FC2ブログ

8/2・京丹後寺社ツーリング7 真照寺~仏性寺・桜山天満宮

r655~r53で南下し、右折してR178。
左折してR176。

20200802KyotangoS0800s.jpg
20200802KyotangoS0802s.jpg
天橋立まで来て、15:26「真照寺」。
『どこまで逃げる わたしは慈悲のなか』。

20200802KyotangoS0813s.jpg
少し走り、15:35「仏性寺」。
20200802KyotangoS0826s.jpg
山門の彫刻はナイスでした。
20200802KyotangoS0832s.jpg
龍の彫刻が、針金ひげで中川一党作のようです。

20200802KyotangoS0836s.jpg
横にある「桜山天満宮」へ。
『天満宮 宮津市字万町 古くより天満宮・また天神社とよぱれてきた。もとは社殿うしろの桜山にあったというが、その勧請年代は不詳。寛永年間(17世紀前期)に宮津藩主京樋高広が現地に再建したと伝える。
天満天神というのは、菅原道真の霊を神格化した呼称で、その歴史は古く、仏教信仰と結んで、渡唐天神の信仰を生み、また文芸・学問・諸芸能の神として、その信仰は広く上流権門から庶民の間にも浸透した。
ここに祀られる菅公神像は、もと太閤秀吉が身辺に守護神としてもっていたものを側室松の丸の手を経て、藩主京極高広に贈られたものと伝える。松の丸は高広の父高知の妹で、若狭守護武田元明に嫁いだが、元明は秀吉に攻められて自殺し、松の丸は秀吉の側室とされた。秀吉の伏見城松の丸に住んだので松の丸殿と呼ばれ、淀君と勢力を競ったという。
京極高広は境内地の一角に、田辺(舞鶴)同隆寺より有栄法印を招き成就院密厳寺を建てて天満宮の支配に任じた。いまの桜山会館の地という。境内宝物庫は天満宮・成就院関係の宝物や、近世万町町絵図、祭礼屋台等を収蔵している。氏子の人々が自ら財を募って建設した貴重な宝物庫である』

20200802KyotangoS0846s.jpg
境内に、絵馬殿があり見学。
20200802KyotangoS0849s.jpg
本殿の彫刻も見事でした。
境内に石碑が2つ並列に立っていました。

20200802KyotangoS0856s.jpg
『本庄宗秀・宗武の墓 幕末期に宮津藩主を務めた本庄宗秀・宗武の墓所です。
宗秀は異国船が来航する中、宮津湾の砲台築造などに当たり、寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中といった幕府の要職を歴任しました。慶応2年(1866)、第2次長州征伐では副総督を務めますが、長州藩士の捕虜を釈放したことから老中を罷免。晩年は文芸書画を好み、伊勢神宮の大宮司にもなりました。明治6年(1873)に死去。享年65才。
宗武は、最後の宮津藩主です。戊辰戦争では、朝敵の嫌疑を受けますが、西園寺公望が率いる山陰道鎮撫使に対して帰順の意思を示し、明治2年(1869)の版籍奉還では宮津藩知事、同4年(1871)の廃藩置県では宮津県知事となりました。
明治6年、北海道の開拓に従事しますが、同年、父・宗秀の死去により宮津に戻りました。龍神社の宮司を務めています。明治26年(1893)に死去。享年48才。
墓所の前に架かる石橋は、宮津城二の丸にあった昌国宮から移築されたものです。
昌国宮は藩主の本庄資昌(本庄家初代宮津藩主)を祀るために建てられたもので、宮津城の廃城により荒廃したため、明治19年(1886)、昌国宮の再興事業として墓所の南側にある桜山に本荘(庄)神社が建てられました。
この墓所の周辺には、宮津藩主・本庄家に関連する旧跡が点在しており、明治期の藩主顕彰の中で作られた空問となっています』

r9から「京都縦貫道」に乗って南下し、「京丹波みずほIC」で下車し、R173を南下します。16:38「ローソン京丹波和田店」で、「ガリガリ君ソーダ75円」を購入し、Pでクールダウン。
R173で南下します。
17:20「ファミリーマート能勢町栗栖店」で、「チョコバニラバー86円」を購入し、再び糖分補給。
R173で南下し、18:06帰宅しました。




