3/13 生駒時計店・芝川ビル・大阪証券取引所・適塾

瓦紋が、天皇家の十六門菊と徳川家の三つ葉葵紋が交互に並んでいる。
木鼻の獅子の目がガラス製なのか色が入りリアルです。
彫りの深い龍の彫刻が素晴らしい。

平野郷を巡ったが、平安時代の坂上田村麻呂に始まり、室町時代の畠山管領家陣、大坂夏の陣、江戸時代に至る豪商の歴史へと、交通の要衝故経済力の中心地として文化を育み史跡の宝庫だった。
全て自転車で巡っても、あまり時間がかからず回れるので、史跡の集積が凄い。

平野郷の史跡探索を終え、大阪中心市街地に向かいます。
R25を西進し、堺筋にチェンジして北上開始です。

10:08「高島屋」、10:09「黒門市場」
10:19「生駒時計店ビル」
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最新式ビルのようにシュッとしていないが、彫刻が施され趣がある。
ヴォーリス設計の中学校舎に通っていたので、その重厚感に安心を感じ、効率追求ではない美のある生活に好感を持つようだ。
「小西家住宅」にひっそりと落ち着いた「コニシ株式会社」の銘板が、時代に流されない強さを感じる。

10:24「武田科学振興財団・杏雨書店」
10:29「小川香料株式会社」
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10:33、蔦に埋もれそうな「青山ビル」
さっき生駒時計店ビルを写していた女性2人組にまた会った。
僕と同じ志向ですね。

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10:36「芝川ビル」
眼鏡店とヴェトナム料理店が1Fに入店している。
僕の通った学校の先輩で、教師として戻ってきた芝川先生の実家です。
「文化庁・登録有形文化財」の銘板が入っている。

10:42「三井住友銀行」
向かいの「野村ビル」
GOKANというレストランが1F入店している「新井ビル」

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そして、中之島のある大川・地下鉄&京阪北浜駅まで北上し、10:48「大阪証券取引所」
正面に、「朝ドラ・あさが来た」で名を上げた五代友厚像が立っていた。
ここでも2名のカメラマンがいた。
朝ドラ人気なのでしょう。

堺筋を北上しながら、タンクローリーの抗議行進に遭遇した。
建築土木業界と言えば、公共工事賛成なので左より右・保守系だと思うのに、安倍政権批判の横断幕が、各タンクローリーに下がっていた。
ハテナ?

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10:51「緒方洪庵旧宅」「適塾」
『幕末の医師・蘭学者・緒方洪庵が1845年買い受けて、1838年に大坂瓦町に開いた私塾・適塾を移転した。1862年幕府の奥医師として江戸に迎えられるまで17年間、ここに居住した。諸国から集った門人に蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人物を育てた。
敷地は間口12m・奥行き40mあり、主な建物は、教室に使われた表屋と、洪庵と家族の居室だった主屋からなり、土蔵と納屋があった。1792年の北浜大火災後の建物と考えられ、元は商家であったが、洪庵入居時に若干改造された。表屋は2階建てで、1階を教室、2階を塾生部屋とし、主屋2階には女中部屋がある。洪庵が江戸に発った後、再三改造された。昭和51~55年の解体修復で、概ね洪庵居住当寺の姿に復原した。平成25年(2013)には、耐震改修工事を実施した。蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、近世大坂北浜の町家建築の姿を残す。昭和17年(1942)国に寄付され、洪庵の子息や適塾関係者らによって明治初期に設
立された大阪仮病院や大阪医学校を源流とする大阪帝国大学へ移管された。現在は大阪大学が所有し、一般公開している』
隣の小さな公園には、緒方洪庵の銅像が鎮座していた。

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中之島に入り、11:00「ダイビル本館」
11:07、ダイビル駐車場にバイクを入れる。
「市立科学館」が見える。
その北が空き地で、広い駐車場に使われているけど、用途がないのでしょう。
大阪のど真ん中だけど、オフィスビルぐらいしか使い途がないのかな?
ポツンと大阪大学中之島センターの小ぶりなビルが建っている。

