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1955 国鉄(現JR)甲子園駅近くの社宅にて誕生・・・産婦人科医院ではなく、自宅出産という古風な形で生誕。
日曜日なので、父親が映画を観に行っていました。産気づいた母親は、電車で数駅の所にある(こだわりの)キリスト教系かかりつけの産婦人科に行けず、近所の産婆さんに来てもらい、自宅にて取り上げてもらいました(教訓:遠い病院は、イザという時役に立たない)。両親の喧嘩の際、母親がこの事を口にすると、父親の攻勢も一気にしぼみ、母親の逆転勝利に至ります(教訓:出産予定日1ヶ月前からは、1人で遊びに行かない。父の生涯の不覚から学べ)。
生後4ヶ月で、腸重積症(小腸が大腸の中に入り込む)にかかる。手術しないと24時間で死に至る急性小児疾患ですが、医学の知識のある母親が、手術が成功しても体力が持たないと判断し、地元小児科医院から強引に僕を取り返し(人殺しと医者に罵られながら、僕を引っ張り合いっ子したらしい)、関西労災病院に駆け込む。ちょうど帰り支度をしていた小児科部長先生がおられ、僕が間欠的に泣くのをみて、小腸が大腸に出たり入ったりしていると判断し、僕が泣くと高圧浣腸で小腸を大腸からポンと外すことで治療する。数度の高圧浣腸で治癒。めずらしい病気なので、僕は小児科の新米ドクターの触診見本になる(母親は、息子が死にそうな勢いで泣いてるのに、のんびり解説してる部長先生にハラハラどきどきしてたそうです)。今でも、腸にいいものを食べるようにしている。
カトリック教会に、母親と一緒に通っていた。蛍光塗料で夜光るマリア様の像が欲しくて神父にねだり、とうとう貰ってしまった。僕の勉強机から、現在は我が家の仏壇に移動し、毎朝晩僕は手をあわせている。僕の守り神。

3歳 西宮幼児生活団(キリスト教系私立保育園)入学。
保育園の方針により、入学1ヶ月後から3年間、1人で電車・バスを乗り継ぎ保育園に通う。首から定期をぶら下げ、胸の名札には住所が書かれ、駅員さんやバスガイドさんに驚かれながら・・・。幼児誘拐の心配もない平和な保育園時代を送る。夕方までの長い保育時間(でも週3回通園)で、昼食やおやつは、母親が交代で作っていた。この同窓会が、いまだに続いている。母親もやってくる変わった同窓会です。どうやら僕が幹事らしい。

6歳 市立小学校入学
1年生のお正月にもらったお年玉の10円硬貨を、嬉しすぎて飲んでしまった。レントゲンで診ると、10円玉が胃の中にある。繊維で10円を絡めて出そうとする「いも作戦」を医者から伝授され、母親が始める。理系大学出という当時の女性としては珍しい経歴の母親は徹底的で、3食芋料理、おやつまでふかし芋。ウンチを割り箸で探索する生活を経て、無事10円玉は僕のお腹を通って出てきた。僕は今でも、じゃがいもが好きだ。
小学生なのに「慢性腎炎」を患ってしまった。母方爺さん(日露戦争騎馬隊隊長で金鵄勲章をもらった猛者だけど、母親が4才の時腎炎でこの世を去った)の遺伝子かと、またもや母親が奮闘する。塩分控えめが徹底され、超薄味・無塩醤油で家族全員で僕を応援してくれた。血尿でおしっこが茶色いし、蛋白尿でおしっこが泡立つし、子供心に「20才まで生きられるかなあ・・・」「結婚できたらいいな」「僕も親になりたいな~」と、僕も頑張る。腰を冷やさないように腹巻きは小学生終了までだったけど、早寝早起き励行・野菜をたくさん食べる・味が濃いので外食は極力避けるは、今でも続けている。

