は身の回りを掃除整理整頓し美しく保つと心が豊かになり、幸せも舞い込む。

荷:生活をしているとついつい荷物が増える。
荷物を少なくすると心も軽くなり、気持ち良く暮らせる。

20170816KyotoS017s.jpg お嫁さんは御朱印を授かりました。
山内を巡り、山門を出た所にあるお地蔵様にお礼を伝える。
すみれちゃんがお嫁さんのお腹にいた頃、家内とサイクリングで巡りお願いした寺院です。
「無事、元気な子を授かりますように」と一願した。

20170816KyotoS021s.jpg ここのお地蔵様はわらじを履いておられ、住所と名前を一願とともに唱えます。
すると願いを叶えに歩いてこられるありがたいお地蔵様です。
元気でチャーミングなすみれちゃんを授かったお礼をしました。

20170816KyotoS018s.jpg ここは2度目ですが、抜群に楽しいお寺さんです。
金閣寺のような歴史・美しさや派手さはありませんが、説法が素晴らしく、中世は知識層で道徳や人を導いた寺院本来の姿を感じる。
京都一番のお勧め寺院です。
内面を磨く女性受けが良く、今回も女性参拝者の方が多かった。

r29に出て、10:41「月読神社」。
安産の神様です。
松尾大社の摂社ですが、三韓征伐をした神功皇后が、戦闘中に身ごもった子(応神天皇)が生まれないようお腹に巻いた石がある。
お願いサイクリングで、奉納小石を授かり、次男夫婦の名前を書いて安産を祈願しました。

『月読神社は延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。顕宗3年(487)阿閉臣事代が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒巣田の地に社を創建したとされ、斎衡3年(856)に松尾山南麓の現在の地に移ったと伝えます。境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御舟社、聖徳太子社などから構成されています。
月読神社が京都へもたらされるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえます』

お盆期間中ですが、境内は静かで、すぐ側の嵐山とは雲泥の違いです。
20170816KyotoS045s.jpg 『月延石:子授け・安産 中へお入りになり石を撫でて御神威をお受けください。安産守り・祈願石は、社務所にて授与致します』
月延石をさすって、元気な子を授かったお礼を伝えました。

10:54「松尾大社」。
社紋が修理中のようです、大きな酒樽にお嫁さんとすみれちゃんが座り、パチリ。
「お酒の資料館」を覗きました。

20170816KyotoS062s.jpg 『大山祇神と市杵島姫命2神を祀る。大宝元年(701)秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請し、秦氏の氏神として社殿を建立したのが起こり。平安遷都後は王城鎮護の神として、中世以降は酒造の神として信仰を集める。
本殿(重文)は「松尾造(両流造)」と呼ばれる珍しい建築で、天文11年(1542)改築された。宝物館には、等身大の男神坐像2体、女神坐像1体(重文)が安置されている。霊水「亀の井」の水を醸造の時に混ぜると酒が腐らないと伝えられる。4月の松尾祭には、境内に山吹が咲き乱れ、桂川の神輿の船渡御が行われる。7月に御田祭が行われる』

素敵な檜皮葺の拝殿本殿ですが、本殿は修復中でした。
境内に「招福樽占い」があったので、次男夫婦は1矢ずつ射ました。
次男の矢は樽の縁に当たりど真ん中に当たりました。
お嫁さんのは、次男からあれこれアドバイスをもらいながら樽の外でした。
大吉福とあまり福を授かりました。

20170816KyotoS072s.jpg お酒の神様だけあって、奉納樽の量が凄い。
「恋愛成就・夫婦和合:相生松」があり、ハート型の絵馬が沢山下がっている。
お嫁さんは、御朱印を授かっていました。

20170816KyotoS081s.jpg 『撫で亀さん(神使の亀) 古来「亀」と「鯉」は松尾大社のお使いと伝えられている。中でも亀は健康長寿のシンボルとして親しまれてきた。直接手で触れ、霊感にあやかりご利益をお受けください』


8/15・明石

家内の姉の家にお邪魔する日です。
息子・娘一家も集まるので、すみれちゃんを皆さんに紹介します。
いつものように4時に目が覚め、ゴソゴソします。
7:53に御用達GSに行き給油しました。

8時になったので、家を出発します。
宝塚ICから中国道に乗り、阪神高速7号線で明石に出て、今年引っ越した明石駅前のタワーマンション地下に車を入れます。

20170815AkashiS171s.jpg まだ時間が早いので、9:45「魚の棚商店街」を見学します。
明石といえば「玉子焼き」・・・食べましょう。
20170815AkashiS177s.jpg 「とり居」さん「15個550円」に入ります。
赤井英和さん・福本豊さん・織田信成さんなど、いろんな方のサインが貼られています。
もうすぐみんなでお昼を食べるので、1人前でもいいかとお願いすると、あっさりOK。
20170815AkashiS180s.jpg 初めてのお嫁さんは、「美味しい、美味しい」と喜んでいます。
20170815AkashiS183s.jpg 商店街を歩いていくと、タコがぶら下がっています。

タワーマンションに戻り、10:25駐車場の上の「ジュンク堂書店」前で兄に電話を掛けます。
兄が降りてきてくれ、エレベーターで部屋に上がります。
セキュリティが厳重で、1Fインターホンで部屋に電話を掛け、そこから数分以内にエレベーターに乗らないといけないそうです。
エレベーター内の様子が部屋から見えます。
ショッピングセンター併設で入口がわかりにくく、初めての宅配便さんは迷うそうです。

20170815AkashiS201s.jpg 部屋は高層階で、窓から明石球技場・明石球場やお城の石垣・お堀が見えます。
20170815AkashiS193s.jpg 明石海峡大橋がクリアに見え、明石港からジェノバラインが出ていきます。
20170815AkashiS202s.jpg JR山陽本線の他、新幹線も眼下に見え、これは面白そうです。
兄の書斎の壁には、次女の中学生時代の絵が飾られています。
20170815AkashiS209s.jpg プロと思えるほどです。
引っ越しの時、出てきたので飾ったそうです。

長女・次女一家もやってきます。
20170815AkashiS213s.jpg すみれちゃんはすぐに慣れ、楽しくハイハイ・つかまり立ち・数歩歩いています。

歩いてお店「木曽路」に行きます。
20170815AkashiS215s.jpg 12:56、義理姉の長男一家もやってきました。
午前中お嫁さん実家の法事だったので、この時間になりました。
義理兄の名前の一字をもらった「ケンくん」0才と初対面です。
3月に生まれました。
7月にうまれたすみれちゃん、4月に生まれたうちの長男の次男こうくん1才と同じ学年なので、将来楽しそうです。

僕らが兄夫婦と仲が良く、従兄弟であるその子達も仲がいいので、ずっと仲良く交流を温めて欲しいです。
2時間食事を終え、部屋に戻ります。
みんなでワイワイ。

17:02、お開きになり、阪神高速7号~中国道で帰宅しました。
ファミリーレストランで夕食を取りました。

8/14・法事~お墓参り~丹波篠山

お盆の法要の日です。
家内は、隣の僕の実家に帰省中の次男一家のために朝食を作り忙しそうですが、僕は至ってのんびりです。
朝食を早めに食べ、実家の仏壇お部屋に座椅子を8つ並べます。
提灯は2日前に出していたので、これで準備完了。

近所の隠れ家に行ってPCゴソゴソしていると、次男一家がやってきました。
朝のお散歩だそうです。
次男はチビの時ここで遊んでいたので、お嫁さんとすみれちゃん1才を2Fに案内し、ゴソゴソやっています。
卒業作品として製作したヨットも隣の家に置いてあるのですが、そちらには行きませんでした。

降りてきたので、PC作業を終え、一緒に近所の公園に行きました。
子供の頃の話をしています。
更に古い僕の子供の頃の話もします。
音楽が聞こえてきたので、お嫁さんが興味を示しました。
市民プールで、監視員さんがプールを掃除しています。
「こんなに近くにプールがあるの知りませんでした」と驚いています。

帰宅し、実家に行き、すみれちゃんと遊びます。
木魚ポクポクやチーン。
お寺さんがもうすぐ来られます。
弟一家がやってきましたが、甥大学生は体調を崩しお留守番だそうです。
予定の11時を過ぎましたが、お寺さんが来られ法要が始まります。
すみれちゃんはお利口さんで、静かにしていました。

みんなでダイニングに移動し、家内が用意してくれたお素麺を食べます。
食べ終わり、恒例のお墓参りです。
弟の方が先に出発したので、電話でお花を頼みます。

20170814SasaS143s.jpg 14:16お墓に着き、雑草を抜きます。
いつも彼岸花が咲く場所だけは手を付けず残します。
彼岸花は成長が早く、何もなかったのにある日突然真っ赤な花が咲いていつも驚きます。

みんなで集合写真を撮り、丹波篠山に向かいます。
いつもショートハイキングをするのですが、チビちゃんがいるのでお嫁さんが行ったことない篠山観光のみです。
城主・青山家の殿様から、次男の名前を拝借しているので、ここは見せねば。
ここと、美作城主・森家、姫路城主・本多家の殿様から名前を拝借しています。
美作津山城・姫路城には連れていきましたので、あとは本多家の菩提寺・書写山円教寺に連れて行かねば。

r12を北上し、15:13篠山の「JA丹波ささやま特産館」に駐車します。
20170814SasaS150s.jpg 「春日神社」に参り、二階町を散策します。
20170814SasaS156s.jpg 京都のように、着物レンタルのお店がありました。

20170814SasaS158s.jpg 各商店に、味間小学校の小学生が作った行灯が下がっています。
「日本遺産のまち丹波篠山」と染められた幟が下がっています。
20170814SasaS162s.jpg ぼたん鍋専門店「ぼたん亭」ビルの大きなイノシシ看板に驚いています。

商工会議所「昭和百景館」に入り、次男夫婦がお土産を買います。
ソフトクリームが美味しい。
南に歩き、僕ら夫婦は「大正ロマン館」で「かき氷」休憩します。

「あ、インスタグラムの看板がある」と次男が言い、すみれちゃんと一緒に収まっていました。
僕は名前だけしか知らなかったのですが、次男夫婦に聞いたら写真SNSだそうです。

20170814SasaS161s.jpg みんなは、篠山城見学に行きます。
僕らがかき氷休憩から出てくると、ちょうどみんなも帰ってきました。
16:17に車に戻り、帰路に着きました。
帰宅して、「ほっかほっか亭」で夕食を買って食べました。

8/13・長谷寺~室生寺

20170813HaseS039s.jpg 国宝「本堂」に入ると、法要が始まりました。
お経が気持ち良い。
本尊の「十一面観世音菩薩立像(重文)は室町時代製で10mの高さがあり、とても立派です。
我が国最大の木造仏像だそうで、圧倒される大きさです。

20170813HaseS048s.jpg 次男たちはろうそくを灯しています。
お嫁さんの実家は、日取りや風習を大切にしており、ろうそくを灯すことを子供の頃からしていたのかもしれません。
信心深いお嫁さんはいいわ。
家内の実家は、お坊さんに月命日参りしてもらう家で、法事など常識というものに詳しく、万事うまくやってくれました。

天井に掛かる絵馬などを見上げ、『賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ) 釈尊の弟子で、十六羅漢の1人。神通力に優れ、説法が獅子の如き激しさであったため「獅子吼第一」と呼ばれた。日本では堂外に安置される事が多く、自分自身の患部を撫でることにより、病気や怪我を完治すると言われる。そのため「なでぼとけ」「びんずるさん」の愛称で親しまれる』
僕は頭を撫でよう。

20170813HaseS057s.jpg 京都清水寺の舞台のように、ここにも舞台がせり出て、景色が良いです。
20170813HaseS061s.jpg 五重塔が木々の間から見え、ナイスです。
創建者の徳道上人のお堂があり、五重塔を経て畳敷きの東屋で休憩します。
すみれちゃんを置くと、早速動き出します。
20170813HaseS070s.jpg 地面に下りて砂利を持って僕にくれます。
可愛いな。