スポンサーサイト



8/2・京丹後寺社ツーリング6 小町公園

r53~r655で、14:47「小町公園」。
『内山ブナ林 ブナは、日本の冷温帯を代表する落葉広葉樹。内山ブナ林は、京都府内でも最大級の約40haの広さを持ち、そのエリア内には多様な動植物が確認されており学術的にもその評価が高い。 自然観察施設のブナハウス内山から標高702mの高山山頂までは稜線散策道(観察道)が整備されており、途中、内山集落跡や幹の周囲が3.65mにわたる大ブナを見ることができる』

20200802KyotangoS0760s.jpg
蓮の葉が浮かぶ池に面した建物がありました。
『内山ブナ林と小町の里 内山ブナ林地域は丹後天橋立大江山国定公園として2007年に指定されました。京丹後市大宮町五十河の里(小町の里)から登ることができます。登山口には平安時代の歌人・小野小町が眠る墓と小町公圃があります。
小町公圃の展望台望台に登ると、内山プナ林と五十河の里を見渡すことができます。
小町公園から山中のブナハクスまでは自転車で行くことができます。ブナハウスは標高500m以上の山中に建てられており、トイレや昼食などの休憩場所として利用されてる無人の施設です。小町公圃からブナハウスまでは徒歩50~60分ぐらいです。ブナハウスから内山山系の最高峰の高山(標高700m・丹後半島最高峰)までは、少し急な斜面を登ります。登る途中では樹林の間から、琴引浜と天橋立を遠望できます。山頂からは太鼓山の風車発電の風車などを展望することができます。ブナ林が最もきれいな所は、ブナハウスから約300~400m登った地域です。
また、山頂の尾根沿い付近には、京都府内最大のブナが生育しています。このブナの太さは約3.65 mもあり、ブナの母樹といえそうです。
山中の登山路は良く管理されており、運動靴で登ることができます。夏は蚊が多いので、長袖長ズボン・帽子の着用が適します。秋の内山は11月上旬から下旬にかけてすばらしい紅葉に包まれます。秋に少人数で登るときは、クマ避けの鈴を持っていくと良いでしょう。ツキノワグマが生息している森ですが、出会うことはほとんどありません。冬は12月から3月下旬頃まで山頂付近は雪でおおわれています。毎年1m以上の積雪がありますので、冬登山は完全装備で登りましょう。
春の訪れは遅く、4月になります。小町の里やブナハウス周辺の集落跡には、フクジュソウが咲き乱れ、登山者の心を和ませてくれます。
野鳥・草花・昆虫など季節毎に移り変わる自然は、疲れた登山者の心身を癒やしてくれます。自然観察だけでなく、健康増進、家族連れにも良い所です。
さあ、登ってみよう、内山ブナ林へ』

