3/20・琵琶湖ヨットレース・コーチングへ

コーチしてる大学ヨット部のレース日です。
「Dウィーク」という小型ヨットレースシーズンの幕開けレースです。
D大学が主催し、同校の今年の卒業生が運営主体として動きます。
招待選手として社会人チームと韓国トップ選手が参加します。

全国から学生を主に、2クラス各60艇ほどが参加します。
レースエリアが琵琶湖ということもあり、近畿北陸ブロック(京都・滋賀・福井・富山県)・関西ブロック(兵庫・大阪・和歌山・奈良県)の有力強豪大学が参戦します。
近北ブロックの当面のライバル校の戦力を見る上での重要な大会です。
そしてレベルが上の社会人の走りを身近に体験できる貴重な機会でもあります。

5時に目が覚め、身だしなみや服装の準備をします。
レース最終日で、14時以降のスタートが行われないので、帰りに山科の東にそびえる「音羽山」中腹ににある「牛尾観音」を探索する予定です。
更に、家内の実家の先祖が分骨されている「京都永観堂」にも参ります。

春のお彼岸の時期なので、我が家・家内実家のお墓参りがあります。
今年は3/21家内実家・3/22我が家のお墓詣りします。
いずれも早朝の出勤前時間です。
夫婦揃って朝には強いので、この時間帯が楽です。

それともう一つ、この時期の関心事が僕らの結婚記念日。
『イースター=十字架に架けられたキリストが3日後に復活した日』というキリスト教最大のお祭り「復活祭」に合わせて結婚式を挙げました。
結婚記念日を忘れても、世界中で祝ってくれるのでいいだろうとこの日にしたのですが、宛にしていた中学の宗教主事・牧師さんが自分の教会の行事で忙しく、急遽校長に牧師さんをお願いしたハプニングで、僕らの結婚生活が始まりました。

そしてもう一つこの日にして難儀しているのが、『イースター=春分の日の後の最初の満月の日の後の最初の日曜日』なので、毎年変動することです。
3/24が結婚記念日なのですが、毎年コロコロ変わるので、翌年には忘れてしまっている。

よって結婚記念日に何かをするなんて行事はない。
家内はしっかり3/24を覚えていて、変動した日も事前チェックして知っているのがまた難儀で、たいてい過ぎ去った後に、何かの話のついでに披露され、「ええ~またやっちゃった」と家内優位の我が家の生活に拍車がかかることになります。
結婚記念日が2回あるというややこしいことにもなっています。
因みに今年・2016年は、3/27です。

6時に、「里山VTR250」に荷物を積み込み、出発します。
中央縦貫道を東に走り、吹田ICから名神道に乗ります。
万博記念公園内にできる大観覧車は、まだ工事中です。
ショッピングサイト・水族館サイトは2015年秋に完成しているのに、ランドマークになる観覧車の完成は、春休みシーズンに間に合いそうにありません。

6:48、名神高速・桂PAで休憩。
バイクがいるかな?と思ったのですが、まだ早いようです。
走行中数台のバイクに抜かされたんだけどな。

「柿の葉すし鯖・405円×2=810円」購入。
京都ICを過ぎ市街地エリアを抜けると、「音羽山」の山容が正面に見えてきます。
大津と京都を結ぶ東海道が、北の比叡山の峰と南の音羽山の間の谷を抜けます。
交通の要衝として重要な場所です。
でも比叡山と違って歴史にはあまり登場せず、ひっそりと静まり返っている感じがします。
何かありそうなんだけど・・・と、ここを通る度に大きくそびえる山容を見上げます。

京都東ICで下車し、湖西道路に乗ります。
見下ろす琵琶湖はまんべんなく風が入っており、良いレースが出来そう。

ヨットハーバーに着き、7:17大会本部に上がり、成績表などを見ます。
大学クラブの艇庫に向かっていると、出身大学ヨット部の先輩と後輩に会いました。
高校生のレースもやっており、先輩は僕の母校でもある大学系列高校ヨット部のコーチとして来ているようです。
後輩は出身大学ヨット部のコーチとして来ているようです。
僕も、元は出身大学のコーチをしていました。

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土曜日のレースの様子を仕入れ、馬鹿笑いしてクラブへ。
先輩の世代が共同所有していたクルーザーを売っちゃったので、「おまえんとこの船をレース毎に出さなあかんぞ」と釘を差されました。
ホームポートでの大学のレースでは、これまで以上に応援観覧艇要請が来そうです。
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3/22・春のお彼岸・墓参り

春のお彼岸になりました。
お盆正月を含め、年4回お墓参りするのが我が家の習慣です。
20日、コーチしてる大学ヨット部のレースで琵琶湖に行った帰り、家内の実家が代々分骨している「京都・永観堂」にお参りしました。

一般入場なら拝観料が必要ですが、お墓参りなら必要ありません。
受付で所定の用紙に氏名などを記入して入ります。
分骨なので墓石はなく、納骨堂に収められたお骨に手を合わせます。
費用は一時金7万円のみで、永代供養していただけます。
1年間だったっけ?は、分骨した骨壷のまま置かれ、それ以降は他の方のお骨と一緒に大きな骨壷に収まります。
墓石要らない、墓守りする人もいない・・・なら、こういうのが良いように思います。

家内の実家のお世話頂いているお寺さんが、浄土宗・西山禅林寺派・総本山・永観堂の末寺なので、本山・永観堂に分骨しています。
分骨時の法要が素晴らしく、法主さんの親しみやすいお言葉にも感動しました。
家内の実家の「京都の本山に分骨する」習慣が気に入り、家内と話し合って僕らも京都の本山に分骨することにしました。
我が家がお世話になっているお寺さんに聞くと、本山は浄土宗七大本山「京都百万遍・知恩寺」だそうで、そこにお世話になろうと考えています。

父が亡くなった時、僕らは知恩寺に分骨するから、父を先に分骨し、母もそこに分骨しないかと勧めましたが、母は嫌だということで、両親の分骨はしていません。
知恩寺の方も同じく10万円ぐらいの費用で永代供養でした。
納骨堂は、知恩寺の方が立派でした。

我が家のお寺さんに更に分骨のことを聞くと、特に本山・末寺のきつい縛りは無いので、どこに分骨してもいいようです。
そこで、浄土宗総本山・知恩院にも聞きに行きました。
こちらも同じようなシステムでしたが、さすが浄土宗総本山だけあって、全てが立派でした。

うちの親が分骨を希望しなかったので、僕らだけだから、家内の両親と同じ永観堂でもいいかなと思うようになりました。
浄土宗・宗祖・法然の死後、弟子が枝分かれして拓いた西山禅林寺派です。
家内の姉夫婦はどうするかわからないけど、家内は死後も実の母親と一緒に眠れます。
僕も家内の両親が好きだったし、知恩寺と永観堂を比べると、長年永観堂に通って来たので、永観堂の方に馴染みがあります。

3/21(月)、朝5時に出発し、家内の実家のお墓参りをしました。
中国道を西に走り、「三木小野IC」下車し、加古川を渡ってJR加古川線・市場駅横を通って墓苑へ。
前日にお姉さんから「お墓参りしたよ」の連絡を頂いていたので、お花の水を替えるぐらいで、墓石の掃除もなしです。
お水を掛け、線香を焚き、手を合わせて、「元気な男の子を2人お願いします・・・」の定番のお願いをしてお終い。

帰路、車で墓苑の周回道路を走り始めたら、目の前をリスが横切りました。
「三木SA」とトイレ休憩し売店を覗いたら、ロールケーキを筆頭に美味しそうなケーキが更に充実していました。
朝からロールケーキを買うのもなあ・・・と思いパス。

3/22(火)、朝5時に出発し、我が家のお墓へ。
フロントガラスの霜が凍っていたので、道路の凍結が心配で、「長尾山トンネル」~r33里山の定番コースはパスし、r13~r12のメインルートでお墓に向かいました。
出発時に星がたくさん見えていたので快晴とわかっていましたが、霊園の駐車場から見下ろすr12の谷が、夜明けの薄明かり&青空の下、とても綺麗に見えます。

我が家の近所でも、例年により遅れてウグイスが鳴き始めたので、ウグイスが鳴いているだろうと車を降りましたが、ピー・ピー口笛のような大きな囀りが聞こえます。
ウソです。
ありふれたウグイスよりラッキー。

こちらも、3/21に弟一家がお墓参り後我が家に寄り、実家の仏壇に手を合わせて行ったので、お花の用意が要りません。
お水を掛け、お花のお水を換え、線香を炊いて定番の「元気な男の子を2人お願いします・・・」をして帰りました。
こちらも、霊園内の通用路を走りだしたら、リスが道を横切りました。
イタチはよく道を横切りますが、リスって路上にいた所を驚いて藪に逃げ込むぐらいで、道を横切ることをするのかな?

霊園からr12に出ようと一旦停止したら、北からスクーターが下ってきました。
それをやり過ごしたら、スクーターの後ろに横バーが付いており、真後ろ30cmをロードバイクが高速で追いかけています。
競技の方の朝練習のようです。
「速いな~」

一応僕らもサイクリングだけどスポーツバイクに乗るので、すぐに追いかけました。
軽く下り基調ですが、60km/hでも全く距離が縮まりません。
僕が早朝に走る猪名川土手道下りと同じぐらいの心持ち下り程度で、僕は28km/hぐらいでこの区間を走ります。
レーサーは凄いな。
とても自転車のスピードではありません。

軽い上り区間に入ると、足にトルクが掛かり多少左右に自転車が揺れますが、50km/hを切ることはありません。
すげ~。

僕の後ろに2台通勤車が追いついてきたので、コーチバイクが左ウインカーを出して、コースを左に寄せます。
こうなったら、抜くしかありません。
もっと見ていたかったけど仕方なく抜き去り、川西能勢口から帰宅しました。
途中の新名神高架が完成しており、来年の全線開通に向けて工事は順調のようです。

3/13 中之島de sign de > cafe

「中之島BANKS」の案内板があります。
ここが目的のカフェがあります。
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河畔のプロムナードを歩くと、京阪・中之島駅がありました。
地下鉄の駅だとばかり思っていたけど、京阪電鉄でした。
ここから京都出町柳まで一本です。

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周囲の巨大ビル群を見上げますが、東京とは雲泥の差です。
ビルの高さ・数で換算すると経済力は1/10ぐらいでしょうか。
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「リーガロイヤルホテル」がある。

11:18、「de sign de >」と書かれた建物がある。
ここだと思ったらバッグのお店で、その横に目的のカフェがありました。
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その向こうに同一デザインの「BARBANKS」があり、その前に桟橋があります。
バーの堂島川に面したデッキにも椅子が並んでいます。
ヨット仲間が中之島界隈のレジャー観光船の船長をしています。
この桟橋にも着けたことがありそう。

ここで今回のカフェ巡りグループの主催者Jさんに会った。
バイクグループツーリングつながりで、もう一人の知己Keの方も先着していた。
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カフェは開店前ですが、アウトドアにも席があります。
お店の方を見ると、お初の男性Pさんが到着されており挨拶。
続いてお初の女性が来られ挨拶。

11:30の開店と同時に、5人で入店し、パスタセットA・1080円+グレープフルーツジュース200円を注文しました。
ワイワイガヤガヤ、話が続き、Pさんは結構歴史好きのようで、平野のこともよく知っておられた。
お初女性Keさんは、カエルを飼っているという方で、人生で初めて会うカエル好き女性でした。

美味しく昼食をいただきましたが、女性がもう一人1時間ほど遅れて来られるので、ドリンクはその時にしてもらってワイワイガヤガヤ。
13時頃Kyさんがやってきて、僕と同じものを注文されました。
僕らはKeさんの提案に乗り、ハーフデザート200円を注文してKyさんに付き合います。

鶴橋でお仕事をされている方で、次男の学校に行くとき環状線・鶴橋駅から歩いていたのでちょっと知っています。
主催者Jさんは、鶴橋に焼き肉を定期的に食べに行ってるようで、とても詳しい。
15時ぐらいまで、あ~だこ~だお話し解散になりました。

駐車場に戻り、15:06帰路につきます。
中之島の西の端まで行き、北上してR176に合流。
阪急十三駅横を通過し、十三筋を加島まで西進し、阪神高速池田線下のr10で北上開始です。

藻川とて道にチェンジし北上、猪名川土手道を更に北上し、R171側道から15:56給油後帰宅しました。
まだガソリンは残っていたけど、「特売日・96円」の看板に釣り込まれました。

家内は帰宅しており、映画DVD「ニコラス・スパークス・A Walk to Remenber」を観ました。
とても好きなラブストーリー作家で、小説の半分以上が映画化されており、半分以上観ています。

義理妹から電話があり、甥っ子も大学受験が終わりました。
僕の長男と同じとこが第一志望だったようですが、私立の理系学部に進むそうです。
合格おめでとう。
去年の現役時も国立に合格していたんだけど、浪人再チャレンジで1年頑張りました。
悔いなく次のステージに上がれるでしょう。

3/13 生駒時計店・芝川ビル・大阪証券取引所・適塾

瓦紋が、天皇家の十六門菊と徳川家の三つ葉葵紋が交互に並んでいる。
木鼻の獅子の目がガラス製なのか色が入りリアルです。
彫りの深い龍の彫刻が素晴らしい。

平野郷を巡ったが、平安時代の坂上田村麻呂に始まり、室町時代の畠山管領家陣、大坂夏の陣、江戸時代に至る豪商の歴史へと、交通の要衝故経済力の中心地として文化を育み史跡の宝庫だった。
全て自転車で巡っても、あまり時間がかからず回れるので、史跡の集積が凄い。

平野郷の史跡探索を終え、大阪中心市街地に向かいます。
R25を西進し、堺筋にチェンジして北上開始です。

10:08「高島屋」、10:09「黒門市場」
10:19「生駒時計店ビル」
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最新式ビルのようにシュッとしていないが、彫刻が施され趣がある。
ヴォーリス設計の中学校舎に通っていたので、その重厚感に安心を感じ、効率追求ではない美のある生活に好感を持つようだ。
「小西家住宅」にひっそりと落ち着いた「コニシ株式会社」の銘板が、時代に流されない強さを感じる。

10:24「武田科学振興財団・杏雨書店」
10:29「小川香料株式会社」
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10:33、蔦に埋もれそうな「青山ビル」
さっき生駒時計店ビルを写していた女性2人組にまた会った。
僕と同じ志向ですね。

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10:36「芝川ビル」
眼鏡店とヴェトナム料理店が1Fに入店している。
僕の通った学校の先輩で、教師として戻ってきた芝川先生の実家です。
「文化庁・登録有形文化財」の銘板が入っている。

10:42「三井住友銀行」
向かいの「野村ビル」
GOKANというレストランが1F入店している「新井ビル」

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そして、中之島のある大川・地下鉄&京阪北浜駅まで北上し、10:48「大阪証券取引所」
正面に、「朝ドラ・あさが来た」で名を上げた五代友厚像が立っていた。
ここでも2名のカメラマンがいた。
朝ドラ人気なのでしょう。

堺筋を北上しながら、タンクローリーの抗議行進に遭遇した。
建築土木業界と言えば、公共工事賛成なので左より右・保守系だと思うのに、安倍政権批判の横断幕が、各タンクローリーに下がっていた。
ハテナ?

