1/14・河内/顕証寺・許麻神社・柴籬神社

家内はお仕事の新年会で、姫路の日航ホテルへ行きます。
家内を駅まで送り、帰ってきて「里山VTR250」を出し、バイク用プロテクター・ウインタージャケット・パンツに着替えて、今シーズン初の完全冬装束になり、10:27出発。

10:30「伊丹産業セルフ北村SS」で給油。
216km/7.39L=29.2km/L。
R171~中央環状線~吹田ICから近畿道に乗ります。
道路脇の気温計は2℃でしたが、バイク用冬装束なら全く寒くなく快適です。

いつものように80km/h巡航で南下し、八尾ICで下車。r2~r5を東進し、11:11「顕証寺」。
20180114NozakiS0001s.jpg 山門の彫刻が素晴らしい。
20180114NozakiS0002s.jpg 20180114NozakiS0007s.jpg 20180114NozakiS0009s.jpg 20180114NozakiS0021s.jpg 『顕証寺と寺内町 古くはこの地を橘島久宝寺といい、親鸞聖人の高弟・信願房法心の建てた慈眼寺があった。文明2年(1470)蓮如上人がこの地で布教し顕証寺(久宝寺御坊)を建てた。周囲に二重の堀と土塀を巡らし、街路は碁盤の目のようになっていた。
このように本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかる寺内町を作った。この町では御坊が一切の支配権を持ち、久宝寺城主・安井氏がこの権を委された。
中世末期・浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した集落。
真宗西本願寺別院で、連技の格式を持ち、河内十二坊の総支配を勤めた』
鐘楼の彫刻も見事です。浄土真宗の財力を感じます。

20180114NozakiS0022s.jpg 11:23「許麻(こま)神社」。
20180114NozakiS0026s.jpg 境内に「どんと焼き」受付机が出ており、大きな俵型に組まれた藁に縁起物の鏑矢がたくさん刺さっていました。
このまま燃やすのでしょう。

『式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一である。この地は古くから巨麻荘といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神を祀った。境内の手洗い屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残。
この寺は聖徳太子の建立で、戦国時代兵火により焼失。その後観音院のみ復興したが、明治初年廃寺となった。本尊十一面観音は今念仏寺にある。神社の西方に、弥生式土器を埋蔵したベントウ山があった』

社名から、古来神事や衣類・漁具・医薬品原料と多用された大麻の栽培地であった名残りを想像しましたが、河内に移り住んだ「大狛連(おおこまむらじ)」という諸蕃(朝鮮半島・中国大陸出身氏族の総称)一族が住んだ地からの名残りのようです。

隣の藤井寺も、出雲を経て渡来した土師氏の本拠地ですし、湖西同様河内も渡来人が多く住んだ地です。
土木技術で朝廷に貢献し地盤を築いた土師氏本拠地に古墳群が多いのは、大陸・朝鮮半島からの技術移転と思っていましたら、今読んでいる『日本人のルーツの謎を解く 縄文人は日本人と朝鮮人の祖先だった 長浜浩明著』によると、半島南部(特に百済)に日本特有の墳墓・前方後円墳が多く発掘されていると言うことだった。
全て5~6世紀のもので、日本の古墳時代3~4世紀より新しく、「むしろ日本の技術が半島に伝播していったと考える方が自然だ」となっていた。

氷河期から暖かくなる過程で、海に囲まれた日本列島の方が大陸より早く暖かくなるから、日本列島の方が朝鮮半島より先に人が住み着いたのは、発掘遺跡の古さからも定説になりつつあります。
縄文遺跡からは、世界三大文明より古い出土品が多く出ており、血液型や遺伝子レベルでも現朝鮮人と日本人との民族的違いがはっきりしている。
母乳を通じて母子感染し白血病を引き起こす「ALSウイルス」キャリアーは、朝鮮人にはゼロで日本人には2~30%存在する。
しかも縄文人にもほぼ同じ割合で存在する。

「縄文人世界だった日本列島に、稲作文化を持って大量にやってきた弥生人が席巻していった」との過去の定説が覆り、最終狩猟生活だった縄文人が、焼畑農業から水稲栽培に転換し集落を形成していき弥生人になっていったとの説が有力視されているらしい。
身長・顎の発達・顔の輪郭は、生活習慣の変化で容易に変化するもので、縄文と弥生を別民族とする根拠にならないそうだ。

自然に考えれば、日本列島から半島に渡った部族もあり、ユーラシア大陸中央部を経てやってきた民族と中国大陸・朝鮮半島で出会ったと考えられる。
列島と半島は、現代のように双方向に移動・交流があり影響しあっていたのだろうと、僕もこの本を読んでとうとう宗旨変えしました。

20180114NozakiS0033s.jpg 摂社の厳島神社が、噴水の有るしっかりした池に囲まれ、信仰の篤さを感じる。
たくさんお絵馬が掛かり、真新しい御神籤も多く結ばれているので、多くの尊崇を受けているようです。
境内に大きな社庫があり、立派な山車が蔵されていそう。

r179を南下し、近鉄南大阪線をくぐり、近畿道側道r2を南下し、r12を西進、枝道を南下し11:59「柴籬(しばがき)神社」。
20180114NozakiS0040s.jpg 『反正天皇柴籬の宮跡』の石柱が立っている。