20200802KyotangoS0771s.jpg
『京丹後七姫伝説 京丹後市観光協会
・小野小町(美しすぎた情熱の歌人)・京丹後市大宮町五十河(駐車場完備・大型バス駐車場有り)
平安時代の六歌仙の1人で絶世の美女として知られる小野小町は、深草少将の猛烈な求愛に疲れ果て、京の都を逃れて大宮町五十河に隠れ住んだと伝わる。五十河地区には小町が開基したと言われる妙性寺、小町の墓と伝えられる小町塚があり、一帯は小町公園として整備されている。R312号線・大宮市民局前から約7km。
九重の 花の都に 住まわせで はなやか我は 三重にかくるる(三重とは三重の郷五十日村(現五十河))
・細川ガラシャ(戦国に散った一輪の花)・京丹後市弥栄町味土野(道路は非常に狭いので注意)
明智を秀の娘(三女)玉は丹後田辺城(舞鶴市)の細川忠興に嫁いだが(1578年16才)、本能寺の変(1582年)で父が信長を討ち、弥栄町味土野に幽閉された。
ここでキリスト教に出会い(1582年ガラシャ)の名を授かった。関ヶ原の合戦の折り、人質として夫の足手まといになることを潔してせず悲運の最期をとげた(1600年38才)
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花あれ 人も人なれ
・静御前(悲運の英雄に愛された舞い姫)・京丹後市網野町磯(駐車場有り)網野町磯で生まれ、京の都で指折りの白拍子として有名になり、源義経に見初められました。義経と頼朝の不仲により、義経と共に追われる身となり吉野山中で義経と別れ、故郷の網野町磯に戻り、夫の無事と子の冥福を祈りました。磯周辺には静御前を祀る静神社や、義経が訪れたときにまつわる岩などが残されていま
す。
・間人皇后(優しき土地に名を贈る)・京丹後市丹後町後が浜(駐車場完備・大型バス駐車場有り)
母子像が日本海を眺めるようにたたずむ。聖徳太子の御母である(穴穂部間人皇后)は曽我氏と物部氏の争乱をさけ太子とともにこの地(現間人・大浜の里)に身を寄せたと伝わります。大和の国へお帰りになるになるにあたって皇后自らの名を贈られたが、住民たちは恐れ多く感じ皇后が退座されたことにちなみ(たいざ・間人)と読むことに。
・羽衣天女(舞い降りた美しき天人)・京丹後市峰山町鱒留(駐車場完備)・比治の山
2つの羽衣伝説があり、1つは日本最古と思われる羽衣伝説。もう1つは羽衣を隠した狩人「さんねも」と結ばれた大女が3人の娘をもうけたが再び天上へ戻って行ったという物語。
いずれの伝説でも、天女が舞い降りた場所(水浴び)は磯砂山の中腹にある女池(めいけ)といわれている。モニュメントがある磯砂山(標高661m)頂上からの眺めは最高です。
・乙姫(竜宮の姫君)・京丹後市網野町浅茂川(駐車場完備・大型ベス駐車場有り)
丹後の国風土記に伝えられる浦島太郎伝説が最古と言われ、水江浦島子(みずのえのうらしまこ)の名前になっている。浦島伝説ゆかりの神社・浅茂川海岸に鎮座する嶋児神社に祀られています。
・川上摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)美しき将軍の妻・京丹後市久美浜町
丹波の国(現京丹後市久美浜町)国王として君臨した丹波の主命の妻。伯耆谷には、この一族の大勢力の遺跡が数多く存在しています。景勝地のかぶとやま山頂の祠に祀られており、そこから見る久美浜湾、日本海の景色は最高です。神谷太刀の宮にも、丹波の主命の事が記されています』

20200802KyotangoS0774s.jpg
「小野小町展示室」がありました。
小町ゆかりの品が展示されているようですが、「大人200円・小中学生100円」の入室料が必要なようです。
パス建物から出て、小野小町の墓を見に行きます。

『五十河一新宮(いかが・しんぐう)
五十河・新宮区はごんなところ?
「五十河」という地名は、江戸時代にはじめてみられるものです。「妙性寺縁起(みょうしようじえんぎ)」によれば、この地に来た小野小町が火事に困っていた村人たちの相談を受けて、「五十日」という地名を「五十河」に変えれが火事が治まると教えのが由来といわれています。
この地区では、五十河において縄文時代から生活をしていた痕跡がみられます。
飛鳥時代には、須恵器を焼いた新宮窯跡が操業しています。
この地区には、平安時代の歌人小野小町がこの地で亡くなったという伝承が残っています。小町の舎には、全国の小町伝承に関する資料を展示しています。また小町を開基と伝える妙性寺、小町の守護仏を祀る薬師堂・小町の墓・小町をしたってこの地に来た深草少将の墓と伝える岡の宮などが残っています。小町が腹痛を起こしたという「小町坂」は、現在も小字名として新宮区に残っています。
神社は、五十河区に霧宮神社・中原神社、新宮区に三社神社があります。また霧宮神社境内には、町内でもっとも大きな杉(八岐杉)があるほか、もともと内山にあった三柱神社が鎮座しています。内山には、北近畿地方有数の面積をほこるブナ林があり、京丹後市指定天然記念物に指定されている京都府下で一番大きなブナの木もあります』

20200802KyotangoS0781s.jpg
『小野小町の墓
平安時代、百人一首で知られ、六歌仙の1人で絶世の美女と云われた小野小町が、年老いて丹波路を旅する途中、五十河の住人甚兵衛と道連れになった。当地で旅の疲れを休め、再び甚兵衛に送られ旅立つも、新宮より道戸へ通ずる長尾坂で急に病の身となり、甚兵衛は小町を背負って帰り我が家で介護、薬石効なく辞世の句
「九重の花の都に住みはせで はかなや我は三重にかくるる」
の一句を残してこの地で世を去ったと云われる。以後、長尾坂は小野負坂(小野坂)と呼ばれている。法名を妙性といい、小野山妙性寺は小町を開基として建立され、今でも妙性寺には由来を記した巻物、小町像、位牌が寺宝として残っている。
大宮町』