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10:51「緒方洪庵旧宅」「適塾」
『幕末の医師・蘭学者・緒方洪庵が1845年買い受けて、1838年に大坂瓦町に開いた私塾・適塾を移転した。1862年幕府の奥医師として江戸に迎えられるまで17年間、ここに居住した。諸国から集った門人に蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人物を育てた。
敷地は間口12m・奥行き40mあり、主な建物は、教室に使われた表屋と、洪庵と家族の居室だった主屋からなり、土蔵と納屋があった。1792年の北浜大火災後の建物と考えられ、元は商家であったが、洪庵入居時に若干改造された。表屋は2階建てで、1階を教室、2階を塾生部屋とし、主屋2階には女中部屋がある。洪庵が江戸に発った後、再三改造された。昭和51~55年の解体修復で、概ね洪庵居住当寺の姿に復原した。平成25年(2013)には、耐震改修工事を実施した。蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、近世大坂北浜の町家建築の姿を残す。昭和17年(1942)国に寄付され、洪庵の子息や適塾関係者らによって明治初期に設
立された大阪仮病院や大阪医学校を源流とする大阪帝国大学へ移管された。現在は大阪大学が所有し、一般公開している』
隣の小さな公園には、緒方洪庵の銅像が鎮座していた。

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中之島に入り、11:00「ダイビル本館」
11:07、ダイビル駐車場にバイクを入れる。
「市立科学館」が見える。
その北が空き地で、広い駐車場に使われているけど、用途がないのでしょう。
大阪のど真ん中だけど、オフィスビルぐらいしか使い途がないのかな?
ポツンと大阪大学中之島センターの小ぶりなビルが建っている。

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「玉江橋」、堂島川の向かいに桟橋が浮いている。
水上タクシー発着所なのかな?
中之島周辺の橋と水面の高さに余裕が無いので、一般の船は入って来づらい。
先輩が桜ノ宮に桜見物した時も、24フィートボートでは大きすぎて途中の橋がくぐれず断念し、翌年20フィートボートを借りてやっと海~海遊館・USJ横~桜ノ宮というルートで遡れました。

3/13・大坂平野郷 かたな博物館・大念佛寺

手水が、ひょうたんから水が流れている。
「楠木大明神」がある。
本堂には、「閻魔大王・不動明王・本尊十一面観音菩薩・毘沙門天・地蔵菩薩」と書かれている。
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お堂縁側に、閻魔大王人形が置かれ、「ご自由に写真をお撮りください」と書かれていた。
横の墓地に、めぼしい墓石はないかと入ってみる。

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「かたな博物館」と書かれた暖簾が下がった民家があった。
「お気軽にどうぞ」と書かれているので引き戸から覗いたら、刀剣が飾ってある。
中では研師さんが作業中でした。
「こんにちは」

砥石の種類・刀剣が出来るまでの工程が実物や写真で説明されている。
「真澄庵」という御刀研職人さんのお店でした。
あ~だこ~だ、教えてもらいました。

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「横綱白鵬関・守護御太刀研磨所」の木札が下がり、白鵬さんが来られた時の写真が飾られている。
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横綱土俵入りで、随身する太刀持ち力士が持っている太刀は、ここでこの方が研がれたようです。

「坂上広野麿屋敷跡」は石碑だけになっており、アパートが建っていた。
「坂上子孫・末吉家屋敷」

「大念仏寺」にバイクを停めたら、近くに寺院が2つ見えている。
江戸時代は、寺内町だったのでしょう。
「浄土真宗・永福寺」、下がり無事門が素敵で、本堂も彫刻も年代物と感じないが、しっかりお金を掛けたいい感じです。

「大念仏寺」南門から入ります。
「不許葷酒入山門」と、座禅のお寺じゃないけど、禅宗山門特有の石柱が立っている。
『古川藩陣屋門 南門は現在の平野小学校にあった古川藩陣屋門で、明治廃藩後平野小学校表門として昭和2年まで使われていた。小学校校舎拡大により移築された。平野郷藩政時代唯一の遺構で、樟の一枚板である。江戸時代の平野郷は、1694年を境に前期は幕府領、後期は大名領地だった。特に1713年下野国古川藩主・本多忠良に給付されて以来、明治2年藩籍奉還まで156年間は、松平・土井と大名は変わったが、古川藩付所領であった。陣屋は古川藩時代に設置され、摂津近在古川藩所領の行政事務を取り扱っていた』

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京都東西本願寺を彷彿させる大伽藍の本堂にびっくりした。
敷地内に配された僧坊もそれなりの風格が漂い経済力の大きさを感じる。
『本堂 昭和13年に竣工した総けやき造り銅板葺きで、棟行・南北39.1m、梁行・東西49.8mの大阪府下最大の木造建築である。堂内に本尊十一尊天得阿弥陀如来画像、両脇に岡倉天心の高弟・名仏師新納忠之助作の多聞天王・八幡大士の極彩色木造が立ち、左右の宮殿に宗祖・聖応大師(良忍上人)、中祖法明上人の木造を安置している。また左右余間に再興大通上人像と、旧本堂(1667年建立)建立願主舜空上人の木造を安置している。外陣いっぱいに吊り下げられた大数珠は、明治36年に再製したもので、珠1つ1つに施主主名・回向の戒名が陰刻されている。百万遍大数珠繰り法要に使用する』

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『聖應大師良忍上人 上人は平安時代の終わり頃、1072年尾張富田庄領主・藤原秦氏の家に生まれ、12才で比叡山に出家する。天台密教の学問を深め、若くして学徳は一山の重きをなした。23才の時真の仏道を求めんと下山し、洛北大原に移った。1日6万編の念仏を唱え苦行を重ね、法華経などあらゆる教典を読破書写し、来迎院を開創し、浄蓮華院などを復活建立した。上人は、美声と音楽の才能に恵まれ、声明に励み、声明中興の祖と仰がれている。46才の時、阿弥陀如来より即得往生の道・口称融通念仏を授かった。この時をもって、本宗の開宗と定めている。鳥羽上皇の帰依を受け、上皇下賜の勧進帳と鏡鐘を持って宮中はじめ諸国を行脚し、融通念仏を広めた。四天王寺にいる時、聖徳太子の霊告で、1127年摂津平野に根本道場として大念佛寺を創建した。1773年、後醍醐天皇より「聖応大師」の大師号を授与された』

回転式の「経蔵」がある。
とても雰囲気がいい。
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釣り鐘もでかく、守護神社のご神木もとても太くて立派です。

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満開の赤木蓮に釣られて端の霊明殿に行ってみる。
『正門・回廊・奉安所・修法堂からなる。1156年創建。良忍上人の念仏勧請を助け、自らも融通念仏に深く帰依した鳥羽上皇の
霊牌と御真影を祀るために建てられた。徳川家康公を合祀するため、権現造りの社殿を再建した。それ以降「権現さま」「お宮」と称した。家康公は、大阪冬の陣・夏の陣で、36世道和上人に帰依し、治国・国家安穏の祈祷を乞い、日課念仏を誓約した。両度の戦役で被災した大念佛寺を、天海僧正立ち会いのもと、青銅百貫文を弁済し、庫裡を再建し、融通念仏に貢献した。今日まで修理を繰り返し、正門と回廊は江戸時代の遺構を残しているが、奉安所と修法堂は明治25年の火災で焼失し、旧形のまま建て替えられた。平成20年代修理を施し、新たに後小松天皇を合祀するようになった。後小松天皇は、融通念仏勧請帳の序文(重文)をしたため、広く融通念仏を広められた方である』

3/13・大坂平野郷 安藤正次・樋尻口地蔵・全興寺・長宝寺

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公園の前に「安藤正次墓所」
『安藤次右衛門尉正次は、禄2000石の旗本で、大坂夏の陣では御旗奉行として、徳川秀忠に直属し、1615年大坂城落城直前、秀忠の使者として前田利常・本田康紀両軍に、敵陣へ肉薄するよう命令を伝えた。その時数騎の敵兵に出会い、単身豊臣方の首級をあげたが自らも負傷し、秀忠に賞された跡願正寺に送られ傷の療養に努めたが、再起不能を悟り自刃した。五輪墓塔は、世子・正珍が平野郷を囲む壕の土居上に建て、願正寺を菩提寺とした』

平和な江戸時代の武家らしい大きな五輪塔が堂々と立っていた。
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その道を隔てた前に、六文銭の旗が立ち、「樋尻口地蔵」があった。
『大坂夏の陣で、道明寺合戦で後藤又右衛門・薄田隼人を失った敗戦後、真田幸村ら豊臣軍は、大坂城に退却した。豊臣軍を追い、進軍する徳川家康が平野で休憩を取ると予想した幸村は、樋尻口の地蔵堂に地雷を仕掛けた。案の定家康が現れ、地雷が爆発しようとした時、家康は小便がしたくなってその場を離れ、九死に一生を得た』
この日一番訪問したかったのがここです。
今年の大河ドラマクライマックスで、このシーンが出るかも・・・

「全興寺」
本堂に、「日光月光菩薩・本尊薬師如来・十二神将像」と書かれている。
「大聖歓喜天・首の地蔵尊」とも書かれている。
歓喜天の怪しさが好きです。
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『幸村ゆかり・首の地蔵尊 1614年大阪冬の陣が起こる。この時は城の外堀を埋めるという条件で和議成ったが、翌年和議が破れ「夏の陣」が起こる。当時大坂城は、二の丸・三の丸を失って本城のみになっていたから出撃する策をとり、平野・八尾街道では、藤堂勢と真田勢・後藤又右衛門・長宗我部勢の往来が激しかった。豊臣方が平野に火を放って退却の際、家康が大和道から必ず「樋之尻口」に来るとみた幸村は、密かにその地蔵堂内に地雷を仕掛けた。予想通り家康が地蔵堂内で休憩したが、小用を催し堂外に出た途端に地雷が爆発し、家康は命拾いした。この時の地雷の爆発で、地蔵尊の首から上が吹き飛ばされ、全興寺まで飛んできた』

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「地獄堂・扉の前に立つ地獄が開きます。中に入ってドラも一度叩いてみてください」というのがあり、通行門から入ると、閻魔様の坐像が睨んでいました。
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怖い夜叉さんもリアルにおり、小さな子なら泣き出しそうです。
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「納骨堂」「牛の除霊碑」があり、穴が繰り抜かれた岩があり、「この石の穴に頭を入れると地獄の釜の音が聞こえます」というのもありました。

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「駄菓子屋さん博物館」に入ると、ブラウン管TV・手回し洗濯機・蓄音機が置いてあり、「不二家ミルキーのブリキ看板」、昭和のおもちゃがいっぱいありました。
平野商店街に面しており、そちらに出てみました。
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アーケード屋根のある懐かしい商店街ですが、半数ぐらいのお店が営業していない感じです。

『本尊は薬師如来で、聖徳太子の作と伝えられている、平野が茫々たる野であった頃薬師堂が建てられ、ここから人が住み始め町が広がっていった。やがて坂上家の尊信するところとなり、1576年坂上利治によって再建された、府下木造建築最古である』

「仏の国」と書かれた入り口があり、地下に降りていく。
暗い半地下の部屋で、座ることも出来ます。お地蔵様が周囲に並び、柱を水が沿い流れ、その水音がBGMになっています。

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全興寺の横に、「南海電車・平野駅」がありました。
木造家屋の2Fに上がっていくようになっていますが、「運転日・毎月第1第3日用日・13~16時」と書かれており、南海電車のNゲージでも走っているのかな?

「長宝寺」
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「後醍醐天皇・行在所跡」の石柱が立っている。
『当寺は、平安時代桓武天皇の妃となった坂上田村麻呂の娘・春子が、天皇の崩御後、兄の広野麻呂のいる平野に来て落飾、慈心大姉と号し、天皇の廟所として禁輪寺、坂上氏の氏寺として本堂を開基、以降代々坂上氏の女子が比丘尼として法灯を継いできた。
後醍醐天皇が皇居を吉野に移される時、当寺を仮皇居とされ、熊野権現社に扁顧を賜った。絹本着色「仏涅槃図」は、鎌倉時代の名品。銅鐘は、建久3年(1192)の銘を有し、京都東山金光寺の鐘であったことがわかり、鎌倉時代の代表的和鐘で、ともに国の重要文化財指定され、市立美術館に寄託されている。毎年5月18日に秘仏の十一面観音像・閻魔王像が開帳され、「あんま王の御判」を押捺する法会がある。杭全神社との由縁から、7月14日の夏祭りには「みこし渡御」の神事が行われている』

3/13・大坂平野郷 若宮八幡宮・畠山政長・がんこ平野屋敷・平野公園

「旭神社・若宮八幡宮」
雨乞い伝説のある神社です。
手水に多く使われる龍ですが、さざれ石の上に昇竜の形の龍が置かれており、天に向かって雨乞している姿に見えて面白い。

それほど大きくもない境内を巡っていると、ちょんまげを結った浴衣姿のお相撲さんがいてビックリ。
境内隅のテントから出てきて、ゴミ捨てしていました。
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テントを見ると、「友綱部屋」と書かれています。
大阪場所がこの日開幕なので、大阪場所での本拠地がここのようです。

学生時代スキーツアー会社をやってた時、スタッフに歯医者さんの息子がおり、地元の名士で相撲部屋のタニマチをしていました。
大阪場所の時は、稽古場を提供し、何かと資金援助していると言っていました。
そんなことを思い出しながらテントを見ていると、まわし姿の力士さんが出てきて、携帯電話で話をしていました。
現代を生きる力士なので携帯電話も使っているのは当たり前ですが、とても古い伝統儀式でもある相撲と携帯電話が結びつかず、でかい体に電話が小さすぎて滑稽で、思わず笑っちゃいました。
可愛い~

「正覚廃寺」
『淳和天皇・825年、弘法大師開祖。観音堂・金堂・講堂・六時堂のほか多数の僧坊を有した巨刹でした。楠木正成も度々参詣したが、1493年「正覚寺合戦」にて灰燼と化し、以来廃寺』

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「畠山尾張守政長公の墓」
古い街の常で路地が多く、あちこち探して到着。
『畠山氏は、室町三管領の1つとして代々尾張守に任ぜられ、山城・紀伊・越中の守護も兼ねていた。政長は、管領・畠山持国の甥で、持国の実子・義就との家督相続が、京都を灰燼にした応仁の乱(1467~1477年)の原因となった。政長・義就の確執は長期に渡り、畿内各地で争乱し、1482年政長は将軍・足利義稙と共に正覚寺に本拠を置いて、誉田の義就と対陣した。義就の死後、河内の平定に乗り出したが、1493年義就の子・義豊の逆襲を受け敗死。この兵火のために正覚寺伽藍も焼失した』

扉前の謂れ板を読んでいたら、お隣さんが玄関から出てきて、「中に入れますよ」と声を掛けてくださった。
周りを民家に囲まれて、門扉の上に鉄条網まで施されているので、民家の敷地なのかなと、墓石を覗き込んでいました。
小さな五輪塔が公の墓石のようです。
「乃木将軍景仰碑」という大きな石碑が立ち、横に大きな大砲の弾がありました。

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「がんこ平野郷屋敷」
『弥生時代の「加美遺跡」で知られる当地の歴史は古く、神武天皇の東征や、聖徳太子ゆかりの人物の活躍など、数々の伝説が遺されており、大化の改新・645年に渋川郡香美郷と定められた。海外貿易で栄えた堺と同様、中世の自治都市として豪商たちの活躍する商業都市として成長した。1704年、大和川の付け替えに伴う新田開発で綿作が盛んになり、その集積・加工の中心地として発展。河内木綿として全国に出回った。代々豪商として栄えた当屋敷の辻元家は、江戸時代より庄屋・村長など村の役職を勤め、当地に重んぜられた。当屋敷は江戸時代初期の建築とされ、重厚な門構えや広々とした奥屋敷・土蔵の数々など、そこかしこに往時を偲ばせる』
「くらしの博物館」と門に書かれており、一度ここでお屋敷見学がてら食事をしてみたい。

「菅原神社」
凝った彫刻がなかなかいい感じ。

「浦美術店」
関西ローカルTVでよく宣伝しているお店は、平野にもお店があったんだ。
確か堺だったはず・・・
営業時間なら、お店を覗いてみたいけど・・・

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平野公園内に、「平野郷樋尻口門跡」の碑があった。
『戦国時代の平野郷は、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態を持ち、周囲に自治と自衛のために濠がめぐらされていた。濠の間に大小13の木戸があり、八尾・古市・堺などへの道路が放射状に伸びていた。樋之尻口門は、八尾久宝寺につながるもので木戸としては大きい方であった。門の側にいずれも地蔵堂・遠見櫓・門番屋敷があった。当公園一角に現存する地蔵堂は、当寺の名残である。郷から出るときは一身の加護を祈り、外からの変事は、入口で退散させようとした祈願の現れである』

