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7/23・北播磨/山城・寺社・歴史ツーリング7 埋田神社~貴船神社

r8を東に下ります。
JR播但線・市川を渡り、更に播但道をくぐり、14:21「ローソン神崎南インター店」で、「森永チョコモナカジャンボ162円」購入し、Pで糖分補給&クールダウンしました。

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r8を北上し、右折して東進。14:38「埋田神社」。
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『埋田(うめだ)神社 中世には粟賀荘の荘園鎮守社であったと考えられる埋田神社は、神社本殿が神河町内に現存するもっとも古い建物であり(正保5年造立)、大規模で床も高く豪壮な建物であり、神河町の社寺建築史上非常に重要です。埋田神社は庚辰(かのえたつ)年9月9日に衣冠を整えた翁が田に神木を投げ入れ、その後に「そこにお宮を造立せよ」とのお告げがあったことに由来する。町指定文化財。 *正保5年=1648年  かみかわ銀の馬車道まちづくり協議会
日本遺産 かみかわ銀の馬車道は、2017年に「播但貫く銀の馬車道・鉱石の道」をストーリーとして日本遺産登録認定を受けました』

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『神河町指定文化財建造物「埋田神社本殿」 所在地:神河町中村629-1 指定年月日:平成17年7月28日 構造形式:正面三間・背面二間・奥行三間・入母屋造・妻人・向拝一間・銅板葺 建立年代:正保5年(1648棟札)明治33年(1900修理) 埋田神社は中世には粟賀荘の荘園鎮守社であったと考えられます。 本殿は、神社本殿としては大規模であり、床も高く、豪壮な建物です。 神河町内に現存する最も建立年代の古い建物で、神河町の寺社建築史上非常に重要です。
神河町指定文化財・有形民俗「四季農耕図絵馬および祭礼図絵馬」 指定年月日:平成17年7月28日 形状:四季農耕図絵馬縦98.9cm横190.3cm、祭礼図絵馬縦96.0cm横190.8cm 奉納年代:慶応4年(1868)6月 この2面絵馬は奉納時期が同じことから、1対の絵馬として奉納されたものと考えられます。四季農耕図絵馬は、米づくりの作業の様子が、季節ごとに生き生きと描かれており、当時のこの地域の生業の歴史を知る上でも貴重な民俗史料です。祭礼図絵馬は、埋田神社周辺の風景と、獅子舞に先導された、お旅所から神社につづく祭礼行列がのびやかに描かれています。画面左下の落款から、春霞によって描かれたことがわかります。この絵馬は、当時の埋田神社の祭礼や風俗を知る上で貴重な民俗史料であり、この地域の江戸時代の農耕や祭礼の様子を知る上で数少ない貴重な史料です。
神河町指定文化財・無形民俗「中村・獅子舞」 指定年月日:平成元年2月17日 舞の名称:荒神祓・新太刀・古丸・新丸・神車・牡丹・狐・花・荒獅子・夫婦獅子・獅子踊り・背継ぎ 中村獅子舞は、江戸時代の寛文年間に播磨国多可郡松井荘(現多可町加美区豊部)より伝わったとされています。以来、明治の廃藩までの約200年間、毎年正月3日に福本藩主の御前で舞いを奉納していたといわれています。現在は埋田神社の祭礼で行われています。  神河町教育委員会  平成23年(2011)3月作成』

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拝殿には絵馬が多数下がっています。
本殿の屋根を見上げた時気づいたのが、左右の千木が水平切りと垂直切りになっていたこと。
水平切りは女神・垂直が男神を主祭神にしている場合が多いが、左右で千木が違っているのを見たのは初めてで驚きました。
早速、祭神をチェックします。
主祭神は鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)で男神。
祭神(配祀神)は、玉依姫命・太玉命・天児屋根命・埋田分霊神。
ウガヤフキアエズは、山幸彦の子です。

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山幸彦は農業、兄の海幸彦は漁師で生計を立てていました。
兄に「仕事を交換してみないか?」と提案され、山幸彦は兄から釣り針をもらって釣りを始めました。
ところが、釣った魚に針を取られてしまいました。
兄に「大切な針を探し出せ」と言われ、困ってしまいました。
そんな時、助けた亀が現れ、「僕の背中に乗って海神に相談に行きましょう」と誘われ、海の底の海神の館に向かいます。
海神に気に入られ、2人の娘の長女・豊玉姫と恋に落ちました。
釣り針は鯛の口に刺さっており取り戻せました。

