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10/21・広島ツーリング3日目6 てつのくじら館

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10:43「てつのくじら館」に入ります。
『開館時間:午前9時~午後5時 休館日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日となります) 入館料:無料』
『潜水艦あきしお SS-579 昭和58(1983)年4月15日三菱重工業株式会社神戸造船所において起工 昭和60(1985)年1月22日命名、進水式 昭和61年(1986)年3月5日就役、第1潜水隊群第1潜水隊に配属 平成2(1990)年6月8日第5潜水隊に所属替え 平成16(2004)年3月3日除籍
基準排水量:2250トン 長さ:76.2m 幅:9.9m 深さ:10.2m 船型:完全複殻式(涙滴型) 主機関:ディーゼル2基1軸・メインモーター1基 馬力:水上3400PS・水中7200PS 速力:20ノット(水中) 主要兵装:水中発射管一式・スノーケル装置 乗員:75名』

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こちらは、海上自衛隊のPR施設です。
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まず、世界一と言われている掃海能力が紹介されていた。
僕の母港近隣に掃海艇基地があり、神戸港近辺を今でも機雷掃海している。
発見した太平洋戦争当時の機雷を爆破処理する公告がハーバーに張り出されている。
今でも続けられている機雷掃海実績が、世界一の能力の所以でしょう。
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近年、ペルシャ湾にも派遣され活躍した。

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日本潜水艦の歴史の紹介コーナーになり、「伊号潜水艦」が紹介されていた。
太平洋戦争までに、小型潜水艦や水上飛行機を載せた大型潜水艦も造った海軍造船技術が、現在の世界一潜水艦の製造技術に繋がっている。
世界最強の海軍力を持つアメリカ海軍との演習で、何度も勝利を収める海上自衛隊の力の根源です。

『潜水艦の探知機能 水上では肉眼・望遠鏡・レーダー等何でも使えるが、水中では音だけが頼りである。第2次世界大戦中の潜水艦は、水上航行中に敵を捉え、潜航ののち潜望鏡で確認し攻撃する例もあったが、多くは音波探知機(受信ソーナー)で相手を捉え攻撃を加えた。戦後は音波探知機による敵捜索のほか発した音の反射で目標を探知する受信ソーナーも使用して、目標を追跡するようになった。
だが、魚雷の進歩、海水の音波伝播研究の発達などにより、音を出せば敵に位置を教え、先に攻撃を受ける危険性が増し、受信ソーナーの使用が困難になったため、受信ソーナーに依存するようになった。そのため艦全体に受信ソーナーを張り巡らすだけでなく、艦尾に数百メートルもの低音用受信ソーナーを曳航して探知する方法も導入されている』

『作戦行動中の浮上は潜水艦を危険に陥れる。浮上せずにバッテリー充電出来る機構の開発が求められた。
スノーケル航走 スノーケル登場前の潜水艦は、電力を消費した電池に充電するため、どうしても浮上が必要であった。潜水艦狩りの水上艦艇にとってこの時が好機であり、一方潜水艦にとってこの時が最も危険であった。第2次世界大戦後半のヨーロッパ戦線では、連合軍のレーダーの発達と航空機の長距離哨戒により夜間でも独潜水艦の浮上が困難になった。そこで独海軍は、浮上しなくても空気を吸入排出出来るスノーケル装置を開発した。海面上に出されたスノーケルマストはレーダーに映りにくく、潜航しながらディーゼルエンジンを運転し、充電する事が出来た。充電を終えるとスノーケルを格納し、電池航行に切り替えればよい優れた装置であった』

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『水上航行から水中航走重視への変化を支えたバッテリーの進化。現在では、その性能が潜水艦の能力を左右するともいわれる。
潜水艦の電池(バッテリー) 戦前、水上航行型潜水艦が水中での速力低下を止む得ないとした一因は、電池出力の弱さにあった。戦後、水中航走重視に変わり、船型も水中高速を最優先する涙滴型に発展し、これに伴い電池の改良が進み、モーターも軽量かつ強力になった。「うずしお」型から「はるしお」型まで電池の蓄電池を順次改善し、設計上、240基×2群の構成で7200馬力を取り出し、水上速力12ノットに対して水中20ノットを出せるようになった。近年、水中での能力を高めるため、電池の持続力の向上に特に努力が払われている』

潜水艦内の食堂・ベッド・トイレを見て回ります。
意外に広いなと感じました。
潜望鏡を見れるようで、係の方が「見ていいですよ」と勧めてくれたので、チャレンジ。
なるほど~