公園内に入ると、「樋之尻橋」と彫られた橋の欄干のような石柱が2本並列に遺っている。
「赤留比売命神社」「住吉社」「天満宮」の3社が並んで鎮座していた。
大神社の摂社のようだなと見ていたら、杭全神社の境内外摂社と書かれていた。

「河内音頭宗家・初音家礎之地」碑が立っていた。
子供の頃の盆踊りの主役は「炭坑節」だった。
毎年何曲踊ったかわからない。
でも今は「河内音頭」が主役です。
この地から全国に広がっているようです。

3/13・大坂平野郷・坂上田村麻呂

「カフェ集まりグループ」に参加申し込みしました。
中之島に11:30集合です。
集合時間がゆっくりなので、先月河内歴史ツーリングの時、大阪平野・杭全神社で見つけたパンフレットに載ってた史跡を巡ろうと計画しました。
時間があれば、平野から中之島に戻る時、堺筋界隈に点在する歴史的建造物に寄り道しよう。

中之島での二輪駐車場の不安から、自転車で行くことにしました。
ロードバイクも考えたのですが、平野まで30kmで、往復&探索を含めると、80kmぐらいになりそうなので、距離がありすぎる。
輪行を加えると簡単なのですが、僕の輪行バッグは前輪を外すだけなので嵩張る。
乗降客の多い大阪市内の電車を考えると躊躇します。
しばらく使っていなかったブリジストン超ミニ折りたたみサイクルの登場させよう。

5時出発を予定していましたが、3時台に目覚めました。
4時に活動開始。
超ミニサイクルを出して見ると、空気が抜けてる。
これに合う空気入れを自宅から別の場所に動かしていたので、面倒になりNG。

仕方なく、「通勤リード110」で行くことにしました。
持っていくものはカメラとお財布・プリントアウトした地図ぐらいなものですが、自転車とバイクでは服装からして換えなければなりません。
リュック・ウエストバッグから、ヒップバッグに変更です。
夏用メッシュプロテクタージャケット&DAIWAフィッシングジャケットに服装も変更です。
ツーリングの時だけセットするリアボックスをセットし、飲み物と緊急食・カロリーメイトブロック・地図を入れます。
GPSナビをセットし、準備完了。

6:30出発になりました。
r13を南下、R43を東進し、天王寺・阿倍野からR25です。
平野での訪問地は、「日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂(平安時代)」一族関連、「大坂夏の陣」関連をメインに巡ります。

まず杭全神社の西門にバイクを停め、「春子姫の墓」を探します。
神社内にあるのかな?と思い境内に入ると、幸い掃き掃除中の宮司さんがおり尋ねます。
「大楠の東にあり屋根のある祠内」だそうです。
バイクを大楠の方に回し、墓地内を探します。

7:13、屋根のある・・・なんてないぞと思ったら、「坂上一族の墓所」と書かれた一角に、坂上一族の無縁墓石が集められていました。
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「坂上・・」「阪上・・」「藤原・・」と彫られた墓石がズラリ・・・これにはちょっと感動しました。

僕の通った小学校は、伊丹市大鹿というところにあります。
この「大鹿」という地名は古く、平安時代の日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂がここで大きな鹿を矢で射止めたことが由来です。
社会科の時間に坂上田村麻呂のお話が出ました。
担任先生が「坂上君、家はどこ?」「大鹿の・・・」
「そうか、坂上はきっと坂上田村麻呂の子孫だぞ、胸を張って先祖に恥じないように生きろよ」と言われました。

それはもう、クラス中が大はしゃぎで、坂上くんは一躍ヒーローです。
大鹿には「坂上」さんが多く、向こう三軒両隣「坂上」姓の表札が掛かっています。
平安時代の名族・坂上田村麻呂一族が住んだ地で、伊丹市に古くから住む名家です。
人には「ピグマリオン効果」というのがあり、人に褒められるとより頑張り、指導する方が「こいつは凄いやつや」と思って教えるだけで成績が上がります。
僕もコーチングで頻繁に使いますが、この先生はナイス先生でした。

白雪酒造を興した「小西さん」も一目置かれている名家です。
小西さん・坂上さんは、市会議員選挙に出ても当選しやすい。
僕の爺さんも群馬県の田舎の名家なので、村長や町長を歴任しました。
代々村の世話役です。
地の人なので親戚も多く住んでおり、「まあこの苗字の人にやらせておけば無難だろう」的なノリなのだと思います。
本人も、「僕の苗字は・・だ」と思うだけで、それに見合う人物になり、そういう仕事ができるようになります。
本家の現当主である僕の従兄弟は、群馬県の弁護士会会長をやっています。
KO大学法学部に3浪して入学したごく普通の従兄弟なんだけど、ピグマリオン効果で爺さんのように世話する役職を引き受けました。

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その横に、小さな格子扉付きの祠に守られた春子姫の墓石がありました。
『桓武天皇后・坂上田村麿息女・春子姫。葛井親王・春日内親王母。承和元年12月26日遷化』
田村麻呂の娘に、桓武天皇の后になった人がいたんだ。
葛井親王は天皇位に付けなかったので、下位の后だったのでしょう。

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杭全神社内から、「平野環濠跡」を見ました。
堺同様、環濠を拓いて外敵から集落を守った裕福な都市でした。
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坂上公園という所に行き、「坂上広野麿の墓」発見。
『平安朝初期(800年頃)、蝦夷攻略に武功のあった坂上田村麿第2子・広野麿が、朝廷より杭全庄を賜り、この地を領有した。嵯峨・淳和天皇に仕え、右兵衛佐に任ぜられ、この地に永住し、828年死没した。坂上家は子々孫々この地を領有し、平野殿と呼ばれた。「平野」の地名の由来は、広野麿が領有したことにより「広野庄」となり、後にそれがなまって「平野庄」となった』

平安時代の墓石い興味があったのですが、単なる岩でした。
当時は、埋葬地の目印に石を置いただけが、武人トップの朝廷職にある者でも普通だったようです。

3/6・南河内史跡ツーリング宿題解消 その8 弘川寺・瀧谷不動尊

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本堂に、拝観料のお賽銭をして、道標に従って西行堂の方に上がってみる。
方円の檜皮葺の質素で落ち着いた小ぢんまりした僧坊が、森の中の本堂を見下ろす位置ににひっそり立っていた。
更に上がると広い曲輪に出て、その端っこに「西行墳」があった。

『西行上人は、晩年空寂座主の法徳を慕って登臨され、73才で当寺にて入寂される』
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小さな円墳が作られていた。

「似雲法師・花の庵跡・200m」
『似雲墳 江戸時代中期、広島の歌僧・似雲法師は西行を慕い、この終焉の地にやってきて、西行の墓を発見した。その後、西行墳の周囲に千本桜を植え、その中に「花の庵」を建てて、生涯を西行追慕に捧げた』

曲輪の片隅には、桜の苗木が数十置かれ、植える作業を行っているようです。
桜の木がたくさん目につき、毎年その季節には桜の園が出来上がるのでしょう。
「西行桜山周遊路入口・500m」と書かれていた。

『弘川寺は、天智天皇4年(665)役行者の草創。天武天皇白鳳5年(677)勅命あって雨乞いを祈り、験著しく「龍池山弘川寺」の寺名を賜った。737年行基がここで練行し、弘法大師が中興した。歌聖・西行が晩年、座主・空寂上人を慕って来られ、1190年入寂する。南北朝時代には楠木氏の戦場となり、戦国時代には河内守護・畠山政長がこの寺に陣し、弟・義就これを攻めて1463年堂塔ことごとく焼失する。西行法師を慕い、歌僧・似雲法師が1733年、当寺境内にその墳墓を発見し、墓域に草庵を結んで隠棲した。遺言により、西行墓の傍らに葬られた』

九曜紋だった。
ハクモクレンの花が咲きかけており、「もうそんな季節なのか」と思った。

r200~R309~r201~r202で、14:14最後の訪問予定地・「瀧谷不動尊」
県道をはさみ左右に伽藍が並んでいます。
まずは北へ。
手水にセンサーが付いており、人が前を通ると水が出ます。
午後の時間にもかかわらずお客さんが多く、祈祷の声が聞こえて来るし、法事装束の方、交通安全祈願所前には車も停まっており、観光客の他に実入りの良い実質のお客様が多いようです。

裏山に登って行くと、歴代住職のおエリアがあり、無縫塔が並んでいます。
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小ぢんまりした六角堂が素敵です。
「鎮守社 高倉大明神・瀧尾大明神」の祠がある。

更に上ると朱色に目立つ多宝塔が建っていた。
宝塚の中山寺に似て、お金回りの良いお寺に見える。
谷を挟んだ向こうにも朱色の僧坊が見える。

谷を渡って反対側へ。
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「滝行場」と書かれていたので行ってみたが、水量が少なく、これじゃ滝行場の迫力に欠けるな。
滝不動堂に、お不動さんがいるかと思ったけど、見えなかった。

帰路につきます。
r202~R170~R309で北上し、美原南ICから近畿道に乗ります。

高速に乗る前、片道2車線道路で軽く渋滞し、2台のバイクの後ろに着きました。
サイドボックスを着けたツーリングバイクの男性の後ろに、足つきの良いアメリカン・ホンダスティードに乗った女性。
40代のご夫婦でしょうか。
お子さんが中学生になり、もう親子での休日から卒業し、夫婦で過ごす休日をバイクツーリングで楽しんでいるように想像しました。
いいです、とてもいい。

風が出てきていますが、天気はまだ持ちそうです。
吹田ICで下車し、中央縦貫道を西進し、道なりにR171に乗り、15:52・「バイクセブン・伊丹店」
GPS・ドライブレコーダーを収納し、20分ほどあれこれウインドウショッピングして帰宅しました。

家内が先に帰っており、本日の行程を報告し、「モヤモヤさま~ず」を見ながら夕食を食べ、お休みしました。
ああ、楽しかった。

南河内歴史ツーリング 5/5

3/6・南河内史跡ツーリング宿題解消 その7 孝徳天皇陵・科長岡神社・小野妹子墓・二子塚古墳・推古天皇陵・敏達天皇陵・弘川寺

12:20、「36代・孝徳天皇陵」
目の前を「竹内街道」が通っていた。
観光客が2組歩いていた。
駐車場の目の前が、「国登録文化財・大道旧山本家住宅」だった。
この駐車場は、ポールが立っているので、四輪では入れません。
バイクだからポールの間を抜けられました。
観光客用ではないのかも?

距離はないけど、陵墓まで登って行きます。
降りてきたら、さっきの観光客がまだおられ、上の様子を聞かれたので、教えてあげたら登って行かれました。

12:30、「小野妹子墓」
タクシーが停まっていた。
バイクを置いて登って行くと、「科長神社」があった。
聖徳太子廟横にあった「科長岡神社」の本社かな?

一瞬、小野妹子が、「科長」と呼ばれていたのかな?なんて思いました。
「まあ寄ってみるか」程度の寄り道だったのですが、なかなかいい感じのお宮でした。
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境内中央に、周囲の山から伐採したのか、枝葉が山のように置かれており、火祭でもしそうです。
誰もいなかったので、疑問のままです。
拝殿も綺麗に整理準備され、いつでも祝詞が上がりそうです。
午前中に神事をやってたのかな?

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長い石段を上り、小野妹子のお墓へ。
途中の山中にお金の掛かったトイレが有り、やはり科長神社関係のトイレに見えました。
由緒あるお宮は、お祭りが盛大で、多くの人を集めるものです。
その時のためだけのトイレかも?

妹子さんのお墓は見晴らしが良かった。
その景色を当てにしたのか、朽ち果てた休憩所がありました。

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12:49、「二子塚古墳」
石柱の立ってる塚上部まで上る道がなく、誰のお墓かわかりませんが、枝尾根をふたコブのように切り岸しお墓にしたのか、盛土したように2つ仲良く並んでいました。

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12:53、「33代・推古天皇陵」
用明天皇と同じ欽明天皇の同腹皇女で、30代敏達天皇の后。
日本最初の女性天皇で有名です。
子に竹田皇子という方がいますが、両親天皇というサラブレッドにもかかわらず、早死したということです。
敏達天皇と推古天皇は欽明天皇の別腹子ですから、血が濃すぎての早死だったのか、厄介な性格だったのかもと、勝手に想像しています。

陵墓に上がると、「推古天皇・磯長山田稜、敏達天皇皇子・竹田皇子墓」と書かれていました。
推古天皇と竹田王子は親子です。

13:03、「30代・敏達天皇陵」
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みかん畑の横の道を歩き陵墓正面着。
「敏達天皇・河内磯長中尾稜、欽明天皇皇后・石姫皇女」と書かれていた。
石姫は28代宣化天皇の皇女で、父親の異母弟の29代・欽明天皇の后で、30代敏達天皇の母親。

近親相姦だらけで、敏達天皇は母親と同じお墓に入り、后の推古天皇は息子と同じお墓に眠っています。
男性のマザコン、女性の息子愛は、今の時代も同じような・・・。
「孫くんは可愛いね」と家内に話しかけた時、「でもね、私は息子の方が今でももっと可愛いよ」と返ってきて、「へ~」と思った。

バイクに戻る時、養蜂箱があった。
横のみかん畑に受粉するためにミツバチを使うのだろう。

r33を南下し、r200で13:32「弘川寺」
西行法師のお墓があります。
源氏平家の盛衰物語・大長編「平家物語」の名脇役なので、ここを訪問したくなりました。

西行は、出家する前は平安時代の北面の武士・佐藤義清で、平清盛と同じ北面武士仲間だった。
妻子を捨てて出家してしまい、地方を巡り歌を読む生活を送る。
平清盛と源頼朝とも交流がある僧として、平家物語に度々登場する。

もう一人、西行と清盛の北面の武士時代の同僚に、遠藤盛遠という武士がいる。
こちらは、別の同僚の美人の奥様に横恋慕し、奥様に関係を迫る。
板挟みで苦しんだその奥様は、「ならば旦那を斬って」と計略を披露する。
計略に乗った遠藤は、計略通りそこに現れた奥様の旦那様の首をはねる。
しかし、それは旦那様ではなく、なんと旦那様に扮した奥様本人だった。
悩み苦しんだ奥様は、自分を犠牲にして横恋慕な恋を精算した。

遠藤も出家して文覚となった。
後白河法皇への強訴により、頼朝と同じ伊豆に島流しされ、ここで頼朝と縁ができ、清盛・頼朝両方にタメ口で話せる怪僧・文覚が出来上がる。
京都神護寺の中興の祖でもある。
伊豆の文覚の幽閉所も訪問してみたいんですよね。
こちらも平家物語の名脇役です。

南河内史跡ツーリング 4/5

3/6・南河内史跡ツーリング宿題解消 その6 親子と「美しい日本」

コンビニ・イートインスペースで助六弁当を食べていると、それぞれベビーカーを押した2人の若いお母さんが入ってきました。
そして雑誌スペースに行き、立ち読みを始めた。
ベビーカーの子は、棚の商品に手を出した。
よく見る光景です。

幼児は手で触って、口に入れ、その物体を把握して一人前の人になる。
誰でも通る成長の一過程です。
その時、母親が店内に響く大きな声で怒鳴り始めました。

「2~3才ぐらいの子が手を出すのは当たり前じゃん」と見ていると、今度は幼児は持っていたおもちゃを床に落とした。
これもよく見る光景。
大声で母親がとても汚い言葉で怒り、頭を叩いた。
目が点になった。

僕には虐待以外の何物でもないように見え、とても気分が悪くなった。
助六を食べ終わったので、デザートの飲むヨーグルトを買い、駐車場で飲むことにした。
外でドキドキした心を落ち着けていると、そのお母さんがベビーカーを押して出てきて、お子さんへのガミガミが駐車場で始まった。
品がなさすぎる。
お子さんが可哀想でなりません。

「もうあかん、我慢ならん」と意を決しお母さんの方に歩き出したとこで、再び店内に入っていかれたので、一言言うのを止めました。
僕は、弱い者いじめが一番嫌いです。
「愛のムチ」なんていうそれを肯定する言葉も嫌いです。