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山幸彦と豊玉姫は陸上に戻り、産屋を建てました。
出産が近づき、「決して中を覗かないように」と言われたのに覗いてしまい、サメの姿に変身してお産している豊玉姫を見てしまい、怒った豊玉姫は海の底に帰ってしまいました。
幼子を抱え山幸彦が困っていると、豊玉姫の妹の玉依姫がやってきてウガヤフキアエズを育ててくれました。
成長したウガヤフキアエズは、育ての母であり叔母でもある玉依姫を娶り、神武天皇などお子さんに恵まれました。

僕の大好きな古事記の神話の物語で、「浦島太郎」「鶴の恩返し」の物語の元になっています。
神武天皇の父親を主祭神に、その育ての母&妻玉依姫を副祭神にした神社ゆえの千木に納得しました。

r8を東に走り、峠を登って「高坂トンネル」で峠を越えて下りへ。
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右折してR427を南下、右折して枝道に入り、15:14「貴船神社」。
扁額には、「貴船神社 村社・大歳神社」と併記されています。

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『貴船神社 御祭神:水喰尊(みずほのみこと)・大歳神 創立年代は不詳ですが、天船地区4ヶ村(坂本・中村・横屋・下村)の氏神です。かつての秋祭りには、豊臣秀吉が寄進した虎の皮を張った2尺余りの陣太鼓を用いたと伝えられています。境内社として大神宮社・祇園神社・山ノ神社・若宮神社等も祀られています。
秋祭りには、貴船神社から御旅所である横屋の大歳神社への渡御が行われています。また、当日には「リョンリョン」をはじめとする民俗芸能が奉納されます。
竜王の舞と呼ばれる「リョンリョン」のほか、獅子が駆ける「神楽の舞」・子供がササラを鳴らし、大人が布張りの太鼓を叩く「ゲイゲイ」によって構成されています。これらの伝統芸能は、中世の芸能を彷彿させる貴重な祭礼行事となっています。
この天船地区には大正時代の頃まで、風流踊りである雨乞踊が行われていましたが、昭和47年に一度復活した後、現在は行われていません』

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『景観保全樹木 樹種:イチョウ(イチョウ科) 樹齢:250年(推定) 指定:第2号 平成12年(2000)12月 八千代町45周年記念』

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拝殿には絵馬が下がっていました。
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本殿の彫刻が素晴らしい。
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r143を南下します。
野間川沿いを走ります。
左折してr34で東進。
「JR加古川線」を渡り、加古川を渡り、突き当りを右折してR175で南下し、「滝野社IC」から「中国道」に乗りました。
「宝塚IC」で下車し、16:36帰宅しました。






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7/23・北播磨/山城・寺社・歴史ツーリング6 荒神社~庭田神社~三国各霊塔

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r6を少し走り、12:49「荒神社」。
境内に入ると、『荒神社のモミジ 樹種名:イロハモミジ 科属:カエデ科カエデ属 幹周:228cm 樹高:22m』

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r6を南下し、R29に合流し、左折してr8を東進し、13:13「庭田神社」。
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『庭田神社のぬくゐの泉と造酒 庭田神社は、平安時代の延長5年(927)に成立した「延喜式」神名帳の宍粟郡七座のうちに数えられる古社で、古代・中世には播磨国一宮伊和神社と深い繋がりがありました。現在、神社の背後に玉垣をめぐらした清らかな湧き水「ぬくゐの泉」がありますが、かつて庭田神社の氏子には、宵宮祭の当日早朝に家々で醸した白酒を神前に供え、五穀豊穣を祈る風習があったそうです。和銅6年(713)5月に編纂の命令が下り、平成27年(2015頃)に編纂完了から1300年を迎える「播磨国風土記」には、造酒に関わるおもしろい伝承が多く記載されています。
なかでも、宍禾郡比治里庭音村(しそうのこおりひぢのさとにわとのむら)の条には、次のとおり記されています。
庭音(にはと)村。〔本の名は庭酒なり。〕大神の御かれひ枯れて緬生(かむた)ちき。即ち、酒を醸(か)ましめて庭酒(にはき)を献りて宴(うたげ)しき。
故、庭酒の村と日ふ。今の人、庭音村と云ふ。(「播磨国風土記」山川出版社)〔大神の糒(ほしいい)に糀が生えたので、酒を醸造し、神酒(みき)として大神に奉ったので、庭酒(にわき)の村といったが、今の人は庭音(にわと)の村という。(現代語訳)〕
また郡末の伊和村条(いわのむらじょう)には、次のとおり記されています。伊和村。〔本の名は神酒なり〕。大神、酒を此の村に醸みたまひき。故(かれ)、神酒村と日(い)う。又、於和(おわ)村と云う。大神、国作おへたまひて以降(のち)に云ひたまひしく、「おわ。我(あ)がみきに等し」といひたまひき。(「播磨国風土記」山川出版社)
〔大神が酒をこの村で醸造したので神酒の村という。一説には於和村というが、それは(伊和)大神が国づくりを終えられ、「(国づくりは)終わった。私の神酒と同じくらいよくできた」とおっしゃった。(現代語訳)〕というようなお話です。
これらの由緒をもって、平成25年に宍粟市は、日本酒による「乾杯」の習慣を広めることで市の歴史と伝統・文化を後世に継承し、地域の振興及び発展に寄与していくことを目的として、「日本酒発祥の地・宍粟市日本酒文化の普及の促進に関する条例」を制定しました。  平成26年3月』

