4/10 京都東大路界隈巡り7 霊山護国神社3

『水戸藩招魂社 明治維新時に国事に倒れた水戸勤王殉難烈士1785柱が合祀されている。元治甲子の変1074柱、安政の大獄7柱、桜田門外の変21柱、東禅寺の変11柱、坂下門の変5柱、越前敦賀の殉難345柱、その他322柱。合祀祭人は、水戸市回天神社境内の忠魂塔にその氏名が刻んである』

神道式の先の尖った墓石が並んでいる。大東亜戦争で亡くなった方の石碑も多く立っている。
20160410KyotoS201s.jpg 『山口藩招魂社』『霊山招魂社』『長州勤王烈士墓』、まとまって各藩の志士の墓石が並ぶ。

『禁門の変(蛤御門の変) 1864年7月19日、長州兵3方面より御所を目標に進んだが、互いの連絡協力の余裕がなく、3ヶ所で勝手な戦いとなった。福原越後の伏見勢は北上して、藤ノ森で大垣兵、竹田街道で彦根兵と新選組にあっけなく敗走。国司信濃の天竜寺軍は一挙に御所西側をついたが、会津・薩摩軍のために蛤門で撃退された。増田右衛門介の山崎軍は南から堺町門に迫りながら、越前兵に潰滅させられた。その際に、来島又兵衛・久坂義助・寺島忠三郎・入江久市・真木安臣外数十名の志士が戦死する。ことごとく霊山に眠る』

20160410KyotoS206s.jpg 墓所の一番高いところに桂小五郎・幾松の墓があった。
『維新三傑の一人、桂小五郎。容姿端麗にして神道無念流の達人。吉田松陰門下生で理性もあり流血に縁遠い。一生人を斬ったことがないと言われ、北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬と似ている。勤王芸妓第一人者・三本木の幾松とのロマンスは、文久元年、桂小五郎28才・幾松18才、相思相愛の仲になり、激動の時代の中で苦楽を共にし結ばれた。
勤皇の志士たちの最後は大方悲劇に終わるが、明治10年1877年5月26日45才で病没するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も活躍し、陽の当たる道を歩んだ幸運児とも言える。幾松も同じで、維新の大業成るや正二位侯爵・木戸孝允夫人となり、従四位を賜る程の女傑。ここ霊山に建立されている勅碑からも伺え知る事ができる』

「内閣顧問・勲一等・贈正二位木戸孝允墓」と墓石に刻まれている。
「明治34年5月26日特旨被追階・従一位」の碑が横に立っているので、死後四半世紀経って、従一位まで上ったようです。
「贈正二位・木戸孝允妻・岡部氏松子墓」が、正式な市松の名のようです。
氏族名が入るところが、明治の国民皆苗字になってなお、江戸時代の慣習の名残りを感じます。

20160410KyotoS210s.jpg 『熊本藩招魂社 明治3年(1870)熊本藩主により創建され、宮部鼎蔵ら同藩出身の志士を祭神とし、昭和43年・明治百年記念に、河上・樋口・堤の3柱を合祀、昭和61年横井小楠を合祀した。 祭神18柱』

『岐阜県招魂場 明治3年1870染川星巌の碑が門人により建てられ、戊辰戦争で戦死した徴兵7番隊の川田敬蔵・家村半三郎・中川源八郎・水野定吉らの碑が建ててある。平成2年所郁太郎の碑を建立』

20160410KyotoS223s.jpg 『福岡藩招魂社 明治3年1870年3月、福岡藩主により創建され、平野次郎国臣はじめ福岡藩出身の勤王志士を祭神とし、久留米藩出身の真木和泉守他を合祀。祭神数215柱』

『鳥取藩招魂社 明治3年鳥取藩知事・池田慶徳公によって山頂近くの32坪に建立され、維新を見ることなく散った幕末・戊辰戦争殉難祭神87柱を合祀したものである。この中には、鳥取藩付属として従軍した丹波山国郷(現京都市右京区京北山国)の山国隊7柱が含まれる。大政奉還の日・10/14を慰霊日と定め、戦前までは国費で、戦後は京都鳥取県友会が参行している。
幕末殉難者11柱(三像の梟首事件・本圀寺事件・生野挙兵事件・天誅組大和挙兵事件)。戊辰戦争殉難者76柱(関東の戦い・磐城国の戦い・越後の戦い、羽後の戦い)。合祀されいない殉難者(幕末殉難者17名・戊辰戦争殉難者22名)』

20160410KyotoS233s.jpg パール判事の碑を見ようと下に降りてくると、『金鵄勲章の歴史と鎮魂の賦 金鵄勲章は、明治23年明治天皇により制定され、武功抜群者に授与された国家最高勲章で、日清・日露戦争より大東亜戦争に至るまでの受賞者は、94万余名に上るが、大東亜戦争の受賞者は全て戦死者であり、他の戦役でも戦没の受賞者が大多数を占めている。
特に靖国神社、護国神社に合祀された英霊(特攻隊戦死者を含む)の大半は金鵄勲章受賞者である。大東亜戦争終結後、新憲法施行により、金鵄勲章に関する制度は廃止されたが、本人一代に限り公用着用を認められ、宮城参賀・総理観桜会・その他公式行事に着用し得ることとなった。
回顧すれば、はるか支那事変に始まり、国運の浮沈を賭けた大東亜戦争において、米英を主とする列国より強力な経済封鎖の抑圧を受け、座して死を待つを潔とせず、祖国の自衛自損と東亜の開放と安定のため、敢然と起って死中に活を求めて列強に挑んだ戦いを「八紘一宇の聖戦」と心から信じて、祖国の防人として戦野に空に、そして海において悪戦死闘の末ついに鬼神、壮烈悲惨なる玉砕の悲運を喫した。殉国の英霊に対し、心から感謝と鎮魂の祈りを捧げ、その抜群の武功を顕彰するとともに、ここに不戦の誓いを込めて、世界の恒久平和を祈念するものである。 終戦51周年記念・紀元2656年・平成8年 日本金鵄連合会/京都府金鵄会生存者一同』
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4/10 京都東大路界隈巡り6 霊山護国神社2

20160410KyotoS168s.jpg 『駆逐艦・長波の航跡 1942年6/30大阪藤長田造船所で竣工。8月北方キスカ島へ船団護衛。9月南方トラック島へ向かう第2水雷戦隊としてショートランド基地へ。ガタルカナル島陸軍部隊を支援十数回の輸送を遂行。10月南太平洋海戦。11月ルンガ沖夜戦に二水戦旗艦として参加。1943年再度北方艦隊に編入アッツ島支援及びキスカ島撤収作戦に従事する。この作戦で船体を損傷し、修理のため母港舞鶴に帰港修理。9月に南下、ラバウルを基地として、ブーゲンビル島沖海戦その他各海戦に参加。11/11ラバウル港における対空戦闘で被弾し航行不能となる。
巡洋艦夕張及び長良両船に、延々5000海里曳航され呉軍港に入港修理。1944年7月連合艦隊とともにシンガポール港に入港。10月ブルネイ港を経由レイテ島海戦に参加。11月マニラとレイテ島間の物資輸送護衛行動中、オルモック湾において米空母艦載機350余機と交戦激烈な対空戦闘の末、ついにオルモック湾に戦没する。 戦没者247柱 時刻12時45分 東経125度31分・北緯10度50分』

『昭和の杜 国のため、いのち捧げし、ますらおの、いさを忘るな、時うつれども』

『土佐藩招魂社』
『高知県招魂社 明治2年創立 創建:旧土佐藩 祭神:坂本龍馬・中岡慎太郎外100余烈士 昭和43年高知県人会篤志家の寄進により再建小像由来 この小像を拡大制作したものが円山公園の銅像である。坂本竜馬像は、寺田屋お登勢が伏見在住の画家・田中松穂に描かせた先生遭難直前の肖像をモデルにしたもので、当歴史館に保存されている』

20160410KyotoS177s.jpg 『吉村寅太郎の墓 天誅組 1863年8月13日、大和行幸の詔が出るや「攘夷親征の奉迎」と土佐・吉村寅太郎をはじめ、三河刈谷の松本謙三郎・備前の藤本鉄石などは、侍従・中山忠光を盟主に立て、京都東郊の方広寺に集まり、統幕のため挙兵に出た。奈良県五條代官所を襲撃し成功したが、8/18の政変により事態は急変、行幸は中止となり、直ちに幕府は諸藩に彼らの追討を命じ、応戦するも十津川郷士の離反などから敗走を重ね、秀でた志士を失うこととなる。吉村寅太郎は、成績極めて優秀で、容姿端麗、同志間で目立つ存在であった。おくにという娘との清純な恋愛を通じ、青年としての喜びを感じた9/27、傷を負って敗走中、大和鷲家口で藤堂兵に囲まれ、「吉野山風に乱るるもみじ葉は、我が打つ太刀の血煙と見よ」と辞世を残し、銃弾を受け斃れる。享年27才。
天誅組総裁・藤本鉄石は、同志中最年長の48才にして文人墨客で、昼は一心に絵を描き、夜は志士たちと会議を重ね回天の策を巡らすという二重生活を送る。天誅組総裁・松本謙三郎は、18才の時槍術の稽古中に左目を失明、吉野山中での激戦にて敵弾を受け、右目をも失い自刃した。
過激な尊攘派で知られる中山忠光は、血路を開き大阪から海路長州へと逃れたが、1864年11月潜伏先の豊浦郡田耕村にて暗殺され、20才の人生を終える。
天誅組は倒幕の急先鋒であり、憂国の士の集団であったが、彼らの純粋な想いだけを残し短期に壊滅した』

20160410KyotoS180s.jpg ここから、手前の八坂の塔のバックに京都市街地が見下ろせ気持ちが良い。
坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓を拝見。
20160410KyotoS183s.jpg 2人の小像がある。
『坂本龍馬・中岡慎太郎の最期 徳川慶喜大政奉還劇の大作家・坂本龍馬は、洛中において河原町三条下がる材木商・酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難10日前に醤油商・近江屋新助方に転居した。龍馬は、当時幕府方から最も狙われていた志士で、新選組・見廻組らの追及が急となり、藩邸の堀内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。1867年11月15日午後6時頃中岡慎太郎が訪問、この2・3時間後、会議中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右肩から左背骨にかけ、三の太刀で前頭部を裂かれ倒れた。盟友・中岡慎太郎は、全身に傷を負い、2日後息を引き取った。18日、近江屋にて葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。昭憲皇太后の夢枕に一人の侍の影が立ち、「微臣坂本にございます。この度の海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえご安心願い上げます」と言い残すと消えたという。坂本龍馬、志士中の一級志士と言っても過言ではない』

20160410KyotoS188s.jpg 『池田屋事変 浪士狩りと称し洛中の取り締まりを行っていた新選組は、1864年6月5日早朝、武田観柳斎らにより、桝屋喜右衛門と名乗る古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所へ連行。土方歳三による激しい拷問により、志士密会と大謀議を自白。
同日夜半、池田屋にて会議中の尊王攘夷派志士たちを新選組・近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助らが襲撃。これにより宮部鼎蔵・吉田稔麿・松田重助ら優れた人材が闘死・捕縛され失われた。また事変が機となり長州藩が挙兵、上洛。
禁門の変が起こる。吉田稔麿・辞世の句「むすびても又むすびても、黒髪のみだれそめにし、世をいかにせむ」長州藩邸から池田屋に向かう途中に詠まれた』

4/10 京都東大路界隈巡り5 霊山護国神社

20160410KyotoS155s.jpg 8:08「霊山護国神社」
『当神社は、幕末維新に殉じた志士と大東亜戦争に至る京都府出身の英霊73011柱奉祀する。幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山に、それぞれ殉死者を祀ったのが起源で、明治元年5月に太政官布告をもってわが国初の官祭招魂社とすべきことが決められた。この布告により、各藩は社殿を建設し、7月には盛大な祭典が挙行された。明治10年には皇室より巨費が下賜せられ神域が整備され、全国招魂社のうち最も崇敬を集めた。昭和4年6月には、昭和天皇御即位大礼の建物が下賜せられ、現社殿を整備し、昭和14年に護国神社と改称して現在に至る。霊山神域内には坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允・平野
国臣・宮部鼎蔵はじめ蛤御門の変・天誅組の義挙などに加わった志士たちの墓300余柱があり、1356柱が合祀されてあり、この地は明治維新を偲ぶ大霊域・史跡である』

『龍馬演舞場 新しい時代の幕開けを夢見ながらも慶応3年11月15日京都四条河原町・近江屋にて刃に倒れた幕末維新の英傑・坂本龍馬。京都霊山護国神社では龍馬の命日に「龍馬祭」を行い、坂本龍馬・中岡慎太郎・藤吉の3柱の御霊をお慰めています。龍馬の故郷・高知県では、「よさこい鳴子踊り」が盛んに行われております。彼の命日に故郷を伝える「よさこい鳴子踊り」を境内にて奉納し、在天の坂本龍馬にご照覧頂こうとはじめられたのが、「龍馬よさこい」です。京都霊山護国神社境内は、この発祥の地で、この場所を「龍馬演舞場」と名づけ、龍馬を追慕する者たちが、舞を捧げる場所であります』

瀟洒な拝殿にお参りします。
なんだかんだ言いながら、生まれてからずっと平和に暮らせ、国や民族のことは空気と同じように意識せず来れたのは、繁栄する日本という国があったからこそです。
江戸時代でも世界最高の識字率を誇ったという為政者が搾取せず、臣民全体のレベルアップを願ってきた国民性が、脈々と受け継がれて来たからだと思っている。
それは、為政者が時代とともに変われど、天皇家という太古の時代から続く日本民族の心の拠り所である家を頂いているからです。

この家から臣籍降下した多くの氏族から派生し、その氏族と婚姻を重ね血のつながりを持った人々が、現在の日本人の殆どという広い意味で親戚が集まった国家が海で大陸と隔絶された土地に住んでいる特殊事情によるところが多い。
境内に立つ日の丸を見上げながら、この国に生まれた幸運を思う。

明治維新の時代は、欧米列強が海外に進出し、まさに日本も植民地化される寸前の時期だった。
江戸幕府側・新政府側として戦ったが、結果的には軍事力では新政府側を圧倒していた幕府軍が、「天皇」という古代から続く日本の象徴的権威でまとまる形で、割合平和的に多くの臣民犠牲者を出さず、国の統一が成った。
残念ながら、敗戦側の幕府軍の将兵の御霊は葬られてはいないが、その後の日本の大発展と生き残りを成した英雄たちが眠っている。
手を合わせに行こう。

20160410KyotoS160s.jpg 墓所全体の地図があり、墓石のある志士の名前が全て書かれている。
坂本龍馬に始まり、多くの有名志士の名に目が行くが、「十津川郷士」の墓石も並んでいた。
有名志士の他に見たかった墓石群です。
十津川は、山深い紀伊半島の中央部にあり、周辺地域と隔離されているといえるほど、交通の便が良くない。
神武東征でここを北上し奈良盆地に入ったという長い歴史を持ち、政争がある度、敗軍が逃げ込んだ場所でもある。

産業もあまりなく、ほそぼそと生計を立てているだけだが、国家への奉仕という視野の広さを持っている。
京都の皇居守備隊として、物騒な京都の町の治安を維持し、明治維新に繋がる最初の討幕運動と言える「天誅組の乱」の兵として人数を送った。歴史では将の名が後世に残るが、名も無き兵の奮闘を忘れてはならない。

