4/28・大和「安倍文殊院」

結局見つけられず、R369に戻り西進。
榛原からR165になり西進し、桜井に戻りr15に入り、15:08「安倍文殊堂」。
陰陽道・安倍晴明の生誕地です。

20180428YamatoS0484s.jpg 本堂(抹茶菓子付き)700円+浮御堂700円=共通拝観券1200円。
まず抹茶とお菓子の接待を受け、本堂に入り説明(20分毎)を受けました。

20180428YamatoS0490s.jpg 本尊の獅子に乗った文殊菩薩像は金色に輝き、脇侍4体も綺麗で立派です。
全て鎌倉時代の仏師・快慶作で国宝。寺務所で、スポーツ上達御守500円を授かりました。
サッカースクールに通い始めた孫5才へのプレゼントです。
本堂の説明されていた「ご利益巡り巡礼衣/長谷寺・室生寺・岡寺・安倍文殊院」も授かりました。
衣自体は無料ですが、御朱印に300円必要です。
これを着て、残り3寺を巡りましょう。

20180428YamatoS0504s.jpg 境内に古墳の口が開いていた。
『「特別史跡」文殊院西古墳 「願掛け不動」安置 現在、国の指定史跡は1694ありますが、その中で日本文化の象徴と評価される特に重要なものを「特別史跡」とされている。国宝・重要文化財に匹敵します。
特別史跡は全国で61しかなく、古墳で指定されているのは7です。
この古墳は、1360余年前の645年頃築造され、古墳内部の石材は築造当時のまま保存されている。見事な切石の様は、あまりに美しく、誰もが現代に作ったレプリカと疑うほどです。加工技術の美しさから「日本一美しい古墳」の定評がある。
全国7特別史跡古墳の中で奈良県にあるのは他に、石舞台古墳・高松塚古墳・キトラ古墳・巣山古墳です』

20180428YamatoS0509s.jpg 浮御堂へ。
説明を受け、外周を7回周り都度1枚ずつ半券を箱に入れます。
その後御堂内に入ります。
周囲の厨子の御開帳は、明日4/29からだった。
お財布に入れておく浮御堂守護を授かった。

20180428YamatoS0525s.jpg  20180428YamatoS0530s.jpg 『この石仏群は、江戸時代に当山の安倍山境内地にひらかれた四国八十八ヶ所・西国三十三ヶ所の各霊場御本尊仏としてまつられていた石仏さまを、この地に一同に安置したものです。
江戸時代の庶民は、四国・西国の霊場を巡拝したくても現実には遠方すぎて困難なため、だれもが気軽にお参り出来るようにと、当山に石仏の霊場がひらかれたものである。従ってこの石仏さまにお参りする者は、四国八十八ヶ所・西国三十三ヶ所霊場を巡拝したのと同じ功徳を得る訳で、今でも先祖供養・家内安全・諸願成就の願かけをする熱心な信者があとを絶ちません』
ズラリと石仏が並んでいた。

20180428YamatoS0534s.jpg 『閼伽井古墳(東古墳)飛島時代 この古墳は「関伽井の窟」とも呼ばれ、羨道の中程に昔から枯れる事無くこんこんと湧き出る泉があります。この泉に湧く水は「閼伽水」(別名智恵の水)と呼ばれています。閼伽水とは「仏様に御供えする為の清浄かつ神聖な水」の意味です。古来より「関伽井の窟」を参拝すると智恵が湧くことで知られ参拝者が後を絶ちません』

『文殊院東古墳(県指定史跡) この古墳は、「実隆公記」によれば、室町時代にはすでに開口していた。墳丘は、方墳の可能性が強いが、墳丘の形状は不明である。内部構造は南南西に開口する横穴式石室で、石室規模は全長13m・玄室長さ4.69m・幅は奥壁部2.29m・玄門部2.67m・高さ2.6m。羨道長さ8.31m・幅は玄門部1.75m・羨門部2.04m。石室石材は、玄室はほとんど加工されていない自然石で、羨道は切石の花崗岩である。羨道・玄室とも遠近感を強調するため入口部より奥を狭くしている』

20180428YamatoS0538s.jpg 絵馬掛けがある。ここの絵馬は大きめです。
「恋愛成就・良縁成就・縁結び大神・白山堂(室町時代・国重要文化財)」があった。

『白山堂は加賀国(石川県)の霊峰「白山」を御神体とする白山神社の末社です。
ご祭神は全ての祖神といわれる白山比め大神と申し、別名・菊理媛神(くくりひめのかみ)とも申されます。この菊理姫は日本神話において国造りをされた伊邪那岐尊と伊邪那美尊の縁を取り持たれた神様です。「菊理姫」(くくりひめ)の「くく」とは糸をくくり整えるように男女の縁を取り持つ縁結びの神様として古来より厚く信仰されています。
その為現代でも全国から恋愛成就・良縁成就を始め「人間関係における良い縁」を頂くために参拝される方が後を絶ちません。一方、この白山堂が室町時代に当山に建立された由来は、霊峰「白山」がわが国修験陰陽道の大霊地として厚く信仰されてきたことにあります。当山は平安時代の大陰陽師・安倍晴明公が出生された寺院で陰陽道発祥源流の寺です。その為、晴明公と霊峰白山は古来より深く結びつき信仰されてきました。こうした訳で、霊峰白山の末社が当地に勧請され、以来縁結びはもとより安倍晴明公に因み、方位災難除けなどを祈願する人も多く訪れます』