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『式内庭田神社由緒記 鎮座地:一宮町能倉字馬場1286番地 創立:第13代成務天皇甲申2月11日 祭神:事代主命・末社(両大神宮社・稲荷社・荒神社・祇園社・蛭子社・五社五行神) 境内面積:1379坪
伝記:古伝によると大国主命が天乃日槍命と国土経営を争い給いし時、伊和の地に於て最後の交渉を終られ、大事業達成に力を合せられた諸神々を招集えて酒を醸し、山河の清庭の地を撰び慰労のため饗宴を為し給えり。
この地が即ち庭酒の里。現在の庭田神社奉祀の霊地なるにより社殿を造営、その御魂を鎮祭れりと云う。然るに当社安永縁起に成務天皇の御代に神託に依り、新に神殿を建て広く崇敬せらる。延喜式の制、小社に列し、江戸時代寛文11年社殿改造、元禄15年本殿屋根替、享保8年本殿屋根替、元文3年拝殿屋根替中略、明治4年本殿棟上再建、昭和43年5月敞殿改築、昭和49年10月拝殿改築、現在に至る。
霊石:亀石(社殿右面にあり) 霊地:ぬくいの泉(社殿後方20m)』

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『兵庫県指定文化財(天然記念物) 庭田神社のケヤキの大木 指定年月日:昭和60年3月26日 管理者:庭田神社 員数:1本
ケヤキ(欅)は、ニレ科に属する落葉高木で、本州・四国・九州の低山地に自生する。 延喜式内社・庭田神社の社叢にそびえる大ケヤキは、樹高約30m・根回り7.85m・幹回り5.35m(地上1.50m)・枝張り東西約37m・南北約30mを測る県内屈指の大樹である。 地上約8mで分枝をはじめ、主幹も枝状になっている。
樹幹に損傷は見られず、きわめて旺盛な樹勢を誇っている。 指定樹齢600年。
令和2年7月 宍粟市教育委員会』

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随神門をくぐりました。
寺院の仁王門も良いですが、神社の随神門の方が好きです。
境内には土俵があります。
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絵馬殿には、彩色の褪せた絵馬が数枚奉納されていました。

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『庭田神社と日本酒発祥のぬくゐの泉について 古伝「播磨国風土記」に出雲の国の大国主大神が国造りの大業をなされ、伊和の地で最後の交渉を終えられた時、「オワ(終)」と告げ給いて草原の景色麗しい清水湧き出るぬくゐの水辺を選ばれ、大業に係わられた諸神を招集(めしつど)いて祖霊祭と併せて持成(もてなし)の宴を成し給えりと云う。其の時持参された干飯(けれい)を、ぬくゐの水で戻した時に一部の飯にカビが生え、酒成分が生じて酒の発見となった事が文献に見られます。後に云う庭酒(俄酒)である現在の米飯を材料にして造った日本酒であります。歴史を振り返って此の地の当時を想像してみると、雑木林に囲まれた原野に清水湧き出る程よい場所であったので、儀式の候補地に選ばれたと思われます。
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当神社の創立は文献によると、皇紀131年13代成務天皇の御代甲申(きのえさる)2月11日、神託により社殿を建て崇敬されるとあり、当時に遡ると2500余年前となり、先人達が前記の如く史実に残る行動をした遺跡として大切に保存顕彰して行かねばなりません。今日まで時代の変遷と共に住民が住み着き村落が形成され、明治に至り行政下に置かれ、神社にも社格が制定され村社として奉祀されて参りました。境内は当初庭音の里能倉とあり、平地全域が境域であったようです。従って当地は神社を中心にして成立した地域である為、住民の人々は敬神の念厚く、氏神として春秋の2大祭が盛大に試行されています。 以上、神社とぬくゐの泉について略記してみました。 平成25年9月1日  宮司記』
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亀石を参り、拝殿に参り、本殿裏に抜け「ぬくゐの泉」へ。
泉の多くは斜面から溢れ出ていますが、ここは平地で未だに綺麗な水が湧いていました。
まさに「泉」です。
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かつては、播磨国一宮「伊和神社」の摂社のようです。