電車の自動改札機のような入場方法で入る・・・300円。
20160410KyotoS166s.jpg 「参拝者順路」の道標が立っているので、それに従うと大きく巡れるようになっている。
「坂本龍馬先生の墓」など参拝者の多い墓にスムーズに行けるようになっている。
20160410KyotoS162s.jpg 入場してすぐに、「パール博士顕彰碑」への道標が立っており、嬉しくなってしまった。
東京裁判で、戦勝国が当時の国際法違反ではない当時の日本の戦争指導者を裁いた。
世界中の戦勝国から集まった裁判官の殆どが、法律にないことで有罪判決を出した中、唯一インドからやって来たパール判事のみが「無罪」判決を出した。
結果的には通らなかったが、頑なに法の精神に則って抵抗した。

現在は、「東京裁判のパール判事判決」こそ本来の法治の姿と、高く評価されている。
そんな大恩人をきちんと顕彰しているのに、ちょっと涙が滲んだ。
家内の父親は、職業軍人・部隊長として中国戦線で勇猛に戦い、戦時中は地元播磨の英雄として名が知られていた。
率いた部隊に、家内の実家の苗字名が頭に付いていたほどだった。
戦後シベリアに抑留され、辛い生活を送ったそうだが、もしすぐに帰国できていたなら、東京裁判に掛かっていたかもしれない。
そうしたら、家内が生まれず、僕の今のこの幸せな生活はない。

4/10 京都東大路界隈巡り4 ねねの道~御陵衛士屯所跡~翠紅館跡

20160410KyotoS091s.jpg 7:07「恵比寿神社」
神社なのに、想定外の開門前。
神社なら24Hオープンで境内に入れるようにしとこうよ。

20160410KyotoS092s.jpg 「祇園雪虎製作所」というお店があった。
アンティークグッズ製作のお店のようだが、京都らしく怪しい雰囲気が漂っている。

20160410KyotoS104s.jpg 八坂通を、正面に「八坂の塔」を見ながら歩き、建仁寺勅使門横の門から境内に入り、塔頭の雲水が掃除をしている石畳の道を歩きます。
車に戻ります。
6:32~7:23「安井金比羅宮」100円。

車を動かし、再び「高台寺」へ。
20160410KyotoS112s.jpg 霊山護国神社参道横の駐車場に入れます。
コンビニで買った「助六寿司」で朝食。

20160410KyotoS114s.jpg 「高台寺」前の「ねねの道」を歩いてみます。
20160410KyotoS121s.jpg 『圓徳院(北政所終焉の地) 豊臣秀吉没後、その妻北政所ねねは、高台寺建立を発願し、1605年秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と前庭をこの地に移築し移り住んだ。77才で没するまで19年間、この地で余生を送り、その間北政所を慕う大名・禅僧・茶人・歌人・画家・陶芸家などが訪れた。圓徳院は、ねねの没後9年目、甥の木下利房(足利藩主)が、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開いた。方丈は創建時の
もので、内部の襖には長谷川等伯の32面の水墨画が描かれ、国の重要文化財に指定されている。化粧御殿前庭は、庭石や枯滝の石組が配された豪華なもので、桃山時代の枯山水庭園の様式を今に伝え、国の名勝に指定されている。境内に奉祀された三面大黒天像は、豊臣秀吉の守り本尊であり、今日でも多くの信仰を集めている』

20160410KyotoS126s.jpg 『豊公出世守り本尊・三面大黒天 秀吉公が出世時代に念仏仏とした尊像で、北政所がこの地に移され今日に至っている。大黒天・弁財天・毘沙門天の三面を合わせ持ち、一仏礼拝によって三尊天のご利益を得るという誠に秀吉公らしい信仰である。大黒天は福の神、弁財天は学問、毘沙門天は勝利・子宝などの神として、多くの信仰を集めている。堂及び表門は、御所の鎮守大黒殿を移築したものである。
歌仙堂 長唄子(若狭城主)は北政所の甥であり、歌聖として知られている。歌仙堂は長唄子を祀り、もと霊山にあったものを木下家の関係でこの地に移築した。
なお詩仙堂・雅仙堂と合わせ京都の三堂と言われ、学問・詩歌を志す人々の信仰を集めている』

20160410KyotoS129s.jpg 「御陵衛士屯所跡」
『ここ高台寺・月真院は、1867年6~11月にかけ、熱烈な勤王主義者であり、孝明天皇の御陵衛士(天皇の墓の守護者)と称した伊東甲子太郎(かしたろう)ら15名が屯所とした寺院である。「高台寺党」とも呼ばれる。
伊藤は常陸の出身で学問優秀、剣は北辰一刀流でであった。1864年江戸から京に移り、新選組に入隊し参謀となったが、近藤勇・土方歳三らと意見を異にし、袂を分かつ。同士14名を連れて御陵衛士に任命され、ここを屯所とした。薩摩藩の援助を受け、雄藩を回って勤王を説いた。伊東は近藤勇から酒席の接待を受けた帰り、油小路木津屋橋で待ち伏せしていた新選組に謀殺され、伊東の遺体を引き取りに来た多くの同志も、新選組隊士によって斬られ、御領衛士の活動は終止符を打った』

境内に白い八重桜が綺麗に咲いているしている。
20160410KyotoS137s.jpg 「ねねの道」を戻り、霊山護国神社に向かって坂を登り出す。
清水寺方向に、石段が続き、日中は賑わう魅力的な坂道が分岐している。

7:59石鳥居をくぐる。
「霊山歴史館」も見学したかったが、10時からのようで残念。
『翠紅館跡 ここに幕末の頃、翠紅館と呼ばれる屋敷があり、志士たちの会合の場となっていた。正法寺というお寺の塔頭の1つがあり、眺望良く、会合に利用されていたのを、鎌倉時代に公家の鷲尾家が買い取り、その後西本願寺・東山別院に寄進された。1863年正月27日には、土佐藩・武市半平太、長州藩・井上多聞・久坂玄瑞ら多数が集まり、6/17にも長州藩・桂小五郎、久留米藩・真木保臣らが集まった。この数年後から攘夷運動が次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあった。これら各藩の志士代表者会議で、攘夷の具体的方法が検討され、世にこれを「翠紅館会議」という。8/13に、孝明天皇の大和行幸の詔書が出され、攘夷運動は頂点に達した。しかし8/18政変が起こり、その結果攘夷派は失脚し、代わって公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を増していった』

20160410KyotoS148s.jpg 門前に、「贈正四位坂本龍馬氏の墓」「天誅組義士墓」「この上に勤王志士の墳墓あり」「贈従一位木戸孝允卿墓」の石碑が立っている。
「贈」だから、死後贈られた官位ですね。
孝明天皇大和行幸に即応し旗揚げし、その後の京の政変で賊軍と孤立殲滅された不運の天誅組義士の案内碑が立っているとは、なんか気持ちが良い。

4/10 京都東大路界隈巡り3 崇徳天皇陵~摩利支天尊天堂

ソメイヨシノは終わってるけど、八重桜が鞠のように可愛く花をつけている。
この界隈、町のど真ん中なのに、ラブホテルが軒を連ねている。
愛しあう男女和合は、金毘羅さんも願っているでしょう。

20160410KyotoS058s.jpg 6:38「崇徳天皇御陵」発見。
『崇徳上皇・75代は、平安時代の末、保元の乱1156年により、讃岐の国へ御配流の悲運にあわれた。上皇は血書をもって、京都への御還幸を願われたが、憤怒の御心のまま、1164年46才にて崩御。白峰山の御陵に奉葬送された。上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、お遺髪を請い受け、この場所に一塚を築き、上皇の霊をあ慰めした。その頃の京都では、上皇の祟りの異変が相次いで発生したため、御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが、長い年月の間に廃絶し、ここのみが哀史を偲ぶよすがとなっている。なお孝明・明治天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、元官幣大社として尊崇され、今日に至っている』

数年前に訪問した白峯神宮は、儀式としての蹴鞠で有名で、その関係でサッカーチームからの必勝祈願が集まり、境内にはたくさんの奉納されたサッカーボールが目につく。
スポーツにご利益のあるお宮さんです。

『安井金比羅宮 祭神として崇徳天皇・大物主命・源頼政を祀る。保元の乱1156年に敗れ讃岐で崩御した崇徳天皇の霊を慰めるため、1275~77年に大円法師が建立した光明院観勝寺が当社の起こり。その後、応仁の兵火で荒廃し、1695年太秦安井にあった蓮華光院が当地に移築され、その鎮守として、崇徳天皇に加え、讃岐金毘羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金毘羅さんの名で知られるようになった。本殿東の絵馬館には大小様々な絵馬が陳列されており、「久志塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年9月第4月曜日に櫛祭が行われる』

源頼政は、平清盛と源義朝が戦った平治の乱で、勝利した清盛側についた摂津源氏で、「平家にあらずんば人にあらず」の平家全盛期に唯一生き残り出世した源氏です。
晩年は、後白河法皇の皇子・以仁王の「平家打倒」の令旨を伝え、自らの挙兵したが、宇治平等院に敗れた。

6:52「六道珍皇寺」
『建仁寺の塔頭。この付近は死者を鳥辺野(阿弥陀ヶ峰北麓の五条坂から、南麓の今熊野に至る丘陵地)への葬送・野辺送りの場所で「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世との境と言われていた。六道とは、仏教で全ての生き物が生前の善悪の行いによって必ず行くと言われる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天井の6つの冥界のこと。本堂の裏にある井戸は、昼は嵯峨天皇・夜は閻魔大王に仕えた小野篁(たかむら)が冥土へ通った入口であったという伝説が残されている。創建は明らかでないが、平安・鎌倉時代には東寺に属して隆盛し、その後衰退した。室町前期1346~70年に建仁寺の僧・良聡によって再興され、臨済宗に改められた。薬師堂に本尊・木造薬師如来像(重文)を安置し、閻魔堂に小野篁作という閻魔大王像と、等身大の小野篁像が祀られている。毎年8/7~10までの4日間、「六道まいり」が行われ、先祖の精霊をこの世へ呼び戻す「迎え鐘」を衝く参拝者で賑わう』

残念ながら開門前なので見学できません。
「六道の辻」をを曲がり、「六波羅蜜寺」
『951年、病気平易のため空也上人により開創された真言宗智山派寺院。空也上人自刻と伝わる十一面観音立像(国宝)を本尊とする。空也上人は醍醐天皇の第2皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍(かんきゆやく)しつつ念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六斎念仏の始祖である。往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。宝物館には、定朝作・地蔵菩薩立像の他、空也上人立像、平清盛坐像、長快作・弘法大師像など数多くの重要文化財を安置し、境内の十輪院が仏師運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇に祀られていたという運慶・快慶坐像も所蔵している。
正月三が日の皇服茶、8月の万燈会、隠れ念仏として知られる12月の空也踊躍念仏(国の重要無形民族文化財)が有名である』

ここも拝観時間前です。
20160410KyotoS083s.jpg 建仁寺塔頭「摩利支天尊天堂」
毘沙門天同様、摩利支天も好きなんですよね。
20160410KyotoS087s.jpg 狛犬じゃなく、狛イノシシでした。
毘沙門天は、無敵・無敗を誇った上杉謙信がひたすら祈願した必勝の守護神ですが、摩利支天も戦の守護神です。
いつも太陽を背にするので見えないとされ、イノシシに乗って光のように移動する不敗の守護神です。

子供の時流行った忍者ドラマでも、正義の味方・伊賀忍者と対決する悪の甲賀忍者の棟梁が摩利支天という名で登場し、僕の目にはかっこ良く見え、名前の音の響きも耳に快かった。
刀を背に斜め掛けして友達と忍者ごっこする時も、伊賀の佐助などは競争率が高いけど摩利支天は誰も興味を示さないので、僕の定番の名にしていた。

4/10 京都東大路界隈巡り2 若宮八幡宮~八坂の塔~安井金比羅宮

『蓬莱石 若宮八幡神に一奇石あり、その名を蓬莱という。足利尊氏が若宮八幡を深く信仰し、病にかかった時立願した。病が癒えたのを祝して珍宝七種を献じた。その1つである。蓬莱山は、渤海の東にあり神仙不死の薬あり・・・神霊・加護を与える・・・。不思議なご神徳ご加護のある貴重な宝石である。この蓬莱石は、本殿の片隅に埋もれていたものが、神託により発見され、約650年ぶりに世に出されたご神威新たかな石である』

謂れを読むとなんか凄い。
だけど、屋根があるにしても小さな壁のない屋外の祠にポンと置かれているだけです。
この石にさわり、本殿でも「元気な男の子をお願い致します」と祈った。

「孝明天皇胞衣埋葬所」と彫られた石碑が立っていた。
胞衣とは、出産時に出る胎児をくるんでいた膜や胎盤、臍帯などを言う。
我が家も、僕や息子たちの臍帯が桐の箱に入れられ残されているが、それを埋めたところらしい。
胎盤は高栄養らしく、人間以外の動物は、出産直後母親が我が子を舐めながら食べてしまうものです。
過去の戦争時には、兵隊の栄養源として盛んに製品化され、今でも医薬品として使われている。

20160410KyotoS023s.jpg 玉垣に囲まれ、「ご祭神・孝明天皇・御百年祭 天皇陛下御祭祀料 昭和42年8月7日 勅使御参内」と書かれていた。
昭和天皇が、勅使を送ったのですね。
その時の玉垣かもしれません。
さらに、石碑の横に梛が植えてあります。
『縁結び家内安全のご神木(梛の木) このご神木は、縁結びの神のご神託によって2本の木が1つに結ばれたものです。陰陽和合・縁結び・安産・子育て・家内安全のご神徳の現れであります。この不思議な目出度い木にあやかりたいものです』

6:22、高台寺近くのパーキングに車を入れ、「木曽義仲の首塚」を探す。
僕の調べでは、「八坂の塔」の横なので、高台寺~八坂塔~清水寺に続く界隈の雰囲気の良い路地を歩く。
ちらちら見える八坂塔が、景観保護政策により感じが良い。
20160410KyotoS035s.jpg 「夢見坂」「庚申」、八坂の塔を正面にゆるやかに登る「八坂通」が、僕は京都で最も京都らしい道のように思います。

朝早く、観光客はほぼゼロ。
八坂の塔に八重桜が似合うな。
結局周囲を探しまわったけど、見つかりませんでした。
帰宅後調べたら、車を止めた駐車場の斜め向かいでした。
京都らしい古風であって洗練されたお店を見ているだけで、気持ちの良い朝散歩でした。

6:22~6:30「高台寺パーキング」100円。
車を駐車場に入れ、自転車で巡ろうと思ってたのに、折りたたみ自転車を積むのを忘れちゃった。
東大路通まで下り、交差点の斜め前の「安井金比羅宮」駐車場に入れます。
金毘羅宮に入ると、ランニング女子が桜を見上げながら、息を整えています。
ピンクの半袖・白アンダー、ブラック半パンにピンクのストライプ・黒タイツ、ピンクのランニングシューズ・・・お洒落でいいな。
女性はこうでなくちゃ。

「絵馬の道」というのがあって、参道の両側に絵馬とおみくじが大量に下がっています。
20160410KyotoS046s.jpg 御札が大量に張られている中央に穴が空いたオブジェ?があり、何だこりゃと近づくと、『悪縁を切る 縁切り・縁結び碑 当宮の主祭神・崇徳天皇自ら、国家安泰を祈られ、諸々一切を断って祈願されたという故事に習い、江戸時代より縁切り祈願が生まれた。旧きを脱皮し、常に新しい新鮮な自分を甦らせる縁切り、諸々の祈願を成就に導く縁結びともに歓迎。これは神道本来の祓いに通じる。上部から亀裂を伝って神の力は円形に注がれ、願いを素直に神札に記し、円形に向かって表から裏に(縁切り)裏から表に(縁結び)、それぞれ心に祈りを込めてくぐり抜けてください。くぐり抜けた後に、神札を石面に貼ってください。当宮では、毎朝拝時に、必ずこの碑にお祓いを行い、お清めを続けています』

金毘羅宮は、船の安全を祈願するお宮なので、うちの船にも先輩が金毘羅さんの御札を置いている。
大国主命とともに国造りした大物主命を祀っていると思ってたら、大怨霊・崇徳天皇も祀っていたのですね。
確かに崇徳天皇は、保元の乱に敗れ、讃岐に流されたまま亡くなったが、その関係で祭神になったのかな?祟りを鎮めるために合祀されたのかも?