12歳 プロテスタント系私立中学校入学 中学受験組というやつ
サッカー部入部するも、1年で虫垂炎を悪化させドクターストップにより退部。

15歳 系列高校入学
珍しいクラブに入ろうと目星をつけたのが、ヨット部と馬術部。まずヨット部の部室を覗くと、中学から通っているキリスト教会の先輩がおり、馬術の部室を覗くことすら出来ずに入部。超マイナーなスポーツなので、県内に同部があるのが3校しかない。1校は日本海側で遠いので、国体予選に来ない。もう1校は風の穏やかな相生湾で練習しており、少し風が上がるとお話にならない。当たり前のように、国体選手になる(超マイナー競技バンザイ!)。国体会場は千葉県館山沖で、強風レースになる。第1レース、最初のマークを7位で回航するも、後ろからものすごく大きな波がやってきて、サーフィン状態で前の船をゴボウ抜きするも、それは一瞬の喜びでひっくり返ってリタイヤ。第2レース以降は10番前後でフィニッシュし、総合で少年男子スナイプ級18位だったかな?

18歳 系列大学入学
ヨット部入部。2回生の時、インカレ総合優勝。3回生時の国体は、最終レースまではトップでしたが、最終レースでフライング失格してしまい総合・成年男子470級6位。4回生時の国体は、15位?(これも1レース失格してしまった。優勝候補の一角と言われていたのに、いつもツメが甘い。吉本新喜劇のお笑い見て育ったから、最後にオチを付けないと・・・と思ってしまう悲しい性です)。
3回生の時出場した全日本470級では、2日目終わって何と3位。ど強風で、オリンピック選手をはるか後方に離して第1マークをダントツ回航したレースがあリました。100艇ほどの参加艇でビリから10番ぐらいで最終マークを回航した微風レースでは、やけくそで先行艇が誰もいないコースに行ったら、ほとんどの先行艇が行ってた方の風がなくなり、僕のコースにだけ風が入り、なんと87艇抜きの3位フィニッシュのウハウハレースもありました。結局、8位だったか18位だったかで、学生優勝。モスクワオリンピック強化選手&浜名湖470級世界選手権強化選手(ナショナルチーム)に選出され、4回生の時は、学生のレースと一般レース・強化合宿で東奔西走。

勉強もそれなりに頑張り、夏休みの資格試験講習会で生涯の伴侶と出会う。大学1回生の時から、ヨット部の昼休みたまり場である学食入口で、悪ガキ部員と前を通る女子に点数を付けていたんだけど、その時最高点数を付けていた髪の長い娘でした。大学とは全く関係ないとこで、同じ講習を受けている縁を感じ、当然声を掛けました。「彼女~、お昼ごはんご一緒しない~」みたいな軽いノリではなく、冴羽りょう的にキリッと締まった笑顔でさわやかに誘う。学部は違うけど同級生でした。女子の学部は、女子が非常に少ない。唯一の同じ英語クラスの女子A子さんのボーイフレンドB男が、僕の中学からの同級生だったから、グイグイ僕を売り込みWデートに至った。
Wデートは、彼女が中学時代テニス部だったというのを手がかりに、お洒落なテニスコートで実現。彼女のコスチュームは当然ミニスカートでナイスでしたが、ホンマにテニス部やったんか?と目を疑う羽子板テニスで調子が狂った。B男は中高大とテニス部で、僕など赤子をひねるが如くで、A子さんはテニスウエアでもないしラケットも持ってないし・・・で、ゲムとしてはいっこもおもろなかった。この日のためにラケットもウエアも買った僕の経費は誰が面倒見てくれるんや~!
3回生の時から友人2人と3人で、学生スキーツアー&スポーツクラブを創業していた。スキー好きの友人学生をスタッフにし、イラストのうまい女子学生にパンフレットを作らせ、旅行社内にデスクと専属女子事務員を付けてもらい、4回生の冬はスキーバス50台を信州方面に出した。バス1台満席にすれば20万儲かったスキーバス黎明期なので・・・ぐふふ・・・。この時のバレンタインデーは、人生史上最高数チョコを貰った。文字通り山のように・・・ぐふふ・・・。スキー場でスキーのうまいインストラクターは、数倍かっこ良く見えるものです。
こんな僕ですが意外に貞操観念があり、史上最大のモテ期だったにも関わらず、彼女一筋でした。箱入り娘で、修学旅行以外外泊をしたことないという彼女に、「私をスキーに連れてって」と言われていないのに、「よっしゃ、スキーに連れてってあげるわ」と、超堅物(第二次世界大戦でシベリア抑留された播州のK(苗字)隊の隊長・・・抑留されずに帰国していたら戦犯裁判当事者になっていたかも?・・・播州では有名だったK隊の帰国を新聞で見て、娘と見合いをさせた彼女の母方爺さんもかなりのもの)の父親に僕のやってたスキーパンフレットを見せて頭を下げて、彼女を釣れ出すのに成功。1回目は、スタッフを外れてお客さんとして2人で参加したけど、2回目は超堅物にウソついて、白馬乗鞍ホテルにプライベートスキーに行く。スタッフに、もし電話が掛かった時の対処を徹底させ、万全の体制をとった・・・「お主も悪よのう
」byお代官様。
22歳 実業団からも誘われたが、ヨットなんかで一生食えるわけがなく、一般企業に就職し、東京勤務。