『国宝騎獅文殊菩薩像 文殊菩薩は、獅子に乗るお姿で、総高は7メートルと現存する我が国の文殊さま最大を誇ります。
そのお姿は獅子に乗る文殊菩薩を中心として、左側で優填王(うてんおう)が獅子の手綱を執り、右側に仏陀波利三蔵(須菩提)と最勝老人(維摩居士)が前後に侍し、この一群を、善財童子が先導する。いわゆる渡海文殊の群像です』

安倍晴明堂がある。
『占いの開祖・平安時代の陰陽師・安倍晴明公・晴明堂 この晴明堂は、日本に於け占いの開祖として名高い平安時代の陰陽師・安倍晴明公をまつるお堂です。
晴明公は当山出身の「天の原ふりさけ見れは春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌で有名な安倍仲麻呂公と同じく、当山出身の安倍一族の1人てす。
この展望台の場所は、晴明公が天文観測を行い、吉凶を占った地として古来より伝承されています。晴明公はその秘術があまりにも超能力者であったために、昔から魔除け、災難除けの主神として全国でまつられています。現代でも大安・仏滅や鬼門・恵方などの方位、十二支の千支、人相・家相や易等々、私達の日常生活の中で極めて深く密着している吉凶の判断は、すべて陰陽道から生まれたものです。
当山には古来より晴明公のご遺徳を偲ぶ晴明堂がありましたが、幾星霜を経て廃絶してしまいました。
この度、西暦2004年に晴明公一千回忌を迎えるにあたり、200年ぶりに晴明堂の再建が成されました。晴明堂の正面には「如意宝珠」の玉石が据えられています。
この「如意宝珠」とは、仏教の経典において説かれた玉で、あらゆる願いを自在に叶えて下さるありがたい玉の事です。この玉石を、当山に秘伝として伝来してきた方位除災のまつり方を模刻した石版の上に安置し、御参拝の皆様に触れていただき、諸願の成就を祈念していただきたいと念じております』

20180428YamatoS0553s.jpg 『如意宝珠 この玉をご自身の手で撫でて下さい。魔除け方位除けの大きなご加護が受けられます』

20180428YamatoS0554s.jpg 安倍晴明天体観測地に上がると、ウォーナー博士供養塔が立っていた。
どなた様かな?
『ウォーナー博士は、1881年アメリカのニューイングランドに生まれ、ハーバード大学出身の東洋芸術史家で日本美術の偉大なる権威者です。第2次世界大戦において、日米の風雲急なるやその親友ハル国務長官を訪ねて戦争防止を進言されました。不幸開戦となるや、アメリカの政府と軍の上層部に辛抱強く奈良と京都を初めとする古都の文化的価値の説得に成功されたおかげで、アメリカ軍の日本本土空襲の時にも空爆リストから外されました。この地に立つウォーナー報恩塔はこのウォーナー博士の功績に大変感動した桜井市の一市民であった中川伊太郎さんが、日本人が博士へ寄せる感謝の気持ちを永久に残したいという気持ちから自費で建立されました。因みに中川さんは当事、失業対策事業で働く日雇い労務者と言う大変苦しい生活を送っていたにもかかわらず、こつこつと貯えた10万円の全財産を出して昭和34年5月に建立されたものです。この建立の相談を受けた当時の市長及び桜井市仏教協会と当山住職はこの美徳を称えたいとの思いから場所の提供をはじめとして毎年6月9日のウォーナー博士の命日に報恩感謝の供養を厳修することとし、以来桜井仏教会主催によって6月9日の博士の命日に法要が行われています』

20180428YamatoS0560s.jpg 16:18、さあ一気に帰りましょう。
R165を西進し、道なりに「大和高田バイパス」に乗り、南阪奈道・「太子IC料金所」でバナナ休憩し、近畿道~中国道、豊中IC下車し、中央縦貫~R171で帰宅しました。
17:40「伊丹産業北園SS」で給油。
251km/7.43L=33.8km/L。




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4/28・大和「松山城跡」~大澤古墳群~平井大師山石仏群~投石の滝~仏隆寺

お別れしてから、名刺を渡すのを忘れたと急いで渡しに走り声を掛けました。
縁があればまた・・・
主郭に登ります。
20180428YamatoS0258s.jpg 一気に360度展望が広がり、素晴らしいロケーションでした。

『本丸 本丸は東西50m、南北45mの広さを有する城内最大の郭である。西辺の中央に15mX10mの張り出しをもつ。本丸上には対面・接客などの儀礼空間としての本丸御殿(表向御殿)が建つ。本丸御殿は「広間」を中心に「遠侍」、「家臣溜」、「書院」、「台所」の5棟の殿舎からなり、全体の規模は1間=6尺5寸(197cm)で東西20間半、南北12間半を測る。
城割時に投棄された瓦の出土状況から、本丸御殿は桧皮ないしは柿葺きと推定される。また、本丸周囲の石垣沿いには瓦葺きの多門櫓が連なる。北西隅の部分を除いて全周し、途中西虎口・南東虎口の2つの門とも繋がり、強固な防御ラインを形成する。天守郭への虎口は2ヶ所確認されている。そのうち北側の虎口は石垣積の付櫓を構築する格式あるものとなっている』

20180428YamatoS0259s.jpg 『大峰山脈が一望できる宇陀松山城跡 南北朝時代に宇陀郡を領分する有力国人の秋山氏の居城(秋山城)として築かれたのに始まり、大坂夏の陣の元和元年(1615)に廃城となった。この城跡からは周りの山々を見通すことが出来る』

『天守郭 東西40m、南北12~20mの規模があり、南・北辺の中央東寄りに幅7~12mの張り出し部をもつ。
天守郭上には、いわゆる「天守」に相当する多重の建造物が存在したと思われる。
その場所は、南北の張り出し部から東側の方形区画と考えられる。この方形区画部分は、復元規模が南北12m(間口6間)・東西10~11m(奥行5間~5間半)を測り、小規模な天守(三重天守等)には相応した広さを有する。
また、南北の張り出し部上には「天守」との連絡が可能な付櫓が建ち、その西側には城主の日常の居所空間である「奥向御殿」の建物群が構えられていたと思われる』