どんな縁切り御札が張られているのか興味があったけど、「もし僕との縁切りを願う家内の御札があったら・・・」なんて思うと、怖くて見れない。
世の中には、「知らぬが仏」という言葉がある。
「50%の人にいるというピロリ菌がいるよ」と患者を脅し、治療薬を出して儲ける医者がおり、それに協力し、貴重な健康保険財源を食い潰す患者がいる。
寄ってたかって、国民皆保険の互助会資金を減らして、保険料増額に向かい続けている。
それが税金増額になるってこと知ってる?

わざわざ遺伝子検査までして、女性の象徴である魅力的なおっぱいを取っちゃう女優がいる。
「ああ、勿体無い。知らぬが仏」、僕はこれでニコニコ楽しく生活し、ピンピンコロリが良い。

4/10 京都東大路界隈巡り1 新熊野神社~若宮八幡宮

4月は、始まりの季節、入学の季節です。
キャンパスに新入生がやってきます。
サークルやクラブが、手ぐすね引いて新人獲得のためにやっきになる活気ある季節です。
そして僕は、毎年4月はコーチしている大学ヨット部の新人獲得のためにお手伝いします。

「10時に時計台楠の木前に、お願いできますか?女の子7人お願いします。
夕食の鍋後に、またお言葉をお願いしたい」の連絡が、3回生の新人勧誘隊長から入りました。
「お~、女の子7人」・・・久しぶりにテンションが上ります。
以前は女子マネージャーを供給してくれている「京都女子大」担当が多かったのに、ここ数年は男子ばかり乗せ、京都から琵琶湖に運ぶ依頼が多く、不完全燃焼が続いていました。
新歓隊長に、あれこれ言っていたのがようやく実を結びました。

4時に目覚め、用意して4:51車に乗って自宅を出発します。
まず御用達のGSに寄り、洗車しました。
いつもは2100円のディーラー洗車なのですが、忘れていました。
5:02出発。名神高速に乗り、「京都南IC」下車。
R1で京都市街地に向け北上し、5:42「セブン-イレブン上鳥羽鴨田店」で、「助六寿司・398円」を朝食用に買いました。

「東寺」に突き当たり、九条通に乗ります。
20160410KyotoS001s.jpg 5:49久しぶりに当寺・五重塔を写真に収めます。
九条通を東進し、東大路通に乗って北上です。

20160410KyotoS004s.jpg 5:58、「新熊野神社」
『後白河法皇お手植えの「大樟」 約830年前、後白河法皇が紀州国・熊野から、土砂・材木などをこの地に運び、熊野になぞらえその新宮、即ち「新熊野神社」を創建された。その時、国家鎮護・万民福祉を祈願し、手植えされたのが大樟です。熊野の神々が降臨し、健康長寿・病魔退散、特に上皇が常にお腹を煩っていたので、「お腹の神様」と信仰され、「大樟大権現」と尊崇されている』

『新熊野神社の「梛」の謂れ 当社は古来「梛の宮」ともいわれ、梛(椥とも書く)の名所である。イヌマキ科の常緑樹。葉は多くの縦脈からなり、容易に切れないため、縁結びの樹といい、実は2つ並んで仲良く実るので、夫婦円満の目出度い樹とされている。藤原定家(鎌倉初期の歌聖)は、千早振る遠つ神代の梛の葉を切りに切りても祓いつるかな」と詠っているように、梛は罪穢・災禍・病魔などをなぎ払う霊験があると信じられ、熊野詣には、道中安全のお守りとした。またナギは、朝凪・夕凪のナギから、安全・無事を守り、平和と幸福を招来する霊樹と言われている』

東山永観堂の守り神として勧請された「若王子熊野神社」にも梛が植えられており、京都地下鉄にも「椥辻」という駅名で残っている。
熊野と言えば「梛」です。
神社といえば「榊」と同じように、左右対称の葉を持ち、綺麗な花を持つわけでもない目立たない常緑の木ですが、こういうのをシンボルにし霊感を感じる。
時代が変われど大切にし続ける日本人の感性に僕は惹かれる。
そして、日本人に生まれてよかったと感じる。

20160410KyotoS005s.jpg 『新熊野神社・いまくまのじんじゃ 本殿・大樟 新熊野神社は、後白河法皇によって法住寺殿が造営された時、その鎮守社として1160年、新日吉社とともに勧請された。現在の本殿は、1673年に造営されたもの。規模は桁行3間・梁行1間・屋根入母屋造妻入で、正面に向拝1間を付け、内部は正面通1間の外陣とその奥2間の内陣に分かれている。この本殿は、構造形式・平面構造ともに熊野本宮証誠殿と同じで、全国的に見ても、京都においても他に類例が少なく、更に熊野本宮証誠殿より古いことから、熊野造の古制をよく伝える貴重な遺構であり、京都市指定有形文化財に指定された。また境内東南隅にあるクスノキは、市街地に植えられた樹木としては、傑出した大きさを誇り、京都市指定天然記念物に指定された』

20160410KyotoS014s.jpg 6:10、「若宮八幡宮」
「清水焼発祥の地・五条坂」と彫られた石碑が立っている。
20160410KyotoS016s.jpg 『応神天皇(八幡神の主神)とその父母・仲哀天皇・神功皇后を主祭神とする。平安時代1053年、後冷泉天皇の勅願により、源頼義が六条醒ヶ井(現在の西本願寺北東付近)に創建したのが当社の始まり。源氏一族や武士からの信仰が厚く、室町時代には足利歴代将軍の尊敬を集め隆盛を極めた。その後応仁の乱により荒廃し、社地を点々として、1605年五条坂のほぼ中央に当たるこの地に移された。現在の社殿は、1654年に再建された』

源頼義は河内源氏2代目で、八幡太郎義家の父親です。
ここから源氏は隆盛を極め、保元平治の乱で一時平清盛の後塵を配したが、明治維新まで続く武家実力社会を築いた。
五条坂を更に上ると、日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂が自宅を寄進したことで始まる「清水寺」がある。


4/3・奈良サイクリング 忘れた前輪を受け取りに駅へ

家内が電話している間、僕は荷物を下ろします。
自転車2台をラックに載せたとこで、「106に聞いたら、二上山駅って電話番号を公開していないんだって。近くの駅の番号を聞き、問い合わせてもらった。車輪あったって。私もついていこうか?」
「いや、いいよ。ゆっくりしてて」

17:51、再び出発。
19:06、二上山駅着。
「すいません、お手数掛けました」
「自転車のタイヤを忘れたって聞いて、え~って思いましたよ」って笑っていました。
免許証を見せ、住所氏名などを書き、無事回収。
19:09、駅出発~20:07、自宅着。
大笑いです。

家内に電話を頼む時、忘れた場所は券売機の横のスペースだけど、自然に「きっとまだそこにあるだろう」という確信があった。
やっぱりその場所にそのままあり、駅員さんが確保してくれた。
改めて、「これが日本の良さなんだよな」と思った。

今までこういうことを山のように体験してきたから、僕は日本贔屓で日本大好き人間になりました。
「安いから外国製を買おう」なんて、全く思わない。
同じ中国製でも、日本メーカーが製造しているものなら、平気で買う。

また、日本が好きになった。
日本メーカーの白物家電が販売不振ですが、高性能品にシフトし過ぎ、高額品になったのが原因のように思う。
高機能であれこれ出来過ぎて、僕のようにベーシックなことが単純操作でしたい人が、使いづらくて離れちゃってるだけなんじゃないかな。
技術の最先端の高機能品とは別に、安価なベーシック品もラインナップに加えておけば、白物家電は家庭の必需品なんだから、少々高くても日本製品を買う人は多いと思う。
壊れず、きちんと初期不良・修理対応する日本企業の製品は、世界最強だと思う。

「NHK大河ドラマ・真田丸」を見ました。
幸村の奥さんが、家康との攻防で死んじゃった。
真田信繁(幸村)の最初の奥さんが、こんなに早く死んじゃった。
黒黒田官兵衛と同じだ。
残されたのが嫡男・幸昌(大輔)の姉、何処に嫁いだのかな?

---
家内は、朝起きたら、最初にトーストを焼きます。
エネルギーが切れてしまって、まずエネルギー補給しないと動けないそうです。
コーヒーとトーストを食べながら新聞読んで、1人の幸せな朝時間を過ごした後に、家族の朝食を作り始めます。
朝ごはんを食べている時の家内は、とても幸せそうです。

僕が大学生の時、初めて家内の実家を訪問した時、お肉を山盛りにして歓待を受けました。
とても嬉しそうに僕を紹介してくれ、ご両親の笑顔の歓待に僕のことをかなり素晴らしく伝えてくれていたんだなと感じました。
でも、お肉はどうもお腹にもたれる僕は、頑張って食べないといけなくなりました。
赤ん坊の時からお腹が弱かったので、お肉が苦手です。
大病したこともあり、お魚・野菜・薄味食でやってきました。

家内は小さな時から、しっかり食べ食生活を大切に育てられたんだなとわかりました。
そんな家内だから、朝食からちゃんとしたご飯を作ってくれます。
家内はパン派だけど、僕や息子たちにはごはんを中心にしたメニューでした。
おかげで僕は入院するような病気もせずですし、息子たちは毎朝しっかりご飯を食べて登校し、皆勤賞が当たり前の学校生活を送ることが出来ました。

家内の至福の朝食後、お風呂のスイッチを入れ、洗濯機を回しながら家族の食事を作り、それを終えたら朝のお風呂タイムを楽しみます。
子どもたちがチビだった頃は別にして、その他の期間はずっと1人のお風呂タイムを楽しんでいます。

4/3・奈良サイクリング 六地蔵~九品寺~近鉄・御所駅

『役行者は名を小角、姓を役公と言い、欽明天皇6年(537)この山の麓・御所市茅原の里で生まれた。父は加茂間賀介麿またの名・大領、母は渡都岐比売またの名・白専女と伝わる。幼少より天性聡敏、7才にして仏道を志し、当時乱れた人心を救済しようとした。17才で発願し、葛城の深山幽谷で荒修行を重ね、蔵王権現を感得し、修験道を開創した。その足跡は山岳修行の先駆者として、日本全国の霊山に残されているが、とりわけここ葛城山は役行者が四方の山々を眺め、吉野大峰の如何に岩橋を掛け、客僧たちの通い路にされようとした伝説とともに、山岳宗教修験道発祥の霊地として、崇敬されている』

20160403KatsuraS241s.jpg 「葛城の自然研究路」「葛城山の動植物たち」「ブナとヤドリギ」「野鳥のさえずり」「かたくり」などの案内板を見て、東屋で時折やってくる野鳥をカメラで追います。
山上駅の上の展望台に登ります。
ここは絶景でした。
20160403KatsuraS248s.jpg 大和盆地に留まらず、竹内街道が通る生駒山系との間のたわの向こうに大阪市街地のビル群が見えます。
更に京都の方角にも家々が見えます。
宇治なのかな?

20160403KatsuraS249s.jpg 14:00発のロープウェイに乗り下山します。
5分の空中散歩。
歩いて自転車まで下山しました。
途中に「乗馬クラブ・クレイン奈良」がありました。

20160403KatsuraS262s.jpg 「猿目橋バス停」から道をそれ、14:33「六地蔵」
20160403KatsuraS268s.jpg 14:41「駒形大重神社」
参道のソメイヨシノが綺麗で、アマチュアカメラマン数人が、三脚で撮っていた。
農耕に使役した馬を祀ったのが、名の謂れだそうです。

20160403KatsuraS269s.jpg 14:46、「九品寺」
ここもソメイヨシノと枝垂れ桜が満開で、そのピンクがアクセントになって美しい。
ここで、空からポツポツ来ちゃいました。
本降りに成る空模様ではありませんが、ここでサイクリングを切り上げることにしました。

PCからプリントした地図には、ロープウェイからの下り道を真っ直ぐ行くと、
「近鉄・御所駅」がある。
ここを目指そう。
ロープウェイを見上げながら、野生の勘で適当にあぜ道などを北東に走っていると、広い道に出たのでそれを東に下って行ったら、ビンゴ!15:29着。

前輪を外し、輪行袋に入れます。
前回輪行したのが2014/9だから、1年半振りの輪行袋で、忘れていたことがあり、少々手間取りました。
御所駅は、近鉄南大阪線・尺土駅から出ている支線・御所線の終着駅です。
「初芝橋本中高」は、ここが最寄りの駅のようで、スクールバス運行と書かれています。

ワンマン車だったので、車掌スペース前に置きます。
単線でした。
尺土駅に着いたら大阪阿倍野行準急が入ってきたので慌てて乗り換えました。
ツーマン車だったけど車掌スペース前の方が、すっと場所を譲ってくれました。
「ありがとうございます」「大変ですね」
「遊びなので、大変なんて言ったら罰が当たります」

車内路線図を見ながら「次は何処で下りるの?この電車停まるのかな?」と家内。
「二上山」「二山神社」もあるよ。
場所を譲ってくれた方が、「準急は各駅停車だから大丈夫ですよ」と教えてくれた。

16:01、「二上山駅」
20160403KatsuraS290s.jpg 黄色いディーゼル車が停まっている。
新幹線で言えば、ドクターイエロー?
「Plasser & Theurer 08-275UM型」「近鉄軌道エンジニアリング株式会社」と書かれていた。
帰宅後調べると、オーストリア本社の線路工事用銃器メーカーだそうです。

雨は上がっていましたが、家内はここで待ち、僕だけ車に戻りピックアップすることにしました。
これが後で大笑いにつながります。
20160403KatsuraS293s.jpg 僕の自転車だけ前輪をセットし、後片付けは家内に頼みます。

R165に出て、「道の駅ふたかみパーク當麻」に向かいますが、途中に「二上神社駅」があるじゃないか・・・こっちのほうが近かった。
道の駅に着いて、ササッと前輪を外し、車に載せます。
総走行時間1:35:03・総走行距離17.24km・平均速度10.8km/h・最高速度43.9km/h。16:33、お迎え出発。
16:38二上山駅。
輪行袋から出されていた家内の自転車をササッと積み込み、16:41帰路に着きます。

往路同様の道で、17:37自宅着。
車から荷物を下ろしていると、「あ~車輪忘れた~」
家内の自転車の前輪を駅に忘れました。
自転車本体を先に積み、固縛している間に前輪を載せるのを忘れちゃった~、ガックリ。