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「玉江橋」、堂島川の向かいに桟橋が浮いている。
水上タクシー発着所なのかな?
中之島周辺の橋と水面の高さに余裕が無いので、一般の船は入って来づらい。
先輩が桜ノ宮に桜見物した時も、24フィートボートでは大きすぎて途中の橋がくぐれず断念し、翌年20フィートボートを借りてやっと海~海遊館・USJ横~桜ノ宮というルートで遡れました。
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3/13・大坂平野郷 かたな博物館・大念佛寺

手水が、ひょうたんから水が流れている。
「楠木大明神」がある。
本堂には、「閻魔大王・不動明王・本尊十一面観音菩薩・毘沙門天・地蔵菩薩」と書かれている。
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お堂縁側に、閻魔大王人形が置かれ、「ご自由に写真をお撮りください」と書かれていた。
横の墓地に、めぼしい墓石はないかと入ってみる。

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「かたな博物館」と書かれた暖簾が下がった民家があった。
「お気軽にどうぞ」と書かれているので引き戸から覗いたら、刀剣が飾ってある。
中では研師さんが作業中でした。
「こんにちは」

砥石の種類・刀剣が出来るまでの工程が実物や写真で説明されている。
「真澄庵」という御刀研職人さんのお店でした。
あ~だこ~だ、教えてもらいました。

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「横綱白鵬関・守護御太刀研磨所」の木札が下がり、白鵬さんが来られた時の写真が飾られている。
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横綱土俵入りで、随身する太刀持ち力士が持っている太刀は、ここでこの方が研がれたようです。

「坂上広野麿屋敷跡」は石碑だけになっており、アパートが建っていた。
「坂上子孫・末吉家屋敷」

「大念仏寺」にバイクを停めたら、近くに寺院が2つ見えている。
江戸時代は、寺内町だったのでしょう。
「浄土真宗・永福寺」、下がり無事門が素敵で、本堂も彫刻も年代物と感じないが、しっかりお金を掛けたいい感じです。

「大念仏寺」南門から入ります。
「不許葷酒入山門」と、座禅のお寺じゃないけど、禅宗山門特有の石柱が立っている。
『古川藩陣屋門 南門は現在の平野小学校にあった古川藩陣屋門で、明治廃藩後平野小学校表門として昭和2年まで使われていた。小学校校舎拡大により移築された。平野郷藩政時代唯一の遺構で、樟の一枚板である。江戸時代の平野郷は、1694年を境に前期は幕府領、後期は大名領地だった。特に1713年下野国古川藩主・本多忠良に給付されて以来、明治2年藩籍奉還まで156年間は、松平・土井と大名は変わったが、古川藩付所領であった。陣屋は古川藩時代に設置され、摂津近在古川藩所領の行政事務を取り扱っていた』

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京都東西本願寺を彷彿させる大伽藍の本堂にびっくりした。
敷地内に配された僧坊もそれなりの風格が漂い経済力の大きさを感じる。
『本堂 昭和13年に竣工した総けやき造り銅板葺きで、棟行・南北39.1m、梁行・東西49.8mの大阪府下最大の木造建築である。堂内に本尊十一尊天得阿弥陀如来画像、両脇に岡倉天心の高弟・名仏師新納忠之助作の多聞天王・八幡大士の極彩色木造が立ち、左右の宮殿に宗祖・聖応大師(良忍上人)、中祖法明上人の木造を安置している。また左右余間に再興大通上人像と、旧本堂(1667年建立)建立願主舜空上人の木造を安置している。外陣いっぱいに吊り下げられた大数珠は、明治36年に再製したもので、珠1つ1つに施主主名・回向の戒名が陰刻されている。百万遍大数珠繰り法要に使用する』

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『聖應大師良忍上人 上人は平安時代の終わり頃、1072年尾張富田庄領主・藤原秦氏の家に生まれ、12才で比叡山に出家する。天台密教の学問を深め、若くして学徳は一山の重きをなした。23才の時真の仏道を求めんと下山し、洛北大原に移った。1日6万編の念仏を唱え苦行を重ね、法華経などあらゆる教典を読破書写し、来迎院を開創し、浄蓮華院などを復活建立した。上人は、美声と音楽の才能に恵まれ、声明に励み、声明中興の祖と仰がれている。46才の時、阿弥陀如来より即得往生の道・口称融通念仏を授かった。この時をもって、本宗の開宗と定めている。鳥羽上皇の帰依を受け、上皇下賜の勧進帳と鏡鐘を持って宮中はじめ諸国を行脚し、融通念仏を広めた。四天王寺にいる時、聖徳太子の霊告で、1127年摂津平野に根本道場として大念佛寺を創建した。1773年、後醍醐天皇より「聖応大師」の大師号を授与された』