20180114NozakiS0046s.jpg 『仁賢(にんけん)天皇の勅命で創建され、第18代反正(はんぜい)天皇(瑞歯別命みずはわけのみこと)・菅原道真・依羅宿禰(よさみのすくね)を祭神として祀る。この付近は反正天皇の皇居・丹比柴籬宮跡で、記紀によるとその時代は天下泰平・五穀豊穣の平和な時代であったと記されている。
平安時代、清和天皇より幣帛(へいはく)を賜り、南北朝時代の足利直義、戦国時代の河内守護畠山氏も厚く保護した。明治5年(1872)神仏分離により、境内の神宮寺・広場山観念寺は廃寺となり、本尊は上田の観音堂に、釣鐘は願正寺へ。
明治40年(1907)に大塚山古墳にあった天満宮(大塚社)を合祀し、手水鉢も当社に移された』

ここも男どもが作業中です。
消防ホースを動かしているので、「どんと焼き」準備のため消防団員に総出がかかっているのかもしれません。
作業が終わったのか、拝殿前の階段で記念写真に収まっていました。

神宮遙拝所があった。
20180114NozakiS0049s.jpg 参道脇に摂社があり、歯を強調したお面像がある。
『日本で唯一・歯磨き面 本殿に反正天皇を祭神とし、ここ末社に歯神を祀る歯に関する社として、古より多くの方々に崇敬され今日に至っております。本年歯神社御祭礼日5周年を記念してここに歯磨面を建立し、指先で触れて大神様のご加護を頂き、健康の源である歯がいつまでも丈夫でありますようご祈念下さい』

祠脇に、「住吉社(祓いの神・往来(交通)安全の神)」「歯神社(歯の神・「ちちかみばし」伝説の社)」の提灯が下がっていました。
確かに歯の神社は初めてです。

20180114NozakiS0057s.jpg 拝殿前左右に盛砂(立砂)がある。
『この砂山は、古来より当社では伝統的な習わしとして受け継がれ、京都地方でも数社寺があるのみで、全国的に珍しい盛砂です。お清めの砂として、家屋敷の鬼門・裏鬼門に撒く風習が残されている』

拝殿で手を合わせました。
いつものように今までの幸せな生活への感謝に加え、今年新たに生まれる孫のお嫁さんの安産と健康を願いました。


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1/13・海の安全講習会

前日から極寒です。
今朝、西を見ると六甲山がクリアに見えており、山頂から和歌山まで一望できるでしょう。
寒い日でしたが、午後からホームポートに行ってきました。
ヨットクラブで「安全講習会」です。
今年から法律が変わり、ボートに乗るときにライフジャケット着用が義務化されました。

その詳細の説明会を聞いてきました。
高校ヨット部時代から、「海に出る時はライジャケ必着」を旨としているので、僕には関係ありませんが、「ライフジャケット=桜マーク・ライフジャケット」という文言が引っかかっていました。

「桜マーク・ライジャケ」は国土交通省が認可したライジャケです。
「浮く」機能はバッチリですが、「色はオレンジ・かさばる・ダサい・なのに金額はする」で、ヨット乗りには人気がありません。
釣りなど船に乗る番組でも、ほとんど見ないです。

大学ヨット部でも、「浮く」以外の機能がイマイチ(特にかさばるので、軽快に運動するのに邪魔)なので、これを使ってるヨット部なんて皆無です。
「どうすんの?」と思いながら説明を聞いていたら、日本セーリング連盟などに加盟しているクラブや船は、「レース中・練習中」はその対象外で、従来から使っていた世界標準の50N(ニュートン)ライジャケでOKだそうです。

国交省と「お目こぼし」交渉したセーリング連盟のこの日の説明者は、レース当日のみ?レースに向かう前日回航時はいいの?など「いつが練習中に該当するのか?」など細かい所はあえて聞かなかったそうです。
アバウトなままにしていた方が「練習中です」とかで言い逃れ出来るから・・・みたいなニュアンスで苦しい説明をしておられました。
乗船中でも、「船内にいれば対象外」「船外でも75cmの高さの囲いなどに囲まれていれば対象外」など、フェリーや遊漁船での運用は今まで通りになるそうです。

事故の大半は落水によるもので、過去10年間で500名だそうです。
ライフジャケット未着用者は50%死亡しており、着用者は10%死亡だそうです。
僕は高校生の時から、数度落水遭難者の捜索に加わったことがあります。
高校国体県予選当日レース中、高校ヨット部の1年先輩の方が社会人になってすぐのレース中、大学ヨット部の20年ほど先輩が外洋レースに向かう途中三重県沖、で落水死亡されています。

高校3年の国体予選レース日前日、社会人ヨット部の方が、「僕らのレース練習に混ぜて欲しい」と言ってこられました。
OKして練習した翌日、言ってこられたそのヨット部のキャプテン本人が亡くなりました。