バイクに戻り、r8をさらに東へ。
峠を登って行きます。
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13:40「三国各霊塔」。
『三国各霊塔 三国各霊塔は、染河内村の田中政右衛門氏が日本・韓国・中国の3国の兵士の霊を弔うため、自らの財産を投げ打って建立したものです。 郷土や国を愛する気持ちの強かった政右衛門は、明治27・28年(1894・95)の日清戦争では、新聞で戦況を知ることを心がけ毎日のように庭田神社に戦勝を祈願していたといいます。
ある夜、多くの兵士が向かいの萩野山において奮戦し、多くの死傷者が出た夢を見て、一念発起して戦死者の冥福を祈ろうとしました。同時に戦争の敵国とはいえ、韓国や中国の兵土も自分たちの国に報いようとする志にかわりはないとして、ともに忠魂の碑を刻むことを決心したものです。
時に明治29年(1896)、染河内村上野田出身の伊藤俊介氏に相談し、飯尾松之進氏を介して釈雲照律師に題名を依頼しました。律師は、その義挙に感動し、日本・韓国・中国それぞれの国に殉じた兵士の霊を祀るべく「三国各霊塔」と名づけました。表の揮毫は、陸軍中将鳥尾小弥太子爵、由来を記す碑文を岡本監輔氏に依頼し、揮毫は中国の少白陳氏の手になりました。明治29年の夏に着手し、明治31年4月18日に観音寺住職ほか多数の参加により除幕式が行われました』

『焼山久吉氏頌徳碑 東河内村生まれの焼山久吉氏は、明治時代に、東河内の林野が杉の育成の適地であることを知り、奈良県吉野地方にまで出向いて植林の方法や技術を学びました。その技術を地元に持ち帰り、植林事業を進め、事業が軌道に乗り始めると売却した林野を買い戻したり、常用の労務者を雇うなどして地域住民を潤すこととなりました。
事業の推進にはいろいろな困難がありましたが、これを見事に成功させ、東河内や一宮町が杉のおかけで財政的にも恵まれた地域となることに多大の貢献をされました。優れた先見性と指導力で、今日の森林大国一宮の基礎を作られた先駆者といえるでしょう。
その功績をたたえて、昭和15年(1940)に東河内村の人たちによって記念碑が建立されました。石碑の題字は、当時の農林大臣であった島田俊雄氏が書いています。 また昭和52年(1977)6月26日には、一宮文化協会設立20周年の特別企画として焼山久吉氏を主人公として、ミュージカル「杉の木の讃」が一宮南中学校体育館で上演されました』


7/23・北播磨/山城・寺社・歴史ツーリング5 宍粟市歴史資料館~馬頭観音菩薩

バイクに戻り、r428を戻り、11:53「宍粟市歴史資料館」。
「家原遺跡公園」があり、縄文時代・弥生時代の集落が再現されていました。

『中世の建物(掘立柱建物3棟) 平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけては、各地域において武士が勢力を広げるようになり、中世と呼ばれる時代が幕を開きました。 家原遺跡では、この時期の堀立柱建物群や中国製の焼物を納めた土壙墓(どこうぼ)などが見つかっています。その他にも、周りではたくさんの柱穴が見つかっており、さらに多くの建物が立てられていたものと思われます。この頃の記録によれば、周辺は「三方庄」と呼ばれており、これらの建物もそれに関係する施設であった可能性もあります。
中世建物1は、正面の柱間四間・側面三間の建物で、左側に正面一間・側面四間の中門廊と呼ばれる出入口を付けています。平安時代の終わり頃から地方の有力な人々が、都で貴族が住んでいた寝殿造にあこがれて、中門廊を付けた建物を造るようになりました。家原遺跡の同じ時期の建物の中では、最も大切な建物であったと思われます。外観は主屋を茅葺き、中門と庇の部分は板葺きとしています。
中世建物2は、正面四間・側面三間の建物に、背面右隅一間の下屋(げや)を付けています。中世建物1と比べると少し格の低い建物と考えられるので、押さえ丸太を乗せた縦板段葺き屋根の建物に復元しています。
中世建物3は、正面五間・側面六間の大きな建物で、正面側の二間通りに地面を少し掘り下げた土間を復元しています。土間でいろいろな作業をする目的を持った建物であったのでしょう。また柱の位置から正面と背面を庇と考えて、主屋を丸太押さえ縦板段葺き、庇を板葺き屋根にしてあります』