回転式の「経蔵」がある。
とても雰囲気がいい。
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釣り鐘もでかく、守護神社のご神木もとても太くて立派です。

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満開の赤木蓮に釣られて端の霊明殿に行ってみる。
『正門・回廊・奉安所・修法堂からなる。1156年創建。良忍上人の念仏勧請を助け、自らも融通念仏に深く帰依した鳥羽上皇の
霊牌と御真影を祀るために建てられた。徳川家康公を合祀するため、権現造りの社殿を再建した。それ以降「権現さま」「お宮」と称した。家康公は、大阪冬の陣・夏の陣で、36世道和上人に帰依し、治国・国家安穏の祈祷を乞い、日課念仏を誓約した。両度の戦役で被災した大念佛寺を、天海僧正立ち会いのもと、青銅百貫文を弁済し、庫裡を再建し、融通念仏に貢献した。今日まで修理を繰り返し、正門と回廊は江戸時代の遺構を残しているが、奉安所と修法堂は明治25年の火災で焼失し、旧形のまま建て替えられた。平成20年代修理を施し、新たに後小松天皇を合祀するようになった。後小松天皇は、融通念仏勧請帳の序文(重文)をしたため、広く融通念仏を広められた方である』

3/13・大坂平野郷 安藤正次・樋尻口地蔵・全興寺・長宝寺

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公園の前に「安藤正次墓所」
『安藤次右衛門尉正次は、禄2000石の旗本で、大坂夏の陣では御旗奉行として、徳川秀忠に直属し、1615年大坂城落城直前、秀忠の使者として前田利常・本田康紀両軍に、敵陣へ肉薄するよう命令を伝えた。その時数騎の敵兵に出会い、単身豊臣方の首級をあげたが自らも負傷し、秀忠に賞された跡願正寺に送られ傷の療養に努めたが、再起不能を悟り自刃した。五輪墓塔は、世子・正珍が平野郷を囲む壕の土居上に建て、願正寺を菩提寺とした』

平和な江戸時代の武家らしい大きな五輪塔が堂々と立っていた。
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その道を隔てた前に、六文銭の旗が立ち、「樋尻口地蔵」があった。
『大坂夏の陣で、道明寺合戦で後藤又右衛門・薄田隼人を失った敗戦後、真田幸村ら豊臣軍は、大坂城に退却した。豊臣軍を追い、進軍する徳川家康が平野で休憩を取ると予想した幸村は、樋尻口の地蔵堂に地雷を仕掛けた。案の定家康が現れ、地雷が爆発しようとした時、家康は小便がしたくなってその場を離れ、九死に一生を得た』
この日一番訪問したかったのがここです。
今年の大河ドラマクライマックスで、このシーンが出るかも・・・

「全興寺」
本堂に、「日光月光菩薩・本尊薬師如来・十二神将像」と書かれている。
「大聖歓喜天・首の地蔵尊」とも書かれている。
歓喜天の怪しさが好きです。
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『幸村ゆかり・首の地蔵尊 1614年大阪冬の陣が起こる。この時は城の外堀を埋めるという条件で和議成ったが、翌年和議が破れ「夏の陣」が起こる。当時大坂城は、二の丸・三の丸を失って本城のみになっていたから出撃する策をとり、平野・八尾街道では、藤堂勢と真田勢・後藤又右衛門・長宗我部勢の往来が激しかった。豊臣方が平野に火を放って退却の際、家康が大和道から必ず「樋之尻口」に来るとみた幸村は、密かにその地蔵堂内に地雷を仕掛けた。予想通り家康が地蔵堂内で休憩したが、小用を催し堂外に出た途端に地雷が爆発し、家康は命拾いした。この時の地雷の爆発で、地蔵尊の首から上が吹き飛ばされ、全興寺まで飛んできた』

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「地獄堂・扉の前に立つ地獄が開きます。中に入ってドラも一度叩いてみてください」というのがあり、通行門から入ると、閻魔様の坐像が睨んでいました。
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怖い夜叉さんもリアルにおり、小さな子なら泣き出しそうです。
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「納骨堂」「牛の除霊碑」があり、穴が繰り抜かれた岩があり、「この石の穴に頭を入れると地獄の釜の音が聞こえます」というのもありました。

