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7/3・糸魚川・上越・柿崎・柏崎寺社山城ツーリング2日目 旧師団長官舎

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バイクに戻り、r38~r198で、10:14「旧師団長官舎」。

『この建物は、旧陸軍第13師団の第3代師団長・長岡外史中将が「師団長官舎」として明治43年に建てたものです。旧所在地は、南城町3丁目(高田高校の西隣)でしたが、老朽化したため、初代と2代目の師団長が居を構えていたといわれている「旧市長公舎跡地」に移築・復原したものです。
解体・移転・復原に際しては、古記録・古写真・痕跡等により、できるだけ建設当初に近い形にすることをめざし、門柱および建具の一部や家具・カーテン・洋室の照明器具等も当時の写真によって再現しました。また、外壁の塗装色も科学的分析により、最初に塗られたペンキの色を採用しました。アプローチ・前庭・後庭の珍しい下がり池などによって構成される廻遊式庭園とも調和したこの「旧
師団長官舎」は、市内に残る数少ない明治期の洋風木造建造物であり、貴重な歴史的遺産として保存・活用し、市民の「明治期のアルバム」として後世に残すことにいたしました』

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『この胸像は、明治43年6月から2年7か月の間、当時の旧陸軍第13師団の師団長を在任し、また、上越市が日本のスキー発祥の地となった基を築いた「長岡外史中将」の像です。明治44年1月、中将は、この地を訪れた当時のオーストこの地で始まりました。これが後に「日本のスキー発祥の地上越市」を全国的に決定付ける歴史的瞬間でありました。その後、軍隊だけではなく、広く民間に普及させるため、日本スキー倶楽部を上越市に創設し、さらに、全国に支部を設けるなどスキーの普及と発展に努めました。
また、中将は、桜をこよなく愛し、その育成に努めました。桜の名所100選の地に選ぱれ、日本三大夜桜ともいわれる高田公園の桜。この美しい景観の礎も中将が築きました。胸像は、本山白雲の作で、ご遺族からご寄贈いただきました。これを受け、有志の方々が中将の業績を永く伝えようと、昭和50年10月13日、高田公園内に設置されました。その後、旧師団長官舎の移築、復原に伴い、ここに移設したものです』

木造洋館瓦葺の感じの良い建物でした。
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無料入館出来るようで、入ってみました。

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『第4師団長・秋山好古
第13師団の第4代師団長 大正2年(1913)1月、陸軍中将・秋山好古が第13師団の代4代師団長に就任します。秋山の前任者は陸軍へのスキー導入や航空界の振興・啓蒙に尽力した長岡外史でした。秋山好古は、安政6年(1859)1月7日に伊予松山藩士・秋山久敬(ひさたか)の3男として誕生します。明治9年(1876)7月に大阪師範学校を卒業後、名古屋師範附属小学校の訓導を経て、翌明治10年に陸軍士官学校へ入学。明治12年に陸軍士官学校を卒業、陸軍騎兵少尉に任じられます。その後、陸軍大学校(1期)・参謀本部への出仕を経て、明治20年7月から同24年12月までフランスへ留学、軍事研究や騎兵戦術の習得に精励しました。
日本騎兵の父 秋山好古は、フランス留学から帰国すると明治25年(1892)に騎兵少佐となります。明治27年の日清戦争では、騎兵第1大隊長として出征し、旅順攻略などで戦功を立てました。日清戦争後は陸軍乗馬学校長・騎兵実施学校長を歴任し、騎兵部隊の発展に尽力します。明治35年に陸軍少将となり、明治37年からの日露戦争を騎兵第1旅団長として迎えます。日露戦争では、当時世界最強と言われたコサック騎兵と激突した黒溝台(こっこうだい)会戦や奉天会戦などで騎馬戦術を駆使して力戦しました。日露戦争後の明治39年には騎兵監となり、騎兵科の充実に心血を注ぎます。数々の戦功と騎兵教育を確立した秋山は「騎兵の秋山」「日本騎兵の父」などと称されました。なお、秋山好古の実弟には、バルチック艦隊を撃破した日本海海戦における海軍の作戦参謀であった秋山真之がいます。
第13師団長時代のエピソード 秋山好古は、明治42年(1909)には陸軍中将へ昇任、大正2年(1913)1月28日に第13師団長として高田へ赴任しました。日本騎兵の父と称される秋山については、第13師団長時代のエピソードも伝えられています(秋山好古大将伝記刊行会「秋山好古」)。
赴任直後、秋山は旅装を解くこともなく、満州駐屯の命を受けた第13師団各隊の巡視を行います。この巡視の際、折からの大雪のため秋山の乗車する列車が鉢崎(はっさき)駅で立ち往生しました。一行は列車内で夜を徹し、待ち合わせの菓子で空腹を凌ぎます。翌日になっても開通の見込みが立たない中、師団長一行の立ち往生のことが近在に伝えられ、在郷軍人らが酒徳利を持参し見舞いに来ました。しかし、秋山らの空腹を満たす飯を持参した者は1人もなく、一行はみな顔を見合わせて苦笑するばかりだったといいます。無類の酒好きとして知られる秋山好古らしいエピソードと言えます。
秋山は大正4年2月に近衛師団長として転補します。第13師団長は2年余り務めますが、満州駐屯もあり高田滞在は数ヶ月でした。その後、大正5年に陸軍大将へ昇任、大正12年に予備役となり、同13年から昭和5年まで郷里松山で中学校校長となりました。昭和5年11月4日に逝去。墓所は松山市の鷺谷墓地にあります』

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好きな秋山兄弟の話が読め嬉しかった。
司馬遼太郎「坂の上の雲」の世界です。

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『レルヒ少佐の来日
明治44年(1911)1月5日、オーストリア・ハンガリー帝国のテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が第13師団に着任しました。日本の近代スキーの父と言われるレルヒの来日は、大国ロシアと戦った日本軍の調査・研究という軍事視察を目的としたものでした。またレルヒ自身も、個人的に日本と日本軍への高い関心を持ち日本行きを希望します。レルヒは明治45年1月24日までの1年1ヶ月ほど高田に滞在しました。
日本最初のスキー講習
明治43年(1910)12月27日、陸軍省はレルヒの高田派遣とレルヒが大変スキーが上手く、スキーと書籍を送るので適切な方法で実験すること、などを第13師団に通知しました。陸軍省としては、明治35年の八甲田山遭難事件を念頭に、レルヒ来日をスキー導入の好機と捉えたのかもしれません。第13師団長の長岡外史は、直ちに高田スキー研究委員会を組織、歩兵第58連隊長の堀内文次郎を委員長としてスキー研究を始めます。研究委員会は、スキーとソリとの比較、軍用スキーとしての利用、一般の交通具や体育に適するか、というスキー研究の目的をまとめます。これは、雪国の「文明発展」・国民の体育へのスキー利用を志向した長岡師団長のスキー観を反映したものでした。
明治44年1月12日、レルヒによる日本最初の本格的なスキー講習会が行われます。
約2ヶ月・34回に及ぶ講習会は、練兵場や金谷山付近においてスキーの着脱・平地行進・滑降訓練から射撃訓練・スキー登山など軍用スキーの演習まで行われました。師団は、軍事上の利用よりもむしろ民間用の交通や体育への活用が有効、と報告書にまとめました。
レルヒは、講習中の2月10日付で母国にいるスキーの師マティアス・ツダルスキー宛に絵葉書を送っています。金谷山で第13師団の将校とともに写っている絵葉書では、「日本最初のスキー教師」として自身を伝えつつ、下に毛皮を着ているため肥満体に見えることを侘びて弁明しています。レルヒは肥満をしていない姿を証明するため、毛皮を脱いだ服装の絵葉書も送付しており、誇らしげに写っているレルヒの内面を伺うエピソードと言えます。
スキーの普及・発展 そして100周年
レルヒの伝えたスキーは、明治44年(1911)2月19日に発会する高田スキー倶楽部や新聞によるスキーの紹介などを通じて、新潟県内から広く全国まで普及していきます。明治45年1月21日には日本最初の競技大会が高田で開催され、翌大正2年(1913)には全国スキー大会も行われました。その後も、全国的なスキー熱の高まりとともにスキー生産をはじめとするスキー産業や、スキー民謡などのスキー文化が発展していき、スキーはウインタースポーツとして全国的に親しまれまれるようになります。平成23年(2011)、長岡外史とレルヒの偶然の出会いにより高田が近代スキー発祥の地となってから100周年を迎えます』

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2F窓から、手入れはイマイチだったが裏庭が見えた。

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『第13師団長・長岡外史
長岡外史・第3代師団長に就任
明治43年(1910)6月1日、第13師団の第3代師団長として陸軍中将・長岡外史が就任しました。長岡外史は、陸軍へのスキー導入や初期の航空界の振興・啓蒙で知られ、白髭と馬車の愛用でも有名な明治・大正期の陸軍軍人・政治家です。長岡外史は、安政5年(1858)5月13日周防国都濃郡末武村(現在の山口県下松市)の大庄屋の堀家に生まれ、幼名は忠蔵といいます。明治2年徳山藩士長岡南陽の養子となり、明治8年に陸軍士官学校へ入学後、西南戦争の従軍・陸軍大学校(1期)を経て、参謀本部へ出仕、明治27年の日清戦争では臨時混成旅団(大島旅団)の参謀になります。ついで、欧州視察を経験、明治37年の日露戦争では参謀次長として旅順攻略などで指導的役割を果たしました。そして、明治42年陸軍中将に昇任、明治43年6月15日から大正2年(1913)1月までの約2年半を師団長として高田で居住しました。
師団長官舎落成
明治43年(1910)11月28日、長岡外史の邸宅となる第13師団長の新官舎が南城町3丁目に落成しました。官舎の建築は同年7月に着工され、総面積1330坪・建坪80坪・物置34坪・経費は13300円でした。陸軍の建築技手・加藤英太郎が設計しましたが、その多くは長岡外史の指示によるものでした。官舎は瓦葺の2階建てで、1階は洋風・2階は床の間付の座敷など和風の構造です。和洋折衷の構造が長岡式と呼ばれた師団長官舎は、平成5年(1993)に大町2丁目に移築復原され、往事を偲ばせる貴重な文化財になっています。平成22年(2010)に落成してから100年をむかえました。
長岡外史は、大正4年(1915)8月8日予備役に編入され、12月に国民飛行会の会長となります。昭和7年(1932)の「飛行講演日誌」には、長岡が大正4年から昭和7年までに行った航空機に関する講演の年月日・場所・聴衆概算などが記されており、総計で448ヶ所・聴衆は約20万人を数えます。聴衆は政府・官庁役人から全国の小中学生に及びました。また、大正12年の関東大震災に際しては、民間の飛行家を結集して東京・大阪間の郵便飛行に尽力しました。大正13年には衆議院議員に当選し、議会で航空行政に関する質問演説を行っています。
プロペラ髭の師団長
航空界の振興・啓蒙に後半生を懸けた長岡外史の代名詞ともいえるのが、プロペラ髭と言われる見事な白髭です。長岡が74才の時(昭和6年1931)に撮影された写真では、白髭は頬から先まで25cmの長さを誇っています。写真に写る長岡外史の年齢は、髭の長さと色合いで大体の見当がつくと言われています。長岡外史は昭和8年4月21日に逝去、東京都港区の青山墓地に眠っています』

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『まちのにぎわい 師団の年中行事・朝市師団の人々
第13師団の高田入城は、高田の町に人口増加をもたらし、写真屋・洋服屋など多くの商店を誕生させます。入城時の師団の人員は、将校280人・下士兵卒3328人でした。高田の人々は、歓迎歌や旗を振るなどして、市中を行動する各隊を迎えました。当時の人口は24385人でしたが、大正2年(1913)には29296人に増加しました。
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下士や兵卒は兵営内で生活しましたが、日曜日は夕方5時半までは外出許可が出たため、日曜下宿(宿舎の外に部屋を借りてそこでくつろぐこと)を行う者が多く見られました。歩兵第58連隊の営舎に近い南本町では、兵隊やその家族を対象とする飲食店・居酒屋・旅館・土産物屋・洋服屋・写真屋・靴屋などが続々と誕生し、軍隊町と呼ばれました。
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朝市
第13師団による野菜の定期市場設営の要請をきっかけにして、2と7がつく日に開催する「二・七の市」が、明治43年(1910)10月7日に高田横町(現本町2)で開設されます。市場には周辺の農村から納入された野菜・果物のほか、古着・生魚・ひもの・荒物・雑貨が並びました。更に大正9年(1920)には高田須賀町(現本町2)で「四・九の市」が開かれます。「四・九の市」は大正11年頃自然消滅しますが、大正13年夏に復活しました。
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軍隊の年中行事~観兵式・軍旗祭~
師団の入城後、観兵式・軍旗祭・招魂祭などの軍隊特有の行事が大いに町を賑やかにします。1月8日の陸軍初めと天長節祝日(天皇誕生日)には練兵場で観兵式が行われました。明治44年(1911)11月の観兵式には、新発田・村松・松本に駐屯する第13師団の部隊も集合し、会場では学校生徒・婦人団・一般観覧者の場所も用意され、各隊のパレードを見学しています。
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軍旗のある歩兵第58連隊や騎兵17連隊では、天皇から授けられた日に軍旗祭を行いました。軍旗祭の日は、歩兵連隊が8月8日(のち4月8日)、騎兵連隊が4月15日でした。軍旗祭では、飾り付けられた営舎の内部が一般に公開され、軍旗入場・敬礼・行進などの儀式ののち、演習や運動会などが行われました。歩兵連隊では模擬戦・相撲大会や銃剣術試合などの催しが、騎兵連隊では騎馬競争など騎兵特有の余興が行われました。人々は余興を楽しみ、会場に設けられた模擬店で飲食しました。
また、兵営の入営・除隊なども軍隊の行事のひとつとして、町は見送りの幟や出迎える家族・同郷の者で賑わいました』


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7/3・糸魚川・上越・柿崎・柏崎寺社山城ツーリング2日目 榊神社

バイクに戻り、10:01「榊神社」。
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『榊神社の創建は明治4年(1871)、廃藩置県により高田藩(藩庁:高田城)が廃藩になると旧藩士達が榊原高田藩祖、榊原康政(徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる徳川家康の側近の1人。
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榊原家の地位を確固たるものとしたことから藩祖として信仰されました)を祀る榊神社設立の機運が高まり明治8年(1875)にその許可が下りました。旧藩士の勇志達が広く募金を募り翌、明治9年(1876)に現在地(当地は旧藩主別邸の対面所跡地とされます)に社殿を造営し、康政公の御霊を勧請し榊神社としました。
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榊神社は明治39年(1906)に県社に昇格し、康政公以降の名君とうたわれた3代忠次公(康政の孫、大須賀忠政の長男で横須賀藩主でしたが康勝の養子となりました。幕府の老職などを歴任し、領内整備にも尽力した)、11代政令公(産綬事業の推奨、赤倉温泉の開発、人材育成に尽力した)、14代政敬公(第二次長州征討では長州藩に敗退。戊辰戦争では新政府軍に組し各地を転戦しています)が順じ合祀されています。神器として康政公の鎧、冑、刀剣など榊原家縁の品を多数所有しています。毎年5月に行われる春季例祭では居合や神楽、舞踊が奉納されます。
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榊神社の拝殿は切妻・銅板葺・平入・桁行4間・梁間4間・正面1間切妻向拝付。
本殿は一間社神明造り、銅板葺。
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ご幇神御遺徳 藩祖・康政公 公、15才より家康公に伺候以来、誠忠比類なく、剛勇・智謀兼備にして数々の武功を挙げるとともに無私・公正にして敵味方の別なき信望を集め、徳川政権樹立に貢献、「徳川四天王」と称さる。立藩の地、館林にありては、城下整備・民生安定に優れた事績を残すとともに、「尚武勧学」の気風醸成に努め、その遺風は榊原家藩風として転封の地、白河・姫路・村上・高田へと受け継がる。
3代・忠次公 公、襲封の地、要衝白河・姫路においては武備怠らざる一方、広く古今和歌収集・著名学者招聘など学問・文芸振興に努め、「文治時代」を先導するとともに「愛民」の志に基づく民福優先の徳行と清廉にして温和な人柄とが相まってあまねく領民の敬慕を集む。
11代・政令公 公、高田転封時、貢祖不足の上、相次ぐ自然災害によって極端に逼迫した財政再建のため、藩士給禄借り上げ・諸産物に対する新規課税・領民からの借金など非常手段を取らざるを得なかった9代・10代藩主時代の路線を継承、さらに「藩士の内職許可」など「体面にとらわれない緊縮策」を推進する一方、山間高冷地開拓・赤倉温泉開湯など殖産興業にも意を用い、財政建て直しの曙光を見るに至る。
14代・政敬公 公、長州戦争に再度出兵、戊辰戦争勃発後の急変した政局に処して藩論を「哀訴諌靜」に集約、折衝するも、新政府による「不審藩」の疑念払拭容易ならざる上、東征軍先鋒に任ぜられて各地に転戦、更には戦後、会津降伏人多数を預けられるなどの苦難を克服す。廃藩置県後、城址売却の巨費を旧藩士子弟育英基金に下賜されるなどの事後を刻む。
祭日 例祭:5/13・14慶長11年5/14康政公ご逝去の日に因んで 新年祭:1/1 秋祭:9/13・14 七五三祭:11/15 月例祭:毎月1日・15日』

神明式の鳥居でした。
神殿も神明式がベースです。

7/3・糸魚川・上越・柿崎・柏崎寺社山城ツーリング2日目 直江八幡宮~高田城

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田んぼの中に鎮守の森のような高木に囲まれた「砺波の散居村」のような農家があったので激写しました。
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~R18~r13で、9:13「直江八幡宮」。

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『式内社 越後國頸城郡・江野神社 旧村社 御祭神:誉田別命・息長帶姫命・玉依姫命 配祀:田紀理姫命・奧津嶋姫命・市寸嶋姫命・武内宿禰命 創祀年代:不詳
康平の頃(1058頃)、源義家が奥州安倍貞任貞任征討の際に社屋を再建。文治の頃(1185頃)、源義経が奥州からの帰路に鎧を奉納、兜を境内の池に投じて武運長久を祈願したという。
天正6年(1578)兵火に罹り焼失したが、慶長3年(1598)上杉景勝により再建。
慶長13年、堀秀治が社殿を修復した。後、慶長17年、松平忠輝が高田に築城の際、早苗村より、現在地へ遷座してしまったもの。つまり、もとは直江津の早苗村(上越市佐内町)に鎮座しており、式内社・江野神社の論社と言われている古社。
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ただし、資料によると名立町・江野神社の神主の舎弟が当社へ奉仕のおり、江野神社祭神を相殿に祀ったようで、当社が式内社であるという証はないらしい。
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「平成祭データ」によると、配祀神として田紀理姫命・奧津嶋姫命・市寸嶋姫命の名が載っているが、宗像三女神の組み合わせとしては不自然。「日本書紀」の一書では、市寸嶋姫命が遠瀛(沖津宮)の神とあり、奥津嶋姫命と思われる祭神の別名を列記したものかもしれないし、ひょっとすると「平成祭データ」の誤記かもしれない。
社殿の左手に、石祠が並んでいるが詳細は不明。境内に入った右手に、稲荷神社が西向きに鎮座している。社殿の屋根に、桐紋が付いていた。
直江八幡宮御由緒碑 式内社江野神社は、往古頚城郡福島村直江津に在り、按ずるに、延喜式内社にして、江川辺り則ち江川と新川と合う地に鎮座し是れなり。
祭神は誉田別命外六神にして、康年中八幡太郎義家勅を奉じて阿部貞任等を征討す。すなわち反乱を平らげ八幡宮の社殿を新たに建て、兜の中に所蔵する八幡宮の像を納め、以て神馬をも合わせ祠る。文治中源義経奥州下りの途次着する鎧を八幡宮に納め、又兜を境内の池に投じ以て武運を祈る、従って国人曰く八幡宮の兜池という。
天正6年春日山の役により、廟宇兵燹にあい所蔵する什宝概ね烏有に帰し、僅かに存する有るは義経が納めし守護神の像及び義経奉納の鎧のみ。慶長中上杉景勝深く帰依して社殿を修築し、歳時に幣帛を捧げて武門の長久を祈る。
堀左衛門督秀治も之を崇敬し、同17年松平忠輝高田城を築き社地を納むるにおよび、以て藩中の総社と為す。寛永3年の後松平中将光長領内の守護総社となし、又城内の矢場を撰びて直江八幡宮を分霊して遷祭し、国人矢場宮と稱するは是な
り。享和八年輪王宮親しく書して江野神社の號を此の宮に納める。余、人の請を
容れ其の梗概を書しは斯の如し』

バイクに戻り、r579~r38で9:35「高田城」Pへ。
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『高田公園は、徳川家康の六男・松平忠輝が築城した高田城の跡に作られた公園で、全体が、新潟県の史跡に指定されています。現在の公園の地形は、陸軍第13師団が入城する際、明治40年(1907)に土塁の大半を崩して堀を埋める工事が行われたことによって出来たものとされています。公園の面積は約50haあり、市街地の中心部に位置する公園としては、全国的にも有数の規模を誇っています。園内には、復元された高田城三重櫓や総合博物館・小林古径記念美術館・高田図書館・小川未明文学館(高田図書館内)などの文化施設・陸上競技場・野球場等のスポーツ施設・ブロンズ像を配置した遊歩道・岩野勇三ブロンズコーナー・外堀をめぐる遊歩道があり、市民の散策や憩いの場となっています。また、日本画の大家・小林古径の邸宅や、本丸と二の丸を結ぶ極楽橋も復元されています。
高田公園の桜は、陸軍第13師団の入城を記念して明治42年(1909)に在郷軍人会によって2200本の桜が植えられたのが始まりです。現在は公園や、その周辺を含めて約4 000本の桜があるといわれています。夜になると三重櫓と桜がぼんぼりの明かりに映え、お堀の水面に写る様は日本三大夜桜の1つにも数えられ、より一層の華やかさに包まれています。毎年開催される観桜会では、春を待ちかねた市民はもとより各地から花見に訪れる人たちで賑わいます。
高田公園のハスは、戊辰戦争や凶作により貧窮した高田藩の財政を立て直すため、外堀にハスを植えレンコンを育てたことがはじまりです。外堀を埋め尽くすハスは、美しさ・規模ともに東洋一とうたわれています。見ごろは7月下旬から8月上旬で、毎年上越ハスまつりを開催しています。
高田城や陸軍第十三師団の面影 このマップが立っている辺りは高田城があった当時、柳門(中ノ門、御門、黒金門ともいう)が建っていた場所に位置しています。柳門は三の丸から二の丸に渡る柳橋を渡った二の丸側にあり、橋は現在の左手テニスコート辺りにかかっていたと推察されます。現在、この柳門の土台となった御影石が総合博物館の入口横で見ることができます。このほかに公園内では、高田城の土塁や陸軍第13師団が建般した赤門など当時の面彫を感じることができます』

『高田公園ゆかりの周辺施設のご案内
旧師団長官舎 上越市大町2丁目3-30 休館日:月曜(月曜が祝日の場合は、その翌日)/祝日の翌日 12/29から翌年1/3 025-526・5903
明治41年、当時の高田町が誘致した陸軍第13師団の師団長の官舎です。この建物は、陸軍第13師団第3代師団長長岡外史中将が明治43年(1910)「師団長官舎」として建てたもので、移築前は上越市南城町3丁目(高田高校西隣)にありました。史料によると、設計者は陸軍経理部技手・加藤栄太郎、施工者は旧西頚城郡能生町(現糸魚川市)高鳥組(高鳥順作)、工事費は当時の金額で13300円(当時、米一升が12銭)といわれています。着工は同年7月中旬、柱立は8月14日、上棟式は9月12日、落成は11月2日でした。長岡外史中将はヨーロッパでの生活経験を生かし、それを股計に反映させ、当時の高田日報の記事(明治43年11月2日付)ではその詳細を報道し、最後に「其美観実に見物なり」と結んでいます。師団長官舎は、その後、旅団長官舎として使用されたりと、幾多の変遷を経て、昭和20年(1945)の終戦を迎えました。終戦後は米軍が駐留し、自衛隊が高田に駐屯してからは、平成3年まで幹部宿舎として使用されていました。現在の建物は、明治の貴重な洋風建築の保存のため現在地へ移築し復原したもので、その場所は旧市長公舎跡地で、陸軍第13師団の初代と2代の師団長が居を構えていた場所とされています。
町家交流館高田小町 上越市本町16丁目3番4号 休館日:第4月曜日(休日の場合は、その翌日) 12/29から翌年1/3 025-526-8103
今もなお城下町の面影を残す本町周辺には江戸から昭和初潮にかけての歴史的な建物が多く残されています。この歴史を感じる町並み散策にお勧めの施設が町家交流館高田小町です。高田小町は、明治時代に建築された商家の町家を再生・活用した交流施設で、各種の催し会場のほか、城下町高田の町中散策の休館・案内所としてもご利用いただけます。
金谷山公園 金谷山は、明治44年(1911)オーストリア・ハンガリー帝国のテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐によって日本に初めてスキー術が伝えられた地です。金谷山には、当時の資料を展示する日本スキー発祥記念館、日本スキー発祥記念碑のほか、レルヒ少佐の銅像があり、多くの人に親しまれています。
また、山頂からの眺望も良く高田平野の彼方には名峰・米山が日本海にその姿を映し、はるか遠い波間には佐渡島を望むことができます。冬のスキーはもちろん、春から秋のハイキング・BMXコース・スーパーボブスレーと四季を通じて子供から大人まで広く観しまれています。レルヒ少佐はわが国の軍事視察を目的として来日し、1年1ヶ月余りを高田で過ごしました。この間、陸軍第13師団の長岡外史師団長ら良き理解者に恵まれ、スキーの指導にも無心に力を注ぎました。日本スキー発祥記念館はスキー発祥80周年を記念して建設され、平成4年4月にオープンしました。更に長野オリンピックの開催に向け、日本スキー発祥の地「上越市」を全国にアピールするため、増築工事を行い、併せて展示内容の充実を図り、平成9年2月に新装オープンしました。当記念館は、スキーが伝わった当時の貴重な資料やレルヒ少佐の遺品などを展示し、上越はもとより、県外からも多くの皆さんが訪れています。
寺町 上越市寺町界隈 親鸞聖人ゆかりの寺、国指定重要文化財「浄興寺」をはじめ寺町には多くの寺が建ち並んでいます。高田城築城当時の寺町には寺が2列に並べられ、忠輝の菩提寺(洞仙庵)以外は全てここにおかれました。おそらく寺町はいざという時に領内の兵が集合する場所、あるいは宿泊する所にあてるつもりであったのではないかと推測されます。寺町は現在も2列に並んでいますが、築城当時は寺町通りを挟んで、寺と寺とが向かいあっていました。現在の寺町3丁目に寺はなく、後に仲町裏にあった寺町の寺を裏寺町に移した際に、下寺町(寺町3丁目)ができたとされています。戊辰戦争では、会津の降伏人1742人を高田藩が預かることになり、一同を寺町に収容し、約1年半預かったとされています』

外堀には噴水が上がり、周りにベンチがあり、憩いの場になっているようです。
外堀を渡ると、城内角に「三重櫓」が見えてきた。
再建かもしれないが、この規模の櫓から想像する天守閣が失われているのが残念です。
外堀を渡ると「高田藩の歴史」が掲示されていた。

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『高田城三重櫓は、本丸南西隅の土塁上に構築され、当時は「御三階櫓」と呼ばれて天守閣にかわる城の象徴になっていましたが、廃城後、明治19年(1886)頃取り壊されました。平成5年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を充分にふまえて再建されたものです。内容は三層三階で、東西5間(約9.1m)、南北6間(約10.9m)を基底とし、高さ15m程で外観は御殿風造りを基調としています。屋根は1層・3層が入母屋、2層が寄棟形式で、1層・3層に切妻屋根の出張りを付けています。1階・2階は展示室で、3階は展望室になっています。
櫓の東側に付随して50m程の塀も同時に再建されました』

7/3・糸魚川・上越・柿崎・柏崎寺社山城ツーリング2日目 三島神社~鵜川神社~飯塚邸~浄善寺~菅原神社

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6:25「三島神社」。
『市指定文化財・史跡(昭和48年8月1日指定) 三島神社 
社伝によれば、伊予国越智郡一宮の三島大明神の分霊を祭った社であり、天平13年(741)の創建と伝えられている。「延喜式神明帳」(927)には、三島郡6座の1つとして登載されており、式内社(「延喜式神明帳」に記載のある神社)であるとする説が有力である。
室町時代には宇佐美氏、その後長尾為景、上杉景勝、堀秀治及び高田歴代藩主の崇敬保護を受けたとされ、このことは同社にある堀直政の田地寄進状(1658)等の古文書からも伺い知ることができる。明治6年(1873)に県社となるが、その後の火災や台風によってその頃の面影を失っている。現在の社殿は昭和6年(1931)の再建である』

『延喜式内社 三島神社の由緒 祭神:大山祇命 当社は、奈良時代の天平13年(741)、愛媛県愛智郡の三嶋大明神、現在の大三島の大山祗神社の別幣帛を勧請したに淵源し、延喜式(927年撰上)に三島神社と記録されている。往古、刈羽郡は三島郡と呼称したが、その郷社として、郡民権門・武将らに篤く崇敬されてきた。明治6年、県社となり、戦後の変遷を経て、今に栄える』

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境内に特徴的な石造太鼓橋があった。
「寄進主・林文左衛門 明治33年秋8月」と彫られた石柱が立っていた。

『鴨丸の剣 天平13年(741)愛媛大山祇神社より分祀された三島神社には、神宝の1つとして剣が祀られていました。保安4年(1123)この剣が盗まれたが、盗賊は神罰により逃げる途中、南にある延命池で溺れてしまいました。1羽の鴨がこの池の底から剣をくわえて飛び立ち、南東の丘に落としました。剣は地中深く沈み、それ以来、「延命池」を「鴨くぐり」と呼び、剣が沈んだ所に「鴨八幡宮」を祀り、この辺を「剣野」と呼ぶようになりました』

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6:39「鵜川神社」。
境内中央に御神木の大欅(けやき)がありました。
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これは存在感抜群です。
御神木の周りに苔の芝生が地面を覆っており、それを痛めないように木製の遊歩道が整備されていた。
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大きくなく目立たない神社だけど、雰囲気は抜群でした。

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『国指定文化財 記念物・天然記念物(昭和5年2月28日指定) 鵜川神社大欅
この大ケヤキの樹齢は約1000年といわれ、根まわり約14m・目通り約11.5m・高さ約20mで、地上約3m付近で大きな4本の枝に分かれている。直立した主幹の上の部分があったが、現在は、枯れて、腐食したためなくなっている。記録によると大正元年9月23日と昭和63年の暴風によって、かなりの枝が折られた。調査によれば、全国のケヤキの中でその大きさが第8位にランクされているという。
昭和22年10月に昭和天皇が新潟県を巡幸したおり、10日から12日にかけて向かいの飯塚邸(秋幸苑と行在所)を宿泊所とされ、この大ケヤキをご覧になられた』

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6:49「史跡・飯塚邸」。
『市指定文化財・史跡(昭和48年8月1日指定) 秋幸苑
と行在所 昭和22年10月8日から12日までの間、昭和天皇が新潟県を巡行の折、10日から12日にかけて、柏崎に滞在された。その時天皇の宿泊所(行在所)となったのが、ここ飯塚知信邸である。後に飯塚邸の庭に宮内省より、「秋幸苑」の名を賜った。行在所の御在所は、新中間2階10畳の間、御寝所は御在所に向かって左側10畳、御化粧室は2階6畳、新聞御縦覧所は、御在所の右側6畳の間となっている。この巡航は、市民あげての大行事となり、後に地区の人達は、天皇の散策した道順に沿って、12基の石碑を建てている』

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『入館料430円・小中学生210円 午前9~午後5時 4/1~11/30 休館日:毎週月曜日』

R363~r522~R8~R252で、「柏崎IC」から「北陸道」に乗りました。
7:21「米山SA」で休憩します。
7:36「米山SA宇佐美」でガソリン補給。
222km/9.5L=23.4km/L。
「柿崎IC」で下車しR8へ。

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7:52「浄善寺」。
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仏教寺院ですが、キリスト教のチャペルのような建物で特徴があります。
『花は誰のために咲くのか 昼間はどなたも本堂へ入れます』

R8~「柿崎IC」から「北陸道」に乗り、「上越IC」で下車し、R18~r186~r198を走ります。
左右は田んぼばかりで、この季節緑の絨毯を突っ切っている感じで気持ち良い。

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8:39「菅原神社」。
『上越市指定文化財 史跡 黒保遺跡出土炉跡
本区馬屋地内黒保(くろぼ)は縄文時代の遺跡として、早くからこの地方で注目されていたが、明治43年7月に、当時の東京大学教授「坪井正五郎」博士が来校され、地元の愛好家梅山寿三郎氏等と、ともに黒保を調査され、多数の土器や、その破片と、ともに発掘されたのがこの2基の炉跡である。この炉跡は、当時の日本で最初の発掘という重要な遺構で、黒保からここに移したものである。
炉は住居の中の火たき場で焼土・灰・木炭粒・土器片が多くある。なお、その前面に敷き均めてある「石だたみ」は、昭和4年に発掘された、本区岡野町諏訪古墳の石棺の底部をここに移したものである』

鉄柵に囲まれたエリアに、移設された炉の遺構があった。
高床式の立派な社殿が建っている。

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『菅原神社の由来 菅原神社は、上越市清里区菅原字天神林に在って、老針葉樹の繁る境内は、2ヘクタールの面積と、新潟県内では希少な前方後円墳を有し、社殿は本殿・幣殿・拝殿とも神明造である。
創始は、天武天皇3年(575年大和時代)にして、延喜式神名帳に越後國頚城郡13座の1つとして記載され、産土神として崇敬を集めた。貞治5年(1366年南北朝時代)領主・上杉左近将監より黒印地200石が付与されたが、天正年間の雷火により印状を焼失し廃社となった。余地高14石と社人持高31石、諸役免除をもって再建。領主代々の祈願所で祭典時には、奉幣史差遣・幣帛料が献納された。所蔵の堀・松平家からの古文書より、菅原天神として崇敬を得ていたことが窺い知れる。
明治5年3月に社殿が炎上し再建、明治38年、高田出身の日本銀行建築技師・長野宇平治博士の設計による、現本殿・幣殿の改築に着手。上越地方に現存する長野博士設計の貴重な建築物である。昭和14年8月、拝殿を改築、同18年8月7日県社に列す。
御祭神は、天照大御神の御子・天穂日命(名義は、高天が原直系の稲穂の霊力)である。後に菅原道真朝臣並びにその御子・道雄卿を配祀(道真公の遠祖が、天穂日命)。更に岡嶺新田、元熊野神社祭神を明治41年6月24日に、荒牧元十二社祭神、元八社祭神を大正元年11月19日に合祀した。
主祭神:天穂日命 元熊野神社祭神:伊邪那岐尊 元十二社祭神:天津神五代・国津神七代 元八社祭神:高皇産霊神・生産霊神・神皇産霊神・足産霊神・玉置産霊神・御膳神・大宮之売神・事代主神 配祀祭神:菅原道具朝臣・菅原道雄卿 例大祭日:8月18・19日』

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『新潟県指定文化財 史跡:菅原古墳 指定:昭和27年12月10日
当地岡嶺丘陵の東側斜面に、南北約1.5kmにわたり、古くから150基前後の大・小古墳が群集していた。菅原古墳群の最南端の丘上に、ただ一基成立している「前方後円」式の墳丘である。全長30m・後円部の直径18m・高さ1.8mで、6世紀前後に造られたものとみられている。
6世紀頃、大和地方の中央から、この地方を開発し、新しい文化を普及するため、派遣された豪族の首長か、あるいはこれに比敵するような地方豪族の首長の有力墓とされている。西蒲原郡巻町の菖蒲塚(あやめづか)古墳とともに、県内できわめて貴重な古墳である』




7/3・糸魚川・上越・柿崎・柏崎寺社山城ツーリング2日目 鵜川神社~琵琶島城跡

バイクに戻り、R352~R8~R353で、6:01「村社・鵜川神社」。
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拝殿前に「知恵の輪くぐり」があった。
『1.知恵の輪の前で一礼します。2.茅の輪をくぐり、最初は左にまわります。3.茅の輪の前で一礼して、次は右にまわります。4.茅の輪の前で一礼して、次は左にまわります。5.最後に拝殿で一礼します。
茅の輪くぐりの由来
昔ある村に蘇民将来(そみんしょうらい)、巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟が住んでいました。ある日、武塔天神(ぶとうてんじん)という神さまが旅の途中、村に立ち寄り、裕福な巨且将来に一夜の宿を求めましたが断られてしまいました。次に兄の蘇民将来に一夜の宿を求めたところ、貧しいにも関わらずできる限りのもてなしをしました。
翌朝、宿を借りた武塔天神は、「われはスサノオの神なり」と名乗り、[もし疫病が流行した時には、蘇民将来とその子孫は茅を以って輪を作り腰に付けておれば免れるであろう」と言い残し去っていきました。
そして疫病が流行したときに、巨旦将来の家族は病に倒れましたが、蘇民将来とその家族は茅の輪のおかげて助かったそうです。この言い伝えから流行病や食中毒が多くなり、体調をくずしやすい夏に、茅の輪をくぐって無病息災をいのる行事が古くから行われるようになりました』

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ここも彫刻が良かった。
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木鼻は、象と獅子だった。
『おみくじを引いた後、よく木の枝に結びつけることがありますが、それは木々から湧き出る生命力にあやかり、願い事がしっかり結ばれますようにという祈りを込めるという意味があります。
しかしそのために木の育成が悪くなったり、痛めたりということがあり、各神社では2本の木の間にひもをはリ、そこに結んでもらっています。ちなみに凶のおみくじを利き手の反対の手で結びつければ、困難な行いを達成したということで凶が吉に転ずるという説もあるようです』

『延喜式内社 宗教法人「鵜川神社」由緒 主祭神:御祭神:鵜草葺不合尊(九州宮崎県鵜戸神宮より)・品田和気命(九州福岡県苫崎宮より)
琵琶嶋城の二の丸があった。式内社・鵜川神社の論社。嵯峨天皇の御宇、八條殿が当国介に任ぜられ、近江国から赴任した時、生国である筑前国の箱崎八幡宮の分霊を受け、中世には八幡宮と称されており、琵琶嶋城鬼門守護神として崇敬された神社。天明二年(1782)、吉田家より鵜川神社の社号使用の許可を受けたらしいので江戸後期から現在の社号なのだろう。八幡宮であったはずだが、拝殿には梅紋があった。
社伝によれば、祭神2柱は嵯峨天皇御宇、八條 殿當國介に任ぜられ、近江國より赴任の時、生國筑前國那 珂郡箱崎八幡宮の分霊を受け、弘仁2年(811)8月22日遷座、是より本社を2殿とし、八社大神、八幡大神と 併稱した。當社境内は枇杷島城二ノ丸で、天文2年(1533)上杉定憲に焼かれたが、同年10月26日、春日山城 主長尾爲景當社に祈願文を納めて社頭造営を誓つている。同3年の再建の時2二殿を1社に合祀した。
永禄7年(1564)琵琶島城主宇佐美駿河守定満没し同 家断絶してより社運衰退した。天明2年(1782)6月、 吉田家より鵜川神社の社号許可をうけた。元文4年(1739)正月22日社殿焼失、文化7年(1810)再建。當村の産土神として明治6年11月、第6大区2小区の 村社に列した』

『平安時代初期・弘仁2年(811)8月22日遷座以来、当地の産土神として厚く信仰される。戦国時代は武将の守りの神として崇敬され、特に上杉氏(宇佐美)とは深い関わりを持ち、一時は衰退した社の修復も進んだ。
その後、度重なる兵火や落雷などにより幾度も被害を受けたが、吉田神道の庇護のもと松平家の尽力、更に地元民の熱意により、文化6年(1810)に本殿、翌年には拝殿が完成し、2社を合併して鵜川神社となった。今ここに栄えある1200年の記念祭典を迎える』

『市指定文化財・民俗資料(昭和50年10月9日指定)鵜川神社船絵馬
安永7年(1778)閏7月の奉納。蛇腹のたい垣立だけの古い型のもので16反帆の8人乗り、およそ500石の船である。越後名屋町(納屋町)の名が記された唯一の船絵馬で、沖船頭をはじめとした三役連名による住吉大社祈願のためのものであり、背景(左上部)に住吉大社と日の出を描いている。また、帆の内側を示す形も珍しく初期北前絵馬に共通しておおらかな画風を見せている。舳先の弥帆をおろして弥帆柱だけになる画風は、新しい様式への移行を示している』

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案内板に従って、6:15「琵琶島城跡」。
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「柏崎総合高校」敷地内にあった。
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塀がなく、自由に入れる感じだった。
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立地は、2級河川の鵜川とそれに流れ込む小川2本に三方を囲まれた平城だった。

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中学生の時毎回欠かさず見ていたNHK大河ドラマ「天と地と」でカッコ良かった長尾景虎(上杉謙信)の師匠・宇佐美の居城「琵琶島城」にやっと来れた。
元は長尾家と敵対していたが、負け戦の時の退却の鮮やかさに若き上杉謙信が惚れた。
あのドラマのイメージでは湖に浮かぶ島だったが、そのイメージがない。
「琵琶島城」の名からして、築城された時は島だったのでしょう。
現状の高低差のない低い土地を見ると、当時は鵜川の中洲だったのではないかと想像した。

宇佐美役をされた宇野重吉が格好良くて、その後宇野さんのファンになった。
ついでに上杉謙信役をされた石坂浩二さんのファンにもなった。
このドラマ以来、「最も好きな戦国武将」が上杉謙信になった。
ドラマの原作を読み、作者・海音寺潮五郎のファンになり、「史伝」という小説様式が好きになった。

『指定文化財・史跡 琵琶島城跡
鵜川は、昭和30年代の河川改修の実施までは、この辺りでは大きく蛇行を繰り返していた。横山川等の支流の合流点でもあり、周辺の水田も土地改良前には大変な深田であった。琵琶島城は、これらの地形を上手く活かして築かれた平城である。
琵琶島城の本丸跡は、江戸時代の記録(白河風土記)に東西40間・南北60間とあり、ここに農業高校が建設されるまで、周囲を囲う高さ2~3m・基底部4~5mほどの大土塁、東に大手・西に搦手の虎口などの遺構が残っていた。地元では、この本丸を勝島と呼び、二の丸を福島、金曲輪(三の丸)を琵琶島と伝えている。
城主については、江戸時代に宇佐美定祐が書いた「越後軍記」等の軍記物によって、「宇佐美駿河守定満が上杉謙信の軍師」とする説が広く喧伝され、NHK大河ドラマ「天と地と」によって今や定着した感がある。
ここに城が築かれた起源は不明だが、中世越後有数の港湾「柏崎湊」と「柏崎町」の支配と防衛のために、上杉-長尾家の直領として、その一族や重臣が城主として派遣されていたと考えられる。
資料で描かれる城主としては、永禄~天正初年(1558~1573)は「琵琶嶋(越後侍衆等儀太刀次第写)」、能登出身の「琵琶嶋弥七郎(越国諸士)」の名が見え、天正12年(1584)には御館の乱の褒賞として「桐沢但馬守具繁」が就任している』


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プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
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から引っ越してきました。

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