城を下ります。
11:02バイクに戻りました。
山城探索に2時間も使っちゃったので、三重県の舗装林道探索は諦めました。
近場の歴史探索に切り替えましょう。

11:04「神楽岡神社」。
お参りし、バイクに戻りR166に出ます。

20180428YamatoS0313s.jpg r218に入り、11:19「宇陀水分神社」。
おトイレを拝借し、r218に戻り、11:44「見田・大澤古墳群」。
『最古級の古墳群 見田・大渾古墳群 当町の見田・大澤両地方にまたがる標高370mの尾根の古墳です。昭和56年、県立橿原考古学研究所によって発掘が行われ、古墳時代初期(4世紀前後)につくられたことがわかりました。
4基の方墳群前方後円墳で四獣鏡一面が出土しています。これは、わが国の四獣鏡の発見が5世紀以降に限られていた通説を破る結果となり、最古級の古墳群として、又、古墳発祥の謎を解明する資料として、昭和58年、国の史跡に指定されました』

墳丘に上り探索します。
国の史跡だけあって、下草が刈られ歩きやすい。

バイクに戻り、r218の先に進み、12:03「平井大師山石仏群」。
最後二輪でも離合が難しい急坂細道を、一気に駆け上がったが、横を見るとPがあった。
素直に「Pこっち」に誘導されていれば良かった。
20180428YamatoS0352s.jpg 「八十八箇所石仏巡り」になっていた。
1番から少し石仏を巡り戻りました。
シャクナゲが綺麗に咲いていた。

バイクに戻り、r218~r31~R166~r31で、12:26「惣社水分神社」。
そのまま先に進み、峠を越え「東吉野町」に入りました。
r251との分岐を過ぎ、暫く走ると何故か数台の車が停まっている。
「カフェ月うさぎ」とあった。
流行りの田舎古民家カフェのようです。
こんな立地にカフェが成り立っているのに驚きました。

r28に突き当たり、左折してすぐに12:46「白馬寺」「投石の滝」がありました。
20180428YamatoS0394s.jpg 地図に載っていた「白馬寺」目当てだったのですが、お寺はイマイチだったけど、「投石の滝」は落差もあり見事でした。
「弘法大師の衣掛け杉・樹齢千年」がありました。
弘法大師の衣を掛けた岩や杉など、吉野地方にはたくさんあります。

r28を南下します。
13:08「水分上社」。
20180428YamatoS0411s.jpg ここはイマイチでしたが、シャクナゲが綺麗に咲いていた。
シャクナゲは花が集まり大きく見え、この時期目立ちます。

帰路に着きます。
r28を北上し、「投石の滝」横を過ぎ、R369に突き当たりチェンジして西進。
「滝谷不動尊」の道標に反応に寄り道します。
好きな沢道だけど、いくら走っても次の道標がない。
林業の木材搬出の土砂崩れで進めないところまで来て諦めてUターンしました。
失意で戻っていると、左下の沢に建物が見え、13:39「滝谷不動尊」到着。

静かな場所にある素敵な滝でした。
滝打ち修行出来るような施設はないけど、修験道修行場の雰囲気がプンプンしていました。
清水に浸かるのかな?

R369に復帰し、西進します。
14:00「仏隆寺・千年桜」。
20180428YamatoS0436s.jpg Pに無人売店があり、古代米や鹿の角が売っていました。
20180428YamatoS0437s.jpg 『真言宗・室生寺派末寺で、室生寺の南門として摩尼山光明が岳の麓に位置する。嘉祥3年(850)空海の高弟・堅恵が創建した。一説には、これより先に興福寺別当・修円僧都が開いたとも言われている。
境内には、石造十三重の塔・堅恵の石窟・仏隆寺の桜・本尊十一面観音像・不動明王像・堅恵像・弘法大師像・茶臼など重宝が多い。
地蔵菩薩像石段は鎌倉時代、鐘楼堂は江戸時代、本堂・求聞持堂は昭和になってから改築されたものである。寺観整い、榛原から当寺を経て室生寺への経路は、風物にも優れ美しいところである』

20180428YamatoS0441s.jpg 『天然記念物 仏隆寺のサクラの巨樹 仏隆寺のヤマザクラとして指定(昭和53年3月28日)されていたこのサクラは、開花期に鑑定を受けたところ、ヤマザクラとエドヒガシの雑種であるモチヅキザクラの一型であることは判明した。しかし、このモチヅキザクラは花柱に毛がなく、筒の膨らみが円筒形楕円型をして長いなど、ヤマザクラの形質をも供えている点、学術上貴重な巨樹である。
このサワラは、根囲7.7mに及び、根株から2mのところで大小11本に分岐し、分岐枝の最大のものは幹周囲1.2mで四方に枝を拡げ、樹勢は衰えておらず、県下で最大最古の株とされ、貴重な存在でもある』

20180428YamatoS0453s.jpg とてもサクラに見えない巨木で、樹齢千年というサクラにしては長寿過ぎる年齢を納得させる雰囲気満点でした。
R369に戻りましょう。
途中で「赤埴の千体仏」の道標を見つけ寄り道しました。