24歳 地元に戻り、家内と結婚。高校時代売りに出た実家の隣家を親が買ってくれていたので、そこに住む(スキーツアーをやってた時は、ここが貸スキー板・靴の倉庫と化していた)。家賃を払わなくてラッキーだったが、ローンはそのまま僕の肩に付け替えられる。3/4は僕が返済したのに名義は母親のままだったから、母親没の時税金を払わされた・・・なんでやねん!

25歳 長男誕生
学生時代はブルーバードクーペSSS・親父からのお下がりスカイラインに乗っていたが、誕生記念にハイハイ出来るスペースのあるブルーバードバンに乗り換える。
母親が慢性腎炎になり、仕事引退。父親が余命6ヶ月のがん宣告。弟はまだ大学生だったので、夫婦で必死に働く。弟の学費・仕送り、両親の面倒、住んでる家の借金返済・・・。家内は仕事しながら、おっぱいをあげる生活になる。よって僕は、今でも家内に頭が上がらない。
長男を1歳から保育園に預けるようになる。1週間持たず、水曜日になると知恵熱が出るので、日曜日と水曜日は保育園を休むようになる。百日咳にもかかり、長男には、かわいそうなことを強いた。

父親は、一命を取り留めたが、仕事をほぼ引退。次男が成人するまで、数度の手術・入院を繰り返しながら生きる。50代からサンデー毎日の生活で、毎月のように、(これで最後かもしれないと)海外旅行に出かける羨ましい生活を送る。ゴビ砂漠まで横断した。82才永眠(普通じゃん)。教訓:「これで最後かもしれない」は、素敵な言葉だ。
地元市長から頼まれ、ヨット部先輩達と一緒にジュニアヨットクラブを立ち上げ、コーチになる。国体選手になると、市長室に呼ばれ激励の一封(現金入り)を渡されます。その場で、「スポーツ振興しようと思ってるんや、手伝ってくれんか?」と言われると、イエスの返事しか出来ないじゃないか。

28歳 次男誕生
誕生記念に、家族4人+両親+弟が乗れるように、8人乗りハイエースワゴンに乗り換える。当事は、ワンボックスワゴン乗用車など売れず、新車でもとても安かった。確か総額180万。