「保育園落ちた、日本死ね」を書き込んだお母さんと、この虐待お母さんの姿が重なります。
昼休みに昼食を食べながら国会中継見ていて、民主党女性議員が、ネットに書き込まれたこの言葉を取り上げて、安倍首相に質問していました。
安倍首相の答弁は、「匿名のブログなので、確認のしようもない。待機児童の問題には真剣に取り組み、保育所拡充施策を実施している」だった。

民主党議員が、「保育所落ちた、日本死ね」の意味する保育所不足に目を向けているのはわかるのだけど、僕には「日本死ね」の言葉を使った時点で、「対象外」だと思った。
この民主党議員は、目の前で「日本死ね!」を本人から聞いても、それを肯定できるのだろうか?
僕には、「まともな大人じゃない」に映る。

僕は今までの生涯で、誰かに「死ね」なんて言葉を使ったことが一度もない。
同世代の友人が口にするのも聞いたことがない。
最近の若者の会話に、笑い顔ではあるけれど「死ね」他、とても汚い言葉を聞くことがある。
「爆破する」なんて言葉も出るようになったのは、ネットの匿名性からくる安易な書き込みに慣れてしまった結果のように思う。

人は自分の発した言葉に縛られるものです。
「汚い言葉」「マイナス言葉」を発すれば、汚い人生・マイナス人生を送ることになり、汚い人・マイナス仲間が自分の周りに集まってくる。
「美しい言葉」「プラス言葉」を発すれば、素敵な人が集まり素敵な人生を送ることが出来る。

品のない言葉をパネルにして、堂々と国の最高決定機関である国会で発表する女性議員も、「大して変わらない品のない方だな」と思った。
一般企業の会議で、いくら意見が別であっても、「死ね」なんて言葉を使ったら、もう誰からも信用されません。
僕が議長だったら、即刻退席を願います。

国会というところは、実に甘い。
同じ国民の代表である議員に対し、意見が別であるということだけで、平気で罵倒し、とても汚い言葉を使う。
「あなたは悪の総合商社」なんて言い放った馬鹿な女性議員もいる。
自分のヒステリーを全国放映させて恥ずかしいと思わない品の無さ。
立派な大人に対し、公衆の面前で汚い言葉を使って誹謗中傷する自分を情けないと思わず、肯定できる日本人としての感性の劣
化。

僕はむしろ反対意見を言う時ほど、敬語を使います。
多くの方がそうだと思います。
いろんな会議に出てきましたが、国会ほどひどい言葉を使う会議を見たことがない。
小学校の学級会なら、担任先生が注意するだろうし、当該生徒同士で取っ組み合いが始まっても不思議ではない。
国会議長は、汚い言葉の使用に注意すべきだと思う。
これが国民の代表とは情けない。
議論の内容とは関係ない、単なる感情の吐露で、大人とは思えない。

自分は1人だけど、1代25年遡ったら親が2人・2家、2代50年遡れば4家・・4代100年前明治時代16家・・10代250年前江戸時代1024家・・20代500年前戦国時代104万8576家・・30代750年前鎌倉時代10億7374万1824家。
その子孫を考えれば、日本人の殆どは親戚です。
日本人の殆どは、先祖を辿っていけば、源平藤橘という4つの氏に繋がると言われています。
この4氏は、いずれも天皇の孫世代が、臣籍高下した元皇族。
つまり、みんな天皇と血がつながっている。
天皇家という最も古くから続いている家を中心に、時には切磋琢磨し、時には励まし合って成長してきたのが日本国です。

安倍首相が最初に総理大臣になった時のスローガンは、「美しい日本」でした。
太平洋戦争敗戦で否定された「天皇を中心にみんなで築き上げてきた美しい日本の心を取り戻そう」であった。
まず教育改革が実施され、「脱ゆとり教育」方針に転換され、ゆとり教育が廃止される道筋を作った。
「美しく生きる」には、しっかり学問を学び、心身を鍛え、強くならないといけない。
そうしないと、自暴自棄な「汚い言葉」を平気で吐く人になってしまう。
「美しい言葉」を使って生きることで品性が磨かれ、次世代にそれが伝わっていく。

3/6・南河内史跡ツーリング宿題解消 その5 聖徳太子御廟・用明天皇陵

宝物殿に入ってみる。
鍵が閉まっており、ベルを押すみたい。
「宝物殿ご訪問の方、そこでしばらくお待ち下さい」のアナウンスが、境内全体に聞こえる。
しばらくしたらジャンパー着たおじさんがやってきて、開けてくれました。
照明も点き、お宝拝見です。
拝観料・200円。

聖徳太子の各年齢の姿を描く掛け軸が多く下がっており、シャッポに我が家と同じ武田菱紋が描かれていた。
南北朝・阿弥陀如来坐像、室町時代・十一面観音立像・阿弥陀如来立像が、どこも傷んでいないような綺麗さで鎮座している。
銅の合金なんどろうけど、他にどんな金属がどのくらい混ぜてあるのか聞いたけど、知らないそうです。
開けてくれた方は、作務衣に着替えて受付に座っていた。

木造の仏像は、鎌倉時代の大日如来坐像や平安時代の像があり、虫食いはあるが素晴らしい保存状態です。
唐仏もあった。
平安時代の僕の好きな木造・毘沙門天は兜を被っている。
檜の一刀彫だそうです。
等身大より大きいので威圧感抜群です。
聖徳太子所持の高麗笛と、用明天皇所持の大穴笛が並べて置いてあった。
僕の指では穴を抑えきれないように大きめ穴の笛で、抜け具合の音色を楽しむのかもしれない。

聖徳太子は、31代用明天皇の次男として生まれましたが、母親は29代欽明天皇の娘です。
用明天皇自身が欽明天皇の子で、腹違いの兄弟夫婦です。
この時代は、近親相姦気味の結婚を繰り返しているので、血が濃くなり過ぎて天才か愚鈍が生まれそう。

御廟曲輪に上がってみます。
二天門という山門をくぐります。
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阿吽の増長天・持国天が左右を守っています。

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門をくぐった正面が墳墓というより里山で、素敵な彫刻が施され、唐破風檜皮葺屋根が綺麗な小ぶり伽藍が正面にあります。
里山の山頂が御廟なのか?と、宝物殿で聞いており、その手前の円墳が聖徳太子のお墓だそうです。
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円墳を一周しようと横の道に入ると、墓地がありました。
「釈・・」の浄土真宗の信者さんのお墓が目立ちます。
さらに下に大きな現代風墓地が広がっています。

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聖徳太子廟の横なら、墓地の価値が上がりそうだし、自然災害に遭わずに来た場所だろうから、更に価値が高い。
墓石に刻まれた文字を目を凝らして読んでいたら、上から御仁が降りてきた。
挨拶すると、「上まで行かれましたか?毎日新聞に紹介されてて来たんだけど、謂れ板がなく何かわからなかった。知ってる?」との質問。
僕もわからないので、役立たずでしたが石段が山頂まで続いており、10分ほどということだったので、行ってみることにしました。

裏側にも墓地が広がり、巨大墓苑だとわかりました。
山頂に立つコンクリート製の宝篋印塔は、墓苑を象徴するものかもしれません。
でもそんなものを新聞が紹介するわけないよね。
石段を下りながら景色を見てると、富田林のPL教団の塔が見える。
僕のようなこの地域の地理に不案内の者にとっては、格好のランドマークです。
そうか、あっちの方角が富田林なんだ。

浄土堂。
見真堂・・・親鸞上人自作のご尊像を祀る。
まさか浄土真宗開祖が彫った仏像があるとは思わなかった。

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科長岡(しながおか)神社・・・謂れ板に書いてあった「叡福寺は地名から磯長(しなが)寺とも呼ばれていた」と音が一緒です。
太子町界隈が「磯長」と呼ばれていたのはわかったけど、海に近くないのに「なぜ磯?」と疑問に思っていたけど、「しなが」の当て字なのかも?なんて脳内想像が膨らみました。
「磯」を「し」と読む音があったのかも?
太子円墳を囲むように、古い墓石が並んでいました。

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真言宗の代名詞、弘法大師修行装束像と弘法大師堂がある。
各宗派入り乱れており、面白い。

バイクに乗り、11:47、「31代・用明天皇・河内磯長原陵」
なんと僕以外に観光客がいた。
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太子廟とはお隣と言える近さで、お父さんの用明天皇陵の近くに眠りたかったのかな?

R166に出て、r32・r33との交差点に、ファミリーマート・太子町山田店があった。
朝食抜きでここまで来たので、何か食べましょう。
12:01「助六寿司・420円」を購入し、イートインスペースで食べます。

「乗馬クラブ・クレイン大阪」のパンフレットが置いてあった。
小2から70才まで、乗馬スクール45分5000円+装具レンタル1000円+保険料200円、5級ライセンス・3日間で取れます・22000円。
なるほど・・・
僕は高校の時ヨット部に入らなかったら、馬術部に入っていたと思う。

12:15、食後の腹ごなしに、ブルーベリー飲むヨーグルト118円を買い、店内で食べたくなかったので駐車場で食べました。

3/6・南河内史跡ツーリング宿題解消 その4 河内源氏3代の墓・叡福寺(聖徳太子御廟)

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帰ろうと鳥居のところまで来ると、「石川」の作った平野が見渡せました。
この肥沃な土地が、河内源氏の源泉になったのでしょうし、大坂夏の陣のくだりでも、「石川を渡り」とあるあの川です。
そして、後藤又兵衛・薄田隼人を散らせた濃霧もこの川の気まぐれだったのでしょう。

次は、河内源氏三代の墓です。
GPSに導かれるまま路地を走ると、四輪なんて絶対無理な用水路沿いの幅1mほどの道に導かれました。
なんと!
バイクを置き、徒歩探索すると、20mほどで車道に出ます。
意を決して、教習所の一本橋の実践をします。

車道になったとこにお墓がありました。
山門に、「源氏・祖郷」と書かれた札が掛かっています。
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「源頼義朝臣墓」がありました。
河内源氏の祖・頼義は、大江山の鬼退治で有名な清和源氏・摂津源氏の源頼光の孫です。

『1051年、安倍頼義(頼時)が反乱を起こした時、鎮圧にあたった。その後再びその親子が反乱したため、出羽豪族・清原氏の援軍を得て1062年平定した(前9年の役)。この出陣に際して、石清水八幡宮に戦勝祈願し戦功を上げることが出来たので、この地に八幡宮を勧請し、通法寺の北に壺井八幡宮として源氏の氏神にした』

境内に曲輪は残るものの建物は、先ほどの山門とあと一つ山門があるだけ。
壺井八幡宮都の位置関係から、ここが通法寺のようです。
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「ウォーキングトレイル」の案内地図があり、「歴史街道」石柱には「源義家・頼信墓、0.2km」と書かれていた。
歩こうかとも思ったけど200mという距離が微妙で、バイクで小川沿いに上りました。

30mほどで行き止まり、通法寺を見下ろす丘が墓所でした。
バイクを置いて、急峻な丘に付けられたつづら折れを登ります。
『源氏三代の墓 頼信は河内守に任官後ここに邸宅を構え、数々の戦乱を平定後ここで余生を過ごし、1048年遺言により「巽」の方角に葬られた。頼義の墓は通法寺旧本堂跡にあり、1082年79才で死去し、遺言により本堂下に葬られたが、後に現在地に移された。義家の墓は、通法寺南東の丘陵上にある小高い円丘である。1106年京の邸宅で死去し、ここに葬られた』

丘の上に上がると、扁平された広い曲輪になっており、謂れ板がないので分からないが、一列に墓石が並んでいる。
河内源氏に縁のある者の墓かな?
「愛鶏之墓」と彫られた墓石があり、ペットとして鶏を飼っていたのか?
って突っ込みたくなった。

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円丘前に、「源義家の墓」と刻まれた石柱が立っている。
『歴史街道 国指定史跡 源義家の墓(1039-1106) 7才の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。前九年の役で父・頼義に従って名声を高めた。1083年出羽豪族・清原氏の内紛が起こると、1087年それを鎮圧し、武将としての地位を不動のものとした(後三年の役)。この功績から百姓が土地を寄進し始め、1092年朝廷から土地の寄進禁止令が出されるまでになった。1098年、武将で初めて昇殿を許された』

10:28、r27を南下し、r32に乗り換え、「叡福寺」着。
石段を上がると、仁王門がある。
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小ぶりだけど雰囲気がいい仁王像。
山門に「聖徳廟」と書かれた山門名が掛かる。
多宝塔・本堂・手水舎などが境内にあり、参道正面に里山。
その手前がまた石段で上がり、長屋門になっている。
その奥に瀟洒な唐破風の建物が見えている。

『叡福寺は、聖徳太子の墓前に営まれた寺院。戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗・金剛峯寺の末寺で、石川寺・磯長寺と称されていた。四天王寺・法隆寺と並んで、太子信仰の中核を成した寺院である。推古天皇30年(622)建立で、724年聖武天皇の勅願によって伽藍を造営され、もとは法隆寺同様東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西を叡福寺と称した。
現在の伽藍は、1574年織田信長の兵火で焼失した後、相前後して再建された。広大な境内には、金堂・聖霊殿・宝塔など堂塔が立ち並んでいる。境内北方高所に営まれた磯長陵は、621年崩御の聖徳太子生母・穴穂部間人皇后、622年聖徳太子、その后の3人が一所に葬られていることから、三骨一廟と呼ばれている。墓前に、空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・證空の諸賢聖のほか、名僧の参籠が多く、現在も善男善女の参詣が絶えることがない。
当寺は数多くの貴重な文化財を所蔵している。聖霊殿(太子堂)は、1603年豊臣秀頼が再建したものです。1732年再建の金堂、17世紀前半建築の鐘楼は、大阪府指定文化財。巨大な石像五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられ、鎌倉末期の優作として、大阪府有形文化財私邸を受けている』

南河内歴史ツーリング3/5

3/6・南河内史跡ツーリング宿題解消 その3 飛鳥戸神社・壺井八幡宮

9:02、飛鳥川を渡る「月読橋」
なんてこと無い橋でしたが、上流・下流に景色が開け、その命名にも惹かれて停まってしまいました。

9:05「竹之内街道と駒ヶ谷」という謂れ板の前で停車。
暑くてセーターと上のカッパを脱ぎます。
『二上山を仰ぎ飛鳥川が流れる駒ヶ谷は、古代以来の長い歴史に彩られています。江戸時代は竹内街道を中心に多くの人口を抱え、飛鳥川に沿った平地となだらかな丘に田畑が拓かれ、それを潤すため池も点在し、豊かな村であったようです。春と秋に牛市が開かれ、中郷地方から集められた牛が、600頭も取引されており、河内・和泉・大和に売られ、農作業の支えとなりました。現
在栽培が盛んなぶどうは、江戸時代には庭先などで作られていたようで、明治以降丘陵地に広がり、国内有数のブドウ産地になりました』

『「駒ケ谷」の名前の由来として聖徳太子伝説が伝えられている。推古天皇の時代、聖徳太子は愛馬黒駒に乗って各地を周られた。この地にも立ち寄られ、そのとき黒駒をつなぎ止めた場所がある。「そのあたりでは、今も馬の蹄の跡がある不思議な石が出る。それは硯にすることもできる、青く硬い石で割るとしだいに蹄の跡が現れる。それゆえ、ここを駒ケ谷と呼ぶようになった」と案内板に書かれている』
丘陵地に見えるハウスは、ぶどう畑です。

9:14、「飛鳥戸神社」
『雄略期に渡来伝承を持つ百済系・飛鳥戸造一族の祖神である「飛鳥大神(百済の王)を祀っている』
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こんな謂れを読んだ後だからか、蟇股や木鼻の彫刻が、なんとなく日本風でないように見える。
手水場が水道の蛇口だったので、愛用してるペットボトル水筒の水を入れ替える。