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『弥生時代の建物(竪穴住居・棟) 弥生時代は、各地で本格的に稲作りをはじめるようになった時代です。また、銅鐸などを使ったお祭りを行ったり、鉄製の道具なども使われるようになりました。 家原遺跡では、これまでに23棟以上の弥生時代の竪穴住居跡が見つかっており、全時期を通じて集落が営まれていたものと考えられます。
住居跡はいずれも円形で、直径5m前後のものから直径約9mのものまであります。小型のものはおおむね4本の柱で建物を支えていますが、建物が大きくなるほど柱の数も増えていっています。なかには同じ場所で、建て替えを行った住居跡もありました。住居跡の床の周りには溝を巡らし、真ん中に土杭(どこう)を持つものが多いようです。それぞれの住居跡からは、各種の土器や石斧・石鏃(せきぞく)・砥石(といし)・鉄斧などが出土しています。
ここでは、直径5.2~5.7mで4本の柱を持つやや小型のものと、直径約7mで6本の柱を持つ大型のものを復元しています。屋根は茅葺で、入母屋作りと呼ばれるものです』

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『縄文時代の建物(縦穴住居・棟) 縄文時代は、猪・鹿などの獣類や山の木の実類など、主に自然の恵みに頼って暮らしていた時代でした。 家原遺跡で見つかった竪穴住居跡は、長辺6m・短辺約4.9~5.5mの隅の丸まった四角い形をしています。床の真ん中には石で囲んだ炉があり、ここで暖を取ったり煮炊きをしたものでしょう。この炉を挟むようにして、2基の柱穴があり、ここに立てられた柱で建物を支えていたものと考えられます。住居跡の中から、縄文時代中期末から後期初頭のものと見られる土器類をはじめ、石斧や石鏃などが出土しています。 また、遺跡内から多くの「落し穴」が見つかっており、ここに落ち込んだ猪や鹿などを捕まえていたものと思われます。
福野(ふくや)遺跡の竪穴住居跡も、長辺約6m・短辺約4.3mの隅の丸い四角形で、やはり床の真ん中からは石で囲んだ炉と2基の柱穴が見つかっています。住居跡から出土した土器から、家原遺跡とほぼ同じ時期に立てられていたものと考えられます。 復元した竪穴住居は、2本の柱の上に1本の桁(けた)を渡し周りから垂木を立てかけて茅葺屋根とした、入母屋作りと呼ばれる形のものです』

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『古墳時代の建物(竪穴住居・棟・高床式建物1棟) 古墳時代は、各地域の首長たちが土を高く盛り上げた墓(古墳)を盛んに作った時代です。 家原遺跡では、これまでに78棟を超える古墳時代の竪穴住居跡が見つかっており、この遺跡が最も栄えた時代ということができるでしょう。古墳時代の竪穴住居跡はいずれも四角い形で、おおむね4m四方から7m四方のものまでがあります。建物を支える柱は4本のものが多く、床を固く叩きしめた住居跡が多く認められます。
床の中央には、「コ」の字形に石を組んだ炉や土器を再利用した炉を持つものがあり、新しい時期の住居跡には竈(かまど)を備えるものもあります。 竪穴住居は4本の柱の上に桁と梁を渡し、周りから垂木を立てかけてその上に茅を葺いています。屋根の形は入母屋作りと呼ばれるものです。
高床式建物は、2間四方(2.6m×2.6m)で、合計8本の柱が立てられ、板張りの高床と板壁を持ち屋根は切妻と呼ばれる形になっています。茅葺屋根の竪穴住居群の中では一際目立つ存在といえ、ムラの中でも特別な意味を持った建物であったと思われます』
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歴史資料館内に入ります。
各種パンフレットが置かれています。
横に小さな図書室があり、宍粟市に関する歴史書・戦国史・山城書籍が本棚にずらりと並んでいました。
「別所一族の興亡/播州太平記と三木合戦」という本を手に取り、しばらく読みました。
貝の化石がボックスに入れてたくさん置かれていました。
「貝の化石(本物)さわってみよう!」と書かれており、自由に触れました。
かつては海の下だったそうです。