2人乗り小型ディンギーレースは着ないとレース失格なので、ライジャケは着ていましたが、結ぶ紐が「ちょうちょ結び」だったので解けて脱げてしまいました。
クルーがヨットが初めての新人女性で、スキッパーが落水してしまい操船できなかったそうです。
スキッパーの方も体育会ヨット部出身者でなかったようで、ヨット・海に対する甘さがあったのでしょう。
練習参加を受けたのが僕だったので、ショックでした。

最近の国際標準50Nライジャケは、ファスナー&バックル式が殆どで紐で止めるものはありませんが、春4月の大学ヨット部新人勧誘の時は、口が酸っぱくなるほど話し、「着ていれば4日間沈まない」安全規格である旨も話し安心させます。

僕が参加する時は必ず沖に出て、新人がライフジャケットをキチンと着ているか確認してからヨットに乗せます。
部員もこの重要性は知っているので、皆新人をチェックしています。

近しい方3人の落水死亡を経験しており、子供たちがチビの時は海水浴はもちろん、フェリーに乗る時でも家族全員で着ました。
親が着なかったら子供は着ないものね。
因みに僕はヨットハーバーに行けば陸上でも着ているので、ジュニアヨットと関わっている時は「ライジャケ・パーソン」で有名でした。
ライジャケ着用義務化で、少しでも水の事故が減ればいいなと思います。

出席者は、クルーザー関係9割・ディンギー関係1割というところ。
後期試験が始まりそうな時期にも関わらず、学生が2人出席していました。
ユニフォームのロゴマークから関大男子と母校KG女子とわかりました。

最前列に2人並んで座っており、「熱心だなあ~」と思うとともに、「付き合ってるのかな?」なんて羨ましくも思いました。
若いってことは正義です。

13:30~16:30までの長丁場なので、途中で10分休憩が入りました。
その時女の子だけが席を立ち、男の子はそのままだったので、「付き合ってないようだな残念」なんて思いました。
スタイルが良く、とてもかわいい子だったので、それだけで講習に来た甲斐があったというものです。

僕と家内は大学の同学年ですが、学部も違うので、家内は僕のことを全く知りませんでした。
僕は美人好きなので、1回生の時から「可愛い子だな」「背筋が伸び歩き姿の美しい人だな」と目をつけ、家内と同じヨット部同期から所属学部の事を知っていました。
僕も家内の学部も女の子が少なく、50人の英語クラス中たった3人しかいないので、目立っていました。
2回生からマネージャーとして入部してきた同期女の子が家内と英語クラスが同じで、「うちの学部で一番かわいい子を紹介してあげようか」なんて言われたこともあります。
その時は、紹介されそうになった子が家内のこととは知らず、断ってしまい勿体なかったです。

そんな家内と、学校以外の1週間の資格試験講習会で同じになりました。
「あの子は・・・」と思い、家内が1人でご飯を食べに行ってるのを確認し、「お昼ごはん、一緒に食べませんか?」と声を掛けました。
同じ大学であの学部であることを確認し、やっぱり~。
クラスの3人の女の子の1人がヨット部であることを知っており、もう1人が僕の中高の同級生だったことに驚きました。
その子とは花嫁修業のため同じ料理学校に通っており、家内が講習会の帰りその子の家に遊びに行くというので、僕も一緒について行き・・・現在に至ります。
運命の赤い糸は、遠ざかってもくっつくようになっているようです。

安全講習を聞きながら、最前列の2人を見ながら想像していました。
講習会が終わり、ヨット用の2ミリのシートを調達しに、16:37、1F「ノースショップ」で2ミリ990円を買いました。
関大ヨット部OBの木下店長と、あれやこれや話していると、KG女子がやってきました。

「最前列で、熱心に講習を受けていたね」「遅かったので、最前列の席に行かされたんですよ~」。
店長から「KGの先輩だよ」と聞き「それは失礼しました、主務をしています」なんて。
3人であ~だこ~だ。
「K大のコーチしてるんだ。春休みに琵琶湖から遠征に行くから、また練習やレースに加えてね」と話したら、「去年と一緒ですね、O大から話が来ると思います」と春のことをお願いし僕は退散しました。
コーチしてる大学よりKGの方がレベルが上だから、教えてもらわなきゃ。

通勤リード110に乗り帰路に着きました。
阪神高速・湾岸線の下をくぐる交差点で信号待ちしていると、その子がスクーターですり抜けしていったので、僕も追いかけまた声を掛けました。
「12月に卒業生クルージングしようと艇庫に電話したら、冬季休暇に入ったようで繋がらなかったから、ウェブサイトのアドレス宛にメールしたんだけど返信がなかったんだ。あのアドレスでいいんだよね」
「はい、マネージャーが管理しているのですが・・・確認しておきます、失礼いたしました」。
これでサヨナラをしました。

1/7・石峰寺

昼食後、前日に続き安産祈願しようと家内を中山寺に誘うが、「お化粧してない」とか何やかやでお出かけモードになっていないようです。

「どっかに行ってきたら?」と言われ、「招き猫CB400SB」でお出かけすることにする。
三田方面寺社巡りしようとツーリングマップルを広げると、石峰寺と赤で書き込まれている。
いつ書いたのか、何を見たくて書いたのは不明ですが、ナビをセットし13:30に自宅を出発しました。
目的地は、神戸市北区淡河の石峰寺です。

R176or中国道~山陽道をナビは誘導しますが、面白くないのでおおまかに往路「有馬経由」復路「三田経由」と決めました。
R176宝塚付近は混んでいました。
バイクの特典で信号ストップすればスイスイと前に出れるはずですが、パトカーがいたので自重しました。
原付など数台が平気で前に出ていましたが、ミニパトさんはスルーしていました。

宝塚駅を過ぎると解消し、R176を走り、r51に入り蓬莱峡を抜け有馬温泉コースです。
「+10の会」なので、見通しの良い直線でも50km/hを守り、カーブはビビリッターが働いてグーンとスピードダウンするので、四輪を数台従える大名行列を作っちゃいました。

有馬温泉駅からr506へ。
有馬温泉駅付近で、優先道路のこちらを見ているのに平気で四輪が出てきて驚きました。
ゆっくり走っており、「怪しいな」と野生の勘が働いていたので、少し強めのブレーキで事なきを得ましたが、女性ドライバーは要注意です。
最近何かとマスコミからバッシングされている高齢ドライバー以上に僕には怪しい存在です。

確かに男性ドライバー年齢別事故数は、1999年調べで65才以上は70件/億Kmで、18~24才90件/億Kmに次いで2番目に多いですが、女性と比べれば最も少ない40~49才60件に負けるだけで、2番目の30~39才80件・50~59才80件より少ない。
まあ、女性は愛すべき守るべき存在なので、男が気をつけなくちゃ。

r38に乗り西進します。
20180107SyakuS0009s.jpg ナビに導かれるまま枝道に入り、14:31山門着。
20180107SyakuS0004s.jpg 仁王様が守る山門で、かなり立派です。
石峰寺本体への期待が高まる。
山門からの直線上に石峰寺が見える。

バイクで少し移動し、境内前に14:38駐輪。
細い田舎道なのに、アウディやBMWなど外車ばかり下っていく。
同好の士の集まりでもあるのかな?

20180107SyakuS0012s.jpg 石段左右に鐘楼を構える珍しい配置です。
『白雉はくち2年(651)法道仙人開基。
孝徳天皇の勅願寺として栄え、中世には1里四方の寺領を持ち、多数の僧兵・学侶を養っていた。大日如来が祀られている本堂東の三重塔は室町時代作で、嵯峨天皇の勅願による。この時代に作られた三重塔では最大級。中堂の薬師堂は、聖武天皇勅願で、僧行基が開眼した薬師仏・十二神将・日光月光菩薩を祭祀し追儺行事が行われた。この2つの建造物は、国の重要文化財』
法道仙人はインドの僧で、播磨・摂津に開創した寺院が多いので、謂れ板で名前を良く見ます。

20180107SyakuS0016s.jpg 謂れ板下に竹細工の花生けが置かれ、南天の赤が美しく生けられている。
ご住職ご夫婦の人柄を感じる。
手水が蓮の花を連想させる造形で、珍しい。
お大師様を祀る祠があったので、真言宗のようです。
左右に小ぶりだけど綺麗に整った花々が生けられ、センスの良い奥様がおられるようです。

「八十八ヶ所巡拝道」の石柱が立っていたので入ってみる。
山中88の仏様を巡ってみた。
このような簡易巡礼道は何度も目にしたが、1番から88番まで全て巡ったのは初めてです。
20180107SyakuS0064s.jpg 石祠におられたり、大岩を削った祠に祀られていたり、距離にして1kmもないので、楽しく巡れた。

小さな起伏に富み、大岩が良い雰囲気を醸し出し、順路案内板が整備され迷わずとても良い。
阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来・将軍地蔵菩薩・千手観世音菩薩・虚空蔵菩薩・十一面観世音菩薩・弥勒菩薩・七仏薬師如来・地蔵菩薩・文殊菩薩・波切不動明王・不動明王・大通智勝仏・・・それぞれの仏様が特徴を持っておられるので、見て回るだけで楽しい。

20180107SyakuS0142s.jpg 三重塔の裏に古池がありました。
室町時代再建の日本最古の三重塔は趣があります。

『当伽藍は四神(青龍 白虎 朱雀 玄武)に満たされた地にあり、一段下がった丘陵地には十輪院・極楽寺・竹林寺の塔中がございます。往時には回園地に七十余りの坊余を配していた修行道場であって、今も自行に訪れる方々が多数あります。当寺は観光寺院ではなく拝観料も頂いておりません。清掃は僧・行者・檀家・参拝者の方々多くのご奉仕をもって維持されております。ごみ等が出ましたらお持ち帰りください。修行道場ゆえにお足もと等に十分な整備が為されておりませんのでお気を付け下さい。裏山も修行場で危険な所もございます。滑落や落石・落木にご注意ください。今日の佳きご縁に皆様方の心と体と財とが広く満たされますようお祈りいたします。 合掌 岩嶺山・石峯寺』