R166を南に渡り、9:33「壺井八幡宮」
河内源氏発祥の地です。
平安時代の清和天皇の孫が「源」の姓を賜って臣籍降下し、北摂で軍事貴族として清和源氏が起こった。
その子孫が河内守に任命されてこの地で起こったのが河内源氏です。
この子孫が東国で実力を育み、鎌倉幕府・室町幕府を成立させました。

本姓・平と言われている徳川家康も、幕府設立にあたって源氏の血筋が買ったと言われています。
豊臣秀吉が源氏でなかったので幕府設立を諦め、朝廷官僚トップの関白になったという。
現在の日本人の殆どの方は、先祖を辿れば「源平藤橘」に行き当たるという。
つまり、天皇家とは皆親戚であり、血のつながりがある。
陵墓を訪問する行為は、そのまま先祖の墓参りでもある。
ここは、ずっと探索してみたかった地です。

「河内ふるさとのみち」という案内標柱が立ち、主な史跡の方角と距離が書かれています。
トレッキング道ですね。
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見上げる石段の上に河内源氏の本拠地・壺井八幡宮があると歩いて行くと、「壺井」があった。

『清泉・壺井 平安時代・前九年の役(1051~1063)の時、源頼義の軍が水に苦しんだ時、弓の先で崖を突き崩して得た冷泉により、将士の意気が上がったと言われる。平定完了後、冷泉を壺に入れて凱旋し、ここに井戸を掘り、そこに冷泉を入れた』

『このあたりは壺井の香炉峯といわれ、河内源氏発祥の地。1020年源頼信が河内守に任官しこの地に私邸を営み、1064年前九年の役を平定した子・頼義が岩清水の神を私邸の東側に勧請したのが本宮の起源である。また左側にある「壺井権現社」は、源義時(義家の五男)が河内源氏の祖神として1109年に創始した。現社殿は、1701年徳川綱吉の命で柳沢吉保が再建したものである』

階段を登ろうとしたら、中央に「源義家公28世後裔・三王商事株式会社・三王紀将」と彫られた石柱が立っていた。
石段を寄進したのでしょう。
後世に伝える物を残すのはいいね。
階段を登ると、「天然記念物・楠の木 樹齢1000年」がドンと構えていた・・・存在感抜群。
檜皮葺の社殿が見える。

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参道に、「奉納・多田正知」と彫られた石柱が立っていた。
参道の整備・石段を奉納されたのかな?
多田の苗字からすると、清和(多田)源氏発祥の地・多田を連想させ、源氏の後裔の方でしょう。

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本殿に参り、絵馬掛りを見て、絵馬を買おうと社務所に寄ったら、誰もいなくて残念でした。
窓に鍵がかかり、呼び鈴もありません。
お出かけの時は、窓の外に絵馬やおみくじ・お守りなど少し出されて、お納め料を書いた賽銭箱でも置いておけばいのにと思った。
お守りをパクってしまうような不信心者はいないでしょう。
源氏の天罰が落ちるに決まっています。
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源氏の「白旗付き神矢」もあるそうです。
崖を崩した矢だそうです。

暑くて、トイレでタイツも脱ぎました。
上下とも夏装束のメッシュでも良さそうなほど良い天気で暖かい。

3/6・南河内史跡ツーリング宿題解消 その2 西琳寺・真蓮寺・大黒寺・杜本神社

8:14、「近鉄・古市駅」の東の細い路地に入り込み、住宅地にある「西琳寺」到着。
「欽明・桓武天皇勅願寺」の石碑が立つ559年建立というとても歴史のあるお寺です。
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それにしては境内も小さく、本堂も特に特徴はない、でも境内に置かれた寺院礎石の大きさを見ると、過去の興隆期の伽藍の立派さを想像させる。
とても大きな五輪塔が3つ並んでいる。

『鎌倉時代中期に、西琳寺奥院が高屋丘にあった。1295年住職の墳墓(五輪塔)が造営された。その後高屋城が築城され、土塁下に埋もれてしまった、昭和33年宅地造成工事で発見され、ここに移転安置されている。五輪塔は、地・水・火・風・空の5つの宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて平安時代に創始された。元来は堂の落成、仏像開眼時の供養の目的の1つにしたが、鎌倉時代以降、供養や墓石として作られるようになった』

8:21、「真蓮寺」
ここも路地のような入り組んだ所にある寺院。
門が閉ざされ、境内を拝見できなかった。

『古市郡役所跡・真蓮寺 真宗西本願寺派。平安時代は「蓮華台寺」と称した真言宗のお寺だったが、鎌倉時代初期、浄土真宗に改宗された。室町から戦国にかけて、河内地方の一向宗基地となり、天正年間の石山合戦には、住職とその子が武将として参戦し、討死した。明治13年古市郡の役所が当寺の一角に利用され、9年間存続した』

r27を南下し、8:34「禅宗・大黒寺」
「日本最初・大黒天出現霊場」と書かれた大きな石柱が立っています。
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山門は低い板門で閉ざされていますが、「参拝自由、夕刻まで」と書かれていたので、勝手にプラスチック・チェーンを外し入り
ます。
小綺麗な境内です。
本殿は「祈祷殿」となっており、この中に大国様がいそうですが、中が見れません。
お経が聞こえるのでお勤め中のようです。
毘沙門天・弁財天などの6体の真新しい石造が参道脇に並び、お金回りが良さそうだなと感じます。

8:42・「杜本神社」
葬儀会館のような所にバイクを停めます。
『金剛輪寺跡 杜本神社の神宮寺として聖徳太子存命だった頃創建されたと寺伝に書かれている。
近飛鳥寺と呼ばれ、神社とともに南北朝期たいへん栄えた。後村上天皇から「金剛輪寺」の寺号を賜った。南北朝時代は、南朝の勅願所となり兵火を受け焼失衰退し、信長の河内攻めでも兵火を受けた』

R166沿いを流れる飛鳥川の河岸段丘上の位置にあり、鳥居は川に向かって立っており、その階段を下った所に駐車場がある正面のようです。
「式内・杜本神社」と書かれた銘板が鳥居に下がっていたので、延喜式に収載された神社のようです。
登って行くと本殿のある曲輪に上がりました。

祭神は、「経津主神(ふつぬし)・経津主姫神」
聞いたことのある名だけだったので、帰宅後調べるとイザナギノミコトが産んだ神で、天孫降臨の前交渉で大国主命のもとに天下った交渉神の一人ということでした。

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謂れ板に、「大楠公の首塚」「隼人石」「藤原長手公の墓」と書かれていた。
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本殿横の軒下に、消防ポンプが打ち捨てられていた。
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本殿前に「立砂」が立っている。
観光客などゼロと思われる神社にこれがあるとは、ちょっとびっくり。

みんな見て回りましたが、隼人石がここにあるのが興味深いです。
隼人石は、朝廷の強軍「隼人」の姿を彫り込んだ(頭が獣で体は人間)石で、兵馬陵の埋蔵軍のようなものです。
古事記に、隼人の反乱を鎮圧に行くお話が載っていた。
戦国時代に九州平定寸前まで行き、明治維新でも大活躍した薩摩の男を「薩摩隼人」と言いますが、あれの先祖と理解しています。

古墳時代に制作され、古墳などを守るために周囲に設置されたと理解しているのですが、これを見て「ここ古墳じゃないの?」と脳内妄想しちゃいました。
四方はみんな下りになってる小高い独立丘です。
こういうのを感じることができるので、現地に来ると面白い。
ここは大収穫でした。

飛鳥川沿いの細道に入ると、「竹内街道」となっていました。
日本最初の官道(国道)です。
杜本神社の正面でストップ。
「水分神社」と書かれた石柱が立ってる。
近在の村への農業用水を分ける分水所があったのでしょう。
この配分は農家の死活問題なので、この取り分を巡ってよく争いになっています。

『天正年間 織田信長の高屋城攻めにより、社殿焼失』と書かれていた。
高屋城は、水濠を伴った安閑天皇陵にあり、その周囲が城域だったのでしょう。
大和盆地側からの侵入者に対する城の守りの砦・屯所として機能していたのでしょう。

南河内史跡ツーリング 2/5

3/6・南河内史跡ツーリング宿題解消 その1 薄田隼人墓

家内がお出かけなので、1人遊びの休日です。
ツーリンググループの予定を見ると、またまた大入りで参加を躊躇。
天気予報がイマイチなので、それも中止になっていました。
天気予報を見ると、曇り空だけど暖かく、ツーリング日和に見えます。

前回時間切れで宿題になった和歌山湯浅氏の山城探索後編を考えていましたが、近畿地方中部は19時ぐらいから雨が降る予報なので、より近い場所に変更しました。
これも前回時間切れで宿題になっていた南河内古墳・史跡巡りです。

いつものように夜明け前に目を覚ましましたがゴソゴソし、7時に家を出ました。
この日の相棒は、「招き猫CB400SB」
先週真冬装束で暑かったので、春秋装束に変更しました。
夏用メッシュプロテクター上下+DAIWA釣りスーツのコンビです。
下半身はタイツを履き、上半身はセーターを着こみ、寒くなっても対応できるようにしました。

豊中ICから中国道に入り、吹田から近畿道を南下します。
寒さは感じず、晴れているのでツーリング日和です。
西名阪道にチェンジし、藤井寺IC下車。
r12を西進し、R170にチェンジすべき所をミスして、「近鉄・土師ノ里駅」前まで来ちゃいました。

UターンしてR170。
西名阪道の側道に乗って南東に進み、8:00に前回見つけられなかった大坂夏の陣で討死した薄田隼人のお墓に着きました。
前回は近くの場所と間違えていました。
帰宅後調べ直し、下調べがバッチリです。

真田の六文銭が染め抜かれた幟が立っており、大河ドラマに肖っているようです。
『羽曳野市有形文化財 ここは大坂夏の陣の激戦地であり、大坂方の将・薄田隼人正兼相の最後の地でもある。1615年5月6日、徳川方の大軍を迎えた豊臣方は、籠城は不利と見て、玉手山付近の狭路で迎撃する作戦をとった。しかし、薄田隼人・後藤又兵衛・真田幸村・毛利勝永軍は、4隊合わせても1万足らずで、濃霧のため定刻に合流できなかった。激戦の末、10倍近い徳川軍に撃破される。薄田・後藤の両将もついに討死。翌日、大坂城は陥落し、夏の陣の幕を閉じている。す薄田隼人は、豊臣秀吉・秀頼に仕えた武将で、後に岩見重太郎として伝説化される剛勇の士であった。この墓地は明治18年、子孫に当たる広島藩主・浅野家野一族によって建立された。歴史の1ページを飾る史跡として、平成8年浅野家から羽曳野市に寄贈された』

敗軍ではあるが、ここに書かれた武将たちは、みな魅力的です。
判官びいきの日本人故、江戸時代に読み物になって庶民にそういうイメージを植えつけたのでしょうが、多くは関ヶ原の敗軍側で浪人していた者で、再び一旗揚げようと大坂方の呼びかけに応えた剛勇の者です。

時代の趨勢は徳川になびき、敗軍が予想される戦に参じ、死ぬ場に一筋の光を見つけようとする心意気に胸打たれる。
大坂城籠城戦だった冬の陣では、将兵も多く五角以上の戦いをして、徳川方に大損害を与えたが、夏の陣では堀を埋められ、外部からの援軍も期待できない中、多くの将兵が万に一つも勝ち目がないとして大坂城から離れていった。
そんな中なおも残り戦った大坂方の将兵の気持ちに、熱いものを感じる。真田幸村・後藤又兵衛・毛利勝永、そして薄田隼人・・・、
命は虚しくしたが、名を後世に残した。

この道明寺合戦での後藤・薄田の討死、毛利勝永が後藤・薄田敗残兵をまとめて大坂城へ退却した話、翌日の天王寺合戦での寡兵にもかかわらず、並み居る徳川軍を打ち破り、家康本陣まで迫った鬼気迫る猛攻、真田幸村の討死。
毛利勝永が豊臣秀頼介錯後の静かな切腹・・・男子にはたまらない物語です。

大坂夏の陣戦闘中も、まだ余裕のある徳川方武将は、大坂方武将の戦上手と猛攻に賛美を惜しまなかった。
この戦いの後、真田幸村の娘には縁談が殺到し、土佐に留守居していた関係者は江戸に送られ首をはねられたが、家康も猛将・毛利勝永に敬意を払い江戸に送らせたのでしょう。
秀頼からの誘いに、関ヶ原敗残の自分を幽閉ではなく、禄高く丁重に扱ってくれた土佐・山内家への恩と、豊臣家への恩の板挟みになった心境を語った妻から、即座に「後のことは心配せんと、心置きなく大坂に参ぜよ」と笑顔で送り出した妻の心意気にも感動してしまう。
仕事で成功し名を残した男子の陰に、偉大な配偶者ありです。
周囲敵だらけの中、側にいる妻からの励ましの言葉ほど、男に勇気を与えるものはない。

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住宅街の入り組んだ一角にあり、今朝生けられたのか真新しいお花が墓前に添えられていた。
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六文銭の旗も真新しく、400年後でも続く先人を祀るご近所さんの手厚いお参り。
「日本人って素晴らしいな」、この墓に参れて、ほんとに良かった。

南河内史跡ツーリング 1/5

2/28・南河内史跡ツーリング9 原発

予定の北半分しか回れませんでしたが、時間切れで帰路につきます。
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R170を北上し、西名阪道・藤井寺ICから高速に乗り、近畿道に乗り換え、16:56「八尾PA」で休憩。
こんなPAあったっけ?・・・まだ綺麗なので、出来たとこかも。

これから風に当たる高速道路を走り、陽が落ちていくので、セーターを着ました。
近畿道~中国道を走り、豊中ICで下車し、17:38帰宅しました。

南河内の歴史遺産候補・古市古墳群を中心に、土師氏関連・大坂夏の陣関連の多くの史跡を巡りましたが、今回のエリアは東西2km・南北2kmの小ささです。
歴史遺産の宝庫といえます。
その南に、源頼朝・足利尊氏という武家政権幕府を開いた源氏の隆盛の元を作った八幡太郎義家が生まれた河内源氏の本拠地があり、更にその南の太子町は、聖徳太子の墓をはじめ古墳群の地です。

往復130kmのコンパクトな歴史遺産探索ツーリングでしたが、得るところが多かった。
やはり現地に行き、地形を見なければ、当時活躍した先人の行動が見えてきません。
ああ、楽しかった。

南河内歴史ツーリング 6/6

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「関西電力・高浜原発の運転差し止めを求める仮処分申し立て」が、裁判所から認められました。
「住民への説明が不十分だったから」、運転差し止め仮処分が認められたということで、原発システムそのものが問題にされたのではありません。
僕は、地震の多い日本列島での原発運用は、いずれ第2第3のメルトダウン事故が起きるだろうから、別のエネルギーへ転換した方が良いと思っています。
原発燃料のゴミ処理問題が店晒しになったままの現状を考えても、電気エネルギーを原発主力に頼るのは、将来世代に負の遺産を残すことになり、どうも気持ちよくない。

原発が一基も動いていなくても、停電することなかったけど、一気に転換が無理だったら徐々に原発を減らして行くのも1つのやり方だと思うので否定しない。
できるだけ早い将来にゼロにするが、現実的のように思う。
そこらは、専門家がベストミックスしていけばいいと思う。
今年から電力自由化され、各社からの売り込みが活発になると思うので、「原発は嫌」という方が原発稼働電力会社から離れていくのは必然です。
他のエネルギーシフトへの研究が、加速度的に進み、いずれ原発より効率のよいシステムが構築されると思う。

一方、安全保障として「核爆弾を持つという選択肢」があってもいいと思う。
好きな歴史で遡っても、非武装中立で安全が保たれた例はない。
今の日本の姿は、戦国時代の「堺」を連想させる。
諸外国と貿易し、富を蓄え、街の周りに堀を築いて防衛に努めましたが、畿内を制圧し幕府・朝廷に大きな影響力を持った三好
氏に資金協力せざる負えなかった。
続いてやってきた織田信長に破格の軍資金を要求され、突っぱねて傭兵部隊で防御しようと思ったけど、軍事力で一蹴されました。
結局、更に多額の軍資金提供を飲まざる負えなくなりました。
そして自立自主できなくなり、信長の属国になりました。