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「えはらの森・カブトムシドーム」という建物がありました。
中から、カブトムシの入った籠を抱えた子供が出てきます。
建物の裏に網で囲われた広いスペースが有り、ここにカブトムシが放し飼いにされているように思います。
子供が自由により自然の環境に似たところで探し虫捕りするのかな?
多くの親子連れが中に入って楽しんでいます。

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バイクに戻り、r428~r6で、12:39「馬頭観音菩薩」。
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『三方町前川の馬頭観音
菩薩の由来 三方町の前川の大師堂には、本尊として馬頭観音菩薩が祭られている。近在には、まれな本尊さまで、古くから(多分、文政の頃か)、三方谷88ヶ所霊場の第7番札所として信仰されてきた。 馬頭観音菩薩は、観音菩薩が、衆生の多様の苦難に応ずるために、変化(ヘンゲ)された、即ち、六観音の一姿で、他に、聖観音、十一観音、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音がある。
馬頭観音の姿は、馬の頭を頭上に置いた異様の姿で、その起源は、インドのヒンドゥ教の最高神の一尊であるヴィシュヌ神が馬頭に化身して、強力な力を発揮したと言う神話から来たものと思われる。 日本では、古くから、仏教の説く、畜生道の苦を救う観音として、又、人馬の往来の安全の守り仏として、峠や四辻に祭られた』
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7/23・北播磨/山城・寺社・歴史ツーリング4 播州三方御形神社

R429は、更に勾配を増し、中央白線が無くなり1.5車線の道になりました。
森の中の林道チックになってきました。
勾配が増し、つづら折れに近いカーブをゆっくり登っていきます。
高野峠を越えて森の中の林道を東側へ緩やかに下って行きます。

突き当りを左折して、r6。
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すぐに左折してr428に入り、11:08「播州三方御形神社」。

『ショウフクジザクラ(正福寺桜) ショウフクジザクラ(正福寺桜)は、キンメザクラとヤマザクラの自然交配種で、美方郡温泉町正福寺の植栽木により命名されたものです。兵庫県の固有種で、但馬地方から播磨北部の宍粟郡にかけて分布する珍しい品種です。半しだれで親木が弱ると枝分かれして、八重咲きの美しい花を咲かせる性質があります。 御形神社のショウフクジザワラは県内でも最大級のものであり、町指定の天然記念物としてふさわしい風格を備えるものといえます。  宍粟市教育委員会』

『五色椿 この椿は同じ枝に紅・ピンク・白等複数の色の花が咲きます。 特に有名なものは、奈良県の天然記念物に指定されている白毫寺の五色椿があります。多くの品種がある椿の中でも珍しいもので、この椿は大きい方かとおもいます』

『宍粟市指定文化財(有形民俗)左義長羽子板』
『宍粟市指定文化財(有形民俗)巴御前勇戦図絵馬』
『宍粟市指定文化財(有形民俗)百人一首絵馬(附・由緒書)』

『百人一首図絵馬(附・由緒書) 絵馬は全部で17面あり、百人の歌仙全部が描かれた類例は全国でも少なく県下では唯一のもので、保存状態も良好できわめて貴重な遺品といえます。 ほかに由緒書二面が添えられており、弘化3年(1846)に奉納されたことがわかります。  宍粟市教育委員会』

『巴御前勇戦図絵馬 御形神社に奉納されている絵馬で、横204.5cm・縦147.5cmを測り、額縁の朱書きから、嘉永7年(1854)に製作されたことがわかります。 打出浜での最後の戦いで奮戦する巴御前の勇姿が描がれており、保存状態も良くきわめて美しい画面を残しています。  宍粟市教育委員会』

随神門がありました。
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彫刻が素晴らしい。
千社札も貼られています。
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左右に武者が鎮座していました。
社務所を覗いてから境内へ。

『百人一首の絵馬 この舞台に掛けてある百人一首の絵馬は、江戸時代後期弘化3年(1846)の作で百人全部の歌が揃っている例としては、全国的にも非常に珍しく、当時のこの里の文化水準を示す証拠の1つです』

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境内には土俵がありました。
『明治37・8年役戦利品』の石柱が立っていました。
日露戦争ですね。
戦利品が奉納されているのでしょうか?
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『御神木「夜の間の杉」 この鈴の緒は御神木に繋がっています。思いを込められ強く引いて、鈴を鳴らし、御祈念ください』

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彩色された本殿を一周し、彫刻をしっかり見学させて頂きました。
『重要文化財本殿の説明 1.本殿の概要:本殿の建立は奈良朝宝亀3年(772)が創建で、その後再建立があり、更に室町末期大永7年(1527)再々建立がなされ、それが現存する本殿である。
本殿は三間社流れ造り桧皮葺きで、側廻りに高欄をつけた椽(たるき)を設け、柱の上の組物は三ッ斗の出組で軒支輪を配し、木鼻や手挟墓股などんは室町末期の様式技法を伝える繊細な木組や彫刻があり彩色も施されている。現本殿は建立以来数回にわたる大小修理が行われ明治36~7年、境内大模様替の際透塀お新設され現状の姿に整えられた。
2.重要文化財指定:右のような沿革を持つ本殿は、日本建築史上その形式技法にきわめて優れたものを遺存しており、昭和30年以来この道の権威の度重なる調査研究の結果が日本建築学会に報告され、昭和46年6月国指定重要文化財となった。
3.本殿の解体修理:建物の主要部は建立当初のもので、部材の虫害腐朽が甚だしく国の補助事業として今回次のとおりの解体修理を行った。
(イ)修理の方針:解体修理とし後世改変された箇所はできる限り当初の姿に復元を行う。建物の部材を再用新補の材も原則として旧形旧工法を踏襲する。基壇は根本から積替えを行う。
(ロ)工期工事費等:工期/着工昭和46年2月1日・竣工昭和47年2月29日 工事費/金2044万2030円也(内訳国費補助1705万1000円・県費補助120万3000円・町費補助120万3000円・神社負担98万5030円)
設計監理:文化庁及旅団法人文化財建造物保存技術協会 施エ:重要文化財御形神社本殿保存修理委員会 以上』

境内の摂社を巡ります。
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本殿はリニューアルされたばかりのようで、極彩色が綺麗。
『御形神社の水流し ご神水と南天 当社は古くから、健康・病気平癒のご神徳著しい神社として信仰されています。この手水鉢の水は、神域からの湧き水を利用しており、神さまの恵みが宿っています。また、南天の木も古くから「難を転じて福となす」縁起木として知られています。
用紙(溶ける紙)に、貴方に起こった嫌なこと、忘れてしまいたいこと、治したい病名などを書いて静かにこのご神水に浮かべて下さい。 水に溶けて消えてゆくように、ご神水と南天が貴方の悩みを水に流してくれることでしょう。  御形神社社務所』

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社務所で、「交通安全ステッカー」「金運招福御縁」(5円玉が入っていました)「厄除南天まもり」を授かりました。


7/23・北播磨/山城・寺社・歴史ツーリング3 波賀神社~六地蔵~鍋ヶ森神社~加茂神明神社~野尻八幡神社

時折、銃声が聞こえます。
猟銃のようです。
鹿を害獣駆除しているのでしょう。
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模擬天守の更に上・山頂に「波賀神社」がありました。

『城山の植生 標高458mの城山は、第1層(頂上部)・第2層(中間部)・第3層(下層部)の3つの植生に分かれています。第1層の頂上部は約20株のイヌシデを中心に、イロハモミジ・クマシデ・アカマツ・シロダモ・モミなどが高木層を作り、低木層にもシロダモ・シキミ・イヌツゲ・コマユミ・イナゴ・ウラジロノキなどがあり、中間温帯の2次林のひとつで、典型的なシデ樹林ですが、その中
に冷温帯針葉樹のアスナロが植生し、それは直径50cmを越える巨木でイヌシデの大木と共に群落を形成しており、このアスナロ・イヌシデの群落ほ県下にもその例を見ることの出来ない貴重な樹林です。
尚、この第1層の頂上部は兵庫県の「自然環境の保全と緑化の推進に関する条例」第16条第1項の規定に基づく、「環境緑地保全地域」に指定されています。第2層の中間部は、「波賀城史蹟公園」として唐カエデ・コムラサキ・ヒサカキ・ヤマザクラ・ヤマハギ・ユズリハなどの低木樹を植栽し、園地としての景観形成が図られています。
第3層の下層部は大部分がスギ・ヒノキなどの民有人工樹林で、手入れも行き届き、一部縦帯状にコナラ・アベマキ・ケヤキ・クリなどの落葉樹林も残されています。  教育委員会』