『海上自衛隊潜水艦の発展 Development of Submarines for the JMSDF
昭和30(1955)年8月、アメリカから貸与された「くろしお」が潜水艦部隊第1号艦となり、横須賀地方隊に編入された。 35年に呉潜水艦基地の発足とともに「くろしお」は呉に移り、隊員の訓練と教育が本格化した。同年、戦後初の国産潜水艦「おやしお」が、翌年には救難艦「ちはや」も竣工し、潜水艦部隊としての体制が整った。「くろしお」「おやしお」は水上部隊の対潜訓練用水中目標と乗員養成艦をつとめた。37年に竣工した「はやしお」は750トンと小型で、水中での運動性能がよく、対潜訓練標的だけでなく沿海の哨戒を任務とした。次の「なつしお」も排水量が若干増えただけで、性能も任務にも変更がなかった。
「おおしお」を試作艦として41年に竣工した「あさしお」は在来型船型の最後になり、以後は涙滴型船型になる。対潜訓練目標として発展してきた潜水艦部隊の任務も、ソ連潜水艦の台頭とともに次第に哨戒任務に重点が移った』

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『涙滴型と葉巻型 Teardrop-シャペd安dCigar-シャペdSubmarines
昭和46(1971)年、初の涙滴型「うずしお」型が、潜航深度の増大と水中性能の向上、自動化と省力化の要請に応えて建造された。涙滴型の構造上、スクリュー1基の1軸艦となり、モーターと電池の接続方式、操舵方法等が変わり、昭和40年後半から50年代の主力潜水艦になった。続く「ゆうしお」型は自動操縦装置、魚雷発射指揮装置、高性能ソーナーを備え、潜航深度の増大のために耐圧機器やバルブ類を大型化し、はじめて排水量が2000トンを越えた。水中持続能力を高め、隠密性向上のため防振・防音につとめている。平成最初の「はるしお」型は「ゆうしお」型の発展型で、水中行動・索敵・攻撃能力を一段と高めている。隠密性を高めるため、より深く、より静かに、を目指す世界の趨勢の下で、最新の「おやしお」型は従来の涙滴型に代わる葉巻型船型を採用し、音の反射を減らすため表面に水中吸音材を貼り付ける一方、主モーターの回転数を下げ、進化したスクリューを採用し、極めて静かな潜水艦になった』

『新しい対潜戦の模索 New Methods of Anti-Submarine Warfare
潜水艦の静粛化と魚雷の進歩により、先に相手を見つけた側か圧倒的有利になった。しかしいち早く潜水艦を見つけても、それが味方でないことを確認する必要がある。冷戦期、潜水艦の水中高速化、静粛化、潜航深度の増大が進み、水上艦艇や対潜航空機による潜水艦の探知、攻撃が困難になったため、潜水艦に相手潜水艦の探知が課され、新しい重要な任務になった。パッシブソーナーを使い、相手潜水艦が現われそうな海峡、訓練海域、海底の地形から航行路となりうる箇所で待ち構える方法などが行なわれたといわれる。こうした過程で、相手潜水艦のスクリューから発せられる固有の音を採取して音紋を作製する作業が進められ、万が一に欠かせない敵味方の識別に利用されるようになった。しかし近年、潜水艦のさらなる静粛化か進み、潜水艦による相手潜水艦の探知と音紋による敵味方識別が困難になり、潜水艦同士の戦いが起こりにくくなっている』

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『潜水艦の攻撃兵器 Offensive Submarine Weapons
第1次大戦から第2次大戦にかけての潜水艦は、魚雷のほか甲板上に大砲・機銃を装備し、浮上して敵商船を攻撃することもあった。しかし第2次大戦後半、とくに大西洋では船団護衛の強化、航空機による対潜哨戒の発達等により、浮上して射撃するだけでなくバッテリー充電さえも困難になった。大戦後、水中航行を重視する趨勢と相まって大砲類が撤去されたが、冷戦下でソ連潜水艦の進出が活発になると、対潜魚雷開発が急務になり、ソーナーで目標を追尾するホーミング魚雷が主流になった。近年、命中精度の高い有線誘導式魚雷が装備される一方、超高速魚雷の出現も伝えられている。また魚雷発射管から発射出来る巡航ミサイルのほか、弾道ミサイルを搭載し、戦争抑止力にしている米露のような国家もある』

『潜水艦救難(母)艦の救難活動 Rescue Activities by Submarine RescueShip/Tender
潜水艦が万一の事故にあう場合に備え、外部からの救助作業が準備されている。
潜水艦救難艦「ちはや」「ふしみ」の時代には、搭載したレスキュー・チェンバーを、ワイヤー操作によって遭難潜水艦の真上に降ろし、ゴムパッキン付きの接触部をハッチに吸い付け、艦内の乗員を救出する方法が用意されていた。
昭和60(1985)年に就役した「ちよだ」になると、自走潜航能力のある深海救難艇(DSRV)を搭載し、海中を移動して遭難艦を捜索出来るようになり、発見後、接続部をハッチに吸い付けて救出する要領は同じである。この他水深数百メートルの水圧を再現し、6名が20日間以上使用出来る艦上減圧室(DDC)、数百メートルの深さで作業が出来る潜水員移送カプセル(PTC)、を備え、事故への対応能力を高めている。現在「ちよだ」、更に大型化した2代目「ちはや」が配備され、「ちはや」には遠隔操縦の高性能無人潜水装置(ROV)をはじめて搭載し、万一に備えている』

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退役した潜水艦「あきしお」内に入ります。
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トイレ・ベッド・食堂・・・涙滴型潜水艦特有のカーブした壁は見れますが、移動に屈まないといけないことはなく、天井が高く楽に移動できました。
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操縦計器類が並んだ部屋には潜望鏡があり、操船室のようです。

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海難救助飛行艇「US-1」のパネル展示がありました。
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前日、江田島旧帝国海軍兵学校の見学会待合室のスクリーンで見た「辛坊治郎さん救助映像」でも活躍していました。
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10/21・広島ツーリング3日目5 大和ミュージアム3

『一式陸上攻撃機 長距離飛行が可能だった「96式陸上攻撃機」の後継機として、海軍が三菱重工業株式会社に試作を指示したもので、昭和16(1941)年に11型が制式採用されました。 「一式陸上攻撃機」は、「96式陸上攻撃機」よりも多量の燃料や機銃を積載できる工夫が施され、航続距離や攻撃力において「96式陸上攻撃機」を上回る性能を持っていました。しかし、防御面での開発は軽視されたため、被弾すると発火しやすく、大きな損害を受けました。
「一式陸上攻撃機」は量産に適しており、エンジンを2発搭載した軍用機としては日本で最も多く製造されました(総生産数2416機)。「火星」21型エンジンを搭載した「一式陸上攻撃機23型」は、昭和17(1942)年から昭和20(1945)年にかけて1154機が製造されています。
全幅:25m 全長:20m 全高:6m 主翼面積:78.125立方メートル 重量:自重8000kg
最大速度:437km/h 巡航速度:314km/h 実用上昇限度:8950m 航続距離:6056km
装備:7.7mm機銃×4 20mm機銃×2 爆弾800kgあるいは魚雷1本 乗員:7名』

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『XJ3エンジン(推力1200kg) J3ターボジェットエンジン(J3エンジン)の研究・試験型エンジンであり、昭和30(1955)年3月より開発が始められました。
 J3-7B/Cエンジン(堆力:1400kg)は、石川島重工業株式会社(現、株式会社IH)が開発し、量産に成功した純国産ジェットエンジンです。T-1B中等練習機や海上自衛隊のP-2J対潜哨戒機に搭載され、推力増強型を含め計242台生産されました。
IHIは、戦前からジェットエンジンの開発に関わっており、戦争末期には日本初の国産ジェットエンジン「ネ20」の製造に成功しています。「ネ20」は、日本で初めて飛行に成功したジェット機「橘花」に搭載されました。
「ネ20」開発の中心となったのが、海軍航空技術廠の種子島時休大佐と、永野治技術少佐(広島県出身)です。種子島は、広海軍工廠在勤時代に航空機用ガスタービンエンジン(後のジェットエンジン)に関する論文を発表しています。また、永野が実習で広工廠を訪れた際、講師を担当したのが種子島でした。
終戦後、石川島重工業へ入社した永野は「ネ20」の開発で得たノウハウを活かし、J3エンジンの開発に重要な役割を果たしました。同社は、ジェットエンジン大型部品製造工場の展開にあたって、呉市内に呉第2工場を組み入れました。現在は、IHI航空・宇宙・防衛事業領域呉第2工場として世界中のジェットエンジンのシャフトやディスクといった重要部品を製造するなど、呉市や日本、世界のものづくりを支えています』

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「1/10スケール戦艦大和」に戻り、船底からも写真を写します。
多数のスケールモデルが飾られており、太平洋戦争戦記で心躍らせた軍艦を見ながらニヤニヤしていました。

『戦艦「扶桑」(縮尺1:100) 造船史上初めて3万トンを越えた戦艦で、呉海軍工廠の造船船渠(後に、戦艦「長門」「大和」を建造)で建造されました。昭和19(1944)年10月25日のレイテ沖海戦でアメリカ海軍の戦艦と砲戦を交え沈没し生存した乗組員は数名のみでした』

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大好きな空母が2隻並んでいました。
『航空母艦「飛龍」(縮尺1:200) 飛行甲板の左舷中央部に艦橋がある空母は、現在の空母を含めた本艦と「赤城」だけです。 真珠湾攻撃やインド洋作戦などに活躍したのち、昭和17(1942)年6月5日のミッドウェイ海戦でアメリカ海軍の空母を大破させましたが、空母機の攻撃を受け自沈処分されました。
全長:227.35m 幅:22.32m 排水量:17300トン 最大速力:34.59ノット(時速64km/h) 装備:12.7cm高角砲2連装6基12門 搭載機:73機
竣工:昭和12(1937)年11月16年 改装:昭和14(1939)年7月5日 造船所:横須賀海軍工廠』

終戦まで残った日本海軍最新鋭駆逐艦「冬月」(就役1944年)の模型も飾ってあった。
小学生の時プラモデル少年だった僕は、駆逐艦もよく作った。
駆逐艦は輸送船団を護衛したり、空母・戦艦の機動部隊の周りを護衛し、大型艦撃沈で終わる戦闘後は友軍・敵軍の別なく救助活動までするユーティリティプレイヤーです。
太平洋戦争丸々縦横無尽に走り回って多方面に活躍し、終戦まで生き残った駆逐艦「雪風」とともに好きな駆逐艦です。

窓の外から呉港が見え、ちょうど「江田島~呉フェリー」が入港するところでした。
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『10分の1戦艦「大和」 建造所・山本造船株式会社 同社には、設計建造において多大なるご協力を頂いた。 呉市海事歴史科学館・館長・戸高一成』

売店があり、10:33「ゼロファイターステッカー」360円購入。


10/21・広島ツーリング3日目4 大和ミュージアム2

『零戦と呉海軍航空隊 呉地区防空のために昭和6(1931)年5月30日に佐世保海軍航空隊広分連隊が独立、「呉海軍航空隊」が開設されました。 その後、昭和19(1944)年8月1日に、戦闘機部隊の独立及び部隊名称の番号化によって「第332海軍航空隊」となり、零式艦上戦闘機などを配備していました。この第332海軍航空隊は、たび重なる空襲のおり、西日本の防空のため多くの犠牲を出しながらも幾度となく出撃を繰り返しました。
昭和19年8月当時の保有機 零式艦上戦闘機45機 夜間戦闘機「月光」12機 局地戦闘機「雷電」2機』

『零戦と広海軍工廠 広海軍工廠航空機部は、昭和10(1935)年頃まで海軍航空機の研究、設計、その試作と制式機種の製造、修理を行う中心地でした。零戦艦上戦闘機にも広海軍工廠において開発された技術が活かされて設計されました。
機体全てを金属で製作する技術(全金属製機体構造)、運動性重視から主翼を片方だけで支える強度維持の技術(片持翼構造)、桁と外板で主翼の強度を保持する技術(張力場式桁構造)などは日本国内では広海軍工廠から始まったものです。
その技術は、現在の航空機にも活かされています』

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『零式艦上戦闘機62型 中島82729号 昭和15(1940)年に海軍の制式機として採用された「零式艦上戦闘機」は、その機動性、装備、航続距離において当時世界に類を見ないもので、太平洋戦争などで活躍しました。 しかし、戦域の拡大と連合国側の新戦法による攻撃、新型戦闘機の登場などで次第に消耗も激しくなり、昭和19(1944)年10月からの「神風特別攻撃隊」編成以降、爆弾とともに飛行機ごと体当たりする攻撃法によって若く尊い生命が数多く失われました。
当館展示の機体は、明治基地(現・愛知県安城市)第210海軍航空隊の所属機でした。昭和20(1945)年8月6日夕刻、吾妻常雄海軍中尉(当時)が操縦飛行中、エンジントラブルにより琵琶湖に不時着水し、昭和53(1978)年1月に引揚げられたものです。今回の機体修復は、吾妻氏ご本人の協力を得て行われました。
*なお、胴体後部など引揚げ時すでに失われていた部分は、資料に基づき形状を再現しています。操縦席の計器板は、中村泰三氏により復元されたものです』

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『特殊潜航艇「海龍」後期量産型 「海龍」は世界初の有翼潜水艇です。水中を飛行機のように自由に潜航・浮上することをめざして開発されたもので、操縦装置も飛行機と同じものを使用していました。 呉海軍工廠などでは潜航実験や研究・開発が行われ、横須賀海軍工廠と海軍工作学校を中心に建造されました。後期量産型では艇首に600kgの炸裂を装備し、両脇に抱えた魚雷発射後、目標の艦艇に突入する「水中特攻兵器」となっていました。
当館展示の「海龍」は、昭和20(1945)年、静岡県網代湾で艇尾部にアメリカ海軍航空機のロケット弾(不発弾)の直撃をうけて沈没し、昭和53(1978)年5月27日に引き揚げられたものです』

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『九一式徹甲弾 昭和6(1931)年制式採用。戦艦など装甲の厚い艦艇用の砲弾で、水面に落下すると、弾丸の先端にかぶせてある覆い(風帽)がはずれ、弾頭が平頭になります。このため水中を直進して、従来ほとんど効果がなかった目標手前に落下した近弾の威力を著しく高めさせました。また風帽の中に各艦ごとに異なる染料を入れ、水面に着弾すると、赤・青・黄などの水柱があがり、それで発射した艦を識別していました』

『三式焼霞弾 「大和」型46センチ砲用三式焼霞弾(元試製三式通常弾) この三式弾は対空焼夷弾ともいうべきもので、飛行中の航空機や陸上の目標を広範囲に捕捉して焼夷効果(焼くこと)をあげることを目的に開発された砲弾です。敵航空機編隊の前方に向けて発射された弾丸が、調定時間が来ると爆発し、多数の焼夷性弾子が傘状に広がって目標を捕捉するようになっていました』

『呉海軍工廠の砲熕・火工技術
砲熕技術 大砲や機銃などの砲熕技術は、製鋼工場を有する呉海軍工廠砲熕部を拠点として研究・開発が行われていました。特に、戦艦や巡洋艦に搭載された大口径砲の研究・開発から製造までを一貫して行うことができたのは呉海軍工廠だけでした。
火工技術 呉海軍工火工部では、艦艇用砲弾などの火薬・信管(起爆装置)・火管(発射薬点火装置)の製造、炸薬の装填、発射薬の包装などが行われていました。特に呉海軍工廠においては、戦艦「大和」型46cm主砲弾に代表される大口径砲砲弾の火工技術について、研究・開発から製造までを一貫して行っていました』

『一等巡洋艦「青葉」20cm主砲身 3番主砲塔右砲として搭載されていた8インチ(20.3cm)主砲身の中後部です。 昭和17(1942)年10月11日のサボ島沖海戦で「青葉」は被弾中破。このときに砲尾部の尾栓も損傷しました。呉海軍工廠での修理の際に外された砲身は、昭和17(1942)年末から呉工廠総務部利材工場に保管されていました。 昭和20(1945)年6月、特殊警備艦に指定された「青葉」は、呉港外警固屋沖に繋留、7月28日の空襲により大破着底し、そのまま呉で終戦を迎えました』

『零式艦上戦闘機62型
全幅:11.0m 全高:3.509m 全長:9.121m 主翼面積:21.30平方メートル 自重:2.155kg
最大速度:543km/h 実用上昇限度:10180m 巡航速度:370km/h 航続距離:1519km
装備:13mm固定銃×3、20mm固定銃×2 爆弾60kg×2または250kg×1または500kg×1
乗員:1名
栄31甲型エンジン 型式:空冷複列星型14気筒 出力:1130馬力(離昇) 全長:1630m 直径:1150m 乾燥重量:590kg 使用重量:642kg』

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『火星21型エンジン
「火星」エンジンは、一式陸上攻撃機や二式大型飛行艇などに搭載された高出力のエンジンで、三菱重工業株式会社において開発されました。 海軍は、航続距離を伸ばすために、それまでの「金星」エンジンより出力の大きい航空エンジンを要求し、それにこたえたのが「火星」です。
「火星」は、昭和13(1938)年から昭和20(1945)年の間に15901台が製造されました。昭和17(1942)年には呉の第11海軍航空廠でも月に50台程度が生産されています。 当館展示のエンジンには「火星21型」と刻印があり、「火星21型」の584番機を意味する「21584」という製造番号や、三菱重工業のロゴマーク、海軍の錨マークが見えます。
※このエンジンは、平成28(2016)年、アメリカ合衆国ワシントンD.C.にあるスミソニアン・国立航空宇宙博物館より寄贈を受けたものです。
型式:空冷複列星型14気筒 出力:1850馬力(離昇出力) 全長:1651m 直径:1384m 重量:700kg 〈参考:野沢正「日本航空機総集」出版共同社1958年〉』

10/21・広島ツーリング3日目3 大和ミュージアム

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R185~R487で、9:33「大和ミュージアム」。
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屋外に、『41センチ主砲身の製造について 戦艦「陸奥」に搭載された41センチ砲は呉海軍工廠で開発したもので「陸奥」の建造当時は世界最大の艦載砲であった呉海軍工廠砲煩(ほうこう)部が大正7年に量産初号砲を完成させ以降74門製造した。 大正9年からは北海道室蘭において日本製鋼所も生産を開始し24門製造した。 ここに展示されている砲は日本製鋼所の2号砲で大正10年に完成したもので戦艦「陸奥」には昭和11年に搭載された。 この主砲身の砲尾に「室2」が刻印されています。 銘板寄贈 株式会社日本製鋼所』

『戦艦「陸奥」は、呉で製造された戦艦「長門」型の2番艦として横須賀海軍工廠で製造されました。しかし、主要な部材である主砲身・副砲身・装甲板・主舵・スクリューなどは、呉海軍工廠で製造されたものを運搬し、横須賀海軍工廠で取り付けられました。 戦艦「陸奥」は、太平洋戦争中、対空兵器強化のために呉海軍工廠へ入渠(にゅうきょ)しています。 昭和18(1943)年6月、山口県柱島沖の連合艦隊泊地に停泊中、原因不明の爆発事故により沈没しましたが、その際にも呉鎮守府から救助隊や原因不明のための調査団が派遣されています』

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「大和ミュージアム」に入館します。
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『開館時間:9:00~18:00 休館日:火曜日 一般500円・高校生300円・小中学生200円』
常設と企画展(海底に眠る軍艦)とセットで800円。
まずは「常設展」へ。
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いきなり1/10戦艦大和がいました。
一周しながら激写の連続。
スマホでLINEを立ち上げ、家内・長男次男夫婦6人グループへ写真提供。

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『戦艦「金剛」に搭載されたヤーロー式ボイラー 戦艦「金剛」は、日本が技術導入のために外国に発注した最後の主力艦で、イギリスのヴィッカース社において大正2(1913)年8月16日、巡洋戦艦として竣工しました。当時、「金剛」には、重油と石炭混焼のヤーロー式ボイラーが36基搭載されていました。ヤーロー式ボイラーは、イギリスのヤーロー社が開発したもので、20世紀初頭の世界の代表的な艦艇用ボイラーでした。
当館展示のボイラーは、昭和3(1928)年12月~昭和6(1931)年3月の横須賀海軍工廠における近代化改装のおり、戦艦「金剛」より撤去され戦前は東京の海軍技術研究所、戦後は科学技術庁の金属材料研究所の建物の暖房用ボイラーとして平成5(1993)年まで使用されていたものです』

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『日本での蒸気機関開発は、明治時代から日本独自の技術開発(宮原式ボイラー)と、外国(イギリス及びフランス)製の輸入、技術提携などが積極的に進められ、呉海軍工廠造機部で取り組まれた。その結果として艦本式ボイラー(艦本:海軍艦政本部の略称)が完成します。
艦本式ボイラーは、イ号ボイラー、続いてロ号ボイラーと改良されました。特に艦本式ロ号ボイラーは、大正時代から呉海軍工廠造機部などで製造され、太平洋戦争終戦まで戦艦「長門」及び「大和」をはじめ、各種艦艇用のボイラーとして使用されました。
蒸気タービン機関 ボイラーで発生させた飽和水蒸気は、過熱器を通して高温・高圧の過熱蒸気となり、その過熱蒸気がタービンの翼に当たり、熱エネルギーが回転運動に変換されます。タービンを出た蒸気は、艦外からの海水をパイプ内に通した復水器で真水に戻されます。この真水は、給水ポンプによって再びボイラーへと送られます。
減速歯車装置は、1分間に2000回転以上もするローターを、推進器(スクリュープロペラ)の回転数に減速させる装置です。複数のタービンの出力を1軸にまとめ、適切な回転数と力を得たスクリュープロペラが回転し、艦が動きます。
ヤーロー式ボイラー ボイラーは、蒸気を発生させる装置で、上下に設置されたドラムと、その間を連結する多数の水管(パイプ)、バーナーで構成されています。このボイラーは、断面がA字形をしていて、上部に蒸気ドラム、両方の下部に水ドラムがあり、その蒸気ドラムと水ドラムは水管(パイプ)で結ばれているとことから三胴水管ボイラーと呼ばれてます』

『ジャパンマリンユナイテッド株式会社 旧呉海軍工廠造船部・造機部跡地/旧呉海軍潜水学校跡地
昭和21年、GHQの指示により株式会社播磨造船所が旧呉海軍工廠造船部・造機部跡を使用し沈没艦艇の引き揚げ、解体、商船の修理作業をするため、株式会社播磨造船所呉船渠発足。昭和26年、造船・第3・第4ドック貸与を日本政府から受けNBC呉造船部が発足。旧呉海軍工廠時代の技術、例えば戦艦「大和」建造で採用されたブロック建造法や先行艤装、電気溶接の技術が当時最新の機械を使って全面的に採用された。アメリカの合理的手法と旧日本海軍技術者の熟練した技術が合体して、安価な巨大タンカーの建造技術は、呉から日本中に伝播し造船王国日本を作る礎になった。
昭和29年、呉船渠は播磨造船所から独立し、株式会社呉造船所として発足。昭和37年、NBC呉造船部の閉鎖に伴い全施設と従業員を引き継いだ。同年経営の安定や図るため、払い下げを受けた旧海軍潜水学校跡に鉄構物・陸機部門専門工場として新宮工場を建設。昭和42年石川島播磨重工業株式会社と合併し同社呉工場となり、その資本力により「日石丸」「日精丸」といった当時世界最大のタンカーを建造した。平成25年、ユニバーサル造船株式会社と株式会社アイ・エイチ・アイマリンユナイテッドが経営統合、ジャパンマリンユナイテッド株式会社として操業を開始した』

『九三式魚雷は、ワシントン条約で主力艦の数を抑えられた日本海軍が、これを補うために開発装備を進めた長射程の「酸素魚雷」です。従来の魚雷の欠点であった射程距離の不足、航跡発生の問題を解決するため、燃料酸化剤に純粋な酸素を用いていました。太平洋戦争までに、これを実用化できたのは日本だけでした。
開発に成功したのは呉海軍工廠魚雷実験部で、水雷部がおもに製造を担当していました。
二式魚雷は魚雷艇用として開発された魚雷で、魚雷艇以外にも「鮫龍」などの特殊潜航艇で使用されました。展示している二式魚雷は、呉海兵団で教育に使用されていたものです。 九三式魚雷尾部(寄贈:愛知時計電機株式会社) 二式魚雷(海上自衛隊所蔵品)』

『八八式三型潜望鏡(貸与:ワシントン・ネイビーヤード) 日本光学工業株式会社(現株式会社二コン)が、昭和10(1935)年に大型の伊号潜水艦甲型、乙型、丙型用に開発した潜望鏡です。 八八式三型10m潜望鏡の倍率は6倍と1.5倍の2種類あり、切り替えレバーで選べるようになっていました。 また、潜望鏡を海面上2m出すと、約5.4km先まで観察することができました。
潜望鏡はレンズ枚数が約50枚と多いため技術者グループは、光学系の収差計算や光量の減少、レンズのガラス材質に多くの苦心を払いましたが、研究努力の結果、昭和13(1938)年頃には、当時世界最高と言われていたドイツ製を浚ぐものができました。 当館展示の潜望鏡は、アメリカ軍が技術資料として保管していたものを貸与されたものです』

10/21・広島ツーリング3日目2 旧呉鎮守府司令長官官舎

7:44「セブン呉潜水艦桟橋前店」で、「カフェオレ500ml150円+玉子焼きミックスサンド278円=462円」を購入し、ベンチに座りながら朝食にしました。

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バイクで少し戻り、8:12「呉入船山記念館」前。
9時開館なので、ベンチに座って待ちます。

『日本遺産ストーリーの概要 明治期の日本は、近代国家として西洋列強に渡り合うため海防力を備える必要があったため、国家プロジェクトにより天然の良港4ヶ所に軍港を築き、鎮守府を置きました。 静かな農漁村に人と先端技術が集まり、海軍諸機関と共に水道・鉄道などのインフラが急速に整備され、軍港都市が誕生し、近代技術が育まれました。日本の近代化を推し進めた4市には、海軍由来の食文化も町に浸透し、多種多様な数多くの近代遺産とともに、躍動した往時の姿を体感出来ます。 呉市の世界遺産』

『~日本近代化の躍動を体感できるまち~ 人船山記念館 明治19(1886)年、海軍は呉浦総鎮守亀山神社を海軍用地として買収、23(1890)年に総2階建洋館の軍政会議所兼水交社を建てました。25(1892)年に呉鎮守府司令長官官舎に転用しましたが、38(1905)年の芸予地震で損壊し、その廃材を再利用して同年中に和洋折衷の平屋に建て替えられました。これが現存する旧呉鎮守府司令長官官舎です。
敗戦後は占領軍に接収され、内外装とも白く塗られて英連邦軍司令官の宿舎として使用されましたが、昭和31(1956)年に英連邦軍が撤退し、旧長官官舎が41(1966)年に呉市に譲渡されたことにより、翌年入船山記念館が開館しました。
名称は、大昔ここは入船山だったとの古文書の記述によります。
平成時代に入り長官官舎の解体修理が必要となったとき、新築時の図面が発見され、新築当時の姿をとりもどしました。このとき洋館郎の壁紙に使われていた貴重な金唐紙(きんからかみ)も復元され、平成10(1998)年、国重要文化財に指定されています』

『開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで) 休館日:火曜日 観覧料:一般250円・高校生150円・小中学生100円 撮彫可 園内禁煙 館内飲食不可 園内乗入禁止』

8:55、開門されたので、「呉入船山記念館」に入りました。
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レトロな時計台がありました。

『旧呉海軍工廠塔時計 呉市有形文化財(昭和56(1981)年指定) 
大正10(1921)年に呉海軍工廠造機部の庁舎屋上に設置されていた時計です。
戦後、入船山に運ばれ、昭和56(1981)年に整備されました。 艦艇建造の工期短縮、生産性の向上に注力していた呉海軍工廠において、こうした大きな時計は、働く人たちのスケジュール管理や労働時間の把握などに大きな貢献を果たしました。 呉海軍工廠が取り組んだ大きな集団としての規律と労働管理の近代化は、戦後社会における労働環境のさらなる改善にもつながっていきました』

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レンガ造の券売所がありました。
『この建物のレンガは、初代の呉鎮守府庁舎に使われていました』

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木造の左右開き門があり、入って右手に「一号館」と書かれた小ぶりな石造の建物がありました。
『登録有形文化財 第34-0124号 文化庁』
『旧高烏砲台火薬庫(国登録有形文化財) 明治30(1897)年以降、呉湾や広島湾を見下ろすことのできる要所に陸軍の砲台が築かれていました。 この火薬庫は、明治35(1902)年に呉軍港に近い休山に建設した高島砲台に置かれていたものです。石造を基本構造としつつトラス架構で瓦葺き屋根を支えるといった全国的にも珍しい建築様式を残しています』

大砲の砲身が2つ置かれていました。
『45口径10年式12糎高角砲の砲身(12cm高角砲砲身) この高角砲は、昭和56(1981)年に呉海軍工廠砲火工場跡の地中から発見されました。砲身と砲架の接合部に「昭和20年海軍工廠」と刻まれています。この高角砲は大量生産型で、昭和18(1943)年から同19(1944)年の2年間で、約2000門が生産されました。
パロット砲砲身(推定) 砲尾に「R.P.P3490LBS」、中央に「1864S.O.P」と刻まれています。「R.P.P」はパロット砲を示すことから、1864年にアメリカで生産された重量3490ポンド(約1583kg)のパロット砲と考えられます』

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拝観料250円を払って、本館(郷土館)に入ります。
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『日本の西洋建築教育は明治6年(1873)に始まり、明治12年(1879)英人教師コンドルによって工部大学校から日本人建築家が次々世に送りだされました。第1回卒業生は、辰野金吾・曽禰達蔵(そねたつぞう)・片山東熊・佐立七次郎の4名でした。最初の長官官舎は軍政会議所兼水交社として曽禰達蔵の設計により建てられました。明治23年(1890)に天皇のご宿泊所として使われた後、呉鎮守府司令官官舎として使われるようになりました』

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映画「この世界の片隅に」のロケ地に使われたようで、ポスターが貼られていた。
話題になったアニメ映画ですが、僕はTBSドラマを見ました。
感動する素晴らしいドラマでした。

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続いて、「旧呉鎮守府司令長官官舎」を見学。
『旧呉鎮守府司令長官官舎 国指定重要文化財(平成10(1998)年指定) この官舎は、明治38(1905)年に建築され、第7代から第32代までの約40年間にわたって呉鎮守府司令長官とその家族が公邸として利用しました。官舎の設計は、イギリスで建築を学び、ヨーロッパを遊学したのち呉鎮守府建築科長となった檀井小太郎(1870-1953)が行いました。
木造の平屋建で、公的な利用をする洋館部と私的な利用をする和館部が結合する点が特徴的な建築です。洋館部の外観をハーフティンバー様式とし、屋根は天然スレート(粘板岩)の魚鱗葺きとするなど、当時の洋館建築に見られる特徴を有しながらも、内壁や天井の一部には全国でも珍しい金唐紙を用いるといった固有の特徴も見受けられます。
建築から約90年を経て老朽化が進んでいたため、平成3(1991)年から平成8(1996)年にかけて調査と解体修理が行われ、明治38年の再建時の姿に戻されました』

正面は洋館、正面玄関からは入れず、『第29代呉鎮守府司令長官・南雲忠一の家族写真(官舎玄関にて)』が置かれていた。

裏に回ると和風建築が接続していました。
勝手口が長官官舎見学入口になっていました。

『金唐紙 洋館部の壁紙として使われている金唐紙は、版木棒(桜材)と刷毛によって手漉き和紙(金属箔を張ったもの)に凹凸をつけ、着色したものです。洋館部の金唐紙は次の5種類、張り面積は約250平方メートルです。
玄関・広間・廊下の腰壁(復元) 応接所の壁紙(復元・修復) 客室の壁紙(復元) 食堂の壁紙(復元) 食堂の天井(復元・修復)
金唐紙の復元・修復は「上田尚金唐紙研究所」によって行われました。また、版木棒の一部については公益財団法人「紙の博物館」(東京都)よりお借りしました。 ※お願い:建物内の金唐紙などには触れないでください』

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歴代司令長官の写真と略歴が書かれたパネルが置かれていた。
『14代司令長官・鈴木貫太郎(千葉出身) 在任:大正11(1922)年7月27日~大正13(1924)年8月27日 略歴:2.26事件で重症を負う。昭和20(1945)年4月に内閣総理大臣に就任。就任時の年齢は77才で、内閣総理大臣の就任としては最高齢であった。戦況が悪化する中、戦争継続派の勢力を押さえつつ、終戦に向けて奔走し、ポツダム宣言受諾へと導いた。 平成27(2015)年に公開された映画「日本の一番長い日」では、山崎努が鈴木貫太郎役を演じた』

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応接室・客室、食堂のテーブルには「海軍艦上午餐会(昼食会)の献立例(昭和5(1930)年9月1日軍艦「出雲」)」が並んでいた。
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和風の建物の方は、外廊下の畳敷和室が並んでいた。

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『座敷 和室 和館部には、使用人室や茶室を含めると座敷が9室あり、床の間や違い棚、付書院、押入などが設けられています。 和館部の壁は土壁で聚楽仕上げまたは漆喰仕上げとなっています。聚楽仕上げには錆色、土色、鴬色の3色が使われています』
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「呉市立美術館」に入ろうと思ったら、10時開館でスルー。
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次は「旧東郷家住宅離れ」
『旧東郷家住宅離れ(国登録有形文化財) 明治23(1890)年5月から明治24(1891)年12月、海軍大佐東郷平八郎が鎮守府参謀長として呉に赴任しています。東郷は在任中、呉鎮守府と呉海軍工廠を見下ろす宮原地区に暮らしており、彼が自宅から鎮守府庁舎までの通勤で通った坂道は今も東郷坂として知られています。 この建物は東郷平八郎が暮らしていた屋敷の離れ座敷で、戦後、市民(片山盛登氏、竹ノ中勲夫氏)からの寄付を受け、呉東ロータリークラブの創設20周年記念事業として、昭和55(1980)年に宮原地区から現在の地に移築されたものです』


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