『子授けに霊験あらたかな地蔵菩薩の千体仏です。16世紀前半、赤埴家の養子となった越中守安正が、生地の美濃国から背負って来た仏像が始まりで、元は観音寺にあった。
内陣中央の厨子に、総高46cmの地蔵様が、頭光をいただき、左掌に宝珠を載せ、右手は垂下して与願印を示して立っている。錫杖を持つ姿よりの古い様式です。
美しく彩色され、上部は白い綿にくるまれた優しいお姿です。厨子の下・三段の木箱に、24cmほどの同じ様式の地蔵が2体ずつ計6体が安置され、その左右の6段の棚には、260体の木製無彩色の小地蔵が並んでいる。
地蔵菩薩は、釈迦没後弥勒出世までの無仏と言われる中間に濁った世の人々を救済してくださる仏です。そのお姿から子授け子育ての仏とて信仰され、このお堂にも近在はもとより遠国からも参詣されています。この欲しい人は、願を掛け1体を戴いて帰り、出産後新たに1体を刻んで2体として納めるという民俗学的にも貴重な文化財でもあります』

20180428YamatoS0474s.jpg 堂内を覗くと、たくさんのお地蔵様が整然と並んでおられました。
子授けに預かりたいと思ったら、何処に連絡すれば良いのだろう?

20180428YamatoS0476s.jpg R369に下りましたが、地図に書いてある「千本杉」を見つけられませんでした。
再度山道を登ります。
「旧道・伊勢本街道」があったので、そちらに突っ込んでみました。






4/28・大和「松山城跡」

バイクに戻り、r31~r217から枝道に入ると、旧街道の町並みが左右の家々に。
8:30、「春日神社」。
『春日門跡 松山城下町の出入口にあたる西口関門から続く大手筋正面に位置している。門跡には虎口(出入口)を構築する東西2つの石垣積の櫓台が残っている。東櫓は東西4m以上・南北10m以上・高さ6mの規模を持つ櫓台。
その南西隅に一段低く、東西4m・南北7m・高さ2mの櫓台が取り付きます。西櫓台は東西6m・南北11m以上・高さ4m。
春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭にあり、松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られた事が明らかとなりました。現存する櫓台は、17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築である。
築造当初の春日門は、現在と異なり南北10.5m・東西4m以上の東櫓台南端の西へ付櫓がつく構造です。西櫓台については、現在と同様規模・構造。門は、東櫓(付櫓)と西櫓の間と、櫓間を通り抜け、左折れした所の2ヶ所に位置すると考えられる。
この段階の春日門東櫓は、大手筋を貫いた視線が集中する位置にあり、櫓台の規模の大きさからして、松山城下町の象徴的な建造物であったでしょう』

20180428YamatoS0178s.jpg 石畳の参道を上がってみると、鎮守の森の巨杉群が天に真っ直ぐ向かっていた。
途中に「松山城跡」への登城口がありました。
『春日神社水鉢(江戸時代・元禄6年1693)宇陀市指定文化財 表に「奉寄進」、裏に「元禄6年葵酉12月荻野五郎左衛門」とある。寄進した荻野五郎左衛門は、織田家宇陀松山藩4代藩主信武時代の用心である。元禄年間は奉納的石造物が集中的に造られた時期であり、本品もその歴史の流れの中にある。
翌元禄7年(1694)秋には、藩主織田信武が重臣である田中五郎兵衛・生駒三左右衛門を処し、自害するという事件が起こる。これが原因で、翌元禄8年に織田家は丹波国柏原に所替えとなる(宇陀崩れ)。織田家宇陀松山藩時代最後の時期の遺品として貴重である』

20180428YamatoS0186s.jpg 「春日大明神」と書かれた扁額の下がった大きな木製鳥居をくぐった郭から更に石段を上がった郭に社殿がある。
そこに登ろうと左右を見ると、左右の狛犬がどちらも阿行の狛犬でした・・・珍しい。

20180428YamatoS0195s.jpg 『春日神社由来 祭神:天之児屋根命・武甕槌命(たけみかずち)・経津主命(ふつすし)・比売神 宇陀郡内には興福寺大乗院門跡管領の春日大社領が多く存在し、当地も中世の春日庄(応永13年(1406)作「宇陀郡田地帳案」(春日大社文書))に位置することから、奈良春日大社を勧進したものと考えられる。
宇陀松山城と城下町の縄張りを示した「阿紀山城図」(文禄3年1594)絵図に「春日社」として社地が表されている。絵図に示された松山城へ向かう大手道は、西口関門から春日門を経て春日神社に入る。神社から城へ向かう構造を取る。つまり春日神社は城郭の郭としての機能を併せ持っていた』

『霊宝石由来 宇陀旧事記に「春日神社には天児屋根命を祀り、阿貴山の峰に神楽石麓に天のヌボコに称する長さ拾余石の霊宝石あり」と挙げられている。恐らく古代祭祀用に供せられた神聖なる霊石と考証される』

20180428YamatoS0202s.jpg 玉垣から本殿を覗くと、蟇股の彫刻が春日神社らしく鹿でした。
横には八幡神社がありその本殿も造りは春日神社本殿に似ていた。
20180428YamatoS0211s.jpg 巨杉に囲まれ、壮観な神社でした。

20180428YamatoS0218s.jpg 横道に入ると森に遮られ陽が届かない所に山に向かい摂社があった。
『伊太祁曽(いだきそ)神社由来 祭神:五十猛命(いたけるのみこと・須佐男命の御子)・大屋津比売命(妹神)・都麻津比売命(妹神) この神は紀州に座して、木の種を筑紫より始めて、我が国全土に播種植林せられたもうた。歳月を経るに従い、国内は緑の山を成し、遂に山青く水清き森林美となる。その根源を培養せられたことにより、神代の昔から「木の神」と称せられる。農林・殖産・特に木材関係者の尊崇するところである』

