6/25・ルーカス君・生後10日検診順調

長男のお嫁さんから、LINE連絡がありました。
20180611_180625_0080s.jpg ルーカスくんはおっぱいをぐんぐん飲み、生後10日検診では体重が3200gになったそうです。
220gの体重アップです。

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りょうくん5才・こうちゃん2才ともに可愛がってくれるのですが、初めて弟が生まれる体験のこうちゃんはちょっと複雑で荒れ気味だそうです。
穏やかな性格の子だから、「荒れ気味」がどんなか興味があります。

20180611_180625_0085s.jpg 3人の子育ては想像以上に大変で、両親がいてくれる1ヶ月の間に体力を回復させペースを掴まなきゃと思っているそうです。
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ルーカスたいせいくんのアメリカ社会保障番号が発行されました。
その写真を見ると、「Social Security number」と「USA」の文字が書かれ、なんだかカッコいい。

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6/24・三田篠山寺社ツーリング 2/2

更に東に走り、JR福知山線を渡る。
20180624SandaS0105s.jpg 14:38、かつての交通の要衝「古市」地区に入ってみる。
20180624SandaS0107s.jpg 『右はりま道・左大坂はりま』と彫られた道標が立っている。
「古市」の名の通り、古くから「市」が立っていたのでしょう。
「市場」は人々の生活に無くてはならない場所で、それぞれの生産物を持ち寄りよりよい生活のために交換していました。

「不破数右衛門ゆかりの地・宗玄寺」の案内板を見つけ見学することにする。
20180624SandaS0115s.jpg 境内に上がる石段横に「蛭子神社」があった。
20180624SandaS0123s.jpg 続いて「不破数右衛門ゆかりの地・宗玄寺 全国忠臣蔵サミット加入」に上がってみる。

『源義経が京から鸚越に向かう途中に古市を通ったという伝承が残されるように、古来より交通の要衝でした。古市は宿場町として、最盛期は宿屋6軒を始め、馬宿・米屋・酒造屋などほとんどの業種が集まり、にぎやかに栄えていました。
街道のほぼ中央にある宗玄寺は、赤穂浪士四十七士のひとり不破数右衛門ゆかりのお寺で、毎年12月14日には義士祭が行われます』

20180624SandaS0126s.jpg 写真を撮っていると、裏で庭仕事をされていたのかご住職が出てこられ、「どちらからですか?」と会話が始まった。
「伊丹から」だと言うと、ご住職もかつて伊丹に住んでおられたようで、しかも「御願塚」という僕も4才から小1まで住んだ地名がお住まいだったようで、一気に話が盛り上がった。

不破数右衛門さんとの縁をお聞きし、昭和の時代のかつての古市の賑わいもお聞きした。
古市駅を中心に街道沿いのここらは商店街で、あらゆる商店が軒を連ねたようです。
30分ほど本殿の階段に腰掛けてお話し、写真を撮った。
貴重なお話を聞かせてもらいお礼を含めてお賽銭を奮発しようかと思ったが賽銭箱がありません。
奥にあった「日限地蔵尊」を覗くと絵馬が置いてあったので、それを授かることにした。
ご住職に声を掛けそこの賽銭箱に500円チャリン。
「心願成就・日限地蔵尊・丹波古市」と焼印されていた。