バイクに戻り、城山から下り、R29に出て少し北上し、左折してR429を西進します。
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枝道に入り、9:51「六地蔵」。
『六地蔵 造立時期:不明 管理者:有賀自治会 六地蔵とは、六道(ろくどう)「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道」と言う6つの道に現れて衆生(しゅじょう・一切の生物)を救いお守り下さる地蔵菩薩と言う意味。 有賀の六地蔵は、初めは飯見越山道の辻に建てられていたが参拝に不便なため、明治中頃現在地に移転する。 その後、昭和48年に新しく造立し、上屋根も改築する。  有賀自治会町』

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『弘法大師像 造立時期:文政13年庚寅(かのえとら)年(1830) 管理者:有賀自治会 大師とは、衆生(生物一切)を導いて悟りを開かせる師という意味で、朝廷から高僧に、死後に贈られる尊号で、普通には弘法大師(空海)のことを言う。
 ここは昔からの交通の要地で側の道標(1818年)と共に一思案の休憩場所・祈願場所でもあったと思われる。  有賀自治体』

『道標 建造時期:文政元年戊寅(つちのえとら)年(1818) 管理者:有賀自治会 表:南ハ一宮へ三リ 西ハちくさ町へ三リ 引原村へ三リ 裏:文政元年戊寅年六月 東ハみかた町へ三リ 泉州石工嘉兵衛 と刻まれている。  有賀自治体』

『念仏百万遍供養塔 造立時期:明治時代中頃・昭和62年現地に移転 管理者:有賀自治会 この供養塔は、元梶本静雄宅敷地内に建っていたもので、この辺一帯は、ちょうど引原川と斎木川との合流地点で、大水が出るたびに被害を受けた所と思われる。大水害に田畑・家屋を流された部落の人たちが村中の安全を祈願して造立したものと思われる。 世話人名は、宮治吉郎右衛門・坂本久兵衛とある。  有賀自治体』

森の中に農地が点在する道に入って行き、9:57「鍋ヶ森神社」。
『鍋ヶ森神社 管理者:有賀自治会 祭神:豊玉姫命(別名:水神・神武天皇の祖母) 大正11年6月25日:八幡神社合祀祭神を字奥谷山に分霊奉祀 昭和53年7月16日:社殿替え 昭和63年7月17日:現在地に新築移転 平成4年7月12日:公民館奉祀の農神合祀  有賀自治会』

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素敵な里山が見えています。
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波賀城も見えています。
ここから、林道になりました。
小さな峠を越えて次の里山へ。

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集落に入り、10:05「加茂神明神社」。
長い石段を森の中を上がっています。
2回ほど休憩してやっとこさ境内へ。

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『加茂神明神社由緒略記 当社は延宝癸丑(みずのとうし)元年(1673)の御代、京都・加茂別雷神社の御分霊を拝享し、当邑背後(通称行者山)の俊峭(しゅんしょう)の地に御鎮座ましまし。
御神徳:克く照寿、人類の邪悪と病魔を祓禊し給い。 御神威:社会の和平と福祉を守護し給い。 御神祐:善く聡現乾坤の裁禍と変異を宗御し給う。爾来、古代の賀茂別雷神社の祭祀(葵祭)に因由し、当社また年々歳々4月14日と定め、祭儀を厳修されるに及ぶ。
更に、明治辛亥44年(1911)の御代、当邨南方の邱麓(通称よなぎ山)に遷御され給い、昭和丁卯2年(1927)の御代、此地嶺を選び、遷座あらせられ現在に至る』

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R29に下り、少し北上し、10:26「野尻八幡神社」。
『野尻大藤 学名:ノダフジ 規模:根元回り180cm・幹回り140cm・推定年齢200年 特徴:花序は垂れ下がり、花はヤマフジに比べてやや小さく、4~7月に長さ20~90cmの長い総状花序を出し、紫色または薄紫の蝶形花を開く。ツルは右巻き(ヤマフジは左巻き)で寿命は長く保存次第で1000年以上にもなる。 分布:本州・四国・九州に分布し、県下では野山に広く分布している。  宍粟市教育委員会』

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彫刻が素敵でした。
高い木々に囲まれた境内の地面にはいくつも蝉の出てきた穴が開いています。

R29を戻ります。
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左折してR429を東進し、緩やかな上りワインディングを楽しく走って、10:42「疣石(いぼいし)」。


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