「駅に電話してくれる?」と家内にお願いすると、「え~大丈夫?、無理しないで」
「大丈夫、往復2時間だから」


4/3・奈良サイクリング 當麻寺~葛城山

「中将姫剃髪所」がありました。
ここに散髪屋があったらウケると思います。
當麻寺を中心に多くの塔頭が軒を連ね、とても楽しめました。

自転車に戻り、出発。
10:46、當麻寺正面。
釜飯屋さんやそば屋さんがあります。
田舎道が切れたので、r30に出て南下開始。

10:54、竹内街道との交点。
何度も柿の葉寿司を買った「タナカ」のお店は、ここだったんだ。
竹内街道との位置関係がわかっていなかった。

葛城市コミュニティーバス停・「兵家」で休憩。
暑いのでウインドブレーカーを脱ぎます。
家内なんて、上1枚・下1枚を脱いでいます。
スポーツタイツの上にまだ着ていたんだとビックリ。
「この道、怖い」と言われちゃった。
信号が少なく快走路なんだけど、交通量が多めです。
自転車で走ると、路肩の殆ど無い所もあるので、確かに怖いね。
南阪奈道路の高架をくぐった所で、r30から離れます。
 当初は「九品寺」までr30を走る予定でしたが、ロープウェイを使い、葛城山・標高959mに登ってみることに変更。
何度か地元の方に道を確認しながら、アップダウンを繰り返し、r30とロープウェイ登山口を結ぶ道・標高237mに出ます。
 途中菜の花畑があったり、奈良盆地が一望できる場所があったり、老人ホームがあったり。
雄のキジにも会いました。

20160403KatsuraS188s.jpg 12:02、老人ホームがある見晴らしの良い場所で、お昼ごはんにします。
両親は、デイケア施設に行きたがりませんでした。
無料で月数日利用できるのですが、興味なし。
施設からは、利益につながるから誘われるが行かない。
そりゃそうだわ、老人ばかりのとこ行って、幼稚園児のお遊戯みたいなことしても、おもろいわけ無い。
僕だって嫌なので、僕がわけがわからなくなっても、やがて死んでいく僕なんかにお金を使わず、子孫に少しでも財産を遺したい。

「自分が稼いだんだから、全て使い切り遺産なんて残す必要なし」との考えもあるが、人生なんてバトンタッチで、肉体は滅んでも魂は新しい肉体を得てこの世に再登場する。
僕の孫やひ孫として生まれて、また親にしてもらったように、絵本を読んでもらい、進学もさせてもらいたいから、少しでもバトンタッチしたい。

景色の良い老人ホームに入っても、気持よく景色なんて見れないから僕は入らない。
「食わさなかったらすぐ死ぬからそうしてくれ」と家内に頼みましたが、「私が虐待になっちゃうよ~」なんて困っています。
姨捨山って制度は、よく出来ているように思う。
生きる楽しみがなくなり、子に迷惑かけるばかりになったら、食い扶持を減らすために山に入る。
自分の意思で入るんだからいいんじゃないのかな?
生き延びれば、仙人になれるし。

「新庄乗馬クラブ」の横を通る。桃の花が咲いてる。
ロープウェイが近くに見えてきた。
ここらから、トレッキングスタイルの方を見かけるようになってきた。
葛城山からの帰りでしょう。

12:23、r30とロープウェイ登山口を結ぶ道に出る。
20160403KatsuraS196s.jpg ラッキーにも奈良交通バス停「梅室口」があった。
次のバスまで30分あります。
横の野球場で練習していたコーチが、お昼休みで出てきた。
「歩いて20分ぐらいかなあ」ということで、自転車をここに置いて歩いて上がることにした。
318mまで上がります。

20160403KatsuraS198s.jpg 12:37、ロープウェイ登山口。
次のロープウェイは13:05ということだったので、売店でモナカを買って休憩です。
登山道を使ったトレイルラン大会の案内、ギフチョウを守ろうの新聞記事、葛城山頂気温12℃・視界やや不良などの案内版を見ます。

「ロープウェイ空中の旅」が始まりました。
20160403KatsuraS214s.jpg 大和盆地が眼下に一望でき、大和三山がずっと下に見えます。
途中で登山道の上を通り、真下に下っていくハイカーが見えます。

13:10、「ロープウェイ山上駅」
「クジラの滝コース・登り1:50」「北尾根コース・登り2:00」、下りで使ったら-30分でしょう。
周囲はブナの森でした。
山頂まで500mなので、家内が「行こうか」と言いますが、ロープウェイ登山口駅についた時、足が攣ったと言ってたので無理は禁物です。
ブナの森を楽しむことにします。
帰路の自転車が残っています。
家内がリタイヤしたら、また僕だけ必死に車まで走る羽目になります。

こんなとこに、「葛城天神社(櫛羅天神講)」がありました。
天神講をこんな山の上でやっていたのだろうか?
櫛羅は、「くじら」と読むそうで地名です。
名前の謂れを調べてみたけど不明です。
櫛羅村があったそうで、櫛羅藩まであったそうな・・・知らなかった。

ふわふわ尻尾のリスがいました。
ブナをチョコチョコ登り、可愛かった。
「大日大聖不動明王」「役行者神変大菩薩」がありました。


4/3・奈良サイクリング 石光寺~高雄寺跡~當麻寺

曽々孫は、孫の子(曽孫)の子で、玄孫と同じ意味ですね。
當麻曼荼羅の糸がここで作られたのですね。
「母が拝めば子も拝む うしろ姿の美しさ」良い句です。

サルスベリの巨木が、異様な枝ぶりで迫力がある。
なんて写真を撮っていると家内が行方不明になりました。
仕方なく山門横の待合室で待つことにしました。

「花の寺」ということで、四季の花の写真が飾られています。
20160403KatsuraS039s.jpg 役行者の像が置かれ、『漢方の元祖さまです。陀羅尼薬・牡丹・芍薬、その他の薬用を作った場所です』とありました。
修験道の開祖・役行者が修行を始めたのが、葛城山を言われています。
葛城山系の二上山の麓にあるこの地で、各種薬用植物を栽培して庶民を助けていたのでしょう。
それが続き、中将姫の糸につながり、現在は「花の寺」となったのでしょう。
それで製薬会社から寄進があるのですね。

婦人薬「中将湯」で知られる漢方メーカー・ツムラの発祥は、中将姫を匿った津村家が、中将姫から教わった婦人薬を代々製造してきたことによります。
「中将湯」の命名が中将姫にあったのを、初めて知りました。

小さなお寺だったけど、これで大満足だ・・・と思っていたら、家内がやってきて、「裏が凄く大きいよ」って。
家内について裏に回ってみました。
20160403KatsuraS043s.jpg 「石光寺染寺塔跡地」の石碑の横に柱を支えた土台石がありました。
三段にくり抜かれ、柱の下に水が貯まるのを防いでいるようです。
『塔の大心礎 我が国では他に例を見ない三段のくりこみ基底部に3つの穴が並ぶ。穴は舎利を収めるためのもの。681年発願の薬師寺西塔の心柱の礎石と同じ手法ではないかと言われるが、基底部の穴が異なる。白鳳時代のもの』
舎利を収め、被災から守ろうとしたようです。

20160403KatsuraS059s.jpg アセビに似た小さな花が縦に連なって下がる木がかわいい。
「きぶし」という名だそうです。
牡丹で有名なお寺だそうですが、GWは牡丹目当てに大勢の観光客が押し寄せるのでしょう。
20160403KatsuraS076s.jpg オフ期間でゆっくり楽しめ、ラッキーでした。

9:30「高雄寺跡」
役行者によって開かれたそうです。
乳の出ない方や、耳の不自由な方にご利益がある。
乳を飲ませる絵馬があるというので、神仏習合時代の名残と思われる敷地内の厳島神社拝殿に入ってみた。
20160403KatsuraS086s.jpg 厳島神社らしい武者絵馬と翁媼絵馬ばかりで、授乳絵馬は見当たりませんでした。
20160403KatsuraS092s.jpg 
20160403KatsuraS095s.jpg 9:42「當麻寺奥の院」裏口
拝観料500円。
『當麻寺は、用明天皇第3皇子・麻呂子親王が、兄の聖徳太子の教により創建した寺で、中将姫の當麻曼荼羅・天平時代の東西両塔・日本最古の白鳳時代の梵鐘や石灯籠などで知られています。奥の院は、浄土宗総本山・知恩院の「奥之院」として建立された寺で、「往生院」と呼ばれていました』
當麻寺の奥の院ではなく、遠く京都知恩院の奥の院とはびっくりです。

拝観料は、奥の院と當麻寺間の事務所で払うようで、「こちらです」と呼んでいます。
20160403KatsuraS111s.jpg 「浄土庭園」は、満開のソメイヨシノと枝垂れ桜が咲き誇っています。
三脚で素人写真家が撮っています。
20160403KatsuraS114s.jpg 重文・江戸時代「奥の院楼門」と2色の枝垂れ桜が絵になります。
吉野など桜の名所は、凄い観光客なのでしょうが、人混みの苦手な僕には人を見に行くようなものに感じます。
20160403KatsuraS134s.jpg 土曜の夜も、家内と近所の公園を夜桜見物しましたが、静かにゆったり花を愛でたい。

20160403KatsuraS144s.jpg 當麻寺の方へ下る。
2棟の多宝塔がある感じの良い寺院です。
20160403KatsuraS108s.jpg 奥の院から眺めるのが一番良い眺めかな。
本堂に「参拝受付」と書かれていたので入ってみる。
拝観料500円。

20160403KatsuraS148s.jpg 国宝の本堂は、奈良形式の素朴な屋根形状で京都のそれのような迫力・魅力には欠けるが、安定感がある。
その中に中将姫が織ったという国宝の本尊「當麻曼荼羅」が、これまた国宝の厨子(天平時代)に収められている。
曼荼羅前に座って、説明の音声に耳を傾けながら眺める。
長い間戦災に遭わずに守られてきたものだ。
ありがたい。

20160403KatsuraS155s.jpg そこを出ると、「講堂」前に係の方が立っており、「こちらです」と誘導される。
藤原時代の丈六の「阿弥陀如来坐像」が鎮座され、また音声案内に聞き入る。
藤原時代という大昔からの仏像なのに金色に輝く金箔が健在なので、出るときに係の方に聞いてみました。
金箔も当時のものとのことだったので、「じゃあ叩きがけもしていないのですね」と問うと、「叩きをかけると、金箔は落ちちゃいますからね」と当然のように答えられました。
東大寺の大仏も、年末恒例の掃除をしなければ、再建・鋳造された当初の金色に輝く姿を今に伝えていただろうにな・・・。

そこを出ると、今度は「金堂」から呼ばれます。
20160403KatsuraS162s.jpg どうやら拝観料は3つの伽藍を拝観できるものだったようです。
国宝・弥勒菩薩坐像と四天王(2つは修復中でおられず)像が鎮座されていました。


4/3・奈良サイクリング 道の駅二上パーク當麻~石光寺

家内もお休みだったので、奈良葛城の道にサイクリングにでかけました。
「道の駅・ふたかみパーク當麻」に車を置き、r30に沿う「葛城の道」を南下し、「近
鉄・薬水駅」まで30km弱。
近鉄に乗り二上まで戻ります。

7:01、自転車を車に積み込み出発。
豊中ICより「中国道」に乗り、吹田から「近畿道」を南下します。
松原JCTより「西名阪道」に乗り、「柏原IC」下車。
R165に乗り、7:58「奈良県香芝市穴虫ローソン」で、朝食・昼食用に「助六寿司399円+手巻き寿司エビマヨ135円+わかめご飯おにぎり110円」を購入。
目の前の校舎が、「智辯学園奈良カレッジ・小中高」でした。
終わったばかりの春の高校野球選抜大会に優勝した奈良智辯学園系列校です。

8:18、「道の駅・ふたかみパーク當麻」着。
駐車場はほぼ満車です。
二上山登山に向かう方の駐車場になっている感じで、トレッキングスタイルの方が車から降りて来ます。
トイレを済ませ、自転車を組み立てます。

8:38、出発。
近畿自然歩道の案内があったので、「石光寺」「中将姫」「当麻寺」の位置を頭に入れ、国道を通らない道を選択します。
「當麻町相撲館」の案内がありました。
『當麻蹶速に因んで建てられた全国でも珍しい相撲館。番付・取組表・星取表・・・化粧回し・相撲玩具などがあり、本場所と同サイズの土俵もある』
當麻蹴速はキリストと同じ世代の方で、力持ち。
悪さが過ぎたのか、垂仁天皇に出雲から呼び寄せられた野見宿禰の負けてしまい、この當麻の地も野見宿禰に与えられてしまいます。

野見宿禰は埴輪を埋葬する集団を組織し、墳墓技術集団・土師氏と氏名をもらい、菅原道真などを輩出します。
正史ではアンチヒーローの當麻蹶速ですが、未だに當麻の名がこの地に残り、地元の方に大切にされています。
こういうのが現地に来ないと空気感として感じられません。
20160403KatsuraS006s.jpg 辻々に観光案内板が設置されており、わかりやすいです。

8:47「石光寺・しゃっこうじ」
20160403KatsuraS007s.jpg 駐車場の上空を覆うようにソメイヨシノが満開です。
案内板によると、ここは「染野」という地名のようです。
境内に入ると、前方後円の砂山が出迎えてくれました。

20160403KatsuraS010s.jpg 『想観の沙 砂を沙と書くのは、お釈迦様が沐浴されたガンジス河の沙に例えているから。阿弥陀経に、ガンジス河の砂の数ほどの数えきれない諸仏が、弥陀を信じ極楽往生を願う念仏の衆生を・・・という下りがある。手前の方円は、私達の姿・世界を現している。相対の世界・優劣の比較によって成る世界、執着の世界を意味する。そこには励み・喜びがある反面、苦悩もあります。諸行無常・栄華盛衰、どうにも「超えられない世界」でもある。方円、すなわち四角の物体は、一見強く安定した形に見えますが、崩れやすく角も欠けやすいもの。私達の姿を現します。「円形」すなわち球体は、「超えた世界」覚りの世界及び仏を意味します。絶対の世界、壊れない世界です。柔軟に全てのことに対応できる知恵の姿です』

「奉納・山門一棟・石段一式/常盤薬品工業」の石碑が立っています。
なぜに製薬会社?と思いながら、境内を見ると、小ぢんまりした本殿などが、満開のソメイヨシノや枝垂れ桜のピンクで、落ち着いた姿でいい感じです。
拝観料400円を書いてあったので1000円札を手に握りながら拝観します。
ご住職さんが受付に来られ、お支払い出来ました。
20160403KatsuraS021s.jpg 「中将姫・染の井・糸掛桜」「奉納・復元染井殿・玉垣/株式会社ツムラ」の石碑が立ち、井戸と枯れた桜の古株を覆屋が守っています。

『中将姫伝説 聖武天皇の御代、右大臣・藤原豊成(藤原鎌足の曽々孫)の娘にとても美しく才能あふれる中将姫という方がいた。5才にして母を亡くし、継母に育てられた。継母虐めにあい、世をはかなんで17才で出家し、當麻寺にこもられた。生身の阿弥陀を拝みたいと、毎日毎夜念じているうちに霊感を得、蓮の茎の糸を紡いだ。この井戸水で清め、傍らの桜の木に掛けて干されたところ、乾くに従って五色に染まった。この糸で一夜のうちに阿弥陀浄土図を織り上げた。これが當麻曼荼羅です。この井戸を「染の井」、桜の木を「糸掛け桜」、この寺を「染め寺」と呼ばれるようになった』

3/27・道の駅名田庄~帰宅 VTR250、LD用サイドステップに交換

R162に乗り、「道の駅・名田庄」に向けて南川沿いの快走路を走ります。
制限速度50km/hの道路なので、50~60km/hで巡航します。
交通量が少ないので楽ですが、高速車に追いつかれたら左ウインカーでパスしてもらいます。

18:10「道の駅・名田庄」
薄暗くなっています。
やはりそば屋さんは、閉店ガラガラでした。

峠を越えて美山側に入ると、路面の濡れが増えてきました。
夕方から雲が出てきていたのですが、雨が降る感じはなく高を括っていました。
水たまりも残ってるので、結構な雨が降っていたようですがすが、ラッキーな事に雨雲が通り過ぎた後のようです。

「九鬼ヶ坂」を回避すべく、美山でr368~r19。
ここで雨が落ちてきました。
強い雨ではありませんが、ヘルメットから雨音が聞こえます。
リアボックスにホームセンターカッパは入っているけど、DAIWAフィッシングスーツも防水カッパなので、これで行きましょう。
しばらくすれば止む感じがします。

一旦収まった雨がまた落ちてきたので、「神楽坂トンネル」内でライトを着けたまま停止し、車載カメラとGPS・ヒップバッグをリアボックスに避難させます。
「日吉ダム」付近まで弱い雨が続きました。

園部に入り、目印のファミリーマート交差点を左折し、真っ直ぐR9を渡り、とにかく真っ直ぐ走り「新世紀トンネル」を抜け、R477に合流しました。
R372交差点まで南下し、R477・R372共用道を走り、いつもの交差点を右折し、R477単独道へ。
また雨が落ちてきました。

暗いし、雨の影響で霧が出て来て視界悪しです。
40km/hぐらいで走り、後続車に抜いてもらってから、そのテールランプを頼りに走る繰り返しで、「ひいらぎ峠」を越えます。
ここで雨が上がり、霧もなくなり、僕と同じペースの先行車を先導にしながら、R173・「一の鳥居」まで来ました。
R173で池田に出て、20:30頃帰宅しました。

寝ていた家内が起きてきて、「何か食べる?」「うん、食べる」
先にお風呂に入り、冷えた体を温めます。
朝の気温は1℃でした。
昼間は14℃まで上がり快適でしたが、田中城址での山登りで、カッパを脱がずに登ったので、汗をかいてしまいました。
その汗が名田庄付近で7℃を切るようになり、体を冷やしてきました。

風呂で温まり、いつものようにヨーグルトを持って自室に上がります。
腰から下を布団の入れ、クッションを背中にしてTVを見ながら食べる450gヨーグルトが至福の時間です。

「NHK総合・子育てお母さんの危機2」をしていました。
前回が面白かったので今回も見ます。
ヨーグルトを食べ終わり、布団に包まりながら見ていたら、寝落ちしてしまいました。



4/15
VTR250は、サイドステップ停車した時、CB400SBに比べ、立ち気味になります。
地面が水平よりスタンド側が高いようだと、少しの刺激で道路側に倒れるので、
時々反対側に向きを変えて停めたりしました。

ツーリング先で出会ったVTR乗りさんと話していると、この話題が出ます。
皆さん改善を願っている。

ネット検索したら、他車用の少し短いサイドスタンドに交換されている記事がヒッ
トしました。
先週、僕もこれをしようと、ドリームさんに相談に行ったら、新型VTRにはロー
ダウン仕様があり、それ用のサイドスタンドが少し短いと知りました。
その場にノーマルとローダウンの実車があったので、店長さんが実測してくれま
した。1cm短いです。

あと、店長さんのお話だと、ステップを一旦外し、少しカットして溶接する方法もあるそうです。
そちらの方が、2~3000円高くなるということだったので、単純に交換する安価の方にしました。

昼休みにホンダドリームに行き、里山VTR250のサイドステップをLD用に交換しました。
「バーCOMPサイドスタンド」4309円+工賃2200円=6509円

結果は、CB400と同じぐらいの傾きになりました。
これで、停車場所のお悩みが改善されそうです。
果たして使ってみてどうなのか・・・あかんかったら、また交換するだけです。

3/27・玉泉寺~田中神社~田中古墳群~三重生神社~熊川宿

r297で「玉泉寺」
天台密教思想から来るという石仏が何体も置かれていた。

16:08「田中神社」
すぐ横に「田中古墳群」もある。
40基以上の古墳があるそうです。
201603027TakaS330s.jpg 祭神は、素盞鳴尊・奇稲田姫・八柱御子神。
素盞鳴尊とその奥さん、素盞鳴尊が天照大神と契約した時、天照大神の勾玉を含んで生んだ8人の神様を祀っている。
八坂神社や八王子と同じ。
出雲系の神様を祀るお宮のようです。
凝った彫刻が施された本殿だった。

201603027TakaS338s.jpg 田中古墳群への順路が書いてあったが、車道を隔てているようなので、バイクに戻ってバイクで上がってみた。
201603027TakaS342s.jpg 『安曇陵墓参考地 当初は帆立貝式古墳で、周辺の高塚4基とともに宮内庁管轄となっている。「王塚」「ウシ塚」と呼ばれ、地元では応神天皇の皇玄孫・彦主人王の墳墓と伝承されている』
天皇陵簿同様な感じに管理されており、陵墓に続く道の両側には杉林が作られている。

隣接地で、発泡の音が聞こえびっくりした。
杉越しに見ると、旦那さんが猟銃を構えている。
奥さんが車から見ている。
奥さんはオレンジ色のジャンパーだったので、猟用の服装ですね。

田中氏は、宇多源氏・高島氏の末裔ということだが、前述の継体天皇を出した「彦主人王」との関係はどうなんだろう?
田中城を構えた田中氏の氏宮と思われる田中神社が、位置的にどうもこの陵墓を守護しているように見える。
バイクで走りだしたら、サルがこっちを見ていた。

r298で、16:27「三重生神社」
201603027TakaS344s.jpg 『祭神:彦主人王・振媛 彦主人王は、応神天皇・5世孫で、三国から垂仁天皇・7世孫・振媛を迎えて后とする。振媛が3子を出産する時、彦主人王の夢に三尾大明神のお告げがあった。「この度天から授かる子は、天孫のあとを踏むべき男子なり」。そこで三尾神社の拝殿を産所として南天に祈られ、王も自ら北の仮社で北極星に祈られたので、彦人・彦杵・彦太の3子を安産した。故にこの社を「三尾生神社」と呼ばれるようになり、安産の神として崇められる由縁です。御子が5才の時、彦主人王が亡くなったので、振媛は彦杵・彦太を連れて越前高向館に帰り、養育した。13年後、振媛も亡くなった。
2柱とも2/18が命日なので、明治維新までこの日を例祭日としていた。長男・彦人王は、この地で成長され北越5ヶ国を治められた。三男・彦太尊は、後の26代・継体天皇になられた』

水尾神社にも産屋があったけど、古代のことこれでいいのだ。
僕にはものすごい謂れに思うのだが、社務所も宮司さんのお宅もない。
安産のお守りをここでも授かれなかった・・・残念。

帰路に着きます。
GPS検索すると、湖西道路~名神コースで2時間弱、多少の渋滞込みで19時台の帰宅。
面白く無いので、小浜回りで帰ることにしました。
20時台の帰宅になるでしょう。

r23を安曇川沿いに西進します。
「NHK高校講座・地理」で紹介される典型的な扇状地地形を遡ります。
朽木でR367・鯖街道にチェンジし北上。
水坂からR303ですが、久しぶりに水坂峠を越えようと思ったら、冬季通行止めでした。
仕方なく素直にR303・水坂トンネルを抜けます。

17:14、「道の駅・熊川宿」
昼食抜きで来たのでパンでも食べようと「四季彩館」に入るが食べ物が何もない。
「割れおかき・500円×2」を購入。
これは翌日以降のおやつです。

R27に入り、走行距離が200kmを超えたのでGSを探し始める。
「広域農道・若狭西街道」へのアプローチr23への分岐に宇佐美GSがあったけど、出光看板が上がっていなかったのでパス。
エネオスがあったけど、大入りで並んでるのでパス。
大安売り価格なんでしょう。

17:37、小浜市湯岡エネオス井田石油で給油。
269km/7.6L=35.4km/L。VTR250のタンクは14Lなので、まだ半分残っていました。
自宅まで無給油で帰れたかも?




3/27・高島 乙女ヶ池~水尾神社~田中城址

201603027TakaS211s.jpg 14:07、琵琶湖がかなり近づいてきました。
落ち葉・落ち枝・落石は、林道の定番ですが、路面の舗装状態はよく、楽しめました。
琵琶湖岸・R161側にも獣避けゲートはありましたが、入ろうとしてる四輪が開けたところで、手招きされたので先に通過させて頂きました。
閉める方は僕がしようかな?と思ったのですが、バイクを止めようと思ったら、ゲートを通過した四輪が閉めるために止まったので、失礼させていただきました。

JR湖西線の下をくぐり、R161。
旧道に入り、14:17「日吉神社」
門前に、R161と平行して走る道があり、「バイコロジー自転車道 自転車・歩行者優先道路」と書かれていました。
201603027TakaS215s.jpg 琵琶湖西岸には、日吉神社が多いです。
明智光秀の城があった坂本に総本社があるからでしょう。

14:23、等身大人形像がたくさん設置された3階建くらいの建物があった。
「ガリバー青少年旅行村」の宣伝オブジェのようです。
201603027TakaS230s.jpg JR列車から見える「乙女ヶ池」でした。
元は琵琶湖の入江で、大構城の外堀。
「大溝城下町」という道路中央に溝が掘られた道を流す。
城跡に寄っても良かったが、低い石垣程度しか遺構が残っていないらしいのでパス。
帰路に着く予定の15~16時が迫っています。
林道を走り過ぎて、高島史跡探索の半分どころか1/4も怪しいよ。

201603027TakaS237s.jpg r296に乗り、音羽古墳群を探したけどわからず、14:44「水尾神社」
『創建は不詳だが、天平神護元年(765)には延喜式内古社・東山道・官幣大社として載っており、神域は現在より相当広大だった。垂仁天皇・皇子・盤衝別宮を祀り、本殿脇小社には継体天皇生母・振姫を祀っている。盤衝別宮は、高島の地を本拠に栄えた三尾君の祖と記紀で明らかである。振姫は、彦主人王(垂仁天皇の末)の妃で、越前三国より迎えられ、当社拝殿を産所に3児を出産された。この皇子の1人が後の継体天皇である。江戸期には、8代将軍吉宗が神輿1基を奉納、9代家重は社殿を再建され、ともに現存している。境内には鎌倉中期の石灯籠や供養塔が数多く残っている。当社背後の杣山(三尾山)は、古来より歌枕として有名で、万葉集はじめ多くの歌が詠まれている』

水尾庭園というのが境内にある。
安産子授けの神なので、しっかりお参りし、お守りを授かろうと社務所を訪問したが誰もいない。
宮司のお宅にも声を掛けたが応答がなく断念。

201603027TakaS250s.jpg r296~r297で、15:12「田中城址」
『田中郷の領主・田中氏の居城で、泰山寺野台地から舌状に伸びる丘の先端に築かれた中世末期の山城。天守台があった曲輪の標高220m・比高60mで、同時期の山城としては低い。それ以前、古代の山岳寺院・松蓋寺があった。信長公記によると、1570年信長の軍勢が越前朝倉義景攻略の途次、この城に逗留した。その中には、豊臣秀吉・徳川家康もいた。その後、浅井長政の勢力下に置かれ、1573年信長の手によって攻略され、明智光秀の支配を受け終焉を迎える。末裔の田中吉政は、秀吉・家康に仕え、三河岡崎城主・筑
後柳川城主となった』

縄張り図・謂れ板も完備されており、登ってみることにする。
201603027TakaS252s.jpg 15:18、獣避けゲートを開閉して山に入る。
正面に階段が設置されていたが、「順路」と書かれた木札はフェンスに沿う道を差している。
順路に沿って山を上がるが、登れそうにない急斜面になり、結局道がなくなった。
途中から階段道の方に野生の勘で移動し、合流出来た。

201603027TakaS295s.jpg 次々に明らかに曲輪とわかる遺構が現れ、それぞれの大きさがかなりのもので、地方の小豪族の域ではない。
中世守護大名は言いすぎだけど、その家老級の規模を持つ山城です。
201603027TakaS292s.jpg 土塁・土橋・切岸・堀切などの遺構も、素人目にすぐわかり、素晴らしい残存度です。

201603027TakaS302s.jpg 石階段が現れ、観音堂が建っていた。
『松蓋寺遺跡 高島7ヶ寺の1つで天台宗寺院』

「この城域は、埋蔵文化財包蔵地指定を受けており、周辺で開発などを行う時は届け出が必要」と書かれていた。
我が家もその指定地なので、家を建て替える時は、埋蔵文化財調査を受けなければならないので同じです。
風致地区・高さ制限地区でもあるので、やたらと開発されず木々が多く落ち着いて暮らしやすいのだけれど。
15:50、ゲートまで降りてきました。ナイスな城でした。

3/27・大彦山林道・通行止め~朽木~鵜川村井林道

石鳥居の裏を見ると、「寄進・長兵衛4代・藤本・・ 施工・越前三国・小森石
材工業」と彫られていた。
施工が、越前三国なんだ。
かなり遠い。
業者があまりないんだなと思いました。

「大彦山林道」への分岐発見。
GO!と勇んで入ったら、すぐに「全面通行止め」看板でした。
横を見ると、「佐慶比線・雲洞谷工区」と書かれている。
ここから分岐する道が目指す林道だとGO!したら、今度は巨木が倒れており、実質通行不
可でした。
もう一つの分岐に突っ込むと、舗装が終わり道が消えています。
11:47、無念のUターン。

r783に戻り、11:58「日吉神社」
横に除雪車が置いてあります。
まだ臨戦態勢です。
r23経由でR367に出ました。
R367を南下し、「朽木」でr295。

12:25「邇々杵神社」
天孫降臨の天照大神の孫・ニニギノミコトを社名に掲げているので、「きっと良いぞ」と来ました。
「天台宗神宮寺」の古い石碑も立ち、なかなか良い感じでした。
201603027TakaS170s.jpg 真言宗のお寺によく見かける多宝塔があります。
『多宝塔は、朽木神宮寺・宝塔として神宮寺の属していたが、邇々杵神社の奥の院とも称し、古来から信仰厚く、宝塔内には木造釈迦如来像(藤原時代作風を伝える鎌倉時代初期の仏像で胎内に朽木神宮寺の墨書銘がある)と23体の薬師如来像を祀っている。創建は、神宮寺と同じく貞観元年だが、荒廃破損し、天保13年に再建した』

12:37、「興聖禅寺」
第二次世界大戦戦死者の神式の墓石がたくさん立っていた。
『旧秀隣寺庭園 1528年朽木殖綱が、室町幕府将軍・足利義晴のために館を建てた際、築造した。1606年、朽木宣綱が亡き妻のために寺を秀隣寺と号したが、朽木村野尻に移転し、その跡地に興聖寺が建てられた。庭から眼下に安曇川一帯を俯瞰し、対岸の小椋杣山を仰ぎ見ることができる。池辺の石組や石橋などの意匠に同時期の地方武士の庭園より洗練されたところがあり、施主も職人も京都の庭園に大きく影響を受けたと思われる』

墓地には、比較的新しい五輪塔が多く、朽木は今でも五輪塔墓石が一定の需要がありそうだなと感じた。更に南下し、「村井フィッシングセンター」の看板を目当てに西に曲がった。
「横井トンネル」を抜け琵琶湖に下る林道「鵜川村井林道」です。
13:00、がけ崩れ箇所が修復されたと思われる新しい道があった。
降りて上下を見ると、盛大ながけ崩れ跡です。

201603027TakaS197s.jpg 13:06「横谷トンネル」
道の上から小さな滝が落ち、道路の下には沢が流れている。
気持ちがいいな。
トンネル内は街路灯がなく、おまけにカーブしてるので、全くの暗闇です。
交通量もなく、コーモリが上から襲ってくるんじゃないかとちょっと怖い。
路上に大きめの葉っぱ?が所々に落ちてる。
コーモリなのか?怖くて止まることが出来ず、確かめることもしませんでした。

201603027TakaS199s.jpg 13:13、眼下に琵琶湖が見えてきました。
山の中を縫ってやってくると、見慣れた琵琶湖の景色が、別物に見える。
201603027TakaS201s.jpg 山を見上げると、雪が残ってる。
201603027TakaS203s.jpg 琵琶湖側に下ると、獣避けゲートが設置されていました。

それを開閉し、r296に乗る。
すぐに、また「鵜川村井林道」後半戦。
獣避けゲートを開閉して入場。
13:42、また琵琶湖が眼下に。
晴れているので気持ちが良い。

写真を撮っていると、バイクの音が聞こえてきた。
僕同様、林道好きな方でしょう。
会釈すると、止まられた。
「他に誰か走ってるとは思いませんでした」と言うと、「ずっと通行止めだったんですよ。解除されてたから上がってきました。神戸からですか・・・」なんてお話しながら、僕が先に出発した。

オフ車を想像していたら、ハーレーとタンクに書いてあったようでした。
ハーレーにしてはスポーティーな感じで、カーブしてもあまり地面を擦らなそう。

「どこかにがけ崩れ修復跡がありそう」と走ってると、13:51現場。
201603027TakaS208s.jpg ここも盛大に崩れており、修復した跡もない。
道路が1/3落ちているのですが、ガードレールはもちろんコーンさえ設置されておらず、暗かったりスピードを出しすぎていれば、落ちてしまいそうです。
バイクは平気ですが、四輪は山側に寄せないと通過できません。

写真を撮っていると、先ほどのハーレーさんが「お先に」と、抜いて行かれました。
ここまでもそうですが、ここも路上に水が流れています。
雨が降った後は、路上河川が結構な水流で道を渡っていそう。






3/27・能見峠~おにゅう峠・通行止め

r38を下り、r110。
201603027TakaS074s.jpg
10:12「能見峠」

201603027TakaS079s.jpg
峠から快適に下り、10:24「志古淵神社」
横を小川が流れ、「淵」な感じがしますが、「志古」の謂れは?と思い謂れ板を読みました。
『久多の産主神の1つで、安曇川一帯に分布を見る志古渕神を祭神としている。創建・由縁ははっきりしないが、天福年間1233~34には既に社殿を構えていた。1672年新たに造営されたのが現在の本殿で、杉皮葺(当初はこけら葺)の三間社流造で、蟇股に古い形態を残している点が特色で、京都市有形文化財に指定された』

201603027TakaS097s.jpg
蟇股の彫刻がリスで、珍しいなと見上げる。
木部の塗装が剥がれ、虫食いも多く、やつれ感がナイスです。
キジの蟇股、動物でも植物でも無さそうな蟇股も変わってる。
狛犬の顔が、「これ犬か?」って感じで、SF映画で見たようで怖いぞ。

ここはr783との分岐です。
ここからr783。
まっすぐ北上し、次の分岐点から「おにゅう峠」を経て、越前・福井県側・小浜市のr35に繋がる。
このr35沿いに、去年訪問した若狭一の宮・「若狭彦神社」「神宮寺」があり、奈良東大寺・二月堂のお水取りの場所があります。
この道も若狭の魚を京に運ぶ鯖街道だったのでしょう。
現鯖街道・R367より、小浜との最短距離で結んでいます。

201603027TakaS105s.jpg
針畑川沿いの素敵な道です。
中央白線もなく、交通量も少なく、サイクリング道です。
11:10「日吉神社」
手水も拝殿も雪囲い板に囲まれ、雪深い自然が想像されます。
201603027TakaS123s.jpg
境内の割に本殿は小ぶりですが、いつの時代ものか色落ちした絵馬がこちらを拝んでいます。
神社を囲むスギ林は巨木で、神社の歴史を感じさせますが、謂れ板がありません。

ここから生杉ブナ原生林に向かって、分岐道が続いています。
どこまでバイクで行けるんだろう?
舗装路なのかな?
芦生京大演習林の滋賀県側です。
ツキノワグマの生息地です。
そろそろお目覚めの季節なんじゃないかな?

ここでr783は、大きく東に進路を変え、R367に向かいますが、僕は分岐を直進します。
この先に「おにゅう峠」があります。
「小入谷」という地名なので、「小入峠」と書くのでしょう。

201603027TakaS130s.jpg
滋賀県側は舗装路と調べ済なので、ウキウキワクワクで侵入したのですが、11:21「通行止め」バリケードが道路を塞いでいます。
「この先がけ崩れ 通り抜けできません 高島市」
R367から来て、僕の前に侵入したオフロードバイクも止まっています。
僕を振り返り、2台のバリケードの間からGO!しちゃいました。

峠が県境だから、がけ崩れは滋賀県側と想像しました。
横に重機や小型ダンプが数台置いてあるので、高島市が修復しているように思えました。
よって、残念ながらUターン。

R367の方・東に向かいます。
11:33「山神神社」
茅葺屋根を囲う巨大なトタン屋根の建物はなんだろうと入ってみると、拝殿でした。
201603027TakaS135s.jpg
曲がった巨木の梁が立派で、天井がないので、茅葺きの内側が見えます。
そこに絵馬が掛かり、凄くいい感じ。
雪囲い板に囲まれた本殿を覗くと、こちらにも絵馬が下がり、地域の方の信心深さを感じます。

都会人が日本人代表で世界に打って出ている感じですが、実はこういう一次産業従事者が、日本古来から続く田舎の伝統文化を継承し、日本のベースをがっちり守っている感じがします。
田舎に来るといつも、日本古来を感じます。
もしこういうのがなくなったら、都会人も力を失うのではないかと思う。
どこから来たの?と思うほど人数が集まってやってる秋祭りがなくなれば、上っ面だけの洗練さに生きている都会人も、日本人でなくなってしまうような・・・。

田舎道の草刈りを総出でやってくれている光景を見ると、「ありがたい」と思う。
子供会・町内会などの地域行事に参加しようとする動機にもなる。
「町内会に入って、何の得があるの?会費の無駄」という新聞投稿を見たことがある。

地域ってそんなもんじゃないと思うのです。
我が家も定期的に回ってくる当番で、近所の廃寺の草刈りしたり、県道沿いの花壇に水をやったり、決められた日にそれぞれの家の周りの側溝掃除もします。
日本人皆が、自分の住む地域を綺麗に保つことが、日本全体を綺麗にすること。

税金払ってるんだから自治体が何でもやってくれると思ったら、全て費用が発生します。
それを少しの自治会費をやりくりし、住民がボランティアしてやってしまえば、税金をもっと別な所に使えます。
ご近所さんと汗を流すと、日頃の自然な挨拶が生まれ、交流の和が広がります。
それが自然災害の多い国に住む日本人の中で、自然に助け合いができる知恵だったんじゃないかな。
ここを失えば、日本人の美しい心が失われちゃう。

京都滋賀林道&高島史跡ツーリング 5/13

京都滋賀林道&高島史跡ツーリング 6/13

3/27・佐々里峠~広河原

r38を東に進み、田歌を過ぎた所で、狐とすれ違った。
狸かな?と思ったのだけど、あのフサフサの尻尾は狐です。
バイクを停めて戻ったけど、向こうも小走りで道路を歩いているので距離が縮められず断念した。

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佐々里峠に上がってい行くと、なんと路肩に雪が現れ始めました。
「この先・凍結のおそれ・走行注意」なんて看板まで現れます。

9:16「佐々里峠・標高720m」
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ここから京大芦生原生林事務所まで、ハイキング道があります。
距離は4~5kmと思われるが、標高差は720-370=350m・・・往復は辛い。
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僕ら夫婦だと遭難の危険までありそう。
バイク2台で来て、下に1台置いておけば、こちらからの下りだけになって楽そう。
でも家内にここまでの往復させるのは可哀想。
うちの車はワンボックスキャラバンなので、バイクを積む大きさはあるのだけれど、積む自信がない。

201603027TakaS053s.jpg
なんて妄想していたら、京都側からロードバイクが上がってきました。
「京都からですか?」と聞いたら、「日吉ダムに車を置いて、R477~r38~r19で戻ります。100kmぐらいで、ちょうど良いトレーニングコースなんです」なんておっしゃる。
すげ~。

ここからは下り貴重なので、昼ごはんは日吉ダムで食べれるね。
慣れたもので、僕と話しながらボトルから水を飲み、ウインドブレーカーを取り出して着ておられる。
下りは足を使わないから発熱されず、速度が上がるので風を切って体を冷やすからなあ。

ここから、京都市左京区です。
京都市街地・出町柳も左京区だから、めちゃくちゃでかいです。
平成の大合併で京都市がでかくなりました。

r38を広河原に向かって下ります。
時折見える山並みの絶景を楽しみながら、広河原スキー場を通り過ぎ、9:31「喫茶・庄兵衛」。
営業してそうだったので初めて店内に入ってみましたが、山野草がたくさん置いてあるけど誰もいません。

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残念と思いながら外に出ると、向かいの家から「は~い」と奥さんが出てこられました。
「食べるもの、ありますか?」・・・ラッキー、カレーがあります。
外食なんて洒落たものより、カレーが一番です。

注文し、写真を写しに外に出ると、賑やかな音楽を鳴らしながらバスが来ました。
「広河原バス停」がありました。

店内に戻り、奥様とお喋り。
スキー場は、2月末まで営業していたようです。
廃業しているにしては荒廃していないので、営業しているのか気になっていました。

スキーブームの時は、クワッドリフト1台の小さなスキー場だけど、京都市街地から近いので、たくさんお客さんが来られていたようです。
スノーボードが流行ってきてスキー客が減り、スノーボードまで減って、あまり儲かっていないそうです。

元スキーフリークの僕にも、その流れはよくわかります。
ゲレンデにスノーボーダーが入りだして、スキーヤーとの大きな違いを感じました。
当時のボーダーは、言葉使いはヤンチャ兄ちゃんだし、ゲレンデど真ん中に平気で座ってるし・・・
レストランの居心地が悪くなり、スキーを止めちゃいました。

毎回個人レッスンでスキー学校に入校していたので、教師=パトロールから、「スノーボードは怪我が多く困ってる」と言ってました。
両足を1本のボードに固定されてるから、後ろにコケると後頭部を強打する事が多く、女の子の搬送が一気に増えたそうです。
レストラン前のまっ平らなとこで怪我するので、ビックリするそうです。

今や次男もスノーボードをするぐらいだから、若者はボーダーの方が多い感じです。
ヤンチャさんばかりじゃないと思うけど、お嫁さんや孫には安全なスキーの方をして欲しいな。
オリンピック選手でさえ、ダボダボズボンを履き、鼻ピアスの男の子・・・僕にはどうも・・・
長男はスキー派だから安心です。

ここらは、民主党・前原誠司さんの選挙区なので、ポスターを多く見ました。
僕の高校ヨット部の先輩で、現在レースライバルの方の奥さんが京大出身で、前原くんと机を並べていたそうです。
「前原くんはねえ」なんて話すそうです。
志位和夫さんと一緒に写った共産党候補者のポスターも多く見ましたが、どこでも多く見かける自民党候補者のポスターを見ません。
京都は共産党が強く、革新色の強い地だけど、自民党一人勝ちの今でさえポスターがないとは・・・。

奥さんは道に詳しく、「おにゅう峠~高島に行く」と言うと、「能見峠を行くのね」って。
昨日は寒く、雪が降ったそうです。
「今年は暖冬だけど、去年はまだ15cmほど積雪があったよ」と、教えてくれました。
「おにゅう峠」は雪で行けないかも・・・。
カレー700円は高いなと思ったけど、朝カレーでお腹が満たされました。

奥さんはお店を出して長いのですが、20年ほど前から、鹿筆頭にサル・イノシシなどが増えたそうです。
以前は山で取ってきた山野草を店の外に並べ販売していたのですが、動物にやられるようになり屋外に置けなくなったそうです。
畑の電気柵の設置も一気に広がったそうです。
僕がバイクで走りだした8年でもそれを感じるのだから、どこでも事情は同じようです。

京都滋賀林道&高島史跡ツーリング 4/13

3/27・木住川沿い~原峠~美山かやぶきの里

r408から紅葉峠の道に入る。
いい感じの寂れた峠道で、展望東屋から下界が見下ろせ、朝霧雲海を楽しんだこともあります。
その峠への道は寂しく分岐しまだ残っていますが、交通量は更に下がり、廃道寸前なのかもしれません。
僕のような廃道好きしか行かないでしょう。

「紅葉トンネル」は快適な道で、短時間で紅葉山を抜け、r50に出ました。
ラリーでもあるのか、それらしい市販カーが何台も追いぬいて行きました。
ゼッケンは貼っていなかったので、スタート地点に向かうものと思われる。
r50を日吉ダムに向かっていると、対向車としてラリーカーが来るので、「宇津峡公園」がスタート・ゴールかもしれない。
r19~r443~r365~r364の周回コースかな?

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7:03、ダムを見下ろす駐車場で休憩。
日吉ダム公園を横目にr19に入り、「木住トンネル」手前で右折する。
木住川沿いの道です。
未舗装かもしれないと思っていましたが、綺麗な舗装路で、意外にも民家が点在する里山の道でした。

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7:11「中木住バス停」
時刻表を見ると、南丹市バスがJR日吉駅行きが日に1本+週3日のみ2本走っています。
その他に火・木のみですが、南丹デマンドバスというのが日に4本循環運行しています。

数日前、地図を見て「木住」という地名に目が止まりました。
木製のお椀やお盆を作る「木地師」なんてそのものズバリの地名ではないが、木で生計を立てている集落の名残を感じて来ましたが、深い森も細い道もなく、予想が大きく外れました。

快適サイクリング道って感じです。
「ホタルの飛び交う自然豊かな里・生畑」の看板が立ってる。
もう少し近かったら、6月に来るのだけれど。
横の森を覗くと、椎茸栽培されている。

「柏木トンネル」を抜けて、r19に戻ります。
r78に少し入り、r19・「神楽坂トンネル」の旧道・「原峠」に入ります。
落ち枝・落ち葉は乗っていますが、意外にも綺麗な舗装のままで、神楽坂トンネル開通後かなり経っているのに、快適な林道です。

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7:43「原峠」、日吉町と美山町の境です。
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こんなとこに十文字交差点があり、「丹波広域基幹林道・丹波美山線・起点」でした。
林道案内板が設置されており、地図を見ると、JR下山~r19~R162~R477とr38の交点までを結ぶ65kmの尾根伝い長距離林道のようです。
以前、R162「カモノセキャビン」横から上り、r370佐々里に下った時、峠で交差した林道と同じです。
残念ながら、一般車両通行禁止と書かれていますが、これがオープンされたら林道好きが押しかけるでしょう。
まあ、大したことないけどね。

『丹波の夢を拓く道 丹波広域基幹林道は、京丹波町下山から南丹市を経て、京都市左京区花背大布施町に至る幅員4.5~5m・延長65.4kmの林道です。この地域は、京都府内の代表的な林業地域として木材の供給地だけではなく、緑のダムとして重要な役割を担っています。林道整備で、木材搬出コスト削減により生産拡大が図られ、水資源のかん養や国土保全機能など、森林の持つ多面的機能が高度に発揮されます』

兵庫県北部の絶景林道「妙見蘇武林道+三川林道」が30kmでも、走りごたえ満点・絶景度満喫度120点だったのに、こちらは65kmです。
観光目的機能も追加されないかなあ。

峠を美山町側に下って行くと、とても綺麗な水が流れる川を渡りました。
地図によると「原川」のようです。
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横には施錠されているけど、未舗装の「林道・原谷線」がありました。
「告」掲示版によると、山菜・きのこ採り用の道のようです。
地図には原川に沿って、長く白線が続いています。
川沿いだから勾配もさほどではないでしょう。
探索してみたいな。

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r19に出て、快走路を美山に向けて北上し、8:10「美山ふれあい広場」着。
朝早いのに、バイクが2グループ・6台います。
バイク談義に花が咲いていそう。
ソフトクリーム屋さんが開店準備のために掃き掃除をしています。
トイレ休憩し、10分ほどして出発。

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r38を東へ、8:29「美山かやぶきの里」
相模ナンバーの地図を見ていた年配ご夫婦から、「京都へは高速道路が早いですか?R162でしょうか?」と聞かれました。
ここから高速道路といえば、京都縦貫道のことでしょう。
「R162の方が早いですよ。信号も少なく、快適ですし」
R162は知ってそうな口ぶりだったのですが、東に向けて走って行かれました。
「あれっ?芦生京大原生林にでも行くのかな?」

京都滋賀林道&高島史跡ツーリング 3/13

3/27・高島に行こう

家内に用事があるので、1人遊びの日です。
天気予報は午後から怪しいけど、琵琶湖西岸・高島の歴史探索に行くことにしました。
高島は、「継体天皇」の出身地です。

神功皇后が三韓征伐し、朝鮮半島の利権も確保した大和朝廷ピークの神功皇后の息子「15代・応神天皇」(古墳の大きさ日本第2位)その息子「16代・仁徳天皇」(日本1位)の時代を経て、「25代・武烈天皇」で皇統が切れてしまいました。
武烈天皇は子を成さず、残虐な天皇として歴史に残っていますが、ホントのところはわかりません。
あまりな残虐さで政道をほしいままにしたので敵も多く、子を殺されたのかもしれない。
后さえ寄り付かなかったのかもしれない。
その子を次の天皇につけるのを反対する勢力があったのかもしれない。

真実は分からないが、皇族に男系男子がいないので、朝廷は探しまわった。
応神天皇の子で皇族を離れた高島で暮らす子孫を探し当てた。
と、古事記に書かれている。
地方豪族としてたいそう繁栄してしたようで、その財力を取り込むという経済的側面もあったのかもしれない。

双方の疑心暗鬼により、天皇就任を渋る子孫は、58歳という超遅咲き天皇として、武烈天皇の妹を皇后として迎え「26代・継体天皇」になる。
その後も疑心は晴れず、即位19年後に大和に入ったという異色の天皇です。

「ほんとは、ここで皇統は切れているんじゃないか?」なんて説もあります。
天皇好き「尊皇派」の僕は、そう思いたくないんだけど。
天皇家にまつわる逸話はいくらでもあり、それらを読む度に好きになります。
前述の仁徳天皇は、「人家から夕餉時にも関わらず、煙が立たないのを見て、3年間租税を免除して、自らも質素な生活をしました。
煙が立つようになって税を戻した」など、征服者としての王の姿とは真反対です。

近くは、太平洋戦争敗戦後、マッカーサーを訪問した昭和天皇が、「私の命はどうなってもいいから、国民を助けて欲しい」と口にしたそうで、その言葉・行動・所作に感動したマッカーサーは、オーストラリア・ソ連・中国からの天皇処刑に真っ向反対した。
今生天皇が、様々な被害を受けた方を訪問し、仮設住宅に励ましに行くときも、必ず座って同じ視線からしゃべっている。
東日本大震災で津波が襲った現場に行かれ、海に向かって深々と頭を下げている後ろ姿を見て、僕は泣けてきました。
偉そうにしている政治家は山のようにいるのに・・・。

僕も消費税が始まった時に、市会議員さんとの取引で、「おまえんとこは消費税を取るんか」と言われた事があります。
「あんたら政治家が法律を作ったんやろ。税務署の片棒を担がされる一般庶民のことなど頭にないんか」とはらわたが煮えくり返りました。
過去には酷い天皇もたくさんいただろうが、長い歴史を刻んで、天皇家ほど日本人の模範となる家族はいないと思っています。

話を元に戻し、古代史の謎「継体天皇」を現地で感じたくて計画しました。
いつものように訪問予定地はどんどん増え、高島に名神高速~湖西道路で行くのも芸がないと、京都北部山岳地帯横断、未走林道・旧道探索も加えると、下道だけなのに距離は400kmを超え、訪問地探索時間を除き所要時間13時間になっちゃいました。
しかも普通は往復1時間かかる山城を2つも予定に入れてるし・・・。
完走は無理とわかっていながら、「行けるところまで」といういつもながらのアバウトな計画でGO!

4時頃目覚めたような気がしたがウトウトしてて、次に目覚めたのが5時、慌てて起きました。
バイク春秋装束に着替え、「里山VTR250」を準備します。
出発は5:30。

201603027TakaS001s.jpg
r13脇にある「川西航空機器工業」を写真に収める。
紫電改などを生んだ川西航空機(現在の新明和工業)とは別の会社ですが、名前が似てて気になる会社です。
あちらは川西さんが作った会社で、こちらは地名の川西。
池田からR423で北上開始です。
R477~r19~美山の予定でしたが、無意識にR423に乗っちゃいました。
途中でR477にチェンジする事もできましたが、「まあいいか」

亀岡盆地に下り、R372に合流し、R9を渡ってr405で桂川を渡り、R477に乗りました。
「廻り田池」までの谷沿い山岳路を行こうかと思ったら、「全面通行止」の看板が目に入ります。
時々がけ崩れで通れなくなるあの部分だろう。
よく見ると、日曜日は交互通行のようなので行けます。

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迂回路と書かれている道が「紅葉トンネル」指定だったので、トンネルが完成したようです。
初めて通るトンネルで、紅葉峠を抜けることにしました。

京都滋賀林道&高島史跡ツーリング 1/13

京都滋賀林道&高島史跡ツーリング 2/13

4/4・100分で名著・歎異抄

NHK・ETV・「100分で名著」という番組で、「歎異抄」が始まりました。
読み解くのは、釈徹宗くんでした、ビックリ。
彼は弟の中高の仲の良い友達で、電車で通う遠い私立学校だったのに、何度もうちに遊びに来ていました。

彼の実家はお寺で、彼の父親から弟に「子のない寺の養子になって、寺を継がないか」との養子縁組の紹介まで受けました。
お互いの家を行き来する仲なので、釈くんのお父さんが弟に、お寺の住職としての資質を見つけたのかもしれません。
最近、釈くんを時々TVで見るようになりましたが、中高生の時我が家で遊んでいた子、大学生の僕が車で彼の家まで送っていったこともあった子を、TVで見るのが不思議な感じです。

歎異抄は、浄土真宗の開祖・親鸞の弟子が書いた本と言われており、多くの異説を生んだ親鸞の教えを整理したと言われている。
浄土真宗の本尊は「阿弥陀仏」です。
「南無阿弥陀仏」を一心に唱えることで、誰でも極楽浄土に導かれるという教えです。
厳しい修行を積まなくてもいいので、天台宗その他の宗派から、異端児扱いされ迫害されました。

「南無」というのは「お任せします」という意味です。
「阿弥陀」は梵名「アミターユス」あるいは「アミターバ」で、アミターユスは「無限命」「寿限無」「命限りなし」という意味で、アミターバは「無限の光」という意味です。

我が家は、親鸞を教えた法然が開いた「浄土宗」です。
三男である父が分家した我が家には、仏壇がありませんでした。
父が亡くなった時、数ヶ所の仏壇屋さんを巡りました。
結局近いお店が良いと思い、同じ市内の「お仏壇の浜屋」で、畳半畳ほどの大きさの中程度の仏壇を購入しました。

その時感じたのが、浄土宗に比べ浄土真宗の仏壇の方が、仏壇の内張りの金箔部分が多いことでした。
阿弥陀の梵名「無限の光」を表現するために金箔が多く施されているんだと、今更ながら知りました。

4/6・こうくん、誕生 母子ともに健康、ありがたい

昨夜、家内が自転車でお出かけで、帰宅が遅くなったので、通勤リード110でサポートしながら一緒に帰宅すると、家内の携帯電話が鳴りました。

「生まれたかな?」
・・・携帯メールを見た家内から、「陣痛が始まった。今夜生まれそう」との長男からのメール内容を教えてもらいました。
PCメールにも同じ内容のものが届いているでしょう。
とうとうです。
第一子の時、陣痛が始まって出産までまる1日かかったので、今回は大きめと聞いているのでお嫁さんの身体が心配です。
夜中に電話が鳴らないといいけど・・・

今朝、PCメールをチェックすると、長男から「3:29、生まれました。3558gのビッグベビーです。母子ともに健康です」のメールが届いていました。
赤ちゃんの写真と、お嫁さんと航成くんの並んで寝ている写真が添付されていました。
お嫁さんの表情も元気そうで良かった。

技術が進み、妊娠・出産が「病気ではないので、元気が当たり前」の世の中になったけど、長く多くのお母さんが出産で命を落とした時代が続いていた。
戦国武将の多くは戦で討ち死し、奥様の死の多くは出産でした。
後添えももらい武将の原因の多くが、妻を妊娠出産で失ったからです。
「母子ともに健康」・・・これが最高の結果です。
ありがたい・・・

7時頃、長男から電話が入り、家内の後に僕も話しました。
前回同様、数日家族3人で病院の寝室分娩個室に泊まっており、夜に陣痛が始まったので、「遼くん」を実家に送り寝かした後、個室に戻り、お嫁さんの出産に立ち会ったそうです。
僕は体験したことないけど、長男は感動して涙でボロボロになったそうです。

長男は4/11からアメリカ赴任なので、出産に立ち会えてよかった。
少しの間だけど親子の時間が持てて良かった。
アメリカ赴任を10日間延期してくれた会社にも感謝です。
お嫁さんと子どもたちは、第2子「航成くん」の成長を待って、8・9月にアメリカに行く予定です。

出産予定日・4/4のビデオで嫡孫・遼成くんが、「・・まだ生まれていません」と言ってたので、「名前、もう決めたの?」と問い合わせました。
4/5昼に、「航成って決めたよ」と長男から返事が来ました。
「成」は、父が僕に付けてくれた名にあり、息子2人にも贈った通字だけど、「航」は何処から?と考えました。

「遼成」の時は、見た瞬間に、長男が好きな作家「司馬遼太郎」からもらったとわかりました。
「航」は・・・「航海」からなのかな?
僕が高校大学とヨット部で、その後もずっとヨットに乗り続けているので、僕をリスペクトしてくれたのかな?
まさか父親をそこまでリスペクトしないよな・・・

帰宅すると家内が、「さ・・(お嫁さん)を思って名前をつけたんだね。優しい」って。
ああそうか、お嫁さんは空を飛ぶ職業で、会社の産休期間・3年が切れるので職場復帰しようと準備していた矢先の妊娠でした。
「航海」じゃなく「航空」に因んだ命名だったんだ。

さて、誕生記念に何をしようかな?
長男誕生の時は、庭に池を掘り、次男の時は8人乗りの車に買い換えた。
長男の結婚時に「ハナミズキ」を庭に植樹し、次男の時は「ヤマボウシ」を植樹した。
嫡孫くん誕生記念に屋敷祠を勧請した。
今回も何をするかなあ・・・植樹候補は、モクレン・コブシ・アセビなど沢山あるけど・・・。
アセビは、すずらんのように可愛い花をたくさんつけるので、女の子が生まれたときに取っておきたい。

植木屋を覗きに行こうかな・・・。
ああ、成長が楽しみです。
早く一緒に遊べる年齢になってほしいな。

またヤンチャな遊びができる男の子だ~
僕が幼児の時、カソリック教会の神父さんに駄々をこねてもらった僕の宝物「蛍光マリア様」は、また僕のお願い「元気な男の子」を叶えてくれた。
弟・長男・次男・嫡孫・孫2人目と、5連勝です。
次は8月出産予定の次男の第一子・・・まだまだ朝晩のお願いは続けます。

3/20・レース終了 京都永観堂

ハーバーバックし、再びレース海面へ。
レースは終了したようで、リコールナンバー6のレース艇がプレーニングしながらかっ飛んでいます。
女子マネージャーが「カッコイイ。誰だろう?」ってエントリーシートを確認し、「和歌山大、カッコイイ」と歓声を上げています。
「学生にしては上手いな」と思いながら、コーチしてる学校の艇が無事か確認します。

まあ8m/s程度の風なので、大きなトラブルを起こさないかぎり、自力で帰ってくると思って入るのですが、気の緩みはいけません。
レース海面まで出て、レース海面に残されている艇がないようなので、ハーバーバックします。

風が上がり、良いレースになりました。
マーク回航時のルール違反が多発しているようで、数件の抗議書を数人の部員が書いています。
他にもあるだろうから、成績確定に時間がかかりそう。

スナイプチームチーフとキャプテンに気づいたことを言付けし、ハーバーを後にします。
仕事の関係で参加できなかった今年のクラブ卒業パーティーで配られた「フルセイル」という卒業生が作った卒業記念誌をもらった。
全261ページの大作です。
4年間感じたことを遺していく記念誌、楽しみに読みましょう。

バイクに向かっていると、「あっ、・・さん」と僕を呼ぶ子がいる。
「ああ、・・くん、リコールナンバーは何番だった?」
「6です」
「やっぱりな、学生にしては上手いと思ったんだ。女子マネージャーが、カッコイイと見惚れていたよ」

ジュニア出身の子で、僕が全国理事時代は、親御さんにもいろいろお世話になりました。
年賀状交換を続いている方のお子さんでした。

プロテクター上下を着て、湖西道路~三条道路を経て、南禅寺道へ。
音羽山を探索するつもりでしたが、カメラのケーブルを忘れたので、次回にしました。

15:30、「永観堂」到着。
いつものようにお参りの旨伝え、名簿に名前などを記入します。
これで拝観料無料になります。

家内の両親を、先祖同様この寺院に分骨した時、10人ほどのお坊さんの法要でのお経が素晴らしかった。
男性のみのイントネーションの少ないお経の調べですが、「声明」と言えるまで気持ちよく響きました。
御詠歌も好きです。
弟のお嫁さんのお父さんが亡くなった時、ご葬儀での御詠歌が素晴らしかった。
「だんじり」というお祭りが地域で伝承されている岸和田なので、葬儀で御詠歌で送る習慣が廃れておらず、近所に嫁いできたら半強制的に御詠歌組織に組み入れられるそうで、10人以上のご婦人方から御詠歌を送っていただきました。
家族葬などの簡易葬儀が流行っているので、御詠歌・声明などの伝統文化が廃れていくと残念だなあ。

久しぶりに、釈迦堂・御影堂を拝観しました。
ここ2年ほど、納骨堂に手を合わせて終わりでした。
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まあ、入口で着物を召されたお若い女性4人組が履物を脱がれて上がられるのを見たので、誘われたのもあるのだけど・・・。

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勅使門内部の盛砂が見える縁側で、先ほどの女性たちが、写真を撮っています。
それを白人さんお父さんが、写真に収めています。
目があって、思わず双方ニコリ。
奥さんは襖絵を見入っており、お子さんたちは縁側を走り回っています。

お庭を拝見し、多重塔を見上げる。
勅使門を入った天皇の使いは、この盛砂を踏んで清めてから釈迦堂に入ります。
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素敵な風習です。

境内に出て、もみじの季節は観光客でいっぱいの石畳の道を歩き、葉が落ちて日差しが直接注ぐ苔を写真に収めます。
境内の高台にある多重塔は、いろんな所から見え、絵になります。

納骨堂に行き手を合わせ、また「元気な男の子を2人お願いします」の定番のお願いをして帰ろうとしたら、梵鐘のとこにお坊さんがやってきました。
ゴーン・・・心に響く鐘の音・・・16時定時に叩くのかな?
お坊さんが秒数を数えながら、間隔を置いて撞いています。

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秋の紅葉拝観シーズンにはいっぱいの「弁天池」には誰もいない。
落ち着いた風景が良い。
「画仙堂」の屋根の上の龍の瓦が良い。

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バイクに戻り、16:13京都市美術館横を通ったら、大勢の人が列をなしていた。
帰宅後調べたら「モネ展」のようです。
東大路通を南下開始しましたが、観光客が多く、道路も渋滞しています。
桜シーズン前なのに凄いな。

着物姿の女性が、また増えたように感じる。
伝統的な柄ではない原色が使われた派手なのもあるけど、着物姿の女性はいいな。
着物の方はいろんなところで割引される京都が始めたナイスアイデアが浸透しています。
家内に、「お父さんも着物になって観光しようよ」と誘われたことがあります。
京都を着物で歩けば、素人さんであっても外国人観光客にモテます。
偽・舞妓さんも被写体になってるし・・・。

バイクの特典を活かし渋滞を抜け、九条通~R1を通って、「京都南IC」から名神高速に乗ります。
17:06、「桂PA」で休憩。
「ビックリソフトバニラ・140円」で、糖分補給し、中国道豊中IC下車。名神上り・茨木IC、下り吹田ICが長蛇の列です。

水族館エリアへ入る道はいずれも大混雑。
これはしばらく行けないね。

17:52、「伊丹産業セルフ北村SS」にて給油。
257km/9.04L=28.4km/L。
京都で渋滞にハマった影響で30km/Lを割りました。
帰宅後、家内とあ~だこ~だお喋りしながら夕食を食べ風呂に入り、「ダーウィンが来た」終了後床につきました。

3/20・女の子の涙

この日の第1レース終了。
フィニッシュ後コーチボートに横付けする選手に、感じたことを話す。
ブローの入り具合がコーチボートから見て感じたままなのか、選手の感覚ではどうだったのかすり合わせ、リセットさせて次のレースに送り出す。

第2レース終了も同じでしたが、ジュリー(審判員が乗る)ボートがやってきて、「沈艇がおり、乗員の体力がなくなってきたので、交代して船を起こしてもらえないか」と要請があった。
冷えてしまった選手2人をこちらに乗せ、風の当たらないコクピットに入れ毛布を渡す。
顔色は正常なので大丈夫だと思い、沈艇レスキューを優先する。

ウェットを着ていた交代要員選手と、今年卒業したばかりの選手にウェットを着せ、沈艇を起こし、曳航用ロープを渡し、曳航してハーバーに戻った。
体力消耗した選手の様子を知ろうと話しかけると府立医大ヨット部の2人でした。
助けてもらって恐縮していましたが、人命優先だし所詮余暇なので恐縮する必要なんてない。
「僕だって寒冷前線通過でしばらく海上で沈したヨットとともに2時間ほど漂流し、助けてもらったことがある」と話すと、幾分表情が明るくなった。

レース海面に戻り、Sくんを予定通りの交代をさせると、メインセイルがおかしな形状になったレース艇がリタイヤして近くに来ました。
ブームが折れてしまったようです。
このままではメインセイルが破れてしまうので、大声ですぐにメインセイルを下ろすように指示する。
慌てて降ろしていたが、破れてしまっては大損です。
その学校のコーチボートがやってきて、そちらに任せます。

さてレース展開を見ようと思ったら、リタイヤしたレース艇が手を振ってやってきます。
「ラダー(舵)を折って、航行不能になった艇がいます。ヘルプを」
コーチボートはレース海面に入ってはいけないルールになっているので、ドライブしてる1回生女子マネージャーが、「どこを走っていけばいいですか?」って聞いてきます。
「真っ直ぐレースコースを横切ったら良い」と指示し、一目散に航行不能レース艇を探します。

東北大学ヨット部艇で、メインセイルを下ろすことを指示し、ジブセイルも巻けと指示しますが、そういうことをしたことがないようで手間取っています。
ジブはそのままで、曳航ロープを受け取り、ハーバーバックします。

ちょうどハーバーとの間にレースコースがあり、続々とレース中のボートが走っています。
ドライブしているマネージャーが「どこを通ったらいいですか」と、爆走しているレース艇集団に顔が引きつっています。
ドライブを交代しようかと思いましたが、ここはいい経験になると思い任せることにしました。
横について、スロットルの開け閉めとステアリングを指示します。

2回生1・1回生3人のマネージャーが乗っているので、同じマネージャーがドライブする方が、自分たちの自信になるだろうし、経験も話せます。
「大丈夫、真っ直ぐ行こう」
「スロットル上げて」「下げて」
「もう少し右」
「よしここにスペースがあるから、あの艇と次のあの艇の間を抜けるよ」
「はい今スロットルオープン」・・・・無事レース艇に進路変更などさせずに通過出来ました。

「よっしゃ~、もう通り過ぎたから、マイペースでハーバーに向かおう。よくやったね」と、ポンと背中を叩きました。
しばらくしたら、運転席横のコクピット外にいた2回生マネージャーが、「え、え~」って運転席を覗き込んでいます。
ドライブしてる子を見ると、「ホッとしました」と、ちょっとうつむき加減で半分笑顔の頬を涙が伝ってる。
「可愛い」、女の子の涙は最強だわ。

「しまった、レベルの高い緊張場面を強いてしまったかな?」
まあ、鍛えられたでしょう。
皆の生命を守るレスキュー艇ドライブは、マネージャーの重要な仕事です。
レベルアップしたね。
ひょっとして、僕が背中をポンと叩いたから?
あ~、僕も罪深い、また女子を泣かしてしまった。

ティーンの女の子の頬の涙を見た時、大学を卒業して僕が就職で東京に旅立った時の新大阪駅のホームを思い出した。
付き合っていた頃の家内が見送りに来てくれていた。
楽しそうに話してたのに、新幹線が来たので、「また電話するね」と家内をハグした時、家内の頬を涙が伝った。
可愛い!
「東京にはたくさん綺麗な人がいるから、私のことは忘れてしまってもいいよ」、なんて言い出しました。
「忘れるわけないじゃん」、結婚の約束はしていたけど、家内の涙を見た時、「この子を悲しませたら男として失格だ。生涯愛し続けなきゃ」と強く思いました。

真横でドライブするマネージャーの涙を見なかったことにして、反対側のコクピット横で風が強く波が高い湖面を疾走した関係で髪まで濡れているマネージャーに、窓を開け「濡れた髪が色っぽいよ」と、イタリアーノな軽口を叩きます。
ドライブしたSマネージャーは、1人で反芻しているでしょう。

3/20・高校ヨット部

学生たちに挨拶し、キャプテンとタイムスケジュールを打ち合わせ、コーチボートに行って朝食を食べます。
桟橋には、次男がお世話になったS高校ヨット部のコーチボートも係留されており、K顧問先生とあ~だこ~だ。
インターハイ種目は、長くFJ級のみで行われていたが、世界的主流の420級にシフトしていく過渡期です。

昔、ジュニアナショナルチームを、監督としてASEAN大会に引率した時、アジアの今後数年の大会開催地を決定する会議に出席しました。
その時、「なぜ日本は時代遅れのFJ級をティーン世代が使っているのだ」と、多くの疑問を受けました。
「世界的潮流の420級を採用した方が良い」との提案を頂きました。
日本の高校・大学ヨット部は諸外国と違い、学校教育としての性格が強く、ジュニアやオリンピックを目指す一般の環境と違うと説明するのに悪戦苦闘しました。
当然、FJより420の方が良いに決まっています。

インターハイ本戦には、各校420級1・FJ級1艇しかエントリーできません。
予選で上位独占しても1艇しか本戦に行けず、「どうしたものか」と残念そうに話しておられました。

土曜日のレースで、420級が1位・2位、FJ級は1位だったそうです。
420級の艇長2人共、次男の後輩「兵庫ジュニア」出身の子で、まだ1年生です。
さすがジュニア出身。
次男が最初に、兵庫ジュニア~S中学・高校ヨット部という道を拓いてから、このコースを歩む子が続々と出てきました。
でもまだ、次男と同じ大学ヨット部に進学する子はいません。
いつか同じ大学に進学してきてほしい。

201603020DoshiS004s.jpg
FJ級スキッパーは、高校からヨットを始めた2年生なのに、昨年秋からの新チームでのレースでは、全レーストップフィニッシュを驀進中だそうです。
水泳などと違い、気まぐれな風を読むレースなので、同じ選手がトップを取り続けるのはとても難しい競技です。
学生時代最強と言われた僕でも、勝率は2/3でした。
この子は持ってるね。

コーチしてる大学は、スポーツセレクション制度がなく、入学試験も難しい。
現在、3回生2・2回生3・1回生1と6人もいることは、過去最高です。
進学校でヨット部のある高校は少なく、彼らの所属クラスと学情成績の方も聞きます。
受験してほしい。

D大学ヨット部OBで、僕が1回生だった時の4回生Nさんがやって来ました。
次男がヨット部のあるS中学を受験する時に、「勉強もちゃんと鍛えてくれるのか」と直接学校に電話し、呼び出してもらったヨット部顧問先生です。
ここ数年、副校長として顧問を半引退状態でしたが、今年からもう少し楽な役職にしてもらい、ヨット部にも顔を見せられるようになったそうです。
息子さん2人も高校・大学とヨット部だったので、僕同様ヨット好きです。

次男の結婚報告をすると、「学校で偶然嫁さんを連れてきた息子さんに会いましたよ」と笑ってくれました。
ここで、高校ヨットレースの顧問・キャプテンミーティングなので別れました。

クラブの体操が始まったので、クラブに戻ります。
天候やレースメンバー・コーチボート乗員確認後、僕のブリーフィングです。

「土曜日は風が弱く1レースしか成立しなかったが、今日はいい風でレースが出来そうなので、思いっきり行こう。
スタートライン第一線に並ぶことに注力し、成績が出るレースではあるが、第一目標の全日本予選に向けての練習レースと捉えたらいい。
リコール(早過ぎるスタート)で失格してもいいから、スタートから飛び出さないと社会人などのトップレーサーの走りを肌で感じることが出来ない。
マーク回航での接近戦での有利な位置取りなど、多く学べるはず。
最終的にはボートスピード勝負になるから、今の自分のスピードはどうなのか、登り角度はどうなのか、自分で感じて次の練習に生かそう。
良い風だから、レースを楽しもう」と話しました。
12月のスポーツ指導者講習会で学んだ「ペップトーク」を心がけました。

201603020DoshiS008s.jpg
他のOB数人からブリーフィング後、出艇しました。
監督が次男と同期のIくんなので、同じく同期のSくんがスナイプ級コーチです。
名古屋から来ていたので、一緒に乗りました。
4レース目に乗員交代でレースに出るそうでウェットスーツ姿でした。

12月の次男結婚式への出席お礼をして、奥さんである元マネージャーさんの近況などを話しました。
僕も家内と共稼ぎで、息子たちと保育園にお世話になり子育てしました。
「子供の体調が不良の時は、専業主婦のSくんお母さんを奈良から呼んでるんです」と、僕ら夫婦もやったやりくりの話は懐かしい。
きっと次男もそうなるだろう。
映画「風立ちぬ」の仕事をしているので、そちらの話も聞かせてもらいました。
男の子はミリタリー好きなので、実に興味深い。

4/1・早生まれ

「生まれたよ」との電話がとうとう入らなかった。
「生まれそうだよ」との電話も来なかった。
とても大事なことなので、復唱します。

長男の2人目の子の出産予定日は、4/4。
この予定日は微妙です。
長男が生まれたのが5/27。
1才から保育園に通ったけど、同じクラスの子を見て、なんだか安心できた。
だって、何でも皆より出来るから。

そりゃそうだ、当たり前だ。
だって人間生活を1年経験し、寝返りだって立派にできるし、お座りも出来るんだから。
クラスメイトにはお座りが出来ない子も多いし、寝返りだって無理な子もいたから。

次に生まれた次男、3/28が誕生日。
出産予定日は4/2というとてもデリケートなボーダーな日だったのだけれど、どうしてあと5日我慢できなかったかなあ~って感じで生まれてきちゃった。
彼は生後半年ぐらいから保育園に通ったけど、クラスメイトとは大人と子供ほどの差があった・・・は言いすぎだけど、大きな差があった。
教室に描いた絵が貼ってあったりするのだけれど、次男のは点々なのに、他所の子のは線になってる。
やっと線になったら、他所の子は進化し丸が描けてる。
お母さんの絵が、丸(顔)から手足として線が生えてるだけなのに、他所の子は顔の下にちゃんと胴体の丸があり、そこから手足がでてる。

「う~ん、これが一生続くのかなあ~」
なんて、長男がクラスでリーダーシップ取ってるのを横に見ながら、ちょっと心配した。

長男は小1の時、運動会の選手宣誓選手をし、マラソン大会では学年1番・・・なんて勇姿をみせてくれたのに、次男の小学生時代のあだ名は「坊や」。
チビで可愛いから「坊や」。
大きくなりたいと、牛乳をよく飲んでいたけど、結局卒業するまで学年で一番チビだった。
まあ、そんなことは中学生になってなんのハンディでもなくなって、僕同様男子平均の身長になったし、お勉強だって困ることもなくなった。

でもやっぱり、今度の子が3月に生まれるか、4月かは気になっていたんです。
話題に事欠かない長男の子だから、次男と同じ3/28説・・・
日本中で学年最後に生まれる&エイプリルフール4/1説・・・
が来そうだと思ってたけど、どうやら回避できた。
この際だから、日本中で学年トップバッターで生まれる4/2がいいんじゃないか・・・

次男の初めての子の出産予定日が8月。
どうやら、従兄弟が同じ学年になりそうです。

因みに家内の誕生日が5/27・・・
長男のお嫁さんが10/27・・・
次男が3/28日・・・
みんな、月末に誕生日が集中して、僕の誕生日だけ11/13と、1人だけ中旬で寂しかった。
次男のお嫁さんが中旬なので、ちょっとだけ僕の味方です。


夜になって、長男からメールが届いた。
添付ムービーは、嫡孫くんからのビデオメッセージで、「お爺ちゃんとお祖母ちゃん、まだ・・が生まれてません。バイバイ~、わははは~」でした。
「・・」がよく聞き取れなかったのですが、名前を言ってるみたい、男の子らしいのでもう決めているのかも。

長男のアメリカ赴任は4/1からで、東京の家は引き払い、アメリカへの引っ越しも済ませたそうですが、会社から配慮してもらい、4/11赴任になったそうです。
10日までお嫁さんの実家・新潟にいるそうです。
まあ、それまでには生まれるだろう。

ああ、楽しみだ。
嫡孫の時は、誕生3週間目に新潟に会いに行きました。
来週生まれても、長男が日本にいる間(~4/10)に行くのは、お嫁さんの産後の回復を考えると止めた方が良い。
4/24かGW中かな?

夏過ぎに、お嫁さんも渡米するので、それまでは実家に3人でいます。
嫡孫くんの初宮参りはこちらでやったけど、今度はお嫁さんお負担を考え、新潟でした方が良いように思う。
生後1ヶ月前後にするなら、その時に合わせた方が良いような気がする。
次男夫婦も東京から来れば、次男のお嫁さんの紹介もできるしいいのではないかな?

ああ~楽しみだ~
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プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
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から引っ越してきました。

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