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「駄菓子屋さん博物館」に入ると、ブラウン管TV・手回し洗濯機・蓄音機が置いてあり、「不二家ミルキーのブリキ看板」、昭和のおもちゃがいっぱいありました。
平野商店街に面しており、そちらに出てみました。
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アーケード屋根のある懐かしい商店街ですが、半数ぐらいのお店が営業していない感じです。

『本尊は薬師如来で、聖徳太子の作と伝えられている、平野が茫々たる野であった頃薬師堂が建てられ、ここから人が住み始め町が広がっていった。やがて坂上家の尊信するところとなり、1576年坂上利治によって再建された、府下木造建築最古である』

「仏の国」と書かれた入り口があり、地下に降りていく。
暗い半地下の部屋で、座ることも出来ます。お地蔵様が周囲に並び、柱を水が沿い流れ、その水音がBGMになっています。

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全興寺の横に、「南海電車・平野駅」がありました。
木造家屋の2Fに上がっていくようになっていますが、「運転日・毎月第1第3日用日・13~16時」と書かれており、南海電車のNゲージでも走っているのかな?

「長宝寺」
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「後醍醐天皇・行在所跡」の石柱が立っている。
『当寺は、平安時代桓武天皇の妃となった坂上田村麻呂の娘・春子が、天皇の崩御後、兄の広野麻呂のいる平野に来て落飾、慈心大姉と号し、天皇の廟所として禁輪寺、坂上氏の氏寺として本堂を開基、以降代々坂上氏の女子が比丘尼として法灯を継いできた。
後醍醐天皇が皇居を吉野に移される時、当寺を仮皇居とされ、熊野権現社に扁顧を賜った。絹本着色「仏涅槃図」は、鎌倉時代の名品。銅鐘は、建久3年(1192)の銘を有し、京都東山金光寺の鐘であったことがわかり、鎌倉時代の代表的和鐘で、ともに国の重要文化財指定され、市立美術館に寄託されている。毎年5月18日に秘仏の十一面観音像・閻魔王像が開帳され、「あんま王の御判」を押捺する法会がある。杭全神社との由縁から、7月14日の夏祭りには「みこし渡御」の神事が行われている』

3/13・大坂平野郷 若宮八幡宮・畠山政長・がんこ平野屋敷・平野公園

「旭神社・若宮八幡宮」
雨乞い伝説のある神社です。
手水に多く使われる龍ですが、さざれ石の上に昇竜の形の龍が置かれており、天に向かって雨乞している姿に見えて面白い。

それほど大きくもない境内を巡っていると、ちょんまげを結った浴衣姿のお相撲さんがいてビックリ。
境内隅のテントから出てきて、ゴミ捨てしていました。
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テントを見ると、「友綱部屋」と書かれています。
大阪場所がこの日開幕なので、大阪場所での本拠地がここのようです。

学生時代スキーツアー会社をやってた時、スタッフに歯医者さんの息子がおり、地元の名士で相撲部屋のタニマチをしていました。
大阪場所の時は、稽古場を提供し、何かと資金援助していると言っていました。
そんなことを思い出しながらテントを見ていると、まわし姿の力士さんが出てきて、携帯電話で話をしていました。
現代を生きる力士なので携帯電話も使っているのは当たり前ですが、とても古い伝統儀式でもある相撲と携帯電話が結びつかず、でかい体に電話が小さすぎて滑稽で、思わず笑っちゃいました。
可愛い~

「正覚廃寺」
『淳和天皇・825年、弘法大師開祖。観音堂・金堂・講堂・六時堂のほか多数の僧坊を有した巨刹でした。楠木正成も度々参詣したが、1493年「正覚寺合戦」にて灰燼と化し、以来廃寺』

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「畠山尾張守政長公の墓」
古い街の常で路地が多く、あちこち探して到着。
『畠山氏は、室町三管領の1つとして代々尾張守に任ぜられ、山城・紀伊・越中の守護も兼ねていた。政長は、管領・畠山持国の甥で、持国の実子・義就との家督相続が、京都を灰燼にした応仁の乱(1467~1477年)の原因となった。政長・義就の確執は長期に渡り、畿内各地で争乱し、1482年政長は将軍・足利義稙と共に正覚寺に本拠を置いて、誉田の義就と対陣した。義就の死後、河内の平定に乗り出したが、1493年義就の子・義豊の逆襲を受け敗死。この兵火のために正覚寺伽藍も焼失した』

扉前の謂れ板を読んでいたら、お隣さんが玄関から出てきて、「中に入れますよ」と声を掛けてくださった。
周りを民家に囲まれて、門扉の上に鉄条網まで施されているので、民家の敷地なのかなと、墓石を覗き込んでいました。
小さな五輪塔が公の墓石のようです。
「乃木将軍景仰碑」という大きな石碑が立ち、横に大きな大砲の弾がありました。

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「がんこ平野郷屋敷」
『弥生時代の「加美遺跡」で知られる当地の歴史は古く、神武天皇の東征や、聖徳太子ゆかりの人物の活躍など、数々の伝説が遺されており、大化の改新・645年に渋川郡香美郷と定められた。海外貿易で栄えた堺と同様、中世の自治都市として豪商たちの活躍する商業都市として成長した。1704年、大和川の付け替えに伴う新田開発で綿作が盛んになり、その集積・加工の中心地として発展。河内木綿として全国に出回った。代々豪商として栄えた当屋敷の辻元家は、江戸時代より庄屋・村長など村の役職を勤め、当地に重んぜられた。当屋敷は江戸時代初期の建築とされ、重厚な門構えや広々とした奥屋敷・土蔵の数々など、そこかしこに往時を偲ばせる』
「くらしの博物館」と門に書かれており、一度ここでお屋敷見学がてら食事をしてみたい。

「菅原神社」
凝った彫刻がなかなかいい感じ。

「浦美術店」
関西ローカルTVでよく宣伝しているお店は、平野にもお店があったんだ。
確か堺だったはず・・・
営業時間なら、お店を覗いてみたいけど・・・

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平野公園内に、「平野郷樋尻口門跡」の碑があった。
『戦国時代の平野郷は、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態を持ち、周囲に自治と自衛のために濠がめぐらされていた。濠の間に大小13の木戸があり、八尾・古市・堺などへの道路が放射状に伸びていた。樋之尻口門は、八尾久宝寺につながるもので木戸としては大きい方であった。門の側にいずれも地蔵堂・遠見櫓・門番屋敷があった。当公園一角に現存する地蔵堂は、当寺の名残である。郷から出るときは一身の加護を祈り、外からの変事は、入口で退散させようとした祈願の現れである』

公園内に入ると、「樋之尻橋」と彫られた橋の欄干のような石柱が2本並列に遺っている。
「赤留比売命神社」「住吉社」「天満宮」の3社が並んで鎮座していた。
大神社の摂社のようだなと見ていたら、杭全神社の境内外摂社と書かれていた。

「河内音頭宗家・初音家礎之地」碑が立っていた。
子供の頃の盆踊りの主役は「炭坑節」だった。
毎年何曲踊ったかわからない。
でも今は「河内音頭」が主役です。
この地から全国に広がっているようです。

3/13・大坂平野郷・坂上田村麻呂

「カフェ集まりグループ」に参加申し込みしました。
中之島に11:30集合です。
集合時間がゆっくりなので、先月河内歴史ツーリングの時、大阪平野・杭全神社で見つけたパンフレットに載ってた史跡を巡ろうと計画しました。
時間があれば、平野から中之島に戻る時、堺筋界隈に点在する歴史的建造物に寄り道しよう。

中之島での二輪駐車場の不安から、自転車で行くことにしました。
ロードバイクも考えたのですが、平野まで30kmで、往復&探索を含めると、80kmぐらいになりそうなので、距離がありすぎる。
輪行を加えると簡単なのですが、僕の輪行バッグは前輪を外すだけなので嵩張る。
乗降客の多い大阪市内の電車を考えると躊躇します。
しばらく使っていなかったブリジストン超ミニ折りたたみサイクルの登場させよう。

5時出発を予定していましたが、3時台に目覚めました。
4時に活動開始。
超ミニサイクルを出して見ると、空気が抜けてる。
これに合う空気入れを自宅から別の場所に動かしていたので、面倒になりNG。

仕方なく、「通勤リード110」で行くことにしました。
持っていくものはカメラとお財布・プリントアウトした地図ぐらいなものですが、自転車とバイクでは服装からして換えなければなりません。
リュック・ウエストバッグから、ヒップバッグに変更です。
夏用メッシュプロテクタージャケット&DAIWAフィッシングジャケットに服装も変更です。
ツーリングの時だけセットするリアボックスをセットし、飲み物と緊急食・カロリーメイトブロック・地図を入れます。
GPSナビをセットし、準備完了。

6:30出発になりました。
r13を南下、R43を東進し、天王寺・阿倍野からR25です。
平野での訪問地は、「日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂(平安時代)」一族関連、「大坂夏の陣」関連をメインに巡ります。

まず杭全神社の西門にバイクを停め、「春子姫の墓」を探します。
神社内にあるのかな?と思い境内に入ると、幸い掃き掃除中の宮司さんがおり尋ねます。
「大楠の東にあり屋根のある祠内」だそうです。
バイクを大楠の方に回し、墓地内を探します。

7:13、屋根のある・・・なんてないぞと思ったら、「坂上一族の墓所」と書かれた一角に、坂上一族の無縁墓石が集められていました。
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「坂上・・」「阪上・・」「藤原・・」と彫られた墓石がズラリ・・・これにはちょっと感動しました。

僕の通った小学校は、伊丹市大鹿というところにあります。
この「大鹿」という地名は古く、平安時代の日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂がここで大きな鹿を矢で射止めたことが由来です。
社会科の時間に坂上田村麻呂のお話が出ました。
担任先生が「坂上君、家はどこ?」「大鹿の・・・」
「そうか、坂上はきっと坂上田村麻呂の子孫だぞ、胸を張って先祖に恥じないように生きろよ」と言われました。

それはもう、クラス中が大はしゃぎで、坂上くんは一躍ヒーローです。
大鹿には「坂上」さんが多く、向こう三軒両隣「坂上」姓の表札が掛かっています。
平安時代の名族・坂上田村麻呂一族が住んだ地で、伊丹市に古くから住む名家です。
人には「ピグマリオン効果」というのがあり、人に褒められるとより頑張り、指導する方が「こいつは凄いやつや」と思って教えるだけで成績が上がります。
僕もコーチングで頻繁に使いますが、この先生はナイス先生でした。

白雪酒造を興した「小西さん」も一目置かれている名家です。
小西さん・坂上さんは、市会議員選挙に出ても当選しやすい。
僕の爺さんも群馬県の田舎の名家なので、村長や町長を歴任しました。
代々村の世話役です。
地の人なので親戚も多く住んでおり、「まあこの苗字の人にやらせておけば無難だろう」的なノリなのだと思います。
本人も、「僕の苗字は・・だ」と思うだけで、それに見合う人物になり、そういう仕事ができるようになります。
本家の現当主である僕の従兄弟は、群馬県の弁護士会会長をやっています。
KO大学法学部に3浪して入学したごく普通の従兄弟なんだけど、ピグマリオン効果で爺さんのように世話する役職を引き受けました。

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その横に、小さな格子扉付きの祠に守られた春子姫の墓石がありました。
『桓武天皇后・坂上田村麿息女・春子姫。葛井親王・春日内親王母。承和元年12月26日遷化』
田村麻呂の娘に、桓武天皇の后になった人がいたんだ。
葛井親王は天皇位に付けなかったので、下位の后だったのでしょう。

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杭全神社内から、「平野環濠跡」を見ました。
堺同様、環濠を拓いて外敵から集落を守った裕福な都市でした。
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坂上公園という所に行き、「坂上広野麿の墓」発見。
『平安朝初期(800年頃)、蝦夷攻略に武功のあった坂上田村麿第2子・広野麿が、朝廷より杭全庄を賜り、この地を領有した。嵯峨・淳和天皇に仕え、右兵衛佐に任ぜられ、この地に永住し、828年死没した。坂上家は子々孫々この地を領有し、平野殿と呼ばれた。「平野」の地名の由来は、広野麿が領有したことにより「広野庄」となり、後にそれがなまって「平野庄」となった』

平安時代の墓石い興味があったのですが、単なる岩でした。
当時は、埋葬地の目印に石を置いただけが、武人トップの朝廷職にある者でも普通だったようです。
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プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
/norimakiturbo/
から引っ越してきました。

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