お墓に手を合わせました。
『薬師堂 妙性寺の由来を記した「妙性寺縁起」によれば、薬師堂は小野小町の守護仏である薬師如来を祀ったお堂とされています』

20200802KyotangoS0793s.jpg
『妙性寺300m・中原神社350m・霧宮神社・三柱神社150m』
ちょうど閉まったばかりの蕎麦屋さんがありました。
食べたかったけど仕方ありません。


8/2・京丹後寺社ツーリング5 網野神社~銚子山古墳~六神社~春日神社

20200802KyotangoS0598s.jpg
r665を東に走り、13:13「網野神社」。
『網野神社 網野神社は、日子坐王・住吉大神・水江浦嶋子の3神を祀る神社です。もとは銚子山古墳の近くにあったが、享徳元年(1452)9月に現在地に奉遷されたと伝えられています。
境内社の蚕織(こおり)神社は、宮中紅葉山の養蚕神と京都今宮神社の織物神の分霊を祀ったもので、大正14年4月に創立されました。早尾神社は、天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)を祀り、かつては秋の彼岸の中日を例祭日として竹市と相撲などがありました。
網野神社本殿・拝殿・渡廊・神饌所・透塀・手水舎・石鳥居、蚕織神社本殿は、国登録文化財となっています』

20200802KyotangoS0617s.jpg
『網野神社・蚕織神社 網野神社の境内にある蚕織(こおり)神社は、大正14年(1925)に、地元のちりめんと養蚕の関係者が織物と養蚕の神を奉祀し、毎年4月に祈願祭を行い、丹後ちりめんを奉納している』

『網野神社(延喜式内社・旧府社)
御祭神:日子坐王(ひこいますのみこ・水江日子坐王みずえのひこいますのみこ) 住吉大神 水江浦嶋子神(みずのえうらしまこのかみ)
御由緒:当社は延喜式内社であるので、創立は10世紀以前と見られています。元々は、3箇所に御鎮座されていたものを享徳(きょうとく)元年(1452)9月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。 現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正11年(1922)に建てられたものです。拝殿は入母屋造の正面千鳥破風と軒唐破風付きで、こちらも大正11年に本殿と同じくして建てられましたが、昭和2年の丹後大震災の被災により、昭和4年(1929)に再建されました。
当社は延喜式内社であるので創立は十世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座され日子坐王(水江日子坐王):日子坐王は、第9代開化天皇の皇子とされており「古事記」の中つ巻、第10代崇神天皇の御代に日子坐王は勅命により丹波國(古くは丹後も丹波國に含まれていました)に派遣されて土蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠」(くがみみのみかさ)を誄されたとあり、また別の記録にはその後、日子坐王は丹波に留まり、國造りをなされたとあります。さらに日子坐王は網野神社の他、丹後町の竹野神社などに祀られ、網野銚子山古墳の主ではないかとも伝えられています。
住吉大神:伊邪那岐神の禊の時に成った上(表)筒男命(つつのおのみこと)・中筒男命・底筒男命の3神を住吉大神と申し上げます。神功皇后の新羅遠征を守護したことから、特に海神として崇敬されています。また、網野神社の住吉大神の縁起には、古代に日本海経由で来着したという説や近世になって河田金右衛門が泉州堺(現在の大阪府堺市)から勧請したという説などがあります。
水江浦嶋子神:水江浦嶋子神は、かつて網野村字福田の園という場所に暮らし、毎日釣りを楽しんでおられましたが、ある時、海神の都に通い、数年を経て帰郷されました。今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦嶋太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています。
網野には他にも浦嶋子をお祀りした嶋児神社(網野町浅茂川)や六神社(網野町下岡)、嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔の皺を悲しみのあまりちぎって投げつけたとされるしわ榎(えのき・網野銚子山古墳)など、水江浦嶋子神に関わる史跡や伝承が今日までたくさん残っております』

地域の核になる大きな神社でした。
『しわ榎2世の育成 浦島伝説で有名な「しわ榎」は、永い年月による高齢化と度々の台風によって幹は空洞化し、大枝も折れ無残な姿になりました。
そこで、網野郷土文化保存会が中心となり、行政の支援と樹木医の指導を仰ぎながら、近くの網野南小学校5年生の課外授業として、播種から苗の世話そして、ここに定植する体験学習として取り組みました。
関係者が多く集まり植樹祭を執り行い、榎2世の育成を祈念し、今後も苗木の成長を見守る決意を固めたところです。
平成19年3月 網野町郷土文化保存会』