祭壇のみで社殿はなく、祭壇の後ろの二股巨杉が祭神と思われる。
そこから山城への道に合流し、森の中をえっちらおっちら登っていく。
廃屋がある。
20180428YamatoS0222s.jpg 勾配が急になり、木組みで土流れを防いでいる階段を上がる。
20180428YamatoS0226s.jpg 春日神社から10分ほどで、森が開け、コンクリート舗装道路が来ていた。
数台停められるPもあり、「なんだ~」と脱力した。そこに説明板が立っていた。

20180428YamatoS0229s.jpg 『史跡宇陀松山城跡 宇陀松山城は、天正13年(1585)以後に入部した豊臣家配下の大名により改修を受け、元和元年(1615)に取り壊されました。現在見られる城郭プランの大半はこの織豊期から江戸初期にかけてのもです。その構造は、主郭部(天守郭・本丸・帯郭・虎口郭・大御殿郭)とニノ丸で構成される中心郭群と、中心郭群の外側下を取り囲むように配される外縁部の郭群(御定番郭・御加番郭など)に大きく分かれます。
中心郭群は総石垣で築かれ、大規模かつ巧緻な枡形虎口の構築、多聞櫓や本丸御殿などの礎石建物群、桐・菊紋瓦等の大量の瓦の使用など、織豊系城郭の特徴を良好に残しています。外縁部の郭群の外側に設けた横堀と堀切によって画された城域は、東西約400m、南北約250mの規模をもち、西側の城下町からの比高は120~130mを測ります。
また、宇陀松山城跡は、元和元年の城割の具体的状況が観察でき、幕府の城郭統制や中世から近世にかけての宇陀地域の城郭と下のあり方を考えていく上で重要な城郭跡と言えます。最後になりましたが、調杏開始からご理解とご協力を賜りました土地所有者の松尾家、並びに関係各位に厚くお礼申しあげます』

ここから郭群が見えます。
深い堀切など城郭土木の様が見え、石垣遺構も遺っています。
ここは中世山城の晩年期のもののようで、高取山のような石垣で囲まれていたのかもしれません。

『南西虎口部(雀門跡)は、中心郭群と城外との結節部を構成する要の位置を占めている。本丸前面に設けた虎口郭を軸に本丸・本丸西側下の御加番郭・帯郭・城外縁部の4方向へ通路が続く。文禄3年(1594)写の『阿紀山城図』には雀門と記される。その構造は、城外郭の石垣線の折れと門とを組み合わせることで大規模な外枡形の虎口空間をつくり、さらにその内側上部に設けた虎口郭を第二の枡形空間とする複合的なあり方を示している。石垣裾から出土した大量の投棄瓦から類推して櫓台上には多門櫓や隅櫓が構築されていたと考えられる。
雀門は、間口5.4m(18尺)・奥行1.8m(6尺)規模を測る。門柱の礎石は、北西側と南東側に2石が残る。間口と奥行の規模等から考えて、高麗門の可能性が高い』

20180428YamatoS0250s.jpg 「ここは当たりだな~」と激写を繰り返しながら眺めていると、人の気配が・・・なんと山城観光の方がいました。
山城で人に会うなんてめったにないことで、むしろ驚いた。
そして「この方も好きだな~」と同好の士に嬉しくなり声を掛けた。
思いの外反応が良く、30分ぐらい話した。

家内の出身地・加古川の方で、大阪で大学生活を送っている息子さんたちを迎えに来たそうです。
その前の寄り道だそうです。
息子さんも娘さんも加古川一の進学校・東高で、これまた家内と一緒です。
「竹田城」が大ブームで気軽に登れなくなったどうのこうの、「高取城」に登りました?なんてことでも話が合いました。
登りたいと思いながら「地盤崩落の危険で登れなくなった佐用町の「利神城」にそれ以前に登ったことがあるとか。
あまりの辛さに断念した山崎の「長水城」にも登られていました。健脚です。

車で来られているのに、上の駐車場に車がなかったことを聞くと、道の駅からここへの道があったけど土砂崩れ通行止めで徒歩でも通れないらしい。
道の駅に車を停め、僕同様春日神社から登ってきたそうです。
バイクで来たので神社前に停めていることを話すと、以前バイクに乗っていたことを教えてくれた。
駐車場を気にせずどこでも停められるバイクの話で盛り上がったが、盗まれて乗らなくなったそうです。
残念なことです。
話している間に、2人も山城ファンが登ってこられました。
人気があるようです。


4/28・奈良「忍坂街道」~天王山古墳~粟原寺跡~八咫烏神社

20180428YamatoS0088s.jpg この道は、「忍坂街道」と呼ばれている古道のようです。
雰囲気の良い道で、時間があれば歩いて行きたい。

『鏡王女・万葉歌碑 鏡王女(かがみのおほきみ)の和(こた)へ奉(まつ)れる御歌一首「秋山の樹の下隠り 逝く水の 吾こそ益さめ 御念(みおも)ひよりは」
秋山の樹の下に隠れて、流れていく水のように果てしなく、「吾こそ益さめ御念よりは」私こそあなたさまが思ってくださる思いよりも、もっと深く思っております。<犬養孝『私の萬葉百首・上巻・1993年12月』

この歌は、皇太子であった中大兄皇子(のちの天智天皇)が鏡王女に送った歌「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」(巻2-91)に答えた一首であるといわれています。
鏡王女は、天智天皇と藤原鎌足それぞれと相聞歌を取り交わしており、額田王との唱和の歌も作っています。
万葉集には5首を残していて、その一つがこの歌碑に詠われているものです。
わずか31文字の中に、内に秘めた女心を見事に詠いあげています。

桜井市の企画によって今から40年前の昭和47年(1972)に市内の由緒ある場所に万葉歌碑を建てることになり、元・桜井市議・忍阪区長の杉本五良兵衛翁は、この歌碑は是非この場所に・・・ということで、毎年生徒さんを引率されて女王墓を参られていた当時・大阪大学名誉教授の犬養孝先生と面識があったことからこの歌の碑文は、ぜひとも犬養先生にと、なったと述べられています。(昭和62年10月1日「かたらい」より)
歌碑の石材探し、そして置かれているこの場所の選定は、杉本翁の熱き想いと鏡王女がこの歌に託した想いとが重なって数多くある万葉歌碑の中でも、これほど歌詞と歌碑の佇まいが見事に合っている歌碑はない・・・と言われています。小川のせせらぎの音を浴びながら、つつましく佇んでいます。この歌碑あたりから谷に向っては視界か開け、小鳥の嘲りだけの万葉の世界にいざなわれます。その
目の先には鏡王女墓がひっそりと佇んでいます。鏡王女は黄泉の世界から、どんな思いでこの歌碑を眺めているのてしょうね』

道の奥に見えていたのが「鏡皇女忍坂墓」で、さらにその奥に「大伴皇女・押坂内墓」がありました。

20180428YamatoS0093s.jpg R166を少し走り、7:15「天王山古墳」。
『東南方から北西方にのびる屋根上に営まれた方墳で、この屋根上には他にも多数の小古墳が散在している。墳丘の一辺は45m・高さ9m、うちに家形石棺を蔵する雄大な横穴式石室が南に開口している。石室は巨大な花岡岩を架構したもので、玄室の長さ8.5m・幅3m・高さ4.2m・羨道の長さ8.5m・幅1.8m・高さ2mである。玄室の中央には、棺身の長き2.4m・幅1.2m身・蓋を合わせた高さ1.8mの巨大な刳貫式の家形石棺が置かれている。なおこの棺身の羨道に面した側の上辺中央に方形小孔が彫り込まれている。副葬品については明らかではないが、石室や石棺の型式から6世紀後半に築造されたものと推定される。
この古墳はそり名の示すごとく、江戸時代には崇峻天皇稜に擬せられていたもので、墳丘や石室の規模からも、大化前代の支配者層の墳墓と考えられる。近畿地方における古墳時代後期の代表的な方墳として著名である』

32代崇峻天皇は、崇仏派・蘇我氏と廃仏派・物部氏が対立均衡してた政情の中、31代用明天皇が崩御したタイミングで起こった両派の皇統争いに勝利した蘇我馬子によって天皇位に登ったが、実権が馬子にあることに不満を持ち、馬子に暗殺されてしまう悲劇の天皇です。
この事件により急虚天皇位に着いたのが天皇家初の女帝・推古天皇で、その皇太子が聖徳太子で、初の「遣隋使」で中国と互いを認め合い、「冠位十二階」制定で血統重視から能力重視の政府役人登用とその任命者を天皇にしたことから天皇中心政治への改革、「十七条憲法」で豪族・臣下の心構えや天皇中心・仏教中心主義政治を確立した。
政権内部の内乱を経て、推古天皇・聖徳太子体制で、大和朝廷天皇中心主義が整った。

獣避けゲートから古墳に入ってみる。
周囲に丘が点在し、古墳がアチコチにありそうな景色です。
20180428YamatoS0098s.jpg 墳丘を覆う森に入っていくと、すぐに南に開口した石室があった。
中を覗くが暗くて見えない。
獣道のような道を辿って頂上に上ってみるが、これといった見どころはなかった。

R166に戻り少し進み、7:29「粟原寺跡」。
20180428YamatoS0120s.jpg 寺院跡と思われる古い石垣に囲まれた郭に上がると、「天満宮」があった。
牛の像など天満宮的要素が境内に揃っていた。
社名は「粟原天満神社」らしい。
鎮守の森の高木に囲まれ、長い歴史を感じさせる。
ジャガの花が綺麗に咲いていた。

20180428YamatoS0135s.jpg 天満神社の裏に「粟原寺跡」があった。
『粟原寺跡(国指定史跡) 粟原集落南端の天満神社境内及び、隣接地に、塔跡・金堂跡が残り、標高260m前後に位置する。
この粟原寺建立のいきさつを刻んだ三重塔の伏鉢は、談山神社蔵(国宝)として残っている。その銘文によると、中臣大島が草壁皇子のために発願し、比売朝臣額田が持統天皇8年(694)から造営を始め、和銅8年(715)に完成したことがわかる』

『この地には、万葉の女流・額田王終焉の地という伝承が遺されている。さすれば、国宝・粟原寺三重塔露盤の銘文にある比売朝臣額田が、その人かもしれません。これは史的考証ではなく、詩的確信です。数奇な運命を辿った彼女は、天武帝崩御後の複雑な立場の拠り所をこの地に求めたと思われる。
天武帝の子・弓削皇子も、壬申の乱後の微妙な立場を生きました。持統女帝の吉野行幸に随行した皇子は、離宮の井戸の上を鳴き渡っていったホトトギスの声に託して、密かな懐旧追慕の情を額田に訴え、これを受けた額田は、我が心と体のうちそとを通り過ぎて行った人々の懐旧追慕の悲しみを詠いました。
この贈答歌は、お二人の心情が伝わりますし、その舞台はただ虚しい時間と風だけが吹き過ぎて行くこの山峡が最もふさわしいと感じます。
この地を愛し、この歌に惹かれた篤学の人・金本朝一氏の御遺志によって、この碑は建立されました』

跡地には大小の礎石が残り、往時を忍ばせます。
一番大きな礎石に遺された柱穴を見ると、大きな建物が建っていたんだなと想像できます。
役行者と思われる像があり、かつて修験道行者が寝起きしていたのかも?と想像の翼が頭の中で広が
りました。
小さな墳丘のようなものがあり、これにも想像が広がりました。