20180624SandaS0136s.jpg 『当初、丹波の酒井荘として4つの城で統治されていたが、明智光秀の丹波責めにより次々と落城していった中に、油井城主酒井秀正の子である酒井秀朝が後に仏門に入り誓珍と称し、1597年に草案を創設。その後、1676年(延宝4年)に、真宗大谷派に属し宗玄寺と改称した。
忠臣蔵で有名な赤穂浪士の中に、「不破数右衛門正種」という武士がいました。
数右衛門の父は播州の人で、岡野治太夫といい、治太夫の妹「熊」が古市の大庄屋であった「鍵屋」へ嫁に来ていました。年老いた治太夫夫婦は鍵屋の縁寺であるこの宗玄寺に身を寄せていた。
数右衛門は槍の名手として元赤穂藩馬廻り役百石で浅野内匠頭に仕えていたが、故あって主家を去り、浪々の身となっていた時、松の廊下の刀情事件が起こりました。いよいよ吉良邸に討ち入りが決まり、三々五々江戸へ下向する際、数右衛門は不来坂峠に立ち寄り、長男長女を母に託し、母との永別をしました。
母は討ち入り決行を悟り、「母とともに本懐を遂げるよう」と自分の長襦袢を託しました。女物の襦袢を着る数右衛門からその訳を聞いた大高源吾が、武士の心として墨跡鮮やかに白居易の詩の一節を襦袢の背中に記しました。
「松樹千年遂是朽 槿花(きんか)一朝自為栄」
数右衛門切腹後、遺品として2人の遺児に刀と襦袢が届けられましたが、明治になって鍵屋の没落による混乱に当たって行方がわからなくなりました。現在はそのレプリカが保存されています。
長男大五郎は、父の冥福追善のため出家し大雄と称し、下野国古河城下の禅宗永昌寺に入りました。長女の鶴女は御影の照明寺へ嫁しました。また治太夫夫婦は宗玄寺で亡くなり、宗玄寺墓地にお祀りされています。境内の大きな碑は討ち入り230年を記念して昭和7年に多くの人の寄付で建てられたものです。毎年12月14日は義士祭が行われ、子供義士行列が街中を練り歩きます』

『赤穂義士の一人、不破正種の実の父、岡野治太夫は共に赤穂藩士であったが、赤穂藩藩主の浅野長矩が高家旗本の吉良義央に対し遺恨から殿中刃傷に及び、後に切腹処分となり家臣たちの離散後、一時播州亀山(現・姫路市)に居住していたが、治太夫の妹のおさよ(通称:熊)が古市の鍵屋という酒造家の酒井三郎右衛門に嫁いでいたことから、治太夫は正種の子2人(大五郎とお鶴)を連れ妻とともに、熊の嫁ぎ先に一時身を寄せ、しばらくして宗玄寺に寄寓することとなった。不破正種は江戸での刃傷事件が起こった時にはすでに事情があって赤穂藩を浪人しており江戸に浪々の身を置いていたという。しかし、同志に加えられる事が許され、討ち入り(赤穂事件)を前にして、正種は密かに両親や子供に別れの言葉をかけるため宗玄寺に立ち寄った。正種の母はこの時、自分の白無垢の下着の裾を切り取り、男の襦袢に縫いなおして餞別にしたが、討ち入り決行の夜には大高忠雄がその襦袢に白居易の詩(浄頼光跡目論 五 白居易放言の一部)である「松樹千年遂是朽、僅花一朝自為栄」と書き記した。赤穂義士47名は、1702年(元禄15)12月14日夜半に吉良邸に突入、本懐を遂げたが、後に正種の短刀や襦袢等の遺品は篠山城主松平氏を通して、宗玄寺に返送されたという。 大五郎は篠山の禅宗大膳寺にて仏門に入り、26歳になって三河の国の永昌寺へ移ったがその後の消息は不明ある。娘「つる」は長じて神戸東灘の真宗寺院に嫁ぎ、後年、その娘が宗玄寺に嫁してきた。
境内には正種の大きな顕彰碑が建つほか、少し離れた宗玄寺墓地には治太夫夫妻の墓石が、また境内の一部には、期限までに願いをかなえるとされる村の「日限地蔵」が祀られ、寺院のすぐ脇の蛭子神社には精緻な彫刻を楽しむことができる』

この女物襦袢の下りは、忠臣蔵で読んだことがある。映画やドラマでもお涙頂戴な場面として取り上げられているような・・・。ご住職の話では、この子供義士行列も地域の子供の減少によりあと3年の継続が決まっているだけだそうです。
20180624SandaS0138s.jpg 先程見た道標と同じものが立っていた。
平成25年に交通事故で壊れた道標を修復したもので、現在道路に立っているのはレプリカだそうです。