室町時代からここに建つ本堂内は、暗く良い雰囲気で、立派な彫刻が目につきました。
いつの時代奉納されたものやら、武者絵馬が掲げられています。

20180107SyakuS0170s.jpg 『本堂・延命地蔵菩薩 当山の御本尊様です。白雉2年(651)インドの僧・法道によって開かれた。旅の途中、この地に立ち寄り、彼の地より法道の徳力を追って来た龍が授けた地蔵菩薩像を受け、この地に聖舎を建てた。この3年前に孝徳天皇の病気平癒の祈願をし、ご回復されたことによる勅願で建てられたとも言われている。3月の最終日曜日に柴燈火護摩があり、各地より多くのお参りがあります。 石本寺執事』

子安地蔵祠に参り、薬師如来堂へ。
『奈良時代、悪疫が流行した折に聖武天皇は7体の薬師如来像の制作を命じ、光明皇后は17巻の薬師経を浄写され悪疫消除を祈願して各地域に聖舎を立てて祭司されました。
石峯寺の薬師如来様は、行基菩薩によって聖舎と本尊の開眼が為された。十二神将は、その後に祀られた。 石峯寺』
薬師堂内も、建てられた時期は定かでありませんが、本堂と同じような作りで暗く落ち着いていた。

20180107SyakuS0180s.jpg 参拝中、時折聞こえる車の音に目を向けると、ほんと外車特にドイツ車が多い。
昨年9月にアメリカ東海岸に行ったが、アメリカよりドイツ車比率は格段に高いように思う。
落ち着いたデザインと、日本車に次いで故障しないドイツ車に質実剛健を感じ好む日本人が多いように思う。

近隣の他の寺社訪問も予定していたが、殊の外「石峰寺」が素敵で時間を食ってしまい、15:22帰路につきます。
r38まで下りてきたら、出発時に通り過ぎていった車が感知式信号で止まっています。
二輪押しボタンボックスを見るとまだ感知していないので、横を通り抜けボタンを押す。
すぐに信号が変わりました。

r38を東進し、R176を少し北上し、r327に乗ります。
「JR道場駅」横を通り、武庫川沿いを走ります。
新名神のこの区間は、事故により開通が1年半先延ばしになりましたが、下から見上げた外見は完成しています。
「川下川ダム」横を走り、r33~r325~長尾山トンネルで大阪平野に戻りました。

16:31「セルフ宝塚176」で給油。
322km/14.5L=22.2km/L。
16:40帰宅。
家内はずっと家にいたようです。
NHK「ダーウィンが来た」、この日から始まった「大河ドラマ・西郷どん」を見て寝ました。




1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 湊川神社~荒田八幡神社

20180106MinatoS0247s.jpg 『湊川神社 所在地:神戸市中央区多聞通3丁目1番1号 祭神:楠木正成公(大楠公) 配祀:楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族16柱並びに菊池武吉卿 摂社:甘南備神社(祭神:大楠公夫人) 境内神社:楠本稲荷神社(祭神:倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命) 菊水天満神社(祭神:菅原道具公)
由緒 大楠公は、元弘元年(1331)9月に後醍醐天皇の命に従い挙兵、やがて鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績をあげられた。しかし、謀反により一時九州へ敗走した足利高氏の大軍を、大楠公はここ湊川で迎撃、激戦の末、延元元年(1336)5月25日、弟・正季卿と「七生報国」を誓って刺交し、殉節を遂げられた。
その後墓所は、豊臣秀吉検地の際、免祖地とされ、江戸時代初期には摂津尼崎藩主・青山幸俊公によって松と梅が植えられ、五輪の供養塔も建てられた。更に元録5年(1692)水戸光圀公(義公)によって、墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立、大楠公が天下に顕彰された。
これにより、大楠公景仰の気運が愈々高まり、やがて維新回天への力強い精神的指導力となった。そうした幕末から維新にかけて、尊崇いてやまない大楠公、その御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868)4月、明治天皇は神社創祀の御沙汰書を下された。
よって明治5年(1872)5月24日、社名と「湊川神社」とし、初めて別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭・翌日楠公祭が斎行され湊川神社が創建された。
御盛徳 大楠公は、智・仁・勇三徳を備える人格者で、聖人とも仰がれた武将であった。大楠公の忠誠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫に至るまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はいないと言われるほど、国民に大きな感化を与えた』

20180106MinatoS0250s.jpg 境内内参道に「大楠公一代記」と銘打たれた13枚の絵パネルが立っていた。
太平記に沿った楠木正成の生涯が描かれていた。

大学1回生の時、付き合っていた同じ学部の同級生美人さんと来たことを思い出しました。
夏前に友達のクラスにいた同級同回生一番の美人さんに知り合いました。
友は同じクラスのもう1人が良いと言い、僕は美人の方。
彼に紹介してもらい、僕がWデート学食昼食を誘いました。

僕と彼女は順調に進み、何度も彼女の家に車で送り、初詣に湊川神社に参拝しました。
僕のお付き合いした中で最高のプロポーションの持ち主でした。
水着姿は悩殺モデルそのものでした。
男子学生の視線浴びまくりで、大学の友達から、かなり羨ましがられました。
目を引く美人さんは敬遠されるのか、僕の素朴さが良いのか、打率10割で、最初から振られた経験がありません。

チヤホヤされるも意外に決まった人がおらず、誠実に丁寧にアプローチすると上手くいきます。
家内だって、違う学部のマドンナさんで、今でも「可愛かったよな、今どうしてる?」と僕との関係を知ってる家内の学部の同学年の友達から言われます。

綺麗な着物姿で目がくらむほどでした。
すれ違う男どもが彼女を吟味する目で見ているので、自慢げに歩きました。
美人さんは、ずっとこんな視線に合っているのかと少し気の毒に思いました。
でも西洋的なプロポーションの女性は、着物より洋服の方が似合います。
白人モデルさんが着物を着ても、細身で首の長い日本人女性に見劣りするのと同じです。

彼女はピアノ・オルガン・エレクトーンが上手で、教会での結婚式のパイプオルガン伴奏のアルバイトをしていました。
観に来てと言われていたのに、日曜日はクラブなのでその機会がありませんでした。
山の家の掃除に連れていき、一緒に掃除したとき、「お嫁さんになったみたい」と言われました。
1回生後期試験が大学紛争でレポート提出になった時、彼女の家に行きレポート作成に励みました。
作文が得意な僕は、クラブが始まるので早期提出したこともあり、軒並み優の抜群の成績で、これで弾みが付き卒論も学部内表彰され、全員に配られる卒業優秀論文集に収載され、成績優秀で学部卒業できました。
うちの母も気に入り、美術館や博物館を3人で巡ったのも複数回ありました。

彼女との交際は1年半続きましたが、2回生のクリスマスに振られちゃいました。
性格も良く気に入っていましたが、僕のヨット部最優先が不満だったようです。
ヨットは同学年唯一の高校ヨット部経験者で1回生の時から期待され、秋からクラブの主力だったこともあり思いっきりやり、お陰様で国体やインカレなど当たり前のように出て、大いに楽しみそれなりの成果を出しました。

「私とヨットとどちらが大事?」というドラマで定番の言葉が出た時には、ちょっとガッカリでした。
「私と仕事と・・・」に共通する言葉で、家族を食わせるため働く時は休みなど関係なく頑張ることが男には必要だと思ってるので、合わなかったと思います。
僕より精神年齢が大人で、結婚をずっと意識していたように思います。
僕が具体的に結婚を意識し始めたのは、3回生以降でした。

今は僕も定期的に休んでいますが、次男が中学生になるまでは、完全にワーカーホリックでした。
労働基準法・週休・・などどこ吹く風で、仕事で成果が上がるのが面白く、タイムカードなどすると叩き過ぎの証拠が残るので無視していました。
最近の西洋式社会風潮は、「労働=苦痛」「労働=食うためのお金稼ぎ」ですが、僕は自己実現だったように思います。

だから最近の「過労死で会社を訴える風潮」に違和感を感じます。
社会としてはそれが正義でしょうし、大きな組織では当たり前の事ですが、人の倍働き成果を出せば、自分の好きな時に休みが取れますし、会社に切られることに怯える必要がなく、自分で会社が動くようになります。
よって小企業好きです。

家内は自分もフルタイムワーカーなこともあり、こんな僕に理解を示してくれました。
いつも自分の仕事をこなした上で、食事・掃除・洗濯・子育てのスーパーウーマンでした。
家内の母親もいつも笑顔で仕事を差配していた方で、よく似ています。

僕は月2の休日も少しでも会社に顔を出すワーカーホリックだったけど、夜が弱いこともあり結婚してからは夜7時には帰宅して毎日子供と遊んでいました。
風呂と寝かしつけは僕の仕事で、出張出ない限りしっかりこなしました。
その代わり、就業後の付き合いはほぼナシでした。
盆正月は家族と一緒の時間を大切にしました。

20180106MinatoS0262s.jpg 中山手通~R428で15:14「荒田八幡神社」。
『当八幡神社は古くは高田神社といい、後に宝地院境内にあったハ幡社を、神仏混淆を避けて、明治31年(1898)にここへ合祀して、荒田八幡神社とされました。
この近辺の土地は周囲より一段と高く、この高台付近が都の重要な地であったと考えられます。八幡神社の土地は平清盛の弟・池大納言平頼盛の山荘であり、治承4年(1180)6月3日の福原遷都の際には安徳天皇の行在所となり、境内には安徳天皇行在所跡の碑のほか、昭和55年(1980)6月3日に建てられた福原遷都800年記念の碑があります』

20180106MinatoS0271s.jpg 『祭神:応神天皇・素盞嗚命・安徳天皇 当八幡社は古くは高田神社といい、荒田村字1町田に鎮座し、熊野権現を祀っていたからその森を権現の森といったが、のちにすぐ西にある宝地院境内にあった八幡社を神仏混淆をさけて、明治31年2月24日兵庫県知事の許可を得て、ここに合祀して荒田八幡神社となった。
この土地は池の大納言・平頼盛(清盛の弟)の山荘であり、治承4年(1180)6月3目の福原遷都のとき安徳天皇の行在所となった。いわゆる今日でいう皇居であり、今の境内に行在所跡の標石が建っている。
この頼盛の別荘については、高倉天皇の「厳島御幸記」に「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(あらた荒田)という頼盛の家にへ笠懸(かさかけ)、やぶさめなど仕うまつらせ、御覧せらる。日暮れ帰らせ給う。」と記しているので広い邸内であったことがわかる。
邸内は一段高く、昭和13年7月の神戸大水害の時にも附近一帯泥海のなかに島のように見えた。こうした日本歴史の一端をにない、又神戸の史跡として重要な役割を果たし、「平家ゆかりの地」として日本国民から崇敬を集めている。ところが昭和20年3月のあの神戸大空襲のため社殿を焼失してしまい仮社殿を再建し40年を経過したが、昭和60年6月、氏子・崇敬者のなみなみならぬ努力により、現
在の新社殿の建立をみている。
昭和55年6月8日、神戸にとって歴史的意義のある福原遷都800年を迎え、神戸市及び郷土史家の手によって「福原遷都800年記念碑」が建設された。
又、当神社は厄除の神として知られ古くから兵庫県下一円より厄除大祭(1月18・19・20日)には参詣者で賑わっている』

確かに周囲より少し高く、2F建て建物がなければ、景色は良さそうです。
こじんまりした境内・社殿ですが、綺麗に清掃され、寄進の酒樽が並べられており好感が持てました。
20180106MinatoS0280s.jpg 本殿を覗くと、小ぶりなお神輿が鎮座していました。
境内周囲に真新しい紅白の幕が下り、2週間後の厄除大祭の準備が整っているのかもしれません。

帰路につきました。
中山手通~山手幹線~山麓線~山手幹線~R171を経て、16:38自宅着。


1/6・神戸/平家物語・史跡巡り 禅宗福海寺~厳島神社~湊川神社

道を挟んだ所にある「禅宗福海寺」を訪問。
「大黒尊天」と門柱に書かれていた。

20180106MinatoS0169s.jpg 『平清盛公遺愛の時雨の松・石碑 平清盛公遺愛の時雨の松は、神戸市兵庫区三川口町にありました。青葉から玉露を垂らし、霊験あらたかであったといいます。
同所に在った兵庫最初の庚申堂と共に平清盛公の信仰を受けておりましたが、大東亜戦争の火災で枯れてしまい、残っていた切り株も阪神大震災で無くなってしまいました。現在は石碑のみが福海寺にあります。この石碑は明治35年に福海寺第24世大海元梁禅師が建立され、自ら題字も書かれています』

ここも電気業者が入り、沢山の電球を下げていた。
20180106MinatoS0172s.jpg 「義高稲荷大明神」が摂社としてあった。
義高・・・といえば木曽義仲の息子・義高が思い浮かびます。
木曽義仲は、宣旨を受け各地に蜂起した源氏の信州木曽発の将軍で、源頼朝とは従兄弟同士。
義仲が北陸経由で京に攻め上り、平家を西国に落とした。
しかし後白河法皇と上手く行かず、頼朝の弟・義経軍に敗戦し、大津に散った。

木曽義仲の嫡男・義高は京に攻め上る前、頼朝軍と対戦した時、人質として鎌倉に幽閉されていた。
だから父とともに京に攻め上っていないと、平家物には書いてある。
でも頼朝と政子の子・大姫と恋仲になり、頼朝の父・義朝が弟である義貞の父・義兼を討ったことから始まった同族間不仲も解消するかと思われたが、再びの死闘で追討され命を落とした。
このことで大姫はふさぎ込み、亡くなってしまった。

「なぜ、神戸に義高が・・・」と歴史的興味が膨らみ、帰宅後調べたが、義高との直接の痕跡は見つけられなかったが、足利尊氏との関係を見つけた。
『建武3年(1336)、京都合戦に敗れた足利尊氏は、丹波路から播州三草より兵庫に逃亡中、新田義貞軍に追われ、福海寺の前身である「針が崎観音堂」の檀下に身を潜め一命を取り留めた。兵庫を出港し九州に落ち、西国水軍を率いて、観世音菩薩名号の帆を張った軍船で兵庫の地に再上陸、湊川合戦に勝利した。
室町幕府を開いた足利尊氏は、康永3年(1344)一命を取り留めた報恩と、彼我戦没者供養、祝国安民祈願のため、京都正伝寺より在庵圓有禅師を拝請し福海寺を開いた。「福海興国」の文字は、命拾いし兵庫から出港したことが国を興す元になったとの感謝の意。その後福海寺は、嘉吉の乱の兵火で新田義貞陣所跡の二本松(現在の兵庫駅)より現在地に移転した』

バイクに乗ると、境内でやっていたテキ屋の縄張りを、塀に沿ってやっていた。
10人ほどがゾロゾロ・・・。
テキ屋の1区画は決まっているようで、3mほどの棒を塀に当てチョークでマークし、ナンバーを振っていた。
抽選で出店場所を選ぶのだろうか?
最若手がガバンに載せた画用紙に記録していた。

20180106MinatoS0178s.jpg 14:27「厳島神社」。
『厳島神社(兵庫弁天) 治承4年(1180)、福原遷都の際、平清盛が平家一門の氏神として深く信仰している安芸国・厳島神社をこの地に勧請しました。福原京の周り7つの地に厳島神社を勧請したので、七弁天と呼ばれ、花隈・佐比江(さびえ)・西宮内・夢野・真野・渦輪(うずわ)とこの社となっています。他の弁天社が神社や寺と併祀しているのに対し、ここのみが独立していたため、渦輪にあった弁天社を合祀して存続しています』

大きくはないが風格の有る落ち着いた本殿で、境内に摂社「白萩稲荷大明神・若永稲荷大明神」があった。
「淡嶋神社」があり、謂れ板に「淡島様は医薬の祖神で、ご婦人の守り神」とあったので、お嫁さんの無事の出産を願った。

20180106MinatoS0180s.jpg 厳島神社は、宗像三神を祀るが、ここは市杵島姫命だけが祭神として謂れ板に記載されていた。
『当社は今から約800年前の治承4年(1180)、平清盛公によって建立されました。清盛公はかつて安芸守に任ぜられた時より、厳島明神を深く信仰していましたので、都を京都から福原に移した際に、厳島明神を安芸国より勧請したのです。
当社の縁起によると、清盛公が兵庫の港に築島を築こうとされた時、ある夜の夢に天女が現われ「私は安芸国厳島明神である。この海を暴風雨から守り、汝の志しを能く成就せしめんが為に来たのである。篤く信仰して必ず疑うことなかれ」とお告げになりました。清盛公は深く喜び、兵庫の港の守り神として明神を祀ることにしました。
伝・龍燈の松 かつて本殿の裏に、樹齢千年にも及ぶ老松があり、清盛公が厳島明神をおまつりする所を探していた時、この松の梢に燈火がかかるという奇瑞があったので、当地を社地に定めたと伝えられています。のち文政7年(1824)5月5日、沖から燈火が飛来し、この松にかかり煌々と輝いたので「龍燈の松」と称するようになりました。太さ1.5m・高さ3m程の枯幹が残っていましたが、戦災
により焼失しました』

R28で東進し、14:39「湊川神社」。
20180106MinatoS0199s.jpg 地下駐車場前の歩道に駐輪すると、裸像などの像が歩道に並んで設置されていました。
境内に入ると、楠木正成の菊水紋が飾られた「楠公会館」がありました。
神前結婚式などの披露宴会場などに使われるのでしょう。

ここは神戸三大神社の中のトップなので、まだ拝殿前に長い行列が出来ていました。
流石です。
神戸第一の安産祈願所なので、守護を授からなくちゃ。
ここの訪問が本日のメイン・ディッシュです。

20180106MinatoS0207s.jpg  「干支お守り」の他に「やなせたかしの十二支お守り」があった。
20180106MinatoS0208s.jpg  「福寄せ熊手大3000円~小1000円」「破魔矢1500円~鏑矢2500円~俵付鏑矢3000円」、僕は「干支戌絵馬500円」と薄ピンクの「安産守護桐箱入り1500円」を授かった。

我が家の神棚に上げようと思ったが、家内が綺麗な守護だから隣の実家の仏壇の方が汚れないから良いと言うので、仏壇に置くことになった。
実家は週一ぐらいで仏壇の掃除とお水換えするぐらいで埃が立たないから良いのだそうだ。
神棚なら毎朝晩手を合わせるので良いと思うのに・・・。
まあ、隣に家内の両親の遺影が飾ってある小さな仏壇があり、チーンの台に僕の幼児からの守り神・蛍光マリア様も置いてあるから喧嘩するかな?

20180106MinatoS0215s.jpg 絵馬掛けで、願い事を見てあれこれ思う。
「学問の神様・菊水天満神社」があった。
僕の先祖・道真公なのでもちろんお参りする。
代名詞の牛の像が参道にあったが、角や尻尾にまで御神籤が結ばれていた。
脇にもちろん東向きに遥拝所があった。

20180106MinatoS0220s.jpg 奉献の酒樽がずらりと並び、ヒガシマルとマルテンの醤油も並んでいた。
また絵馬掛けがあったので拝見。
大きな神社なので、絵馬掛けも数ヶ所にあります。

『楠木正成公募所(国史跡・嗚呼忠臣楠子の墓)・徳川光圀公銅像』を観に行きます。
数度も来ているのに、楠木正成の墓は初めてです。
『徳川光圀公は、元録4年(1691)水戸藩主を辞して西山荘に引退し、大日本史の編纂に着手され、翌年楠木正成公を景仰して「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立し、ご盛徳を天下に顕彰された。湊川神社においてそのご功績を追慕し像の建立を発願し、委員長に小倉正恒氏を戴いて昭和30年7月11日に完成したものです』

20180106MinatoS0231s.jpg 時代劇でおなじみの姿ではなく、仙人風のお姿でした。
20180106MinatoS0237s.jpg 『史跡・楠木正成公墓碑 延元元年(1336)5月25日御殉節せられた後、150年余経た元録5年(1692)12月21日徳川光圀公によって建立せられた。碑面8文字「嗚呼忠臣楠子之墓」は光圀公筆にして、碑陰に明の遺臣朱舜水の撰文を彫す』

20180106MinatoS0244s.jpg 脇門から入ったので、正門の神門の外に出てみました。
陸上部の練習なのか早く着いた高校生が10人ほど、謂れ板の前に座っていました。
僕が写真に撮ろうとすると「すいません」なんて言っていますが、問題なく写せるので「問題ないよ」と応えた。


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