バイクへの帰り、跡地横の道を歩くと、想像以上に鎮守の森に大木が多いことに気づいた。
フクロウが営巣に使いそうな穴が空いた大木もあり、しばし見ていました。

20180428YamatoS0155s.jpg R166に戻り、r217~r31で、7:55「八咫烏神社」。
アメリカ在住長男の子・嫡孫君5才がサッカースクールに入ったそうなので、サッカーと言えば日本代表、日本代表チームと言えは八咫烏です。
御守あるかな?と思って寄り道しました。
ジジバカですね。

20180428YamatoS0163s.jpg 『武角身命(建角身命)を祭神とする八咫烏神社は、「続曰本紀」に慶雲2年(705)9月、八咫烏の社を大倭国字太郡に置いて祭らせたことがみえ、これが当社の創祀となっています。江戸時代(文政年間1818~1830)には、これまで石神殿であったものが春曰造りの社殿となりました。その後、紀元2600年を記念して社域を拡張・整備し、現在に至っています。
「古事記」「曰本書紀」によると神武天皇が熊野から大和へと入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏(武角身命の化身)です。八咫烏は、中国の陽鳥としての考え方が影響しているようです。八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていたと思われますが、8世紀以降、山城の賀茂県主が有力となってからは、賀茂氏が祖とする武角身命が八咫烏となったようです』

20180428YamatoS0165s.jpg 社務所に伺ったが誰もおらず、「御用のある方は・・・」と宮司さんの家が案内されていた。
拝殿に向かいこれまでの人生に感謝した。
宮司さんの家に伺い、「スポーツ守護・700円」を授かった。

4/28・奈良「等彌神社」~「舒明天皇陵」

1週間前の三重県13年ぶり開通県道ツーリングで、三重県の山が気に入り、まだ走り足りないので連続で行くことにしました。
4時過ぎに目覚め、着替えて倉庫から「里山VTR250」を出しました。
予定している林道が3~4本あり、何本走れるかわからないけど、林道三昧しようと念の為軽い250ccを選択しました。

4:46「伊丹産業セルフ緑ヶ丘SS」で給油。
192km/7.05L=27.2km/L。
4:51「ローソン」で、「キリン小岩井ミルクコーヒー162円+田辺農園バナナパック3本266円=428円」を購入。

R171~中央縦貫道。
吹田ICから近畿道に乗ります。
一気に南下し、「南阪奈道路」にチェンジし、大阪府と奈良県を隔てる生駒山系を東に抜けます。
道なりに「大和高田バイパス」になり、ほぼ高速道路ですが最高速が60km/hになるのでメーター読みで70km/hを超えないようにスピードダウンします。
日本車はハッピーメーターなので、+10を守ればスピード違反にはなりませんし、道路規格・周辺環境に合った設定になってる最高速制限なので咄嗟のことがあっても安全に走れると思っています。

橿原市で高架道路を降り、R165で東進を続けます。
20180428YamatoS0001s.jpg 右折しr37に入りすぐ、6:14「等弥(とみ)神社」到着。
帰路に時間があれば寄ろうと思ってたけど、おトイレを借りたかったので先に寄りました。

20180428YamatoS0009s.jpg 『当神社背後に位置する標高245mのなだらかな鳥見山は、初代神武天皇が橿原宮に即位され、神武4年2月に「わが皇祖の神霊は天より降りて、私の身体を照らし助けた。諸々の賊を平定し海内(くにのうち)は事件とてないほどよく治まっている。そこで天神を祭って大孝(おやにしたがうこと)の志を告げ申し、お礼を致したい」と、鳥見山中に霊じ(まつりのにわ)を設け国で採れた新穀・産物を供えられ、自ら皇祖天津神々を祭り、大和平定と建国の大孝を申べ給うた大嘗会の起源。我が国建国の聖地である。
その西の麓に鎮座する等弥神社は、10世紀前半に制定された「延喜式」神名帳に記載があり、祈年祭の幣帛に預かった古社。昭和15年・紀元2600年、旧村社から県社に列せられ、以来地元桜井は元より、全国から崇敬に預かる県下有数の名社となる。下社には「八幡」「春日」の大神を祀る』

鳥居の横に「第62回式年遷宮 旧内宮鳥居 中重鳥居」の札が立っていた。
式年遷宮により移設されたもののようです。
全国にこういう社殿や鳥居がたくさんある。
伊勢参りできない方々も、伊勢を日本の成り立ちを味わうことができる。
ありがたいことです。

この宮の裏山で、神武天皇が最初の新嘗祭を行われたのですね。
知らなかった。
社名の珍しさから訪問地に選んだけど、大当たりのようです。
20180428YamatoS0014s.jpg 石段を上がると参道が伸び、地元の方が掃き掃除をされている。
20180428YamatoS0019s.jpg 参拝者が来られる前の朝早い時間にご苦労様です。

20180428YamatoS0021s.jpg 鎮守の森に守られた参道を奥に入っていくと、神殿の提灯に灯が入って雰囲気抜群です。
20180428YamatoS0032s.jpg 20180428YamatoS0035s.jpg まだ明るくなりきらない時間帯故より厳かな感じを受ける。
参拝させていただき、「鳥見山霊じ」への参道を上ってみます。