ジュニアコーチを辞め、出身大学ヨット部コーチになる。家内は日曜日休みで僕はウィークデイ休みなので、冬は毎週スキー三昧してた。小学生になった長男は、少年野球入部。1人乗りヨットを買い、長男の片足で立つポーズを見て、「Little Flamingo」と命名したのに、野球部に入りやがっった・・・残念無念・・・片足で立つポーズは王貞治だったんだ・・・。
次男が、僕の作った地元ジュニアヨットクラブに入部。お兄ちゃんと同じ野球部は嫌!そうだ男の子はその心意気や!僕がジュニアヨットクラブ・コーチに復帰。クラブ員家族と、毎月のように全国に遠征した。中学生でナショナルチームに選ばれ、アセアン選手権日本代表(ラニーニャ異常気象で中止になったけど)になる。日の丸の付いたユニフォーム・お揃いの日の丸ナショナルチームバッグの出で立ち(超マイナーヨット協会には金がなく、全部親の自腹。もちろん渡航費もその手配までも・・・)で、アルゼンチンで開催された南米選手権に遠征し、ラプラタ川でレースをする。そのレセプションで、初めてチークダンスを経験したようだ。そこで知り合ったブラジルやアルゼンチン女子(何故が女子ばかりから手紙が届いていた)と、文通してた。日本チームは3人で遠征したので、イギリス人美少女を入れて4人でチームレースにも出場した。日本同様第2外国語であるはずの南米の子達が流暢に英語を喋るのにショックを受け、帰国後から英語の勉強に身が入り、大学受験時は英語がポイントゲッター科目になる。教訓:男は下心があると、勉強に熱が入る。

僕ら夫婦が中学受験組だからか、長男も次男も、小学生時代は中学受験塾に通い、私立中学高校一貫校入学。「受験しなさい」なんて全く言わなかったのに、「賢いなあ」とかおだてていたら、受験すると言い出した。
高校生時長男は、甲子園球場の「ビール、いかがですか~」のバイトで、球場売上No1になる。親方に、時給から能力給にしてもらい裕福な高校生生活をしたようだ。サングラスして競馬場に通う不良高校生なのに、浪人もせずに河合塾に英語だけ半年通っただけで国立大学生になった。「どんなんや?」と驚く。次男は、高3の夏のインターハイに出るなど、目一杯ヨット部やってたのに、塾にも行かず国立大学生になる。もう僕は子供たちに頭が上がらない。これは賢い家内の遺伝子のようだ。

長男は、大学でライフル射撃部に入り、20歳以下日本代表候補に選ばれ、日本代表チーム合宿に1ヶ月ぐらい山に篭ってたこともあった。ライフルのナショナルチームコーチがハンガリー人で、関西に来た時長男がお抱え運転手をしてた。中学受験塾が忙しくなるまで子ども英会話教室に通っていたので、外人がいっこも怖くないようだ。黒船来航の時代に生まれていたら、吉田松陰のように密航を企てただろう。
次男は、大学でもヨット部。僕と同じ470級で、3回生の時、全日本を20位ぐらいで通過(僕と同じ、第1マークトップ回航もした)し、北京オリンピックにつながるナショナルチーム選考レースに出場。最終日朝まで6位のナショナルチーム選出ラインにいたが、結局男子10位。僕より格段にうまい。
次男がジュニアヨットを15歳で卒業した後、僕はジュニアヨットの全国理事になった。アセアン選手権に、日本チームを率いて参加した。監督とは、小中学生選手の荷物持ちと理解した。北京ワールドにも参加した。