『皺榎(しわえのき) この樹には浦島太郎についての民話が伝承されている。
ここは水の江の住人・浦島太郎終焉の地で、太郎の館跡。太郎が龍宮より帰り、玉手箱を開くと忽ち老翁となる。驚愕せる太郎はその顔の皺を取って、この樹に投げつけたりと依って、今日この榎はその樹皮醜き皺をなすなりと云う。
昭和51年6月 宝娶山本覚寺第27世・権大僧正・石原照山』

『銚子山古墳と陪塚 網野銚子山古墳は全長198m・後円部径115m・同高16m・前方部幅80m・同高10mを測る日本海側最大の前方後円墳です。墳丘は3段に築かれ、それぞれの斜面には葺石が葺かれていました。また各段のテラス上には、丹後地域に特有の円筒埴輪(丹後型円筒埴輪)の列がめぐっていました。前後には小銚子古墳と寛平法皇陵古墳の2基の陪塚を従えています。4世紀末~5世紀初頭に丹後地域を治めた有力者が葬られた、雄大で整美な古墳です』

『しわ榎 しわ榎は、網野銚子山古墳と寛平法皇陵古墳の間にある榎の大木です。
 竜宮から帰った浦島子(浦島太郎)は、この場所で玉くしげ(玉手箱)を開けました。この時、顔がしわだらけになってしまった浦島子は、悲しみのあまり、しわをちぎって投げつけたため、榎の樹皮がしわで凹凸になったと伝えられています』

20200802KyotangoS0627s.jpg
大きな前方後円墳でした。
20200802KyotangoS0634s.jpg
墳丘に登れるので、端から端まで歩きました。
20200802KyotangoS0661s.jpg
墳丘の麓にある「本覚寺」に寄りました。

『当山縁起 当山は凡そ440年前の開創なり。
即ち泉州堺に河田金右衛門あり。篤く法華経を信じ、仏心院日光聖人に帰依す。
然るに天正7年織田信長による世に安土法難と称する大弾圧の厄あり。宗門の命脈正に危機を煩わす。茲(ここ)に於いて河田氏はともあれ1度はこの重圧を避け復興を祈願し、祖像(光師開眼の花押あり。及び氏神住吉明神を奉り当邑に逃れ来る。ここに真言宗の一小庵を興し寺となす)。
善性院日永聖人を開山と頼み、宝永山本妙寺と称す。後第6代日通大徳の代(寛文2年)本覚寺と改む。
昭和2年、丹後大地震で七堂伽藍倒壊し、ようやく今日に至る。
平成30年春4月 再記』

20200802KyotangoS0685s.jpg
r665を経て、14:03「六神社」。
20200802KyotangoS0702s.jpg
石段を上がっていくと、覆屋で守られた本殿の彫刻は素晴らしかった。
それほど大きくないお宮だけど、不釣り合いな見事な彫刻が施され蟇股の龍は針金ひげでした。
その上に綱を持つ牛飼いに操られた牛の彫刻が珍しい。
唐破風の立派な屋根の本殿でした。

r665に戻り、r53を走り出します。
20200802KyotangoS0724s.jpg
14:19「春日神社」。
境内に蔵のある立派な神社で中堅どころでしょうか。
20200802KyotangoS0738s.jpg
本殿の彫刻も見応えがありました。
20200802KyotangoS0741s.jpg
摂社の床尾神社の彫刻も良かった。
この地方の神社は、扉にもしっかり彫刻を入れているのが特徴のようです。

『床尾(ゆかお)神社 床尾神社は、現在、春日神社の境内社ですが、もとは床尾山に祀られていました。 言い伝えによると、もともと鎮座していた床尾山では、お宮が北面していて、不浄のことが]あると日本海の船が進めなくなったそうです。そのため、神社は、山の下の低地に遷され、あわせて社殿の向きを南面に改めたと伝えられています』




8/2・京丹後寺社ツーリング4 志売比神社~恵比須神社~静神社~静御前生誕の地~日吉神社~島児神社

R178を先に進み、11:46「浜詰海水浴場」。
20200802KyotangoS0462s.jpg
日陰用のテントが海岸に多数並び、海水浴客が楽しんでいました。
沖には海上保安庁の警備艇が停泊していました。
海水浴の事故防止のためだろうか?
職員は、家族やカップルで海水浴を楽しむ方々を、羨ましく双眼鏡で見ているのでしょう。
20200802KyotangoS0464s.jpg