20180624SandaS0142s.jpg 『古市の日限地蔵様は、別名延命地蔵様とも呼ばれ、日限を切って願掛けをすると願いが叶うと、遠方からも口伝てに聞く方のお参りが絶えません。
天保14年(1843)頃には、久しく村の蛭子神社は廃絶され、町の賑わいも衰えていました。同年、旧7月24日に、当時の村役であった横屋休兵衛・加茂屋長三郎・磯志屋太助・住屋治左衛門の4人が、播州吉川熊谷村(現・三木市吉川町富岡)に鎮座まします日限地蔵尊を勧請して、古市にお祀りすることにしました。
以後毎年7月24日には、町内会が競い合って「造り物」(一式飾り)を造り、その出来映えを競い合い、「古市の地蔵盆」として大層な評判を得て、町の経済も大いに潤いました。祭りの当日の街道筋は、人混みで歩く事もままならなかったのは昭和30年頃まで続きました。
昭和40年代に入り、社会の経済の仕組みも大きく変わり、今では開店するお店も極めて少なくなりました。家族の形態も変わり、少子高齢化の波に飲み込まれて、「古市の地蔵盆」も往時の姿を見ることはなくなりましたが、日限地蔵尊への信仰は今もたくさんの方に伝わっています。そして細々ながら地蔵盆は今も街道筋で続けられています』

R372に出て東へ。
r49へ右折し南下開始。
20180624SandaS0145s.jpg 「美濃坂峠」を越え、「永澤寺」横を通り「永澤寺峠」を越えて、15:44「バイカーズカフェ虎亀」。
16:41お店を出て帰路に着きます。
r49を南下し、r68に乗り換え東進。
~r33~r325~長尾山トンネルを通って、17:34帰宅。

修理に預けた「通勤リード110」を引き取りに、近所の自転車屋さんに向かいます。
小学生時代からの遊び友達がやってるので気楽です。
修理費は、ブレーキ部品代が22000円もしたそうで、工賃3000円プラスで25000円でした。
意外に高額になってしまいがっかりです。
スクリーン本体セット14000円だったのに、折れたボルトを交換するのに25000円とは・・・

後日談・・・
翌日少し走ったら、スクリーンの揺れがあり、また5年ほどしたらボルトが折れるかもしれないので、車載カメラセット用部品を外し、「アドレスV125」と同じようにバイク本体に直接ポン付けすることにしました。
ところがこのボルト、バックミラー穴ピッチと違いポン付けできません。
アドレスV125でホームセンターにボルトを買いに行ったのですが、バイクミラー用ネジピッチは一般用とは違うようで合うのがありません。
ならばバイク用品店と思い「バイクワールド」に行ったが、なんと「棚卸し」で「夕方から営業します」だって。

帰宅し仕方なく「MonotaRO」でネット注文しました。
「大阪魂/六角ボルト全ねじ(ステンレス) M8×60・1.25ピッチ 1パック(10個)¥529」。
更に翌日ボルトが配送され、めでたくガッチリスクリーンで復活しました。

6/24・三田篠山寺社ツーリング 1/2

家内がお出かけしてしまいました。
つまらないので、近所の自転車屋さんに向かいます。
「通勤リード110」の後付カウル(デイトナ・エアロショートスクリーン)の右のジョイント・ボルトが折れてしまい、修理の相談をしていました。
折れたボルトを買おうとデイトナに電話すると、「不良品」かもといろいろ質問されました。
もう7年も使ってるし、車載カメラセットのために部品を噛ませているのでボルトがバイク本体のバックミラーネジ穴に入る長さが短くしたので経年劣化です。
それでも無料で2本送ってくれました。

これの交換だけなら、元々自分でセットしたので簡単なのですが、折れたボルトの下部がバックミラーネジ穴に入ったままで取れないんです。
しかもネジ入れ不足から水が入ったのかサビが進んで癒着しています。
プロでもどうしようもなく、右ブレーキごと全取っ替えになってしまいました。

昨日、ブレーキは入荷した連絡を受けたので、ボルトとバイク持って行きます。
バックミラーがないので押して行きました。
100mほどですけどね。
組み上がりが14時以降ということで、夕方まで走りに行くことにしました。

倉庫から「招き猫CB400SB」を出し、11:52「セルフ北村SS」で給油。
237km/9.44L=25.1km/L。
僕のホームグランド北摂里山地帯に向かいます。
長尾山トンネルを抜け、r325~r33、川下川沿いの林道を走り、川下川ダム横から武庫川に向け降下。
r327で武庫川沿いを走ります。
上空を新名神高速道路が通り、車が走っているのが見えます。

この工事が始まる前は、鷲の営巣地がありバズーカ一眼レフが上空を狙っていました。
早朝や夕方走るとうり坊に時々出くわしました。
狸だったりキジだったり、時には山鳥など何度もびっくりしました。
2頭のうり坊に追いかけられた時が一番ケッサクでした。
そんな野生動物あふれる道は遠い昔になってしまいました。

JR道場横を抜け、R176に出て、r17~r141で立杭に向かって北上開始。
13:07鳥居が見えたので寄り道しました。
20180624SandaS0001s.jpg 「大歳神社」というお宮で拝殿には、『敬神生活の綱領 1.神の恵みと先祖の恩とに感謝し、明るき清き誠を以て祭祀に勤しむこと 1.世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして、世をつくり固め成すこと 1.大恩心をいただきて、むつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること』の額が下がっていた。
20180624SandaS0010s.jpg 教育勅語のエッセンスですね。
20180624SandaS0023s.jpg こういう戦前の道徳教育が復活し、神道を中心に置いた日本人の心の芯を再び立てて欲しい。

r141を北上し、JR相野駅を過ぎr75へ。
13:29道標に導かれ「観音寺」に寄り道。
墓地も探索したが、区画整理されており、これといっためぼしい物はなかった。

20180624SandaS0033s.jpg 13:41「住吉神社」。
境内に登る石段手前に「重文・住吉神社本殿」の石碑が立っている。
期待が膨らみます。
20180624SandaS0066s.jpg 境内に上がると、檜皮葺の拝殿が正面にあり、その奥に同じく檜皮葺が美しい本殿が建っている。
20180624SandaS0063s.jpg 境内右手前に茅葺きの能舞台が、瓦葺きの渡り廊下を伴ってある。
これはなかなかの掘り出し物です。

20180624SandaS0051s.jpg 『住吉神社 本殿:国指定重要文化財 舞殿:県指定重要文化財
社殿は、三間社流造、屋根は檜皮葺の伝統的なエ法で、鎌倉期の建策様式を残しています。建築後いくたびかの補修再建が繰返されてきました。昭和47年(1972)に半解体修理が行なわれました。その時社殿の基壇石組は創建当初に復元されました。
建築された年代は、大工日原氏が建てたとする棟札写などによって、文永2年(1265)の建立である考えられていました。文化財の修理工事の調査報告では、古文書に見える貞治4年(1365)の上棟をとるべきであるとの見解が示されました。
三田市内に現存する最古の神社本殿の建築であるとともに、14世紀中ごろの流造の遺構としても全国的にみても貴重な本殿である。
舞殿は近世初期のもので、今は能楽堂となっているが、北来は拝殿であったものをこのように改造されたものである。
舞殿は、桁行1間、梁間2間の入母屋づくリ茅葺である。寛文頃(1661~)から毎年奉納能が行なわれ、折々に藩主たちが観能に訪れました。現代は10年毎に能楽を奉納しています』

ナイスな神社でした。
神社横の道を北に走ります。
参拝からバイクに帰ってきた時、バイクが1台奥に向かって走って行ったので、どこからに通じているのかもしれません。
地図では、東条川の大瀬川ダム湖の右岸道路です。
途中左岸に渡る橋があり、そちらがメインのようですが、あえて左岸にこだわりましょう。