20180428YamatoS0042s.jpg 『鳥見山観光散策路(往復2km) 鳥見山は標高245m・面積50haのなだらかな山容で、登るにつれ北に三輪山・南に音羽山系・東に外鎌山・初瀬谷などながめながら頂上に至ります。途中、霊じ拝所(これより160m)・庭殿(650m)・白庭(890m)など通り山頂(1000m)に至る。
古より多くの方々が登下山された道で、広葉樹林では春の新緑・秋の紅葉など四季折々の自然を満喫していただける散策路です。また万葉歌碑など古代のロマンを味わっていただけます』

20180428YamatoS0046s.jpg 「霊じ拝所」まで登ってみた。
20180428YamatoS0052s.jpg 『うかねらふ、跡見山雪のいちしろく、恋ひば妹が名、人知らむかも・・・鳥見山に降り積もった白雪のように、はっきりと人目につくような恋の態度を示したら、人々は私の恋人の名を知ってしまうだろうか』

20180428YamatoS0059s.jpg 新緑に覆われた山道と境内でした。
陽がまだ弱い朝ですが、もう少し陽が昇るともっと鮮やかに若緑を見せてくれるだろう。
鳥居手前まで下り、「神武天皇・聖跡顕彰碑」を見に行ってみる。
ふむふむ・・・。
ここの立地は、橿原の神武天皇陵の東に藤原宮跡、その東に隣接する小山・天香久山、その東にあるのがこの地です。

この東は山の連なりになり、三重県境に至ります。
天香久山は、明日香の北の防備のような位置にあり、ここから見れば低山を経て南東に明日香が位置します。
神武天皇がここで、天の恵み・秋の収穫に感謝する新嘗祭を、ご自身の天皇就任に際し始めたのが立地的にも腑に落ち
た。山は収穫の源・水の流れだす地であり、東から上る太陽がここから昇って来るように見えたのだろう。
2678年前・皇紀元年・・・

バイクに戻り、R165に復帰します。
20180428YamatoS0069s.jpg R166に右折し、6:47「茶臼山古墳」。
『史跡・桜井茶臼山古墳 鳥見山北麓の屋根を利用した大型前方後円墳(全長207m・後円部径110m・前方部幅61m・葺石を施す)で、墳形・副葬品などから4世紀前半を下らない時期に造営されたわが国最古の大規模古墳の1つ。
昭和24~25年、橿原考古学研究所が発掘調査し、後円部中央に底部穿孔の壺形土師器を並べた長方形の檀とその内側に竪穴式石室を検出した。石室は偏平な割石を架したもので、内法長さ6.8m・幅1.1m・高さ1.6mである。室内にはトガの巨木で造ったくり抜き式木棺が遺存していた。盗掘を受けていたが、鏡片・勾玉・剣・銅ぞくなどの武器類・車輪石・鍬形石などの腕飾類、玉杖・玉葉などの特異な碧玉製品が出土している』
フェンスで囲んであったが、「十分注意して見学ください」と書いてあったので、入れるところがあったのだろうか?

20180428YamatoS0073s.jpg R166を更に進んで、6:57「舒明天皇陵」。
20180428YamatoS0076s.jpg 『舒明天皇・押坂内陵、敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子妃・糠手姫皇女・押坂墓 宮内庁』。
20180428YamatoS0078s.jpg この時代の陵墓は、よく母親と一緒に眠っていますね。
ここも母親と一緒のようです。

お参りし、一旦下り細道を、少し見える別の墳墓の方に進みます。
謂れ板が立っていました。
『舒明天皇陵(段ノ塚古墳) 舒明天皇陵は、古墳時代の終末期にあたる7世紀中頃に造られ現在「舒明天皇陵」として、宮内庁で管理されています。舒明天皇は、忍阪ゆかりの押坂彦人大兄皇子の息子で、初めて遣唐使を派遣し、また、我が国初の国家寺院である百済大寺を建てた天皇として知られています。
皇后は、斉明天皇で、2人の間の子供たちは、後の天智天皇、天武天皇、孝徳天皇妃となった間人皇女、と飛鳥時代は舒明ファミリーが皇統の主流にのぼりつめた時代といえるでしょう。
日本書紀によると、舒明天皇は641年(舒明13年)に崩御し、その2年後にここ「押坂内陵に改葬されました。尚、母親の田村皇女はその20年後の天智3年に亡くなったことが記されていますが、墓の所在は明らかにされていません。平安時代に作られた「延喜式」には、その所在が舒明天皇陵内とされていることから、舒明天皇と合葬されている可能性が高いとされています。今から約150年前の文
久年間に墳丘の一部が崩壊し石室の一部が露出しました。
その際、2基の石棺がみられ、手前の石棺は縦に、奥の石棺は横に置かれていたという村人の話が伝わっていることから、研究者の間でも被葬者は、舒明天皇と、母親の田村皇女ではないかといわれています。
この古墳の最大の特徴は、なんといっても我が国初の八角墳であることです。それは八角形をした天皇の玉座「高御座」にも流れをみることができます。背景には諸説があり確定はできませんが、万葉集巻1-3間人連老(はしひとのむらじおゆ)の歌に舒明天皇を讃えた歌が詠まれています。「八隅知之 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ・・・」とあり、我が大君にかかる「やすみしし」から、八角形は「国土の隅々迄おさめる」事の思想の表れであり、それはまさに八角墳の出現時期と重なる事から、国家統一的な形にしたのではという学説に興味をそそられます』

34代・舒明天皇は、29代・欽明天皇のひ孫世代で、30代敏達天皇の孫です。
敏達天皇の兄弟に、31代・用明天皇・32代・崇峻天皇・33代・推古天皇(初の女帝)がおり、穴穂部間人皇女と異母兄・用明天皇の子に聖徳太子がいる。
舒明天皇の子に38代天智天皇・40代天武天皇がいる、まさにロイヤル街道真っ只中の天皇です。


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プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
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から引っ越してきました。

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