20200802KyotangoS0471s.jpg
11:54「志売比神社」。
バイクを置いて神社に参ろうと、ふと海の方を見たら岩場に若者3人が甲羅干しをしていました。
1人は女性で素敵なビキニ姿でした。
あ~いいわ~。

石段を上がっていくと、海水浴場が眼下に広がって行きました。
野鳥とセミの鳴き声が姦しく、「The夏」でした。
20200802KyotangoS0486s.jpg
拝殿に入ると、「ご自由にお取り下さい」とパンフレットが多数置いてあり、一式頂いたので、お賽銭をはずんでおきました。
手を合わせ、お願いもしちゃったけど・・・。

少し海岸道路を走り、12:09「恵比須神社」。
「浜詰漁港」がありました。
戻って、r665に乗り海岸道路を走ります。

20200802KyotangoS0502s.jpg
12:27「静神社」。
『静(しずか)神社 
悲劇の英雄、源義経の愛妾であった静御前を祀っているのがこの神社です。静は磯の禅師の娘として生まれ、京に出で、白拍子になり義経に見染められるのですが、義経が追放された後は故郷の磯に帰り晩年を過ごしたということです。
義経が磯の惣太という船持ちの豪族にあてた手紙が残っていたという江戸時代の記録もあります。しかし、この手紙や多くの遺品は天明2年の大火で神社とともに消失してしまい残念ながら残っていません。現在の社も、元のところから西へ200m離れた位置に建てられ、静御前の木像を祀っています』

20200802KyotangoS0507s.jpg
石段を上り境内に上がると、海岸線が見下ろせました。
20200802KyotangoS0515s.jpg
『「丹後七姫」イメージ花「静卸前」 ヒトリシズカ(一人静)センリョウ科
花言葉:静謐・隠された美愛にこたえて
春の初め、まだ緑が少ない頃に端正なこの花が花壇を明るく彩る多年草。その強さと、花の立ち姿の美しさから、静御前のイメージ花に選ばれました。静御前の故郷である、ここ磯で、日本海の寒風にも耐えて、清楚で可憐な花を咲かせています』

r665で少し走り、12:37「静御前生誕の地」。
バイクを置いて、生家の跡の碑を見に行きます。
海岸を見下ろす場所でした。

20200802KyotangoS0524s.jpg
『静御前生誕の地 静は磯に生を享け、父は磯野善次といい「磯の衆」と呼ばれた海士の一族であった。幼名を静尾といい、7才で父を失い母に連れられて都へ上った。母は白拍子として有名になり、静も都で指折りの白拍子へと成長していった。
やがて義経に見初められ、愛妾となるが義経はその後、兄頼朝に追われる身となり、はなればなれに。その後疲れ果てた心身を休めるため、生まれ故郷の磯へと帰ってきた。
静は眺望のよい三つ塚法城が成に草庵を結び、義経の無事と、由比が浜で殺された愛児の冥福を祈りつつ、花月を友として暮らしたと伝えられている。また一説に、草庵は静の出生地の屋敷跡で母娘共々余生を送ったとも言われている。今もこの屋敷跡下の海岸を「尼さんの下」と言っている』

20200802KyotangoS0530s.jpg
r665を走り、12:50「日吉神社」。
『日吉神社は、大山咋命(おおやまぐいのみこと)を祀ります。境内社の1つには、盛大な夏祭りの行われる水無月神社があります。本殿は、文政10年(1827)の再建と伝えられています。本殿の彫刻は、江戸時代後期以降、丹波・丹後地域で活躍した彫刻師・中井の第6代・権次正貞の作品です。本殿は、江戸時代後期の丹波地域を代表する建物である点が評価され、平成5年には京都府の登録文化財に登録されています』