ここに売店があり、二輪御守500円を授かりました。
花の寺らしく、紫陽花が切り揃えられています。
亀の池がある。
蓮の池もあり、綺麗に咲いていました。
20170813HaseS088s.jpg 蓮の花は綺麗だなあ。

R165を西進し、右折してr28。
13:14室生寺前の「おもや駐車場」に車を入れます。
600円。
長谷寺同様、お盆の日曜日なのに空いています。
室生寺前の室生川を渡る橋の袂にある「橋本屋」で昼食にします。

女人高野「室生寺」を拝観します。
500円。
なんだか前来た時と山門までの道が違うなと思ったら、工事で道順が変わっていました。
20170813HaseS096s.jpg 山門前の寺務所で、お嫁さんは御朱印です。
「本堂は工事中で、金堂でも御朱印あるから、アチラでもやってね」と言われています。

立派な仁王像の山門をくぐり、オタマジャクシがいっぱいの池の横を通り、石段を上がります。
重文「弥勒堂」の屋根にブルーシートが被されています。
この勧進を願う立て板が立っています。

国宝「金堂」に入ります。
建立されたのは、平安初期だそうです。
仏像など内部は撮影不可ですが、流石に素晴らしい。
お嫁さんはここでも御朱印をしてもらいました。
3種類から選べるようで珍しい。
3種類とも御朱印してもらう方もいるそうだ。
20170813HaseS109s.jpg 本堂の屋根は、独特の反りをしており、檜皮葺の屋根が美しいフォルムを見せています。

鎮守の森の巨木に包まれ、涼しい境内を石段で更に上がり、国宝「五重塔」です。
20170813HaseS117s.jpg 女人高野らしく小ぶりで、ここの五重塔はかなり美形です。
多くの五重塔を見てきましたが、室生寺のが一番好きかもしれません。

奥の院には上がらず、ここから引き返します。
20170813HaseS123s.jpg すみれちゃんは活発に掴まり立ち歩きしています。
バランス感覚が良いようで、安心して見ていられ、コケても頭をぶつけたりしそうにありません。

13:59、金堂前から車に戻ります。
r28~R165で、次の目的地「談山神社」に向かう予定でしたが、お嫁さんが車に酔ってしまったようで、帰路につくことにしました。
2列目シートを倒し3列目とフラットにして横になります。

桜井市街地に戻り、「ヤマダ電機」に入ります。
すみれちゃんが寝ているので、僕らは車で留守番です。
次男のカメラのレンズカバーが割れてしまったので、売っていればいいが。
しばらくして次男夫婦が出てきて、レンズカバーはあったようです。
お嫁さんは少しトイレで休憩したようです。

大和高田バイパスから「南阪奈道路」に乗り、お盆なのに渋滞無しで快調だなと思っていると、「太子料金所」手前で渋滞しました。
料金所を出ると、なんと軽自動車がひっくり返って、窓ガラスが割れています。
警察車両がいますが、救急車はいません。
怪我されたのかな?

近畿道で吹田まで北上し、中国道豊中ICから渋滞との掲示があったので、吹田で出ます。
中央縦貫道を西進しましたが、豊中IC渋滞は存在しませんでした。
自宅付近まで戻り、17:02うどん屋「のらや」に入ります。
夕食にうどんを食べ、17:57に出て帰宅。
次男一家を降ろし、18:06に自宅を出て買い物です。
関西スーパーで買い物して帰宅し、1日が終わりました。




8/13・長谷寺

昨夜は20時過ぎに寝たので、1時に目が醒めてしまいました。
電気を点け、行楽予定地の混み具合と渋滞予想を見ます。
高速道路渋滞予想も出ていますが、大したことはなさそう。
天気予報もチェックします。
15・16日はイマイチですが、それまでは天気が良さそうです。

GSに行き、車のガソリンを満タンにして、タイヤの空地圧もチェックしました。
帰宅して、国旗を掲揚します。
お盆期間中は、雨でなければ掲げます。
近所に祝日で国旗を掲げる家は、我が家だけになってしまいました。
近所の自衛隊基地には、毎日掲げられているけどね・・・

孤軍奮闘ですが、第一次安倍政権の時掲げられた『美しい日本を取り戻す』に激しく共鳴しました。
ゆとり教育で低下した学力を上げるためも含め『教育改革』も掲げられ、ゆとり教育に終止符を打たれましたが、ご病気であえなく退陣してしまいました。
残念でしたが、まだ若いので再登板すればいいと思ったら、強くなって蘇りました。
僕に応援できることは、保守党に投票することと国旗掲揚するぐらいです。

ごそごそしてて7時になりました。
隣に食事を持っていこうと階下に降り、家内の「持っていこうか?」と聞くと、「まだ早いよ、7:30でいいよ」とのこと。
TVのスイッチを入れ、ご飯を食べだすとすぐに次男が庭からやってきました。

「ご飯は?」、家内が慌てて「直ぐ用意するね」。
僕は朝食を中断し、お茶碗にご飯をよそい、庭から次男達がいる実家とお盆を持ってピストン輸送します。

出発予定の8時前になったので実家を見に行くと、すみれちゃんにまだご飯を食べさせています。
遊び食べで、おっぱい大好きなので、普通のご飯や離乳食を少ししか食べません。
お嫁さんは、友人のお子さんたちと比べ離乳食が進んでいないのを気にいて、少しでも食べさせようと時間を掛けています。

8:20にみんなを乗せ出発。
奈良の長谷寺~室生寺~談山神社~石舞台コースを観光します。
埼玉県在住のお嫁さんは、奈良の大仏・春日大社は観たことが、こちらはないそうなので。

R171~中央縦貫~豊中ICから中国道~吹田から近畿道で南下します。
西名阪道に行くか迷ったけど、南阪奈道にしました。
渋滞予想通り、太子IC渋滞がありましたが、大したことありませんでした。

高田バイパスを経て、R165で東進します。
大和三山や大神神社など、お嫁さんに歴史的なことを少し話します。
「出雲」の交差点表示を見つけ、我が家の先祖の菅原氏の先祖の土師氏は出雲族です。
11代垂仁天皇に誘われ出雲から、天穂日命の子孫で出雲国造の子である野見宿禰がやってきて、相撲で當麻蹴速に勝ち、大和のここに住みました。
垂仁天皇の妃・日葉酢媛命がお隠れになった時、それまで習慣であった殉死を改め、埴で代用することを提案し採用されます。
これにより、「土師」という氏の名を授かり、古墳や埴輪などの職業集団を形成していっ
たことを話します。
真実はわかりませんが、わが家の祖先と結びつけて話すと、日本の歴史がより身近に感じるでしょう。

羽曳野を通った時、世界遺産登録を目指しているここらの古墳群も、土師氏の仕事なんだ・・・なんてことも話します。
長谷寺への枝道に入り、長谷も初瀬もここに土着した土師氏から派生した地名や寺名だと話しました。
家内・息子・嫁・孫たちに自分の家のルーツを、積極的に話します。

先祖を知れば、自分の人生のこれからの指針になり、自分に流れる血・自分の家・そして日本国が愛おしく思え、好きになります。
今は一銭も産まない僕の話を鬱陶しく思えても、年齢を重ねるといずれ大切なことと思えるようになり、次世代に伝えておくべきことと思えるようになります。
僕も母から耳タコで話を聞きながら、歴史好きになりいろんな知識を得て、最近そう思えるようになりました。
僕の話を、「そう言えば、親父が言ってたな」程度に思い出せば嬉しいよ。

10:13~11:57、長谷寺手前の「いせ辻駐車場」に入れます。
1日最大500円。
20170813HaseS001s.jpg 参道を歩くと、着物を着た上品なカカシさんが店番をしているお店がある。
古民家に煙突屋根が出ている。
土蔵が見える。
20170813HaseS004s.jpg 初瀬新聞舗というお店には、朝日・毎日・産経・読売の全国一般4紙、日本経済新聞、地方紙の奈良・奈良日日・大阪新聞、スポーツニッポン・日刊スポーツ・報知新聞・サンケイスポーツ・デイリースポーツのスポーツ全国紙の看板が掛かっている。

20170813HaseS006s.jpg 参道の正面は、「興喜天満神社」。
天照大神が舞い降りた地で、雷神になった菅原道真を最初に祀った神社です。
でも長い階段を上がるのでパス。
20170813HaseS009s.jpg 草餅のお店が営業を始めていました。

拝観料500円を収め長谷寺に入ります。
『朱鳥元年(686)天武天皇の願いにより道明上人が創建。50年後、徳道上人が聖武天皇の勅願を受け、楠の霊木で十一面観世音菩薩を造立し、大伽藍を建立し祀った。ご本尊は3丈3尺(10m)右手に錫杖を持ち、大盤石の上に立つ姿で霊験あらたか。源氏物語や枕草子などでも「初瀬詣」として語られている。長谷観音信仰は全国に広がり、分身を奉祀する寺院は鎌倉の長谷寺など百数十を数える。「いくたびも、まいる心は初瀬寺、山も誓いも深き谷川」。
春の桜、初夏の牡丹など四季の美しさは天下の景勝地にふさわしく、万葉の昔から「隠国の初瀬」として歌枕の地にもなっている。西国33ヶ所観音霊場8番札所であり、末寺3000、檀信徒200万を有する真言宗豊山派総本山でもある』

山門には麒麟の彫刻。
鳳凰もいる。
20170813HaseS022s.jpg 屋根付きの一直線の長い登り廊下がドーン。

次男もお嫁さんも初めてなので、すみれちゃんを被写体にしながら楽しそうに登っていきます。
20170813HaseS035s.jpg 本堂曲輪まで上がるとそこに寺務所があり、次男たちは前日僕がすみれちゃんにプレゼントした御朱印帳に御朱印を頂きに行きます。
僕は絵馬500円を授かりました。
清水寺のような舞台がある本堂と五重塔に、もみじ・牡丹・桜の花があしらわれ綺麗です。


8/12・お盆次男一家帰省

次男が昨夜帰って来ました。
京都で小学生時代の友人の結婚式があったので、それに出席した後、別の友人の車に乗せてもらい帰ってきました。
2次会?3次会?終了後に電話を掛けてきたのが23:30で、隣の僕の実家の鍵の場所を教えました。
実際に家の前に車が止まったのが1:30でした。
電話の時もそうですが、帰ってきた時も目覚め時間を確認しました。

そして朝4時に目覚め、ゴソゴソした後、6:52給油しました。
車を洗い、チャイルドシートを2列目にセットしました。
お嫁さんとすみれちゃん1才が帰ってきます。
昼頃伊丹空港に着くということだったので、10時には出れるように用意万端整えました。

11時になっても次男から音沙汰が無いので、実家に行き次男に到着時間を確認しました。
すると13:05空港着だって・・・。
家内は今か今かと行く気満々だったのに肩透かしを食いがっかりしていました。

「じゃあ、カーテンを見に行こうか」と提案しました。
実家のリビングとキッチンを間仕切るアコーディオンカーテンを新調したいと言っていました。
ニトリに行き、いいのがあったので購入し、実家で作業をしました。
カーテンレールはそのままで、カーテン本体を交換するだけだから簡単でした。

次男と作業をしていると、家内が次男へ「あれ、背が伸びた?」と。
次男は「伸びてないよ」「じゃあ、お父さんの背が低くなった?」。
そう言われて次男を見ると、かつては僕と同じか僕の方が少し高いと感じていたのに、次男の方が高く感じます。
僕が縮んだのかもしれません。
まあ、仕方ないね。

12:30になり、3人で出発しました。
僕はお嫁さんに父の日プレゼントで貰ったモンベルTシャツと、モンベルバミューダパンツです。
駐車場に停めて、到着ゲートで待とうと思っていましたが、駐車場待ちの車の列が長く続いています。
仕方なく路上駐車して僕は車で待ちます。