道が細くなり林道になりました。
いつ未舗装路になり、ジエンドになるかわからないけど突っ込みます。
勾配がゆるい「梅木峠」という峠を北に抜け、民家が見えてきました。

東西に走るr311に抜けました。
右折し走っていると鎮守の森を発見し突っ込むが民家でした。
素晴らしい。

r311に戻ると鳥居発見。
20180624SandaS0075s.jpg 14:08「木津住吉神社」。
「津」は港のことだから、「木津」は木の斬り出し港があった名残の地名です。
住吉神は水の神様なので、林業の守り神として祀ったのでしょう。
20180624SandaS0074s.jpg 『木津(こつ)住吉神社の田楽
10月9日の宵宮と10日の昼振舞の後、神社の舞堂で行われる。昭和36年までは9月に奉納されていたが、昭和37年以降途絶え、昭和56年に木津住吉神社田楽踊り保存会が結成され復活した。
20180624SandaS0088s.jpg 田楽には、幣(しで)かたげ・ササラ・太鼓・笛の役があり、保存会の手により演じられている。踊り子は浅葱(あさねぎ)色の裃(かみしも)に仙台平の袴・白足袋の装束で踊り、巫女の舞・田楽・跳び(トートイチ)の順番で奉納される。
20180624SandaS0096s.jpg 木津住吉神社の田楽の由来等については、資料・伝承がないため明かでないが、天明4年(1784)の宮当規式定書には「踊りならし」という記載がみられることから、この時期にはすでに行われていたことがわかる』

20180624SandaS0098s.jpg バイクに戻り、r311~r141~R372で東進し篠山方面へ。
今田町に入り国道沿いに鳥居を見つけた。
帰宅後調べると、ここも「住吉神社」でした。
この地域に住吉神社が集中しすぎているので、八幡さまを守り神とする源氏の荘園のように、住吉の神様を守り神とする豪族の影響かな?なんて思い更に調べてみた。
今田の住吉神社の謂れを見つけた。

『古市の町並みから西へ約500メートルで国道372号は不来坂峠にかかる。頂きは丹南町と今田町の境に当たる。坂道を下った右手のこんもりとした「蛙の森」に鳥居が見え、急な石段を登ると住吉神社がある。右に春日神社、左には八幡神社と稲荷神社が相殿として祭られている。
現在の今田町域は古くは住吉大社の播磨国賀茂郡椅鹿(はしか)山神領に含まれる御杣(おそま)山(用材供給の山)であり、平安初期には大社の小野原荘となった。
「東大寺文書」の天喜3(1055)年の文中には「多紀郡西県住吉御領小野原御庄」とあり、国役が免除されていた。その後、御獄山清水寺との境界論争もあったが、荘園が成立するとともに建てられた小野原住吉神社は終始、地域の総氏神であった。
境内西の山林の中に「かくれ杉」という神木がある。その昔、住吉神がお越しになった時、杉の木の後ろにお隠れになったので、その名がついたという。この杉の木の下には盤座(神が鎮座するところ)として使った石組みの遺構が残っている。それを「かくれ宮」と呼ぶことから、杉の大木と磐座が住吉神社の始まりだろう。
この神社は通称「蛙の宮さん」と言われている。10月4・5日の例祭の神舞には鶴と亀を白く染め抜いた素袍(すおう)を着た踊り手が、5人がビンザサラ(竹製の打楽器)、3人は締め太鼓を持って登場する。互いに跳び交う時に、足拍子を合わすための「ヘイッ、ヘイッ、カエロ、カエロ」という掛け声からとも、跳ぶ姿が蛙に似ているからとも、また、森が蛙のように見えるからともいう。
この祭りは中世より荘官の下司(一般事務)、公文(収納、訴訟)、田所(田畑の管理)の3職を中心に当人(世話役)たちが奉納し治めた一種の田楽である。
奇祭として多数の参けい者でにぎわう』

平安時代、住吉大社の荘園だった名残りのようだ。

6/23・ヨットレース

r102~r18~R161で、8:25「セブンイレブン大津松山町店」で、「助六寿司398円」を購入しヨットハーバ着。
早朝ツーリング終了。

インカレ個人戦予選のコーチングです。
9:30に出艇し、North3~4m/sで1レースしました。
上マークが近く、トップ艇フィニッシュが30分以内の短いレースでした。
各クラストップ6艇が全日本に進めます。
当方は3/12艇がトップ6に入りこれからです。

AP(延期)フラッグで上マークを遠くに移動させている間に、雨が落ちだすとともに風が落ち、AP/Hフラッグが揚がりハーバーバックになりました。
ここから延々風待ちになりました。
1回生の男子選手・女子選手・女子マネージャーの4人でお喋りしていました。
これから始まる大学生活のいろんなことも話しました。
女子選手は、2~9才までオーストラリア・メルボルンに住んだ帰国子女なので、アメリカ生活中の孫たちのこともありいろいろ聞かせてもらいました。

雨は降っているものの弱いですが風があるので、僕がレース委員長ならレースするな~と思いながら待ちました。
14時を過ぎAP/Aフラッグ揚がり、本日のレースは終了になっちゃいました。
なんじゃそりゃ、雨だから出るのが嫌だっただけじゃないの?レースは面白いから、どんどんやろうよ。

合宿所に戻り、全体ミーティングです。
気づいたことを話しました。
レースに関しては、ペナルティー履行場所や、レースストラテジー、混んだ状況での上マークへのアプローチなどを話しました。
1回生の超ポジティブ練習、2回生の半年後に迫ったインカレ団体戦予選本番への取り組みも話しました。

クラス別ミーティング後、美味しい夕食を頂き帰路に着きました。
湖西道路~名神高速~中国道~R171で、19:41「エッソ伊丹北村SS」で給油。
263km/8.97L=29.4km/L。 

コーチボート上で、4回生の子と3回生の女子マネさんに、「色白保ってるね~」と軽口を叩いたら、「コーチも綺麗な顔されていますよ。ツヤツヤしてるよね~」と嬉しいことを言ってくれました。
単に脂ぎってるだけだろうけど・・・




6/23・精華町ツーリング

コーチしてる大学ヨット部のレース日です。
インカレ個人戦予選です。
2つのクラスの上位6艇のみがインカレ個人戦に挑戦できます。
大学ヨット部の最終目標はインカレ団体戦ですが、全国の速い学生レーサーの実力を肌で感じることが出来ます。
卒業後の思い出にもなるので、レギュラー3艇×2クラス=6艇が予選通過できたら最高です。
最低各2艇、当面の目標各2艇です。

9時に出艇のようなので、早朝ツーリング出来そうです。
天気予報は日中雨だけど、~AM10+PM4~=曇りという最低限のバイクツーリング可なので、四輪で行く選択を消し、「里山VTR250」で出発しました。

4:33、近所のローソンで、「キリン小岩井ミルクトコーヒー162円」を購入。
R171~中央縦貫~近畿道側道r2~r14~r19で淀川を渡る。
R1で北上を開始し、R307で東進しr71で南下。

20180623SeikaS0001s.jpg 5:42木津川沿いにある「祝園(ほうその)神社」着。
20180623SeikaS0013s.jpg 『御祭神/天児屋根命・武御雷命・経津主命
延喜式内社で、48代修徳天皇の勅命により悪病平癒・家内安全・農商工業の発展を祈願するため神護景雲4年1月21日に創祀されたお宮。
1月いごもり祭/無形民族文化財・11/3例祭・12月御神祭』

r71に戻り、木津川を東に渡り、R24からJR奈良線の東にある「大塚山古墳」横を通り、6:02「松尾神社」。
20180623SeikaS0031s.jpg 横に「TK Race Way」という小さなサーキットがあった。
カートの練習場かな?個人が持っていそう。

20180623SeikaS0049s.jpg 『京都府登録文化財/松尾神社拝殿・表門・境内社御霊神社本殿(桃山江戸時代)天武天皇が吉野山より東国へ向かう時、この地で大山祇神の化身であるという樺井翁と軍議を談じ、翁が姿を消したあとに残された宝珠をこの地の後の鎮めとし、のち大宝元年(701)に秦都理が霊夢によってこの宝珠を得て、これを神体として宮殿を創建したのがはじまり。
近世以前は、御霊神社が「下の宮」と呼ばれたのに対し、「上の宮」と呼ばれ、ともに椿井から上狛にかけての人々の信仰を集めていた。拝殿棟木に墨書銘があり、現在の拝殿が慶長15年(1610)に再建されたこととともに、有力農民の代表である。「十二番頭」や、南村(上狛)と北村(椿井)の宮座一老・松尾社・御霊社の神主などの名が記されている。また宮座に残されていた遷宮神事を行う時の絵図にも、狛野荘の荘官である下司・公文・トネの席や、有力名主によって構成されていた中老座・ばく老座の席、能や狂言を演ずる舞台や楽座、はしがかりなどが描かれていて、これらから中世の村政を司った組織と松尾神社との関わりが伺える。なを表門も拝殿とほぼ同時期の桃山時代の造立である。本殿は文化5年(1808)に奈良春日社若宮本殿を移築したものであり、東隣の御霊神社本殿は、春日社三ノ宮を文政6年(1823)に「下の宮」に移築し、さらに明治13年に神社併合により、ここに移築されたものである。中世村落における神社の面影を留める建物群である』

6:16「玉台寺」。
『狛弁財天社 弁財天は元来インドにおいて川を神格化したもので、日本でも竹生島など水に関係する地によく祭られている。
狛弁財天は、室町時代初め頃に上狛から椿井にかけて広がっていた興福寺領狛野荘の利水や水害に関連して創建されたものと考えられています。15世紀中頃から後年には、興福寺大乗院や一乗院から門跡が参詣し、拝殿造営のための奉加帳が興福寺内で回覧されている記録が確認されている。
狛弁財天社は、狛氏の守護神であるとされ、狛山城守秀はその当時狛野荘の荘官(下司)を勤めていたことから、互いの密接なつながりが伺えます。その後、16世紀後半頃に大規模な再建がなされたと考えられ、天正6年(1578)に木造弁財天坐像及びその眷属(けんぞく)である十五童子像が南都寺院の宿院仏師・源三郎らによって製作され、天正8年には拝殿が再建されています。こうした一連の事業は西福寺に肖像画を残す狛左馬進秀綱が中心で実施したと考えられている。
なお現在の本殿や拝殿は近世後期に再建されたもので、隣接する玉台寺は弁財天社の宮寺として建立されたものと考えられている』

この地は、興福寺領庄官だった「狛氏」が支配した地で、狛氏が領したからか、「狛」という地名ゆえ「狛氏」と名乗ったからかどちらが先かわからない。
たぶん他の多くと同じように後者だと思う。
「狛」という氏名は珍しい。
狛犬の「狛」であり、現在多くの神社の正面を守護する狛犬の起源は、エジプトのスフィンクスやインドのライオンで、中国や朝鮮半島を経て琉球や日本本土に伝わった。
琉球ではよりライオンに近い「シーサー」となり各戸の玄関を守護し、日本本土では日本の想像上の動物「狛犬」として神社正面にいる。

「狛」の語源は、「高麗」から来ており、日本本土へは高麗人が伝えたと容易に推察できる。
この地の地名「狛」も「高麗」が起源のように思われ、朝鮮半島「高麗」からの渡来人が住み着いた地と想像する。
狛氏自体も、渡来人の末かもしれない。
いろんな想像をしながら、狛氏の守護神である狛弁財天やその神宮寺である玉台寺を、そんな謂れがないかと探したが見つからなかった。

ずっと以前から「狛」という日本離れした地名の不思議が気になっており、高麗からの渡来人の痕跡や朝鮮式のお墓の存在が見つかるのでは?と思って来た。
それもあり、「大塚山古墳」を狛最初の訪問地にしたが、あまりに道が細い傾斜地ゆえバイクが停められなかったのが残念。
近くに「高麗寺跡」があるので、高麗渡来人が住んだ地には違いないと思うが・・・

弁財天があるのかも?と玉台寺の境内に入って行ったが、弁財天は境内内の下の方にあった。
弁財天は水の神様なので、地形的に川ではなく湧水水源を守っているのでしょう。
境内を突き当たりまで行くと、狛の地を見下ろせる景色の良い所に出た。
ここに鳥居が立っており、神仏習合の痕跡を感じた。

バイクに戻り、JR奈良線「上狛」駅からR163に出ました。
20180623SeikaS0092s.jpg 木津川に沿う道で、6:40「恭仁宮太極殿跡」。
トイレを拝借しました。

20180623SeikaS0099s.jpg 『史跡・恭仁宮跡(山城国分寺跡) 恭仁宮は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平城宮を離れ、各地を転々とした後、天平12年(740)に現在の加茂町瓶原の地を中心に新都を定めました。しかし、恭仁京は天平16年(744)にわずか4年あまりで廃都されてしまう。
その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北三町(330m)東西二町半(275m)の広大な寺域を持つ寺でした。山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されています。皆さんの立っている場所は、塔跡の正面になります。周囲を塀に囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であったと推定されます』

横には、「山城国分寺跡」の広大な芝地があった。
国有地でしょう。
こういう史跡を民間によって乱開発されないよう国として管理し後世に伝えていく姿勢に敬意を表する。
教科書には出てくるが、ほとんど観光客も訪れない地がこういう形でしっかり遺されているから、僕のような歴史好きが生まれるのだと思う。
歴史好きは郷土好きで、家族好き・親族好き・国家好きに繋がるように思う。

R163に戻る。
「海住山寺」への案内板があった。
拝観時間前なのでパス。
r5に入り、高級宇治茶生産地「和束町」のど真ん中を走る。
20180623SeikaS0101s.jpg 7:02「弥勒磨崖仏」。

20180623SeikaS0106s.jpg r62にチェンジし、7:07「安積親王陵墓」。
「聖武天皇皇子・安積親王和束墓」。
聖武天皇の第2皇子で、長男が死去したので皇太子最有力候補だったが、聖武天皇内親王(母・光明皇后)安倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子された。
その後、17才の若さで死去した。
20180623SeikaS0110s.jpg その死があまりに急であったため藤原仲麻呂による毒殺説があるそうだ。

20180623SeikaS0111s.jpg r62を進むと道がいきなり細くなり山道になりました。7:19「八王子神社」。
八王子は、天照大神と素盞嗚命が誓約を行った時、素盞嗚命が天照大神の首飾りを頬張り吹き出した5王子と、天照大神が素盞嗚命の剣を飲み吹き出した3女神。
祭神の起源を頭に描き、日本の長い長い歴史に思いを馳せる。
天皇家は、現代日本人の祖先を辿ると必ず何処かでつながる祖先の本家。

母方の先祖は室町時代まで遡れる城持ち菅家党の武士。
その数代前、平安時代に美作守として京都より赴任した菅原道真の末。
先祖を探索する旅で、戦に破れ討死した先祖が、神社の祭神として祀られており心に熱いものを感じた。
頭の宮・胴の宮など、3つに別れた遺体を葬った場所にそれぞれの神社が建っていた。
その宮を勧請し、我が家の庭に祠をこしらえ毎日手を合わせている。
菅原道真を祀る天満宮を見つけると参るようにしている。

現代日本人の総本家・天皇家が現在でも続いているのを身近に感じる国民は、世界ひろしと言えど日本人ぐらいじゃないだろうか。
同じ列島を同じ民族が脈々と支配・住み続けてきた日本民族に生まれ、僕は幸せものです。

期待していたほど大きくなく、歴史がありそうになくこんなもんかな。
瀬田川に突き当たり、r3になり瀬田川沿いを大津に向かいます。
道なりにR422になりました。




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