石段を上がると中間郭があり、境内を神道式の石碑が立っていました。
『日清日露戦役紀念碑について
明治27~28年の日清戦争及び37~38年の日露戦争には、浅茂川区からも50数名の区民が出征しました。この両戦役を顕彰するために建てられたのがこの紀念碑(記念碑と同意)で、侯爵東郷平八郎元帥の書です。
日露戦争の時には、浅茂川区は軍事援護団体「後援会」を創立して出征兵士やその家族の援護に取り組みました。
後援会は、戦地と郷里との往復郵便書簡の事務のほか、
1.留守家族を慰問し、時には農作業の労働提供
2.応召者を見送り、送別金を贈与する
3.戦死者の招魂祭や凱旋軍人の歓迎祝賀会
などの援護事業を行いました。中心になったのは、青年会「矯正社」の人たちで、出征兵士からの後援会宛の書簡や後援会から兵士への通信など当時の貴重な記録が、現在も区事務所に大切に保管されています。なお、矯正社は水無月祭とも深い関わりを持ち続けました。
この紀念碑を、出征兵士と後援会との書簡とともに、浅茂川区民の誇りとし、優しさと団結のシンボル塔として、長く後世に顕彰していきたいと思います。
平成24年8月吉日 浅茂川区』

20200802KyotangoS0547s.jpg
横に並んでいる摂社の蛙股は、針金ひげ龍の彫刻でした。
他の彫刻も摂社にしては、見事でした。
港に続く川には、プレジャーボートが多数停まっていました。

更に石段を上がり本郭へ。
日吉神社本殿に参ります。
20200802KyotangoS0571s.jpg
覆屋に守られた本殿で、それほど大きくはありませんでしたが、彫刻は見事でした。
20200802KyotangoS0575s.jpg
日吉神社らしく、猿の彫刻もありました。
境内には、「征露紀念」と彫られた狛猿が守護していました。
20200802KyotangoS0588s.jpg

20200802KyotangoS0591s.jpg
r665で橋だけ渡り、13:06「島児神社」。
「八丁浜海水浴場」にあるとても小さな神社というより祠でした。
『島児神社 京丹後市網野町網野および浅茂川には、浦島伝承が伝わっています。島児神社は、浦島子(浦島太郎)を祀る神社です。
この近辺には、網野神社(京丹後市網野町網野)と六神社(京丹後市網野町下岡)にも祀られています』


8/2・京丹後寺社ツーリング3 咋岡(くいおか)神社~赤坂今井墳墓~賀茂神社~売布神社

20200802KyotangoS0365s.jpg
r17を北上し、右折して「京都丹後鉄道宮豊線」を渡り、10:22「咋岡(くいおか)神社」。
県道を走っていて、鳥居を見つけたので寄り道しました。
石段を上がります。
20200802KyotangoS0375s.jpg
本殿前に一体化した拝殿があり、軍艦の白黒写真絵馬が掲げられていました。
20200802KyotangoS0376s.jpg

『奉納・皇太子殿下・御渡欧供奉記念 大正10年 赤坂 海軍一等水兵勲八等・・・ 大日本帝国戦艦・鹿島』。
昭和天皇がヨーロッパ訪問した時、供奉艦鹿島で訪問された。
その時、鹿島に乗っておられた方が奉納されたと想像しました。
もう一つ軍艦写真絵馬が奉納されていました。
『大正4年11月遠洋航海記念』と書かれていました。
20200802KyotangoS0382s.jpg

r17を北上し、10:31「国指定史跡・赤坂今井墳墓」。
20200802KyotangoS0387s.jpg
『赤坂今井墳墓は中郡盆地から福田川の河口へ通じる谷筋に面した丘陵の先端に造られた弥生時代後期末(2世紀末~3世紀初め)の大型方形墳丘墓です。16世紀ごろに山城が築かれたため一部削られていますが、造られた当時は東西36m・南北39m・高さ3.5mの長方形の墳丘と四方に巡る幅5~9mの平らな面から出来ており、墓域は南北51m・東西45mに渡る当時では日本有数の規模となります。墳丘築造に際しては、南北34m・東西22m・高さ9mに渡って丘陵を切断して墳丘や周辺の平らな面が造成され、より大きく見せるための工夫がされています。
20200802KyotangoS0388s.jpg
中心的埋葬施設である第1埋葬は墳丘上面の奥よりに位置し、長さ14m・幅10.5mの規模です。中央上面からこぶし大の石約300個による集石と割られた土器群が出土し、さらに西側には南北に並ぶ一列の柱穴列が見つかっていることから、独特な祭祀を行う場があったと考えられています。
第1埋葬を一部切り込んで造成された第4埋葬は、長さ7m・幅4.2mの規模です。舟底状木棺(ふなぞこじょうもっかん)長さ4.4m・幅1.3mの棺内から頭飾り・耳飾り一式、鉄剣1点、ヤリガンナ1点が出土しました。頭飾りは、被葬者の頭の部分に管玉(くだたま)・勾玉が規則正しく三連に連なるもので、布などに編み込んでいたものと考えられます。使用された玉類は確認できたものだけでガラス勾玉22点・ガラス管玉57点・碧玉(へきぎょく)製管玉39点を数え、ガラス管玉の中には、古代中国で兵馬桶にも使用されていた顔料「漢青(かんせい)」(ハン=ブルー)の主成分であるケイ酸銅バリウムが含まれていました。
赤坂今井墳墓はその規模・立地・墓上での祭祀のあり方を知ることが出来る丹後を代表する大型墳丘墓であり、丹後地域の弥生社会の発展を理解する上で大変重要なものです』
20200802KyotangoS0392s.jpg