対して、「耳川合戦の大敗北」以降、九州の雄・大友氏は、島津氏に負け続け海城「臼杵城」に追い詰められたが、キリシタン庇護と引き換えにポルトガルから導入していた大砲をぶっ放して、島津軍をなんとか追い返し、海路脱出した。
このように劣勢でも最新兵器の威力は大きい。
北朝鮮が大国に伍しているのも核兵器を持っているからです。

世界第2位3位の大国が、自国防衛をアメリカに依存している姿は異常です。
相互連携しながらも、イギリスやフランスのように、自国開発の戦闘機・ミサイルを装備し、米軍撤退などの状況になれば核武装しないと、「堺」のようになります。

アメリカの戦闘機を買い続けている限り、外見は一緒でもバイクレースのように戦闘力の低いECU(ソフトウエア)を積んだ戦闘機しか提供されない。
ヤマハやホンダのファクトリーチームは、最強ECU搭載バイクでレースに望むが、同じバイクを使っているけど性能の劣るECUしか提供されないサテライトチームは、いつもファクトリーチームの後塵を拝している。

GPSを米国提供の通信衛星に頼っていては、その暗号変更によって瞬時に戦闘能力を失ってしまう。
日本と第三国が戦闘状態に入っても、日本の軍事兵器の命中率は、GPSデータに左右されるから、戦闘の勝敗を米軍がどうにでも出来る。
EUのように、米国提供のGPS位置確認情報から離脱し独自衛星・システムを構築しないと。

「いつでも核兵器独自開発し、核武装できるよ」のオプションを持ち続けるために、最低限の原発は必要なのかもしれない。

2/28・南河内史跡ツーリング8 誉田八幡宮・白鳥神社・白鳥陵墓

15:42、「誉田八幡宮」
祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后の親子です。

『欽明天皇が、応神天皇陵前に営んだ社を、後冷泉天皇の頃(1045~68)に南に109m離れた現在地に移した。鎌倉・室町時代は、源氏の氏神・八幡神を祀る社として幕府の保護を受け興隆したが、戦国期に兵火にあった。その後豊臣氏からの寄進や江戸幕府の庇護を受け、参詣の人で賑わうようになった。源頼朝の寄進を伝えられる神輿や、丸山古墳出土の鞍金具など国宝、重文の「神功皇后縁起」など多数の社宝を持つ』

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六文銭の幟が風になびき、「誉田林古戦場」の石碑が立っている。
『誉田八幡宮付近は、戦略上の要衝であったため再三戦の舞台となった。南北朝初期には、北朝方・細川兄弟の軍と、南朝方・楠木正行軍の間で合戦が行われ、室町中期には畠山政長と義就の間で再三誉田合戦が行われた。1504年に畠山稙長と義英との合戦後の和議が「社前の盟約」が、ここで結ばれた。大坂夏の陣の時は、薄田隼人がこの境内に陣を置き、この地より出撃して道明寺付近で討ち死した』

「姫侍稲荷社」という摂社がある。
戦陣に侍として参加した女将を祀っているのだろう。
『誉田八幡宮拝殿 当面する入母屋瓦葺間口11間・奥行3間の組長い木造建築で、唐破風造りで蛇腹天井となっている。1606年、豊臣秀頼が片桐且元に任じて再建させたものですが、完成間近に大坂の役が始まり8割方出来上がったまま放置されていた。その後徳川家光が完成させた。この拝殿は天井が張られていないので、木組のありさまが観察できる。徳川家によって最後の仕上げをされたので、三つ葉葵の定紋が付けられている』

横に細長い拝殿で、他にあまり見ない。
落ち着いた立派な外観です。
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右近の橘・左近の桜は囲いで守られ、敷藁されて寒気からも守られていた。
拝殿で毎度のお願いをした。
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玉砂利庭を隔てた本殿はかなり立派で格式を感じる。

「誉田」の地名は、大和朝廷の最盛期を治めた「応神天皇」の別名・誉田別尊から来ている。
応神天皇陵墓がある地だから、「誉田」。母親の神功皇后が遠征隊を率いて三韓征伐した往路と復路に対馬に寄り、多くの旗を立てた。
遠征終了後、九州に戻り妊娠中だった応神天皇が産まれ、産屋にも多くの旗を立てた。
「八」は「八百万の神」と表現されるように、「たくさん・いっぱい」という意味があり、「幡」は「旗」の意味を含む。
神宮皇后軍の大勝利の代名詞が、「八幡」となり、九州の「宇佐八幡宮」が八幡社の祖です。

後の世、朝廷の軍事貴族で軍を組織した「清和源氏」が、その祖「清和天皇」が宇佐八幡を信心し、京の都の要衝の地・天王山からの湧水の地に「石清水八幡宮」を勧進した。
その後、対岸の要衝の地「男山」山頂に岩清水八幡宮を移した。
その石清水八幡宮で産湯を使ったという源氏大躍進の中興の祖「八幡太郎義家」にあやかろうと、源氏の氏神=八幡様という構図になった。

ここ「誉田」は、大和盆地と大阪湾を結ぶ要衝の地ということもあるが、「戦の勝利の神様=八幡様=応神天皇=誉田」という構図から、ここに陣を置く・置こうとした武将が多かったからじゃないかな?と脳内想像しています。
こういう歴史ロマンの想像が、たまらなく楽しい。
地名に秘められた歴史を、将来の歴史好きに残すためにも、地名を変えないで次の世代に伝えて欲しい。

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16:07、「白鳥神社」
拝殿に武将の絵馬がかかり、大きめの榊の枝が立てられ、白鳥神社の提灯がいい感じです。
素盞鳴尊と共に古代史のスーパーヒーローのもう一方の看板・ヤマトタケルは、12代景行天皇の子として生まれた皇子ですが、西に東に大和朝廷に敵対する豪族を打ち破り、ついに伊吹山の豪族との戦で深手を負い、伊勢で亡くなった。
白鳥になって舞い上がり、ここ河内に下り陵を作った。

その後、再び天高く飛び立った。
天皇でない皇子という身で、陵墓に指定されているのは、ヤマトタケルだけだったと記憶している。
軍事的行動で、大和朝廷の基礎を作ったヒーローなので、別格の扱いなのでしょう。
その子が14代仲哀天皇で、その子が15代応神天皇と続く。

白鳥陵の近くの白鳥神社だから、めぼしいものがあるかと思ったが、そうでもなかった。
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売店どころか、社務所さえもなく意外だった。

16:19、「白鳥陵」
ヤマトタケルの陵墓。
16:25、「清寧天皇陵」
16:30、「安閑天皇陵」

2/28・南河内史跡ツーリング8 中津姫稜・伴林神社・道明寺合戦

梅林には入園料金がいるようでパス。
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梅の盆栽祭りを楽しんで帰り道、「元宮・土師社」がひっそりとありました。
祭神は、大国主命・野見宿禰命・天夷鳥命。
天夷鳥命がわからなかったので帰宅ご調べてみると、高天原から葦原中津国に派遣された使者で、「大国主に葦原中津国の支配権を天孫に渡せ」との特命だったけど、大国主に惹かれ、反対に大国主を補佐して使命を果たせなかった神でした。

いずれの祭神も出雲族の神で、大和朝廷が鉄を持って勢力拡大していた出雲族と神話を介して平和的に結びついた古代史が垣間見える。
同じく九州で勢力を誇った熊襲は、ヤマトタケルの攻撃を受けて成敗された姿が、記紀に書き表されている。
桃太郎伝説では、桃太郎(大和朝廷)が吉備豪族(鬼)を攻撃し武力で滅ぼした姿が・・・あ~面白い。

梅の木にみかんが挿してある。そういえばさっき、メジロが数羽、梅の花の蜜を吸いに来ていた。
我が家の近所の公園は梅林があり、行くとメジロがいっぱいいるのだけれど、梅が満開になる2月下旬には毎年ウグイスの初鳴きも自宅で耳にする。
鶯の声で目覚める素敵な季節の始まりです。
去年、梅の病気が流行り、植木の産地でもあるので市内の梅の木が全て伐採された。
その関係か、例年なら聞こえてくるはずの鶯の声が聞こえてきません・・・残念です。
3年後の梅林復活を待たなければならないのかな?

14:51、「中津姫陵」
応神天皇の后。
古室山古墳・三ツ塚古墳を間に挟み、夫婦仲良く並んでおられる。

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15:01、「伴林神社」
変な名前の神社です。
『高御産巣日神は神秘的な創造の神で、5代後の大伴連の遠祖・天押日命は、天孫降臨の際ニニギノミコトを先導守護した神です。その3代後の道臣命も神武東征の時軍を指揮した神である。その子孫が永くこの地に住み、大和朝廷の名門として先祖を祀ったのがこの神社の始まりである。867年に官社となり、延喜式にも収載されている。戦国時代の信長の兵火に遭い焼失。神社の維持管理をしてきた伴氏も絶えたので、その後地元民が産主神として再建し、明治の初めに村社となった。
昭和7年道臣命を祀る全国唯一の神社として注目を集め、昭和15年西の靖国神社と称され整備、府社に昇格した。
大伴氏略系 高御産巣日神~天押日命~道臣命~大伴武持~大伴金村~大伴旅人~大伴家持~伴国道~伴善男』

大伴氏の氏神でした。
大伴氏は、淳和天皇の諱が「大伴」だったので、氏の呼称を「伴」に変更したそうです。

小綺麗な境内・拝殿で、右近の橘・左近の桜が整っていた。
橘にはミカンより小ぶりの実が成っています。
橘はイマイチな味ですが、これを改良したのが美味しい温州みかんです。
ここも胡瓜紋。

15:20、「近鉄・道明寺駅」
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藤井寺観光案内図があり、「大坂夏の陣・道明寺合戦記念碑」が立っています。
『豊臣方・徳川方の最後の決戦が始まった慶長20年(1615)、泉南地方・八尾・若江など各地で大きな戦が繰り広げられていた。
その中で、大坂の関ヶ原とも言われる激戦が、「道明寺の合戦」である。
5/6未明、大坂城を出た後藤又兵衛基次は、徳川方の出鼻をくじくため河内国分へ2800の兵を進めた。道明寺に着いた又兵衛は、石川を渡り小松山に登り河内国分を見下ろすと、そこには既に数万の徳川軍が集結を終えていた。果敢に挑んだ又兵衛は、戦果を上げたが多勢に無勢、水野勝成や伊達政宗の軍勢に圧っされて自刃、隊は壊滅した。
勢いづいた徳川軍は石川を渡り道明寺へ進軍。遅れて到着したう薄田隼人や明石全登が迎え撃つも勢いが止まらず、薄田隼人は討ち死。崩れかけた豊臣軍を立て直したのが真田信繁(幸村)。誉田八幡宮付近に陣し、伊達政宗の武将・片倉小十郎重長が攻め立てるも両者譲らず膠着した。
そこに、八尾・若江の戦線で豊臣軍が防衛戦を突破されたとの知らせ。これを受け、戦線縮小し大坂城の守りに転じるべしの毛利勝成の采配で、戦の舞台が天王寺へ移された。殿軍を務めたのが幸村でした。翌日、真田幸村は壮絶な討ち死をし、大坂城が陥落する』

「薄田隼人の墓」に参ろうと探したのですが、発見できませんでした。

南河内歴史ツーリング 5/6

2/28・南河内史跡ツーリング7 道明寺天満宮

バイクに乗り、14:17「道明寺天満宮」
道明寺から回ってくる人が多い。
しかも細道なのに交通量が多い。

『菅原道真公ゆかりの神社で、古墳造営など土木技術に長じた土師氏の氏神と成立した。古くは土師神社と称し、菅原道真公・天穂日命・官公の叔母・覚寿尼を祭神としている。官公の遺品として銀層革帯(ベルト)や青白磁円硯など平安時代の美術工芸品が伝えられ、国宝指定されている。
広い境内には80種・800本の梅林があり、梅の名所として知られる。三ツ塚古墳周濠より出土した修羅の復元品がある』

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「わくわく南河内」と染め抜かれた幟が立つテントがある。
黄色のスタッフジャンパー着用のスタッフが、テントで受付をしている。
どうやら、朝からたくさん見かけたスタンプラリーのゴールのようです。
完歩者には記念品があるようだ。

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ベビーカステラなどのテキ屋が並んでいる。
仕切り屋とか暴力団の資金源とかいろいろ言われているが、僕はこの夜店や祭りでテキ屋が並ぶ光景が好きです。
「フウテンの虎さん」の世界。

大河ドラマ「真田丸」の拝み看板が立っている。
年末のクライマックスは、「道明寺決戦」だろう。
ここで後藤又兵衛・薄田隼人が討死した翌日、真田幸村も討死している。

神前結婚式の宣伝看板がある。
昨年末に次男が神前結婚式を挙げたが、素晴らしかった。
お嫁さんの綿帽子をかぶった姿が美しく、披露宴ではウェディングドレス姿でお父さんとバージンロードを歩くシーンも有った。
和洋折衷のメニューを自由に選択でき、神前結婚式も変わりました。

道真さんの代名詞・なで牛の像もあり、さざれ石もあった。
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檜皮葺の立派な拝殿だったが、お参りの方が大勢並んでいたのでパス。
梅が満開の季節だから、参拝者が多いのでしょう。

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宝物殿があったので入ってみる。
入館料・300円を巫女さんに渡す。
前述の国宝などが展示されていた。

「わかりやすい天神信仰・学問の神様・800円」「伊勢の神宮・ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて・1800円」を購入。
見本を立ち読みして、写真も多く読みやすいので、知ってることが多いのだろうが読んでみようと思う。
バラバラの知識に縦糸が通りそうです。

倭姫は、古代史のヒーロー・ヤマトタケルの叔母で、垂仁天皇の娘。天照大神の斉宮となり、三種の神器を持って大神を祀る地を探し歩いた。
各地の元伊勢を経て、伊勢神宮に祀った。
古代史のヒロインの一人。
ヤマトタケルが東征する時、素盞鳴尊がヤマタノオロチ退治した時に得た天叢雲の剣を授けた。
ヤマトタケルは焼津で周囲から火を放たれ危機に陥った時、その剣で身近な草を払い、こちらから迎え火して逆襲した。
以降、草薙の剣と呼ばれるようになる。

キリストと同年代を生きた11代・垂仁天皇は、アマテラスとスサノオ兄弟の誓約の時、スサノオがアマテラスの首飾りから産んだ男神・天穂日命の子孫で出雲族の怪力・野見宿禰を朝廷に呼び、怪力・當麻蹴速と相撲で勝負する。
野見宿禰が勝利し、當麻の領地を貰い受け、相撲の神となる。
垂仁天皇の后・日葉酢媛命の葬儀に際し、殉死の風習を改め埴輪を埋葬することを提案し、以降埴輪作り・古墳・埋葬の任につく。
その時職人として出雲より呼び寄せた同族が土師氏(地名として各地に残る鋳物師同様、職業を氏の名とした)と称し、菅原道真に続く。
古市古墳群の造営にも主体的に関わっていただろうから、ここから日々通っていたのでしょう。
僕のルーツを古代史・古事記日本書紀の世界まで遡る逸話なので、これに関係する謂れを読むとワクワクする。
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天満宮門前に、「土師窯跡」と説明文が彫られた石碑があった。
「お~、ここで古墳に副葬する埴輪を焼いたのかも」なんて、想像の翼を広げた。

ところで10000円札でお釣りをもらったのだが、800円+1800円=2600円は出来たが、10000円-2600円=7400円の計算に時間がかかりあやしかった。
女性は計算に弱いというが、小学生の計算問題ぐらい暗算で即答しようよ。
外国に出れば、マイナス計算に弱い方も多いけど、日本人なら・・・。
僕はどうも、小中学生の基礎学力の低い方が苦手です。
好き嫌いの多い・箸の持ち方が美しくない・鉛筆の持ち方が変・挨拶できない・・・100年の恋も一瞬で冷めてしまう。
美形の女子高校生・大学生のアルバイト巫女さんの感じがしたが、実に勿体無いよ。

2/28・南河内史跡ツーリング6 道明寺

13:43、「古室山古墳」
円墳で斜面に梅が咲き誇っている・・・綺麗だな。
頂上に人が見えるので登ろうと歩き出すと、降ってきた女性に、「この近くに大きな古墳があるはずなんですけど知りませんか?」応神天皇陵を教えてあげた。
頂上に登ると周囲が見渡せ、円墳ではなく前方後円墳でした。
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10人ほど上がっており、下草が刈られた前方の方にも歩いていけるので、ピクニックのお弁当タイムに良さそう。

『出土した円筒埴輪の特徴から、仲津山古墳(仲姫命陵)や誉田御廟山古墳(応神天皇陵)より先行して築造されたと考えられ、古市古墳群の中では初期に築造された前方後円墳の1つに挙げられる』

13:56、「三ツ塚古墳」
「仲津山陵陪塚/宮内庁」の石柱が立っていたので、おまけ的な古墳のようです。
バイクに戻り前の交差点を見ると、「道明寺」と書かれていた。

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その看板に従って右折し、14:01「道明寺」
お寺というより、大坂夏の陣のハイライト「道明寺合戦」のあった地ということで、僕にとって特別な地です。
紅白の梅が咲いている。

『当寺は菅原道真公が信心込めて刻まれた国宝十一面観世音菩薩像をご本尊とする古義真言宗の尼寺です。聖徳太子がこの地に尼寺を建立されるに当たり、代々仏教文化導入に積極的であった土師という人が邸宅を寄進し、東西320m・南北640mという広大な境内に、五重塔・金堂など7伽藍の完成を見た。当寺の前身は「土師寺」で、菅原道真公が「道明寺」と呼び改めた。数多くの仏像・教典・美術工芸品・薬品などを宝蔵している。土師氏の後裔・菅原道真公が大宰府に下向される時、叔母を訪れて当寺に立ち寄った。戦国時代に入り焼失しましたが、信長・秀吉・徳川代々将軍の庇護によって復興成った。明治5年、神仏分離令によって堂宇一切を天満宮境内より移し、境内の拡張を経て、大正8年に本堂の落成を見た。建立以来1300年、法灯絶えることなく少ない尼寺として今日に至るは、皆様のご信心の賜物と存じます』

古墳群訪問を思い立ったのは、僕の先祖でもある土師氏の職能が、天皇家の陵墓造営や埋葬品である埴輪製作であったからです。
渡来系出雲族出身の土師氏の偉業を訪問することで、僕のルーツを感じたいと思っている。
最寄り駅は近鉄・道明寺だけど、そのお隣の駅が近鉄・土師ノ里。

古墳群の中に土師氏の名が残るこの地を訪問して、同じく先祖の菅原道真公と土師氏がまた結びついた。
道明寺が尼寺であること、土師氏が敷地を提供したこと、元は土師寺であり道真公が道明寺と変名したこと・・・個人的に素晴らしい発見でした。

境内に入ると、石造多宝塔とその前に立つ石碑が目についた。
石碑には横文字で謂れが書かれている。
日本語の謂れ板も立っている。
『昭和4年(1929)に、藤沢製薬初代社長・藤沢友吉が建てたものである。1914年、セルビアの青年が発した一発の銃弾から第1次世界大戦が始まった。5年に渡る長い戦いで多くの犠牲者を出し、ようやく平和が訪れた。この平和が長く続くことを祈願し、大正7年(1918)亡父の17回忌供養にあたって、道明寺本堂落成を記念し建てた。石碑の下には、大戦の激戦地・フランスベルダンの鮮血に染まった土が、同市長から寄贈され納められている。 /藤沢薬品工業』
石碑の刻まれた横文字は、ベルダン市長からの感謝の一文のようです。

本堂にお参りしました。
本堂前に香炉があり、お線香の香りが気持ちいい。
香炉鉢に菅原氏の梅八紋が彫られている。
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香炉を雨露から凌ぐ屋根の下にも、梅の彫刻。
更に屋根を支える四柱に、獅子の彫刻が入っている。

僕同様これに興味を持った男性が、同じように写真を撮っている。
あれやこれや自然にお喋りが始まった。
一期一会が、いいね。

道路を挟んで東側にそれらしい建物が見えるので、こちらが道明寺天満宮のようです。
長い塀が続き、入口がわからないので北から歩いてこられた方に、入口があったか聞いてみたが、北側にはないそうです。
でも地図を持っておられ、入口の場所を教えてもらった。
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この道は、「東高野街道」だった。

2/28・南河内史跡ツーリング5 仲哀陵・野中寺・応仁天皇陵

12:23、「仲哀陵」
フェンスを開け閉めし、濠沿いの道に入る。
広い濠だけど、渇水で底が見えている。
農業用水池のように、冬季は水を抜いて水のくさりやヘドロの除去をしているのかな?
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宮内庁藤井寺部事務所の脇に用船があり、ロープで陵に行けるようになっている。

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「仲哀天皇恵我長野西陵」
ここで、如何にも古墳ハンター・史跡ハンターと思われる年配の女性に会った。
激写している。
1人だけど、とても楽しそう。
僕は古墳ハンターではないけど、歴史遺産好きという点で、笑顔の気持ちがわかる。
お互いがそれを感じたのか、初対面にもかかわらず満面の笑みで会釈。

フェンスの外に出て、バイクの準備をしていると、先ほどの女性がフェンスの向こうを歩いてきて、また満面の笑み。
会話はなくても、何もない古墳を1人で激写している人は、極度の歴史好きに決まってるので、お仲間を感じる。
声を掛けちゃうと、きっと話が止まらなそう。

昼食にしましょう。
さっき見かけたミニストップに停め、店内を覗くとイートインスペースが有る。
12:34、ミニストップ藤井寺4丁目店。
手巻辛子明太子130円を買ってイートインへ。

気温が上がり、汗をかいているので、トイレに行ってタイツも脱ぎます。
セーター・ネルシャツも脱いで、冬用プロテクターバイク装束の下は、パンツ・半袖シャツ・丸首長袖シャツのみです。
おにぎりを食べ終わり、
12:43、スイートバニラワッフルコーン・172円を食べます。
2月なのにアイスで、クールダウンです。

12:57、「野中寺」
駐車場に入れると横に神社があります。
「野々上八幡神社」
隣接しているので、明治維新までは野中寺と神仏習合していたのでしょう。
野中寺の山門は仁王門になっていますが、大雑把な仁王様で、彫刻としてみたらあまりに残念な姿でした。

『当寺の創立は蘇我大臣といい、聖徳太子建立46院の1つ。正倉院文書によれば、当郷は百済系渡来氏族・船央後の船連の本貫であるから、その氏寺であったことが察せられる。創立年代は境内内出土瓦から、飛鳥時代である。旧伽藍跡の礎石配列は、対抗する東の金堂と西の塔婆を中心とするもので、その伽藍配置は野中寺様式と称すべき特徴がある』

『東面する塔婆と金堂が向き合っていた。一般的に塔が西にあり、金堂が東にある配列は法隆寺に類するが、法隆寺の場合、堂塔が向き合わず、塔も金堂も南面している。堂塔が向き合う形は川原寺に見られるが、野中寺の配置とは金堂と塔が逆である。このことから、野中寺は飛鳥期に多い四天王寺の配置方法より新しく、法隆寺より古い形態で、白鳳期の官寺に用いられた川原寺の変形配置が用いられたと考えられる』

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境内に石棺があり、ちょっとびっくり。
『ヒチンジョ池西古墳石棺 二上山で採れる凝灰岩を精巧に加工して、10個の石材を組み合わせて作られている。内法は、長さ2.4m・幅1.1m・高さ1m。中から銅製の釘、漆の膜、木の破片が見つかっているので、漆塗木棺が安置されていたものと考えられる。7世紀終わりか8世紀初め頃のものと思われる』

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地蔵大菩薩堂の中を覗く。
「お染久松の墓」がある。
近松門左衛門の「曽根崎心中」だったけ?曽根崎とはえらく遠いな?と思い帰宅後調べると、別の方の世話物作品でした。

13:13、「法泉禅寺」
「厄除子安観世音」の石柱も立っている。

13:17、「仁賢天皇陵」
13:25、「はざみ山古墳」

13:35、第15代「応神天皇陵」
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日本最大の前方後円墳「仁徳天皇陵」に次ぐ第2位の巨大古墳です。
水濠も立派だし、中の古墳は背が高く里山に匹敵する見上げるほどの古墳でした。
さっき訪問したお父さんの仲哀天皇より、圧倒的に大きい。
因みにお母さんの神功皇后の陵墓は、奈良市街地北西にあり、やはり仲哀天皇より大きいと感じた。
年配の女性2人連れが2グループおり、さすが第2位ともなると古墳訪問観光客がいるものだ。
応神天皇が人気なのかな?
因みに、16代・仁徳天皇は応神天皇の息子です。

南河内歴史ツーリング 4/6

2/28・南河内史跡ツーリング4 葛井寺・辛国神社

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11:45、「葛井寺」
「ふじいでら」と読みます。
現在の「藤井寺」地名の元のようです。

『紫雲山葛井寺 河内飛鳥時代に、百済からの渡来者によって繁栄した。王仁一族の辰孫王が葛井連と改姓して、氏寺として創建した。在原業平も葛井氏の末裔のようです。南北朝時代は、後醍醐天皇・村上天皇が帰依され、楠木正行が1347年自軍700を率いて東寺に駐屯し、北朝方細川軍7000を破った「藤井寺合戦」があった』

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立派な仁王門があり、裏側には地獄絵図屏風が飾られている。
烏樞沙摩閣を利用します。
「 うすさまかく」と読み、トイレです。
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「東司」の表示はよく目にしますが、「うすさまかく」は初めてです。

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戦後、漢字が一気に簡素化され、学校で教えてもらう漢字の数も減りました。
中高生の頃が最も漢字を覚えていた時代だと思いますが、戦前の教育を受けた親父には敵いませんでした。
英語などは全然ダメでしたが、漢字に関しては素晴らしかった。
略字化された現代漢字と略字前の漢字を併記し、その違いを教えてくれました。
親父なら読めたのだろうか?

ここにも弁天池があります。
世の中の人は全て母親という女性・弁天様のお腹を痛め生まれ、愛情を受けて育ちます。
息子たちが夜泣きしたら、サッと目を覚まし抱き上げる家内を見て、女性には敵わないなと思いました。・・・大切にしなきゃ。
重文指定されている本堂で、毎度のお願いをする。

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11:59、「辛国神社」
『延喜式収載社。カラクニという社名から、渡来系氏族との関連が想定される。近世は旧丹南郡岡村の村社として祀られ、絵図にも氏神と描かれている』

『創建は古く、雄略天皇の時代に創建された。日本書紀に、「雄略天皇13年、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とあり、この地を治めることになった物部氏が、祖神を祀ったのが始まり。社名の由来は様々ありますが、物部氏が滅んだ後、一族の辛国連が関わり、辛国神社と称するようになったと伝えられています。清和天皇の時代に官社となり、平安時代は格式ある官社に列せられる。室町時代には、河内国守護・畠山氏が社領200石を寄進、春日大社から天児屋根命を勧請合祀した。明治時代には、近所にあった長野神社祭神・素盞鳴尊を合祀した』

辛国とは変な名前だなと思っていたが、予想通り「韓國」から来たようです。
ここまで寄った寺社に多く登場した渡来系氏族が、とうとう物部氏にまで結びついた。
神武天皇の東征以前に大和盆地に入った氏族と言われ、軍事貴族として隆盛を極めた後に、新宗教・仏教を基盤に国造りをしよとした蘇我氏と路線対立し、蘇我氏将軍・聖徳太子に現在の大坂城周辺にあったという物部守屋邸を攻められ滅んだ。
先進の中国大陸・朝鮮半島からの技術導入のために、半島系氏族が活躍した。

律令制でいう河内国は、大和盆地の首根っこだから、半島系氏族の影響力が絶大だったのだろうと想像した。
任那や百済など日本贔屓の国が新羅に滅ぼされた時、多くの難民が日本列島に逃れてきたのだろうし、積極的に登用したと容易に想像できる。
ここまで半島系氏族の濃い史跡を巡ってきて、「河内国・かわち」の名自体、韓國・カラクニからの変化のような気がしてきた。
多分ビンゴでしょう・・・歴史脳内想像が膨らんで楽しい。

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拝殿前で、赤いボルボが4ドア・リアゲートを満開に開けていた。
変だなと思って近づくと、お祓いを受けていた。
新車を買われたのでしょう。
僕はしないが、こういう信心をする方も多いです。
春日稲荷社が摂社としてあった。

「社殿造営30周年事業への寄付」を募る立て札が立っていた。
玉垣を建立するようです。
我が家も氏神様の玉垣事業で、玉垣を奉納した。
親父の奉納した玉垣は割合目立つ所に立つ。
小学生だった僕の名が入った小ぶりの玉垣もあったが、目立たないとこにあったので場所を忘れてしまった。
親父が、嫡男の僕のために寄付をしてくれた。

今年、孫に親父のそれを教えると、横で聞いていた息子たち2人共その存在を知らなかった。
親父の名前が刻まれた玉垣を写真に収めていた。
親父も僕も、今まで言っていなかったんだとびっくりした。
名前がずっと残るのはいいね。

造営30年の本殿は綺麗でした。
脇の祭神には、宗像三神「市杵島姫命」も書かれていた。
仲哀天皇の后で応神天皇の母である古代史のスーパーウーマン・神功皇后の三韓征伐で有名な玄界灘の宗像三神も、韓國と関係があるね。
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賽銭箱に金色の「上り藤紋」
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「一願成就参り」の案内板があり、伊勢神宮の遥拝所もあった。
神前結婚式も写真入りで宣伝している。

2/28・南河内歴史ツーリング3 善光寺・雄略天皇陵・大塚山古墳・大津神社

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10:38、「善光寺」
「日本最初・善光寺如来」と書かれています。

『現在、浄土宗に属し、南面山無量寿院善光寺と称します。本尊は、信濃・善光寺と同じ一光三尊仏・阿弥陀如来です。7世紀初頭、本田善光によってもたらされた仏像を本尊として、白山古墳の南側に寺院を建立したとされていますが、渡来系氏族・津氏によって建立されたと出土軒瓦から推定できます。その後、三好氏の小山城とともに焼失・廃寺となりましたが、江戸慶長年間(1596~1614年)に現在地に再興された』

織田信長と、畿内を基盤に幕府を動かしていた三好氏との戦いでしょう。
鬼瓦や鯱瓦がいい感じで、屋根の様式が、江戸時代建立の割には、平安より古い奈良朝の様式を感じる。
施工者の土地柄だろうか。
藤棚があり、干からびた鞘が下がっている。

『当山は、歴史上有名な本田善光の伝説を持っている。推古天皇の御代、本田善光が信州への帰路、難波の堀江で立派な仏像をを拾い、これを負うてこの里の小堂で宿泊した。住職の隆聖法師が、その仏像を所望したが1体しかなかった。3日3晩2人で熱心に供養したところ、一光三尊仏が2体になり、1体を河内にお祀りし善光寺とした』
信州善光寺の本尊に、このような謂れがあったとは知りませんでした。

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10:58、「雄略天皇陵」
21代天皇で、周辺諸国を武力で攻略していった評判の良くない方です。
豪族としての天皇家が、武力拡大していった時期のようです。
周囲を水濠で囲った典型的な古墳です。

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11:05、「吉村家住宅」
庄屋さんが開放されていると思ったのですが、庭にも入れませんでした。
塀から茅葺き屋根を見ただけ。
『江戸時代初期の民家を代表する建物で、主屋・表門(長屋門)・土蔵・土塀が国の重文指定。近在18ヶ村の大庄屋を務めていた』

雄略天皇陵の頃から、ハイキングの集団を見るようになりました。
自治体や旅行社が主催している感じがする。
とにかく数百人規模のように思える。
同じ集団がこちらにも流れてきているので、歴史スタンプラリーでもしているのかな?
良い天気で暖かく、最高のハイキング日和です。

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11:16、「大塚山古墳」
水濠を有する大きな古墳です。
封鎖されているが、水濠を渡り墳墓に続くコンクリート橋がつけられている。
『東除川と西除川に挟まれた台地上に築かれた大型前方後円墳で、陵墓参考地として宮内庁が管理している。後世に砦が築かれ当初の地形が変わっている所もあるが、幅の広い水濠を隔てて望む姿は雄大です。全長335m・後円部の直径180m・高さ20m・前方部の幅230m・高さ4.5mで、全国5位の規模を持っていますが、埋蔵施設の構造や埴輪の有無の詳しいことはわかっていません。古墳が造られたのは、畿内で前方後円墳の構造が終わりを告げようとする6世紀前半と推定する説が有力。それだけになぜこれほど大きく造られたのか、埋葬人物は誰か、古市古墳群の中心からやや離れた場所に造られた理由など、古代史を考える上でも重要な問題を持つ古墳として注目されている』

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11:27、「大津神社」
摂社「大宮稲荷社」「弁天宮」を見て、謂われ板発見。
『延喜式・927年に記載され、天皇から進物を受けていた由緒ある神社です。古代には「古市大溝」という人工水路が近くを流れていたことから、当初はこの地を本拠地として西国からの貢物輸送に関わっていた渡来氏族の津氏が、祖先神を祀った社であったと見られている。江戸時代は丹下9ヶ村の氏神として崇拝され、現在は素盞鳴尊・奇稲田姫夫婦神・天日鷲命・大山咋命・菅原道真公が祀られている』

「津」は、現在の「港」を表す言葉なので、大きな港があったはず。
飛鳥・奈良時代は、奈良盆地から大阪湾に流れる大和川が、生駒山系の南を西に出てから、大きく北上し、現在の大坂城の東で淀川に合流していた。
大坂城の建つ上本町台地は当時岬の北端で、瀬戸内海をやってきた船はその岬を交わし、大和川を遡り、内陸部のこの地までやってきた。
船の大きさを小さくして更に大和川を遡って大和盆地に入る物流が確立していた。
荷の大きな集積地であったようです。

そこに利権を持ち一手にその仕事を握っていた津氏が、守護神としていたようです。
多くの荒くれ力持ち男衆を抱え、神戸港の荷役作業を一手に引き受け巨大化した山口組のように、港には男衆の集団がつきものです。
津氏をそんな現代の港の姿と重なって脳内想像されました。
ここでももちろん、僕の男の子願望をしました。

南河内歴史ツーリング 3/6

2/28・南河内歴史ツーリング2 八尾空港・津堂城山遺跡

連歌所の建物があった。
拝殿で、「丈夫な男の子を2人お願い致します。初孫くんの健やかな成長、妊娠中のお嫁さんたちの健康、2人の息子一家がニコニコ暮らしていけますように」と、毎晩仏壇・マリア様・神棚にお願いしていることをお願いした。
織田信長と同じ胡瓜紋。

拝殿裏に回ると、三社並びの本殿があった。
第1本殿は「牛頭天王」だった。
明治維新以前、「てんのう」と言えば「牛頭天王」で、「天皇」は意識されなかったそうです。
現代の耕うん機に匹敵する農耕に便利で家族同様だった牛は、生活に密着していた。

父の実家は庄屋だったが、自らの耕作地もあり、戦後の農地改革でそれだけは残った。
母屋の隣は家畜舎で、鶏・牛・ヤギがいた。
夏休みの数週間僕はそこで暮らし、朝玉子を取りに行き、ヤギの乳を飲んだ。
昼間鶏は屋敷内をウロウロし、中庭での従兄弟との野球の邪魔になった。

吉岡稲荷大明神・十柱神社・祖霊田村社・恵比寿神社などの摂社を巡り、社務所で「幸村ゆかりの地・平野区」というパンフレットをもらった。
安藤正次墓所(大坂夏の陣で将軍秀忠の伝令として活躍するも討ち死)、
杭全神社(征夷大将軍・坂上田村麻呂創建、連歌所は大坂冬の陣で破却)、
大念仏寺(大坂冬の陣で家康が武運長久を祈願)、
志紀長吉神社(大坂夏の陣で真田幸村が刀剣と六文銭の軍機を奉納し必勝祈願した)、
平野郷樋尻口門跡(道明寺合戦に敗北した真田幸村は大坂城へ退却した。自軍を追う家康は平野で休憩すると予測し、樋尻口の地蔵堂に地雷を仕掛けた。案の定家康が現れ地雷が爆発しようとしたその時小用でその場を離れ九死に一生を得た)、
全興寺(樋尻口地雷爆発で飛来した伝説を持つ「首の地蔵尊」がある)、
真田幸村休憩所(大坂夏の陣で伊達政宗と一戦した真田幸村が休憩し、志紀長吉神社に必勝祈願した)
が紹介されていた。

志紀長吉神社周辺の幸村史跡は巡ったけど、平野周辺はまだ巡っていない。
平野郷樋尻口門跡はどこにあるのかな?地図が載っていないのが残念。

R25を南東に走り、八尾に入ってr2。
9:31、「八尾空港」着。
フェンス越しに滑走路を見ると、セスナなど小型機が駐機している。
先頭の機のプロペラが回っており、後続の双発の機が滑走路に出て行った。
「大阪航空株式会社」、ロビンソンヘリコプター日本総代理店となっており、「Learn to fly Here」の看板も上がっていた。
「朝日航空株式会社」、ちょっとリッチにスカイクルージング・遊覧飛行、体験飛行コース3800円、あなたもパイロットになりませんか・飛行クラブ会員募集中。
高所恐怖症の僕には無理そうだけど、面白そう。

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大阪市消防局航空隊建物横の滑走路に、消防局の赤いヘリが停まっている。
国土交通省の国道・大阪航空局・八尾空港事務所、気象庁八尾航空気象観測所の建物がある。
管制塔もある。

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展望デッキはなさそうなので、空き地からフェンス越しに滑走路を見に行くと、第一航空の小型ヘリコプターが準備中のようです。
教習ヘリかもしれません。
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格納庫内を覗くと、小型ジェット機が牽引準備中です。
飛ぶのかな?

ジェット機が出てきて、燃料車がやってきて燃料補給し始めた。
ヘリの方には、おじさんが乗り込み、チェックボードを持った職員さんが外から見ている。
別の職員さんがやってきて、横の席に乗り込む。
やはり教習中のようです。

エンジン始動し、1mほど上がり、滑走路をその高度を保ちながら進みます。
やがてエンジン音が上がり、飛び去って行きました。
ジェット機の方にも、人が乗り込み発進準備を始めたようです。
僕が見始めた時は1人だったけど、小さなお子さん連れの家族がやってきて、その後航空ファンと思える一眼レフを持ったおじさん達が増え、総勢10人ほどになりました。

r2に出て南下。
10:25、津堂城山古墳。
『古市古墳群の最北部に位置する前方後円墳。竪穴式石棺が発見され、鏡や銅鏃などの副葬品も出土した。副葬品の種類
や円筒埴輪の特徴から、古市古墳群最古の4世紀後半に造営されたことがわかる。
二重の濠を持ち、外提に葺石が施してある。全長400mを越える大古墳で、コハクチョウの実物大3体の水鳥埴輪があたかも壕内を遊泳しているような姿で据えられている。古市古墳群内に築かれた初代の大王陵とかんがえられる』

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冬だからか、濠に水がありません。
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花壇みたいになってる所もあるので、年中水のない部分もありそうです。
でも立派な古墳です。

古墳内に「津堂八幡神社」があるので訪問します。
『1575年、織田信長の河内攻めの時、古墳上にあった城と共に他の場所にあった神社も落ちた。1720年、古墳上に再建された』
と書かれていました。
足利義昭を奉じて畿内・都に上った織田信長軍と、畿内を押さえていた三好軍との攻防戦ですね。

南河内歴史ツーリング 2/6

2/28・南河内歴史ツーリング1 大阪平野・杭全神社

家内が用事なので、1人遊びです。
ツーリング・グループの予定を見ると、目的地は近場のグルメ。
10名以上の大入りで、う~む。

世界遺産登録を目指してる河内の古市古墳群を観に行くことにしました。
河内は、奈良盆地から大阪湾に出るためには隔てる生駒山系の大阪湾側にあり、必ずここを通ります。
生駒山系の北と南の交通路を含みます。
北は京都との関係もあり、古代から近世にかけての要衝の地です。

よって魅力的な歴史遺産が多い。
奈良盆地から、大和川が生駒山系の南を大阪平野に流れ出る藤井寺・羽曳野地区の歴史遺産をピックアップし、巡ることにします。

7時前に階下に下り、朝食・準備・冬装束を整え、「里山VTR250」に積み込みます。
空気圧は、ゲージ付きキャップなので一目瞭然で、簡単にチェック出来良い。
7:53に出発。
r13を南下し、R43を東進して弁天町を通過。
天王寺・阿倍野から、R25になります。

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8:50、「杭全神社」着。
以前から、前を通る度に気になっていました。
JR関西線・平野駅近くで、天王寺寄りのR25の交差点名に「杭全」という地名があり、歴史の古さを感じさせる。
立派な鳥居の所にバイクを置き、散策開始です。

『9世紀平安時代の初め、平野郷の守護神として奉祀された。14世紀に後醍醐天皇の勅命で勧請され、現在の規模になった。古くは、祇園社・熊野権現社と称されたが、明治3年杭全神社と改称された。大門は鎌倉時代の建物、第1殿は春日大社本殿を1711年に移築したもの。第2・3殿は1513年建造で、大阪市内最古の建造物で重要文化財指定されている。連歌所は1708年再興された建物で、中世平野郷の文化的水準の高さを伝える』

石鳥居横の大きな建物も社殿かと思ったが、新興宗教・金光教の建物でした。
参道を歩いていきます。
噴水の上がる池の中の小島に祠が立っている。
典型的な弁天池です。

天満宮の摂社もある。
筆塚もあった。
忠魂碑も立っている。
先の大戦で、多くの国民を失ったので、軍部の暴走など当時の日本を否定する論調が多いけど、国のために戦った方の魂を鎮めるのとは別物です。
それに、敗戦により民主主義国家になったとの論調もあるが、明治維新で封建国家が終了してから、日本は議会制民主主義だったのだから、先の大戦も間接的には国民の総意であったわけです。

戦前の日本の全面否定ではなく、教育勅語など良い所を先入観なしに見なおして欲しいと思う。
GHQが、有色人種中最強国家を作った日本人を貶める政策を取り、再浮上を妨げようとした政策を全面的に是とすると、太古より営々として築き上げてきた日本独自の良さを葬り去ってしまい、実に勿体無い。

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樹齢1000年・樹高30m・周囲10mの大楠の木があった。
大阪府指定・天然記念物。
こういう樹齢の大木が、神の住む神域として市街地に残している日本文化が素晴らしい。
産業革命で石炭がエネルギーとして台頭する以前は、エネルギーといえば木材だった。

飛鳥以来、都が点々とした原因の1つに、周囲の山が旺盛なエネルギー需要によって禿山になったことがある。
それにより山の保水力が落ち、水害により都市が荒らされ、疫病が流行した。
生活に重要な水源などを神域指定し、乱開発を防止し、後世の子孫の生活の基礎として残した日本人の知恵・文化に頭を下げてします。
僕らは自らの足で稼ぎ立っているように見えるが、先人の子孫を思う知恵によって、この地で生活し続けられる基盤の上に立っているに過ぎない。

「育メン」が脚光を浴びているが、そのために育児に絶対必要でもない父親が、長期休暇を取って1日中側にいる必要があるのだろうか?
核家族化が進み、週休2日にしたことで長時間労働が必要になったからじゃないのかな?
日曜休み・土曜日半ドン・他の曜日は1時間早く帰宅の時代の方が、子育てに余裕があったように思う。

おっぱいをあげるために絶対に必要な母親と子供のために、しっかり稼ぎ、次世代に残す基盤を整えるのも立派な育児・育メンに思える。
自分の仕事の代理が利く職種や人材豊富な大企業ならともかく、家庭内で誰も働かなければ生活費がなくなるのが当たり前。

生活保護・健康保険・年金・・・様々な社会基盤システムは、先人が残してくれた。
僕らは後世に何を残せるのだろう。

南河内歴史ツーリング 1/6

百田尚樹・「影法師」

「影法師」百田尚樹 講談社文庫 ★★

ふと目に留まった百田尚樹さんの著書。
意外にも、百田尚樹さんからは遠いと思っていた「時代小説」だったので、興味を引いた。
僕の最も好きな作家・藤沢周平さんを模したものか、江戸時代の架空の藩を舞台にした小説でした。
藤沢周平さんほど当時の言葉を使わないし、サムライやご息女の凛とした生き様は軽めになっているが、とても読みやすい。
藤沢周平さんのファンなんじゃないかな?と、親近感を持ちました。

もう戦乱の世は遠くなり、武士の世界も腕っ節一つで成り上がれる時代ではなくなった。
まして大名家を渡り歩き、現代のプロスポーツ選手のように年俸を飛躍的に上げていくこともできない平和な時代になった。
身分制度が確立し、最上位に位置する武士階級でさえ、戦国の世の先祖の功績のまま上士・中士・下士の身分制度が固まっていた。
どんなに勉学に励み、如何に剣術が優れようとも、下士は父親の跡を継ぎ家禄を守るのみの世界。

そんな世に、下士の嫡男として生まれた戸倉勘一。
幼い時に、父に連れられ妹と共に川に釣りに行った帰り、上士に土下座の礼を取らなかった兄弟を庇い、父が斬られる。
お家取り潰しは免れるが、勘一が出仕するまで家禄を半減させられてしまう。
この時、父の遺体を丁重に扱ってくれたのが中士・磯貝家だった。
ここで後の竹馬の友となる磯貝彦四郎に出会う。

藩校に通う金が家にないので私塾に通い、道場に通う金がないので庭で独学で剣術稽古に励んでいる。
私塾の成績が優秀ゆえ、先生に藩校への入学を勧められるが金が無い。
非業の死を遂げた父親も頭脳明晰だったので藩校に入ったが、下士からの入学はほぼゼロの世界だから、虐めにあい退学した。
その無念を注ぐチャンスであったが・・・。
それを母親に打ち明けたら、金を工面され応援される。

案の定虐めにあったが、それに屈せず体当たりで上士の子に反抗し、ついに怖がられいじめられることがなくなった。
この時、最初に勘一の筋の通った立派な行動を見て、真っ先に友達になってくれたのが、前述の磯貝彦四郎だった。
磯貝の引きで、藩内トップの剣術道場に通うことになる。

彦四郎は、同年代で剣術も学問も飛び抜けていた。
後に数年に一度の藩主の前での天覧試合でも優勝した。
家督を継げない中士の次男坊ではあったが、いずれ婿入りし大を成すと、将来が嘱望される存在であった。
しかし、彦四郎は思いもかけないことで脱藩してしまう。
対して勘一は、数度の危機を乗り越え名を挙げ、中士の養子となり、異例の出世を遂げて、代官・側用人・江戸家老を経て、筆頭
国家老にまで出世した。

筆頭国家老を拝命し、二十数年ぶりに戻った国元で彦四郎の消息を知ったが、すでに竹馬の友は世を去っていた。
あれだけの秀才が何故、思いもかけない事件を起こしたのか?
あれだけの剣術の持ち主が、何故上意討ちに失敗し職を解かれたのか?
それを探っていくうちに、勘一の今の立場の影に彦四郎がいたことを知る。

藤沢周平の「蝉しぐれ」を髣髴とさせる素晴らしい物語だった。
このような物語は何時の時代でもあるだろうが、身分制度他、がんじがらめの日本の歴史史上最も庶民が夢を抱けなかった江戸時代を背景にすることで、時代をしなやかに生き、しかも凛とした品位を持って生きる日本人の姿が際立つ。

蝉しぐれ同様、映画化が望まれる作品でした。
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プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
/norimakiturbo/
から引っ越してきました。

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