長男・次男とも、6年間学生生活を送り、就職。
2008年 もう親父がいなくてもOKと、高校生の時からの夢だったバイク免許を取りに行く。次男が親父の形見のミッション車を、就職と同時に東京に持って行ったので、オートマチック車の運転がつまらないこともある。原付スクーターで2段階右折でお縄になったのもきっかけ。長年、原付50ccスクーター通勤してるので、ストレートで普通二輪免許取得。
VTR250購入。通勤スクーターを、リード110にグレードアップ。これで二段階右折も平気。
2010年 長男結婚。お相手はなんとJAL国際線アテンダントの超べっぴんさん。会社の会見で社長の横で愛想振りまいてる姿が新聞に載った・・・デカした! 入社1年目の会社の出張で先輩とJALに乗った時、当時まだ入社3年以下で国内線に乗ってたお嫁さんを見初め、羽田に着陸した後「先輩、ちょっと待ってて下さい」と、お客さんの前の出口への流れに逆らって後ろに走り、電話番号を書いた名刺を渡したのがきっかけらしい。男はこうでなくちゃね。その後、原辰徳侍ジャパンと共にアメリカワールドベースボールに帯同したりしたので、プロ野球選手に取られていたかもしれないのだ。
2011年 ミッションバイクの運転に慣れたので、教習所でかっこいい音してた教習車・ホンダCB400を買おうと思い立つ。初北海道ツーリングで、CB400SBを3日間レンタルして乗ってみる。
2012年 CB400SBを追加購入。初のバイク新車だ。
2013年 嫡孫が生まれる。とうとう小学生の時20才まで生きられるかな?と思ってた僕が爺さんになった。誕生記念に庭に屋敷祠勧請、主神は先祖の美作菅家党祖・三穂太郎、上杉謙信像が祠門前を守り、狛犬はシーサー、絵馬瓦を奉納した。

現在、大学ヨット部コーチもしている。

好物
右横綱:ポテトサラダ 左横綱:ヨーグルト(毎晩プレーンヨーグルトを500g1カップ食す。幼児の時から、ヨーグルトは食べ続けている) 大関:スープスパゲティ・麺類全般・カレーライス 要するに、お子様料理が好きだ。

学生時代の合宿生活の時間割の身体になったので、夜が弱い(早寝)。そして朝が早い(早起き・目覚ましは必要ない)。夜明けと共に(時には、夜明け前から)、「早朝バイク」や「早朝自転車」に出かける。雨が降ると、朝の時間を持て余す。

好きなこと
ヨット 高校・大学時代体育会ヨット部 ジュニアヨットコーチを10年ほど 大学ヨット部コーチ15年ほど 大学ヨット部先輩と組んで月1レース参戦 ヨット部先輩後輩と組んでセーリングクルーザーを所有しクルージングも楽しんでいる
スキー SIAゴールドメダル所持
バイク 2008年普通自動二輪免許取得 ホンダVTR250でツーリング ホンダリード110で通勤・「夫婦でタンデム」 ホンダCB400SB
自転車 2009年~早朝自転車・「夫婦で自転車」ツーリング
読書 ほぼ毎日、本を読んでいる。 最も好きな作家は、藤沢周平。ラブストーリーの王様・ニコラス・スパークス著書は、ほぼ全部読んでいる。歴史小説。戦記(平安時代~戦国時代)・歴史書好き。
トレッキング 2010年~「夫婦でトレッキング」を始める。山城探索。
謂れ読み バイク・自転車・トレッキングの目的地や寄り道で、寺社の謂れ板を読むのが好き。日本史好きなので、帰宅後それをじっくり調べ、頭の中の日本史年表に書き加え、歴史の流れを結ぶ作業を楽しむ。
田舎道・沢道・山道を探索し、昔から続く人の営みの育んだ風景をシャッターに刻んで楽しんでいる。

好きな人
サンタクロース 昔から、国籍にかかわらず、特にお父さんの心に住んで、次々に人の心に伝播し、生き続けている。サンタさんは、いつも笑顔を、特に小さな子にもたらす。

好きな言葉
「豚のおだてりゃ、空を飛ぶ」by僕。 僕は子供に、こう接しています。褒められると、自分の心に自信が生まれ、褒め言葉を口にした人も笑顔になります。僕は子供たちを怒ったことがない。長男が嫁さんを正式に僕ら夫婦に紹介した時の第一声が、「僕、いっぺんも親に怒られたことないねん」でした。
我が家の家紋は、武田菱です。武田信玄の言葉「人は城 人は石垣 人は堀 なさけは味方 あだは敵なり」も、これに類似する。母方の本家の家紋は、菅原道真の末なので、梅鉢紋。母親から、「あんたの先祖は菅原道真さんやから、賢いんや」と、各地の天満宮を訪問する度に言われる。それが染み付いて、屋敷祠を勧進してしまった。主神は、先祖の美作菅家党の祖・三穂太郎。

好きな戦国武将
横綱:上杉謙信、大関:明智光秀、関脇:荒木村重・竹中半兵衛・真田幸村・浅井長政・武田信玄
戦国期以外の好きな武将 藤原純友・平将門・足利尊氏 

歴史好き
親父の実家は北関東・上州の大きな庄屋で、僕が子供の頃は堀が巡っていた。苗字帯刀も許されていた。我が家の家紋・武田菱が、武田家の北関東調略(真田昌幸メイン?)の跡もあり、そういうつながりがあったら面白いなと思っている。
母親も北関東出身で、僕の爺さんは近衛兵隊長(どれぐらいの隊長かはしらないけど、天皇陛下からもらった金鵄勲章がある)でした。手代さんや職人さんをたくさん抱える履物商でもあったが、先祖は田沼家の家老職だった。母親のおばあさんは、北関東の大勢力・佐野家の家老家出身で、その家で盆正月に催す一族の集まりに、小学生時代は毎年のように母親に連れられて行っていた。屋敷は町を見下ろす小高い山の上にあり、麓の大門から山道を延々上がっていく。途中に小門や書生さんの寮がポツポツ建ち、今思えば紛れも無い山城です。
関八州を平定し京都朝廷から独立しようとした平将門を破った俵藤太秀郷の末裔・佐野家が、江戸の大火を累代の居城・唐沢山城から見つけ、兵火と思い完全武装兵を真っ先に江戸に入れた。その迅速さを恐れた江戸幕府は、佐野家を改易した。その時、徳川の世が崩れた時にいち早く地元で勢力挽回出来るように、改易地に行かず、帰農し地元に残った。佐野家をこの地に戻す含みを、この山城似の家に見る。
大庄屋の篤志家だったこの家は、明治の世に紡績業・鉄道会社・肥料会社・銀行業と商売を広げ、我が国公害第1号と言われる足尾銅山鉱毒に立ち向かった衆議院議員・田中正造のパトロンもしていた。田中正造が明治天皇御幸馬車に直接談判して議員を追われると、次の1期だけ衆議院議員をした。田中正造の一番弟子・黒沢酉蔵(雪印の創業者)の就学資金パトロンでもあった。
墓所の石碑や蔵に残された書物によると、祖は美作菅家党の祖・三穂太郎ということで、美作の山城を1350年に落とされ、血縁筋を頼って北関東の佐野家まで流れてきたそうだ。
こういう家系史が書物として親戚筋に配られており、旧仮名遣いで読みづらい本ではあるが中学の時読んで僕のルーツを知る。母の最も大切な本で、その時「私が死んだら、あなたがこれを持つように」と言われた。今僕のもとにある。僕の日本史好きのルーツです。

所有車
(学生時代)ブルーバードSSSハードトップ→スカイラインセダン→(長男誕生)ブルーバードバン→(次男誕生)ハイエースワゴン8人乗り→ホーミーワゴン4WD・8人乗り→キャラバンワゴンロイヤル8人乗り→
(2010年~)キャラバンシルクロードワゴン8人乗り

所有バイク
ラッタッター→・・・→ヤマハジョグC→
(2008年~)ホンダ里山VTR250(ポリスボックスVTR250・電気の検針おばちゃん自転車ボックスVTR250・ひこにゃんVTR250)
(2009年~)ホンダ通勤リード110
(2012年~)ホンダ橋桁高台CB400SB(招き猫CB・ニコニコCB)

所有自転車
(2009年~)ジャイアントDEFY2
(2009年~)ジャイアントESCAPE3(家内用)
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プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
/norimakiturbo/
から引っ越してきました。

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