まだ20分も時間があるのでエンジンを切り、外をブラブラ。
オンタイムを過ぎたので、到着遅延はどうかなと、ANA到着ロビーを見に行きました。
我が家はJALが多いのですが、今回はANAです。

羽田からの便は「定刻到着済」と表示されていました。
携帯電話を忘れたから、家内から電話を借りようと思ったけど、家内と次男を見つけられませんでした。
車に戻り、13:20になったので、そろそろ出てきそうだと思い、クーラーを入れるためにエンジンを掛け、車内で涼みます。

我が家は空港に近いので、飛行機が到着して電話もらっても、家から出て間に合います。
でもたまに10分ぐらい早く着く時があるから前もって行ってるけど、いつもこの時間が勿体無い。
5分ほどしてみんながやってきました。
美人のお嫁さんの笑顔がいい。
抱かれているすみれちゃんは、じっと僕を凝視し、「こいつ誰や?信用出来る人かな?」と吟味しています。
家内を見る目と僕を見る目ははっきり違います。

男は人類発生以前の太古から刻まれた遺伝子の記憶で、赤ちゃんに警戒されます。
今でもゴリラではやってるハーレムを奪ったオスが、自分の子ではないハーレム内の子を殺します。
授乳中は新たな子を宿さないメスの生理があるので、自分の遺伝子を将来に残すため、オスは子殺しをします。
その記憶がホモ・サピエンスの赤ん坊に遠い記憶として刻まれています。
だから男を警戒するのは本能で正常です。

車が走り出すと、声を出して指差し始めました。
数歩歩けるようになった程度ですが、今にも単語が口から出そうです。

帰宅し、僕は家からすみれちゃんとお嫁さんへのプレゼントを持って、実家に行きます。
お嫁さんには、「こんなに面白い日本の神話: 日本人として知っておきたい国の始まりと神々のドラマ (知的生きかた文庫)/鎌田東二著」の本です。
古事記の物語が簡単に書いてあり、最後に神様の名前とその解説が載っている文庫本で、とてもわかり易いです。
僕も、この本をいつも手元に置いて、神様の名前を索引風に引いて読み直しています。
お嫁さんは、神社の御朱印集めをしており、姉妹で伊勢神宮参りするほど神社好きです。

パワースポット女子は、まず日本の歴史「古事記」を知っておかなきゃ。
古事記はとても面白く、この物語を知ると神社の祭神がわかり、興味がさらに進むと思います。

すみれちゃんには、2日前に近江・多賀大社で授かった御朱印帳と御朱印帳袋をプレゼントしました。
素晴らしい国「日本」を好きになってもらいたいので、日本のベースにある神社を巡る楽しさを知ってもらう一助にと、スタンプラリーグッズをプレゼントしました。
お嫁さんが「御朱印帳を忘れた~」と言ってたのでちょうど良かった。

プール用に買った金魚すくいグッズ(金魚・アヒル・白鳥・・・すくい網)を袋から出し、すみれちゃんに渡そうとします。
警戒して近づいてきませんが、畳に置くと手を伸ばして取ってくれました。
今「どうぞ」ブームだそうで、いろんな物を手に取り、「どうぞ」と手渡しするそうです。
僕からどうぞを何度か繰り返したら、逆に僕に「どうぞ」してくれました。
お喋りもしだし、パチパチ拍手やニッコリ笑いも出ました。

家内に抱っこされても嫌がらず、僕にも慣れリラックスして、ハイハイ~タッチなど移動が始まりました。
しばらく遊び、家内と夕食を買いに出かけることにしました。
僕が先に勝手口から庭側に出ると、ハイハイして追いかけてくれたそうです。
早く慣れてくれて良かった~。

車に乗り、阪急オアシスに行きます。
パーティーセットのようなものがなく、家内にはイマイチだったので、関西スーパーにも行って、更に購入し家内は満足しました。
僕はなんでもいいんじゃないかと思うのですが、お三どん責任者の家内のはいろんなこだわりがあるようです。
家内の中の予定では外食だったのが、すみれちゃんのことを考え畳の部屋で気兼ねなく食べられる自宅飯になったので、より豪華な夕食で次男一家を迎えたいみたい。

帰宅し、みんなでわいわい夕食を食べ、20時前にお開きにしました。
すみれちゃんは、僕が入っていくとハイハイしてやってきてニコリと笑ってくれました。
すぐに金魚を「どうぞ」してくれます。
嬉しいな。
20時台に寝てしまいました。

8/10・長浜~海津大崎キャンプ場

1回生部員に、上半身裸のやつがいる。
「free Hug」と胸にマジックで書かれている。
女子部員なら、いくらでもハグしに行くが男子ではなあ~。
何かの罰ゲームなのかな?と思ったら、1回生部員は周航中4日間の課題を1つ決められるらしい。
この部員は、「4日間上半身裸」という課題に当たったようだ。
本人は、楽しそうに笑っている。

琵琶湖周航行事は、1・2回生の行事で、上回生はホームポートで練習している。
2回生が企画運営し、初参加の1回生は半分お客さんなのだそうだ。

9:56浜に出て、ヨットの準備をする。
全員乗れないので、ヨット組・レスキュー組・陸上観光組の3班に別れる。
10:16、準備ができたヨットから沖に出ていく。
20170810BiwaP185s.jpg 無風なので漕いで沖に出る。
日焼け予防完全武装の女子マネージャーもいる。
楽しんでね。

次にレスキューを係留している小さな港に車で向かう。
20170810BiwaP194s.jpg 10:33レスキュー組が乗り込み、ヨットを出した浜目指して出ていく。
10:50車で浜に戻ると、沖でレスキューがヨットを曳航している。
20170810BiwaP200s.jpg 無風なのでセイルを上げず、しばらく引っ張って行く。
次の目的地「海津大崎キャンプ場」に向けて・・・。

お寺に戻り、ここからが僕の仕事です。
観光組の1回生部員を7人乗せるて長浜に向けて出発。
彼らは前日ヨット組でした。比叡山登山をしたそうですが、途中で道がわからなくなり、登頂できなかったようです。
近江八幡観光もしたと言ってたかな?
周航中に、たくさんゲーム・レースをやり、個人成績とチーム成績で競うそうです。

助手席に乗ってくれた1回生Nくんは、三重県津高校出身だそうです。
実家は伊勢で、学校まで1時間だそうです。
春に伊勢神宮に参ったばかりだったので、あれこれ聞きました。

r2で長浜市内に入り、r331~r251で、11:13「長浜」着。
黒壁スクエアのガラス館などを見学し、2班に分かれお昼ごはんです。
上半身裸の部員もみんなといれば、余り気にならないね。
でも観光客に一瞥されています。

僕は「長浜黒壁AMISU」というカフェで、「かき氷いちごみるく」500円を食べました。うちわと観光地図パンフを頂き、12:45に店を出ました。
20170810BiwaS288s.jpg 海洋堂フィギュアミュージアムがあり、興味深く見学しました。
20170810BiwaS291s.jpg 暑いので、アイスを食べたり、黒壁5号館に入りクーラーで涼んだりしていました。
 20170810BiwaS296s.jpg 素敵なガラス細工のお店が多く、いろんなところに入りました。

20170810BiwaS320s.jpg 『豊国神社 祭神:豊臣秀吉公・加藤虎之助清正公・八重事代主命えびす宮・木村長門守重成公 天正元年(1573)信長の侵攻により小谷城の浅井家が滅亡し、湖北が秀吉公の知行地となりました。長浜城と城下町が造営され、楽市楽座の制度地租税300石免除の恩恵で、江戸時代を通じて栄えました。
慶長3年(1598)秀吉公が逝去すると、町民は太閤さんの恩徳を慕って豊国神社を建立しました。江戸時代になり、太閤さんを神格化することが禁じられ取り壊され、太閤さんの御神像は町役人の家々で守り継がれる時代が続きましたが、寛政5年(1793)「えびす宮」の建築許可を受け、奥に御神像を安置し密かにお祀りしました。明治維新後に、現在の社名に復帰しました』

大坂の陣で大活躍し、夏の陣で討ち死にした木村重成を祀っており意外でした。
瓦葺き・檜皮葺がミックスされた屋根は、金に縁取られ、彫刻もナイスでいい感じのお宮でした。
部員から電話が入り合流し、駐車場に向かいます。
20170810BiwaS302s.jpg 水陸両用バスが止まっていました。
長浜にも、こんなアトラクションがあったのですね。

11:40~13:48「護国神社P」300円。
また1回生部員を7人乗せ、海津大崎に向かいます。
r2~r509~R8で北上し、R303で琵琶湖北を西進します。
「永原」からr557・湖岸道路を西に走り、14:53「海津大崎キャンプ場」。
2回生荷物運び部員が先着しており、テント3張が設営済でした。

もう1つテントを建てるようですが、大きくても6人用なので、どうやって全員寝るのか不思議です。
だって1回生だけで20名、全員で30名の大所帯です。
沖を見ると、ヨット組もやってきています。
途中風があったところでレースなどをしたそうですが、また曳航です。
ロープを放し、1艇ずつ着岸します。
20170810BiwaP208s.jpg 陸上移動部員が海パンになり、ヨットを掴みに行きます。
15:00ヨット着艇。
その後、15:14レスキュー桟橋に着艇。

1回生たちは、泳いでいます。
20170810BiwaP231s.jpg 女子部員は水着の上にTシャツやパンツなどを着て、彼らを見ています。
岩からダイブしている部員もいます。
蛇が湖面上を泳いでいてビックリしました。
2回生は、夜の肝試しの準備のために、お寺の裏山に入っていきました。

僕は暑いので、r557を西進し、R161~r54で、16:52「ファミリーマート高木浜1丁目店」。
ブルガリアヨーグルトブルーベリー137円+果肉ソースいちごかき氷198円=335円を買いました。
r54~R161~r557でキャンプ場に戻り、かき氷を食べていると、雨が降ってきました。
そしたら少し涼しくなったからか、ひぐらしが鳴き始めました。
蚊と一緒で、暑さマックスの日中は昼寝しているのかもしれません。

風呂に行くようです。
20170810BiwaS326s.jpg また1回生を満載し、r557~R161~r287で、17:24「マキノ高原温泉」。
部員たちを降ろし、僕はご飯を食べます。
1回生をキャンプ場に戻す仕事があるので、頂いた琵琶湖・マキノ高原のパンフレットを見ていると、周航を手伝っていた4回生部員2名がやってきました。
合宿所に戻ろうと駅に行ったが、次の電車が1時間半後ということで、戻ってきたそうです。

は~風呂と夕食を済ませた1回生を乗せ、キャンプ場に戻り、帰路に着きます。
r557~R161~湖西道路~名神高速で、21:40「桂川PA」。
「ジャージー牛乳ソフト・183円」を食べ、帰宅しました。




8/10・「龍澤寺」~大学ヨット部

~R8~r518を経て、8:39「龍澤寺」。
20170810BiwaS189s.jpg 石田三成の居城「佐和山城」の麓にあり、登城口もあった。
隣に「井伊神社」があった。

20170810BiwaS198s.jpg 『主祭神:直政彦命・直孝彦命 配祀神:井伊家歴代の神霊 神徳:学業成就・武芸上達・開運 権現造り複合社殿、内部は全て漆塗(本朱塗込黒漆塗上)で、彫刻・組物、蟇股には極彩色が施され、格天井の天井板には様々な草花が華麗に描かれている。
天保13年(1842)井伊直亮(なおあき)が、井伊家の始祖・共保(ともやす)公の750回忌に当たり、遠州井伊谷(いいのや)八幡宮から井伊大明神を分霊し神像を造り、龍潭寺参道脇に奉斎したのを創祀する。弘化2年(1845)社殿を今の地に移し、現社殿を建立した。昭和13年(1938)近隣の佐和山神社(祭神:藩祖井伊直政・直孝両公)並びに祖霊社(祭神:井伊直中・直亮・直弼・その他井伊家歴代藩主)の神霊を合祀した』

修理のため覆われていたが、彩色の落ちた見事な彫刻が施された社殿があった。
中に入れなかったので、謂れ板に書かれていたものは生憎確認できなかったが、写真が貼られていた。
彩色の落ちた社殿外部と違い、内部はそうとう鮮やかなようだ。

20170810BiwaS202s.jpg 鎮守の森には、立派な大木が林立している。
『井伊直憲公顕彰碑 大老直弼の嫡子。万延元年(1860)桜田門外の変で父・直弼が非業の死を遂げた後、13才で彦根藩最後の藩主となった。就任当初は幕府譜代大名筆頭の家格を持って35万石を領し、京都守護の任に当たり、和宮降嫁の際、将軍の名代として京都朝廷への上使を勤めた。幕府の大政奉還により、藩是「勤王の大義」に徹するという直憲の決意により官軍に属することとした。これにより彦根藩の動向を窺っていた各藩も官軍につくことに決し、明治政府成立への大きな原動力となった。その政治力・決断力は、大老直弼の「開国の決断」にも比する。
しかし彦根藩は幕府の厳しい処遇を受け、危機的な状況にあった。その後天誅組鎮圧のため大和へ出兵、禁門の変で長州藩と戦い、第2次長州戦には芸州広島へ、戊辰の役には奥州会津まで出兵し、多大な戦功を挙げた。版籍奉還後は彦根藩知事、彦根県知事として、さらに欧米に留学し、近代国家の文化を学び、彦根の文化・教育・産業振興の基礎を確立した』

20170810BiwaS205s.jpg 「だるま寺・庭の寺 龍潭寺」入口を入っていく。
拝観時間は9~17時。
ここは、佐和山ハイキングコース入口でもあった。
「山頂まで20~30分 拝観時間外は通行不可」
20170810BiwaS210s.jpg 緑に包まれた参道を行くと山門があり、それをくぐり進むと「大洞観音堂」がある。
更に進むと、無縁墓石が集められた場所があり、その奥に墓地が点在していた。

20170810BiwaS216s.jpg 「佐和山城跡に最近、野猿の群れが出没いたします。十分ご注意ください」の立て札が立っていた。
20170810BiwaS227s.jpg 「石田三成群霊供養」石柱が立っている。

駐車場に戻る。
『佐和山城跡 鎌倉時代初期、近江源氏佐々木定綱の6男時綱が、佐和山の麓に館を構えたのが始まり。その後湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境の城として攻防が繰り返され、湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、湖南の六角氏との間で争奪戦が展開された。
信長・秀吉の時代にも、近江の要衝の城として重視された。信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、安土城築城まで機能を維持した。秀吉の代も、堀秀政・堀尾吉晴・石田三成を配し、佐和山城に重きを置く姿勢は変わらなかった。この間整備が進み、山上に本丸・二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、山下には東山道に面し大手門が開き、二重に巡らされた堀の内外に侍屋敷・町家・足軽屋敷の城下町が形成された。関が原の戦い後に落城し廃城と化した』

『佐和山城ゆかりの戦国武将 浅井長政(1545~1573) 戦国時代になり、京極氏に代わり近江北部の戦国大名として台頭した浅井氏は、近江南部の六角氏と争った。織田信長からの同盟提案を受け入れ、信長の上洛を援護することで六角氏を退けることに成功した。同盟を機に信長の妹・市を妻として迎え、茶々・初・江三姉妹はじめ子宝に恵まれたが、元亀元年(1570)信長が浅井氏の盟友・朝倉氏を攻めたことをきっかけに、長政は同盟を破棄。朝倉軍とともに姉川の戦いで織田徳川軍と戦いました。佐和山に配された磯野員昌らは善戦しますが破れ、翌年信長に開城しました。天正元年(1573)、本拠地の小谷城を織田軍に囲まれ、長政は自害し29才の生涯を閉じました。残された市と三姉妹は信長の元に置かれ、その後の豊臣・徳川時代まで波乱に満ちた運命を辿っている』

『石田三成 近江国石田村(現在の長浜市)で生まれた三成は、羽柴秀吉が信長に仕えて長浜城主となった頃から、秀吉の側近として仕え、能吏としての手腕を発揮した。秀吉の天下となってからも、検地などで手腕を発揮し、五奉行筆頭になり佐和山城主に任ぜられた。三成の時代に佐和山城は整備され、五層の天守を備え、「三成に過ぎたるもの」とまで言われた。秀吉没後、天下を狙う徳川家康との対立を深め、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵を計画します。家康が諸大名を従え上杉家征伐についたのを機に、三成は挙兵を決意し、慶長5年(1600)9/15関ヶ原で家康ら東軍との戦いが始まりました。戦いは東軍の勝利に終わり、佐和山城も東軍の攻撃を受けて落城し、三成の父・正継を始め石田一族の多くが討ち死にした。三成は湖北に逃れますが、程なく捕縛され斬首された。三成の死後、佐和山の領民はその遺徳を偲んで地蔵などを築いてその霊を慰めた』

r518~r517~r2を経て枝道に入り、9:15湖畔の小さな砂浜で、コーチしてるヨット部のヨットを発見しました。
部員が泊まっている「上妙寺」を見つけた。
20170810BiwaS246s.jpg 部員に連絡し、境内に入ると本堂前に多くの荷物が出ており、琵琶湖周航中の部員たちがいた。

20170810BiwaS248s.jpg 女子マネージャーから、「朝ごはん食べますか?」と声を掛けられ、本堂横の建物内でご飯を食べた。
電気釜など陸上部隊のバックアップの厚さを感じました。
部員たちは、住職さんを呼びに行き、「ありがとうございました」。
住職さんからも「また来てくれてありがとう」の言葉。
僕からもお礼をいうと、住職さんがいろいろ話してくれました。
先々代の住職(現住職のお爺さん)が、周航中の悪天候でたまたま緊急避難した浜で困っていた部員に声を掛け、一夜の宿に本堂を提供したのが始まりだそうです。
その時小学生だった現住職さんも、そのことを覚えているそうです。

そのお爺さんが亡くなり既に50年。つまり、50年以上前から毎年ヨット部員がお世話になっているそうです。
今では夏にやってこないと寂しく思うぐらい、お寺にとっても年中行事の1つになっているようです。

8/10・「多賀大社」~「天寧寺」

20170810BiwaS142s.jpg R307を少し走り、7:51「多賀神社」
参道の駐車場に入れた、500円。

『当神社は「古事記」名が記され、「延喜式」には「多何(多賀)ノ神ノ社二座」とあり古くから鎮座していたことがわかる。社殿の造営は、古代から造替・修理が繰り返され現在に至る。江戸時代には、寛永の大造営(寛永10年から5年間)行われた。本殿・拝殿・庁屋・摂末社・本地堂・僧坊・書院・鐘楼・三重塔・日向社、故宮神社・大瀧神社・千代神社におよぶ大規模なものでした。しかし、安永2年(1773)の大火災によって、本社をはじめ諸堂社全て焼失した。その後、らだちに復興にとりかかり、翌年には書院が完成し、最小限ながら必要な建物が再建されました。文化5年(1808)には三間社流造の本格的な本殿が造られた。この本殿は、昭和の造営に際し豊郷町の白山神社に移築されて現存しています。
明治期に入り、神仏分離令により仏教的な建築物は取り除かれた。その景観は明治28年(1895)の「大日本帝国淡海多賀大社全図」に見ることができる。明治以降、建物の再建・撤去が無計画になされ、社殿配置に統一性が欠けた。そこで、大正8年(1919)明治神宮造営局技師・大江新太郎が境内を「神聖」「神厳」「清厳」「清雅」「自由区域」に分け設計した。本殿・祝詞舎・幣殿・神饌所の4棟を国費で行い、内務省技師・角南隆が総監督にあたりました。国費以外の神社直営工事は、前記の大江新太郎が設計監督となり、昭和8年「昭和の大造営事業」がついに完成しました。これが現在の社殿です。
表門から本殿まで、参道に沿って一直線上に配置された建物は巧妙に計算され、なかでも拝殿から本殿にかけて段々状に重なった桧皮葺屋根は、華麗で変化に富んでまとめられ、気品ある神々しさを醸しだしております。近代につくられた神社建築の中でも、最も優れた社殿として高く評価されています』

まだ朝早いので開いているお店は疎らですが、門前町も統一された雰囲気になっています。
20170810BiwaS149s.jpg 太鼓橋を渡って境内へ。
地図にはたくさんの社殿や摂社が書かれており広そう。

『多賀大社の「そり橋」 太閤秀吉が当社に寄せた信仰から「太閤橋」とも呼んでいるが、実際は「太鼓橋」である。築造は江戸初期寛永15年、徳川幕府の助成もあり、大僧正慈性により本殿以下諸堂の造営が行われた。その際に築造された。
例祭にはお神輿が渡る』

『夫婦桜 昭和7年「昭和の大造営」に際し、延命長寿・夫婦和合の御神徳に因み植えられた。県内屈指の早咲きのしだれ桜で、3月末に絢爛と咲き誇る』

20170810BiwaS161s.jpg 『祭神:伊邪那岐大神・伊邪那美大神 男女2柱の大神は、初めて夫婦の道を起こされ、我が国土と万物の神々、主宰神としての天照大神をお生みになった。我が国の祖神と仰がれ、古事記には既に淡海の多賀にご鎮座と記されている。
延命長寿・縁結び・厄除け霊神と仰がれ、天正天皇・俊乗坊重源・太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(信玄)の厄除け祈願など多数の社伝が伝わる。4月の多賀祭り(古例大祭)の騎馬40頭に及ぶ御神幸は天下に名高く、節分祭・お田植え祭り・万灯祭・9月古例祭・七五三なども賑わいを見せる。
室町時代以来の由緒を持つ全国各地の多賀講は有名で、近年は崇敬会に加入し神縁を結ばれる人が増加している。本社の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われる。春のしだれ桜・秋の紅葉・国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じて170万人の参拝者を数えている』

20170810BiwaS169s.jpg 整った拝殿本殿が美しく、さすが大社です。
本殿には、神職さんの多くが昇殿され、蝉しぐれのBGMをバックに祝詞を上げておられました。
朝のお勤めのようです。

20170810BiwaS175s.jpg それが終わり、皆さんが持ち場に戻ります。
20170810BiwaS166s.jpg 社務所を覗くと、「恋みくじ」がある。
絵馬掛けに掛かっていた杓文字の絵馬「合格祈願合格御礼杓子絵馬」があったので、それを授かりました。

綺麗な御朱印袋が目についたので、朝一番でどうかなと思いながら「御朱印い授かれますか?」と聞くと、OKでした。
この日一番早く御朱印を授かったかもしれません。
お盆に帰省する次男の娘すみれちゃん1才と、弟の娘・高1へのプレゼントにしましょう。
御朱印帳と袋を2セット授かりました。
初穂料は全部で3000円行かなかったので、お安いなと思いました。

近江鉄道「多賀大社前」駅~r224~r330・名神高速側道~R306を経て、8:29「天寧寺」。
20170810BiwaS185s.jpg 五百羅漢で有名なお寺だそうですが、拝観時間前でした。
『木造釈迦・十大弟子像・十六羅漢・五百羅漢像 彦根藩主11代井伊直中によって建立された曹洞宗寺院で、本堂は文化8年(1811)、仏殿(羅漢堂)は文政11年(1828)に建てられた。羅漢堂には、本尊「釈迦如来坐像」・十大弟子像・十六羅漢像・五百羅漢像527躯が安置されている。これら仏像も直中の発願により造像され、京都七条西仏所の仏師・駒井朝雲(こまいちょううん)等により制作された。全て寄木造・内刳りで玉眼がはめられ、彩色されている。羅漢像は、鎌倉時代に禅宗が伝えられて以降、仏道修行の安泰を願って造像された。五百羅漢に詣でると、必ず思慕する故人の面影を見出す事ができると言われている。当寺の五百羅漢は近世の造像ですが、527躯全てが欠けることなく今日まで残っているのは全国的にも珍しく、年記や仏師名の墨書が記されており、近世彫刻史を考える上で貴重な資料です』

20170810BiwaS187s.jpg 境内に、幕末に桜田門外の変で襲われ命を落とした幕府大老・井伊直弼公の供養五輪塔が立っている。


8/10・湖東「故宮神社」

r13を走っていると、鎮守の森が見えてきて、気にしながら走っていると、「藤堂高虎出生地跡」と書かれた看板が目に入った。
浅井氏に仕えたのが世に出る最初だったから、近江出身とは知っていましたが、甲良町出身だったのですね。

藤堂高虎は農民だったが、先祖はこの地方の小豪族だったそうだ。
浅井家に仕え、織田家~豊臣秀長に仕え大出世し、外様ながら徳川家康からの信頼篤い大名になりました。
飛鳥時代に勧請された甲良神社から来る古い地名の地で、江戸時代は藤堂家からの寄進も入り、先程の水路などが整備されたのだろう。
いずれにしても、石高の高い近江の地ゆえの豊かさから来るのでしょう。

R307に出て北上し、7:27「故宮神社」。
未舗装ですが意外に広い駐車場で、観光バスも駐車可です。
20170810BiwaS109s.jpg 地図を見て名前が珍しいので寄り道場所に選んだだけでしたが、駐車場内の案内板地図でも境内が広く期待が膨らみました。

20170810BiwaS111s.jpg 石鳥居をくぐると緑の葉が参道を覆いいい感じです。
『旧敏満寺跡 古井戸と焼石塚 天台仏教の法城として、1200年前から700年間、堂舎48余りあった敏満寺は、元亀3年(1572)織田信長に焼かれ法灯が消えた。焼け跡を天正元年(1573)故宮神社境内として整備した時、散乱していた焼石や五輪塔をこの古井戸に投げ込んだ。平成の世となり、埋没していた古井戸を掘り起こした時出た石と五輪塔
で、この塚を盛り上げた。焼けた跡の見える石や五輪塔は、敏満寺の遺物として貴重で、栄えていた当時が偲ばれる』

『故宮神社 祭神:伊邪那岐大神・伊邪那美大神・事勝国勝長挟命(ことかつくにかつながさ)
悠遠な上古より青竜山に鎮座し、寿福・延命・授子授産の神徳あり。仏教の渡来で敏満寺が創建されると、山麓に社殿が営まれ、その守護神となった。
平安の昔、女流歌人・赤染衛門は童子守護の願文を奉った。東大寺再建に当たって重源上人が参籠し延命を祈った。御光厳天皇は美濃よりの途次、御車を止めて宿泊した。元亀・天正の兵火で社殿の大半を焼失したが、徳川3代将軍家光公の篤志により寛永15年復旧を見る事ができた。江戸時代には、都よりお乳人が参詣し皇子皇女の安泰祈願が行われた』

20170810BiwaS119s.jpg 絵馬殿を見に行くと、すぐ下に名神高速道路が走っていた。
20170810BiwaS122s.jpg 「多賀SA」が近くにあった。
20170810BiwaS124s.jpg 西に琵琶湖が見え、寺社立地になりそうな場所だなと思いました。
名神高速から西は平坦な沖積地で、太古東岸の平地が狭かった頃、湖岸だったのかも
知れないなと想像した。

20170810BiwaS129s.jpg 石段を上り、本殿に参った。
20170810BiwaS134s.jpg 祭神にある「事勝国勝長挟命」を調べると、『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。
一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。

20170810BiwaS131s.jpg 海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。
ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。

『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある』

記紀に登場する神でした。
檜皮葺の綺麗な屋根が立派な本殿でした。
裏には、「大日堂」「観音堂」「故宮磐座」への道案内が出ており、地図によると旧寺院の敷地一山全てが社域となり、寺院の面影を辿れそうでした。

20170810BiwaS135s.jpg 『磐座 青龍山の頂上に大きな岩がある。大昔から磐座と呼び、龍宮を祭り、長寿・豊作・雨乞い祈願をした。この原始宗教を麓から遥拝するため社殿を造ったのが故宮である。故宮の奥宮で、多賀大社奥の院と呼んだ時代もある。頂上付近の神聖な場所を境界(いわき)と呼び一般人は立入禁止だった。「お池」で身を清め、供物を洗い、祭典の広場で春秋の祭典を行った旧跡もある。故宮磐座は、社殿信仰以前の原始宗教の姿を見せてくれる神体山である。滋賀県内でも少ない山岳信仰の聖域である』

魅力的な言葉が並んでいるが、時間がないのでパス。
沖縄本島ツーリングの時、現役の磐座信仰場があり、同じように一般人進入禁止とされていたのを思い出しました。

8/10・「苗村神社」~「甲良神社」

20170810BiwaS059s.jpg 子安像・神馬像が立っている。
20170810BiwaS061s.jpg 『重要文化財・神輿庫 桁行4間・梁間2間・切妻造りの軽快な建物で、正面及び北側面に各1ヶ所の出入口がある他は柱間のすべてを板壁とした簡素な外観である。建立は天文5年(1536)正一位の神位を受けた時、勅使の装束召替仮殿として建て、後に神輿庫に用いた。装束召替仮殿の用途は限られた期間であり、平面が出入口の他開口部がないことは、当初から神輿庫あるいは御供所などの倉庫的な再利用を企図して建てられたものと考えられる。全国的に類例の少ない遺構として貴重である』

外見的に何の変哲もない建物なのに、重文指定されており、よくわからないが学問的に貴重なようだ。
境内中央に絵馬殿があると見に行くと、これが拝殿のようだ。玉垣のうちに檜皮葺の本殿があり、手前に幣殿が建っている。
その周りの摂社も大きく整っており、寄り道にしては豪華な社殿を拝見できた。

『(重文)境内社十禅師社本殿 山王21社のうち上7社の1社十禅師の分霊社で、天台宗護法社の1つであるから、大蜜勢力のもとに苗村神社社域に勧請された社である。1間流造・檜皮葺。蟇股などの装飾を施さない古式社殿で、母屋内部は1室で、正面に弊軸板扉を設け、他の3面を板塀とする。室町時代1430年に建てられた』

20170810BiwaS063s.jpg 『国宝・西本殿 社蔵される棟札から徳治3年(1308)再建されたと考えられる。
3間社流造で、前面は一段低い床張りとし、菱格子を入れて前室を作り、更に1間の向拝を出し、檜皮葺とした形式は相対的に鎌倉時代後期の特質を表している。
殊に左右相称の透彫を施した正面2個の蟇股は美しい。殿内の厨子は小規模で簡素であるが手法が優れ、本殿と同時期の作とみられ、共に国宝となっている。社蔵される棟札は、近在に見られない古物品で、当時の修造の様子、活動人士、神事の有力担当者などが明記され、社歴を知る貴重な資料である』

『重文・境内八幡社本殿 建立年代は明らかでないが、東本殿・楼門と同時期に、境内整備に伴い建てられたと考えられ、その様式からみて室町時代1430年頃の建立と考えられる。1間流造・檜皮葺。特徴は、側面に弊軸板扉出入口を設けていることで、我が国でも数が少ない。母屋3面・向拝に美しい蟇股を飾りつけている』

社紋は、「州浜(すはま)紋」という関西には珍しい紋で、巴紋のように幾何学模様紋です。
いろんな所に見えます。
県道を渡り、苗村神社東本殿に向かいます。

20170810BiwaS076s.jpg 鳥居に「長寸神社」と浮彫りされた扁額が下がっています。
両側に石灯籠が整然と並んだ参道を行くと、小ぶりな東本殿がありました。

20170810BiwaS079s.jpg 『建立年代は、明らかでないが、向拝の蟇股の様式は、室町時代のものであり、前庭にある永享4年(1432)在銘の石灯寵は本殿の建立と関係があると考えられる。また、正徳4年(1714)には、大半の部材を取替える大修理があり、当初の形式が変えられたが、昭和33年の解体修理で、資料にもとづいて復原整備された。
正面は、格子戸であるが、少し入ったところに幣軸を廻して板縁を建て、東側面にも同様の扉口を設け、母屋の実肘木(さねひじき)を通し材とし、妻飾の扠首(さす)組頂に花肘木を組みいれるなど、西本殿傍の八幡社本殿と共通する点が多い。なお、内外陣境の腰嵌板(こしはめいた)の彫刻格狭間(こうざま)は県下に類側が多いが当時の装飾手法として見るべきものがある』

20170810BiwaS084s.jpg 参道の脇に古墳のような墳丘があるなと思っていたが、やはりそうでした。
『東苗村古墳群 重要文化財苗村神社東本殿がある鎮守の森の中にる。現在は8基の円墳が確認されているが、境内地外側にもかつて多くの古墳があったと考えられます。現存する古墳の大きさは、墳径12~18m、高さ2mほどです。古墳群の造られた時期は、6世紀後半代と考えられている』

20170810BiwaS086s.jpg r541~r14でR8に戻り、r227に入り、7:06「甲良神社」。
『主祭神:武内宿禰命 相殿:田心姫命・市杵島姫命・瑞津姫命 神紋:平四つ目』

『甲良神社権殿 甲良庄の総社。権殿はもと当社の本殿で、明治16年新本殿建築に伴って本殿脇に移動された。建物は寛永11年(1634)に建てられ、1間流造・檜皮葺。小規模ながら蟇股・頭貫木鼻(かしらぬききばな)・虹梁(こうりょう)・大瓶束(たいへいづか)など彫刻を多用し、装飾性に富んだ本殿である。近隣の甲良神社本殿(甲良町法養寺)や大滝神社本殿(多賀町富之尾)とともに、江戸前期の1間流造の好例』

20170810BiwaS089s.jpg 大きな扉が4つ並んだ倉庫がある。山車でも入っているのかな?
『甲良神社 創立は天武天皇の代に武市皇子の生母尼子姫が当地に住み、筑後の国高良大社より希世の長寿の神「武内宿禰命」を勧請された。地名もこの姫に由来する。1000年の昔より長寿の神・水利の神として信仰されてきた。元禄14年、「正一位松宮大明神」の宗源宣旨があり、明治まで「松宮大明神」または「高良大明神」と親しまれていた。明治5年「甲良神社」と改称され、明治16年本殿が造影された。社殿の彫刻などに室町期の作風を伝える旧本殿は甲良神社権殿として正和25年移築解体修理を行い、国の重要文化財指定された』

尼子姫は、筑紫宗像出身で天武天皇寝所付きの女官。
天武天皇との間に生まれた武市皇子は、天武天皇の長男で、父が先帝・天智天皇の皇子・大友皇子(弘文天皇)と政権争い「壬申の乱」した時、軍事司令官として大活躍したが、母の低い血筋ゆえ皇太子にはなれませんでした。
兄たちが亡くなったが皇太子には選ばれず、父の跡を継いだ母「持統天皇」時代、太政大臣として権勢を振るう。

尼子姫は、出身地の「高良大社」をここに勧請し、ここで余生を暮らしたようです。
出身地の宗像三女神を祀っているのにも、なるほどと思った。
天武天皇の御子を産んだので、実家から多くの家人が世話をしに、共に住んだのでしょう。

20170810BiwaS093s.jpg 荘厳で重厚感のある本殿から、明治期の建築が伝わり、今でも古さを感じない。
20170810BiwaS096s.jpg 横に檜皮葺の一回り小ぶりの権殿が建っている。
20170810BiwaS101s.jpg 時間帯も早いですが、朝の落ち着いた空気に似合うお宮です。
20170810BiwaS102s.jpg 千木が水平切り・鰹木が偶数本になっており、女神を祀っているのを表している。
境内前に高いポールが立ち、祝祭日には日の丸が揚がるのでしょう。


8/10・「苗村神社」・大神門

車に戻り、次の目的地「甲良神社」にGPSをセットする。

r32を走っていると「祇王屋敷跡」という案内板が目に入りました。
祇王は、近江出身の絶世の美女白拍子で、平清盛に寵愛され西八条邸に囲われます。
その絶頂期、そこに若い白拍子・仏御前がやってきて、祇王の取り無しで清盛に舞を見せる機会に恵まれた。

清盛は若い仏御前に心を奪われ、祇王は母と妹・妓女とともに尼になり、京・嵯峨野「祇王寺」に庵を結ぶ。
やがて、清盛の寵愛を失った仏御前が訪ねてきて、4人で慎ましく暮らした。
平家物語のトピックの1つです。
「祇王寺」は、それなりに観光客が来て、観光スポットになっていたが、屋敷跡は慰霊碑が立っているのみでした。

~r2~r48~R477。
JR東海道線を渡り、「上野神社」前を通過し、R8に乗り換えます。
「国宝・苗村神社」の案内板が見えてきました。
寄り道しましょう。
右折しr541。

周囲は大穀倉地で見通しが良く、鎮守の森を探すのも容易です。
ここかな?と目星をつけたお宮目指して枝道に入って行くと、5:58「八幡神社」だった。
国旗を掲げるポールが立っている。
石鳥居の方を見ると、鳥居前にくたびれたしめ縄が下がり、数本のくたびれた縄が下がり先に茶色く変色した葉っぱがある。

20170810BiwaS039s.jpg しめ縄中央部に茶色い葉っぱが円を書いている。
そしてその円を指すように2本の尖った木がバッテンを書いている。
しめ縄から下がりが下がるのは見たことがあるが、サークルバッテンは初めてです。
何かの呪いかと思うが、謂れ板がなく分からない。

r541に戻り先に進む。
次に見えてきた神社は「左右神社」という名だった。
寄らなかったが立派で、大穀倉地の経済力を感じる。

6:04「苗村神社」。
県道を挟んで左右にお宮がある。
駐車場に車を入れると目に飛び込むのが、茅葺きの大神門でとても目立ちます。
神門前で小さな石太鼓橋があり広い未舗装道路を渡って神門。
この道路はかつては水濠だったのかもしれません。

20170810BiwaS043s.jpg 見上げる神門は巨大で、茅葺屋根も優しく形が整えられ、これが国宝かと思ったが重文だった。
『楼門 建立年代は明らかではないが、蟇股の輪郭部や斗拱(ときょう)形式などの技法から、応永(1394~1427)頃の造営と考えられる。3間社1戸楼門入母屋造・茅葺で、この地方最大規模の和様を基調とした遺構。上層の扉や連子窓も古式を示し、軒尾垂木の先端を斜めに造り、強い反りをつけているなど禅宗様の手法も混用されている。下層は縱横に貫で組まれる他、斗?間の小壁に至るまで開放されており、中央に扉もない形式は珍しい様相といえる』

20170810BiwaS048s.jpg 屋根を支えるため、垂木が芸術的に組まれ、見上げても飽きない。
重厚感があり素晴らしい。

20170810BiwaS053s.jpg 境内に入ると、左手に池があり小島に祠がある。
「竜神池」となっていた。
弁天池かと思ったが、竜神祠のようです。

20170810BiwaS054s.jpg 『祭神:那牟羅彦神・那牟羅姫神・国狭槌尊 御祭神の那牟羅彦神・那牟羅姫神は、当地方に始めて工芸技術・産業を伝え広められた産土の神様で夫婦和合、諸願成就の神様として、古来より篤く尊崇申し上げる祖神であります。國狹槌尊は、国土を開発し、五穀の豊穣と財宝の恵みを垂れ賜い、とりわけ子守大明神と申し上げ、幼児子供をお守り下さる御神徳は広大無辺、誠に格式高き神様として、当地方三十余郷の氏子達ひとしく崇敬申し上げる御祭神であります。 相殿神:大國主神・事代主神・素盞鳴尊 福徳を授け、良縁を結び、悪疫を滅し、五穀の豊穣を守護される神様であります。
当社の御鎮座は上古に属し、平安時代の延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)に列座された長寸(なむら)神社にして、格式の高い式内社であります。社伝によれば垂仁天皇の御代に当地方を開拓された御祖をお祀りしたのが創祀とされます。
即ち当社神域に現存する古墳或いは域内外より出土する陶物は、何れも古墳時代の遺跡或いは遺品であり当時既に祖先の遺業に励んだ部民の聚住を物語っています。これ等の先人達は、先祖に対する報恩の念により祖霊を神として、当神域の東の方にお祀りしたのに創り、この祭神こそ当地方最高の祖神と心得、地名である那牟羅(なむら)と同音になる長寸(なむら)(長は最高位 寸は村の古字)の字に替えて長寸神社と申し上げました。この御社を后の世になって東本殿と申すようになりました。
その后、時代の経過と共に稲作農耕が愈々盛んとなってきました平安時代の安和2年(969)3月28日、大和國芳野金峯山に鎮まり給うた國狹槌尊(くにのさつちみこと)の御神霊が、この神域の西の方に御遷座されるようになり、社殿を御造営申し上げ、此処に御鎮座になりました。この御社を東本殿に対して西本殿と御呼びします。
現在の西本殿は、社蔵されている当地方最古と言われる徳治3年(1308)の棟札によりますと、建保5年(1217)に修造され、更に徳治3年に再建されたこと、及び当時の修造には遠隔の地まで沙汰せられ、有力な豪族が神事を司ったことが明記されています。しかもその当時の建築様式(鎌倉時代)は、その后度々の修造もありましたが、当時の様式は今によく伝えられ、棟札と共に国宝に指定されています。
現時の社名、苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁紀3年3月新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の條に曰う吾那邑(あなのむら)でありましたが、その后、那牟羅(なむら)に改まり、更に長寸(なむら)に替えられました。次いで寛仁元年(1017)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、後一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村(なむら)の称号を賜り、以后苗村神社と呼ぶ、と記されています。
斯くて、創祀以来社運年毎に栄えて来ましたが、何時の時代も苗村郷三十三ヶ村の総社と、人々の信仰の中心となってきた大宮であります。
取り分け天文5年(1536)朝廷の当社に寄せられた格別の恩命は、未来永劫に亘って誇りとする処で、社有の記録には、同年3月22日、後奈良天皇は、当社に「正一位」の神位奉授し給い、同4月19日に勅使として中御門宗藤・山科言継を御差遣になり神位記を奉納され、ついで、神主盛継に修理大夫任官の口宣を御くだしになる。この時、征夷大将軍足利義晴より勅使参向に当って三箇條の禁制札を下地される。
続いて同5月9日、更に天皇は「正一位苗村大明神」の勅額の御下賜があり、又同月12日関白太政大臣近衛植家公を始め30人の公卿は、京都において法楽歌会を催され、同月16日中御門宗藤卿は、使者を以て当日の和歌を送られ、同19日神主盛継はこれを神前に奉納された記録が今に残っています。
天正年間には、織田信長が、天下太平を祈願し当社に馬鞍一具と太刀7振りを寄進している。誠に当社の栄誉これに勝るものなく、社名自ずと四海に遍くところであり、今日30余郷の氏人達は、累代に亘って神仕えされてきた春日皇子の後裔である現神主を中心として、この栄誉高き御宮に余念をまじえず、只管崇敬奉仕申し上げる処であります。
神域には国宝西本殿を始め、他5棟の建物、及び木造不動明王立像など国の重要文化財が保存され悠遠なる名社として歴史を物語っている』


8/10・名神大社「兵主大社」

左右に松が並ぶ参道横の道路を進み、社門前の主鳥居横の駐車場に車を停める。
「鎮座1300年祭」の事業計画が掲げられていた。
社門へは小さな水濠を渡るようになっている。
小さな石橋から左右を見ると、かつては水堀で囲まれていたことが想像された。
浮島のようになっていた地なのかもしれないと、更に想像が膨らんだ。

20170810BiwaS009s.jpg 堀を渡り、朱鳥居をくぐり社門へ。
とても立派で美しい社門です。
これを支えるこの地の裕福さを感じる。

『兵主大社楼門 1間1戸楼門、入母屋造、檜皮葺、附翼廊2棟 正和45年解体修理時、自垂木から天文9年(1550)の墨書を発見し、建立年代が明らかになった。下層の亀甲紋や巴紋のついた蟇股には明和3年(1766)の墨書があり、この時は殆どの部材を取り替える大修理で、下層隅虹梁上の板蟇股以外の絵様彫刻は江戸後期の様式に変えられている。その後も度々屋根葺き替えが行われ、明治22年に両翼部が再び大修理を受け、屋根が桟瓦葺に改められた。
後世の取替部材が多数を占めているが、当初の部材も各所に残り、全国的に遺構の少ない1間1戸の楼門として室町末期の建築様式をよく伝えている』

楼門をくぐり境内に入ると、右手に摂社があった。
『乙殿神社天満宮 豊臣秀吉が、天正19年(1590)9月、京都の北野天満宮で、兵主大社の大鰐口(鐘)を千利休の釜師・辻与次郎に鋳造させ奉納したとの記録が「北野社社家日記」に記載されている。その折、北野天満宮より勧請した』

『乙殿神社 祭神:稲背入彦神・菅原道真 養老2年(718)兵主大神降臨に伴い、五条小森立の地に鎮座する。兵主の上の主(氏の上)の祖神。それ以来豊積の里農地開田の神にして崇敬され、兵主祭渡し当番に際しては兵主18郷の第一として神事を務め現在に至る』

20170810BiwaS030s.jpg 拝殿もドーンと見事です。
桟瓦葺・檜皮葺屋根で、楼門と共通している。
参道脇に鶏ゲージがあり、朝の時の声を上げている。

『兵主大社御由緒 祭神:八千矛神(大国主神) 本地仏:三十番神・大日如来・不動明王 鎮座:奈良時代養老2年(718) 社格:延喜式内・名神大社 神紋:亀甲花菱紋・亀の甲羅に鹿の角 境内地:32463平方メートル 参道:300m・松200本 鎮守の森:楠の社叢林・紅葉 名勝庭園:21688平方メートル・平安時代作庭 古建築:本殿・江戸寛永20年(1643)、拝殿・江戸天保13年(1842)、楼門・室町天文19年(1550) 文化財:白絹包腹巻・萌黄地白茶格子生絹袷小袖・木造神馬・鰐口・木造宝塔他』

名神大社格を持っていたようです。
名神が付くと神社より1ランク上の大社の名で呼ばれ、特に重要な神様を祀っていたり重要な神社であることを示している。

入れないが本殿脇に社叢に囲まれた池があり、アオサギが朝の合唱を繰り返している。近隣のサギのねぐらになっているようです。

手水は、亀の口から水が出ています。
亀甲紋といい、亀との謂れに興味が向かう。
20170810BiwaS031s.jpg 拝殿前の阿吽の狛犬は足や胴に白い包帯が巻かれている。
包帯には文字が書かれているようだ。

帰宅後ネット検索すると、『奈良時代(717年)に創建されたといわれ祭神は八千矛之神。この神は大津市の日吉大社から亀に乗って琵琶湖を渡り、鹿に乗って神社に来られたといわれています。境内の鳥居と楼門は足利尊氏が寄進したといわれ数々の社宝が残っています。また、社殿南側に広がる庭園は平安時代のもので、回遊式で苔や紅葉などが大変美しく国の名勝に指定されています。毎年、紅葉の時期には庭園ライトアップが行われます。映画や時代劇のロケ地としても有名です』

20170810BiwaS033s.jpg 社伝『「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。
延喜式神名帳では名神大社に列し、治承4年(1180年)には正一位勲八等兵主大神宮の勅額が贈られている。
中世には、「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、武士の厚い信仰を得た。
中でも源頼朝・足利尊氏による神宝の寄進・社殿造営があり、社宝として残されている。また、江戸時代には、徳川将軍家から社領の寄進を受け、厚い保護を受けた』

『狛犬をぐるぐる巻きにしている白い包帯は、病気や怪我の平癒を祈願するためのもの。初穂料を収めると包帯をを頂ける。自分が治癒したい部分に巻きつけると、ご利益があるとのこと』ということでした。

20170810BiwaS032s.jpg 『兵主神社拝殿翼楼 天保13年建立 拝殿翼楼の建物は、中央の拝殿1棟と左右の翼楼2棟とが組み合った大型の建物で、県下ではたいへんめすらしい型のものです。
東面して立つ楼門にもやはり左右の翼楼が付き、兵主大社独特の様式として踏襲されてきたものと考えられます。
現在は埋まっておりますが、平安時代末期には拝殿翼楼の正面には建物に平行する形で水路が流れ、又本殿からの正中線上の川幅には橋がかかり、石敷の参道が楼門まで続いていました。
昭和16年(1941)皇紀2600年を記念して改築されましたが、天保13年建立当時の部材も多く残り、天保時の大工は吉他村の長谷川若狭守繁行、改築時の大工は比留田村の加賀爪忠左工門と棟札に記載されております』

20170810BiwaS035s.jpg 本殿を囲む板垣の間から、サギが大騒ぎしている池を覗いてみる。
アオサギが数羽辺りに佇み、僕に気づいて飛び立つ。
日本庭園風に石が配置されているが、周りの樹木が鎮守の森なので巨大で、京都の寺院などの借景庭園とは雰囲気が違う。
サギの大騒ぎが、ジュラシックパークのようでもあるし。
予想外に素敵な神社でラッキーでした。

8/10・琵琶湖湖東・兵主大社へ

コーチしてる大学ヨット部の年中行事「琵琶湖周航」に参加します。
この行事は、ヨット部発足時から続いているので既に81年間続く伝統行事です。
僕がコーチするようになってから10年以上にあなりますが、一度も参加したことがなく楽しみです。

当初、1日だけ伴走するレスキューボートに便乗させてもらって、周航中の各種イベントをカメラに収めるつもりでしたが、1回生が多く定員オーバーで便乗は無理でした。
僕はカメラ班でもあるので、一眼レフで撮った写真やビデオをインターネットクラウドであるグーグルドライブにアップし、部員や親御さんなど関係者が見れるようにしています。
クラブの成績は、関係者の想いの強さに比例するので、親御さんにヨットを知ってもらい、クラブの活動を知って貰う一環です。

バイクで行き、琵琶湖畔の寺社歴史探索しながら、湖上のヨットが見えれば写真に収めればいいやということに切り替えました。
2回生女子マネージャーMさんと連絡を取り、10時長浜近在出艇~13:30海津大崎キャンプ場着艇というタイムスケジュールを得て、寺社巡りしながら出艇30分前に長浜近在に着く計画を立てました。
この行事は、ヨット部発足時から続いているので既に81年間続く伝統行事です。

ところが、前日になり周航隊長の2回生Sくんから電話があり、「陸上部隊のエスティマのステアリングオイル漏れでハンドルが重くなってしまいました。車を出していただくことは可能でしょうか?」とのお願いがありました。
もちろんノープロブレムなので引き受けました。
オイル漏れで油圧で動くパワーステアリング機能を失い、低速でのハンドル操作がメチャ重になったようです。
故障はそこだけですので、リタイヤさせず荷物車として出発場所から到着場所への移動のみに利用するそうです。

前日さっさと床に入ったので、3時に目を覚ましました。
予定より1時間早いですが、出発することにします。
10時長浜までの寺社訪問メニューをいつものように多くしましたが、全てクリアできるかもしれません。

身だしなみを整え、荷物を車に積み込み、ブーンと出発。
中央環状線を走り、3:59エッソGSで給油。
隣接の「セブンイレブン豊中緑丘2丁目店」で、朝食・昼食用に「プレミアフレッシュバナナ・213円」を購入。

吹田ICから名神高速に乗り、京都東ICで下車し、湖西道路に乗って北上しました。
「真野IC」で下車し、R477を東進し琵琶湖岸に出て、そのまま琵琶湖大橋を渡ります。
追い越し車線がメロディーラインになっており、琵琶湖周航のメロディーが聞こえました。
「琵琶湖周航の歌」が出来てから100周年だそうで、滋賀県はこれにまつわるイベントが多くなっています。

東岸にある料金所で150円手渡す。
このゲートはまだETC利用不可です。
交通量が多いので、機械化すると利益が増しそうなのに・・・。

ゲートを出て最初の信号を左折しr559・湖岸道路を走ります。
左手に琵琶湖が見え気持ちが良い。
広大な水田地帯を枝道で抜け、R477に乗り換え、野洲川を渡る。

GPSに導かれるままに、r32経由で5:07「兵主大社(ひょうずたいしゃ)」。
ツーリングマップルには「兵主神社」とあったので、各地にある同名の神社同様のものを想像していたが、「兵主大社」だった。
20170810BiwaS001s.jpg 「大社」の名前通り、圧倒的規模の参道に驚かされた。

20170810BiwaS003s.jpg 参道の先の大きな石鳥居横にバイクを止めましたが、そこに謂われ板があった。
20170810BiwaS002s.jpg 『条理の郷 野洲市五条自治会 五条の地名の由来は、古代律令の条里制の名残りとされる。文化2年(646)中大兄皇子が下した「改新の詔」中の「班田収授の法」により、従来豪族等の私有地を公用地とし、6才以上の男子に2反(20アール)女子にその1/3を貸与し、耕作に従事させた。この区分された土地を「口分田」と称し、土地区画制度を「条里制」と呼んだ。南北方向を「条」東西方向を「里」で区画し、1条1里は各6町(600m)四方だった』

懐かしい小学校の社会の教科書を読んでいるようだった。
「覚えたな、こういうの」と懐かしさを覚えるとともに、ここが天智天皇の時代既に陸地だったのに驚いた。

20170810BiwaS004s.jpg 琵琶湖大橋が掛かるほど琵琶湖のクビレのように狭くなっている所で、対岸の堅田にもたくさん歴史遺産があるけど、アチラは後背に比叡山の山々があり、断層があるので地形的に堅い気がする。
でも東側は、広い平野部になっている。
これは野洲川の流れによって作られた沖積平野であることは容易にわかる。

琵琶湖の最深部は湖西寄りにあり、海溝のように湖西の海岸線から一定距離に東西に伸びている。
湖西はすぐに急峻な山になるが、湖東は広大な平野が広がり有数の耕作地になっており、湖東の山から遠い。

1500年代の信長の時代、安土城は半島の先の湖岸から離れた島で、城の側から巨船を発着できたのに、500年後の現在は平野の中の小高い山になっている。
つまり湖東の平野部は、川の運んできた土砂により西に広がり、琵琶湖を小さくしていっている。
もっと昔のことを言うと、バイカル湖などに並ぶ世界有数の古代湖で、伊勢・大和国境から西に移動して現在に至る。

このことを考えれば、琵琶湖に最も出っ張ったこの地は、堆積平野の最先端とも言える。
今から1400年前、この地に律令制が敷かれたということは、湿地ではなく立派な土地として人々が生活していたということです。

ここに大社と呼ばれるほどのお宮が造営されたということは、ここがまさに琵琶湖に面していたのかもしれないと、いろいろ脳内想像が駆け巡りました。
地図を見ると、ここから湖岸まで3kmです。
野洲川は、1400年で3km河口を西に移動させたのかもしれない。

コーチしてるヨット部の合宿所横を小河川が流れている。
僕と同年代のOBさんに聞いたら、現役時代は小河川の河口が横にあり、合宿所前が湖岸になっていた。
合宿所1Fの艇庫からその砂浜に船を出して出艇していたそうです。

次男が部員だった頃は河口が2~30m先に伸び、艇庫から出したヨットを小河川の流れに入って下り、湖岸の浜に並べないといけない。
そして今、その河口が更に先に伸びつつあり、新たな陸地ができそうになっている。

OBさんの時代砂浜だった合宿所前は、今樹木が生い茂っている。
樹木が生い茂る下を小河川の枝河川に入り、本流に入って河口横の砂浜に出ないといけない。
不便になったので、現在はヨットハーバーに艇庫を借り、上回生はそちらから船を出し、1回生が1人乗りに乗る期間だけ、合宿所下から船を出し小河川を運び練習している。

こんな琵琶湖の現状を知っているので、湖東の広い平野の湖岸近くこんなに大きな歴史ある大社があったことに驚いた。


8/6・大学ヨット部・ファミリーデイ


r47を南下し、r315を経て、雄琴ICから湖西道路に乗ります。
滋賀里ランプで下車し、京阪石山坂本線に沿うr47を南下します。
近江神宮の前で左折し、近江神宮道路でR161に出て、10:00合宿所に着きました。

部員たちが、合宿所の周りを掃除しています。
ファミリーデイで親御さん達がたくさん来られるので、少しでも綺麗にしようとしています。
「11時に、ヨットハーバーの艇庫の方に来るんだよね」と部員に聞くと、合宿所の方に集合だそうです。
雑草を引っこ抜いていたキャプテンSくんのところに行き、あ~だこ~だ話す。

2Fに上がると、大部屋がいつもより随分綺麗になっている。
僕の荷物を置くのが申し訳ないけど、バイク用プロテクタージャケットとパンツを脱ぎ、持ってきたモンベルのTシャツをラッシュガードの上に、バミューダパンツをスポーツタイツの上に重ね着してスッキリする。

3回生Kくんがやってきて、タイム・スケジュールを教えてくれる。
僕は最初の挨拶をして、13:30からヨット試乗なので、その時レスキューボート要員になるそうです。
監督が仕事で来れないから、僕が親御さんにいろいろ伝え、安心させなきゃ。
16:00に終了し、ハーバー解散だそうです。

大部屋の床に座り、朝コピーした資料3枚をホッチキスし60部作り出す。
女子マネージャーに手伝って貰おうと思っていましたが、食事の準備で忙しそうで諦めました。
半分ほど終えたところで、雑草退治部隊が作業を終えたようで2Fに上がってきました。
2回生Iくんを捕まえて、手伝ってもらいました。
キャプテンSくんが上がってきて、「この資料は親御さんに渡すんですよね。じゃあ、受付で渡していいですか」と提案され、そうしてもらうことにしました。

部員たちは、合宿所の他に、艇庫で試乗艇を艤装するグループ、駐車場誘導グループ、駅からゲストを運搬する車班に分かれています。
10:30から、最寄り駅・JR大津京からのピストン輸送が始まり、親御さん達がやってきました。

ゲスト50人オーバー、部員60名で大部屋は満員です。
テーブルをたくさん出し、各テーブルにお茶やジュースのボトルとコップを置き、適当に飲んでもらいます。
親御さんが来られている部員は、親とセットで座ります。

11時になったので、ファミリーデイ隊長のKくん司会で始まります。
まずはキャプテンの挨拶。
続いて僕です。
自己紹介し、親御さんが最も心配なヨットというスポーツの安全を話します。
男の子を持つ親のもう一つ心配な点である食事面と生活リズム面を整える体育会クラブに入ることの優位さを話します。

僕の用意した資料で、勝利を目指す体育会の真剣なレース中のことを知ってもらい、これも用意し回覧させてもらっている写真により、琵琶湖周航・5年毎の琵琶湖遊覧船を借り切るヨット部周年記念クルージング・冬のシーズンオフを使った大型ヨットでの大阪湾クルージング・ヨット部卒業後のクルージングやレース活動を見てもらいます。

僕の挨拶が終わり、11:30になったので食事が運ばれて来ました。
カレーと野菜と1品・・・キャプテンからいつもの「今日のメニューは?」の問に、3回生マネージャーSさんから「カレーと・・・」。
僕のテーブルの親御さんは、「美味しいですね。週末こんな食事を食べていると思うと安心します」とお母さんの本音が出ます。
食事しながら親子の歓談が始まります。

13時を過ぎたので、Kくんから「ヨットハーバーに向かいますので、第1陣の親御さんはご用意ください」の言葉があり、僕もバイクで艇庫に向かいます。
親兄弟の来ていない部員が、こちらでずっと用意していたようで、「腹減った~」と言っています。
「もうカレーないよね」「まだいっぱいあるよ」なんて会話が合宿所からやってきた部員との間で交わされています。

20170806OnoP143s.jpg ここから、親御さんに試乗してもらいます。
部員が出艇し、僕はマネージャー数人と共にレスキューボートに乗り、親御さんとその息子・娘部員2組を乗せます。
20170806OnoP148s.jpg 他にインフレータブルボートも出し、ヨットに乗らない親御さん達は観覧船に乗ります。
20170806OnoP123s.jpg 

20170806OnoP122s.jpg 親子ワンセットでヨットに乗り換え、ヨット体験します。
マネージャーや1回生の操船技術がまだイマイチな部員は、上回生と共に乗ります。
3m/sほどの試乗会に丁度よい風が吹いておりラッキーでした。
ヨットから降りてきた親御さんは皆さん大喜びです。
予定通り進み、16時にハーバーバックし、集合写真を撮ります。
最後に、キャプテンからお礼の挨拶があり、解散です。
多くの親御さんと話ができ、有意義な日になりました。

僕はバイクで合宿所に戻り、バイク装束に着替え帰路に着きます。
夕立が来そうな雲が出ていますが、夏なので濡れてもかえって気持ち良いかもしれません。
湖西道路に乗ってから、ガソリンが少なくなっているのに気づきました。
家までは十分持ちそうですが、大渋滞などがあると気持ち的に余裕がなくなるので、京都東ICにそのまま乗らず、R1に入り、16:52「エッソ京都東SS」で給油。
269km/11.72L=23.0km/L。
前回29km/Lなんて、4気筒としては驚異的な燃費になったので当然ですね。

京都東ICから名神に乗り、東山からの下りで少し雨が落ちてきました。
スクリーンに雨粒が付く程度でしたが、京都南ICに近づくと路面がたっぷりと濡れていま
す。
大雨が降った後のようです。

17:18「桂PA」。
バイク置き場に入れると、先客バイクは濡れており、ジャケットが干してあります。
グッドタイミングで雨の中を走ったようです。
「ガリガリ君ソーダ味75円」で涼を取ります。

バイクに戻り出発すると、先客バイク・カワサキのリッター以下バイクさんもやってきて、僕を追うように出発。
80~90km/hの僕と同じような速度域の方で、混雑具合で60~90km/hで車線の選択の具合で僕が先に行ったり抜かれたり、楽しく走れました。

中国道豊中ICで下車し、帰宅。
お休みの家内がいません。
バイク装束を片付け、ヨーグルト食べてゴロリとしていると、7時過ぎに家内が帰ってきました。
買い物などに出ていたそうです。
5時前に家を出たそうなので、僕の帰宅とタッチの差だったようです。

8/6・湖西和邇・天皇神社~伊香立・還来神社~八所神社~融神社

湖西の旧街道を北上し、r311で西に入る。
8:24「天皇神社」。
『全国的に稀な切妻造・平入本殿。正面(桁行)3間・側面(梁間)2間・前面に1間の庇(向拝)。
正面中央間と右側面を平軸構板戸展開とし、屋根の勾配が著しく緩い点が、他の2棟(小野篁神社・小野道風神社)と異なる。康保3年(966)創建で、元は和邇牛頭天王社(わにごずてんのう)と呼ばれていたが、明治9年改称。現本殿は、正中元年(1324)建立。向拝廻り全ての部材・縁、脇障子、外陣正側面と内陣の建具、切妻破風と縋破風(すがるはふ)は後世の改造となるが、外陣と内陣に加え、内部彫刻を失っているが蟇股は建立当初の姿を留めている。江戸時代の延宝6年(1678)~安政6年(1859)に10回の屋根葺き替えの棟札が残っている』

蟇股の龍の彫刻は、玉眼が入り生き生きとしている。
木鼻の彫刻にも玉眼が入り精緻です。

20170806OnoS287s.jpg 本殿下に目をやると、日陰でシマヘビの子供がいました。
カメラを構え近づくと、僕に頭を向けながら警戒態勢に入りました。
更に近づくとニョロニョロと本殿下に逃げて行きました。
久しぶりにシマヘビの子供を見ました。
大人になると赤色の皮膚を失いますが、子供の頃は結構綺麗です。
色はマムシににているので間違いやすいです。

20170806OnoS290s.jpg r311を西進し、R477を少し北上して8:40「還来神社」。
地図で見て「かくじんじゃ」と読むのかな?と思っていましたが、「もどろぎじんじゃ」だそうです。
20170806OnoS295s.jpg 鎮守の森の巨木が目に入ります。
これが巨大であればあるほど、このお宮を地元の方が守ってきた気持ちの強さを感じます。
最近のエネルギー源は化石燃料ですが、かつては木材でしたから、鎮守の森の巨木は垂涎の的だったはずだし、建築素材として用途も多かったから、その需要から守るのは大変だったはずです。

20170806OnoS302s.jpg 本殿の蟇股の龍の彫刻に玉眼が入っています。
変わった名前とともに、由緒が気になります。

『還来神社(還来大明神) 祭神:藤原旅子 祭神は、50代桓武天皇の皇紀で、53代淳和天皇の生母、太政大臣・藤原百川(ももかわ)の娘。往昔、この龍華の荘は藤原氏の食邑地で邸宅がありました。旅子はここで生まれました。長じて、比良の南麓・最勝寺の開祖・静安に随侍仏に帰依し、蓮華夫人と呼ばれた。静安勅を奉じ、しばしば宮中に参候し、仏名会を行った。この時、才色兼備な旅子が桓武天皇に召し出される。53代淳和天皇を生み、その後京都西院に隠棲し、延暦7年(788)逝去する。病重篤の時、「わが出生の地、比良の南麓に梛の大樹あり、その下に葬る可し」と遺命され、従者畑丹波守により祭祀された。「出生の地に還り来た」というので、「還来」と名付けたのが当社の起こり。
後年、平時に乱に敗れた源義朝一行は、八瀬・大原を敗走し、この還来神社に辿り着き、白羽の鳴鏑矢を献上、武運長久を祈願する。後、源氏の頭領として君臨した頼朝は、この還来大明神を忘れ難く、神田を寄与する。
故郷に還り来たれるとの当社の由緒に鑑み、その後、日清・日露の戦いに参戦する人、この社に参拝をなし、無事帰還を祈願する。太平洋戦争に至っては、多数の参拝者の行列が毎日続いた。最近では、海外派遣・海外旅行等の無事帰還を祈願する人が多い』

ここも無人だったが、御札500円を授かった。
後日、御札をバイクのリアボックス内に貼り付けた。

R477を南下し、r47に乗ります。
交通量が少なく、のんびり走れます。

20170806OnoS305s.jpg 8:57「八所神社」。
鎮守の巨杉が天をついている。
社務所には、大写しされた祭りの写真が飾られている。
20170806OnoS308s.jpg 流鏑馬神事も行われているようで、近在では有名な神社なのでしょう。

20170806OnoS318s.jpg 『創祀は白鳳二年九月と伝えられる。天智天皇が大津宮に遷都の際、随従の朝臣平群飛鳥真人が此の伊香立を食邑地として賜った。真人は祖先である天大吉備諸進命を氏神と勧請し、社殿を造営した。後年この真人の後裔平群兼房が天照大神、伊邪那岐命、伊邪那美命、大山咋命、市杵島姫命、倉稲魂命、崇神天皇と七柱の大神を合祀した。このため八所大明神と称するようになった。
元亀二年信長が比叡山焼打ちした際、坂本日吉神社の称宜生源寺宿禰行丸が日吉山王の御神璽を奉じ当社に避難したが、此の神社も類焼したので、行丸は再び北船路へ避難した。この際焼亡の社殿は逸早く復興したが、日吉神社の復興は遅れたので、行丸は当社に仮殿を設けて山王七社の神を祀り、山王祭を斎行された。この縁由に依り日吉の神大己貴命、白山菊理姫命二柱の分霊を本社に祀り、元の御祭神を境内社として祀った。
明治四十五年菅原道真公を当社に合祀された』
20170806OnoS326s.jpg 
r47がここから細くなり、9:06「新知恩院」。
特筆するところはありませんでした。

20170806OnoS338s.jpg 9:13「融神社」。
ここに来てみたかった。
何故かって・・・中世の宮殿女官を始め多くの女性を虜にした小説「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルが源融だからです。
美男子で仕事もできるモテモテ男だったに決まっているもの。
肖りたいものです。

ところで、この時代(平安時代~1192)、世界的に見て女流作家がいたのだろうか?
読み書きが出来、作家として大きな作品を遺せた女性が、日本以外にいるのだろうか?
ヨーロッパでさえ、小説家として名を残した女性は、みな17世紀以降なので、日本の江戸時代に入ってからです。

国連人権委員会特別報告者が、「日本の女性は虐げられている」などと報告したとTVニュースでやっていた。
作家といえば、知的職業です。
歴史を見れば一目瞭然です。
江戸時代の識字率世界一、当然女性の識字率も世界一でした。
我が家もそうですが、多くの家庭の財布を握って差配しているのは、主婦である女性です。
アメリカは・・・イギリスは・・・先進国の殆どは、旦那が生活費を奥様に渡し財布は旦那が握っている。
日本ほど、女性を教育し、信頼し仕事を任せ、その差配に従っている国はない。

日本を貶めるニュースを大きく取り上げ、「日本はだめな国だ」と言わんばかりのマスコミの報道姿勢を、ここ数年強く感じるようになってきた。
僕は日本人に生まれたことを、誇りに思っている。
大好きな国です。

20170806OnoS346s.jpg 『52代嵯峨天皇・18皇子・源融公を祀る全国唯一の神社。融公の荘園で、宇多天皇・寛平年間に閑居賜いし旧跡で、朱雀天皇天慶8年(938)に祠を建て、鏡一面を御神宝として融公を祀ったことが当社の始まり。寛和2年花山法皇が近江巡行の時、社殿を造営し正一位融大明神と崇称せらる。一条天皇、永延2年南庄の水田百町歩を神領とされ、歴代天皇奉幣されるが、鎌倉時代以降次第に衰微し廃絶する。南庄・谷口・家田・三村の産主神となった。元亀2年信長の比叡山焼き討ちにより焼失。天正7年社殿を再興し神領を奉遷された。寛政8年社殿火災により勅書・神宝焼失。翌年社殿再造営され現在に至る。嵯峨の清涼寺、宇治の平等院などは公の別荘であった。公は、小倉百人一首「陸奥の、しのぶもじずり、誰故に、乱れ染にし、我ならなくに」の詠み人でもある。後の世に紫式部は、光源氏の名で源融公をモデルに源氏物語を作った』

20170806OnoS347s.jpg 『源融(みなもとのとおる)が現在の社地に閑居を設け、そこに一面の鏡を埋めた。その後伊香立の荘官がこの鏡を掘り出して神璽とし、源融を才人として祀ったのが始まりとされる。
20170806OnoS348s.jpg 源融は平安時代初期の公卿で、父は嵯峨天皇、源氏の姓を受けて臣下にくだった。
源氏物語の光源氏のモデルとも言われ、小倉百人一首には河原左大臣として「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに みだれそめにし我ならなくに」の歌が残る』


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