県道沿いに案内板が立っており、無料の資料を頂いた。
「何処にあるのかな?」と農道を奥に歩いていくと、県道横にありました。
綺麗な墳丘です。
よく手入れされており、藪こぎなどなしに墳丘の上に立てました。

r17を更に北上し、京都丹後鉄道宮豊線を何度か渡り、左折してR178で西へ。
20200802KyotangoS0402s.jpg
交差点のところに、「野村克也ベースボールギャラリー、静御前出生の地」と書かれた大きな看板が立っていた。
野村さんは京都峰山高校出身と知っていましたが、まさにここだと再認識しました。
源義経の愛妾・静御前がここに生まれたとは知りませんでした。

11:04「賀茂神社」。
20200802KyotangoS0407s.jpg
『加茂神社由来 長久4年(1043)に山城國上賀茂神社より
御分霊を受け創立、祭神は別雷神を祭り丹後における由緒ある神社の1つであります。
中世に於ては相当栄え伏見天皇の正応元年(1288)における丹後田数帳には、木津之庄加茂社領として52町歩余の田畑が領有されていた事が記されています。
なお、この歴史を物語るものとして、文化財の指定を受けた鰐口が現存しております。
神社:延喜式内加茂神社
祭神:別雷神
境内末社:八雷神・稲荷神社・小谷神社・大川神社・愛宕神社・威徳神社
神事:元旦祭1月元日 節分2月3日 春公式祭3月上旬 秋大祭10月10日 秋公式祭11月23日
厄除祈祷・家内安全祈祷・学業成就祈祷・安産祈祷・交通安全祈祷・号の他諸祈祷』
20200802KyotangoS0416s.jpg

山から沢が流れ出すところにあり、水量も多く清浄感を感じました。
石段を上がると、雰囲気の良い境内でした。

R178に戻り、西進。
20200802KyotangoS0435s.jpg
11:16「売布神社」。
『売布神社 垂仁天皇90年、但馬の国造であった田道間守命は、天皇の命により不老不死の香菓の実を求め、景行天皇元年に帰国しました。この時、田道間守命が祭壇を設けたところが、売布神社の創立された場所と伝えられています。
その後、文安4年(1447)には、現在地に社殿を移したと伝えられています。本殿は、寛文9年(1669)に建築された一間社流造で、京都府指定文化財に指定されています』

20200802KyotangoS0438s.jpg
見学している間、道の奥から銃声が聞こえていました。
猟期ではないので、害獣駆除の名目で鹿でも追っているのでしょうか?
普通は犬が追いかけ追い詰められたところで銃を撃つのですが、等間隔で銃声が何発も聞こえてくるので、練習でもしているのかな?とも想像しました。
それとも、この道の奥に「ライフル射撃場」があるのだろうか?
長男は大学時代「ライフル射撃部」だったので、地図には載っていない射撃場があることを知りました。

20200802KyotangoS0456s.jpg
R178に戻り、11:25「かに一番木津店」。
『いちご狩り30分間食べ放題 1~3月大人2000円小人1600円、4~5月大人1600円小人1200円、8:30~11:00・13:00~16:00、期間中無休』
20200802KyotangoS0458s.jpg
大きないちご狩り園が、裏にありました。
道の駅のようなお土産物売り場が併設されており、「いちごフラッペ450円」を購入し糖分補給&クールダウンしました。


main_line
main_line
プロフィール

のりまきターボ

Author:のりまきターボ
http://plaza.rakuten.co.jp
/norimakiturbo/
から引っ越してきました。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR